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2010年6月 5日 (土)

■6月のメモ「遥」■

昼間、新しくお付き合いする雑誌の編集者と打ち合わせ。
その後、吉祥寺へ『マイマイ新子』を見に来てくれた主婦の方(美人!)と、彼女を連れてきてくれた友人と、地元で酒。
その翌朝には、キャバ嬢とタクシーの中にいた。いや、帰る方向が同じだったから。


さて、『ホッタラケの島』の話でもしますか。去年のアニメだけど。
比較的、最近の記事によると、やっぱり制作スタート時は、混乱していたそうで、そういうのは、完成した映画に出ちゃうよね。

あの世界観にしても、『たまごっち』のデザイナーを参加させたのには、どういう意図があったのかな、と。
でもまあ、その辺はどうでもいいんです。文句を言うつもりも、ないです。
「映画は女優、アニメはキャラクター」だと、僕は思ってるんで。
Nah20090605_hrz4nvsantw_0ようは、子供向けファンタジーアニメのはずなのに、主人公が女子高生である、という奇形性が、『ホッタラケ』の味わいぶかいところであって。

主人公の遥ってのは、グッズにできない。遥のまわりの小動物・ぬいぐるみたちは、たくさんグッズが出ているのに。マーチャン展開で、二度おいしい企画だろうに、主人公をグッズにできない。女子高生だから。
冗談ぬきに、「子供に売る商品に、パンチラがあってはならない」と、そういう話なんだよ。


僕は見ている間、「これはパンチラさせないよう、方針を徹底してるんだな」と思っていたんだけど、詳しい人に言わせると、何度かチラしているらしい。
僕はそれ、「どっちかにしようぜ」と。いっそ、パンチラ目当てのポリゴン萌えの人たちに向けてつくっておけば、新しい地平が開けたはずなんだよ。

だって、PIXIVで「ホッタラケ」を検索すると、遥のイラストが多くて、びっくりするよ。
需要は、あるんだよ。

ストーリー後半、敵に引き裂かれた、ぬいぐるみのコットンを抱いて、遥が落下するシーンがある。いつもはヘアピンでまとまっている遥の髪が、風圧で海草のように乱れている。エロいですね。
でも、それ以上に、コットンを見つめる遥の泣き出しそうな笑顔。あれは、ひょっとすると、2Dでは出来ない。フェイシャル・モーションだから、あの顔がつくれたんじゃないかな。
モーションキャプチャじゃなくて、ぜんぶキーフレームで打ったのが、良かったんだと思う。

モーキャプでやると、『プラトニックチェーン』になっちゃうから。
Anime_1086『プラチェ』は、もうブルセラじゃないですか。場所、渋谷だし。僕らオタクは、渋谷で女子高生が何してようが、そんなの一番、興味ない。
その点、遥は、不気味な小動物と異世界を旅する、『不思議の国のアリス』でしょう。むしろ、「リアリスティックな女子高生」というキャラクターが、新鮮に見える。

僕らは、もっと遥というキャラクターを、厳粛に……いや、貪欲に受け止めるべきだったと思う。


もうひとつ、遥の声を演じた綾瀬はるか。
Img20080725234732彼女のフィルモグラフィを見ると、『僕の彼女はサイボーグ』、『おっぱいバレー』。前者は、すでに人間の役ではない。後者は、とにかく「本当に綾瀬はるかは脱ぐのか」と、そこにしか話題性がない。ザ・性の商品化。
で、本当に脱いだらダメだったんですよ。脱がなかったからこそ、「欲望の象徴」として昇華されたわけで。

そういう女優が、ポリゴン・キャラの声をアテる。
生身の肉体を捨てざるを得なかったような女優が、100パーセント人工物の声をアテる。
その企てに僕は、神々しさを感じる。そのマッチングの確かさは、芸術である。

映画って、主人公の造形や声だけで、十分に価値があるんだよ。脚本や演出が映画の本質だと思ったら、それは大間違い。

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コメント

>映画って、主人公の造形や声だけで、十分に価値があるんだよ

ちょっと前にゴダールの「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」とかを見てたんですが、そこで廣田さんの言ってた事に気づきましたね。
俳優のフィルムを通して滲みでる存在感こそが映画の魅力ではないかと思うのです。

投稿: おはぎ | 2010年6月 7日 (月) 03時14分

■おはぎ様
ゴダールの映画なんて、ストーリーは解釈不可能でも、「このカットだけは忘れられない」という瞬間が、ありますもんね。

もちろん、明快かつ優れた脚本や演出も、多く見るべきです。でも、俳優の一瞬の表情がすべてをさらってしまうこともある…と同時に分かっておくと、広く深く、作品を味わえると思うのですよ。

投稿: 廣田恵介 | 2010年6月 7日 (月) 04時28分

ハリウッド的な明快な脚本の観点から低く評価される『マイマイ新子』は、語弊があるかもしれないけどヌーベルバーグ的かもしれない。少なくてもフランスで受ける理由はなんとなくわかります。

かつてアングラだったシャフト的表現に時代が追いついて普通にエンターテイメントになってるように、時代が追いついたヌーベルバーグ的表現が『マイマイ新子』なのかもしれない。

投稿: zapo | 2010年6月 7日 (月) 23時53分

■zapo様
シャフト新房作品=アングラ……確かに、僕も『ぽにぽに』や『ネギま!?』の時は、「こんなゲリラ的表現をテレビで、しかも萌え系(で当時は通っていたと思います)でやっているなんて」と愕然としたものです。
確かに、最近は「変わった表現してるから、面白いな」程度に、希釈されて受けとめられてますよね。

『マイマイ新子』は、変わった脚本ではあるけど、これぐらい変わった映画、世界中に沢山あるじゃん…と思ってました。
ただ、時代が追いついた、とまでは思っていません(笑)

やっぱり、『新子』って、通好みの作品だと思いますよ。その中に、あまり映画を見てない人にも通じる、一点突破的な切り口があったのは、間違いありません。

投稿: 廣田恵介 | 2010年6月 8日 (火) 00時44分

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