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2010年1月30日 (土)

■ジョソコを全力で肯定する■

『マイマイ新子と千年の魔法』、大阪シネ・ヌーヴォでの上映、本日よりです。
チケット販売は、朝10時ごろからだそうです。2/19の終映まで、満席のつづくことを期待しています。

あと、吉祥寺バウスシアターさん、がんばってください。『アリーテ姫』と二本立てで、やりましょうよ。応援します。
全国の映画館さんも、期待しております。
シネ・ジュニア国際映画祭もおめでたい話なので、国内での知名度UPに繋がってくれると、嬉しいです。まずは、国内なので。

マイマイ新子@ラジオは、面白かった。支配人さんが出てきたとき、「おばさんがバー・ラピュタの女ですか」って書いた人、誰だ(笑)。


読売新聞に、「ジョソコ」の話題が掲載されていた。
100129_19200001性同一性障害でもなければ、ゲイでもない若い男子が、積極的に女装して楽しんでいるという。この流行、ものすごい腑に落ちる。
社会で「男を演じる」ことは、ものすごく、しんどいのです。
「雄々しく、堂々とする」ことは、社会生活に必要ではあるが、それは手段でしかない。僕らの本質は、体育会的な「男らしさ」では、断じてない。大人の強要する「男らしさ」とやらは、まず体育の時間に、教師たちが奪い去っていったではないか。「跳び箱が飛べないなら、休み時間もずーっと練習していろ」などと、クラス全員の前で言われた「男の子」が、雄々しく堂々と育つわけがない。
それを今さら、「男らしくあれ」とは、ムシが良すぎる。

僕は、今でこそ「ハゲ、ヒゲ、メガネ」という「男らしい」記号で外見を固めているが、男になんかなりたくなかった。小学校高学年の頃は、肩甲骨の下まで髪をのばし、女子に間違われるのが、とても嬉しかった。
祖母に「この子は、女の顔をしている」と言われたときは、自分が初めて、認められたような気がした。(くどいようだが、今はハゲ・ヒゲである)

漫画では、『11人いる!』のフロルが好きだった。一見、少女にしか見えないフロルは、ま20090505163436だ男でも女でもない。成人すると、男女どちらかになる。性差の間で揺れ動くフロルの戸惑いに、心から酔った。友達に、「お前、こいつ(フロル)が好きなんじゃないの?」とからかわれたが、それは違う。僕は、フロル自身になりたかった。

結局、僕は運動が不得手で、色白なまま、第二次性徴を迎えねばならなかった。
女子の目線を意識せねばならない年齢で、体育がダメなら、ルックスも良くない。ついでに、頭も悪い。これは、遺伝子的敗北である。
恋愛で勝つには、ひたすら誠意と卑屈を武器にするしかなかった。――なぜ、恋愛で勝たねばならないか? それ以外に、自分の性を決定づけるものが、なかったからですよ。異性に受け入れられる以外、自分を「男」と認識する方法がない。

だけど、そこから先がなかった。結婚しても、恋愛シミュレーション・ゲームを捨てられなかった。離婚してからは、キャバクラに通った。ゲームやキャバクラでなら、自分は寸分たがわぬ「男」でいられた。だけど、僕の年齢だと、そこでデッド・エンドなんですよ。
いまだに、「男としての自信」はないし、必要ないのではないか、とさえ思っている。


初音ミクを使って、曲を発表する人たちがいる。男なのに、女の子の恋心を歌わせたりすMikutmbる。ミクが女の子である理由は、そこにある。性を無効化してくれるんですよ、ボーカロイドって。だから、「SFより凄い」と、前から言っているでしょ。
初音ミクは、単なるキャラクターではないし、ツールでもない。「男らしくない」僕たちの、肉体の一部なんだ。

キャラクターでいうと、『処女はお姉さまに恋してる』には驚いた。もう、5年前のゲームか。「歪んでる」と思ったんだけど、かつてフロルに感情移入していた僕に、言えた言葉ではない。
ハーレム・アニメが減っていき、女の園だけを描いた作品に、男性が感情移入するようになった。それを僕は「キャバクラ化」と呼んだけど、そうではない、と今では思える。自分も彼女たちの友達なんだ、と思った方が、心が楽なんですよ。「百合」の定着化も、近い理由だと思う。性差を越えない恋愛の方が、すんなり感情移入できるってことでしょう。

そうした流れの中で、「ジョソコ」が出てきても、何の不思議もない。「男らしくあれ」という社会の抑圧が、それだけ強いという証拠でしょう。
「男らしさ」は、社会構造にとって有益なだけで、僕たち個人にとっては、実はどうでもいい。女々しい方が、心が自由でいられる。


もうひとつ言うと、新垣結衣が、応援団長という「男らしい」役を演じる『フレフレ少女』。これも、僕にとっては重要な映画だ。
547529恋愛がきっかけで、応援団に入った新垣は、日常生活でもガクラン姿で生活せざるを得なくなる。すると、ガクラン姿の新垣に「女の子の」ファンがつくのである。さらに、チアガール部のキャプテンを男優が演じることで、この映画は、「男らしさ」「女らしさ」を木っ端微塵に吹き飛ばす。

『フレフレ少女』を見たとき、僕は自分が男装カフェに通っていた理由が、分かったような気がした。男らしくあろうとする女子(男らしい女子ではありません)に、憧れがある。性のボーダーを揺れ動く姿は、男女を問わず、美しいのです。


