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2008年9月28日 (日)

■映画の形をしてやってくる未知の何か■

映画が好きなのではなく、映画の形をしてやってくる未知の何か、が好きである。

TSUTAYAが一週間も半額セールをやっているので、あれこれ借りてくる。が、結局はケーブルで放送していた『シムソンズ』が良かった。
51q4e6kne5lアルタミラピクチャーズの『がんばっていきまっしょい』に始まる、女子チーム物。『フラガール』なんかも同じ系統。もうすぐ公開の『フレフレ少女』も、チームじゃないれけど同じジャンル。女子高生がんばってます映画。
その系統の中では、『シムソンズ』はかなり作為の目立つ映画だ。加藤ローサの過剰な演技、CGやビデオでくどくど説明されるカーリングのルール、もう見ちゃいられない。ローサと対立するエリート選手も、あまりにありがちな設定で……と、この女優が猛烈に淫靡だ。藤井美菜っていうのか。甲子園のポスターに出た? こんなダーク・オーラを発散してるのに?

ローサが白主人公なら、藤井は黒主人公。この二人に挟まれた、いわば引き立て役(もっと言うと、ブス役)の星井七瀬、高橋真唯。みんな、ハッとするような表情を見せていく……というか、気づかされるんだよな。いい表情に。
あとはもう、ストーリーはどうでもいい。カーリングのスリル感も出てないし、主人公たちがどうやって強豪チームと渡り合ったのか、説得力ある描写もない。しかし、そんなものは別の映画で見ればいい。「映画」が見たかったら、『シムソンズ』は見なくていい。
僕には、まだ出演作の少ない藤井美菜の映画を追っていく、という目標が出来た。それで十分すぎるほど、『シムソンズ』には感謝している。スケベ心で女優を追っていくうち、思いもかけない作品と出会うことがある。これから撮られるであろう未知の作品たちと、偶然に出会う権利を僕は獲得した。
藤井美菜、この人はやばい。将来が末怖ろしい。

ピンボール・マシンには、玉を弾きとばす「キッカー」が配置されている。僕にとっては、すべての映画がキッカーである。思いがけない方向へ、飛ばされたい。
その「飛ばされ力」が、映画は他のメディアより何十倍も強いのである。

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2008年9月26日 (金)

■大人は子供に夢を見させ、やがて失望させるためにいる■

「やっぱり、実写映画版のほうがいいよなぁ」と思いながら、確かに俺は声を出して泣いていた。『魔法遣いに大切なこと 夏のソラ』最終回。
080926_03490001Aパートのラストで、豪太がさみしそうに見上げていた空が、「夏のソラ」だったのね。
Bパート、5年後のそれぞれのキャラクターの点描が、「ソラは死んだんだ!」「ソラは死んだんだ!」と叫び続けている気がして、テレビ消してからも、しばらく泣いてたよ。泣けたから名作だ、というつもりはまったくないし、「名作」「傑作」なんて言葉は対外用であって、自分にとっては意味ないね。

なんで主人公が16歳で死んだかというと、何度も書いてきたように、20歳以降の人生というのは10代の残響でしかないからだよ。それ以降の人生は、もう悪あがきの連続なの。見苦しくて当然なの。『魔法遣いに~』の大人たちが、みんな物分りがよくて温厚なのは、16歳の子供たちに「世の中って、思ってたよりマシなんだ」と錯覚させるためだよ。それ以外に、おそらく大人の存在価値というのはない。
宮崎駿流にいうと、「16歳という光り輝く時期を、個体が通過していく」だけであって、『魔法遣いに~』はそれ以外のことは、一切描いていない(小林治監督は、細かいところであれこれ抵抗していたと思うけど……笑)。
『魔法遣いに~』の魔法学校って、『ハリー・ポッター』に出てきたみたいに遊園地のような場所じゃなくて、ただの専門学校だったでしょ? 基本的に、社会というのはつまんないものだから、あれはわざとやっている。大人の都合でつくられた施設や制度が、子供たちにとって面白いはずがないんだよ。そういう、静かなシビアさが根底に流れていたアニメだと思うんだけどね。

