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2008年8月30日 (土)

■大人はわかってくれない■

新宿西口地下で待ち合わせたら、「崖の上のポニョ展」やってた。080827_19180001
080827_19220001_4 「展」というか、広場の支柱に場面写がぺたぺた貼ってあるだけ。でも、これがなかなか綺麗。うっとり見とれてしまう41歳。ラジオ『ジブリ汗まみれ』で、押井守監督が「映画の体を成していない」と言っていたけど、それは映画の形式・様式にこだわる押井さんの発言だから、まだ耳を傾ける価値があるのであってね。
「形式も様式も知ったことか」という作品が『ポニョ』だと思うので、押井さんもずいぶんと的外れな指摘をする(もちろん押井さんの発言だから面白いんだけど)。『ポニョ』は映画じゃないんだよ。たまたま映画館で上映されている、「ポニョという表現」でしかない。みんな、「映画」という枠組みは壊れない、壊しちゃいけないと思っている。でも、人間、何をするか分からない。何が起きるか分からないから、生きていく価値もあるんだよ。

そうそう、『マクロスF』。あのハッピーだった第12話以降、忍耐に忍耐を重ねて見ている。他でもない河森作品、お世話になっているサテライト作品だから、最後まで付き合うけど……それは義理ですね。
大統領を銃で撃って、その場に死体を放置、誰も何の調査もせず、犯人が「私が全権を掌握した」って、それが通用するなら、もう何でもどうとでもなる。この番組の対象が中学生で、俺が中学生だったら「バカにすんな」って怒ってるよ。そんなもん、シナリオ(を尺に合わせて進行させるため)の都合でしかないじゃないか。犯人が「大統領はバジュラに殺された」とウソを言っても、死体を調べれば弾丸が出てくるはずでしょ。どうして誰も調査しないんだろう。大人げないとは思うんだけど、声優さんやCGスタッフの頑張りに対して、この杜撰さはないぜ。

そもそも、少年少女を犠牲にしても構わない、と考える大人を、少年少女向けのアニメに出したらイカンでしょ。そんな大人は、アニメに出す前に、作り手の中で殺しておいて欲しい。アニメに出してから悪さをさせて、何か言った気にならないで欲しい。「大人は堕落してるけど、若いキミたちは頑張れるよね」って、大人が言ったらダメなんです。
スターになるのは厳しいけど、悪党になるのは楽チンな世界を描いて何になるんだろう。
この作品には参加してないけど、板野一郎さんは『メガゾーン23』に参加した時、「大人は汚い」と言いながら絵を描いていたそうです。それを本気で言える人がつくったから、あの作品からはパッションが失われない。永遠に若い。

若者より、大人の描き方のほうが難しいんだな、と思う。大人に理想を託せるのか、それとも諦めているのか、露骨に出てしまうから。若いヤツに理想を押し付けるのは、一番ラクなんだ。「お前らより、俺たちオッサンの方がすごいよ」と言えなくなったら、大人が生きてる意味なんてないよ。

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2008年8月27日 (水)

■僕のギャラクティカ袋■

コクピットイズム Vol.8 30日発売予定
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●スーパーロボット操縦思想の系譜
全12ページにわたり、『機動戦士ガンダム』『機動戦士Zガンダム』『超時空要塞マクロス』『装甲騎兵ボトムズ』『無敵超人ザンボット3』『勇者ライディーン』『新世紀エヴァンゲリオン』『メガゾーン23』『トップをねらえ!』のコクピット、操縦方法を解説。あとはコラムで『戦闘メカ ザブングル』なども。
なんと、前代未聞のコクピット専門ムックですよ。こういう「ちょっとアニメを載せてみたい」という依頼が来たとき、たいてい僕は肩の力をほぐして、「軽くて浅くて、ぬる~い感じがいいんでしょ? ハイハイ」ってスタンスを取るんだけど、『コクピットイズム』は編集さんがガチで熱い人だった。各作品につけられたリードが知的で熱い。『ザンボット3』のリードなんて「ただ戦うだけでは許されない!」ですからね。そのまま番組のキャッチになりそうな勢い。
この特集の完成度は、僕の力量とは関係ない。本はやっぱり、編集者で決まるんだ。
ライターに与えられる作戦内容は、戦線ごとに違う。任務を与える指揮官だって、毎回違うのだ。初めて組む指揮官と呼吸を合わせられるかどうか。それが出来るのがプロであって、それ以外にプロの条件なんてない。

