« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月30日 (木)

■メイドキャバに行って来た■

友達と、『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』に行って来た。立ち見客でいっぱい。予約しといて良かった。
090428_20430002体育会系の『グレンラガン』、文系・草食男子の『エウレカセブン』って感じだな。なんか、いろいろ難しいこと考えて、お洒落にまとめようとしているんだけど、伝える手段が拙い。それをキュートだと思うほど、僕は寛容ではなかった。
まず、あんなピカチュウみたいな、便利な奇跡を起こしてくれる小動物を平然と出せる神経が理解できない。生き物と一緒にいる、というのはその死をも見届けるってことじゃないのか? アニメだから考えなくていいってか? 謎はあるけど、神秘がないね。『河童のクゥと夏休み』のクゥはグロテスクだけど、だからこそ敬虔な気持ちが起きるわけでしょ。『エウレカ』に出てくる小動物は……というか、登場人物すべて、コンビニで売ってるグッズみたい。生産工程が分からない、人の匂いがしない、ただ綺麗で便利なだけ。人間の生理、身体感覚から遠いものばかりで構成された映画。

しかし、TVシリーズを見ていなかった友人は「思ったより、面白かった」。ただ、どうしても『エヴァ』に見えて仕方ないそうで、言われてみれば、過去に起きた大惨事、偉い人たちが極秘裏に進める謎の計画、深読みを強いる思わせぶりなセリフ……確かに、ここまで『エヴァンゲリオン』というフォーマットから抜け切らない作品も、今どき珍しいかも知れない。もう、コピーのコピーのコピーって感じだ。


もうひとつ。一緒に観に行った友人が中学時代にハマっていたのが『イデオン』で、「やっぱり、発動編を越える劇場アニメは存在しない!」と言い張るんだけど、確かに作家性むき出しで完全新作でテレビの続きをやる、しかも局の考査課なんて無視できるから、もうやりたい放題やる……という飛び道具的な劇場アニメ化は、『イデオン』だけだった。
今年、ケーブルテレビで放映していたから観直したけど、『イデオン 発動編』は怖いです。『河童のクゥと夏休み』も、子供に見せたら泣いちゃったという話をよく聞く……あれも怖いアニメなんですよ。10年前の『エヴァ』も怖かったよね(安心・快適な新劇場版は論外)。

ようするに、劇場アニメに限らず、観客に畏怖の念を抱かせることが出来れば、「しょせんは絵でしかない」アニメは、とりあえずの勝利を獲得できるのかも知れない。
今は、そういう「本気すぎて怖いアニメ」が減ってきたような気がする。大声で怒る大人もいないしね。目に見える「怖さ」が減ってきたのは、「怖いもの=悪いもの」という幼児的な感覚が広まってきたせいかも知れない。


何だか物足りなかったので、友人と別れてから近所のメイド・キャバクラへ。
メイドという高下駄を履かせた割には、お得感がない。もともと、この界隈のキャバにしては、料金設定が高すぎるんだよ。
090429_05080001_2嬢がメイド服を着ている他は、他のキャバと対応は変わらない。黒服の代わりに、メイド服の女の子が、延長の確認やアイスペールの交換に来るぐらい。だから、嬢が『ハルヒ』の歌をうたっても「今の曲って何?」と聞き返す、非オタクの客がいる。
一応、嬢たちは普通よりちょっとはアニメに興味があるとか、クリエイティブなことに興味がある、という子たちが多かった。でも、それは店に来てまで話すほどではない。夜のお店に付き物の、バクチ的要素がないんだ。やっぱり、普通のキャバクラ・ドレスを着た嬢が、予想もつかない話題を出してくるから面白いのであって、最初からオタクな話OKです、という保険が付いてると、逆に覚めちゃう。初めから嬢の連れ出しOKなデートクラブと同じ。手練手管や交渉のプロセス、運や偶発性までもが、パッケージ化されちゃってる。
メイド服より、何の変哲もないキャバクラ・ドレスの偉大さを実感させられた夜だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月27日 (月)

■2年ぶりのクゥ■

BShiで深夜、『河童のクゥと夏休み』が放映された。07年夏公開だから、もう2年前になるのか。厳しい残暑の中、西東京のシネコンまで這うようにして観に行ったのは。
それで、去年だったかな。別件でシンエイ動画に行ったら、応対してくれた初老の方に「あなた、河童のクゥってご覧になりましたか?」と話しかけられて。「私は経理担当だから、作品のことはよく分からないけど、あれはすごく良かったでしょう?」と盛り上がった。後から聞いたら、すごく偉い人だったそうで。