大人は子供に夢を見させ、やがて失望させるためにいる。そして、子供たちは、つまんない大人たちを駆逐するために存在していて欲しい。その時、俺たちはせいぜい無駄な悪あがきをするさ。
(アニメ版よりも、ぐっとテーマの絞り込まれた実写映画版『魔法遣いに大切なこと』は12月公開。岡田将生くんが軟弱で、実に可愛いよ。木野花さんに怒られるシーンなんて最高)

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2008年9月23日 (火)

■アダマくんとタイ大佐■

本日は、WEBラジオ『談話室オヤカタ』の収録。そう、またしても二週連続で出演する。10/1と10/7に配信予定。谷村美月と永作博美について、とにかく語り倒してきた。もう、アニメ系ライターでも何でもねえ(笑)。
感激したのは、たつみんさんが、僕のグラビアポエムを朗読してくれたこと。グラビアポエムというのは、インスタントラーメンでいえば「かやく」みたいなもんですからね。こうして、人の声、しかも女性の声で読み上げられると、単なる「かやく」を越えて、何か別の側面が立ち上がってくる感じ。う~ん、「グラビアポエム詩集」を出したい。自分にかける恥は、すべてかき倒したい。

さて、『バトルスター・ギャラクティカ』のシーズン2が、先週から放映スタートした。
第一話では、アダマ艦長とタイ副艦長の出会いがフラッシュバックで描かれる。タイ副艦080923_17590001長の髪がフサフサしているところを見ると(笑)、10年以上、昔のシーンなのだろう。
ところが、この回想シーン、断片的すぎて何が起こっているのか、よく分からない。アダマは「コネを使って、艦隊に戻り、いつか自分の船をもってやる」と野心まんまんだ。ということは、叩き上げの軍人に見える彼も、艦隊から追放されるほどの挫折を、過去に経験しているということなのだろう。そんなアダマに対して、タイはすでにアル中になっており(笑)、さらに自殺願望まであった様子だ。彼を助け出したのは、一足先に艦隊に戻っていたアダマだった。
第一話の最後で、意識の戻らないアダマに、タイは語りかける。「俺に指揮官は無理だよ。俺を艦隊に戻したのは、失敗だったな」。
野心と情熱と勇断の人・アダマ艦長に対して、タイ副艦長は、常に後悔と自責の人である。『ギャラクティカ』には、ただのダメ人間は出てこない。宮崎駿風に言うと、「救いがたい大人は出さない」。

印象的なのは、『ギャラクティカ/序章』で、サイロン側の識別信号発信機が、ギャラクティカ艦内で見つかったとき。「敵の機械がしかけられているのに気づかず、ほっといたのか? 誰かが発見せねばならなかったのだ。特に、副艦長である俺がな」。
ここでも、タイ副艦長は部下を責めながら、同時に自分も責めている。人間は、他者との関係性の中でしか、自分を発見できないのだ。
他人との縁は、どこかで必ず生じてしまう。それは、とても残念なことだ……と、タイ副艦長は思っていて、だから酒を呑むのかも知れない。僕も「なかなか、完全に一人になるのは難しいな」などと思いながら、今年の残り三ヶ月で仕事をすることになる人たちの顔を、何人か思い浮かべるのである。

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2008年9月19日 (金)

■走り終えたリレー選手に、何を言えばいい?■

映画監督・市川準が亡くなった。
080919_17210001遺作となった『あしたの私のつくり方』は、たまたまケーブルで観たばかり。成海璃子は可愛いのだが、画面をマルチ分割したり、安易というか手詰まり感のある演出に「これ、ホントに市川準か?」と、クレジットで確認するまで信じられなかった。息切れ感のある映画だった。
市川準の映画デビュー作は、富田靖子主演の『BU・SU』で、1987年。その当時はCM業界から映画界に人が流れてくるというだけで、僕は「何かが変わるんじゃないか」と胸をときめかせていた。それほどまでに、当時の映画界は人材が払底していたのだ。『リゲイン』のCMで有名になった黒田秀樹が『バカヤロー!』で映画を撮ってくれたのも嬉しかった。あるいは、自主映画さえ撮ったことのない「完全素人監督」林海象の、文字通り彗星のごときデビューが86年。北野武が、『その男、凶暴につき』で監督デビューしたのは89年だった。80年代末の日本映画界は、停滞状況を打ち破る試みが、いくつも為された挑戦の只中にあった。

