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2009年2月27日 (金)

■『ハルフウェイ』と僕■

新宿バルト9にて、『ハルフウェイ』鑑賞。平日昼間だというのに、満席に近い入り。
090224_14560001北乃きいは、仕事以外で会ったことのある(って、事務所でお話した程度だけど)唯一の女優。今回は、ほとんどアドリブという条件の下、人生観も浅ければ感情もさだまらない、自分の恋愛に翻弄される女子高生を生身で演じている。「生身」っていうのは、もう素をさらしているってことだ。相手役の岡田将生は、アドリブによって逆に芯の強さみたいなものが出たんじゃないかな。
ブタ可愛い仲里依紗は、北乃きいの友人役。ますますコロコロして、相変わらずブーたれた演技が似合っていて、大好きだ。

で、映画はというと。
大学受験を控えた北乃きいと岡田将生が、いきなり相思相愛になって、イチャついたりケンカしたりを、えんえんとくり返してくれる。もう、一秒一秒が愛おしくて、まばたきするのも惜しいぐらい。ストーリーなんてないですよ、オチだってないんだから。
だから、ネタバレもへったくれもないよ。セリフ(というか、演技の中にセリフが流れてる感じ。あるいは、セリフが芝居を牽引するような)が、どれも素晴らしかったので、ここでセリフを書いたら、それがネタバレだ。みんな、ラストシーンのことを「ネタバレ」と呼んでるようだけど、映画の「ネタ」なんて、映画によって違うと思うんだが。

人によっては、ムカつく映画だと思う。いわゆるリア充たちが恋愛衝動に突き動かされて、群れるだけの映画だから。僕に関していうと、そういう軟弱なフィクションを愛する自分をありありと発見できたし、もうひとつ、「論理」とか「理屈」が、いかに僕とは無縁であるかを確認できた。登場人物の行動を促すキーは、確かに要所要所に配してあるけど、基本的に出たとこ勝負。僕の文章に似ている。モチベーションは確かにあるのに、どんどん支離滅裂になっていく。そして、投げっぱなしの何が悪い、と最後には開き直る。本当に、僕とよく似ている。
映画を、自分の外部に置き、「客観的」だと思っている人は、自分の内部に映画が流れ込んでくるのが怖いんじゃないだろうか。五段階評価で点数をつけるような人も、どんな映画とも等距離に接して、自分が品質管理委員になった気分でいるだけで、よもや映画によって自分が変えられることになろうとは、夢にも思っちゃいないんだ。
あまりにも自分を疑うことを知らない人、多数決を自分の価値基準にすりかえて平然としている人が多いことに、心から呆然とする。「疑いつづけるという態度と、好奇心を持ち続けるということは、おそらくほとんど同じことだ。」
少なくとも、自分を高めよう、ちょっとでもマシな人間になろうという向上心を失ったら、作品を見る・語る資格はない。そして、「自分」なんてものは、あっさり変質しうるし、変質して当然なんだ。

20代の頃の話だが、女友達が長年つけていた日記をすべて焼き捨ててしまった。「なんかあったの?」と聞くと、「人生が点ではなく、線になってしまうから」。この感覚。10年後の人生設計よりも、10秒間の胸の痛みが大事。この広大無辺な宇宙の中で、まばたきするような一刹那が大事だなんて、何という軟弱! でも、そんな「瞬間」からしか世界を愛することの出来ない人たち、『ハルフウェイ』は間違いなく、あなたの一部ですよ。

さて、今年は『ギャラクティカ』的には忙しい年でありまして、待望の『バトルスター・ギャラクティOtighカ/シーズン3』はスーパー!ドラマTVにて来週水曜(3月4日)22時よりスタート。緊張の高まるニュー・カプリカの情勢やいかに?
日本テレビの『GALACTICA/ギャラクティカ』では、主題歌のKenのコメントが流れてたけど、ちゃんと番組の魅力を語っていたので、すっかり見直した(収録場所は、グレイス・パークの取材と同じホテルだったので、イベント前に収録したっぽい。だったら、イベントでもしっかり語って欲しかったところ)。
ともあれ、次週からは、ちゃんと主題歌も聴こう! ……うまく丸めこまれたような気がしないでもないが、まあ、騙されてやろうじゃないか。