日本は、アメリカよりも自由の国である、と思う。今は大人たちが、自由を潰して歩いているだけの話だ。
逃げたかったら、逃げてもいい。30代の自殺者が、激増している。あらゆる逃避の手段を、今こそ肯定すべきときだ。「男らしさ」という錆びついた牢獄から、あらゆる方法で脱出しよう。
男になり切れず、思春期のまま一生を終えそうな僕は、ジョソコを全力で肯定する。

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コメント

全体的に何だかすごく同意です。
自分の性を過剰にアピールしなくても生きられるといいなあと思います。

投稿: 渡辺由美子 | 2010年1月30日 (土) 09時43分

■渡辺由美子さま
この話題になると、たいていの人は、口を閉ざしちゃうんですよねー。
「男らしさ」「女らしさ」を解体して、風通しのいい社会にすべきだと思うんです。

しかし、体育教師の無神経ぶりは、犯罪級だと思うんですよ。今からでも、体育の授業は選択式にするか、撤廃して欲しいです。

投稿: 廣田恵介 | 2010年1月30日 (土) 10時50分

始めまして。
ボールを真っ直ぐ投げられないオッサンとして、共感しました。
しかし、身体能力面での「男らしさ」と、言動としての「男らしさ」(の云い方に問題アリですが、立派なオトナらしさ、と思っていただければ)、外見の「男らしさ」は分けてやらないといけないのではないか、と思っています。

綺麗な服を着る、可愛いモノを持つのは大いにやって良いのでしょうが、「女装」まで走らないといけないモノなんでしょうか?

追伸・AMオリジナルの「マイ新」レポート読みました。簡潔にして熱と愛ある良い内容でした。

投稿: 印度総督 | 2010年1月30日 (土) 11時43分

■印度総督様
はじめまして。コメントいただきまして、誠に感激です。
いまや「そんなのも、あったね」的に役割を終えつつある署名活動開始の際には、非常に元気づけられました。ありがとうございます。

仰るように、「身体能力/言動/外見」は、本来ならば分けて語るべきところです。そこを曖昧にしているのは、まだ頭の中で、整理し切れていないからです。
いずれ、本に書くときには、整理して取材してから書くことにします。
ご指摘、ありがとうございます。

>「女装」まで走らないといけないモノなんでしょうか?

本人に必要であれば、女装も大いに結構だと思います。それで本人が救われるのであれば、周囲は寛容であるべき、と考えます。
彼らは、オフ・タイムに女装しているだけであり、TPOをわきまえていると信じます。

私がヒゲを伸ばしてるのは、そうでもしなければ、己の醜形恐怖に耐えられないのです。女装にも、似たところがあるような気がして、だから、肯定したいのです。

>AMオリジナルの「マイ新」レポート読みました。

ありがとうございます。
まだページがとれないうちから、ICレコーダーを持ち歩いて、取材していました。「とにかく今、誰かが記録せねば」という一心でした。

投稿: 廣田恵介 | 2010年1月30日 (土) 12時19分

確かに、女性は本当に自由で生き生きとしてますよね。僕のまわりだけでも、突然仕事辞めて海外に行ったり、3人もいるよ・・1人は外人の男捕まえて帰ってきたし・・僕なんかまず、仕事やめられない、いじめられたって給料へったてかじりついて、ますます暗くなりますね・・男のプライド以前、人間のプライドまですべて売り渡しちゃって・・

投稿: なお | 2010年1月30日 (土) 23時17分

■なお様
抑圧を感じているのは、男女とも差異はないと思います。「仕事」というのは、「やっていて楽しく、しかも世の中の役に立つこと」です。
「辛いことを我慢する」のは、仕事ではないと思います。教育の場では「耐える」ことを強要されますが、あれは社会に都合よく飼いならしているだけですね。

現代は、有形無形の責任を負わされる男性の方が、生きづらいのは確かでしょう。
だから、せめてエンターテイメントの世界では、解放されたいと願うんだと思います。せめて映画を見ている間ぐらいは、プライドなんか捨てていいと思いますよ。

投稿: 廣田恵介 | 2010年1月31日 (日) 00時39分

細かいことを端折るので飛躍的に聞こえるかもしれませんが、「男(女)らしさ」を要請するような近代社会の論理と、映画文法から外れまとまりが無い・劇的でないなどの理由で「マイマイ新子」を型にはめて否定的に捕らえるような文芸批評の論理は根本において共通するものがあると思います。
裏返せば、だからこそこの作品がその本質にふさわしい評価を獲得する事が重要なんだと思っています。

私もアニメージュオリジナル拝見しました。これは前号の廣田さんの記事も気になりますのでバックナンバー探そうと思います。

投稿: zapo | 2010年1月31日 (日) 03時11分

■zapo様
いえ、端折ってあっても分かります。
僕も、ジョソコの話題を『マイマイ新子』に繋げるつもりで、書いていましたので。

>映画文法から外れまとまりが無い・劇的でない

ドラマがない、成長がない、と言っている人もいましたね。
オッサンが小学生の女の子に感情移入できるのか?という人もいますが、もちろん出来ます。
「大人なんだから、大人のキャラクターに共感するだろう」という考え自体が、すでに抑圧なんです。その抑圧から解放されるが、この映画の気持ちよさだと思います。
「オッサンが泣いている」というのは、実は時代の閉塞感とマッチしているからなんですね。

>私もアニメージュオリジナル拝見しました。

ありがとうございます。
前号から価格を高くされてしまったので、編集者は付加価値を持たせようと努力しております。ご迷惑かけますが、よろしくお願いします。

投稿: 廣田恵介 | 2010年1月31日 (日) 03時30分

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