市川準に話を戻すと、三作目の『ノーライフキング』が良かった。それまで時代錯誤と呼ばれていた日本映画の中で、『ノーライフキング』はゲームにまつわる都市伝説をテーマに、80年代末期の日本の「今」をフィルムに定着させることの出来た映画だった。「新しい」というよりは「今」だと思った。ただ、はっきり覚えているのは、市川準本人が「僕の映画は、三作目で極まってしまった」と雑誌のインタビューに答えていたこと。
四作目の『つぐみ』は、牧瀬里穂の挑戦的な顔つきが印象的だったが、『ノーライフキング』とはまるでコンセプトが違う――どこか、退行して見えた。その後、『病院で死ぬということ』までは、地道に映画館に通ったが、すっかり飽きてしまった。やはり「三作目で極まってしまった」のであろう。

ただ、それは市川準がつまらなくなったというより、93年に岩井俊二が『打ち上げ花火』を撮ったりして、面白い新人監督がどんどん出てきて、単に影が薄くなったのだと思う。バトンリレーみたいに、市川準が新世代の監督たちに「今を撮る」というテーマを手渡したんじゃないだろうか。それは残念だし残酷だけど、本人の意志とは関係ない。
走り終えたリレー選手に何を言えばいい? 「ご苦労様でした。もう走らなくてもいいんですよ」以外に、何かかける言葉があるだろうか?
80年代って、日本映画だけは本当にダサくて古臭くて、どうしょうもなかったんだよ。本当に酷かった。何人かの才能が突破口を開いてくれたから、今はこうして豊かな人材がひしめくようになったわけで、もし市川準がいなかったら、現在の活況はあり得なかったんですよ。少なくとも、「俺の映画史」の中では、そうですよ。幸か不幸か、三作目で極まってしまった、というだけで。

残念なのは、59歳という若さだったこと。福田康夫ですら72歳だというのに。もう長編映画はいいから、ゆっくりと好きなものをつくって暮らして欲しかった。大きなお世話だろうけど、残念に思えて仕方ない。

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2008年9月16日 (火)

■星間飛行の旅の終わりに■

グレートメカニックDX6 本日発売!
Scan20010
●『クローン・ウォーズ』レビュー
この映画の試写会の時にはちょっとした美談があって、試写状を持っている編集者が電車の運転遅延に巻き込まれて遅れてしまったんですよ。猛暑の屋外、「こりゃ間に合わないな」とうなだれていたら、宣伝会社の人が「以前に『エクスマキナ』を取材してくださった方ですよね? 試写状なんか無しでいいですから、入っちゃってください!」と。覚えられやすい顔で良かった。

●シャア・アズナブル in Z GUNDAM
以前に書いたシャア論が評判よかったので、これはシャア論の第二弾ですね。

●内田健二氏に聞くZガンダムの真実
なんと、僕のサンライズ時代の上司であり、現サンライズ社長の内田さんにインタビュー。他では聞けないぶっちゃけ話、これは必読。

●オヤヂ酒場DX
藤津亮太さんと、真昼間から飲みながらの放談コーナー。今回のお題は、『スカイ・クロラ』と『崖の上のポニョ』。俺が藤津さんの聞き役になってきてるので、もっと喋んないとまずいな(笑)。

●ギャラクティカNOW
勝手に応援連載第二回は、いよいよ明日17日より放映開始の『ギャラクティカ/シーズン2』の特集。先にシーズン2、全20話(字幕版)を見せてもらったけど、物凄いよ。シーズン1は助走に過ぎなかったんだと良く分かる。シーズン1の途中で飽きちゃった人も、シーズン2は絶対に見ないとダメだ。『ギャラクティカ』を見たあと、俺はマジで『スター・ウォーズ』のDVD-BOXを売り払った。お伽噺より現実を見ないと。『ギャラクティカ』を見て以来、俺の心の中は戒厳令状態ですよ。

●マクロスF CGメカアクション
CGIテクニカルディレクターの八木下浩史さんとプロデューサーの葛西励さんへのインタビューですね。いわゆるメイキング記事ではないけど、他誌には載らないような特選切り出しカットを用意していただいたので、メカ戦好きな方は必見!