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2009年2月25日 (水)

■吉高由里子が、俺に無断で声優デビューしていた■

CGも使う人次第だなあ、と実感させられるCM。

普段、テレビを見ないので、こういう情報を友人から得られるのはありがたい。
『ガンダム』で似たようなことをやって、作品的には非常に残念なことになっているので、特に思い入れのない『ヤマト』が無駄にカッコよく見える。

昨日は映画『ハルフウェイ』を観てきたのだが、何となくアニメな気分を引きずっているので、アニメの話を。
『ミチコとハッチン』は、放映前から資料をいただいていたのだが、「ちょっと俺の手には負えません」と、音楽に詳しいライターに取材をお任せした経緯がある。なので、BSフジで放映が始まってから、ゆるゆると気楽に見ているのだが、やっぱり声優がいい。
大後寿々花は、いかにも子役っぽい口調なのでイマイチだが、真木よう子の投げやりな話し方はイヤでも耳に残る。坂井真紀もまあまあではないだろうか……と思いながら第13話を見ていたら、女子高生みたいな話し方をするキャラが出てきた。エンドクレジットを見たら、何だと、吉高由里子だと!?
090224_04540001あのバカ、いつの間に声優デビューを……と思いながら、もう一度、頭から見返す。でも、吉高だと思って耳をそばだてると、残念、面白くないんだよね。声をつくりすぎ。だけど、「ああ、いつもの吉高ボイスだ」と分かってしまうようでは、作品から浮いてしまっているわけで、それも失敗なんだよね。難しい。
『ミチコとハッチン』はターゲットの分かりづらい作品だが、記号でつくってないところに好感を持っている。これをSF的な世界観で固めて、人気声優だけでキャスティングしたら、もうちょっとターゲットが絞り込まれたと思うんだが、そんな予定調和は面白くない。
『スカイ・クロラ』の時、押井守監督にインタビューしたら「今の女の子の声優の声は、三種類しかない」と言っていた。誌面の都合でカットしたが、確か「元気で可愛いノーマル系、ちょっと冷たい系、かよわい系」、この三つじゃなかったかな。それで、テレビでおなじみの声優には無理だから、菊地凜子を選んだのだという。あれは棒読みなんじゃなくて、そういう演技をさせているだけなんだよ。逆に、アニメに慣れた声優に棒読み演技をさせたら、映画の質感がバラバラになったと思う。
他愛のない裏話だが、『イノセンス』の時、鈴木敏夫プロデューサーは、バトーの声をタレントに演じさせようとした。「いや、大塚明夫でなければダメだ」と反対したのは、押井守だったという。同じ監督でも、作品によって既存の声優がいいと言ったり、無理だと言ったりするわけだ。でも、実際に演技指導するのが音響監督だったりするから、アニメはややこしい。

演技というのは、人間ができる最も原始的な表現なのだから、多種多様な使い方をしていい。受け狙いで引っ張ってきたタレントが、思わぬ好演を見せてくれることもある。
『ミチコとハッチン』に吉高由里子が出てくれたのは嬉しいけど、正直、あんまり面白いキャラではなかった。彼女の演技としては、普段やらないような高度な技術を駆使しているはず。でも、それに見合った効果が出ていたかどうかは別問題。芸の道は厳しい。
映画『ハルフウェイ』には仲里依紗も出ていたけど、『時かけ』では「タレント声優つかうな」とは誰も言わなかったんだよね。仲が無名だったせいだろうか。

今夜の日本テレビ『ギャラクティカ』は午前01時59分より。このドラマの吹き替えは、本当に文句のつけようがない。

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2009年2月22日 (日)

■アニメを見ている人たちの尺度がアニメしかない■

「フィギュア王」編集部から、『ギャラクティカ』の記事に使ったパイパーMk-Ⅶが戻ってきた。
090222_02530001先日は主題歌を担当するミュージシャンを悪しざまに書いたが、同様のツッコミを入れているニュースサイトがあった。本来なら、『ギャラクティカ』本編と主題歌、相乗効果で両方売れてほしい。ところが今は、至るところで「売れてくれれば何でもいい」というみみっちい商魂ばかりが目について、非常に切なくなる。
こういうご時勢なのだから、助け合ってやっていくべきなのに。

