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2009年3月31日 (火)

■ポエム化するアニメ■

メガミマガジン 5月号 発売中
Megami_0905
●声優さんインタビュー
内容に関しては、ノーコメント。
一応、スケジュールさえ合えば、こういう小さな仕事も請けてます、ということで。



怪作『空を見上げる少女の瞳に映る世界』の最終回で、画面では壮大なエフェクト・アニメーションが展開しているのに、主人公の少女のモノローグだけで物語やテーマが「解説」されるのを聞いて、失笑した。「私たちの未来が」とか「信じる気持ちが」とか……まあ、OVAの再編集モノだし、話がまとまらなかったのかな、程度に思っていた。
ところが、『とらドラ!』『ガンダム00』の最終回を見て、モノローグで「思い」を説明するのが、ひょっとして流行ってきているのかと不安になった。
キャラクターが意志表明しないと、お話が終りづらくなってきている。そういうアニメが増えた、というより、そうしないと分からない人たちが増えてるんじゃないだろうか?
『とらドラ!』に関しては、長めのモノローグは「ポエム」と揶揄されているようだ。ただ、「原作がライトノベルだから、ある程度、仕方ないのでは」という意見を読んで、やや納得した。だけど、『ガンダム00』は「ポエム」で逃げおおせたよね。劇を組み立てる意志が感じられなかった。

『鉄腕バーディー:02』のラストで、バーディーが時空の彼方へ消えてしまった恋人に「私、待ってるよ」と呟く。このセリフを「伏線になってる」「第3期につながるんじゃないか」と解釈している人がいて、だいたい何が起きてるのか分かってきた。キャラクターの言うことを、額面どおりに受け取っているわけだ。
もう恋人に会えないと覚悟しているバーディーに、あえて「待ってるよ」と言わせるのがドラマなんだよ。なのに、はっきり「もう会えないのね」と言わせないと、キャラの感情をつかめない人がいる。そういう人たちが増加するとしたら、「ポエム」はどんどん流行ると思う。
これは、アニメの表現がどうとか言うより、コミュニケーション・スキルの問題だろう。

ちょっと思い出すのは、紀里谷和明監督の『CASSHERN』。あの映画でも、登場人物が今の自分の感情をポエティックに説明するのだが、紀里谷監督が言うには「ここまで喋らせないと、伝わらないもの!」 結果、『CASSHERN』は15億のヒットとなった。
『LIMIT OF LOVE 海猿』は、絶対的危機状況の中で、主人公が携帯電話で恋人にプロポーズするシーンが延々と続いた。失笑必至のシーンだが、それでも、71億円というメガヒット。
『CASSHERN』が04年、『海猿』が06年だから、ひょっとしてアニメ界に今、そういうウェーブが来ているのかな、と冗談半分に思う。

「言外に匂わす」というテクニックが、文化が、もう通じなくなってきている。日本人の物語読解力が、ガンガン落ちてきている。
だけど、そういう時には、必ず別の何かを獲得しているはずなんだよね。それが何かは、まだ分からない。


最近見たディズニーアニメは、ゼロックス・プロセスを初導入した『101匹わんちゃん』。ゼロックス・プロセスはマシントレスと同じような意味かと思ったら、ようはコピー&ペースト。101_dalmatians_rough_puppies 一度描いた原画を、同じカットの中にコピーしていく。ちょうど、ウォーホルがキャンベルスープなんかを描いていた頃ですよ。それを考え合わせると、ゼロックス・プロセスの導入自体に、時代の空気を感じる。
ゼロックス・プロセスの欠点は、コピーした原画の線がかすれてしまうことだが、『101匹わんちゃん』はそれを見越したポップな絵柄になっている。背景に実線があったり、わざと平面的な絵づくりにしているのがカッコいい。
これは、別セルに分けるなんて無理だろうから、同じセルに数匹の犬をコピーして、斑点の位置だけ変えて複数に見せてるんだろう。アニメの考え方って、50年前からデジタル的だったんだよね。

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2009年3月29日 (日)

■二本のアニメ■

『鉄腕バーディー DECODE:02』が終った。
『とらドラ!』の最終回にもキスシーンがあったが、『バーディー』のキスシーンとは余りに遠い。後者はオヤジのセンチメント。オヤジ=死に近づいた者だけが受け入れられる、寒々とした救いのない愛撫だった。なんとまあ、綺麗に住み分けたというか、相容れることのない2本のアニメだろう。それを、同じ時代、一度に見られるという奇跡。
もちろん、『バーディー』の最終回については、作画も含めて語るべきところは多い。しかし、作劇によって引き起こされた感動よりも、このアニメが、自ら望んでやってきてしまった地の果て。そこから振り返る『とらドラ!』という沃野。この引き裂かれた二つの大地を、一度に踏破した、という感慨に、今ちょっと呆然としている。

もちろん、二つのアニメはジャンルも違うし、作劇も作画も、根本的に別方向を向いている。それでも、手で描かれた線をトレスし、デジタル化して加工し、週に30分ずつの「劇」として届ける「決まりごと」は、まったく同じなのだ。工程は、まったく同じ。なのに、与えられる感触が、もうまるで別世界。同じフォーマットなのに、片や殺伐たる北の荒野、片や鳥の声が絶えない常夏の島。「絵を動かして劇をつくる」というだけで、こうも違ってしまうのか? その当たり前の衝撃に、ちょっと打ちのめされている。
脚本がどうの、演出がどうの、といった問題のはるか上で、「週30分単位の絵の動き」が人間を泣かせたり笑わせたり、怒らせたりする、このアニメという現象の豊かさに、震えるほど感動している。

