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2010年8月29日 (日)

■『けいおん!!』21話が、面白かった■

先週は、やたら飲みに出歩いていて、ほとんどアニメを見てなかった。
ようやく見れたのが、『けいおん!!』 21話。絵づくりというか、演出が良かった。

このアニメは、複数のキャラをフレームに収めるので、バスト・ショットが多い。
Story(←これこれ。こういうカットが多いはず)

ところが、今回は、唯の髪の毛のクローズアップから始まる。いや、正確には、唯のベッド→机の上に広げられたヘアカタログ→部屋全体の引き。キャラがいない。空舞台、3カット。
その後が、髪をすく唯の手。足元に、登校カバンがある。これ、完全なトメ。次が、髪をすく唯なめ鏡の中の唯。でも、顔は映らない。執拗ですね。キャラの顔を出さない。髪の動きだけ。しかも、安易なリピートでなく、適度に変化つけてるところが、なんともゾワゾワッとくる。

その次のカットが、洗面化粧台のパン・アップ。で、ようやく唯の正面顔が映るんだけど、鏡の中なんですよ。このシーン、「生」の唯は、横顔ぐらいしか出ない。「鏡の中の正面顔」だけで、40秒ちょっとの長回し。挑戦的だ。
長回しといっても、実際は、アクションとばして3~4カットなんだけど、「髪をいじる」芝居を40秒。髪の毛って、「残し」があるから、めんどくさいはずなんですよ。
だけど、それを徹底してやっている。


もうひとつ、部室で、唯が自分で前髪を切ろうとするカット。これも良かった。
唯の見た目だから、画面に大きく前髪が入っている。奥には、4人のキャラがいるけど、ピンが外れている。
このカット、10秒ちょっとだけど、「ハサミで前髪を切る」芝居だけ、見てきたように描いている。しかも、慎重に、ちょっとずつ切っていく。その、じれったい時間の流れ。
このカットだけでも、見たほうがいいよ。

その後、「もうちょっと切りたい」と唯が言う。また唯の見た目なんだけど、今度は、奥のキャラたちにピンが合っている。唯の前髪はボケ。今度は、奥のキャラたちに芝居の主導がうつるからね。
その次の、唯がクシャミするアップも、上手い。タイミングが上手い。こんなところに、枚数を使う心意気がいい。


あと良かったのは、職員室で唯たち3人が、進路希望用紙を先生に提出するところ。
進路希望が通った瞬間、廊下で聞いていた紬が、小躍りするんだけど、先生のセリフがオフで続いている。その臨場感ね。
職員室でも廊下でも「同じ時間が流れてる」んだよ。

この回の絵コンテ・演出は、北之原孝将。アップと引きの絵の使い分けが、上手い。
だからね、アニメの面白さっていうのは、やっぱり、絵づくりなんだよ。カットの効果であり、作画の工夫であり……みんな、そこを見てなさすぎる。
「ストーリーがない」とか、見えやすいところしか、見てないんだもん。

(C)かきふらい・芳文社/桜高軽音部

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2010年8月28日 (土)

■断罪!断罪!また断罪!!■

『ぼくのエリ 200歳の少女』の、東京での公開館が、ヒューマントラストシネマ渋谷に変わった。
僕は、渋谷は苦手なので、10月に川越スカラ座で、ゆっくり2回目を見ます。
20100714220632しかし、『ぼくのエリ』のモザイク問題に関しては、あいかわらず、憶測だけでモノを申す人がいる。
そういう人は、最初から検索して調べようともしない。もちろん、映画会社に、真相を聞いたりもしない。とにかく、断罪したいんでしょうね。

映画でもアニメでも、バッサリと断罪したあとで、「まあ、僕は、あんな作品は見ませんけどね(笑)」などと、さわやかに書きそえられていたりする。
あのな。(笑)じゃねえっつうのよ。せめて、見てから断罪しろよ。

僕らは、ネットの中では、あらさがしが大好きで、人まかせで無責任。勤勉さもなければ、謙譲の美徳もない。
そのだらしなさが、作品の品位を汚し、真面目に働いている人を袋叩きにしているんですよ。


小言はこれぐらいにして――『Girls!』での連載が休止になって以来、何ヶ月ぶりかで、グラビア・ポエムの仕事が、きました。

同人誌に書いたように、まずは脳をリセットするため、ガンプラを組み立てます。たまに100828_20480001 「組み立てオモチャ」と揶揄されるガンプラだけど、マスターグレードに関しては、ユーザー・インターフェースが素晴らしいですよ。あのマニュアルは、他業種も注目するべき。
バンダイ・ホビーセンターに取材したとき、部屋のすみで、ガンプラのマニュアルを作っていたのは、女性でした。たぶん、細かいところに気がつくからでしょう。アニメの現場で、仕上げが女性ばかりなのと、同じ理屈かも。

しかもね、いきなりDTPで組んだりしないで、手書きするんですよ。それで、組みにくいところがあったら、どんどん赤を入れていく。
手を動かしていれば、とにかく組みあがるようになっているので、考えごとするのに、ガンプラづくりは向いている。「脳を手ぶらにする」というか。

一度、ジグソーパズルで代替できないか、試してみたけど、絵柄が気になってしまってダメ。なんかこう、無機的なパーツを組み合わせる、という作業がいいみたい。


それで、グラビアのタイトルは編集者が決めるし、写真の方向性も決まっています。ページのレイアウトも、文字数も、もちろん決まっています。
別に僕は、本物の詩人じゃないから、制約がないと、逆に困る。

調べてみると、今回はけっこう、きわどいDVDを出しているアイドルさんだし、写真もギリギリ見えそうで見えないので、セクシー路線で考えます。
部屋の中の写真ばかりなので、洋館に監禁されてる設定とかね。もうちょっと、窓からの光とかが入っている写真なら、恋人目線で書くとか。
ちょっと通俗的にするのが、コツです。

確かに恥ずかしさはあるんだけど、誰かが恥をかかないと、本ができません。なので、僕みたいなマゾっけのある人は、グラビア・ポエムに向いている。

(C) EFTI_Hoyte van Hoytema

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2010年8月26日 (木)

