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2010年8月13日 (金)

■見える範囲■

映画の記事を書くとき、(C)表記など、編集者にまかせてしまえばいいのだが、ついこだわって、コピペして原稿に載せてしまう。
公式サイトからは、コピペできない場合が多いので、映画情報サイトを当たることになる。

ところが、これが精神的にキツい。映画情報サイトには、ほぼ間違いなく「レビュー」が掲載されており、星印や点数が目に入ってしまうからだ。

「ああ……」と思う。「この人たちは映画が好きなのではなく、映画を採点するのが、好きなんだな」と。
僕も、学校で偏差値教育や、5段階評価に苦しめられたんだけど、この人たちは、社会人になってから、映画を袋叩きにすることで、教育制度に、仕返しをしているのかも知れない。


岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は、驚いたことに、もう17年も前の作品だ。
Main1まだ、この作品がテレビドラマ『if もしも』の一本でしかなかった頃、深夜に「おい、すごいもんが、テレビでやってるぜ」と、友達から電話がかかってきた。

その時、とっさに録画したVHSが、長い間、僕にとっての『打ち上げ花火~』であり、タイトルも『if もしも』と、マジックで殴り書きされたまま。
冒頭シーンはなく、山崎裕太と反田孝幸が、プールで賭けをするシーンから始まっている。

最近、日本映画専門チャンネルで放映されたが、全長版を見たのは、これが最初かも知れない。
岩井監督の意向に反して、強制的につけられたらしいこのタイトルが、何か意味をもって迫ってくる。「誰が」花火を見るのか。横から見たのは「誰か」。下から見たのは「誰か」。

結論から言ってしまうと、下から見たのは、山崎裕太。それでは、反田孝幸は、花火を横から見たのだろうか。画面からは、そうは受けとれない。
となると、「打ち上げ花火」とは「打ち上げ花火」のことではなく、2人がめぐって争う、奥菜恵のことなのかも知れない。


「見る」ということでいうと、冒頭近くの理科実験のシーンで、山崎裕太は奥菜恵の顔を、盗み見ている。「きれいでしょう」と、先生の声がOFFで入る。もちろん、実験のことを言っている。次のカットで、今度は奥菜恵が、山崎裕太を見ている。

プールで、奥菜恵をめぐる賭けがあり、花火見物の約束が交わされた後、山崎裕太と反田孝幸は、教室で友人たちの顔を「見る」。
――このシーンは、ちょっとした見せ場だ。カメラが山崎の目線になり、あるいは反田の目線となり、素早く動く。手持ちカメラで、子供たちの背の高さになる。はしっこく、落ち着きのないカメラが、少年たちの互いの眼と化して、互いの顔をつぎつぎと「見る」。
花火は、横から見ると、平たいのか丸いのか。灯台まで、「見に」いく話に決まる。

そして、少年たちは、奥菜恵が母親に連れ去られていくのを「見る」。セリフでも「おい、見たかよ」と言っている。
とどめの一言は、山崎裕太が、反田孝幸に「見るなよ!」

「横から見る」とは、なるほど、運命を傍観することなのかも知れない。


好きなシーンは、山崎裕太が奥菜恵の「駆け落ちごっこ」に付き合わされ、長い長い電車の線路を「見る」ところだ。
子供の頃は、人生が、こんな風に見えたものだ。山崎裕太は、彼女と2人、ずっと未来まで生きていくのかも知れない、と思っている。
だが、カメラがティルト・アップすると、線路の向こうは、ピントが外れてしまって、よく「見えない」。

そして、そこで「駆け落ちごっこ」は終わり。
見える範囲にまでしか、夢は届かない。あるいは、見えなくなった向こうにこそ、夢があるのかも知れない。

(C)Rockwell Eyes Inc.

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コメント

>岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は、驚いたことに、もう17年も前の作品だ。

もうそんな前になるんですか、確かにびっくりです。
最初いつ見たのかもう忘れてしまいましたが、奥菜恵の神秘的な少女性も、山崎裕太の男の子らしい感情も清々しい。全体の美しいけどどこかけだるい夏らしい空気、全てが絶妙で、何度見ても素晴らしい大好きな作品です。

そういえば最近、TVは日本映画専門チャンネルばかり見てる様な気がします。あのチャンネルの、作品をとても大事にしてる感じと、なんだか劇場にいる様な雰囲気が大好きですね。

投稿: Miya-P | 2010年8月13日 (金) 06時57分

■Miya-P様
そう、17年前です。オキメグも30歳です。
でも、あの頃から、確実に日本映画は面白くなっていきましたよね。
岩井俊二の影響がゼロの人って、少ない気がします。

>全体の美しいけどどこかけだるい夏らしい空気

そうそう、けだるい。そもそも、「空気」を撮る、という志向性が、当時の邦画には珍しかったんですよね。……といっても、この作品自体はテレビドラマなんですが。

>あのチャンネルの、作品をとても大事にしてる感じ

今回も、HD放送ではアップコンバートしてたんですが、そういう時、ちゃんと注意書きが出るんですよ。
ちなみに、筆頭株主は、フジテレビです。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月13日 (金) 09時38分

