■9月のメモ「怖れ」■
フィギュア王 No.140 本日発売
●『ケータイ刑事 銭形命』 岡本あずさ インタビュー
岡本あずささんのフィギュアが出るので、それに絡めて……というインタビューだったのですが、編集長と私、ハゲ中年二人に「将来、何がしたいの?」「人生の目標は?」などと、左右から質問される17歳の心境やいかに。
だけど、岡本あずささんは早く映画に出て欲しいな。本人もそう希望してたし、所属はスターダストだから、期待していいでしょう。
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フィギュアコミュニティサイト[fg]、見ているだけで、時を忘れる。プラ板のみでフィギュアを作るとか、「カン・ユー大尉バスト」とか「ひだまり荘 建築模型」とか、「えっ、みんなどうしちゃったの?」と笑いがこみ上げてくる。メイキング解説も豊富だし、本当に楽しい。
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『化物語』、テレビ放映は今週で終了。残り分はWEB配信に繋がるそうだけど、やっぱり放映枠の中で悪戦苦闘している様が、見ていて楽しい番組だった。
ほとんどのアニメが、「絵で再現された映画」なのに対し、そのフォーマットに『化物語』は疑問符を叩きつけた。
実写では効果的なカット繋ぎが、アニメでは有効でない。なぜなら、実写の俳優はカットを変えても、ずーっと同じ被写体だけど、アニメではカットが変わるたびに、別々の絵を描き起こしているから。原理的に、繋がるわけがない。
つまり、アニメでは「キャラクターを撮っている」という解釈は、正確ではない。キャラクターはワンカットごと、いや1コマごとに、毎回毎回、アニメーターの手によって生成され直されるんだよ。
(その構造が「作画崩壊」を招くわけだけど、分業制というメカニズムを知っておけば、あれは大騒ぎするほどのことではない)
そもそも映画自体、止まった絵を間欠運動で見せて、「動いているように見せる」詐術なんだけど、商業アニメは、ずっと「映画のフリ」をしてきたんだよね。特に日本のアニメは、撮影技術の向上もあって「擬似実写映画」としては、完成の域に達してしまった……と思うんだけど、「やっぱり、映画のフリをしてるのは、耐えられない」という叫びが、『化物語』なんだと思う。
今回の「つばさキャット其ノ壹」でいうと、冒頭、えんえんと羽川と阿良々木が歩きながら会話している。そこに、羽川のアップがインサートされる。このアップ、作画でズームインしているんだけど、歩いている時と速度がぜんぜん違う。口も動いていない。いわば、羽川の内面の表情だ。これは実写では通用しない。「違うアニメーターの描いた、違う絵」だからこそ、「羽川の内面」「歩いている羽川とは、別の羽川」として認識される。
『化物語』の真の過激さは、そのカットワークにある。「新房作品だから、新房っぽい」といったトートロジーに陥っている人が多いようだけど、もっと深読みしていいんだよ。
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20年近く前、まだモデラーで生計を立てていた頃。ある仕事を手伝ってもらうため、別のモデラーさんと近くの模型屋で待ち合わせた。
すると、模型屋のウィンドウと僕らを見比べながら、「うわ、オタッキー! 俺もこんなの(とウィンドウの模型を指差し)作って、オタッキーになっちゃおうかな~!」と、イケメン男性があらわれた。後ろには、女を従えている。出た、遺伝子的勝者カップル。
僕とモデラーさんは、聞こえないフリをして、下を向くしかなかった。ケンカは避けねばならない。2対1でも負けるから(笑)。笑いながら立ち去る彼の、顔を見ることさえ出来なかったんだ。
ところが、今日になって、ふと気がついた。僕らを「オタッキー」と呼んだ女連れの彼は、ようするに模型をつくれない自分自身の「欠落」が怖ろしく、だからこそ「イケメンで女連れ」という遺伝子的優位で、僕らを寄せつけまいとしたんだ。
動物の行動は、ほとんど「怖れ」で説明できる。攻撃的な相手ほど、こちらを怖れている。僕も怖れるが、相手が怖れることもある。それを念頭に置いておけば、無用に相手を憎む必要もないんじゃないかな。
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