今まで何誌も『マクロスF』特集に参加したり、時には自分ひとりだけで20ページも編集したりしてきたけど、それはやっぱり「絶対面白い」「面白いところを強調したい」というモチベーションがあったから出来たんだよね。そうでなければ、現場で喧嘩までして記事つくんないよ。程度の低い編プロのせいで、ぐちゃぐちゃにされた記事もあったので(別冊アニカンR)、真剣に怒ったら自動的に仕事が来なくなったしね。
でも、モチベーションがピークに来たときに、第12話の『星間飛行』のシ 080915_20250001ーンを放映前に見せてもらって……もう編集氏と二人で、ガッツポーズですよ。「このフィルムで30ページも特集組ませてもらえるんだ? もう誰が何と反対しようとランカの原画載せよう!」って言おうと思ったら、もう原画がカラーコピーで用意してあった(笑)。最高だよね。今でも捨てないでとってあるよ(原画そのものではなく、コピーだけど)。
寝た記憶がないよ。寝てる場合じゃないと思って、ずーっと原画を選んでいた。編集氏に「いい加減にしてください」って呆れられたよ。でも、寝てる場合じゃなかったんだよ。
僕自身もバカになっていたし、お話もバカのまま突き進むと信じていた。遅刻しそうになったアルトがバルキリーで登校するシーンぐらいあると思ってた(学校の屋上にあるVF-1を最終決戦に使ったら、いよいよ『ギャラクティカ』なんだけど……やらないよな、多分)。
第12話は、展開がバカで良かった。だって、『星間飛行』って、初めて聞いた瞬間にもう「思い出の曲」なんだもの。懐かしいんだよ、聞くたびに泣いてるよ。その曲にふさわしい、ほわ~んとしたエピソードになっていて、幸せだった。歌の力に支えられたお話だった。
偶然に偶然が重なって第12話の特集をやれて、本当に僕はラッキーだった。ライターや編集者って、作品とそういう関係を結べる瞬間がある……だから、僕にとっては第12話で『マクロスF』完! オヤジと若造が一緒に楽しめる、いい作品でした。

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2008年9月13日 (土)

■いいアニメというのは、ヒロインがいい■

EX大衆 10月号 発売中
Ex_taishu_08_10
●男泣きアニメ名作選
「泣けるアニメ」というテーマで、『スペースアドベンチャー コブラ』(松崎しげるの方)、『ジャイアントロボ』、『時をかける少女』、『風の谷のナウシカ』、『クレヨンしんちゃん』、『カウボーイ ビバップ』などから、ちょっとマニアックなシーンを抜粋。アニメの『ナウシカ』はラストが好きじゃないので、前半からちょっと地味なシーンを拾ってきたら、ちゃんと版元チェックをクリアできた。
そしてもちろん、『ゼーガペイン』を載せましたよ! 

●愛ドルのリコーダー かの夏帆
●中村優 グラビアポエム
●浜田翔子&折原みか グラビアポエム

今月は3本。しかし、浜田翔子&折原みかの写真のエロさには驚いた。こういう凄い写真が来ると「ポエム、いらないんじゃない?」と思ってしまう。一生懸命書いたけど、この写真には勝てん。
女優は映画監督と、グラビアアイドルは写真家といわば「寝て」、女を磨くのだろうと思う。ポエムってのは、その恋愛的関係に物語という花を添えるんだ。
話を広げると、恋愛なんてのは犯罪なんだよ。犯罪的要素のない恋愛なんて、存在しないと思う。押井守は『スカイ・クロラ』で「自分を殺してくれる相手を見つけるのが恋愛だ」と屁理屈を言っていたけど、あながち間違いではない。心に秘密を持つのは、気持ちいいんだよ。
やっぱり、人生の前半でどんどん恋愛していった方がいいね。人生の後半は応用編なので、いちいち犯罪していられない。

