■『私の優しくない先輩』、すごい■
ヤマカンが監督だからというより、川島海荷が主演だからというより、脚本が『シムソンズ』『阿波DANCE』の、大野敏哉だから……という動機で、新宿武蔵野館へ。
帰りの電車で、セールで買ったシャツ(数千円相当)を忘れてしまった。それだけ、ショックだった。『ぼくのエリ』といい、今年はどうかしている。
新人監督ならではの野心と、みずみずしさに溢れた傑作であり、怪作。
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メイキング番組を見たら、ヤマカンが川島海荷と金田哲に、怒鳴っているわけですよ。「演技が記号的すぎる」って。
でもね、映画の8割がた、記号的な演技なんです。川島は、目で見れば分かることまで、子細にナレーションで説明するしね。
で、川島が片思いの彼に幻滅して、金田のほうが好きだって言い出すんでしょ?と思っていたら、まんまと、そっちへストーリーが動き出すし、もう何度、寝落ちしそうになったか。
ずーっと、ナレーションで説明してるし。
ところが、どっこい。片思いの彼に、川島が思わぬ形で告白し、何だかわからない理由でフラれてからが、すごい。別の映画になる。演技が変わる。
ヤマカンが怒鳴っていたのは、このシーンなんですよ。
ワンシーン長回しになって、川島が、やけに生々しいことを言い出す。マジ泣きしてるし、ナレーションしなくなるし、明らかに矛盾したことを言うし、言葉づかいにも一貫性がなくなる。怖いぐらい、リアル。記号的なものが、一切、映画から姿を消してしまう。
いわば、記号的なストーリーと記号的なキャラクター設定、記号的なセリフに閉じ込められていた川島が、一気に肉体を取りもどして(しきりに汗の匂いを気にするのが象徴的)、「先輩、私って誰なの? ここって、どこなの? 一体、どこからどこまでが本物なの?」 「お前がここまで、と思ったところまでが、本物だ!」
うわあ!と叫びそうになるよ。いつの間に、そんな凄いストーリーになってたっけ?って。
それだけじゃない。そこから先、川島のイメージシーンが続くんだけど、「夢オチでハッピーエンドか?」と思わせておいて、「これは夢なの? …違う、私が本物と信じれば、夢じゃない!」 つまり、冒頭のミュージカル・シーンから何から、「どれが本物か」という課題によって、巻きもどされる。つまり、すべて白紙になる。
結局、川島と金田がどうなったかなんて、具体的には、一切、出てこないよ。もう、そういう問題じゃないから。ストーリーのオチとか、そういうレベルを越えちゃうんだよ。
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「物語って何なの、映画って何なの?」ってところにまで、昇りつめてしまう。だから、エンドクレジットは、ミュージカルにするしかないわな。
で、その「何なの」の答えは、観客が持ってるんだよ。観客が信じるところまでが、映画。観客が信じる範囲までが、物語。虚構。
いつも言っていることだけど、映画は、スクリーンには存在しない。観客の心にある。もっと言うと、『私の優しくない先輩』で何度も強調されていた「汗臭い身体」、それは我々のものだ。実際、今日の観客全員、汗と雨で、べたべただったはず。
だから、知らんぷりは出来ないはずなんだ。少なくとも、川島海荷がマジ泣きして以降、この映画は、映画であることをやめる。映画じゃなければ、何なのか。それは、あなたが考える。僕も考える。
いやはや、そりゃあ、セールで買ったシャツも忘れるわけだ。まだ、呆然としてる。
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