■たまには、アニメを語りたい■
メガミマガジン 3月号 本日発売
●新房昭之×山本寛 2大アニメ監督スペシャル対談 まとめ
多分、かなり修正されたと思うので、どういう雰囲気の誌面になっているかは分かりませんが、対談自体は同席した一同笑いっぱなしの和やかなムードでした。あまり僕はお役に立てなかった気がするので、以下、記事とはあまり関係ない話を。
以前から、「○○監督らしい表現」とか「脚本が○○さんでは出来が目に見えている」といった言説に違和を感じていた。まるで監督と脚本家の二人だけでアニメをつくってるみたいだから。
以前、あるアニメの脚本を読んで、「実に○○さんらしいギャグだ」と書いたら、「それは別の脚本家の方が考えたギャグなんです」と訂正を求められたことがあった。脚本家は個人作品を書く「作家」ではなく、プロデューサーや監督、他の脚本家が打ち合わせでポツリと口にした要求まで拾い上げて、なるべく尺に(予算に)合わせる「会計係」に近い役職なのではないだろうか。
別の作品では自らシナリオを書いているにもかかわらず、「今回はシリーズ構成を別に立てたから、ストーリーはそっちに任せてある」という監督もいる。組むスタッフによって、本当にいろいろなパターンがあるのだ。
そういう、現場ごとの役職特性が、視聴者に伝わっていないと感じる。伝わっていない方が送り手も受け手も都合がいいのかも知れないが、それでは僕の仕事、やりがいがない。今回の対談の印象でいうと、新房監督は、スタッフを暴れさせる現場をつくる「監督」であって、「徹頭徹尾、俺のメッセージを伝えたい」わけではない。逆に富野由悠季さんは、セリフのニュアンスにまでメッセージ(哲学というか思想というか)を込める芸術家タイプの「監督」の代表でしょう。新房監督は、「スタッフみんなが楽しければ、俺は幹事役ぐらいはやるよ」、そう言っているように感じた。だから、「毎回、カッとんだオープニングですね」なんて新房監督に言っても、あんまり意味はない。だって、『絶望先生』や『まりあ†ほりっく』のOPは尾石達也さんの仕事だもの。そうやって腑分けしていかないと、新房監督の本当の役割は分からない。逆を言うと、ちゃんと腑分けしていけば、新房監督の真価が分かってくるわけだ。
印象ばかりで申し訳ないけど、山本監督は実写の、しかも自主映画の「監督」に近いんではないか、と思う。押井守監督ともなると、絵コンテを切るという形でカメラを回しているよね、確実に。宮崎駿監督は、カメラを回しながら自分で演技までしちゃってる……むしろ、演技している自分をコンテというカメラで撮っている感じ。
山本監督作に話を戻すと『かんなぎ』を「自主映画みたいなミニマム感があるよね」「町内でロケしてきたような空気感があるよね」と言っても、周囲に通じる人がいない。オープニング作画が凄いとか、ナギ様の処女性がどうとかいう人はいっぱいいるのに、カメラワークのことなんて誰も言わない。言うべき人も、言ってない。
『かんなぎ』は、一本の映像作品として扱われていないんじゃないか、とさえ思ってしまう。「アニメ」として認知されてはいても、「映像」という広い捉え方が、受け手に欠落している。新房作品のOPにしても、「一本の映像作品」として照らし返せば、どれほど最先端を行っているか、その価値が分かるはず。だのに、アニメを語る人の定規が、アニメしかない。それが言葉を痩せさせている。
知識よりも重要なのは、感性を蓄積することだ。作品への理解を深めるには、いろんな体験を積んでいくしかない。僕が『メガゾーン23』のラストを好きなのは、心底たたきのめされた最悪の朝を迎えたことがあるからですよ。そういう、身体や心に響く体験なしに、フィクションを語ることなんか出来やしないんだよ。
宮崎駿監督が「絵っていうのは、身体で描くんですよ」と言っていたのと同様、我々もアニメを「身体で見る」必要がある。
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