■夢を見る方向■

今敏監督の訃報を読んで、最初に思ったのは、僕より若いのに死んでしまった、CMディレクターのことだった。

「深夜ドラマで、SF特撮を企画したいので、アイデアを貸してほしい」と声をかけられ、都内で会ったのが、最後だった。
別に、彼にかぎった話ではないのだが、実写系の人は、企画段階では、めったにお金を払ってくれない。何度も、だまされた。ちゃんと払ってくれた実写のプロデューサーって、4人ぐらいかな。
20代のころは、それでも「作品に参加できた」って喜んでられたけど、30代からの僕は、ライター業だけで、生活費も税金もキャバクラ代もまかなう、個人事業主ですよ。

だから、彼に対しても、「どうせ、ギャラ出ないんでしょ」と断るつもりだった。
大学を出たばかりのころ、やはり「CGアニメの企画で、ストーリーを考えてほしい」と頼まれ、「だいたい、こんな感じかな」と思いつくまま話したら、「ふんふん、なるほど」と、目の前でメモをとられたことがあった。
「また、あんな感じで使われたら、かなわんよ」と。キミ、僕が貧乏だったころの悲惨さ、知ってるでしょって。

その点に関しては、「企画が進むたびに、少しずつ払います」と口約束をかわしてくれた。それなら問題ないので、広告代理店の人も交えて、飲み屋でブレストとなった。


3人で雑談していると、なかなか良いアイデアが出た。それをもとに、僕は企画書を作成、納品。ところが、待てど暮らせど、ギャラが振り込まれない。
「やっぱり、こうなると思ってたよ」とメールしたら、翌日、「お詫びの分もこめて」と、約束の倍の金額が、振り込まれた。

なんだか決まりが悪く、いつ仲直りしようかと思案しているうち、肺がんにかかっていることを知った。それから、たった数ヶ月で亡くなってしまった。


SFドラマに、CGアニメ――彼とは、夢を見る方向が同じだった。
ただ、夢を実現する手段が、違っていたんだろう。簡単にいうと、彼は、あきらめが悪かった。図太かった、ともいえるかも知れない。

僕は、自分に才能がないと悟るや、その見切りは早い。
仕事内容によるが、自分の個性なんて、いくらでも殺せる。名前の出ない仕事も、いっぱいやってきた。

しかし、彼は自分の才能を信じていた。40歳をすぎても、劇場映画を撮る気でいた。
彼のあきらめの悪さを、僕は、心のどこかで笑っていたんだ。「いい加減に、悟れよ」と。だけど、彼は死の瞬間まで、映画を撮るつもりでいたんだろう、と思う。
だからね、やっぱり、あきらめたヤツの負けなんだよ。僕は、彼に負けたんだ。


7月から、あちこちで相談してきたことを、来月から、少しずつ実行にうつす。それが、地獄の釜をひらくことになろうとも、最低でも生きのびてやろう、ぐらいは決意している。

それは、死ななかった者に残された、宿題なんですよ。

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2010年8月24日 (火)

■表現の自由■

夜中の2時から、なぜか『アリエッティ』と『カラフル』の特番。
『アリエッティ』の方は、ちょっと貴重かも知れない、ジブリ内の貼り紙が映った。
「レイアウト用紙 18円 原画用紙 8円 動画用紙 5円」。これ、以前に他のスタジオのアニメーターさんに聞いたけど、「知らない」と言われたもんで。

『カラフル』は、日本映画専門チャンネルの特番から、インタビューを一部流用。
麻生久美子が、原作本を朗読しているバージョンのCMが、良かった。映画を見れば分かるけど、アニメが現実と溶け合ったような感触がある。それを上手く生かしたCM。
こういう試みによって、それまでアニメを見なかった人が、映画館に足をはこぶかも知れない。「抵抗なく、アニメを見てくれる人の数を増やす」。それは、今のうちにやっておかないと、マズイという気がする。

「大人になると、他人と違う部分が求められる」という、原恵一監督の言葉が、鮮烈だった。


日曜夜は、吉祥寺バウスシアターで『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのC278b86c51d8498184138ba0a289d555ライム』。女性の一人客が、大半。
50席のバウス2での上映だったけど、半数ぐらいの入りで、見やすかった。観客の、くすくす笑いが聞こえるぐらいが、ちょうどいい。

例によって、フリースタイルで本音をぶつけ合うんだけど、ようするにミュージカルですね。キモとなる部分を、歌にするというのは。
で、前作同様、「こんな田舎で朽ちていくのか」という不完全燃焼感がキモなわけだけど、北関東に住んでるから恥ずかしい、体裁が悪いというのは、いかにも日本的。横並び意識ですね。

だけど、東京が一度も出てこない、ずっと北関東を舞台にしているというのが、ひとつのメッセージなのかも知れない。
前作で、AV女優であることがバレたみひろは、東京へ「都落ち」しましたからね。


コメント欄で、『ポケモン』事件のことが、ちょっと話題に出ました。
あの事件の怖いところは、光の明滅なんかではなく、シナリオや演出に規制が加えられたことです。
『カウボーイ  ビバップ』は、第一話が放送できず、ナイフが映ったら消され、「ジプシー」というセリフが消され、ドクロが映るカットも駄目、流血も駄目、ギャグで「みんな、お亡くなりになりました」と言っても駄目……と、原型をとどめないぐらい、改変されました。

テレビ東京とWOWOWに取材を申し込んだところ、テレ東は無回答。WOWOWは、暖かく取材に応じてくれました。サンライズも好意的でした。2号でなくなった「アニメ批評」という雑誌に、詳しく載っています。


つまり、何かキッカケがあると、表現の自由なんて、あっさり規制されてしまうということ。
『ぼくのエリ』のボカシ問題も、そうですね。
僕らは、誰かが設けた基準に、パスしたものだけを見せてもらっている。窮屈な世界に住んでいるし、どうやら、これからもっと、窮屈になりそうです。
隙あらば、規制しようとしたがっている連中がいるからですよ。

例えば、僕はコミケで「オエッ」と思うような同人誌が売られていても、とがめたりしません。自分が自由でいたいなら、どこの誰の表現にも、寛容であるべきだからです。

映画に対する採点、特に★印評価も、もちろん彼らの自由です。ただ、それが目にしたくないのに入ってくる、というシステムの部分が、本当の問題です。
そう、システムなんですよ。僕らは管理されているんだ、ということを、もっともっと自覚すべきです。