『とらドラ!』の感想を読んでいて、「アニメが『恋空』のような受け取られ方をされるようになった」と感じた。『恋空』で描かれた内容はともかく、共感のもたれ方が似ている。それは生ぬるいといえば確かに幼く甘い受けとめられ方ではあるが、テレビアニメという媒体にとっては理想的だと感じた。テレビアニメの次のフェーズ、新しい客層が見えてきたのではないかとさえ、僕は思っている。これは僕の勝手な理想だ。楽観だ。
転じて、「作画崩壊」という陳腐なフレーズで、ようやく注目を集めた『バーディー:02』。物語も破滅的だったが、作品の成り立ち方も、自らを窮地に陥れるかのような悲壮さがあった。その脚本に、ベテランの膨大なテクニックが投入されればされるほど、ファンの望む「今」と乖離していく。最終回にいたって復活した鬼気迫る作画は、徹底的に調和を破壊する。差し伸べた手をはねのける。そこに、厳然たる「意志」を感じる。哀しいほど純粋な理想に貫かれたテロリズム、それが『バーディー:02』だった。もう誰も後を引き継がないだろう。未練であり、感傷であり、救いがない。だからこそ、僕は遠慮会釈なく泣かせてもらった。孤立無援の荒野に残された、忘れ去られた凍てついた道。『バーディー:02』は、その道を選んだのだ。誰も続くものはいないかも知れないが、僕は確かに見届けた。

僕らは知っている。嘘でもいいから、清らかな希望を芽吹かせたものを、年若い人たちは支持するものだし、キスは熱く甘酸っぱい方がいいに決まっている。だが、いまわの際に交わす乾いたキスも、人生には必要だ。それを僕は、感じとれる年齢になっていた。
今さらそんな当たり前のことを、アニメから教えられるとは夢にも思わないまま、冬から春になっていた。アニメを卒業しないで、良かったよ。

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2009年3月27日 (金)

■アニメは『恋空』を手に入れた■

番組改変期になり、深夜アニメが次々と最終回を迎えている。
天邪鬼な僕は、孤軍奮闘した『鉄腕バーディー:02』のラストに期待しているわけだが。

『とらドラ!』最終回は絶賛の嵐で、もう、一言でも悪口を書いたら訴えられそうな勢いだ。だけど、『とらドラ!』最終話を見た後、メールで告白したら恋が実った!←このジョークが、僕には分かるような気がする。現状肯定的な『とらドラ!』のラストを皮肉ったジョークだと思ったんだが……よく見てみたら、まるで『電車男』の再来かのようなマジレスの嵐。ブログの感想を読んでみても「泣いた」「きゅんとした」「恋愛っていいね」、後はキャラへの思い入れが切々と語られている。

こういうリアクション、どっかで見たような……と思ったら、『恋空』だ。新垣結衣主演の『恋空』映画版が公開されたときのターゲット層(10代~20代)の感想とそっくり。「ガッキー、可愛い!」と「くぎゅ、カワユス」は、たぶん同質のものですよ。
もちろん、『恋空』を見ていた層と『とらドラ!』に泣いた層は重ならないし、市場スケールも違うのだが、極めて近い受容のされ方だと思う。これは新しい現象だ。同じラノベ発でありながら『ハルヒ』のような、典型的なオタク向けマーチャンダイジングに落とし込まれてないのも新しい(ゲームは出るけど)。
この現象は、アニメがポピュラー化するためのステッピングボードかも知れない……と、気の早い僕はゾクゾクしている。


アニオタフォースのイベント「アニメの作画を語ろう」のレポートが刺激的だった。
以下引用「でもアニメーターに限らず、映画は10代の内に数見ておくといい。そして10年経ってからまた同じのを見るんだ。色々発見出来るから。」――まったく同感。みんな、何やかや理由をつけて、黒澤明すら見ようとしない。無理やり若い人にDVD貸すと、「で、この映画のどこを見たらいいんですか?」と聞かれるとか。そこまで説明しないとダメか。さらには「古い映画がいいなんて、懐古趣味」とまで言われちゃうので、不勉強な若者は放置するしかないと最近は思う。

かくいう俺も、「どうせ混んでるんでしょ」「ロフトプラスワンだと酒飲んじゃうから」とか言って、トークイベントに行かなかったりするので、もうちょっと行動しないと。とりあえず、藤津亮太さんと東海村原八さんのコレに行ってみようかと思ってる。

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2009年3月25日 (水)

■ピンク・エレファンツ・オン・パレード■

月刊モデルグラフィックス 5月号 本日発売
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●モデラー座談会 「狂四郎」と「モナカ」で振り返るMSV史観 構成
MSV発売当時、すでに高校生だった僕は、『プラモ狂四郎』は基礎教養として後から学んだに過ぎないし、座談会の出席者とはやや温度差があったように思います。
あの頃、市場を支えていたのは小学生だったんだという事実を、40~50代がしっかり受けとめ、咀嚼しないと駄目なんでしょうね。そうすれば、『Zガンダム』の奇々怪々なデザイン群が「正解」だったと認められるのかも知れません(当時から永野護さんが言ってたことですけどね、MG誌で)。