画面の端々に「これは、本当にあったことなんだ」という、強固な意志が感じられる。原恵一監督にとって、あの映画で起きたことは「実際に見て来たこと」なんだ。遠野の古い民宿Img_249428_958453_0でクゥが歩くと、磨かれた床にクゥの姿が映る。そんなメンドくさいことしなくてもいいのに、でも、クゥの実在感だけは怖いぐらい確かに伝わってくる。
遠野のシーンでは、川でクゥが泳ぎまわるシーンも無駄な誇張がない分、ちょっと気味が悪いくらいリアル。カメラは固定で、泳いでいるクゥが一度、フレームの外へ出てしまう。カメラはクゥを追わず、またフレーム内に戻ってくるのを待っている。ドキュメンタリーみたいな見せ方をしているのだ。
あと、主人公の家の一階に柱がある。お母さんが、その柱にもたれて話している。それが彼女の癖なんだよね。そうした人物の仕草と、川のせせらぎが、同じぐらいの強度で描かれている。俺たちが普段、この曇りきった目で見過ごしていることを、逐一「こういう事だよね、知らないとは言わせないよ」と突きつけてくる……見たくないことも含めて。
見たいもの、見せたいものだけを絵にしているわけじゃないんですよ。

公式サイトを見たら、この映画を「素直で、あたたかくて、たいへん好感のもてる気持ちのいい映画です」と言っているのは高畑勲だけ(笑)。う~ん……この人が親近感を抱くのも分かるような。
この物語が終わった後、主人公の少年は決して成長なんかしないんだよ。失う一方なんだと思う。「泣きました、感動しました」では終われない底知れなさが、この映画にはある。


永作博美主演作ということで、映画『同窓会』をレンタル。この『同窓会』という、いくらでも互換可能な芸のないタイトルが示すとおり、何の工夫もない人情喜劇映画。映画の半分以上を占めるのではないかと思われる煩雑な回想シーンは、セピア色に染めてみたり、8ミリフィルムにしてみたり、非常に記号的。「セピア色にすれば過去に見えるに違いない」という思い込みは、いわば映像の仕組みに甘えているだけであり、「演出」とは違う。
結局、社会と対峙するドラマでなければ、監督個人のオナニーを見せるしかない。だったら、独創的なオナニーを見たいではないか。
『同窓会』は、仲間うちで「いいんじゃない?」「うん、面白いよ」と盛り上がっただけ。永作ファンも、この映画だけは無視しちゃってOKと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月24日 (金)

■LOOK! ここは火星だぜっ♪■

「フィギュア王」 No.135 本日発売
819980
●飯島真理 ロング・インタビュー Vol.1
短期集中連載です。何年ぶりかでお会いした飯島真理さんに、ぐっと濃いインタビューを行いました。これは、それなりに人生密度がないと出来ない仕事だし、途中で事務所が意味不明の直しを入れることもなく、ご本人ともしっかり話し合って、納得のいく記事になりました。
こういう幸福な仕事には、そう何度もめぐり合えるものではありません。しかも、次号以降に続きます。

しかし、今月の表紙はすごいな……完全にオヤジ向け仕様ではありませんか。


『バトルスター・ギャラクティカ』シーズン3、第8話『英雄の証』。
深い。40代前半なんて、まだまだ子供なんだと思い知らされた。自分の来し方について、振41_04り返らずにおれない重厚なエピソード。アダマ艦長の過失を通じて、自らも復帰に向かうタイ大佐、という図式にも説得力があった。人生は長い。それなりに失敗も経験し、周囲の評価とのギャップを憂える年頃のオッサンなら、ぐっと心に染み入るエピソードのはずだ。僕はまだ、若造だな。
(バトルスター艦“ヴァルキリー”の登場は、オタク的には嬉しいところ)

あっちこっちへ話がとっちらかっていたシーズン1に比べ、シーズン3は一本の幹が通っている。シーズン1は制作当初、テレビ局と意見の差もあり、色んな方向性を探っていたんだそうです。日本テレビでの「シーズン1の放映」は来週で終わりですが、待ちきれない人はネット配信かレンタルでシーズン2へ!


10年前、狂ったようにハマっていた『電脳戦機バーチャロン オラトリオタングラム』がXbox360で配信直前だそうで……。ひさびさに『バーチャロン』公式サイトをのぞいて見たら、女性型メカ“フェイ・イェン”のグラビアポエムばりの「機体解説」が、まだ残っていた。以下、コピペ。

エゴイストはビバ・マーズ!
荒れ狂う火星の大地をまたにかけて
出ました、伝説のビビッド・ガール!!

イー味出まくってる色使い!
トータルテイストでフル装備、
やたらカッコつけちゃうよ!