『鉄腕バーディー DECODE:02』の第七話が作画崩壊と騒がれたことについて。
僕は放映前から、特に第七話に関して取材をしていたので、いずれアニメ誌に掲載されるはずの記事を読んで欲しいのだけど……ネットでの反応を見ていて、「作画崩壊」という僕らが若い頃にはなかった言葉の意味が、ようやくつかめたような気がする。
「にゅーあきば.こむ」の記事で見つけた、「動きはかなりよいのだが、作画がかなり端折ったものになっており」という一文……これ、意味わかる人いる? 動きがかなりよいのなら、作画は端折ってないんじゃないの?と僕は思ってしまうんだが、それはハズレ。ここで言っている「作画」を「キャラ表に似せる作業」「絵柄を統一する作業」と置き換えてみよう。そうすると、「作画崩壊」という謎の言葉の意味が分かってこないだろうか。
前にも書いたことだけど、現場で誰が何をしているのか、視聴者に伝わっていない。キャプチャ画像だけ拾ってきて「ひでえ手抜き」と言ったり、今まで『バーディー』を見てなかったのに、今回だけ、かさにかかって攻撃している人たちもいる。しかし、僕は彼らを責めようとは思わない。ここで現場を取材できる立場の人間が「君たち、分かってないね」と上からモノを言ってしまったら、ますますミゾが深まるだけだから。
また、アニメーターの名前を知らないと作画やアニメについて語れない、という状況を健全だとも思えない。

これも前に書いたことの繰り返しだけど、アニメを見ている人たちの尺度がアニメしかない、これが最大の問題ではないだろうか。映像だとか作品だとかいう大局的なレベルで見れば、これまで色々な試みがなされてきたし、それこそ「作品崩壊」は至るところで生じてきた。
例えば、『王様の映画』は、映画監督を主人公にしたアルゼンチンの映画だ。物語の後半、エキストラさえ集められなくなった主人公は、「ここは幻想シーンということにしよう」と苦肉のアイデアを出し、カカシに衣装を着せて火をつけたりする。アニメで言えば、優秀なアニメーターが次々に抜けて、ついには監督一人で原画を描きだすような感じだ。
あるいは、タイトルは失念したが、百姓一揆のシーンをスタッフ総出(10人ぐらい)で撮りきった低予算映画もあった。明らかに映像としてはショボイ。だけど、CGでは出せない捨て身の迫力が、そこにはあった。
予測不可能な出来事を歓迎するか、排除するか。「作画崩壊」なら「作画崩壊」でいいから、その先に何があるのか、誰かが踏み込まねばならない。そこをスルーしてしまったら、ライターなんて職業はいらない。下世話なぐらいの好奇心が必要なのだ。

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2009年2月19日 (木)

■素敵な曲がつくれちゃった?■

忙しい上に風邪までひいてるのに、こんなこと書かせないでちょうだいって気分だ。
『ギャラクティカ』地上波放映から一ヶ月たったので、ブログの反応はどうかと検索してみたところ、主題歌目当ての女性ファンしか書いてない。それでも本編を見てくれてればいいかな、と思っていたが、俺とは逆に「本編を飛ばして主題歌(PV)だけ見る」習慣のようだ。
彼女たちが証明してくれていることは、たったひとつ。『ギャラクティカ』本編と主題歌が、いかに乖離しているか、である。

僕は仕事と趣味のため、一週間に何本ものアニメを見ているが、「この内容に、この主題歌はないだろう」「明らかに本編を見ないでつくった歌だよな」と苦笑させられることが多い。アニメ・ビジネスの中で「音楽」のボリュームが肥大化してしまったので、それもやむなしと了解している。
結果、どんな番組にもそこそこマッチする「互換性のある歌」が激増した。ようするに、「独立した曲なんだけど、実は番組の主題歌でもある」という、一体どこの誰に向けたのかサッパリ分からない歌が毎週、自動的に流されるようになっているのだ。
テレビドラマは見ないので事態はよく分からないが、アニメと同様、昔からその傾向はあった。売りたいから、とりあえず主演女優に歌わせとけ、とか。レコード会社も金出すから、とにかく流してくれ、とか。
まあ、テレビ番組の主題歌なんてのはそういう大雑把なもんなんだから、適当に聞いたり聞かなかったりで良かったはずなのだ。