(C)2010「SR2」CREW 

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2010年8月22日 (日)

■絶対評価■

主題歌や名セリフに特化した、アニマックスの夏特番で『カウボーイ ビバップ』最終回、『ゼーガペイン』最終回、『勇者王ガオガイガー』第一話などを視聴。
どうも、これは秋からの放送のキャンペーンを兼ねているらしく、『ゼーガペイン』は9/2から放送開始。ライトユーザーを増やすには、チャンネルは多いほうがいい。
BDをファンに販売して終わり、では寂しすぎる。いきなり最終回を見せるってのも、意外性があって、いい戦略かも。

嬉しいことに、『ガオガイガー』も10月より放送決定!
59_297~98年は、ライターとして一歩を踏みだそうかという時期で、周りに『ガオガイガー』のファンも多く、会うたびに熱く語り合い、玩具も買っていた。
みんなが『エヴァ』なら、俺は『ガオガイガー』派だぜ、ってなもんだった。

ひさびさに第一話を見たら、「熱い」とかいうより、これだけの要素を放送時間枠に押しこんだテクニックに驚嘆。演出は、谷口悟朗。


DVDでは、『キャピタリズム マネーは踊る』と『ミルク』を続けて。
Imagesマイケル・ムーアも、ハーヴィー・ミルクも、勇敢な人物だ。ハーヴィー・ミルクは、マルコムXのように、その行動と発言のため、命を奪われた。本来、社会にモノを言うとは、そういうことなのだ。信念を貫くには、リスクがともなう。

ハーヴィー・ミルクは「戦うんだ」と、頻繁に口にする。
僕の大好きなドキュメンタリー『RIZE』のキャッチコピーは、「踊っているんじゃない。闘っているんだ。」
貧困や差別は、戦う動機になる。そして、戦いのない人生は退屈だ。


さて、★印による映画への「採点」は、何が原点となっているのだろう?
文科省の学習指導要綱にもとづく、5段階評価には、「相対評価」と「絶対評価」の2種類がある。

「相対評価」が導入された1980年。僕は中学2年だったと思う。教師から、「クラスには、5をとれる生徒の数が決まっているんだ」と聞いた。
つまり、クラス全体の学力を見て、あなたは他の生徒に比べて「1」ですよ、あなたはクラスでトップなので「5」ですよ、と決める。

ところが、1989年以降は、問答無用で、一個人の中で「努力を要する」が「1」とされる「絶対評価」が主となった。
つまり、5段階評価は、この頃より「暴君と化した」といえるだろう。「絶対評価」は、個人を断罪する。
★印愛好家の皆さんを、僕が「横暴」だと感じるのは、彼らが「絶対評価」を採用しているからです。


面白いことに、5段階評価が「絶対評価」へと凶暴化した1989年、日本の合計特殊出生率が低下しはじめたんです。
相対評価の通用しない狭い世界では、問答無用で「アンタは★一個、こっちの科目はマアマアだから、★三個やるよ」とやっつけていくしかない。

だけど、それは少子化の進む教育現場での話だからね。
どうして、映画という自由で多彩な表現物を、★だとか点数だとかで裁いていくのか、僕には分からない。
それとも、映画作品は、あなたが教え導くべき「生徒」なのだろうか。まさか、ねえ。
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(C)サンライズ・名古屋テレビ
(C)2008 Focus Features LLC and Axon Film Finance I, LLC. All Rights Reserved.http://pia-eigaseikatsu.jp/piaphoto/title/240/150692_1.jpg

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2010年8月21日 (土)

■ワンカットの効能■

本日より、『カラフル』公開。「日曜の夜、こっそり見に行くかなあ」と思って、グーグルで検20100609_colorful6_v_2したら、トップに上映館が表示されるのはいいとして、なんで素人レビュアーのつけた★印まで見なきゃならんの?

しかも、公開前ですよ? これで「やっぱ、見に行くのやめた」って人がいたら、営業妨害にならないの?
★印を表示しない設定には出来ないので、ググったら目にしなきゃならない。素人レビュアーの採点も、先日書いた、ブックオフの強制参加キャンペーンと同じだよ。「誰も困らない、むしろ、自分は社会の役に立っている」と信じ込んでいる。
いやいや、人によっては邪魔なだけなんで。


どうにも腑に落ちんな……とストレスをためつつ、DVDで『扉をたたく人』を見る。
ある意味、これも理不尽な現実を描いた映画なので、スッキリとはしないけど、主人公が太鼓を叩かずにいられなかった心境は、痛いほど分かる。

偏屈ものの大学教授が、アラブ系移民の若者の叩く太鼓に、少しずつ魅せられていく。
Images彼は、学会のためにニューヨークに来るんだけど、孤独癖があるから、教授同士の話の輪に加われない。
だから、公園でランチをとるんだけど、そこでポリバケツを叩いて演奏している黒人たちを見かける。
その夜、同居しているアラブ人から、ライブに誘われ、彼の見事なパーカッションに引きこまれる。
翌日、またも公園でランチをとる教授。だけど、今度はワンカットの引きの絵で、ポリバケツを叩いている黒人たちの、すぐ横で食べているんだよ。

もう、そのワンカットだけで、この映画を信用できた。教授の表情なんか映らないんだけど、同じフレームの中に、黒人たちと教授が、同じサイズで入っている。それがすでに、ドラマチックなわけだよね。
こういうカットに出会ったとき、ハッとするんですよ。「見てよかった!」と思うわけです。

その後の展開には、ご都合主義も散見されるんだけど、俺はもう、ぜんぜん許すよ。そのワンカットを成立させた、というだけで、価値は十分にあるから。
ラストも良かった。ちょっと、『SRサイタマノラッパー』を思わせるブツ切り感が、いい。「言葉で表現できなくなったとき、音楽がはじまる」という、ドビュッシーの言葉を思い出した。

だからね、映画というのは、自分の人生に有機的に役立ってくれるものなので、人によって効いたり、効かなかったりするわけです。
それを★印や点数におきかえて、あまつさえ「平均点」を出そうとする発想が、いかに貧しいものであるか、採点マニアの人たちは、よく考えてほしい。