『バンビ』と同じ路線だろうと高をくくって『ダンボ』を見てみたら、その快楽至上主義的な内容に唖然とした。作画の面白みを追求して、ほとんどストーリー不在という思い切りの良さ。とにかく動きの快楽で見せるシーンがつづく。
090323_20050001特に、酒に酔ったダンボがピンクの象の幻覚を見るシーンは、本当にヤバい。ストレートにサイケデリック。『ファンタジア』で「音」を視覚化したのもドラッギーだったが、「ピンク・エレファンツ・オン・パレード」のシーンは、もう確信犯だろう。
ディズニーはコカイン中毒だったと聞いたことがあるが、コカインでこのような幻覚が見られるかは分からない。LSDの幻覚効果の発見は1943年だから、『ダンボ』の方が2年早い。
翌年の『バンビ』は健全なセミリアル動物アニメなのに、『ダンボ』はとにかく、完全にイッてしまっている。公開時は大ヒットだったそうだが、当時の米国民は何を考えていたんだろうか(公開から一ヵ月後、日米開戦)。

ピンクの像が、奇怪な変形をくり返す幻覚シーンも美しいのだが、他にも機関車が生き物のように伸び縮みしたり、人物のシルエットだけで芝居を見せるシーンが延々とつづくなど、とにかくビジュアル的な見どころばかり(動きがバラけたり、揃ったりをくり返すピエロたちの動きにも陶然としてしまう)。
ウェットなふりをして、『ダンボ』は実験精神があってカッコいい。サーカス一座の映画だが、まさに『ダンボ』は視覚的サーカスをやってのけている。
……もともと、「絵が動く」なんて狂気の創造だからね。実写の映画より、よほど危険な表現だと思う。『崖の上のポニョ』が一部から嫌われたのは、あの映画は「狂っている状態が気持ちいい」と全身で訴えてるからですよ。
『ダンボ』と『ポニョ』は、作画の快楽を武器に「向こう側」へ行こうと試みた点で、いい勝負をしていると思う。

人間は「正気」という牢屋につながれているので、創作をしたり表現物に触れるというのは、いわば脱獄みたいなものだ。だから、なるべく冒険的で、危険な方がいい。「危険がいい」というのは、スプラッタ映画がいいという意味ではない。どんな方法でも構わないから、既成概念をブチ壊す作品が好ましい、ということ。なるべく遠い、未知の領域まで連れてってほしい。逆を言うなら、それ以外に「いい創作物」の条件はないとさえ思う。


ポンセさんのブログ『俺のギャラクティカ』で、『ギャラクティカ』のスタッフ&キャストが国連に呼ばれたという驚愕の記事を発見。動画もあるので、どうか圧倒されてください。作品が社会性を持つって、こういうことを言うんだよな……普通、国連で取り上げないだろう、SFドラマなんて。いやはや、あっぱれ。
本日の『ギャラクティカ』は、01時59分から日本テレビ、22時からスーパー!ドラマTVにて。

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2009年3月22日 (日)

■子ブタな仲里依紗が、再びアニメに出演するので嬉しい■

スーパー!ドラマTVの『バトルスター・ギャラクティカ』シーズン3は、今週放映の『大脱出36_03(後編)』で、ひとまず最初のクライマックスを迎える。SFという体裁をとりながら、あまりにノンフィクションな描写・展開に、心の底からしびれる。かつて、『ガンダム』がこんな感じだったんだよね。アニメのくせに、大人の論理で話が進む。ホワイトベースのブリッジが「社会」であって、それぞれの立場のぶつかり合いが、それまでのアニメの理屈を越えていた。今のガンダムは、アニメの約束事の中でしか成立していない。

ファースト・ガンダム的興奮を、今は『ギャラクティカ』で感じられるわけだから、つくづくいい時代に生まれ、いいタイミングに歳をとってると思う。
シーズン3の占領統治下のニュー・カプリカのことをもっと理解したくて、NHK-BSの『世界のドキュメンタリー』を毎日一~二本は見ている。グアンタナモ収容所と亡命イラク人の話が、最も酷だった。
マイケル・ムーアの『シッコ』にも、グアンタナモ収容所が出てきたっけ。地上波放映で『ギャラクティカ』を見ている人、もうすぐ捕虜虐待のエピソードが出てきますよ。


細田守監督の『サマーウォーズ』には、また仲里依紗が出演するのか。しかも38歳のメタボのおばさん役? 子ブタな仲にピッタリSw_04_large じゃないですか。嬉しい。こういう理由でアニメを見て、何が悪い。『時かけ』の頃より、仲のファンは増えてると思うし、非アニメファンも劇場に来るはず。アニメも女優も好きな俺からすれば、歓迎すべき状況だ。
仲って『ストリートファイター』で春麗の声も吹き替えてるんだ。やばい、見ないと。

劇場アニメでは主役級に俳優を持ってくるのが定番化しているけど、アニメファンは、そういうの嫌うんだよね。この理由も、ちょっと知りたい。声優という職業が、やけに神格化されている。いまや声優という職業はタレントの一ジャンルで、アニメーションとは関係の薄い職能になりつつある(というか、もうなってる?)ように見える。
80年代から、声優はレコードを出したりイベントに出演したりはしていたのだが、その部分だけ肥大化してしまったんだろうね。