話題は一転するが、アニマックスで始まった『機動戦士ガンダムZZ』が面白い。というか、カッコいい。主人公のジュドーが、『プラネテス』みたいなことやっているシーンから始まる。ハイザックの残骸を回収しようとしてあきらめたり、「暮らし」がベースにあるのがいい。「これがガンダムなら、高く売れそうでしょ」って、そんな粋な動機でガンダムに乗った主人公はジュドーだけだ。
第一話で新メカが出ないってのもカッコいい。疲弊したアーガマが怪我人だらけだとか、セリフのひとつひとつが世界を多角的にあぶり出していく。銃を持たされたジュドーが「重い」ともらすのも良かった。その一言で個人の持っている世界の狭さがパッと伝わる(広さじゃないよ、狭さだよ)。そのことを「リアルだ」っていうんだよ。
マシュマー・セロが出てきてから話は停滞気味だが、キャラクターの言動に強い一貫性があるので、ストレスはない。
080913_04480001あとは、やっぱり原えり子が声やってるエル・ビアンノがいいね! ああいう、ダメな少年たちに自然と溶けこんでしまう男勝りの女の子は好きだな。『がんばれ!ベアーズ』のアマンダの系譜ですな。
いいアニメというのは、ヒロインがいい。これは絶対条件。『カリオストロの城』を評価してる人は、その評価の中にクラリス好きが混入しているはずだよ。映画で女優が綺麗なのと一緒ですよ。どうしてみんな、アニメと実写を分けて考えるのか、僕には分からない。

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2008年9月10日 (水)

■16歳に人生を教えられた■

16歳に人生を教えられた。昨日は、山下リオ主演『魔法遣いに大切なこと』試写。中原俊監督といえば、『櫻の園』(90年版の方)。あれに泣いたオヤジたちは、安心して観ていい。中原監督を信じなさい。
080909_18590001映画の公開は12月20日……つまり、アニメ版の放送終了後。出来れば、映画とアニメのラストは変えて欲しいなぁ……たとえ同じでも、アニメの方は小林治テイストでビターに終わると思うけど。アニメ版はムーンライダーズの『青空のマリー』まで歌わせてしまったからね。優等生な脚本に、斜めからビートが刻まれている感じ。映画は、まるで違う静謐な雰囲気。

映画って複合的な表現だから、長所短所いろいろあって当たり前。撮影が良くなくても、俳優の演技がカバーしているとか。人工的なCGが逆に効果的だったりとか。永作博美が、意表を突いて母親役だったりとか(トラクターを運転する姿がまた、妙に説得力あったりとか)。
でも、何よりストーリーがね……まさか、あんな終わり方をするとは。ほのぼの青春ものと思っていると、一本背負いを食らう。主人公たちは16歳だけど、ラストで人生のすべてを包み込むほどの巨大な話になる。主人公に父親のいない意味、田舎に住んでいた意味、魔法の意味、恋愛した意味、ぜんぶが繋がる。
具体的に書けなくてもどかしいが、初めてのチュウが人生のすべてを担っているんだよ。思い込みでやったチュウであっても、多分、一生に影響を及ぼす。いや、思い込みだからこそ、全人生をもっていかれてしまう。
人生は、10代がピーク。あとは、その残響でしかない。残響のつづいている間、ちょっとでもマシに生きねばならないのが、僕たち大人という生き物。

山下リオは、ファッションモデル出身のせいか「肉体」を意識させない女優だった。対して、080909_20000001我らの谷村美月は、相変わらず骨と肉を感じさせる人。DVDで『リアル鬼ごっこ』を見て、「この人は、やっぱり唇と足(特に、変に細いフトモモ)の人だ」と思った。
冒頭数分で、いきなり柄本明に胸触られてるんだけど、そういう普通の女優がオーケーしない役を谷村が背負ってくれてるわけだよね。だって、『おろち』なんて人間の役じゃないんだもん。谷村は正常な女子高生役なんて、2回ぐらいしかやってない(笑)。あとは、ゾンビ役とかさ。
『リアル鬼ごっこ』のラストなんて、「もう結構です、十分に楽しませていただきました。そんな格好、しなくていいです!」と土下座したくなるからね。谷村が頑張れば頑張るほど、僕の胸は痛む。どうやってお礼したらいいのか、僕はいつも考えている。

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2008年9月 7日 (日)