さて、なかなか日本ではブレイクしない『ギャラクティカ』のミニ特集を書いている。
080827_03410001誰に薦めても、その人にはその人なりのカテゴライズがあって、「ギャラクティカ? またアメリカのドラマですか?」と米ドラマ袋に入れる人もいれば、「ギャラクティカ? なんかSFですか?」とSF袋に入れてしまう人もいる。それはしょうがないんだけど、俺は『ギャラクティカ』序章を見た日に「ギャラクティカ袋」をつくった。翌日、『ユナイテッド93』を見て、それを「ギャラクティカ袋」の中に入れた。社会性の強いフィクションは、何でも「ギャラクティカ袋」に入り得る。
物事をギャラクティカ的視線で見るようになったと言ってもいい。そうすると、『スター・ウォーズ』なんてのは、もう失格なわけだ(笑)。偉大なる引きこもり妄想ヘタレ監督だった頃のジョージ・ルーカスは魅力的だが、もう僕の人生には必要ない。
仕事に向かって気をひきしめたい時、僕は『ギャラクティカ』を見る。たちまち自信と責任感が呼び覚まされる。それが僕と『ギャラクティカ』の関係だ。

シーズン2には、『エヴァンゲリオン』によく似たシーンがある。その場面は『エヴァ』を参考にしたのではなく、逆に『エヴァ』が『ギャラクティカ』のために用意したように、僕には見える。「ふざけんな、後から『ギャラクティカ』がパクったんだろ」と言われようとも、僕の視点からはそう見えてしまう。まるで、重たい巨石を下から積み上げてピラミッドが築かれたように、さまざまな文化が集積に集積を重ね、ある時代、ある作品が頂点に到達してしまう……。そういう現象が、あり得るんじゃないだろうか。
たった5万人になった人類が、異文化と戦ったり交じり合ったりしながら死にもの狂いで生き延びる話――『ギャラクティカ』のあらすじを簡単に言うと、そうなる――は、頂点に立つのにふさわしい物語と、僕には思える。

ここまで書いて気がついたけど、『ギャラクティカ』の魅力を説明しづらいというより、説明する俺に問題があるんだな……。
余談だが、若き日のジョージ・ルーカスは僕の中では、「ヘンリー・ダーガー袋」に入っている。快楽至上主義の誇大妄想クリエーターという点で、ルーカスとダーガーはかなり近いと思う。

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2008年8月24日 (日)

■ガウォークとポニョ、ライアンの娘■

ロマンアルバム 『崖の上のポニョ』 発売中
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●インタビュー記事、お手伝い
近藤勝也さん、吉田昇さん、宣伝チームのインタビュー、もうベタ起こししてあるものを文字数どおりに切ったり貼ったり……僕がインタビューしたわけではないので、本当にお手伝い。
この仕事している時は、映画も未見だったし忙しかったし、『ポニョ』に何の思い入れもなかった。出来た本を見ると、グラン・マンマーレがまた色っぽい。リサは25歳だそうだけど、俺の中では「成長したキキ」確定なので関係ない(近藤さんのリサのスケッチが、また色っぽくてグー)。
あと、フジモトってのは人間界に飽き飽きしたクロトワなんだよね。それと、やっぱりポニョのガウォーク形態(半魚人形態)は要らなかったような必要だったような。最初は、この半魚人形態が最初に決まってて、ファイター形態(サカナ形態)は後から決まったそうです。実はバルキリーもガウォーク形態が最初に決まっていた。メカもキャラも、中間形態が先に決まるんだな。まあ、どうでもいい話だけど。