いつでもスポットライト浴びてたいから
ハンパなしの存在感を身につけたいの!
真の女の子らしさを見せつけちゃうから
LOOK! ここは火星だぜっ♪


もっと読みたい、という方はこちらへ。いいですか、これ、「メカの機体解説」なんですよ? 「シックに決めず、ファンシーに行くのがギャル流です!」なんて(リンク先参照)、ガキ向けファッション誌でも言わねーよ!
僕もいまだに『ガンダム』関連の仕事で「モビルスーツの機体解説」を書くことはあるけど、この『バーチャロン』ポエムは、そうした「架空の兵器体系をテキスト化して楽しむパロディ文化」の、さらに逆説的なパロディだったんだよね。個々の言葉はダサくても、ダサさも臨界を越えるとカッコいいと思える……思えるんだよ、グラビアポエムを書く仕事をしてると!

あとは、ちょっと前に話題になったスーパードルフィーのイメージ・ポエム。「駆け抜けてみるか今夜!」の名フレーズで話題になった、ドール・シリーズ。こっちも、「恥の上塗り」的相乗効果で、シラフでは到達できないテキスト遊びになっているのが、実にうらやましい。
もうひとつ、95~97年ごろの「モデルグラフィックス」誌で、『エヴァ』の作例になると自作ポエムが添えられてたよね? 俺は決して忘れてませんよ、編集さん。

オタク領域に属するポエムって、さっきの『バーチャロン』でもスーパードルフィーでも、最も遠くに存在しているオシャレ文化圏に、にじり寄っていく「悪あがき」だと思う。ルサンチマンを持った文化には、仮想敵に「勝とう」とする意志があるのだ。それは見苦しいけど、愛すべき葛藤だし、正しい道であるような気がする。


「アニメージュオリジナル」Vol.3、藤津亮太氏による『エウレカセブン』空戦シーンの記事が白眉。「原画」「動画」「タイムシート」の関係を、ここまで機能的に理解させる記事は空前絶後だと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月23日 (木)

■30年スパンで見よう■

アニメージュオリジナル Vol.3 明日発売
Amori_cv3
●子供文化からの再出発 ~90年代ロボットアニメの軌跡~
ロボットアニメだけで話をするのは無理があるので、『スレイヤーズ』の話をちょこっと出しました。

●3DCGロボットの現在形(『バスカッシュ!』『RIDEBACK』)
「3DCGが作画に接近している」というのが、取材を通して見えてきたテーマなんですけど、ロボットアニメ特集という枠の中で、どこまで伝わるかしら。

●神山健治の楽園はどこにあるのか
『東のエデン』関連のインタビューでは、現時点、一番面白いはず。

●河森正治の足あと 第二回
いよいよ、今回から『地球少女アルジュナ』を取り上げます。まず、放映版とDVD版の比較から入ります。


前回の話のつづき。
「何で最近のアニメって、こんなにドキドキしないの?」「30分見て、スッキリするようなアニメがないじゃん!」――例によって、業界周辺をうろつくアラフォー男が集まると、こういう話になる。いや、『けいおん!』は30分見れば、ひとつの疑問も残らないように出来てるよ(笑)? ドキドキするといえば、『東のエデン』にときめいてるよ、俺は。

思えば、『エヴァ』を初めて見た時の印象は、「うわ、オタク向けの恥ずかしいOVAが、夕方からテレビでやってる!」だった。メーカーが出資して番組をつくる、というのは、つまり9b8f18be019e8aa2OVAをテレビで流すようなものだ。だから、「こういうマニアックなアニメは、オタクだけが部屋でこっそり見るもんだろう?」と違和を感じたのは、あながち見当違いでもなかったと思う。
何でもそうだと思うけど、何かひとつ成功すると、その後に長い苦難の時が待っている。もう、ハードルが下げられなくなってしまうから。それまでは、「一週流せば、それで終わり」だったアニメ番組が、「ビデオで繰り返し、何度でも見られる商品に」と、基準が変わってしまった。だから、美術なんてやみくもに密度が上がってしまって、いまや写実的な描きこみが当たり前でしょう。かつてのOVA並のクオリティを維持しないといけないわけだから。
ソフトを買えるようなハイターゲット向きに、中身も流行を取り入れないといけない。女の子たちが、まったりお茶を飲むアニメが売れたら、みんなそれを真似するよ。『マジンガーZ』の超合金が当たったから、70年代のロボットアニメは、みんな似たようなデザインになったじゃないか。それと同じだよ。超合金が、DVDやブルーレイになっただけのこと。
だから、『けいおん!』がいかに薄っぺらでも、僕には責められない。みんなでよってたかって、30年かけてこういう状況をつくったんであって、何かが急に悪化したなんてことはないんだよ。

とにかくも、10年前から、みんなテレビでOVA商品を見せられるようになった。そりゃあ、作画にうるさくもなりましょうよ。声優目当てで見るようにもなりましょうよ。「たまにはロボットも出せ」と注文も出ましょうよ。そんなマニアックな見方ばかりしてきたんだから、テレビアニメから普遍性が失われても当然だと思う。構造的に無理なんだよ。
Akagi_logoその反動から出てきたのが、非マニア層向けの日テレ深夜枠やノイタミナでしょう。例えば、『アガキ』は、『あしたのジョー』をやろうとした。テレビアニメの普遍性を復権させるには、保守反動に近い立場で、アッパーカットのように作品を打ち出していくしかない。