■私と会うより、河森監督と会うほうが楽しいでしょ?■

いきなりだが、河森正治監督作品『地球少女アルジュナ』第6話より、数学教師と主人公・樹奈の異様な問答を転載する。

「八百屋の店先にはまっすぐなキュウリやダイコン、同じ大きさの野菜しか置いていない。なぜだ?」
「その方が、運ぶとき楽やから」
「期限切れの売れ残った弁当は捨てられてしまうことがある。なぜだ?」
「その方が、管理が楽やから」
「親はせっかく子供がボタンを止めようと頑張っているのに、早く着替えろとしかりつける。なぜだ?」
「その方が、親が楽やから」
「教科書があるにもかかわらず、多量の参考書が売られている。なぜだ?」
「答えを知るのが、楽やから」
080905_13150001「たとえ着いてこられない生徒がいようとも、俺は決められたとおりに授業を進めようとする。なぜだ?」
「その方が、先生が楽やから」
「いろいろな店では、客は千差万別だというのに店員はマニュアルどおりの対応しか示さない。なぜだ?」
「その方が、やること決まってて、楽やから」
「生徒は自分で考えようとせず、教師に答えばかりを求める。なぜだ?」
「その方が、生徒が楽やから」
「お前たちは直接会って話せばいいものを、なぜ携帯で繋がりたがる?」
「その方が、会うより楽やから」
「世の中の人間は、マスコミの言うことを安易に鵜呑みにする。なぜだ?」
「その方が自分で確かめるより、楽やから」
「多くの学校は、同じ歳の子供ばかりを集めて同じ授業を繰り返す。なぜだ?」
「その方が、先生が楽やから」
「お前は俺の問いかけに、いつも同じ答えしか返さない。なぜだ?」
「その方が、答えるん楽やから」

分かりきっているような、改めて気づかされるような、時をおいて繰り返し見ても色あせないやりとりだ(テレビ放映は01年。実はテレビ放映時とDVD版では、問答の内容が少し変更されている)。
この問答を、結婚中に働いていたゲーム会社の社内掲示板に転載したら、経営者が「これは一体、どういう意味なんだ」と激怒した。俺は「たかが、アニメのセリフです」と白を切ったが、もちろん経営批判である。皮肉である。嫌がらせである。
(そのゲーム会社に勤めながら、僕は『アルジュナ』のDVD用ブックレットを作成していた)
現実を寄り合わせるようにして、作品と付き合いたい。

河森作品は、視聴者と積極的にコミュニケーションをとろうとするあまり、相手をカチンとさせてしまうところがある。ご本人もそれに気がついたそうで、『創聖のアクエリオン』は「一話完結のロボット物」という分かりやすいフォーマットになった。
ラスト近くで主人公の組織が上部組織を裏切ってカッコよく出撃するところは、河森さんの好む作劇の一手法だ。『アクエリオン』に限らず、実は『アルジュナ』のラスト近辺も似たような展開になっている。『マクロスプラス』もそうですな。「お上のやることは汚いぜ、俺は地球の運命も大事だが、仲間の命も同じぐらい大切なんでぇ!」と、これを本気でやってしまう青さ(セリフでそのまま言ってしまったり……)が河森作品の匂い立つ魅力なんだよね。ようは、ゲリラ精神なの。
だから、『マクロスF』が、今のタイミングでゲリラ戦モードに入ったのを見て「これは河森さんの最初のプロットが、そのまま残ってるんじゃないか」と思った。作品に作家の顔が見える、って大事なことなんだよ。ストーリーの流れ的にはまるで納得しかねるんだけど、「出た、ゲリラ戦! やっぱり河森作品だなぁ」と思ってしまったら、もう俺の負けですよ(笑)。

「作家を追う」というのは、そういうこと。どんなに裏切られても、やぶれかぶれで一人の作家を追っていくと、人生はすごく楽しい。失望までもが愛おしい。
俺は、別れた奥さんに「私と会うより、河森監督と会うほうが楽しいでしょ?」と指摘されたけど、否定しなかったもん。奥さんにそう言われたことが名誉ですらあるもん。
でも、作家と「会う」ってのは実際に会うより、作品を通じて「会う」ことの方が、圧倒的に重要なんだよ。厳しい目で作品を見なければ、作家と「会う」ことは出来ない。そのためにも、審美眼を鍛えなくてはいかんのですよ。

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2008年9月 4日 (木)

