■9月のメモ「軍服どの」■
ヤコログの管理人さんとお会いしたら、なぜか『Xボンバー』のプラモデルをいただいた。 「秘密戦闘メカ」という、投げやりな名称が嬉しい。「秘密戦闘メカ」、この一言で、今日一日、おだやかに過ごせそうだ。
中身は、赤と青の「むにゅっ」とした質感のプラスチック。アバウトな、野蛮と形容したくなるようなパーツ分割。
どうせ人にモノをあげるなら、こういう、休日を少し豊かにしてあげられるモノがいいんだな、と思う。
俺は、休日どころか、毎日がシメキリなのだけど。
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眠る時間を削って、マイケル・アリアス監督『ヘブンズ・ドア』を。マイケル・アリアスだったら、若い頃のレオス・カラックスみたいな映画を撮るんじゃないか?と勝手に思っていた。悪くないんだけど、アリアス監督の名前を知らなかったら、眠っていたかも知れない。
福田麻由子は、哀切で、それでいて強い意志の感じられる、不思議な声。そして、またしても、人の死を看取る役。こういう子は、どんな人生観を抱くようになるのかな、と興味が深まった。出来れば、取材までに、もう何本か観ておきたかった。
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幸村誠の『ヴィンランド・サガ』を読んでいる人なら、みんな、盗賊の頭で野心家のアシェラッドが好きでしょう?そのアシェラッドが、「人は誰しも、何かの奴隷なのさ」という意味のことを言う。のりピーを見ていると、その言葉が頭をよぎる。彼女は、必要だから、覚醒剤に手を出したんだ。やめることはない。
中島らもが『アマニタ・パンセリナ』の中で、「シャブはいやらしいドラックだ」と書いているのを読んでから、僕は覚醒剤だけは、下賎なドラッグだと断じている。しかし、それは僕の偏見に過ぎない。誰かがシャブで救われるんなら、使用の自由は認める。のりピーは、自分で必要だから、シャブをやったんだろう。他人に、強要されたわけじゃない。
「でも、法律で禁止されているし、人として絶対ダメだ」という僕らの偏見こそが、彼女に「やるな」と強要しているんだ。彼女の自由を、僕らは法律を盾に、奪っている。
僕らの心の8割は、良かれ悪しかれ、偏見で成り立っている。残り2割が、「疑い」なのだと思う。「疑い」は、自分の心を支配している「偏見」をくつがえす可能性を秘めている。大事にしたい。
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仕事の関係で、『ガンダム』の資料を漁っていたんだけど、カイ・シデンの解説に「ミハルとの死別を経て成長」と書いてあって、ちょっとゾッとした。
「成長する」とは、その時代の社会に、自分を適合させるということ。
「貴様らの体に軍服を合わせるのではない。軍服どのに、貴様らの体を合わせていただくのである!」……これ、旧日本軍の訓示らしいんだけど、『プラネテス』(原作のほう)にも、チラッと出てきます。
ようするに、社会ってのは「軍服どの」ですよ。本当は、僕たちが主体になって「軍服」を変えていくべきなのに、「軍服どの」に合わせることに、必死になっている。
「成長しなくてはいけない」という考え方自体が、もうすでに「軍服どの」なの。
僕は「変化」はしたいけど、「成長」はイヤかも知れない。「軍服どのに合わせていただく」のは、まっぴらゴメンだ。
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家を出たら、何年か前に仕事をした、某社の編集者が歩いていた。
「あれ? ひょっとして、アイジーに取材ですか?」
どうやら違ったようだけど、うちの近所も仕事関係者で、にぎやかになりそうだ。
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コメント
>>テラセンセ
『Xボンバー直撃世代』のわたしが来ましたよ~!ヽ(´▽`)/