ようやく原稿から解放されたので、吉祥寺バウスシアターへ『SRサイタマノラッパー2』を見に行こうか。
いやいや、その前に『ミルク』を、DVDで見るべきか。社会的マイノリティのために、身を挺して戦う人は、大好きです。
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(C)2010 森絵都/「カラフル」製作委員会
(C) 2007 Visitor Holdings, LLC All Rights Reserved

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2010年8月19日 (木)

■サヨコの立ち去るワンカット■

明日金曜、『めざましテレビ』で、『マイマイ新子と千年の魔法』が紹介されるそうです。
このブログも、画面に出るようですが……下品な話題も満載なので、『新子』がらみのページだけだと良いんですけど。


週末公開の『カラフル』大プッシュ中の日本映画専門チャンネルで、『河童のクゥと夏休み』。
Coo_7a_1024p原恵一さんに、お話をうかがって間もないので、いろいろ考える。公開時は、もっとシンプルに楽しんでいたと思う。

いま見ると、この作品は「アニメという手段を使った別の表現」という感じがする。
『カラフル』は、この「ひょっとしたら、アニメじゃないかも?」感が、より推し進められている。なんというか、フィクション性が低い。ストーリーはあるんだけど、非物語的。セル画ではあるんだけど、非アニメ的。

アニメに期待される、お約束的な快楽がないから、現実とずーっと地つづきな感じ。だけど、いまの僕には、そっちの方が安心できる。

快楽はないんだけど、お母さんとか、いじめられっ子のサヨコとか、ちゃんと色っぽい。「俺とは違う性別の人たちだ」って、ちゃんと認識できるんですよ。実写映画では、そんなこと意識しないでしょう?
その「性」を感じさせる、という点では、『カラフル』より『クゥ』のほうが、強い気がする。


好きなシーンは、康一とサヨコが、東久留米駅で別れるところ。
今回、「おっ」と思ったのは、康一がホームに下りたあと、改札前から立ち去るサヨコのロング・ショット。
サヨコの手前と奥を横切る人物が、全員、女なんです。
まず、右手前からインして、サヨコを追いこしていくのが、20歳ぐらいの茶髪の女性。左奥からインして、サヨコとすれ違うのは、サヨコより小さな女の子と母親。この母娘は、改札をくぐって、どこかへ出かけるわけです。

サヨコは、両親が離婚して、引っ越すという設定だったでしょ。
だから、サヨコとすれ違った母娘は、サヨコの運命をあらわしているように見える。実際、サヨコが画面からアウトしても、その母娘だけ3秒ぐらい撮っている。
もう一人、手前を歩いて、サヨコを追いこす女性は、何だか未来のサヨコのように見える。サヨコと同じ方向へ、どうどうと歩いていくから、そう見えてしまう。
とすると、母に手を引かれていく娘が、サヨコと別方向へ、サヨコの背中側へ歩くのが、気になります。つまり、母と一緒に引っ越すであろうサヨコの明日は、すでに捨て去るべき「過去」なのではないか。

通行人が女性ばかりというのは、その前のシーンで、サヨコが浮気男のクツを捨てたことと、関係してると思う。
女の子が、男物の革靴を捨てる。これだけで、「性」を感じますよね。そして、一人で立ち去るサヨコの前後を歩く、年齢の違う女性たち。このワンカットで「サヨコの自立」という、もうひとつの物語が、さりげなく語られている気がして、しょうがないんです。

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2010年8月17日 (火)

■強制参加■

僕は犬が好きなので、ラブラドール犬の形をした日本盲導犬協会の募金箱には、ついお金を入れてしまう。
募金・ボランティア・署名のたぐいは、自由意志にもとづいて、行われるべきだ。

ところが、ブックオフって、客をボランティアに強制参加させるんですよ。
100817_17100001吉祥寺駅南口店に、書籍やDVDを売り払いに行ったら、帰りに「ご参加、ありがとうございました」と、こんなリーフレットを渡された。

私が売った本の数に応じて、スリランカに図書館を建てるための寄付金が、ブックオフから払われるという。いやいやいや、俺は本を売りに行っただけで、そんな運動に共鳴もしてないし、参加もしてないよ。

なんとも腑に落ちないので、ブックオフのサポートに問い合わせてみたら、「強制参加といえばそうなってしまいます」と認めてくれたんだが、それでも腑に落ちない。


調べてみたら、マイクロソフトをやめて「ROOM TO READ」という運動を始めたジョン・ウッドとかいう社会事業家に、ブックオフコーポレーションが協力しているらしい。
だったら、あなたの会社が、勝手にやればいいじゃん。企業のイメージアップにしたかったら、店内にポスター貼れば、すむじゃない。

寄付金自体は、ブックオフが負担するそうだけど、そういう問題じゃないよ。思想の押しつけを、平然とやる神経が怖いって話だよ。
しかも、後だしジャンケンで、こっちに買い取り金を渡して、最後に「ご参加、ありがとうございます!」だからね。
金を渡して、思想を刷り込む。どんな高邁な思想であっても、個人の自由意志をキャンセルした時点で、穢れているよ。

ジョン・ウッドってのは、アグネス・チャンなんかより危険人物だと思うし、ブックオフコーポーレーションも、今回の企画を「強制参加」と認めましたからね。


友人に教えてもらった、グルーポン式の映画上映サービス、ドリパス
規定人数が集まれば、バルト9で旧作上映、作品のリクエストも受け付けます、という企画。
これ、上映イベントだから、映倫とおさなくていいんじゃない?

