■邪気眼と絵ぢから■
昨日は『空の境界 第五章 矛盾螺旋』の試写会に行ってきた(と言っても、今日から公開中だけど)。クライマックスの狂ったような戦闘シーンを見てようやく気がついたけど、邪気眼だよね、この作品って。「邪気眼」についてはネガティブな説明しかネットにないと思うけど、俺の定義では「選ばれし特殊能力者が、そいつらにしか分からないルールとセリフで死闘を繰り広げる」フィクションは、すべて邪気眼ですよ。大好きな『ジャイアントロボ 地球が静止する日』だってそうですよ。「き、貴様はまさか?」「あの力を使うつもりか!」とか、“訳ありなセリフ”に作者も読者も酔う。邪気眼モノってのは、そういうエンターテイメントだと思う。映画でいうと『マトリックス』が邪気眼SFXの開祖。ウォシャウスキー兄弟のヤツラが禁断の箱(ルビで“パンドラ”とか入ると邪気眼っぽい)を開いてしまったんでしょうね。
「選ばれし特殊能力者」って意味では、『ハリー・ポッター』も邪気眼濃度が高い。そもそも、「原作が長大で、なかなか終わらない」「映画にしたら、最低でも三部構成」とか、邪気眼モノには特徴がある。
くれぐれも言っておきたいけど、邪気眼だからダメだと言っているわけではない。むしろ、エンターテイメントの伏流水として捉えたほうがいい。
邪気眼は中二病と絡めて語られることが多いけど、つまり第二次性徴を迎えると、自分の肉体にビックリするような変化が訪れるわけで、その戸惑いをフィクションに転化すると、邪気眼にならざるを得ない。その時の恥ずかしいゴマカシ感が、邪気眼エンターテイメントとして、ひとつの完成を見たんじゃないかと。
エスパー物なんかは80年代以前から連綿とあるわけだけど(イヤボーンの法則とか)、エスパー物以外のジャンルにも邪気眼テイストが潜入してきている。ある世代にとって、共通言語になっているんじゃないだろうか。
『空の境界』が世代的に断絶している理由もそこにあるんだろう。「直死の魔眼」といった瞬間にシビれる若者と、「何それ、納得いく説明してくれよ」というオジサンたちの間に隔たりが生じている。邪気眼エンターテイメントは、それこそ「分からない人は見なくていい」ので、批評が成立しづらい。……というより、批評が不要な作品というものが、この世にはあるんじゃないだろうか。
昨夜の読売新聞に、『ポニョ』でリサを演じた山口智子のインタビュー記事が掲載されていた。やっぱり、キャラクターが魅力的でナンボかな。アニメは。『カリオストロ』ファンは、ほぼ例外なくクラリス好きだろう。宮崎アニメの強みは、そこに尽きる。ヒロインが可愛いからヒットする。絵が可愛いからヒットする。テーマでもなければメッセージでもないですよ。いつもの可愛いジブリ絵だったから、『ゲド戦記』までもがヒットしたわけで。役者を観にくるように、観客は絵を、キャラクターを観にくるんだよ。それは悪いことではなく、可愛いキャラが動くさまを見て、現実よりも理想的に増幅された温かみとか柔らかさを感じたいから、でしょ。
みんな、ヒットの理由をブランドのせいにしたがるけど、もっと原初的な「絵力」を忘れすぎだよ。ポニョが半魚人から人間になったとき、「そうこなくっちゃ!」と思ったし、だから彼女が人間になれるっていう不合理なラストを幸せに感じられるんだよ。どんなワガママで世界を水没させようが、ポニョは可愛いもん。
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コメント
「イタい」という言葉が最近浸透してますけど、誰が痛みを感じてるのかって言うと、それは見てる側なんですよね。
で、その「痛みを感じてる俺」ってムチャクチャ面白いですよねー。
邪気眼にシビレる若い人と、「分かんない」て思うオジサン達の間に、「イタくて見てられない」って世代がいて、多分自分が今その世代。
だから実は邪気眼を一番楽しめるのはむしろ俺達何だよ!
オジサンになっちゃう前に早めにたっぷりイタがっとけって!
こんなふうに考えるのは廣田さんの文章読んでるからなのか、それともこんなふうに考える自分だから廣田さんの文章好きなのか、それが最近の課題です。
投稿: 朝の銀狐 | 2008年8月16日 (土) 20時49分
■朝の銀狐様
なるほど、わが身に思い当たるフシがあるから「痛い」わけですね。
明らかに「最近の若いやつは、よく分かんない」より、「邪気眼って痛いよなあ」と感じてる方がいいですよ。「分かんない」は単なる不感症ですから。
『マトリックス』なんて、テレビでやるたびに苦笑しながら見てるんですけど、それはもう、楽しんじゃってるってことなんでしょうね……あざ笑っているつもりが、気がつくとファンになっていた、という体験がよくあるんです。
このブログも知人から「痛い」とよく言われます。当分、やめる気はないんですけど(笑)。
投稿: 廣田恵介 | 2008年8月16日 (土) 21時32分