■セルの埃は、表現である■
EX大衆 4月号 明日発売
●愛ドルのリコーダー 妄想ポエム館
先月につづき、グラビアポエムはこの一本のみ。もう、ポエムを集めたブログも閉鎖したし、グラビア詩人としてはそろそろ終了……というタイミングで、意外な本に書きました。それはまた、近々。
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相変わらず、ナイン・オールドメン健在の頃のディズニーを追っている。『ダンボ』が店になかったので、『ピノキオ』と『バンビ』。意外にも、人間がまったく登場しない『バンビ』の、骨格までなめつくすような鹿の動きにウットリさせられた。
冒頭のマルチプレーンで撮った森に、もうノックアウトされる。もの凄く、質感がSFXっぽい。それは、BOOKとBOOKの間に物理的に生じる、何層もの空気を撮影しているからだと思う(AfterEffectsで「撮影」する今のアニメでは原理的に空気を撮ることは出来ない)。
空気っていうのは、体積をもった空間だから、マルチプレーンでピントを送っていると、浮遊しているゴミにピントが合っちゃったりもするかも知れない。
実際、除去し切れなかったホコリが、セルと一緒にすーっと動いていくんだけど、それすら表現に見える。つまり、セル撮の頃のアニメには、制作者の意図しない「偶発性」の入り込む余地があったわけだ。
『ブレードランナー ファイナル・カット』鑑賞時にも書いたが、二番館に落ちてくるフィルムは、痛んだ部分を映画館で切って流すことが当然のようにあった。カットが丸々ひとつ欠落していたりして、その「バージョン」のフィルムに、別の映画館で再会すると、妙に嬉しかった(同じフィルムが、あちこちの映画館へ運ばれて上映されていたため)。下手をすると、フィルムの傷の位置や音の飛ぶ箇所まで覚えてしまう。
そういうノイズを排除してくいと、体験の濃度というか、「階層」が薄くなる。デジタル・リマスターが最高とは、僕には思えない。古臭い映画館の便所の匂いを忘れたとき、僕という鑑賞者の性能は明らかに「劣化」する。宙に漂うホコリを、感じていたい。なので、「最新のものが最高」という感性など持ちたくもない。
こうやって「昔は良かった」と言いつづけるのは、オッサンの義務。新世代に駆逐されるのが、オッサンの美徳。前のめりな好奇心と後ろ向きの嘆きとを、僕らは常に両方持っているべきだと思う。
デジタル・データのみでつくられた偶発性のないものばかり見ていると、作品に対峙したときの耐性が落ちるんじゃないだろうか、とも思う。予想不可能なことが起きたとき、処理しきれなくなるというか。トラブルを受け止めるための「いい加減な空き地」を、自分の脳に確保しておく必要がある。
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『バトルスター・ギャラクティカ』シーズン3は第二話まで放映。レジスタンスを率いるタイ大佐が、自爆テロをためらう部下に言う。
「俺たちが誰の味方か、だって? 俺たちは楽園を破壊する。行く先々を壊滅させるため、死の勢力から送り込まれたんだよ……知らなかったのか?」
悪役がこういうセリフを吐くのは普通だが、タイ大佐は味方を敵の支配から解放するために戦っている。それだから、彼の言葉は切実だ。
『ギャラクティカ』の影響で、ナチ支配下のオランダを舞台にした『ブラックブック』を鑑賞。まだ、エンターテイメントすぎる。見るのが酷な映画を探している。
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コメント
>見るのが酷
DVDになったのかどうかわかりませんが、阪本順治監督の『闇の子供たち』はどうでしょうか。
私も未見ですが、地元の映画館に来ているので月曜日に見に行くつもりです。
投稿: てぃるとろん | 2009年3月13日 (金) 20時41分
■てぃるとろん様
すみません、単に重たい映画が見たいというより、「占領下の生活」というテーマで考えていたんです。
でも、『闇の子供たち』は公開時から興味はあったので、いずれにせよ見ます。
ところで、今って、邦画でもいきなりブルーレイで出しまうんですね。高画質で見るべきものとそうじゃない作品とを、とりあえず峻別してるんだろうなーと勝手に思っていました。
投稿: 廣田恵介 | 2009年3月13日 (金) 23時18分