ここのところ、ディズニーアニメばかり見ていたんだけど、熊倉一雄さんが常連のように吹き替えをやっている。熊倉さんの落ち着いた声が、クラシックな画面の質感とよく馴染む。
『王立宇宙軍』に熊倉さんが出てきた時は(トネス王子役)、すごく嬉しかった。テレビ文化に対する理解と尊敬がこめられたキャスティングだった。何より、贅沢だし粋だよね。そういうセンスも、アニメからは失われてしまった。

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2009年3月19日 (木)

■アニメは、実写映画の嚙ませ犬か?■

『マクロスF』公式同人誌『娘秘(にゃんクレっと) File 1』 TAFにて販売
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●俺のメモを読め! ~葛西励プロデューサーのメモ帳から『マクロスF』制作現場を解析~
今年のTAFでは何も仕事してない、と思ったらコレがあった。サテライト制作の公式同人誌の読み物ページです。『創聖のアクエリオン』公式同人誌でも同じことをやったのですが、葛西プロデューサーのメモ帳をお借りして、あちこちツッコミを入れてます。

アニカン Vol.70  TAFにて配布

●『バスカッシュ!』河森正治ロングインタビュー
河森さんに話を聞けるというので、ひさびさにアニカンの仕事を受けました。『バスカッシュ!』は、『鉄コン筋クリート』なんだけど『アクエリオン』っぽくもあるごった煮路線で、『マクロスF』よりよほど河森カラーが出ていると思います。ビジュアル的にはロマン・トマさんの世界だし、監督は作画の弾んだ作品にばかり関わってきた板垣伸さんなので、とにかく元気のいいフィルムになっています。
船頭が多すぎて不安を感じないでもないんだけど、その不安も込みでエンターテイメントになっているところが、河森さんらしいです。


新聞を見ていたら、シネマ・アンジェリカで上映中の『ルパン三世 1.st TVシリーズ』のトークショーで、佐藤嗣麻子監督が「私の場合は、実写映画にアニメや漫画の技法を取り入れている」と語ったという。ホームページを見てみたら、同様の趣旨のコメントが寄せられていた。
このコメント自体は、謙虚でよろしいんだけど、いい加減に「今の映画は、アニメの影響を受けてる」とか、映画監督自身が「アニメの技法をやってみた」とか言わなくていいよ。映画は映画、アニメはアニメで、それぞれ追求すればいいじゃん。そんな形でアニメを持ち上げてくれなくても結構、と俺は思う。大きなお世話。

フジテレビに取材した時、「『踊る大捜査線』は押井守の影響を受けた、あれはアニメをやろうとしたんだ」と亀山千広プロデューサーがあっさり言い放っていたけど、具体的にどこが押井守なのよ。『パトレイバー』のことを言っているんだとしたら、「警察」ぐらいしか共通点がない。
そのフジテレビが製作したアニメが『ブレイブ ストーリー』。何度か取材したけど、亀山さん、今度は「GONZOは、何しろ『アニマトリックス』を作ったスタジオで……」と発言していた。『アニマトリックス』はスタジオ4℃とマッドハウスでしょ。さすがにその発言は原稿に起こさなかった。その程度の認識しかないんだったら、せめて黙ってて欲しい。(ちゃんとアニメを分かって製作している人たちも、テレビの世界には大勢います。念のため)

自分たちの映画を持ち上げる時に、アニメを引っ張り出さなくてもいいよ。本気で日本のアニメをリスペクトしているなら、『キル・ビル』でタランティーノがやったように、自作の中で「もう好きにやってくれ」とばかりに、存分にアニメーターを暴れさせるよ。
実は、『キル・ビル』より早く、『踊る大捜査線』の本広克行監督が『スペーストラベラーズ』でアニメ・パートをつくり、あまつさえOVAにして発売していた。映画の中でも十分に痛々しかったD110470362が、OVA版はもっと凄いよ(一時期、僕は珍品アニメを集めていたので、VHSを持っていた)。
……古傷をえぐるようなことをして申し訳ないけど、亀山さんや本広監督は一応ヒットメーカーなんだから、あえてわざわざ、分かってもないくせにアニメに触れなくてもいいよ。アニメは通俗娯楽で結構でございます。萌えだ作画崩壊だと仲間同士で深夜に楽しくやってるんだから、ほっといて欲しい。
邦画は邦画で、有能な監督がたくさんいるじゃないか。個性的な映画を撮る人ほど、アニメに媚びたりしないよ。ようするに、自信のない映画人がアニメを嚙ませ犬に使うのはみっともないから、口を慎んだほうがいいですよってことだ。

どうして佐藤嗣麻子監督が『ルパン』についてコメントしなくちゃいけないかと言うと、それは日テレ出資の映画で当てたわけだし、立場的に仕方なかったんでしょうね。
ほっといても雑草のように生い茂っていくのがアニメなんだから、芝刈り機で乗り込んでくるなよ、と邦画好きの僕でさえ思う。

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2009年3月16日 (月)

■何も代表しないものが00年代を代表する■

グレートメカニックDX8 本日発売
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●グレイス・パーク グラビア
●「ギャラクティカNOW Vol.4」