『ギャラクティカ』の主題歌に関しても、地上波放映ともなればいろいろあるんだろうな……程度に思っていた。曲にも、そう悪い印象は抱いていなかった。1月19日にグレイス・パークの来日イベントがあるまでは。
主題歌アーチストをイベントに呼ぶのは、タイアップと考えれば納得できる。ところが、司会が「どんな思いでつくった曲ですか?」と質問したら、「正直、何も思ってません」ですよ。「俺、素敵な曲、まだつくれっかな?と思ってつくった曲です」。「そしたら、素敵な曲がつくれちゃった?」と司会が話をあわせると、「まあ、僕的には」。
……いま、取材テープを聞き返しても神経を逆なでされる。あなたの曲は、大人の事情でたまたま深夜ドラマで流してもらっているに過ぎない。別のドラマでも構わなかったんだ。他の曲でも代替可能なんだ。その脆弱な立場ぐらい自覚して発言しろ、みっともない。

というかね、先日放映された日本テレビの『ギャラクティカ』を見れば分かるよ。「民意を反映した政治」を求めて、テロリストが暴動を起こす。「テロリストとは交渉できん」と切り返す軍指令と大統領。しかし、現場にいた士官はテロリストの条件をのむ。「彼の言うことは筋が通っている。法を守らないかぎり、軍指令も大統領もその座を奪われて当然だ」と。
軍指令も大統領も、戦争のドサクサでその立場についたに過ぎないよ、というわけだ。まして地上波放送のドサクサで後付された主題歌……そんなに威張れるものなのか?
広く社会へ開かれたドラマ『ギャラクティカ』に、「僕」と少数のファンのためだけにつくられたマスターベーション的主題歌。滑稽なぐらい、正反対を向いている。

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2009年2月16日 (月)

■チェリーパイ、レジスタンス■

EX大衆 3月号 発売中
Ex_09_3
●『AKIRA』覚醒、再び!
●愛ドルのリコーダー 田中涼子

今月のグラビアポエムは、一本だけです。ブルーレイの発売に合わせた『AKIRA』の記事は、鉄人28号やLSDとの関連など、豆知識のパートを書きました。大友克洋は間違いなくLSDを体験して『AKIRA』を書いたと思うんだけど、どこかでカミングアウトしてないのかな。

深夜に、録画してあった映画『チェリーパイ』を見はじめたら、これが良くできた映画で、朝まで見てしまう。原案・監督は失笑必至の怪作『東京の嘘』を撮った井上春生。同じ監督とは思えないほど、『チェリーパイ』は知的で上品、洗練された仕上がり。
090214_05080001新米パティシエの北川景子が、えんえんとチェリーパイづくりに悩む。彼女にパイづくりを教えた先輩、店に訪れる友達らが、北川と絶妙な絡みを見せる。洋菓子店の店長役の白井晃も、おそろしくキレのある芝居。
女優的に掘り出し物だったのは、お世辞にも美人とは言いがたい江口のりこ。恋多き美大生という設定で、なぜか江口の珍妙な恋愛話だけが、メインストーリーとは関係なく進行していく。特に、江口が「恋愛とストローク」の関係について語るシーンはセリフのテンポ感といい、ひとつの見せ場になっている。「お前の、その飛躍についていけねぇんだよ」「お前って、男にとってどうしたらいいのか分からない生き物なんだよ」と、会う男みんなからさんざんな言われようをされるのも楽しい。どんなチョイ役でも、みんなぎっしり「人間が詰まってる」感じがする。「人間味がある」ってのは、別にお涙頂戴をやればいいってわけじゃないのだ。フッともらした一言、ちょっとした表情の変化に、さり気なく人生の機微が凝縮されている――こういう隠れた名作に、思いがけず出会えるのがケーブルテレビの醍醐味だ。
江口のりこは、『時効警察』のレギュラーだったのか。やっぱり見ないとダメか、『時効警察』……。

スーパー!ドラマTVの『ギャラクティカ』ページで、ミニドラマ『レジスタンス』の配信が始まっているが、どちらかというとシーズン3の第一話を見たあとで「なるほど、そういう裏話もあったのか」と確認するために見るのが正解かも。
シーズン3の放映は3月4日より。