いやはや、実際にはセンセの記事を読んで「Xボンバーって何だっけ?」と思い、検索して調べてから全て思い出しました。
特に、ロボ・ビッグダイXはすごかったですね、当時の衝撃は!(すごく丁寧に作っている人がいました http://natsucom.blog21.fc2.com/blog-entry-23.html)
直撃世代の私としては、ガンダムなんかよりもずっと、当時これを見ていた子供達は「自分の目だけで」評価していた作品なのではないでしょうか。
ガンダムの場合、79年当時、放送していたことは知っていましたが、「いつも一つ目の敵しか出ない、暗いアニメ」だけの認識でした。翌年、"大きなお兄さん達"が騒ぎ出して、そのブームに洗脳される形で観ることになったガンダムと比べ、『Xボンバー』はまさに、ちゃんと制作者の意図通りのマーケティング対象者に届いたお仕事の作品になっていると思います。
ビッグダイXをみていると、ガンダムのみで当時のロボットブームを語ることがいかに危険かを感じざるをえませんね(謎)。
みんな、マーケティングの力で、ガンダムとサンライズロボ、超合金魂で立体化するもののみ、「思い出」となるような軍服どの戦略に洗脳されてしまったんですね。そう考えると、ビックダイXが、○○に見えてきました(○○の中には好きな文字を挿入して下さい)。
>シデン・カイ
エスパーになっちゃうアムロより、確実に視聴者と等身大のキャラがカイですよね。
ミハルの声優さんの存在感と相まって、遅すぎた?カイの初単独エピソード。みんなあのエピソード回を覚えていて、「ミハルとの死別を経て成長」と書かれることによって、ファンは「やっぱあの回は物語の中でも重要だったんだよね=ぼくらの等身大キャラのカイは物語上、必要なキャラだったんだね!」って思いたいじゃないですか、前述の「~成長」という一文は、ファンを納得させうる、マジックワードみたいなものなんでしょうネ
川端康成の『伊豆の踊子』で、「あの踊子が今夜、客に陵辱されてはいないかと思うと、ボクは夜も眠れなかった」あたりの記述を、「好きな女子が陵辱されるのを想像するのって不安と同時に、興奮してボッキするよね!」って書評に書いちゃったら、メディアに載らないじゃないですか。だから「20歳の青年と踊り子の淡い恋」って書いちゃう。
最近、Mixiで自分なりの少しだけ限界に挑戦してます。マイミクに関係切られるかどうかの境目ギリギリのネタで。人間、やっぱり境目のほうが面白い、デス
投稿: きゃてぃーなかぢま | 2009年9月21日 (月) 17時11分
■きゃてぃーなかぢま様
リンク先のビッグダイX、シビれますね。カッコいいです。
>当時これを見ていた子供達は「自分の目だけで」
>評価していた作品なのではないでしょうか。
まさにそうですね。周りに見ている人間もいませんでしたから、不安なんですよね。でも、人間は孤独な分だけ、冷静にもなれるし、情熱的にもなれます。
それが、だんだん周囲の目を気にして、「これをカッコいいと言っておけば安全」という作品だけを好きだというようになる。まさにその抑圧こそ、「軍服どの」だと思います。法律や常識だけでなく、「世間体」も軍服どのですね。
カイに関しては、確かに仰るとおりかも知れませんが、「成長」は、やはり危険なキーワードですね。「成長する」というのは、「周囲に合わせて我慢する」ことですから、流動性を失い、硬直化することなんですよ。
前半の、適当な憎まれ口を叩いて、みんなをイライラさせていたカイ。ああいう人間こそが、社会に多様性をもたらすんですね。
みんなが右を向いている時、左を向くような人間は、常に必要だと思うのです。
mixiの中だけ、というのが僕は好きではありません。一部、学校裏サイト化していますし(笑)。僕は世界中の誰でも見られる、この場が好きです。物陰から攻撃されるけど、自分が隠れるよりは、撃たれる場所に立っていたいです。
投稿: 廣田恵介 | 2009年9月21日 (月) 18時06分
真夜中に『星間飛行』をノリノリで聴いている男、きゃてぃー中島です!
