■「昔は良かった」の正体■
『カードキャプターさくら』がBShiで始まったので、第1話の、あるシーンだけ見ておこうと思った。さくらの登校途中、桜並木の下を走る背動のカット。
このカットを見て、「よく出来た、綺麗なアニメだなぁ」と、当時は感心したものだったのだが……。結構、心の中で美化していたのか?とも思った。桜の幹がリピートなのも気になった。でも、それは美化していたんじゃなくて、10年経過して、俺の目が劣化したのだ。再三再四、書いてきたことだが、人間の五感は10代がピーク。その後は劣化の一途だから、30歳の時に見た映像を、40歳の俺がまったく同じに受け取られるはずがないのだ。
「昔は良かった」の正体も実はこれで、10代の頃は視覚も聴覚も鋭敏なので、その年代に見たものは鮮烈に見えて当たり前。どんな表現でも、最善の形で受けとめられるわけだ。だから、「昔は良かった」は「若い頃に見たり聞いたりしたものは、すべてビビッドだった」と言い換えられる。もちろん、時代の空気や雰囲気も、確実に作用しているんだけど、個々人の五感が優れていたというのが、最も大きい。10代の頃に見た風景って、いつまでも鮮明に覚えてるもんでしょ?
この事実を受け入れ、自覚しておかないと、「昔は良かった」は、単なる世代間の言い争いに終わってしまう。
余談だが、この頃(98~99年頃)は、『十兵衛ちゃん』『宇宙海賊ミトの大冒険』など、原点回帰的な元気のいい作品が多かった。
■
次の仕事の関係もあり、「そろそろ邦画の世界に戻らねば」と思い、『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』(北乃きい!)と『たみおのしあわせ』(麻生久美子!)をレンタル。
『ゲゲゲ』は、かくし芸大会だった前作と打って変わって、ひたすら暗い。鬼太郎は漂泊民だ、と前作のときに書いたと思うが、今回は被差別少数民族であったことが発覚する。そこを掘り下げていけば面白くなると思うんだが、鬼太郎は、自分たちを滅ぼした人間に協力してしまう。それと、北乃きい演じる女子高生のキャラクターが弱すぎたのが、かなり残念だった。とは言え、映画全体の地味で湿ったトーン、銀のこしのような枯れた画調は、結構いい。ラスボスが「がしゃ髑髏」というのも、センスいい。
漂泊民である鬼太郎の味方は、人間ではなく(動植物を含めた)妖怪だ。僕が、このウエンツ瑛士の『鬼太郎』シリーズに好意を持っているのは、人間たちが鬼太郎を受容しないシビアさが、終始一貫しているからだ。
前作のラストも残酷だったが、今回も、墓場を一人で寂しそうに歩く鬼太郎のショットで終わる。鬼太郎を受け入れない北乃きい(今回、唯一の人間キャラ)が狭量なのではない。両者の暮らしに全く接点がないことは、北乃の高校生活(数少ない昼間のシーン)をごく短く描くことで、実は、映画の最初から暗示されている。北乃が最初から最後まで制服姿であることは、つまり、映画全体が、彼女の「放課後」でしかなかったことを示してもいる。彼女が路線バスという日常の乗り物で去っていくのが象徴的だ。
結局、今の我々の暮らしは、信仰をはじめとした、様々な異物を排除して成り立っているのだ。
■
『バトルスター・ギャラクティカ』シーズン3、第10話『死の航路』。放射線にさらされた星雲の中、パイロットたちが被曝しながら飛ぶという凄惨なミッション。フルCGによるVFX映像(人間はまったく映っていない)を、「痛い」と感じたのは初めてだ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント