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2010年8月15日 (日)

■『廃市』のこと■

食事に出る以外、家で原稿をやりつつ横になり、まどろみながら、映画を見ている。
大林宣彦の『廃市』。年に一度は、CSで放映されているような気がする。1984年公開だA11から、『時をかける少女』の翌年。
その年は、たしか受験生だった。だとしたら、文芸座に、毎日のように通っていた頃。大林宣彦特集かなにかで、『いつか見たドラキュラ』などの実験映画と一緒に、見たはずだ。

ヒロイン役の小林聡美がお茶菓子を出すと、「ポン」と、鉄琴のような音がする。映画の随所に、この琴を弾くような、不思議な音が入る。その音が鳴るたび、映画が息つぎしているかのようだ。

柳川の旧家に下宿した主人公の部屋に、ざあっと風が入ってくる。新聞紙が舞い上がり、主人公がそれを手でおさえると、清涼飲料水の広告が目に飛び込んでくる。カメラが、広告に寄るたび、あの不思議な音が「ポン」と重なり、次のカットで、主人公は喉をごくりと鳴らす。
そこへ、小林聡美がお茶を持って、階段を上がってくる。

『廃市』といえば、あの「ポン」という音を思い出す。そのテンポ感に、映画の秘密があるような気がする。
『廃市』は、大林宣彦が編集もやっているし、音楽も作曲している。ついでに言うと、ナレーションも大林宣彦。そこまで、監督の生理が映画全体にみなぎっていると、魂の鼓動みたいなものが、こちらに伝播してくる。
逆をいえば、「魂の鼓動」という不可視なものを、機械的に分解し、積み上げることが、編集作業であり、「魂の鼓動」が可視化されると、映画という形態をとるのだと思う。

映画というものは、徹頭徹尾、メカニックである。「雰囲気」や「ニュアンス」も、実は、機械的に織り込まれている。

ただ、機械ではあるけれど、正確ではない。受け手のコンディションによって、思わぬところに着弾する。だから、映画は面白い。


シネマ尾道で、『涼宮ハルヒの消失』が公開されている。
子供向け以外では、初めてのアニメ上映とのことで、尾道に住む僕の古い知り合いが、協力を要請された。
具体的には、映画館と話し合い、『ハルヒ』を知らない人向けにチラシづくりを提案し、代表にTwitterを始めさせ、広島ローカルのポータルサイトに情報を送る等々。

その彼は、アニメ上映を地元に根づかせようと、次の計画を動かしている。苦労しているようだが、自分なりの「最前線」を持っている人は、強い。
少なくとも、えんえんとネットで嘆いているよりは、たとえ転んでも走りだした人の勝ちなのである。

(C)ATG

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コメント

まどろみながら「廃市」というところがもう、大林映画的ですね。
「廃市」は大勢が手弁当だったと何かで読んだ記憶があります。
大林監督といえば、「廃市」の原作、福永武彦の「草の花」をずっと映画化したかったそうですね。
僕も「草の花」を青春のある時期に読んでおり、大林版は見てみたいです。

投稿: ユキサダ | 2010年8月15日 (日) 09時31分

■ユキサダ様
睡眠時間が、昼夜関係ないので、見ながら寝てしまったり、寝てしまった部分を見直したり…で、3回分は見ました。

>「廃市」は大勢が手弁当だったと何かで読んだ記憶があります。

16ミリですからね。それでも、歌舞伎が出てきたり、お金のかかりそうなところは、しっかりしてるんですよね。

僕も今回見てみて、福永武彦の原作を読みたいと思いました。
でも、ネット通販は味気ないので、古本屋で見つけたいと思っています。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月15日 (日) 09時51分