>Mixi
mixiに関しては、「答え」じゃなくて「模索中」なんです。これが良いとも思えないし、別のソリューションもなかなか見あたらない。
私も自身のサイトを持っていた頃、撃たれていました。ただ日本人のほとんどが、「やり逃げ」なんです。言うだけ言って、議論をすることから逃げる。とても疲れてしまいました。こっちは居場所をはっきりさせているのに、向こうは影から撃つだけ。
アメリカ人の場合、撃ちっ放しにはしませんでしたネ。ちゃんと「決闘」してくれました。決闘した後に、近くに住んでるから飲みに行こうとなったり、決闘が生産的に成立します。日本人同士だと、生産的な決闘がなかなか成立しません。前に自分のmixiで批判していた、インドのブログを書いてるバカ女にも、決闘を申し込もうとしましたが、彼女には決闘する体制すら持っていないことは見えてしまっているので、私も逃げ撃ちするどころか、影で試し撃ちするだけの自慰行為に逃げてしまいました。
私の不幸は、アメリカ人を知っていることです。知らなければ、日本人の撃ち逃げにもイライラしないで済んでいたかもしれません。
自分の強い主張を持っていたり、他人に何かを提供していたりするような、「コンテンツ」を持っている人のほうが損をしているような気がします。
ウィキペディアのように、コンテンツを持っている人が無償で、多くの人に有益なものを与えている例もありますが、悔しいことに、なかなかそういうことに参加できる機会を見つけられません。
今のところわたしがしている有益なことと言えば、タイギャルを褒めちぎることくらいです。「君は最高!世界一カワイイ天使!」とか言うだけで、クリーンで再生可能なエネルギーを生んでくれます。ちゃんと撃ち返してくれますから。
全ての物事は、タイギャルが解決してくれるでしょう。あ、何の話でしたっけ?
>カイ
「ミハル、おまえみたいな子を作らないためにも、ジオンを徹底的に叩く!」なんてふうになっちゃいましたからね。子供の時は何とも思いませんでしたが、大人になってこの台詞を聞くと、違和感を感じちゃいますよね。カイがなくなっちゃった、と。
79年当時を考えれば、この辺の表現が限界だったのでしょう、きっと。
作劇はあくまでメタファーなので、「カイは正義に目覚めてジオンとの決着の戦場に自ら赴いた」ではなくて、「人間はあるとき、選択しなければならないときもある」というようなメッセージを伝えたかったと、好意的に解釈しておきます。
この点の反省点を踏まえたと思われる「Seed」では、親友でライバルでもあったサイはモビルスーツも動かせないし、我らの等身大キャラたる愛すべき"カズイー"さまは、戦場から逃げることを選んでくれました。素晴らしいですね、「Seed」って!カズイー最高!
投稿: きゃてぃーなかぢま | 2009年9月23日 (水) 06時35分
■きゃてぃーなかぢま様
う~ん、別に決闘したいわけではないんです。それに値する内容を書いていませんから。
それに、致命傷を与えるような弾は飛んできません。見えないところから、見つからないようにエアガンを撃っている人たちが、ほとんどですから。
本気で向き合うほどの記事ではないのでしょう。
ただ、ちゃんと僕の記事を引用して、リンクもして、しっかり論陣を張っている人も、トラックバックを寄こしませんね。TBという美徳は、もう廃れてしまったようです。「出来れば、相手に読まれたくない」んだと思います。
だから、結果的にネットはスナイパー文化になってしまいましたね。知っているはずの人間が、他人のフリして書き込んできたときは、ガッカリしたなあ……。
>「ミハル、おまえみたいな子を作らないためにも、ジオンを徹底的に叩く!」
僕も好意的に捉えたいのですが、これ、モロに軍国少年ですよね。
劇場版Ⅲだと、カイは再び、状況に迎合しないひねくれ者に戻っています。『SEED』はよく覚えてません(笑)。すみません。
投稿: 廣田恵介 | 2009年9月23日 (水) 07時22分