それで、ロマンアルバムの近藤さんインタビューを読んでいただくと、『ポニョ』の男女関係のベーシックには『ライアンの娘』がある、と。自由奔放な娘を、男は最後には許して受けて入れていく。『ライアンの娘』は70年代の映画で、TSUTAYAに置いてあると思う。
『ポニョ』は一種、躁状態の映画だ。それに比べると『ライアンの娘』はぐっとシビアで沈痛な映画。海沿いのアイルランドの寒村で、酒屋の娘のロージーが生真面目な教師と結婚する。ところが、彼女は新たに村に赴任してきたイギリス人の少佐とあっさり恋に落ちてしまう。「恋に落ちる」というか、いきなりキス、二回目でセックスですよ。ロージーと少佐の間には、会話らしい会話すらない。情欲、肉欲オンリー。
ロージーはイギリス兵と関係したことから無実の罪を着せられ、村人からリンチに合う。彼女の浮気に深く傷ついていた夫は、ボロボロになったロージーを見て、二人で村を出ていくことを決意する。これは、単純なハッピーエンドではなく、二人を見送る老神父は「先のことは、分からん」と呟く。これは、宮崎駿が久石譲に宛てたメモ中の「不安定で、先が思いやられる状態で映画は終わりますが(以下略)」に符合する。
『ライアンの娘』には時代状況が絡んでいるし、死者も出る。でも、ロージーは周囲のことには全く関心がないし、崇高で観念的な愛なんて知らないわけだよ。快楽を知り抜いているだけであって。ポニョだって、「宗介、好きー」しか行動原理ないもんね。スキンシップしかない。
だからね、肉体と肉体の関係を、こんな視覚的快楽重視のアニメで表現してしまった『ポニョ』は淫靡で背徳的で当然なんだ。そして、肉体だけのつながりが愛ではないとは誰にも言い切れず、淫靡な関係が悪いとも言えないわけですよ。
まだまだ、僕らには知らないこと、分かってないことがいっぱいあるんだ。

監督がどこまで意識的だったのかは分からないけど、『ポニョ』は、激しくモラルを揺さぶる 映画になった。
080823_23220001_2(←ロマンアルバムより。こんなエロいキャラを、子供に見せてはいけません)
やっぱり、世の中は清濁交じり合って成立している。聖と俗の両方がないと、世界も人も成立しない。

(それとは全く関係ないのだが、結婚している頃、妻と通じる唯一のギャグ・ネタだったオカマの宮崎留美子さんが、なんと近所を歩いていた。とっさに妻にメールしようとしたが、離婚後二年半、音信不通の果てのメールがオカマかい!と我にかえり、メールはしなかった。オカマを見ないと妻のことを思い出せない俺も、どうかと思う)

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2008年8月21日 (木)

■ずーっと寝ていたいの。ずーっと夢見ていたいの。■

美術手帖9月号は、ジブリのレイアウト展に合わせて「スタジオジブリのレイアウト術」特集。もちろん『ポニョ』がらみのインタビューもあるんだけど、アニメ系ライターでなく映像研究家が080821_05270001書いているところがいい。アニメ通の視点でつくられてないところが、むしろ健全だ。
あと、深夜に日テレで『ポニョ』の子供向けメイキング番組の再放送をやっていたんだけど(「NEWSZERO」)、これが凄かった。タイムシートの説明に、えらく時間を割いている。「この絵が原画、次が動画です」とコマを止めながら説明できるのは、映像の強み。すごい情報量の番組だ。宮さんの、若手アニメーターに対する苦言も良かったなあ(カップラーメンしか食べてないやつは絵が描けないとか、素晴らしい発言の数々)。NHKのメイキングより、ぜんぜん良かった。
この夏は、確実に何かが起きた。2008年の夏は、何らかの形で映像史に記録されるはずだ。アニメーションのメイキングに、わずかでも大衆の目が向いた。裏方の職人にスポットが当たった。地上波のテレビで、アニメスタジオの作業風景が流れたんだから。これは大きいよ。「アニメーターになりたい」という子供たちが出てくるかも知れないじゃないの。『ポニョ』とその周辺が、明らかに未来を向いた。日本のアニメは、『ペンギン娘♥はぁと』も含めて、日本人にしかつくれない。やっぱり、日本人を生んで日本人を育てねばならんのだよ。