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2009年2月12日 (木)

■カメラは愛し、カメラはフラれる■

歌舞伎町といえば、午前3時か4時ごろ、ようするにキャバクラが最後の客引きをしている時間に親しいのだが、なんと真っ昼間のロフトプラスワンで映画の試写会が行われたので、行って来た。
Sgmdx06img_0923『ジャップ・ザ・ロック・リボルバー』、聴覚障害者によるロックバンドの自主制作ドキュメンタリー。この作品が薄ら寒い「美談」に陥らなかったのは、監督が適度に人が悪く、「ちょっと失礼な質問ですが」と言いながら、本当に失礼な質問をしているためである(笑)。過去の都合の悪い出来事を、何でも「バンドをつづけるため」と言い訳し、答えた後で「あっちゃーっ」と頭を抱えるメンバーの姿を、カメラは容赦なく捉えつづける。意地悪にカメラを回した分だけ、じんわりと温もりが伝わってくるから奇妙なものだ。
メンバーの奥さんと娘に「お父さんがバンドをつづけていて、どう思うか」と問答をやらせる(すべて手話)シーンも良かった。奥さんとしては、「お父さん、頑張ってね」と娘たちに言わせたい。しかし、そんな見えすいた狙いが上手くいくはずもなく、娘たちは飽きはじめてしまう。明らかにNGテイクである。ところが、カメラは止まらない。止まらないのは……監督が、この人たちを好きだからだよ。
ツッコミ方は中途半端だし、構成も粗いけど、席を立ったとき、奇妙な幸福感でニンマリしてしまう、不思議な映画。5月16日(土)より、渋谷ユーロスペースにて。

さて、女優の話でも。
ケーブルで放送していた広末涼子主演の中篇『Presents 合い鍵』。一度録画して見たときは「ふーん」という感じだったのだが、夜中に再放送していて、ちょうど広末涼子が恋人にフラれるシーンをやっていた。10年近く付き合ってきたカメラマンの彼氏が、喫茶店で「好きな相手が出来たので、別れて欲しい」と切り出す。
Pre3彼氏の恋の相手が同業のカメラマンで、「初対面なのに居酒屋で7時間話しこんだ」という挿話がリアルだ。そんな話をする彼氏は、バストショットのフィックスで撮影されている。対して、急に別れ話を切り出された広末は、画面いっぱいのアップで、カメラは手持ち。この不安定なカメラの動きが、一方的にフラれて動揺する広末の表情を、余すところなく捉える。ほとんど何も言い返すことが出来ない広末は、作り笑顔をしたかと思うと、ふいに無表情になる――背筋が寒くなるほどリアルな演技だ。
「私も、写真やってみようかな」と空しい提案を口にする広末。彼氏は「そういうことじゃないんだよ」と席を立つ。ここで、カメラは広末の目線を追う。広末は喫茶店の窓の外を眺めているのだが、ピントがぼやけてどんな風景なのか分からない……が、すこしずつ風景にピントが合っていく。このピントの合っていく速度が、広末の「未練」を機能的に表現している。ここでフラれているのは、広末涼子ではなく映画だ。映画が失恋している。こういう奇跡的な瞬間を目撃したいから、僕は映画という表現物を見ているのだと思う。

さて、明日は13日。『バトルスター・ギャラクティカ:レジスタンス』の配信予定日です。スーパー!ドラマTVのHPを見るかぎり、そんな気配はないのだが、大丈夫なんだろうか。
日本テレビ版の『GALACTICA/ギャラクティカ』は、25時59分~に放送時間が安定した様子。毎週見ているけど、エンディング・テーマはきっちり飛ばしてます。番組でなく自分のためにつくった歌なら、MySpaceで十分じゃん。

【追記】スーパー!ドラマTVのページにMOVIEというコーナーが出来ました!

