■ゲームの中のアニメ■
劇場版『空の境界』第七章 パンフレット
いつものように、メイキングページを担当しました。
07年末に第一章が公開だから、僕自身は2年半ぐらいのお付き合い。
公開前日の本日、関係者試写でした。割と、僕は「お仕事」的スタンスで付き合ってきたつもりでしたが、ラストは本気で泣けました。原作と同じなんだけど、この幸福感は、映像じゃないと出ないと絶対に思う。
今までの血みどろの七本は、このラスト10分のためにあったのか……と。
でも、この七本の映画を並べても、『空』の局所的ヒットの理由は、絶対に分からない。「原作が同人(ウェブ)小説として発表された」ことを考えると、根なし草のようにバラバラに浮遊していた作家とファンたちが、ウェブなりコミケなり、非商業的な現場で出会ったことは重要。でも、出会った彼らが「ぜひ、アニメ化を!」と糾合したわけではない。『空』のアニメに満足した彼らが、また似たようなアニメを求めるわけでもない。そこが、今までのヒットと決定的に違う。
この現象を、(僕も含めた)部外者は、まだ誰も解明してないんじゃないかって気がする。
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『空』を見て、今から友達と『サマーウォーズ』。
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上記二作品とは直接の関係はないけど、今の若い人たちって、いつ頃から作画にうるさくなったんだろうか。
92年ごろ、まだモデラーだった僕は、ある作家の方とアニメーション企画の持ち込みをくり返していた。その時、メーカーさんの紹介で、以前はアニメ会社で監督までこなしていた編集者の事務所へ、企画書を持って訪れたのだった。
その方が、「今のアニメって、動かなくても文句が出ないんですよ。スーパーファミコンの格闘ゲームに慣れてるから、あの程度の動きで、みんな満足しちゃうんでしょうね」と仰っていたのを思い出したわけだ。その時は「なるほど」と納得したんだけど、92年ごろのアニメってどうだったかな。そんなに動いてなかっただろうか。
あの頃、ゲームで遊んでいた子供たちが、今のアニメファンの中核じゃないかと思うんだけど……だとしたら、今のテレビアニメがOVA並に(この比喩も一考の余地あり)進化した過程を、ずーっと見てきたはずでしょう。95年に、『エヴァ』がソフト・メーカー主導でつくられて以降、映像そのものを売っていくため、天井知らずにアニメのクオリティは上がっていった……と、僕は思い込んでいた。
でも、コスト・パフォーマンスを重視した『エヴァ』は、むしろ作画枚数を抑えたアニメだったはずで、じゃあ、今のように、ファンが作画にナーバスになった理由、キッカケは何なんだろうか。
すごく、安易な仮説。94年にセガサターン、プレイステーションを筆頭とする次世代機が発売されたこと。絶対に絵の崩れないポリゴンキャラの出現と、ハイエンドな作画のオープニ ング・ムービーの定番化。……ま、ハイエンドとは程遠いのもあったけど、近藤和久氏がすべての原画を手がけた『玉繭物語』なんて、オープニングのために買ったぐらいだからね。
あと、『ファイナルファンタジーVII』が3DCGになって、業界騒然となったでしょ。あれは「日本の映像すべてをレベルアップさせた」といっても、過言ではない。だから、97~98年あたりの「ゲームの中のアニメ」が、テレビアニメのハードルを高くしちゃったんじゃない? でもまだ、97年あたりだと、セルを使っていた時代だし、ぬるい作画でも許すような、牧歌的ムードが漂っていた。
工程のデジタル化は大きいと思うけど、受け手の意識は、いつ頃から厳しくなっていったんだろう。キャベツ(06年)とか言わないでね。
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コメント
拙い意見ですが、美少女ゲームの質が著しく向上した90年代後半、そしてその美少女ゲーム原作のアニメが登場した頃ではないでしょうか。そうした原作ファンがアニメに流入してゲームのような密度の高い一枚絵をアニメに求めて、アニメとゲームのギャップに憤慨している印象があります。
と思うのは作画が悪いと言う意見が出る場合「絵柄が良くない、それもただ好みでは無い」という意味合いが強く、「動き」で作画が悪いという意見を殆ど聞かない印象です。
後はパソコンやDVDレコーダーの普及で視聴方法が変わり、見る機会も増えたり、作画MADで目が肥えてしまったのもあるのでしょうね。
投稿: ohagi | 2009年8月 8日 (土) 19時31分
■ohagi様
拙いなんて、とんでもない。確かに、Leafが立て続けにヒットを飛ばしたのが、97年頃ですね。プレステ版の『To Heart』は発売日に買ったんですけど、同じ99年に、もうアニメ化されてます。早い。
「美少女ゲーム原作アニメは、絵のついたボイスドラマ」と揶揄されることがあります。だから、下手に動かして崩れるぐらいなら、止め絵でいけ、と(笑)。もう、美少女ゲームの立ち絵で満足なんだということですね。
それはそれで正論、という気がします。
一方、作画MADは、見ない人はまったく見ないと思うんです。ただ、「神作画」と他人が言うなら「神作画」なんだろうな、という態度。これを言ってしまうとミもフタもないんですが、ネットによって共通言語を得たことが、一番大きいんでしょうね。
投稿: 廣田恵介 | 2009年8月 8日 (土) 20時21分
>ネットによって共通言語を得た
ネットで作画崩壊という言葉が生まれた事でわかっていない人にまで広がり
使用される意味は本当に大きいです。適当に作画崩壊と騒ぎたい層まで現れてる印象です。
作画にうるさい人は昔からいて「ボトムズ」の谷口キリコに対して
カミソリを送りつける人もいましたが、現場はそれを無視して谷口さんを支持したのが凄いです。
ただ今は売上にも影響するかもしれないので、それに気にするような
シビアな世の中になっているのが現状のような気がします。
投稿: ohagi | 2009年8月10日 (月) 20時38分
■ohagi様
谷口キリコは、「キャラ表と顔が違う」という、分かりやすい攻撃理由がありましたよね。ただ、それが個性として認められたのは、時代がアニメーターの作家性を重視していたからだと思います。
今はとにかく、均質化が求められていますよね。そんな中でも、『けいおん!』の絵を作監ごとに分類するようなマニアもいる。「絵」であって「動き」ではないのが、ポイントですかね。
>ネットで作画崩壊という言葉が生まれた事
>でわかっていない人にまで広がり
作画崩壊と言われるほどの「事故」が起きるまで、分からなかった人たちが大多数だったわけですよね。
まあ、僕らの世代も『ダグラム』の絵を「なんか下手な絵だな」って、平然と見てられるほど鈍感だったわけですが(笑)。
90年代後半に、一度リセットというか、底上げが試みられたのは確かですね。そのキッカケが「ヤシガニ」だとしたら(98年)、ちょっと悲しいなあ……と思って、別の可能性も探っているんです。
投稿: 廣田恵介 | 2009年8月10日 (月) 21時39分