一方でねえ……9月に入ったら、また『ポニョ』に行こうかと思うんだけど、やっぱりこの作品はタブーを破ったのかも知れない。だいたい、フジモトが魔法の妙薬をつくっているシーンからして、ちょっと淫靡というか、見てはいかんものを見ているような。ヘンリー・ダーガーの部屋みたいだもん、フジモトの城は。人間やめて、神様と結婚しちゃったんだもん、フジモトって。芸術家だし、背徳者。クラクラしちゃうよ。
試写で『ポニョ』を見て、二度目は友達と二人で映画館で見て、次は一人で行くと思うんだけど……その合間合間が、夢から覚めて、また夢の続きを見るために目を閉じるような感覚。「いい夢だったから、もう少し寝ておくか」って、そういう瞬間って幸せでしょ? でも、生活はお留守になる。ずーっと寝ていたいの。ずーっと夢見ていたいの。そういう、生活から遊離する快楽性・危険性を明らかに持った映画。取り扱い注意ですよ。だから好きなんだけど(笑)。
夏の終わりに見る映画が『ポニョ』だなんて、こんな甘美なことはないですよ。もう、ウッシッシって感じでね。

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2008年8月18日 (月)

■ドイツ戦車、吉祥寺怪人、宮崎アニメ■

どうも本格的に宮崎スイッチが入ったらしく、大日本絵画発行の『泥まみれの虎』を衝動購入。エストニアの農村で戦ったドイツ戦車兵の手記を原作に、宮崎駿が現地取材と膨大な想像力を080818_04410001駆使して漫画化した労作。想像力ってのは、知識という裏づけがないと説得力を持たないんだと痛感した。『ポニョ』を「子供レベルの想像力」だと思っている人は、宮崎駿が偏執的とも言える「現実観察主義者」であることを知らないんじゃないだろうか。
もっとも、この本の後半に収められた『ハンスの帰還』には、民間人の女の子が登場。なんと敗走する戦車の指揮をとってしまう(四号戦車の断面図に女の子が座っている図解は、なかなか倒錯的)。明らかに妄想なのだが、くだんの女の子はとっさの判断で真っ赤なスカートを脱いで、追撃してくるソビエト機に向かって赤旗のように振る! やっぱり、知識の上に乗っかったギャグとエッチは味わい深い。

この本の編集は、卯月緑さん。誰あろう、『立喰師列伝』で月見の銀二を演じた吉祥寺怪人さんである……というより、編集者の小泉聡さんといった方が僕はピンとくる。僕が粘土でオリジナルデザインのクリーチャーを作っていた頃(高三~浪人にかけて)、「今度、モデルグラフィックスの編集部に遊びにおいでよ」と声をかけていただいた。その数年後、ある映像企画を持ち込んでいる頃、「小泉聡という人に見せてみたら?」と言われ、吉祥寺の事務所にて再会を果たす。企画はモノにならなかったけど、別れ際に熱く励まされたのを覚えている。
『泥まみれの虎』には舞台となったエストニア~ドイツ旅行記も収録されている。いいお仕事に、また励まされました。
さて、『ポニョ』のメカ描写といえば、ポンポン船。あれを動かすプロセスに手を抜けないのが、宮崎駿という人。現代の話だからラジコン船を出す、なんてくだらないことは絶対にやらない人なんだ。

先日、「キャラが可愛いから、みんな宮崎アニメを見たがる」と書いたけど、マーケティング080818_18250002 とかじゃなくて、天然で万人受けするキャラをつくってきてしまったのが宮崎駿(むろん先達たちのセンスを吸収しながら)。『ブレイブ ストーリー』を取材した時、フジは「このアニメには女の子が出てこない」と焦りの色を濃くしていた。冗談抜きに、僕は「可愛い女の子キャラが出なかった」ことが『ブレイブ』のかなり大きな敗因だと思っている。それを公開前に察知したフジも、さすがと言わざるをえない。
しかし、キャラの絵ヅラというのは長年の技術の蓄積の上に成立しているので、とてもじゃないが宮崎キャラの絵は、新参者には模倣できない。面白いよねえ、アニメの世界って。