■プチ・天元突破■

機動戦士ガンダムの常識 続・一年戦争編 発売中
Isbn9784575300673
●30本ほど記事執筆
一巻目が、増刷につぐ増刷で記録的な売れ行きになったそうで、予定通りに二巻目刊行。前巻と同じく、裏話とか初期設定とかガンプラとかの話を中心にやりました。やっぱり、かなり読者の視線を意識してクールにならないと、こういう本は書けません。

さて、今月もグラビア・ポエムを無事に納品したのだが、ちょっと嬉しいことがあった。WEBラジオ・談話室オヤカタに出たとき、「こんなもん、当のグラビア・アイドルたちは読まないですよ」と言ったと思うが、ちゃんと読んでくれてる人がいた! リンク貼るのもおこがまいような気がするけど、相沢真紀さんのブログに「グラビアページに載っていたポエム的な文章がかなりツボだった」と書いてあった(笑)。
これはちょっとねぇ……プチ・天元突破ですよ。俺の顔も名前も知らない方、しかも美を武器にしているアイドルが、文章だけ読んで「要チェック」とまで書いてくれている。読みようによっては、「ひょっとして、これは笑われている…のか?」という気がしなくもないけど、けっこういいはずだよ、このポエムは。レオ・セイヤーの『タキシード・ボディ』を引用してるからね。全日空のCMソングですな。あれを聞くと「今日は、日曜日だ」って気分になるんだよな(リンク先に、全文出てます)。
以前に「廣田さんのポエム、女性編集者には評判いいよ」と聞かされてはいたんだけど、「文章だけ」でコネクトできるって、ヒョイと何かを越えた感覚になれる。このプチ・天元突破感だけは、自ら望んで書き続けた当人にしか分かるまい。いろいろやってみるもんだね。

さて、タイミングずれてしまったけど、この人の話題。
080903_01470001別にインパクトもないし、怒りさえわかない。なんでかって言うと、こういう人には、今まで大勢会ってきたから。ダメ大人の典型すぎて、呆れもしない。経営者でも「やーめた」って人はいたし、そういう人は別に乞食になるわけじゃないんだ。今でも、のうのうと業界で生きている。リスクを背負ってないんですよ、逃げられる人って。経営者だけじゃなくて、フリーでやってる人間もそう。仕事中に失踪しても平気なんだよ。誰かが食わせてくれるようになってるから。
どんだけ無責任になろうが立場を放り出そうが、どうにかなるの。だから、ニートや引きこもりが成立する。無気力でも向上心なくても、餓死したりはしない。そういう意味では、日本は完成されたシステムだと思う。「国」じゃなくて「系」、つまり、仕組みでしかないんだよ。
この仕組みが維持できるなら、誰も義務や責任感は持たないよ。ましてや、理想なんか持つはずがない。理想という言葉を、ものすごく遠くに感じる。外国語みたいだよ。泣けてくるよね。

このブログらしく、フィクションからの引用で締める。「皆、疲れている。息をつく暇もない。080903_21280001 どこへ行ってもサイロンが後を追ってきて、逃げても逃げても、奴らが現れる。それでも我々は、自らに課せられた義務を果たさねばならんのだ!」(『ギャラクティカ』より)
こんな当たり前のことを言うドラマが、アメリカで大流行して、日本でマイナーな現状は何なのか。答えは簡単で、当事者意識がないんだよ。フィクションに癒し以外のものを求めてないんだ。

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2008年9月 2日 (火)

■ヨーコ、ロズリン、ドリル■

昨夜は『天元突破グレンラガン 紅蓮篇』の試写会。正直、僕は「テレビが面白かったから、それで十分じゃん」派なんだけど、意外やクライマックスが熱かった。ちょっと背中を押され080901_22350001た。その瞬間に、単なるダイジェスト映画を越えたんだよね。それは、僕が誰かに声をかけて欲しかったから響いたわけだよね。映画と個人っていうのは、そうやって「関係」を築いていく。
で、個人的にはヨーコのエロさというか肉感(まあ、どっちも同じか……)が、カミナの死で変化するのが面白かった。もちろん狙いもあったんだろうけど、カミナの死後、ヨーコの体は棒みたいに見える。カミナ生前は、あんなにムチムチだったのに。「なんだ、面白くないなぁ」と思っていると、シモンがカミナの死を受け入れて復活したのと時を同じくして、戦闘中のヨーコのブラジャーが外れる(笑)。
つまり、男たちの汗臭さによってヨーコの女っぷりが上がる。いや、気のせいかも知れないけど、現実でもそういうことはあるじゃないですか。肉感とかエロスとかいうのは、関係性で成立してるんだな、と。