『宇宙戦艦ヤマト』本放送、すなわちアニメ・ファンの発生から35年――30年スパンで、ものを見られるぐらいの年齢になったら(いや、実は年齢なんて関係ない!)、今の状況に、おいそれと文句は言えないはずなのだ。
「30年」という歴史を念頭において見れば、どんなアニメだって違って見えてくるはずだよ。そういう想像力のない人は「今期ナンバー1」とかいう、飼いならされた価値観で作品を見ていくしかないんだろうけど。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年4月21日 (火)

■ぬるヲタの発生■

先週、ちょっと年上の人や、やや年下の人と「70~80年代のアニメ界隈の熱気って、何だったんだろうね」という話をしたので、思いついたことをメモ。

僕が最初にアニメ・ファンを目撃したのは、1977年だったと思う(当時10歳)。吉祥寺のレコード店で、『宇宙戦艦ヤマト』のLPが飛ぶように売れていく。しかも、高校生や大学生のお兄さん・お姉さんが競い合うように買っていくのを見て、「僕たち子供のアニメを、大人たちが奪って行ってしまうのか」と、なぜか寂しい気持ちになったのを覚えている。
実はその時期、制作者とファンが一体になってブームを作り上げていったことを、後に文献を読んで知る。当時は、ロマンアルバムが『海のトリトン』や『レインボー戦隊ロビン』など、『ヤマト』以前の作品を積極的に発掘していたのも興味深い。サントラでも、古い作品の音源を新規発売するのがメインで、B06a887968290eee04f3cdf1fc2f445f 本放送中に『ガンダム』のLPが出ると知ったときは「あっ、ついにリアルタイムでアニメのレコードが出る時代になったのか」と驚いたものだった。現行番組のソフトが大きな商売になりはじめたのは、その頃だと思う。
それまでは、過去作を再評価するのが当たり前だった。だから、アニメ好きのお兄さんたちは、みんな物好きであると同時に、勉強熱心なインテリだった。子供の見るべきものを、大人が大真面目に評価することのカッコよさ……と同時に、恥ずかしさも本人たちは感じていたんじゃないだろうか。

さて、やっぱりライト・ユーザーが発生しないとムーブメントは起きないわけで、『ガンダム』劇場三部作公開の頃には「ぬるヲタ」がいた。セイラさんの裸にしか興味がないような連中が。だから、81年ごろか。薄いアニメ・ファンが大量発生したのは。
Lana『未来少年コナン』のラナを好きな人たちってのは、濃かったんだよ。業が深かった気がする。セイラさんの入浴シーンが好きなヤツラは、もっと即物的だったし、ようするにハダカなら何でも良かった。
だから、80年代半ばには、もう「ぬるヲタ」向けの美少女アニメが一大勢力を築くほどになっていく。かつては学術的な匂いさえ漂っていたアニメ趣味が、下半身優先主義の「風俗」になった。だから、80年代は黄金時代だったんだけど、それは下半身に優しい黄金時代でもあったわけ。アニメ・ブームを支えていた熱気は、実は案外、よこしまな、下世話な情熱だったんじゃないか。
僕がいま感じている「歪み」の萌芽は、おそらく80年代に芽吹いていたのに違いない。片目ではなく両目を開けて、我が愛しの80年代を断罪せねば、「今」は見えてこない。


本当にひさびさに、日本映画を見た。谷村美月がオバケ役で主演している『死にぞこないの青』。当たり前のように「ホラー」の棚に置いてあった。一応、現役アイドルというか、アイドル誌でページ持ってる谷村美月なのに、扱いがジェイソンやフレディと変わらないというのが凄い。
090420_00260001谷村がオバケを演じるのは、『東京ゾンビ』『おろち』に続いて三度目だし(幽霊役も入れると四度目)、やや眠たい映画だった。面白いのはむしろメイキングで、特殊メイクで幽霊「アオ」に変身した谷村に、子役たちが「怖い」「鳥肌が立つ」など、罵詈雑言の集中砲火。そのシーンは、さすがに谷村が可哀想で、グッときます。こういうシーンを、映画の中に入れてほしかった。
学校という画一化された社会の中に、アオという異形の存在が侵入する物語だったら、少しは興味をかき立てられたと思う。ここまで谷村の顔を醜くしたんなら、タブーに触れるような映画にしなきゃダメでしょ。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年4月18日 (土)