……いや、ダメだ。映倫の資料を見たら、「題名」「ポスター」まで審査対象になっている(笑)。
この国、消えてなくなってほしい団体が、多すぎる。

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2010年8月15日 (日)

■『廃市』のこと■

食事に出る以外、家で原稿をやりつつ横になり、まどろみながら、映画を見ている。
大林宣彦の『廃市』。年に一度は、CSで放映されているような気がする。1984年公開だA11から、『時をかける少女』の翌年。
その年は、たしか受験生だった。だとしたら、文芸座に、毎日のように通っていた頃。大林宣彦特集かなにかで、『いつか見たドラキュラ』などの実験映画と一緒に、見たはずだ。

ヒロイン役の小林聡美がお茶菓子を出すと、「ポン」と、鉄琴のような音がする。映画の随所に、この琴を弾くような、不思議な音が入る。その音が鳴るたび、映画が息つぎしているかのようだ。

柳川の旧家に下宿した主人公の部屋に、ざあっと風が入ってくる。新聞紙が舞い上がり、主人公がそれを手でおさえると、清涼飲料水の広告が目に飛び込んでくる。カメラが、広告に寄るたび、あの不思議な音が「ポン」と重なり、次のカットで、主人公は喉をごくりと鳴らす。
そこへ、小林聡美がお茶を持って、階段を上がってくる。

『廃市』といえば、あの「ポン」という音を思い出す。そのテンポ感に、映画の秘密があるような気がする。
『廃市』は、大林宣彦が編集もやっているし、音楽も作曲している。ついでに言うと、ナレーションも大林宣彦。そこまで、監督の生理が映画全体にみなぎっていると、魂の鼓動みたいなものが、こちらに伝播してくる。
逆をいえば、「魂の鼓動」という不可視なものを、機械的に分解し、積み上げることが、編集作業であり、「魂の鼓動」が可視化されると、映画という形態をとるのだと思う。

映画というものは、徹頭徹尾、メカニックである。「雰囲気」や「ニュアンス」も、実は、機械的に織り込まれている。

ただ、機械ではあるけれど、正確ではない。受け手のコンディションによって、思わぬところに着弾する。だから、映画は面白い。


シネマ尾道で、『涼宮ハルヒの消失』が公開されている。
子供向け以外では、初めてのアニメ上映とのことで、尾道に住む僕の古い知り合いが、協力を要請された。
具体的には、映画館と話し合い、『ハルヒ』を知らない人向けにチラシづくりを提案し、代表にTwitterを始めさせ、広島ローカルのポータルサイトに情報を送る等々。

その彼は、アニメ上映を地元に根づかせようと、次の計画を動かしている。苦労しているようだが、自分なりの「最前線」を持っている人は、強い。
少なくとも、えんえんとネットで嘆いているよりは、たとえ転んでも走りだした人の勝ちなのである。

(C)ATG

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2010年8月13日 (金)

■見える範囲■

映画の記事を書くとき、(C)表記など、編集者にまかせてしまえばいいのだが、ついこだわって、コピペして原稿に載せてしまう。
公式サイトからは、コピペできない場合が多いので、映画情報サイトを当たることになる。

ところが、これが精神的にキツい。映画情報サイトには、ほぼ間違いなく「レビュー」が掲載されており、星印や点数が目に入ってしまうからだ。

「ああ……」と思う。「この人たちは映画が好きなのではなく、映画を採点するのが、好きなんだな」と。
僕も、学校で偏差値教育や、5段階評価に苦しめられたんだけど、この人たちは、社会人になってから、映画を袋叩きにすることで、教育制度に、仕返しをしているのかも知れない。


岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は、驚いたことに、もう17年も前の作品だ。
Main1まだ、この作品がテレビドラマ『if もしも』の一本でしかなかった頃、深夜に「おい、すごいもんが、テレビでやってるぜ」と、友達から電話がかかってきた。

その時、とっさに録画したVHSが、長い間、僕にとっての『打ち上げ花火~』であり、タイトルも『if もしも』と、マジックで殴り書きされたまま。
冒頭シーンはなく、山崎裕太と反田孝幸が、プールで賭けをするシーンから始まっている。

最近、日本映画専門チャンネルで放映されたが、全長版を見たのは、これが最初かも知れない。
岩井監督の意向に反して、強制的につけられたらしいこのタイトルが、何か意味をもって迫ってくる。「誰が」花火を見るのか。横から見たのは「誰か」。下から見たのは「誰か」。

結論から言ってしまうと、下から見たのは、山崎裕太。それでは、反田孝幸は、花火を横から見たのだろうか。画面からは、そうは受けとれない。
となると、「打ち上げ花火」とは「打ち上げ花火」のことではなく、2人がめぐって争う、奥菜恵のことなのかも知れない。


「見る」ということでいうと、冒頭近くの理科実験のシーンで、山崎裕太は奥菜恵の顔を、盗み見ている。「きれいでしょう」と、先生の声がOFFで入る。もちろん、実験のことを言っている。次のカットで、今度は奥菜恵が、山崎裕太を見ている。

プールで、奥菜恵をめぐる賭けがあり、花火見物の約束が交わされた後、山崎裕太と反田孝幸は、教室で友人たちの顔を「見る」。
――このシーンは、ちょっとした見せ場だ。カメラが山崎の目線になり、あるいは反田の目線となり、素早く動く。手持ちカメラで、子供たちの背の高さになる。はしっこく、落ち着きのないカメラが、少年たちの互いの眼と化して、互いの顔をつぎつぎと「見る」。
花火は、横から見ると、平たいのか丸いのか。灯台まで、「見に」いく話に決まる。

そして、少年たちは、奥菜恵が母親に連れ去られていくのを「見る」。セリフでも「おい、見たかよ」と言っている。
とどめの一言は、山崎裕太が、反田孝幸に「見るなよ!」

「横から見る」とは、なるほど、運命を傍観することなのかも知れない。


好きなシーンは、山崎裕太が奥菜恵の「駆け落ちごっこ」に付き合わされ、長い長い電車の線路を「見る」ところだ。
子供の頃は、人生が、こんな風に見えたものだ。山崎裕太は、彼女と2人、ずっと未来まで生きていくのかも知れない、と思っている。
だが、カメラがティルト・アップすると、線路の向こうは、ピントが外れてしまって、よく「見えない」。

そして、そこで「駆け落ちごっこ」は終わり。
見える範囲にまでしか、夢は届かない。あるいは、見えなくなった向こうにこそ、夢があるのかも知れない。

(C)Rockwell Eyes Inc.

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2010年8月11日 (水)

■目下の課題■

NHK総合「ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日」。
米林宏昌監督の頭髪の薄さに、大変な親近感を持った。

カットが繋がってないところに、6秒間だっけ、ワンカット描き足すんだけど……あそこ、シーンの意味によっては、ちゃんと「繋がっている」と思うんだよな。緊張感が持続しなきゃいけない場面だから、アクションを省略できないという話であって。

ナレーションでは「初歩的ミス」と言っていたけど、そう単純なことかな?