 何ヶ月か前ですが、尾道に行ったのです。彼の地で友人が数学の先生(将来、小太郎じいちゃんになれそうな風貌)をしていて、尾道ラーメンやアイスクリンを食べさせてくれたり、かみちゅや大林映画の舞台を案内してくれ、最後にはしまなみ街道に連れて行ってくれました。
 その後、ズームインで尾道の古民家再生の取り組みなんかも紹介され、機会と雇用があれば住んでみたくなる土地だなと強く思ったものです。
 シネマ尾道もミニシアターの本で名をお見かけした覚えがあります。こうした取り組みはできるだけ応援したいですね。ただ、つい他所ばかり応援してしまうのは、自分のところで恒常的にこうした取り組みを続けていけるかという点で絵を全く描けないことの反面でもあるのが悔しいところですが。

投稿: 地元記者(ナ) | 2010年8月17日 (火) 00時19分

■地元記者(ナ)様
私の古い知り合いというのは、東京で仕事していたのに、尾道に惹かれて、とうとう住んでしまったのです。
それどころか、版元と交渉して『かみちゅ!』の上映会を、尾道でやったり、ちょっとうらやましいぐらい、アクティブですよ。

やっぱり、「何もないところに根づかせる」というのは、燃えるんでしょうね。
東京は、もう何でもありますから、「別に、見なくてもいいや」「そのうち、何とかなるさ」「誰かが、やってくれるさ」となってしまう。
だから、手が届く範囲にいるくせに、何もしない人が、とても多いと感じます。

>シネマ尾道

NPO法人なんですよね。それでも、苦労はされているようです。
ただ、やっぱり、地元の人が協力してなんぼでしょうね。その土地に暮らしている人が、いちばん良く分かっているでしょうから。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月17日 (火) 01時39分

直接関係ない話ですが、このブログをスマートフォンで見ると、記事の終わったすぐ下にデカデカとTwitterの呟きボタンがあってうっかり押しそうで怖いです。
押しませんよ?(笑)

投稿: てぃるとろん | 2010年8月17日 (火) 16時17分

■てぃるとろん様
すみません。Twitterやってないので、それを押すと、どうなるのか分かりません。

Twitterからのリンクは、よくあるので、あまり気にしませんよ。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月17日 (火) 16時34分

「廃市」は確かに1年一回以上やってるんじゃないでしょうか。
>『廃市』といえば、あの「ポン」という音を思い出す。そのテンポ感に、映画の秘密があるような気がする。
大林映画の「お約束」は作品によってはやり過ぎ感も漂うのですがこの時期の作品はバランスが良くて好きですね。「廃市」は福永武彦氏の各作品に常にある「死」の気配(それ故サナトリウム文学とか言われちゃいますが「夢見る少年の昼と夜」みたいな子供を主人公に置いた作品でもあんまり変わらないですしね)が見事に映像の中に漂ってますよねー。録画してあるのに放送の度に見てしまいます。

ただ、記録装置としての映画としての視点だと出来れば35ミリで撮っておいて欲しかったなあと今になってみると思ったりもします。柳川をよく知る人の話だと、この映画の頃の風景はもうほとんど失われてしまったという事だそうです。(35じゃあの夢うつつな映像の感じは出ないのかもしれませんけど)

「ハルヒ」
公開時、何故か舞台であるうちの地元西宮で公開の予定がなく、呼びかけ運動で四月の限定地元上映が実現しました。結果は当然公開中ずっと満席。その辺割と公開側も鈍感な所があるのかなと思いました・・・。

投稿: Miya-P | 2010年8月19日 (木) 10時41分

■Miya-P様
>この映画の頃の風景はもうほとんど失われてしまったという事だそうです。

うわ、そうなんですか。確かに、16ミリでは粗すぎますもんね。
高校の修学旅行で、一度だけ掘割めぐりをしたことがあります。それも二十数年前ですからね。

福永武彦の本は、探しているのですが、なかなか見つかりません。文庫コーナーで、いくらでもあるだろうと思ったんですが。

>呼びかけ運動で四月の限定地元上映が実現しました。

ああ、そうだったんですか。やっぱり、地元で上映してほしかったら、声をあげないとね。
ただ、公開側といっても、配給会社と映画館の思惑が食い違ったり、予算の都合もあります。ぴったり、ニーズと合致させるのは、なかなか難しいようです。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月19日 (木) 11時00分

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