■咲の呟きに、キュンとくる■

『バトルスター・ギャラクティカ』シーズン3、まだ半分も進んでないのに、想像を絶する展開になって40_07いる。宿敵サイロンにのみ感染する病原菌が発見され、それを生物兵器として使用すべく大統領が命令を下す。作戦が成功すれば、サイロンを根絶やしに出来る。しかし、そもそもサイロンと人間との差は何なのか? 人間を人間たらしめているものは、果たして何か。このドラマは、深遠から問いを発しつづける。
地上波でやってるシーズン1に飽きてきちゃった人、何とか我慢してシーズン2へたどり着いてください。


『ギャラクティカ』ほど同時代性のあるコンテンツって、日本にあるのかな……と嘆きつつ、『東のエデン』第2話。神山健治監督、大健闘している。惚れちゃいそう。実は第5話までシナリオを読んでいるのだが、「こういうニュアンスの映像になるのか」と唸らされる。
090417_20370001桟橋で朗と別れそうになった咲が、「まだメアドも交換してないのに……」と消え入りそうな声で呟く。キュンとくるよね。アニメで、こういう繊細な感情の機微を出せるんだ。あの年頃の女の子の傲慢さと感傷癖とを、いっぺんに表現している。
で、咲の呟きでキュンとくるのは、声優さんの演技だけではなくて、シーン全体が丁寧に組み立てられているから。例えば、あのシーンの波、作画で動かしている。最近のアニメは水面をCG処理するのが定番化してるのに、これは手描きでしょう。結局、「映像」というのは、具体的なパーツとパーツで成り立っている。そのパーツを線の一本一本にいたるまで解体可能なところが、実写にはないアニメの面白さだ。
実写映画は「カメラの前で起きたことの記録」だが、アニメは「すでに起きたことを、ゼロから作り出す」。その倒立した構造がエキサイティングだから、僕はアニメを見ているんだと思う。
この「すでにカメラの前で起きた」という姿勢の欠落したアニメは、まったく心に響いてこない。逆を言うと、既視感さえあれば、どんなウソでも信用できるのだ。

ともあれ、神山監督に惚れこんだ僕の、「アニメージュオリジナル」のインタビューをお楽しみに(来週発売)。徹夜つづきで、クターッとなっているアニメ監督ほど、愛らしい人種はいないですよ。
ところで、『東のエデン』は一話にひとつは映画ネタを入れていくつもりらしい。単なるお遊び以上のメッセージを、そこに感じる。


『ハイジ』に格別な思い入れはないのだが、求龍堂の「アルプスの少女ハイジの世界」、こ090417_04550001の本は凄い。杉山佳寿子のスイス旅行記、ヨハンナ・スピリの生家訪問、プロデューサーから仕上検査までスタッフ12人のインタビュー、初期デザイン、その他いろいろ載ってて1,800円。
同じシリーズで『ラスカル』もあるらしい。著者に人徳がなければ、こういう本はつくれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月15日 (水)

■大人たちが認めなくても俺たちが認めている■

EX大衆 5月号 本日発売
Ex_09_05_2
●ガンプラ超進化系モデル
これは、原稿を書いたのは、ほんの一項目。僕は、ガンプラのセレクトと、2時間ほど記事のベースになるウンチクを語っただけです(それで、クレジットを「協力」にしてもらったのです)。
この記事の編集者は、自宅近くの喫茶店まで来てくれたのですが、その店で犬みたいな顔のアニメ監督が打ち合わせしてるなあ……と思ったら、押井守さんでした。

●小野真弓 グラビアポエム執筆
●松本若菜 グラビアポエム執筆
●仲村みう グラビアポエム執筆
●愛ドルのリコーダー 成田梨紗

なぜか、仲村みうのポエムになると、編集者が「乱歩っぽく!」「一人称で、援交を匂わせる風に!」とか、熱心に指示してくるんです。俺も仲村みうは好きなので、大歓迎。やっぱり、お題があった方が書きやすい。それと、雑誌記事というのは編集者との二人三脚だと思うので……世界のすべてを敵に回しても、編集者だけは信頼し、また彼から信頼されるに値する人間であらねばならないのです。


『とらドラ!』や『けいおん!』の周辺現象を、こっぴどく罵るブログ「ふよふよ活動」より、とらドラ!信者(ゆとり)の痛い言動集。なかなか露悪的で面白い。特に攻撃の対象になっているのが、『とらドラ!』原作本についての意見。「コメ部分を抜いて一般で出せば芥川や直木賞が狙えるレベル。少なくとも何年も前にJKが賞を取った「蹴りたい背中」より全然深い。 」 ……『とらドラ!』は文学賞を狙える、という意見は他でも読んだけど、「芥川賞や直木賞なんて、どうだってええわ」という尖った若者たちが読んでいるのがラノベではないかと、勝手に勘違いしてました。
いいじゃない、文壇から認められなくたって。むしろ、「大人たちが認めなくても俺たちが認めている」ことの方が大事じゃないの? なぜ、この期におよんで権威を持ち出す? 往生際が悪いよ。世間からつま弾きにされてナンボだろう、オタク文化なんて。大人のつくった権威なんて、クソくらえでしょ? 深夜アニメなんて、低俗で下品で結構じゃないか。公序良俗に背を向け、自由な表現で戦える最後の砦じゃなかったのかよ? 