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2009年2月 8日 (日)

■三鷹にメイド・キャバが出来た■

僕は滅多に人様の文章を転載しないのだが、西田シャトナーさんの日記にグッと来たので、以下に拝借します。
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『ギャラクティカ』 。
エピソード#215『傷跡』を、繰り返し、再生してる。
スターバックの優しく悲しい目を、
何度見ても泣かされる。
無口なホットドッグを、頼もしく思う。
ヒロっていい奴だなあと思う。
サイロンの「スカー」の憎しみを、
不当だとは思えない。
小惑星群の宇宙を、
太陽光線に照らされて飛ぶバイパーを、
もはや架空のものとは思えない。
粉々になるスカーを見て、
「いい気味!」とは思えない。
スカーを倒して歓喜するキャットを、
責める気にもなれない。
「カヴァティーナ」のメロディーの中、
スターバックとヒロがスパーリングするシーンで、
僕は、熱くて静かで、悲しくて幸福な、そんな気持ちになる。

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この文章には、西田さんの重ねてきた人生が自然ににじみ出てきている。感想だとかレビューだとかは、本来そうあるべき。「自分」を棚上げした、頭のいい文章からは何も感じられないが、西田さんの文章には西田さんだけの体温を感じる。

まったく関係ない話題で恐縮だが、三鷹にメイド・キャバクラが出来たらしい。
090207_17130001以前は普通のキャバだったはずなのだが、全面改装して新規オープンしたようだ。隣駅の吉祥寺にはメイド居酒屋「ファンシーキャット」があり、よく接待に使っていた。とにかく、業界の人たちが珍しがってくれるからだ。

だから、本気で来ている男性客たちとは、確かな温度差があった。
メイドの格好をしたがる女の子たちも、メイド女子に群がる男たちも、いわば記号を介して繋がっている。就業時間が終わり、メイド服を脱ぎ捨て普段着に着替えた彼女たちは――実際に吉祥寺の路上で会ったことがある――、見るからに身軽で自由そうだ。その「自由」を怖れる心理。「普段着」の女の子と向き合えない劣等意識。それこそが「オタク」である。オタクとは、心の一形態なのだ。
どこかにオタクが「居る」のではなく、誰かがオタクに「なる」のである。メイドが好きだからオタク、なのではない。メイド服を介してしか女の子と触れ合えない心のあり方が、オタクなのである。
僕に言わせれば、陳腐化した記号に頼ってしか女の子と接し得ない状況は、もはや撤退戦である。袋小路に追い込まれていると言ってもいい。いわば、「メイド好きのヲタ」という鋳型に自分を当てはめないと、自我を保てないのだから。

オタク状態というのは古傷のようなもので、いつ疼きだすか分からない。歩いて数分のところにメイド・キャバクラがオープンしてしまったのだから、通いださないとも限らないのだ。ただ、僕は必ず聞くと思う。「なんで、メイドの格好してるの?」「普通のキャバじゃダメなの?」と。自ら選びとる自由を手にしていること。それが「オタク状態という不自由」を楽しむコツではないだろうか。

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2009年2月 6日 (金)

■レジスタンス、天コケ、夏帆■

ほとんど告知が徹底されていないような気がするが、『バトルスター・ギャラクティカ:レジスタンス』は、来週金曜(13日)より配信開始ですよ! シーズン2と3の間の4ヶ月間の出来事を描く各4分×10本。スーパー!ドラマTVホームページ内独占配信だそうですが、手元のプレスリリースにもそれ以上の情報はナシ。大丈夫なのかな。
いまサンプル版でシーズン3を見ている途中だが……『ギャラクティカ』は、間違いなく人類が到達しえた最高の表現物だ。これを越える作品があるなら、僕に教えて欲しい。

さて、女優の話でもしますか。
公開時に興行がかんばしくなかったと聞き、「こんなよく出来た映画が、なんで?」と驚いた『天然コケッコー』。ケーブルで放送されていて、冒頭だけちょっと見返すつもりが、ぜんぶ観てしまう。夏帆が背中の大きく空いたタンクトップを着て出てきたのでギョッとする。実は海に行く前だったので水着の上からショートパンツだけ履いていて、一見すると水着がタンクトップに見えるという……山下敦弘監督のムッツリスケベぶりに、あらためて舌を巻いた。あとは、岡本将生のお母さん役の大内まりが、引きの絵ばかりなのにお色気ムンムンで、非常に良かった。090204_00520001
そういう部分も含めて、「山下敦弘監督作」でありすぎたのが、ややマイナスに響いたのかも知れない。
裏返ったような、息切れしたような夏帆の話し方が、いやでも耳に残る映画だ。吉高由里子もバカボイス(バカのような話し方)なのだが、あいつは天才だから、声のおかげで強引なまでの存在感をかもす。一方、夏帆は、ひたすら頼りない。
「もうちょっと、頼りない夏帆を見たいな」と、『砂時計』を借りてきたら、不自然なぐらい声も顔もしっかりしている。こんなんだったら、同年公開の『うた魂♪』の夏帆のほうが良かったぞ。映画のつくりも、やけに説明がましく幼稚だし……と思ったら、東宝出資・東宝配給と知って納得。やっぱり、東宝の一人勝ちはおもろくないな。東宝グローバリズムは、明らかに邦画から多様性の芽を摘んでいる。今年のラインナップも、実にひどい。「東宝全国系」と聞くだけで、もう見る気が失せるね。成功が約束されたものなんて、面白くないに決まってます。