まずは何といっても、コレでしょう。カラーグラビアには、世界初の「ギャラクティカ・ポエム」を書きましたからね。そのポエム付きのグレイス・パークのグラビアがカラー4ページ。そして、インタビュー記事がモノクロで4ページ。それに加えてシーズン3の特集が3ページ。『ギャラクティカ』だけで計11ページある(笑)。

●グレメカ人生波止場 第二回 赤根和樹
前回の荒牧伸志さん、板野一郎さんに続いて、今回は『鉄腕バーディー』プッシュの意味も込めて赤根和樹さんにご登場願いました。サンライズでの下積み時代からサテライト三部作、そして『バーディー』までの流れをじっくり聞いてきました。

●オヤヂ酒場
藤津亮太さんと昼間のカラオケボックスでの雑談。このコーナーも連載4年目に入りました。お題は、最終回の近い『ヴァイパーズ・クリード』と『RIDEBACK』。

●ホビー大作戦
ひさびさにプラモ作りました。『マクロス』プラモ特集とのことなので、何の迷いもなくバルキリーⅡを選択。なぜか『マクロスⅡ』とはご縁があるので。


しつこく、『鉄腕バーディー:02』第7話の話題。藤津亮太さんのブログ、藤津亮太のただいま徐行運転中で、「いまさらながら「DECODE02」第7話の件で恐縮です。」というタイトルの記事がUPされています。もうあちこちで取り上げられていますね。第7話に関しては、僕なんかより格上のオーソリティーの発言を待っていたのですが、さすがに長期的なものの見方をしているな、と感心させられます。
もし第7話に「結論」があるとしても、それは何年か後で発見できればいいんじゃないの、と僕は思います。かなりあちこちのブログを見て回ってみたのですが、知っている言葉で早急に片づけようとしている人が多いような印象を受けました。「知らないから、これから調べてみよう」という探求の旅に出る人は見かけなかったような……「批判している奴らはアニメーターの仕事を知らないようだから、この神作画MADを見よ」という「肯定派」も結論を急ぎすぎているし、「アニメーターが悪いのか、それを許した監督が悪いのか」レベルの犯人探しと変らない気がしました。

未知のものに出くわした時、それを理解するための材料は、おそらく、うんと遠いところにある。時間がかかってもいいから、そこへ辿りつこうという人は、今は少ないのかな。
とりあえず、僕は藤津さんのブログに書かれていた映画『ミュンヘン』を見ます。


あと、ちょっと前の記事だけど、カゼタカ2ブログchの「とうとう00年代を代表するアニメが出なかった件」が、面白かった。何が面白いって、スレッドの最後に「つーか分散化しすぎているからこの先昔ヒットしたような流れにはならないんじゃね?」と答えが書いてあるところ。映像そのものを売り続けなければならないビジネスになった時、ジャンルが細分化するのは、もう宿命づけられていたような気がする。隣の人が、どんなアニメを見ているか、無関心になって当然だと思う。
俺としては『空の境界』を最も00年代的なアニメとして挙げておきたい。あれは、「知らない人は見なくても結構」というスタイルで貫かれているから。「出来るだけ大勢の人に見てほしい」という大原則に背を向けて、「無関心」というバッファを送り手自ら意識しているのは凄い。豪胆だよね。俺たちが「興味ねーや」と切り捨てているフィールドに、やけに熱い客が存在している。客サイドから見れば、俺たちこそが「無関心」の中にいるわけで、両者の接点なんか最初から想定してない。
「隣の客が何を見てようが、関係ないじゃないか。君がこの作品を見ていることが世界で一番大事だよ」という作り方、見せ方を貫いているのが『空の境界』。

ようするに、何も代表しないものが00年代を代表するんだろうね。それは、ある時代を「代表する」という概念そのものが、世の中から求められなくなったからだろう。
『もののけ姫』の時は老若男女、分からないなりに話が成立したと思うんだけど、『崖の上のポニョ』は果たして世代を越えて共有できるものなのか? ネットの影響もでかいと思うんだけど、確実に僕らは何かを失ったね。その分、巨大な何かを得ているはずなんだけど、それが何であるかは、まだ分からない。

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2009年3月13日 (金)

■セルの埃は、表現である■

EX大衆 4月号 明日発売
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●愛ドルのリコーダー 妄想ポエム館
先月につづき、グラビアポエムはこの一本のみ。もう、ポエムを集めたブログも閉鎖したし、グラビア詩人としてはそろそろ終了……というタイミングで、意外な本に書きました。それはまた、近々。


相変わらず、ナイン・オールドメン健在の頃のディズニーを追っている。『ダンボ』が店になかったので、『ピノキオ』と『バンビ』。意外にも、人間がまったく登場しない『バンビ』の、骨Untitled格までなめつくすような鹿の動きにウットリさせられた。
冒頭のマルチプレーンで撮った森に、もうノックアウトされる。もの凄く、質感がSFXっぽい。それは、BOOKとBOOKの間に物理的に生じる、何層もの空気を撮影しているからだと思う(AfterEffectsで「撮影」する今のアニメでは原理的に空気を撮ることは出来ない)。
空気っていうのは、体積をもった空間だから、マルチプレーンでピントを送っていると、浮遊しているゴミにピントが合っちゃったりもするかも知れない。
実際、除去し切れなかったホコリが、セルと一緒にすーっと動いていくんだけど、それすら表現に見える。つまり、セル撮の頃のアニメには、制作者の意図しない「偶発性」の入り込む余地があったわけだ。