そうは言っても、『とらドラ!』ですからね。アニメだからどうとか考えない人たち(彼らを「ゆとり」「リア充」などのネット用語でくくっても、議論は一向に進まない)に受けたのが新しかったわけで。ノイタミナを見ている層とも違う、いわばオタクと一般のボーダーを往来する「ぬるい人たち」が顕在化してきたんだと思う。まあ、そういう人たちは『恋空』の時のように、このまま霧散してしまう可能性も高いんだけどね……。
とりあえず、「自称・多数派」「自称・普通の人」に対するカウンターとして、ブログ「ふよふよ活動」は機能していると思う。
多少乱暴でも、意見を喚起するような意見こそが大事。


最近は『ギャラクティカ』の影響でコソボ、ボスニア、イラクなどを舞台にした映画しか見てこなかった。昨夜はシメとして『ブラックホーク・ダウン』を数年ぶりに再見。ラスト近く、激戦地から帰った負傷兵が手当てを受けている。作戦の失敗を目の当たりにして、為すすべもなかった司令官が、床に落ちた部下の血を拭くのだが、血はぬぐいきれずに、床に広がってしまう――このカットは凄い。紛争の構図をそのまま表しているかのようだ。
ひさびさに、女優目当ての軽い日本映画を見たいが、以前のように楽しめるかどうか、ちょっと怖い。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年4月12日 (日)

■キャバクラ化するアニメ■

昨夜は、お客として、イベント「オタク大賞R3」へ。
090411_18110001壇上にも客席にも、お知り合いがチラホラいて、イベントは自分でやるより客としていくほうが、はるかに楽しい。ゲストの浅井真紀さんの「98年ごろ、ガレージキットは完成品への道を模索していた」(大意)という発言に、ハッとした。あの年、模型界~ホビー業界でペレストロイカが行われていたのだ。
あの時期、何が失われ、何が得られたのか、もう一度総括せねばならない。下北沢のスニーカー屋に「スポーン」が並びはじめたあの頃、僕らの庭では何が起きていたのか。


さて、アニメの話でもしますか。
老眼鏡をかけた紳士たちが働く料理店を舞台にしたラブストーリー、『リストランテ・パラディーゾ』が意外にも面白い。従業員たちが、お互いに「こいつは意外に人気がある」「あいつは通好み」と、女性客からの好感度を評価しあうシーンを見て、「ああ、キャバクラだな」と。ホストクラブの世界はよく知らないので、キャバクラを比喩に出すしかないわけだが……草食系男子とかメガネ男子とか、そんなもんより、もっとストレートな欲望を描いている。そして、劇中の老眼鏡紳士たちは、自分たちが欲望の対象として見られていることを誇りに感じている。それは、女性的な自意識の持ち方だ。

キャバクラ的といえば、『けいおん!』のような女子学園アニメも、そうだよね。ただし、女子キャラ・オンリーの群像アニメには、『リストランテ~』の主人公のような「主体」が存在せず、「客」(視聴者)は作品世界の外にいるわけだ。例えていうなら、店内にカメラをセットして、嬢たちのやりとりを外部から鑑賞し、「俺は、やっぱ○○ちゃんだな」と品定めしているような感じ。しかし、それ以上のことはしない。客たちは作品世界に関与するのを嫌がっている(だから、キャバクラ「的」なわけです)。
もし、アニメキャラと恋愛関係を結びたいと思っていたら、恋愛シミュレーション・ゲームがC20090406_dreamclub_32_cs1w1_640x36廃れるはずがない。キャバクラを舞台にしたゲーム『ドリームクラブ』は、イロモノとしてしか受け入れられない(つまりこれは、化粧を落とした恋愛シミュレーションであるから)。
女の子オンリーの世界に、ユーザーが主体として直接的に関与したい心理は、もう過去のものになりつつある。

女子学園アニメを「キャバクラ的」だと感じてしまうのには、もうひとつ理由がある。キャラのカメラ目線でのアップが多い。もちろん、キャラは客(視聴者)ではなく、作中の他の人物に話しかけているわけだ。でも、キャプチャして物語から分断すれば、正面顔のアップが楽しめるでしょ。アニメをキャプチャの素材として見ている人は、思ったより多いんじゃないか(そこから話を発展させていくと、「作画崩壊」がうとまれる理由も見えてきそうだが、ここではさておく)。
キャプチャの素材と考えれば、物語が空っぽであっても、いろんな表情や仕草、コスチュームを見られた方がいいわけだよね。
よく、この手のアニメでは海水浴が山場になったりするでしょ。そういうイベント・デーって、キャバクラも頻繁にやるからね。学園アニメで文化祭や海水浴、花火大会などを見どころとして設定しているのを見ると、「今日は七夕デー。浴衣姿で待ってるから、ぜったい来てね!」というキャバ嬢の営業メールを思い出してしまう。
つまり、物語は相手が用意してくれている。主体性は不要なのだ。