「雛型いぬいぬ堂」さんから、「1/6 新子と貴伊子」のガレージキットをいただいた。
100811_02440001どうせ、キャストキットを組み立てる腕は、衰えてしまったので、瞬着で仮組みして鑑賞するか……それとも、パーツ状態で保存し、時代の証言者になっていただくか。
(写真右下にある、透明なケースには「ひづる」が入っています。ギョーザの皮そっくりな形のケース)

そして、感服せざるを得ないのが、貴伊子のスカートの裏。
100811_02450001シミーズ、徹底再現!
もう一年早ければ、僕の同人誌に、載ってしまったかも知れない。

手で抜いたそうですが、ほとんど気泡もなく、きれいな成形です。
ただ、リューターでもないと、バリの除去が難しそうなので、やはり難易度は高いかと……昔だったら、ヤスリとデザインナイフで、バリバリ削ったんでしょうけどね。


結局、『マイマイ新子と千年の魔法』では、こういう好意を受けっぱなしで……特に、防府からの救援物資は、数知れず。
DVDが出た現在でも、各地で上映活動の働きかけなどがあるようで、いいことだと思います。
苦労っていうのは、人に譲れない、自分だけの財産ですから。


昨夜、編集と話していて、『アリエッティ』とは言えても、『宇宙ショー』と口にできない自分に、気がついた。
人に「見た方がいいかな?」と聞かれても、答えられない。『カラフル』は、アニメ好きにこそ対峙してほしい作品だし、僕も、もう一度、映画館で見ると思う。

すごく簡単な話で、「『宇宙ショーへようこそ』って、こんなにいいんだぜ」と口にするには、映画を対象化する必要が、あるんですね。僕は、あの映画(というより、夏紀というキャラクター)を内面化――心の一部にしすぎてしまった。それは、自己愛の一種のようです。
だったら、自己愛は自己愛だと噛んで含めて、「夏紀って、素晴らしんだよ」と、ちゃんと語るなり、ページもらって特集を組むなりしなきゃ、ダメ。それにビビっている自分に、腹が立つ。

好きなものを好きといえないのって、愛情としては、一番幼稚じゃないですか。
社会に向かって、「これが、僕なりの愛だ」と、明確に表明できること。それが、目下の課題かなあ。

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2010年8月10日 (火)

■二日酔いの朝に見る映画■

終電まで飲んでいたのに、2時間寝ただけで、目が覚めてしまった。今夜の取材のために『カラフル』特番を、再び見る。
特番といえば、今夜、NHKでジブリ特番があるので、忘れず録画予約。
その後、『渋谷区円山町』の後半パートのみ、見る。いま、仲里依紗に関する記事を書いてるので、ちょうどいい。
もう一本、『転々』を見ながら二度寝しようとしたら、けっきょく、最後まで見てしまう。


『転々』には熱烈なファンが多く、ロケ地マップや、劇中人物が口にする豆知識などが、しっかり網羅されている。

俺が好きなのは、古びた旅館の洗面所のシーン、時計屋の老人に戦いを挑まれるシーン。その後、もう小泉今日子のスナックに行っちゃうんだっけ。
070731_tenten_sub3小泉今日子の家に、吉高由里子が遊びに来て、幸福すぎる擬似家族が成り立つ。
いま見ると、吉高の演技がオーバーなんだが、初見のときは、「こんな面白い女優がいたのか」と感心したものだ。

「明日は、このカレーをスパゲッティにかけようよ」と、吉高が明日の話をするところが、なかなか切ない。主人公2人には、明日なんか来ないからだ。
確か、男2人が警視庁へ向かっているシーンの合間に、小泉と吉高が夕飯の支度をしているシーンが、インサートされていたように思う。

そんなシーン、ドラマ上は必要ないんだが、記憶には残る。
映画の記憶って、けっこう時系列がデタラメ。だから、何だかフワッとした、いいシーンがあったな……ぐらいに残る。それを狙ってるとしたら、うまい。


この映画には、最初から「観客の思い出におさまろう」とするあざとさがある。ムーンライダーズの古い曲を使っているあたり、かなり卑怯だ。
でも、二日酔いの朝など、しんどい時には見やすい映画。世の中全体が疲れているから、こういう映画が必要だとも思う。

製作委員会の内訳は、スタイルジャム、ジェネオン、ザックコーポレーション、葵プロモーション。配給、メーカー、制作会社で出資しあったわけだ。
これぐらいの予算規模だと、適度にワガママで、長く愛される作品ができる気がする。


今夜は、原恵一監督インタビュー。ちょうど酒が抜けたので、だんだん緊張してきた。

(C) 2007「転々」フィルムパートナーズ

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2010年8月 9日 (月)

■僕を入れてくれるクラブになんて、入りたくない■

計算外の事態なのだが、『みつばちハッチ』が好調らしい。初日2日間で、4万6687人を動員。初登場8位。
親子連れでいっぱいの映画館は、ちょっと腰が引ける。ガラガラの場内で、さみしく、ひっそりと見るつもりだったのに。

しかも、あの系列は18日から、問答無用で、自社企画の『きな子』に差し替えるつもりらしい。夏帆が好きだから、これもちょっと見てみたいのだが。


二日酔いでゴロゴロしていたので、録画してあった映画などを、消化する。
Fujoshi08『腐女子彼女。』、ディテールがリアルな点はよかったが、後半に行くにしたがって、オタク・ネタが減って、ただのラブストーリーになってしまうのが、残念。
松本若菜は、演技の幅が広くて、まことに結構なのだが。

ディテールが豊かなのには理由があって、協力企業の数が、ハンパでないのだ。
単に赤いバイクが出てきただけで、「赤いから、スピードも3倍なんですよ」「ひょっとして、シャア意識してるの?」 こんな会話は、まだ薄いほう。そのあと、池田秀一に似た声が、シャアのセリフを連発する。
このシーンが面白いのは、腐女子の世界についていけない彼氏が、友達と『ガンダム』の話なら、ふつうに出来る点だ。

オタク・コンテンツにも、ヒエラルキーがあるのだな、と改めて思う。


あとは何だろうな、付き合いはじめたのはいいけど、趣味のズレにがっかりしてしまう……というのは、多かれ少なかれ、あるんじゃないかな。気まずい雰囲気の中、少しでも相手に合わせようとする彼氏の態度が、リアルだった。
いや、表現はチープですよ? でも、脚本に内在しているものが繊細で、「女性が書いたんだろう」と思ったら、案の定だった。