『ブレードランナー ファイナル・カット』鑑賞時にも書いたが、二番館に落ちてくるフィルムは、痛んだ部分を映画館で切って流すことが当然のようにあった。カットが丸々ひとつ欠落していたりして、その「バージョン」のフィルムに、別の映画館で再会すると、妙に嬉しかった(同じフィルムが、あちこちの映画館へ運ばれて上映されていたため)。下手をすると、フィルムの傷の位置や音の飛ぶ箇所まで覚えてしまう。
そういうノイズを排除してくいと、体験の濃度というか、「階層」が薄くなる。デジタル・リマスターが最高とは、僕には思えない。古臭い映画館の便所の匂いを忘れたとき、僕という鑑賞者の性能は明らかに「劣化」する。宙に漂うホコリを、感じていたい。なので、「最新のものが最高」という感性など持ちたくもない。
こうやって「昔は良かった」と言いつづけるのは、オッサンの義務。新世代に駆逐されるのが、オッサンの美徳。前のめりな好奇心と後ろ向きの嘆きとを、僕らは常に両方持っているべきだと思う。

デジタル・データのみでつくられた偶発性のないものばかり見ていると、作品に対峙したときの耐性が落ちるんじゃないだろうか、とも思う。予想不可能なことが起きたとき、処理しきれなくなるというか。トラブルを受け止めるための「いい加減な空き地」を、自分の脳に確保しておく必要がある。


『バトルスター・ギャラクティカ』シーズン3は第二話まで放映。
Tighs3レジスタンスを率いるタイ大佐が、自爆テロをためらう部下に言う。
「俺たちが誰の味方か、だって? 俺たちは楽園を破壊する。行く先々を壊滅させるため、死の勢力から送り込まれたんだよ……知らなかったのか?」
悪役がこういうセリフを吐くのは普通だが、タイ大佐は味方を敵の支配から解放するために戦っている。それだから、彼の言葉は切実だ。
『ギャラクティカ』の影響で、ナチ支配下のオランダを舞台にした『ブラックブック』を鑑賞。まだ、エンターテイメントすぎる。見るのが酷な映画を探している。

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2009年3月10日 (火)

■それでもテレビアニメは成立する■

アニメージュ 4月号 発売中
Am_200904
●「作画は、冒険する」
『鉄腕バーディー DECODE:02』第7話Bパートについての取材記事。原画や、担当アニメーター各氏のコメント、対談を見開き2ページにぎっしり掲載しています。
ちょっと物足りないので、来月発売の「アニメージュオリジナル」でも延長戦をやる予定ですが、まずはこの2ページで趣旨は一貫しているはずです。

あの第7話に関しては、「有意義」であった、と僕は思います。
つい先日も、あるアニメについて「作画崩壊している、ダメだこりゃ」という感想をブログで目にしました。「顔が違う。すごく気になる」という記述も見かけます。いつの間にアニメって、こんなに窮屈になってしまったのか、と慄然とするのです。
ちょっと前のエントリで書いたように、週刊ペースであるがゆえに予測不可能な事態が起きる、それがテレビアニメの醍醐味だったはずです。「作画崩壊」というと、僕らのようなオヤジ世代は初代『マクロス』のスタープロの担当回などを引き合いに出すのですが、あれを笑って許せるぐらい、昔はおおらかでした。スタープロの回は明らかにアクシデントだったわけですが、逆に「それでもテレビアニメは成立する」という開き直りでもあったわけです。
テレビアニメって、すごく図太い表現だったんですよ。

これは飽くまで僕の見解ですが、あの第7話は「敢えてアクシデントを起こした」のです。なぜか。今のテレビアニメが、均質化しすぎ、エネルギーを失っているからに他なりません。
僕に言わせれば、第7話は心臓マッサージです。とにかく「生きろ、蘇れ」と。もう、手足を失ってもいい。どんな傷跡が残ろうが、スライドと漫符だけで「動かしました」なんて手抜きアニメよりはマシだろう。大火傷を負ってもいいから、かつてアニメが持っていた図太い生命力を取り返せ! そんな制作者の叫びが聞こえたような気がしましたね。
だから、野次馬を巻き込んで騒ぎが発生したのは、ようはテレビアニメ界隈が活性化したとも言えるわけで、僕なんかは「半年に一度は、こういうアクシデントを仕掛けてくれないものか」と期待してしまいます。

一方、「とにかく俺が不愉快になったんだからダメ」「俺が作画崩壊と思うんだから、作画崩壊」という人もいます。こうした「お客様」が生まれたのは、メーカーが「DVDを売らなければ、このアニメは失敗」というビジネス構造をつくったことと関係しているのではないでしょうか。
DVDで回収するというモデルのため、視聴者が「お客様」に変貌してしまった。「おい、こっちは客だぞ!」「DVD、買ってやらねーぞ!」と言える権利を、メーカーが番組を見ていない人にまで与えてしまった。
今回の作画崩壊騒ぎを、「カツ丼を頼んだのに天丼が出てきた」と例えた人がいました。でも、テレビアニメって見るだけだったらタダですからねえ……「お客様」はまったくリスクをしょっていないわけですよ。その癖、ちょっとでも不愉快なことがあると、クレームだけはつけてくる。でも、リスクをしょってないから、当事者意識は希薄なわけです。
なんだか、テレビアニメって窮屈なメディアになっちゃったね……と僕は思います。