こうした、非・物語的なアニメは、決してなくならず、細々と続いていくと思う。それは、男の欲求の最も単純な部分にフィットするからだ。

その一方で、『東のエデン』のように、哀しいほど実直に「物語」をやろうとしているアニメもあるんだから、これでいいの。第1話の脚本は伊藤ちひろ。『スカイ・クロラ』の伊藤ちひろではなく、『世界の中心で、愛をさけぶ』の伊藤ちひろとして起用された気がする。邦画界は景気いいんだから、エネルギーをアニメの世界に分けてくれれば、それでいいじゃない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 9日 (木)

■ナチュン、ダンボ■

オトナアニメ Vol.12 明日発売
O0800113510157585883
●『RIDEBACK』 CGI監督・設楽友久氏インタビュー

『RIDEBACK』の絵づくりの面白さは、「現物合わせ」なところ。CGの素材に手で作画を合わせていって、その逆は一切やっていない。「手でやってるんだから、間違いなく合うはずだ」という考え方は、ちょっと模型づくりに似ている。


第一巻を買ったきり、何となく遠ざけていた『ナチュン』を第四巻まで買ってきた。脳の奥を何かが這いずるような原始的な感触が抜けない。
ちょっと調べてみたら、作者の都留泰作は文化人類学者だった。
海という題材が共通しているせいか、『海獣の子供』と比べられているようだが、土着的な、禍々しいまでのエロティシズム、嗅覚に訴える個性的な絵柄という点で『ナチュン』の方が吸引力が強い。
自我が滅するほどの、魂の深い底へ降りていくような感覚。特に第3巻、主人公が奴隷労働に駆り立てられていく描写は濃密で、まるで五感が上書きされるかのようだ。僕が「下世話」だとか「野卑」だとか呼んで嫌ったり愛したりしている、日々のくだらない習慣・惰性の中にも、ひょっとしたら何か尊い意味が潜んでいるのではないか――この漫画を読んでいると、不思議と敬虔な気持ちが沸き起こってくる。


『ダンボ』のDVDを買った。もちろん、真っ先に「ピンク・エレファンツ・オン・パレード」の部分を見たよ。何回見ても、これは素晴らしい。


『ダンボ』は、このサイケデリックなシーンがクライマックスと言ってもいい。低予算ゆえにバランスが崩れてしまった側面もあるとは思うが、美しいとは言いがたい象たちの動きといい、理不尽なまでに冷たい物語といい、どこか全体的に狂気が感じられる。この間に着々と制作の進んでいた『バンビ』が徹底的な芸術志向でつくられているだけに、『ダンボ』の違和感はひときわだ。
『ダンボ』公開の1941年はヨーロッパで戦火が猛り狂っていたので、そういう時代の空気を巻き込んでしまった気配がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 6日 (月)

■4シラブルのタイトル■

永井豪にも『マジンガーZ』にも超合金にも、まったく思い入れがないので、『真マジンガー 衝撃!Z編』は、割と覚めた目で見はじめた。若い人には、こういう企画がオヤジホイホイだとは思ってほしくない。
クライマックスだけを「これでもか」と盛りつけた展開を見ているうちに思い出したのは、小学校のころに大学ノートに書いていたロボット漫画だった。その頃に流行っていたロボット・アニメを片っ端からパクって、思いつくままに書いてたんだけど……あの当時は、日本全国、クラスに一人ぐらいは書いてたヤツがいたんじゃないか? 思いつきだけで、いいとこどりしたロボット漫画。適当なところで「つづく」となっていて、そのまま忘れてしまうような。ようするに、あれをテレビでやっている。そこにシンパシーを感じたので、ちょっとうらやましかった。

もうひとつ、必然的に結びつくのは、やっぱりヘンリー・ダーガーだ。彼の作品も、思いつくまま、好きなものだけを放り込んだ巨大な落書き。俺たちが小学生の頃に書いていた漫画を、ダーガーは死ぬまで書きつづけていた。これもやっぱり、「うらやましい」。彼は、子供であることをやめなかったんだ、一生。あの頃の精神状態に立ち返るにはどうしたらいいのか。子供でありつづけるには、どうしたらいいのか。それを考えるのは、社会性を獲得するのと同じぐらい大事ではないかという気がする。