ごぶさたしております。
この作品は、何度見たことか。


ナズナの「次に会えるのは二学期だね。楽しみだね」
と、たしかその後、ナズナは泳いでいきますよね。それを見ている裕太。
その見た目のショットも、フォーカス追いかけなくて、ナズナの姿は水面の光に、にじんでいっちゃう。
裕太には二学期会えないとわかってて、ナズナの言葉を受け入れてて、なんて男前なんだ、と思いました。

見てスグに友人に「会われへんってわかってて、楽しみだね!って切なすぎるやんか!」と電話したことを覚えています。

投稿: ユキサダ | 2010年8月14日 (土) 21時52分

■ユキサダ様
ごぶさたしてます。

>裕太には二学期会えないとわかってて

そうか。親の離婚で引っ越すというのは、分岐点があっても、変わらないんですね。
ただ、前半では「本気で家出しようとしていた」ように見えるんですよね。

このドラマというか、この映画から、日本映画は平然と、何もない田舎町を、積極的に舞台にしはじめたと思うんです。
それまでは、観光都市でもないかぎり、ほぼ東京だったような気がします。この映画では、「どこ」とは言っていないけど、とにかく「日本のどこか」であり、それはあのような畑があって、神社があって……という風景です。

フィルム・コミッションが全国的に活性化するのは、もう少し後の話ですが、邦画が面白くなっていったのと、同時期なんですよね。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月14日 (土) 23時06分

おはようございます。
思い出しながら、ですが。

>ただ、前半では「本気で家出しようとしていた」ように見えるんですよね。

本気でしたね、きっと。
そこでの、駅のシーン。「17歳に見える?」とナズナ。
裕太には見えましたよね。裕太は決意固めたと思う。
でも、ナズナは逆だったのかも。
そっからは雰囲気だと思うのです。ナズナの雰囲気。
唐突な「あ、帰りのバス出ちゃうよ」
とか、バスの中の沈黙とか、学校に忍び込むくだり。
で、ナズナがプールに入る前。花火の音が現実に引き戻したときに一瞬見せるナズナの表情。そして、ナズナは唯一の相手にしか見せないような挑発的な表情でプールにゆっくり落ちていく。
別れの雰囲気満載で、そこを裕太はぐたぐた問い詰めず、ナズナを受け止めるように、その挑発にのる。
ふたりとも表面的にはナズナのルールではしゃぎ、同時にそこにこめられた思いでわかり合ったように感じたのです。

このロケ地は、劇場公開後も訪れる人が続いたそうですね。
やっぱオープニングの町が見渡せる道は、彼らみたいに走りたいですもん。

投稿: ユキサダ | 2010年8月15日 (日) 09時20分

■ユキサダ様
おはようございます。

僕は、ナズナの言動には、男子の幻想が入りすぎてると思います(笑)。
振り回されてみたい、挑発されてみたい、という願望があるじゃないですか。正直、プールのシーンは、やりすきではないかと思ったんですが、ああでもしないと、ナズナが物語から消え去ることが、出来ないんですよね。「じゃあね」って、道で別れるわけにはいかないぐらい、神秘的な存在になってしまったので。

で、その夜のプールに忍び込む、というのも、男子の妄想だと思うんですよ(笑)。『台風クラブ』にも、ありましたよね。花火とかプールとか、大人びた少女とか家出とか、わりと定番的な要素で構成されているのに、なぜか新鮮に感じたんですよね。

あの新鮮さって、何だったんだろうと思います。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月15日 (日) 09時45分

男子の妄想

確かに!(笑)


新鮮さで思い出したこととしては、これもあやふやな記憶で書きますが(すいません)、
確かビデオのシネルックの先駆け的な作品のひとつだったと思います。
「あの画面の調子はテレビ局がifの時間帯では受け付けないだろうと思ったが、やっちゃった。やはり局はいい顔しなかった」とインタビューで言っていたような。
それから、AVIDでのノンリニア編集で監督が意図した細かくシャープなつなぎ方ができるようになった、みたいなことも言っていたような。
そして、芝居でしょうね、やはり。ナチュラル指向で、お芝居お芝居した子役が嫌われ素人子役が使われる風潮があって、その逆を行くように、プロダクションで一番うまい子役を揃えてくれ、とオファーしたとか。あの俳優達は岩井監督のねらいをすぐに理解できたそうですよ。

投稿: ユキサダ | 2010年8月15日 (日) 17時35分

■ユキサダ様
シネルックな画調は、確かにそうですね。あの当時のドラマでは、まったく無かったわけではないですけど、最初はフィルムだと思いましたからね。
だからつい、「映画」と呼びたくなってしまいます。

ノンリニア編集は、90年代初頭では珍しかったようですね。
それで、教室のシーンの異様にカット数の多いところも、きれいに繋がってるんですね。

>プロダクションで一番うまい子役を揃えてくれ

なるほど。確かに、素人っぽい演技では、50分も持たなかったかも知れません。

僕が深夜の再放送で見たときは、すでに『Love Letter』の製作中で、「来春公開」とか出てたんです。
それを見たときは、狂喜しました。「待ってたものが来た」感じが、すごくしたんですね。

投稿: 廣田恵介 | 2010年8月15日 (日) 19時07分

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