以上のようなことを書くと、ちょっと前のエントリー中の「ラムちゃんのブラがとれたシーンで、嫌悪感を感じた」体験と矛盾する。だけど、ようは人間って抵抗するんですよ。深層心理でひっかかる対象をこそ、攻撃したくなる。あるいは、避けたくなる。
だから、激しく拒絶反応をひき起こしたものは、時間が経ってからでもいいから、じっくり考え直してみると、意外に自分と向き合う経験になる。
すると、先日、『マクロスF』の大統領暗殺→レオン三島、代理に就任で「おいおい、それはあまりに杜撰だろう?」と俺がリアクションした理由も分かってくる。『ギャラクティカ』です。

『ギャラクティカ』のローラ・ロズリン大統領は、最初はただの教育庁長官で、主人公格のアダマ艦長に「たかが学校教師」と呼ばれ、政界に顔の広いバルター博士に「えーと、どなたでしたっけ?」と忘れられてしまうような、死期の近いおばあちゃんです。
ところが、人類の宿敵サイロンの全面攻撃で大統領以下の閣僚がすべて死んだことが分Battlestar_scifi_6かってくると、まず録音されていた緊急放送が流れる。それを聞いたロズリンは、たまたま乗っていた旅客機(というか旅客宇宙船)のパイロットに暗号コードを打ってもらい、一通の電文を受け取る。「政治は苦手なのに」と疲れたように苦笑するロズリン。そして、その旅客機の中で簡易の大統領就任式が行われる。電文は、「全閣僚が死んだから、あなたに大統領の継承資格が回ってきましたよ」という内容だったわけだ。
まず、ここまでがロズリン大統領の誕生。その時、人類は5万人しか生き残っていなかった。サイロンは執拗に追ってくる。まったく希望のないロズリン政権の発足。

さて、本題はここからで、第3話にトム・ザレックというテロリストが登場する。囚人船をハイジャックしたザレックは、「ロズリン政権を解散し、生き残った5万人で大統領を選びなおせ」と要求する。ロズリン大統領は民衆に選出されたわけではないからだ。しかし、テロリストの要求は呑めないので、ギャラクティカは海兵隊を囚人船へ派遣する。普通なら、ザレックを撃ち殺して万事解決ですよ。
Tv_bga01_t1803_0068_15ところが、交渉にあたっていたアポロ大尉はザレックの命を助け、選挙を行うことを約束する。アポロ大尉はロズリン大統領の軍事顧問だけど、ザレックの言う事は、もっともじゃありませんか、と。そして、七ヵ月後の大統領選で、ロズリン政権の是非が問われることになる(それは、シーズン2で描かれます)。ものすごく周到なの。薄っぺらな悪党は出てこない。
『マクロスF』も同じようにしろ、と言うつもりは、もちろんない。
ようは、『ギャラクティカ』を見ちまった俺が悪いんですよ。「大統領暗殺」でスイッチが入った。中学生でも理解は出来るはずだから『ギャラクティカ』も見て欲しいな、と。政治も倫理も崩壊した「今」を見据えるには、ピッタリですよ、と。
何度も繰り返してきたことだけど、フィクションと現実は無関係ではいられないと思う。今の『マクロスF』は、「だって、お話はお話じゃん」と言っているように、僕には見える。

悲しいことに、回答はいつも自分が持っている。いろいろな作品を見たり、人と話しているうちに、たったひとつの答えに気がついてしまう。孤独だよ、これは。誰も支持なんかしてくれないよ。さっきのラムちゃんとヨーコの話もそうだし、矛盾の中に真実が見つかることだってある。それは、認めなくてはならないの。そうしないと、自分が完成しないの。……ああ、そういうことを思っているから、昨夜の『グレンラガン』は胸に突き刺さってきたんだ。納得。

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