覚え書き程度に書いておくと、例えば今期の番組でいうと『けいおん!』。遡っていくと、『とらドラ!』『みなみけ』『かんなぎ』『らき☆すた』『ひまわりっ!』『いぬかみっ!』『まほらば』『ぴたテン』『かみちゅ!』、まだ他にもあるだろう。4文字というより、4シラブル(4音節)のアニメや漫画のタイトルが増えている。丸山圭三郎の受け売りなのだが、4シラブルは日本人に最もフィットするので、略語は必ず4シラブルになる。「アラフォー」なんかがそうでしょ。4シラブルは発音しやすいから。
耳ざわりが良くて、覚えやすいタイトルは4シラブルにしろ、というセオリーが漫画界やアニメ界にあるのかどうかは知らないが、とにかく「視聴者の理解のスピードを早める」ことが至上命題になっている気がする。もっと言うなら「カンタンに分からせる」ことが望まれているんじゃないだろうか。
4シラブルのタイトルだと、警戒心が解かれるよね。『チェルノブイリ・クライシス』というドキュメンタリー映画があったけど、「チェル・クラ」って略すると、とても深刻な映画に思えない。4シラブルは魔力なんですよ。それも、最も安直な魔力だと思う。


ようやく仕事に余裕が出てきたので、DVDを借りてくる。ホロコーストや9.11をモチーフにした地味な外国映画ばかり。まだ、女優優先でお気楽な邦画を見る気分になれない。NHK-BSの「世界のドキュメンタリー」を録りためてあったので、そっちも見る。
富野由悠季は、なぜ『Z』から『ZZ』にかけて、「ガザ」「カブール(カプール)」など中東の地名を採用しはじめたのだろう。なぜ、あのタイミングで「アフリカ解放戦線」など出したのか、気になってきた。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年4月 2日 (木)

■ギャラクティカ、ポニョ、バンビなど■

『バトルスター・ギャラクティカ』、シーズン3の第5話。占領下のニュー・カプリカから脱出し、再び難民船となったギャラクティカ艦内のあわただしさが、えらくリアル。
38_01その艦内で、占領中に政府側で働いていたクルーたちが裁判にかけられ、つぎつぎと処刑されていく。ここ最近、BSのドキュメンタリーばかり見ていたせいか、すごく納得がいった。人民が圧政から解放され、政情が安定するまでには、必ず通るプロセスなのだろう。そうした陰惨な裁判や処刑を、平然と主要キャラクターにやらせてしまうのが、このドラマの容赦ないところだ。
あと、今回はトリシア・ヘルファー(ナンバー6役)が綺麗だった。4年も撮影してれば、そりゃ女優の顔も変わるだろう。


『崖の上のポニョ』のDVDが7/3に発売されるが、興味深いのはVHSビデオが同時発売され、ブルーレイが12月まで出ないこと。ビデオデッキなら、離島の小学校にもありそうだもんね。田んぼに囲まれた公民館にもあるだろうし。マニア視点からは見えづらい需要に答えたわけだ。
VHSで全国津々浦々に普及させつつ、片やブルーレイでマニアのニーズも答える二面性が「ジブリ人気」を支えている。それはおそらく、70年代に『ルパン』や『コナン』で宮崎駿を発見した世代が、いまだ現役であることの証明でもある。マニア層の興味をひかない、単なる大衆向けのジブリアニメがもし存在するとしたら、それはちょっと気持ち悪いものになりそうな気がする。宮さんは「左翼でロリコンで兵器マニア」と陰口を叩かれてるぐらいが、むしろ健全なのではないだろうか。


『バンビ』のスペシャル・エディションのDVDを買った。すごいのは、ウォルト・ディズニー自ら、090401_17290001 マルチプレーン・カメラの構造を説明する映像特典。昔のテレビ番組を再録したそうだが、数人がかりでの撮影風景も収録されている。
撮影素材、つまりBOOKはガラス板に油彩で描かれている。ということは、ガラスの厚みさえも撮影されているわけだ、物理的に。ディズニーのアニメを見ていると、セルの上に盛り上がったハンドトレスの厚みを感じることがある。光学的に「撮る」というのは、そういうことだと思う。
比喩でも何でもなく、カメラとセルの間に距離がある、空間があるということは、その時代の空気もセルと一緒に撮影されてるんだ。写真やってた人なら、この気分は分かると思う。空気ってのは、無色透明じゃないからね。
それを考えると、フルデジタル化されたアニメは、またちょっと別の見方をしないといけない。モニターに描かれた動画は、モニターで見るのが適しているようにも思う。


しつこく、最終回の話。『ライドバック』は、最終回において、ロボットが人間の手足に成り代わる「ロボットアニメ」に着地したので、結構、意表をつかれた。様式的な意味ではなく、「現代のロボットをテーマにしたアニメ」になったと思う。ASIMOやその脳波コントロールの実現と、期せずしてリンクした。スタッフの誰かが、アニメの外に軸足を置いていると、こういうことが起きるんだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »