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2009年4月12日 (日)

■キャバクラ化するアニメ■

昨夜は、お客として、イベント「オタク大賞R3」へ。
090411_18110001壇上にも客席にも、お知り合いがチラホラいて、イベントは自分でやるより客としていくほうが、はるかに楽しい。ゲストの浅井真紀さんの「98年ごろ、ガレージキットは完成品への道を模索していた」(大意)という発言に、ハッとした。あの年、模型界~ホビー業界でペレストロイカが行われていたのだ。
あの時期、何が失われ、何が得られたのか、もう一度総括せねばならない。下北沢のスニーカー屋に「スポーン」が並びはじめたあの頃、僕らの庭では何が起きていたのか。


さて、アニメの話でもしますか。
老眼鏡をかけた紳士たちが働く料理店を舞台にしたラブストーリー、『リストランテ・パラディーゾ』が意外にも面白い。従業員たちが、お互いに「こいつは意外に人気がある」「あいつは通好み」と、女性客からの好感度を評価しあうシーンを見て、「ああ、キャバクラだな」と。ホストクラブの世界はよく知らないので、キャバクラを比喩に出すしかないわけだが……草食系男子とかメガネ男子とか、そんなもんより、もっとストレートな欲望を描いている。そして、劇中の老眼鏡紳士たちは、自分たちが欲望の対象として見られていることを誇りに感じている。それは、女性的な自意識の持ち方だ。

キャバクラ的といえば、『けいおん!』のような女子学園アニメも、そうだよね。ただし、女子キャラ・オンリーの群像アニメには、『リストランテ~』の主人公のような「主体」が存在せず、「客」(視聴者)は作品世界の外にいるわけだ。例えていうなら、店内にカメラをセットして、嬢たちのやりとりを外部から鑑賞し、「俺は、やっぱ○○ちゃんだな」と品定めしているような感じ。しかし、それ以上のことはしない。客たちは作品世界に関与するのを嫌がっている(だから、キャバクラ「的」なわけです)。
もし、アニメキャラと恋愛関係を結びたいと思っていたら、恋愛シミュレーション・ゲームがC20090406_dreamclub_32_cs1w1_640x36廃れるはずがない。キャバクラを舞台にしたゲーム『ドリームクラブ』は、イロモノとしてしか受け入れられない(つまりこれは、化粧を落とした恋愛シミュレーションであるから)。
女の子オンリーの世界に、ユーザーが主体として直接的に関与したい心理は、もう過去のものになりつつある。

女子学園アニメを「キャバクラ的」だと感じてしまうのには、もうひとつ理由がある。キャラのカメラ目線でのアップが多い。もちろん、キャラは客(視聴者)ではなく、作中の他の人物に話しかけているわけだ。でも、キャプチャして物語から分断すれば、正面顔のアップが楽しめるでしょ。アニメをキャプチャの素材として見ている人は、思ったより多いんじゃないか(そこから話を発展させていくと、「作画崩壊」がうとまれる理由も見えてきそうだが、ここではさておく)。
キャプチャの素材と考えれば、物語が空っぽであっても、いろんな表情や仕草、コスチュームを見られた方がいいわけだよね。
よく、この手のアニメでは海水浴が山場になったりするでしょ。そういうイベント・デーって、キャバクラも頻繁にやるからね。学園アニメで文化祭や海水浴、花火大会などを見どころとして設定しているのを見ると、「今日は七夕デー。浴衣姿で待ってるから、ぜったい来てね!」というキャバ嬢の営業メールを思い出してしまう。
つまり、物語は相手が用意してくれている。主体性は不要なのだ。

こうした、非・物語的なアニメは、決してなくならず、細々と続いていくと思う。それは、男の欲求の最も単純な部分にフィットするからだ。

その一方で、『東のエデン』のように、哀しいほど実直に「物語」をやろうとしているアニメもあるんだから、これでいいの。第1話の脚本は伊藤ちひろ。『スカイ・クロラ』の伊藤ちひろではなく、『世界の中心で、愛をさけぶ』の伊藤ちひろとして起用された気がする。邦画界は景気いいんだから、エネルギーをアニメの世界に分けてくれれば、それでいいじゃない。

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