もはや、「合わせる」「合わせてもらう」という時点で、恋愛ってつまんなくなると思う。
自分が肯定されると、つまらないというか。
『アニー・ホール』の冒頭で、ウッディ・アレンがいう「僕を入れてくれるクラブになんて、入りたくない」。あの心境は、とても良くわかる。

どうせ恋愛するなら、自分の知らない世界を知りたいわけで。いや、徹底的に趣味が合わないからこそ、あの彼氏は、がんばれたのかも知れないな?
……そんなことを考えると、これぐらいの予算規模、こんな底の浅い企画の映画からも、学べることは、いくつもあると分かる。
表現物に、貴賎はないってことだ。


来月4日放映の『ギャラクティカ』のスピンオフ、『THE PLAN』のプルーフ版を送ってもらった。
『ギャラクティカ』序章のすこし前から、シーズン2のラストあたりまでを描いているが、シーズン4を見終えてからでないと、いろいろ困ると思う。

視覚効果的には、軌道上から発射された核ミサイルのカバーが、大気圏内で次々にはずれ、多弾頭であることが分かるシーンが、秀逸。
こういう地味なところで、手を抜かないのが『ギャラクティカ』らしくて、よかった。

(C) 2009「腐女子彼女。」フィルムパートナーズ

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2010年8月 6日 (金)

■『AKIRA』の3つのカット■

朝、早起きして『マクロス』の原稿を書いて、昼間は『ビバップ』の資料とりにいって、仮眠してから、仲里依沙の原稿を書こう……と思って起きたら、ちょうど『サマーウォーズ』やってた。

先日、『オカルト学院』に、死後の世界が出てきたけど、どこか『サマーウォーズ』のOZの表現に似ていて、ちょっと、温かい気持ちになった。
伊藤智彦監督、だてに師匠の横についてたわけじゃないな、と。勘違いかも知れないけど、技術やセンスを盗むってこと自体は、むしろ良いことだから。
ところで、『オカ学』は、編集で笑わせるところが、上手い。セリフや絵じゃなく、編集でバツンと切って、笑わせる。

で、カズマの声がびしっと決まると、『サマーウォーズ』は、急に生き生きしてくる。
カズマってのは、本当にキャラの「練成」が、奇跡的に成功していると思う。原稿おわったら、ゆっくり見よう。


アニマックスで『AKIRA』をやっていたので、暑さでグタッとなったら、ちょっとずつ見るようにしている。演出が、本当にお上手。

ケイたちテロリストが、配管工になりすまし、施設に潜り込む。
なんか、適当な言い訳を口にして、セキュリティをパスするでしょ。すると、ICカードが機械から出てくるアップ。
次が、格子状のゲートが左右に開いていくアップ……しかも、ゲートの上部分のアップ。
次が、ゲートの前に立つテロリストたちの俯瞰。奥ではゲートが左右に開いている。

この状況説明のためには、真ん中のカットが、欠かせない。ゲートの上端のアップなんて、一見、何が映っているのか、分からない。でも、「分かる」ように撮ったら、「何が起きたのか」という興味が、惹起されないわけですよ。
「一見して、すぐ分かる」カットでつないでいったら、どんどん、映画から興味が薄れていく。

もっと言うと、「認証されたICカード」と「ゲート前のテロリストたち」を繋ぎ合わせようとしたら、このカット以外、入らない。「ICカードのアップ」、「ゲートの上部分のアップ」と、アップ同士でつないでいるから、サラッと流れて見える。これ、大事。
さらに、ゲートの床部分のアップではなく、天井付近のアップであることも大事。そうすれば、次カットの「テロリストたちの俯瞰」に、きれいに繋がる。もし、床部分のアップから「俯瞰」へ繋ごうとしたら、ガタつくはずだよ。

だから、この3つのカットの繋がりは、素晴らしいですよ。メリハリがあればいい、という単純なものではないんだと、よく分かる。
さらに言うと、このゲートが開いたことによって、結果的に、ケイや金田たちは、鉄雄の変わり果てた姿を目にするわけで、たかがゲートひとつ、なめられないわけです。


上記のような演出というか、カットつなぎなら、実写でも出来そうに思うでしょ。
でも、あんな天井ぎりぎりのところに、まずカメラが入れない。じゃあ、セットをつくって、天井を外して撮る? そんなことをしていたら、予算がいくらあっても、足りない。

実写とアニメの差って、実は、そこにあるような気がする。
記号化でも、手間ひまかけた作画でも、まして声優でもない。
もっと些細なところに、歩留まりとか効率とかの問題が、介在している。それは、ちょっと探ってみたいじゃないですか。

どうせなら、そういう部分を勉強したい。見るたびに酷評してたら、自分が磨り減っていくばかりだから。

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2010年8月 5日 (木)

■『Colorful』の食卓■

原恵一監督の『Colorful カラフル』の試写に行って来た。
100805_15580001(このプレスシートだが、大学ノートを模しているのは、『私の優しくない先輩』のパンフと同じ。両作品とも、アニプレックスが出資しているけど、別に意図して似せたわけではなさそう)

自分の中では、『宇宙ショーへようこそ』で、アニメに依存しすぎているのではないかと疑い、『私の優しくない先輩』で、妄想より現実と対峙しろと叱咤され、この『カラフル』で、ヒリヒリするような現実の痛みを味わった感じ。


母親の不倫経験を、中学生の主人公は不潔と感じる。彼女の手づくりの食事に、主人公は手をつけようとしない。
画面にクローズアップになった、ハンバーグの痛々しさ。食事シーンは何度も出てくるが、確かに、おいしそうには見えない。ジブリ・アニメに出てくるような、魔法のかかった食事ではないのだ。

ファンタジーではなく、本当においしい食事、しかも、家族の食事とは、何なのか。その答えにたどり着くまでが、とにかく長く、辛い。しかも、絵づらではなく、物語で回答を出そうというのだから、辛くないはずがない。

僕も、いちばん思い出したくないのが、家族の食卓だから。いい思い出、ないですよ。
結婚中も、妻に「まずそうに食べてる」とか言われて、せっかくのおいしい食事が台無しだったし。
でも、だからこそ、目をそむけられない。
辛いなら辛いなりに、この映画と、関係を結びなさい。それだけの価値も救いも、ちゃんと用意されているから。


僕は、不倫経験のある女性と仲良くさせてもらった時期があるし、主人公の母親にいちばん、感情移入できた。そういう人が、心を病んでしまうのも、理解できるし。
ただ、声が麻生久美子だからね。麻生は、顔より声が好きなので、ちょっと戸惑った。というか、声優たちの演技は、誰もが一長一短。それを許せてしまえるのは、「同じ人間でも、さまざまな色を持っている」というメッセージの、寛容さゆえだろう。

意外にも、プラプラ役のまいけるが、かなりの芸達者で笑わせてくれる。プラプラが出てくると、かなりホッとします。
どんなことでも、予想通りよりは、予想外のほうがいいじゃない?


いい歳こいた大人なら、逃げも隠れもできない、そういうアニメです。そういうアニメに、40すぎて出会えて、たぶんラッキーだったんだろうと思う。21日より公開。

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2010年8月 3日 (火)

■バカになり切れてない■

友達に「自分の本なんだから、宣伝しなきゃ~」と言われたので、同人誌版「550 miles to the Imgp2269Future」。通販分は完売したそうですが、まだ、「まんだらけ マニア館」と「COMIC ZIN」に、一冊ずつ残っているそうです。

それぞれ、本の内容の紹介はこちらこちら。それぞれ、「売り切れ」「購入不可」となっていますが、店頭なら買える、とのことです。
見かけたら、よろしくお願いします。ワンコインで買えますんで。


7月は、とにかく会えるだけの人に会っておこう、と決めた。
なので、昨日、某社社長とお会いしたところで、「ご相談」期間は終了。非常に有意義な一時間だった。

話の終わりごろ、ちょっと『宇宙ショー』の話が出た。
「夏紀というキャラクターに、自分は一体感を感じてしまい、それは萌えとかいうより、精神治療的な何かであった気がします」……と切り出してみたところ、真剣に聞いてもらえた。
「それは、40歳を過ぎても、アニメを見ているという問題も含めて、だよね」と、話を継いでいただき、とても嬉しかった。
この件に関しては、初めて専門家の意見が、聞けたものだから。

女性キャラクターに己を重ね合わせてしまう心理は、たとえば、テーマパークで可愛らしいぬいぐるみに入っている間だけ、自身が解放されると語るスーツアクター、あるいは「男の娘」のアイデンテイティとも直結してくる気が、している。
遠いようでいて、一本の線じゃないだろうか。

これらを、「倒錯」「変態」で片づけていては、それこそ、文化の息の根がとまる。
当事者たちが、強い意志で語りついでいくべきだと、僕は思う。


とはいえ、相変わらず、女優が好きで、今はその関係の原稿を書いている。
3分の1ぐらいまで書いたが、どうにもバカになり切れてない。女性編集者に「男って、バカだなあ」と言われたら、私の勝ち。
よって、この原稿は破棄して、新たに書き直そう。

『おにいちゃんのハナビ』の予告を見たけど、谷村美月は、ちゃんと20歳の顔になっていて、一安心。週末、テレビで『サマーウォーズ』やるんだよね。

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2010年8月 2日 (月)

■宇宙ショー、3回目■

アニメ業界の方から、「『私の優しくない先輩』、あんたがブログに書いていたのと同じ感想だよ、同じ目線で見てたよ」という内容のメールを、いただいた。
ネットでのレビューを見て歩き、あまりの酷評ぶりに萎えていたので、これは嬉しかった。
映画のレビューって、「最悪」という言葉を使う人が、前よりも増えたかもなあ……。

レビューの点数を基準に、映画を見に行く習慣は、観客に、「自分の眼で確かめる」という努力を放棄させる。偶然の出会いを奪い、その人にだけ起こりうる驚きを奪う。
みんな、「ハズレ」を引くことを怖れ、「100%の完成度」を期待しているかに見える。
でも、数値化できないものを見たいから、映画を見るんじゃないの?

何だか、よく分からないモヤモヤが、やむなく、「映画」とか「小説」とかの形式をとっているだけだと、俺は思う。映画なら映画の形式、約束事を通じて、そのモヤモヤに触れたい。
フォーマットに封じ込められたモヤモヤに、生身で触れたときに「うわっ」となるわけでしょ。驚きたいわけでしょ。

僕はまさしく、「腰が抜ける」という体験をしたよ。
ただ、『私の優しくない先輩』を見た全員に、同じ体験が訪れるとは限らない。なぜなら、ひとりひとり、違う人生を歩いているわけだから。
映画というのは、それぞれ、自分の身の丈サイズにカスタマイズしてこそ、消化できるんだと思う。


『宇宙ショーへようこそ』、3回目に行ってきた。
Uchushow_nocutさすが映画の日、夜の回なのに、20~30人程度の入りで、アベックもいた。

身近なものとは異質な物理法則ばかり、2時間も見せられっぱなしなんだから、これはラリっている状態に近い。
まず、そのラリリな状態が、多幸感・酩酊感を引き起こすのだと思う。

さて、夏紀というキャラクターは、理想的な自我との間にギャップを感じている。彼女は、ラストでようやく、ヒーローの真似事をやめて、「今夜は、夏紀だ」と名乗る。
彼女のルックスは、もちろん気に入っているけど、むしろ僕は、彼女が「治癒」していく過程に、憧れているのかも知れない。

僕にとっての夏紀のような存在を、「理想化自己対象」と呼ぶらしいです。対象者(この場合、夏紀)を、自分の一部のように扱うことで、未発達な自己愛を補填している。
精神分析の本からの受け売りだけど、だとしたら、このアニメに依存しすぎるのは、あまり良い傾向ではない――と、今回は、そんなことを思った。

8月下旬から9月にかけて、また全国で公開が始まる(山形では舞台挨拶まである!)ので、楽観してて正解だったかな?とも思うし、この格別に愛らしいアニメとは、ちょっと距離を置こうかなあ……と、寂しいことも考えてます。

おそらく、滅多にない甘美な関係を結べた映画だと思うし、2時間(計6時間)の間、幸せでしかたなかったんだけどね。

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