80年代のテレビアニメって、作画がボロボロなだけでなく、昼間からセックスシーンを流したり、もうクレーム覚悟のやりたい放題で、そこから破天荒なエネルギーがほとばしり出ていた。間違いなく、世界で一番自由な表現だった。それをみんなで、よってたかってつまんなくしてないか、それが何より気がかりです。

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2009年3月 8日 (日)

■時祭、ニュー・カプリカ■

3月15日開催のHARU COMIC CITY 14にて、『メガゾーン23』トリビュート・マガジン『フェスティバル・タイムズ』が再販されます(東3ホール 【ゲ-5b】)。
530626056_195プロのイラストレーターが、実名・仮名で参加しているのも贅沢なんですが、何より石黒昇監督のインタビュー。これは、商業誌だったら「カットしてください」と問答無用で切られるところまで話してらっしゃるので(もちろん、監督ご本人のチェック済み)、ぜひ読んでいただきたい。
いま読み返してみたけど、業界に対する苦言が容赦ない。静かな怒りのようなものさえ感じる。


『ギャラクティカ』シーズン3の第一話『ニュー・カプリカ』を、4回ほど繰り返し見た。
286944115_a93f50a627すっかり乗員の少なくなったギャラクティカの艦内を、アダマ艦長が一人で歩いている。整備デッキに、機械の部品が落ちている。艦長は無言でそれを拾い、もとの場所に戻す。省電力のためだろうか、蛍光灯の消えた暗い廊下を歩く。小さなペンライトで手元の書類を照らしながら、黙々と歩く――。この数カットだけで、ギャラクティカの人力が低下していることが分かる。そして、艦長ともあろう身分で、部下が床に落としたままの部品を拾う。暗い廊下でも文句ひとつ言わず、自分の仕事をこなしていく。
たったこれだけで、アダマ艦長がどういう人間なのか伝わってくる。悪化した現状に耐え、自分に出来ることは余すところなく遂行する。背筋を正したくなるような演出だ。

先日から、偉そうに「ギャラクティカ/シーズン3はイラク戦争」と書きたててきたが、他の方のブログを拝見すると、イラク戦争というより、古今東西の「占領」の歴史を意識してシナリオが書かれたとのこと。恥ずかしくなって、「ヴィシー政権」「ヨルダン川西岸地区」などを検索し、それらに関する映画や文献はないか、探している。
ついうっかり、手近なところに答えを見つけようとしてしまう。いい/悪いの判断を下す時でさえ、自分の蓄えた知識や経験が後押ししているはずなのに、当事者意識が薄い。あら探しが大好きで、他人の失敗にはひどく敏感――ネットで見かける悪癖に、気がつくと自分もおかされている場合がある。気をつけよう。


DVDやケーブルで見た映画は、井上春生監督『音符と昆布』など数本。邦画はしばらく休んで、今は身になる洋画を見たい。

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2009年3月 5日 (木)

■ファンの目を意識した瞬間に堕落がはじまる■

『バトルスター・ギャラクティカ』シーズン3、めでたく放映スタート。DVDの発売も決まっているし、どこの誰が仕掛けてくれたのかはわかりませんが、本当にこんな凄い、そして難しいドラマをまったく文句の出ない形で展開させてくれて、心から「ありがとう」と言いたい。
地上波の『GALACTICA/ギャラクティカ』も順調に放映中……なのはいいんだけど、ちゃんとエンディングまで見ていたら、また主題歌歌手が登場し、今度はグレイス・パークにインタビュー。意図が分かりません。CDを売りたいのは分かったから……というか、それが分かったらタイアップじゃねーよ。それとなく「いいなあ、CD買っちゃおうかな」と思わせるのがタイアップでしょ。関係者には申し訳ないけど、今回の主題歌は『ギャラクティカ』とは乖離しすぎです。
僕もタイアップ記事は書くけど、基本的に好きな作品の記事だから、作品尊重が第一です。こういうことは、現場にかかわっている人間が心がけていないとダメ。「しょせん、コンテンツ業界なんて、そんなもんだよね」と最初からあきらめてる業界人が多すぎ。

さて、怒りを抑えるために『ガンダムの常識』でもめくってみますか……今年30年を迎えたファースト・ガンダムだが、最近、このデザインが洗いざらしのシャツのように見える。
090305_0127000130年前のデザインが、いまだ現役で売れつづけているのはファンが保守的だからか? あるいは、『スター・ウォーズ』のミレニアム・ファルコン号の新製品トイがいまだに出るのはどういうことだろう? 単なる懐古趣味ですませられる事態だろうか。
どちらも70年代末に誕生したデザインだが、この頃はマーチャン・ダイジングのノウハウが貧弱だった。だから、作品力に頼って生きのびてきたのだと思う。ファースト・ガンダムなんて、実際の画面を見たら作画崩壊(笑)してるけど、とにかくお話に説得力があった。その後の作品は「……で、今度のガンダムはどんな形?」と話し合っているプロデューサーたちの顔が見えちゃう。富野監督の言葉を借りると(ファミリー劇場「月刊アニメージュTV」より)、「ガンダムと名前がつけば、半年なり一年なりのお仕事になってくれる」のが丸分かり。
コピーにコピーを重ねていたら、そりゃオリジナルには勝てないよね……と、ガンダムVer.2.0のプラモデルを組み立てながら思う。「昔のアニメって、あんなに面白かったのに」と、まっとうな勤め人になった友達が、よく嘆いている。そりゃあ、昔は「今期のDVD商戦を乗り切りましょう」なんてビジネスモデルじゃなかったからさ……。グレメカDXの板野一郎さんのインタビューにあるように、「ハイジは、牛乳よりカルピスの方がおいしいよとは言わなかった」。一社提供なのに、昔は潔いスポンサーもいたのだ。
「お仕事」してない、いい宣伝担当と組めば、タイアップ記事でも、すごく良いものになるよ。