『ギャラクティカ』は、アメリカのSci-Fi ChannelというケーブルTVから始まった作品だった。アイデアが枯渇、払底したハリウッド・グローバリズムからは、こんな骨のある作品は出てこられなかっただろう。大資本・大量宣伝は、もう何も生み出せなくなっていると思う。

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2009年2月 2日 (月)

■エゾハチ■

国内の『ギャラクティカ』熱は、やはりハンパではない。3月4日から、スーパー!ドラマTVでシーズン3の放映が決まっているが、なんとサイドストーリー『レジスタンス』のネット配信が始まるというので、驚いた。2月13日(金)より、スパドラ公式サイト内にて。

先週はガンダム好きのグラビアアイドルさんを交えて、飲み。「ガンダム好きったって、どうせシャアとかキャラ好きなんでしょ?」と見くびっていたら、「ファースト限定、しかもモビル090201_23120001スーツが大好き」という筋金入りで、ゲーム『戦場の絆』ではガンダムEz-8(イージーエイト)のことを「エゾハチ」と呼ぶのだと教えてもらう。『戦場の絆』でプレイヤー仲間が増えたそうなので、意外とアレですよ。チャンスかも知れませんよ、ガノタの旦那方。
連邦軍の制服パジャマを着たグラビア写真など見せてもらう。これがなかなか鼻血ブーな代物だったのだが、けっこう名の知られた方のようだし、掲載は見合わせる。今どきガンダム好きの女子など珍しくもないのだが、自分の身体とガンダムを組み合わせ、ちゃんと仕事に生かしてるのは偉い。下心なしで、リスペクトする。

さて、永作博美が出ているのならどんな映画でも見てやろう、ということで『クローンは故郷をめざす』をシネカノン有楽町で。
090130_15480001_2若い頃はタルコフスキー3本立てとか、平気で観に行っていたものだが、あれはやっぱり若いから出来たことなんだな。『クローン~』もタルコフスキーばりに風景が主役の淡々とした映画だが、体感上映時間は4時間ってところだ(実際は110分)。
でも、タルコフスキーの映画は長いなら長いなりに、意味を感じとれたんだよな。あるいは「分からない」ことによって、更なる興味がかきたてられた気がする。やはり若かったせいだろうか。
それでも、永作博美はこの舌ったらずなような、饒舌すぎるような珍妙なストーリーに、水のように溶け込む。できない役なんてないんだな、この人には。
この映画では、ワンカット長回しで、「静かに涙を浮かべる→激しく嗚咽する」までの演技を見せきり、永作好きとしては、そのカットが見られただけでもOKとしたい。
俺が見た範囲では、『好きだ、』の後半が永作のベストワークかなあ。何より、『好きだ、』の後半は、映画として魅惑的だからね。深夜から夜明けの薄明るい時間帯、もう若いとは言えない男と女、酒、会話。『人のセックスを笑うな』も、分かりやすくて楽しいんだけど……『好きだ、』は、役者に映画の命を預けてしまっているから。先日、日記に書いた『パビリオン山椒魚』にも、役者と心中する覚悟が感じられた。

『クローン~』の上映前、いくつか予告編がやっていたが、北乃きい主演の『ハルフウェイ』、これは傑作の予感。仲里依紗も出るし、何より役者たちのアドリブ中心で撮られたってところがいい。やっぱり、映画の中に「人」を感じたいからね。
アニメの中にも「人」を感じることはあるんだが……それを言葉にするのは、非常に難しい。

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