今年はじめに『ピーターパン』を見て以来、折に触れてディズニー作品を見るようにしている。『白雪姫』の直後に『シンデレラ』を見たら、あまりに俗っぽい作風なのでピックリした。11113view001 『白雪姫』が1937年、『シンデレラ』が1950年の公開。実に13年もの隔たりがある。『ガンダム』に換算すると、ファースト・ガンダムの直後に『Vガンダム』を見たことになる……ちょっと、対比としては微妙か。
『白雪姫』の動きは優雅なんだけど、荒々しい原初的なエネルギーを感じる。でも、スタジオを維持しようとすれば、儲かる作品をつくらないといけない。『シンデレラ』の9年後に公開された『眠れる森の美女』はティンカー・ベルに命を吹き込んだマーク・デイヴィスの腕が冴え渡り、芸術性の高い作品なのだが、興行的には振るわなかったという。にぎやかしの動物キャラがいなかったせいかも知れない。

多分、ファンの目を意識した瞬間に堕落がはじまるんだ(って、これも「アニメージュTV」で富野監督が言ってたことに近い)。やっぱり、どこかで商魂を捨てないとあかん。

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2009年3月 3日 (火)

■Fight'em until we can't.■

前回、あれだけ騒がれたので、誰もが『鉄腕バーディー DECODE:02』の作画にはナーバスになってると思う(そうじゃなかったら、何のために騒いだんだか)。第8話は日常話だし、カット割からして動かさないようなコンテになっているのは分かる。だけど、いくらなんでも動かなすぎじゃないか、と思ったり(止め絵でカメラだけ動かすのは枚数を使わない基本だと思うけど、この作品でやられると、えらいマイナス効果に見えちゃうんだよね)。
僕は単純に、第7話のようなカッとんだ回が入ると、「面白いじゃないか」と乗り出してしまう。どこか過剰なところがある作品の方が、僕は愛せる。今回の「作画崩壊」騒ぎは、騒ぐために騒ぐというか、制作側を罵倒したいだけの悪意が散見されて、それが非常に残念だった(建設的な批判も、いくつかは見かけられたけど)。

テレビアニメって、もともとB級娯楽だったんだよね。ちょっとヤンチャが過ぎてしまって、それを発見する視聴者がいて――宮崎駿演出の『さらば愛しきルパンよ』なんて、まさにヤンチャだった。おいおい、今までの『ルパン』と違いすぎるって、世界観も絵も(笑)。だから、「あんなの、『ルパン』じゃないよ。好き勝手やりすぎ」「でも、凄いよね」って評価のされ方だった。宮さんの演出回だけシリーズの統一感を無視してるから。でも、そういうハプニングが起きるから、毎週、僕らはテレビの前に座っていたはずなんだよ。
『ダイターン3』の最終回も、絵は荒々しいし、話も難解。ラストの「僕は、イヤだ」って何やねん、いまだに意味わかんねーよ!と。ところが、嫌でも印象に残るんだよね。毎週30分、何が起きるか分からなかった。やり逃げだし思いつきだし苦しまぎれなんだけど、だからこそ、テレビアニメは強靭な体力をつけていったんだと思う。
でも、気がついたら、もはやハプニングは歓迎されなくなっていた。
もう10年ちょっと前のことだけど、初めて知り合ったアニメ業界の方が「テレビは、さまざまな猥雑な要素をそぎ落として、今日のような形になったんです」と言っていたのを思い出した。その猥雑と混沌こそが、テレビアニメの力だったのだろう。

閑話休題。
なんと明日4日(水曜)は、午前01時59分からシーズン1(日本テレビ)が、午後22時00分からシーズン3(スーパー!ドラマTV)が放映されるという『ギャラクティカ』な一日。
シーズン2は、スターバックの「Fight'em until we can't(最後まで戦う)」という決めゼリフで幕を閉じたが、本当にこのドラマは名言が多い。日本テレビでシーズン1を見直していたら、バルター博士が「僕は誰の味方でもない」「神は一切、関係ない」とニヒリストぶりを発揮していて、これはこれで魅力的。愚かな人間を、単に愚かなまま放り出してない。このドラマって本当に大人だと思う。そこいらの映画が束になっても、かなわないだろう。
下は、『ギャラクティカ』シーズン3の海外版トレーラーです。


もう、旧『宇宙空母ギャラクティカ』の印象は、影も形もない(笑)。今回は、イラク戦争を裏側から描いているからなあ。こういうドラマを見ると、俺は「イラク戦争のことなんか、何も知らなかった」と調べる気になるんだけど、他の人が同じ行動をとるとは限らない。「暗くて、つまらんドラマ」という人もいる。
肝心なのは、価値観の違う相手をどう叩き潰すかではなくて、どう付き合っていくか、なんだよなあ……。

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