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2008年8月16日 (土)

■邪気眼と絵ぢから■

昨日は『空の境界 第五章 矛盾螺旋』の試写会に行ってきた(と言っても、今日から公開中だけど)。クライマックスの狂ったような戦闘シーンを見てようやく気がついたけど、邪気眼だよね、この作品って。「邪気眼」についてはネガティブな説明しかネットにないと思うけど、俺の定義では「選ばれし特殊能力者が、そいつらにしか分からないルールとセリフで死闘を繰り広げる」フィクションは、すべて邪気眼ですよ。大好きな『ジャイアントロボ 地球が静止する日』だってそうですよ。「き、貴様はまさか?」「あの力を使うつもりか!」とか、“訳ありなセリフ”に作者も読者も酔う。邪気眼モノってのは、そういうエンターテイメントだと思う。映画で080816_04260001いうと『マトリックス』が邪気眼SFXの開祖。ウォシャウスキー兄弟のヤツラが禁断の箱(ルビで“パンドラ”とか入ると邪気眼っぽい)を開いてしまったんでしょうね。
「選ばれし特殊能力者」って意味では、『ハリー・ポッター』も邪気眼濃度が高い。そもそも、「原作が長大で、なかなか終わらない」「映画にしたら、最低でも三部構成」とか、邪気眼モノには特徴がある。
くれぐれも言っておきたいけど、邪気眼だからダメだと言っているわけではない。むしろ、エンターテイメントの伏流水として捉えたほうがいい。

邪気眼は中二病と絡めて語られることが多いけど、つまり第二次性徴を迎えると、自分の肉体にビックリするような変化が訪れるわけで、その戸惑いをフィクションに転化すると、邪気眼にならざるを得ない。その時の恥ずかしいゴマカシ感が、邪気眼エンターテイメントとして、ひとつの完成を見たんじゃないかと。
エスパー物なんかは80年代以前から連綿とあるわけだけど(イヤボーンの法則とか)、エスパー物以外のジャンルにも邪気眼テイストが潜入してきている。ある世代にとって、共通言語になっているんじゃないだろうか。
『空の境界』が世代的に断絶している理由もそこにあるんだろう。「直死の魔眼」といった瞬間にシビれる若者と、「何それ、納得いく説明してくれよ」というオジサンたちの間に隔たりが生じている。邪気眼エンターテイメントは、それこそ「分からない人は見なくていい」ので、批評が成立しづらい。……というより、批評が不要な作品というものが、この世にはあるんじゃないだろうか。

昨夜の読売新聞に、『ポニョ』でリサを演じた山口智子のインタビュー記事が掲載されてい080816_05050001た。やっぱり、キャラクターが魅力的でナンボかな。アニメは。『カリオストロ』ファンは、ほぼ例外なくクラリス好きだろう。宮崎アニメの強みは、そこに尽きる。ヒロインが可愛いからヒットする。絵が可愛いからヒットする。テーマでもなければメッセージでもないですよ。いつもの可愛いジブリ絵だったから、『ゲド戦記』までもがヒットしたわけで。役者を観にくるように、観客は絵を、キャラクターを観にくるんだよ。それは悪いことではなく、可愛いキャラが動くさまを見て、現実よりも理想的に増幅された温かみとか柔らかさを感じたいから、でしょ。
みんな、ヒットの理由をブランドのせいにしたがるけど、もっと原初的な「絵力」を忘れすぎだよ。ポニョが半魚人から人間になったとき、「そうこなくっちゃ!」と思ったし、だから彼女が人間になれるっていう不合理なラストを幸せに感じられるんだよ。どんなワガママで世界を水没させようが、ポニョは可愛いもん。

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2008年8月12日 (火)

■宮崎駿に関する、ある変遷■

96年に出版された宮崎駿の発言集『出発点』の続編、『折り返し点』を買ってしまった。この10年間、080812_18380001 数多くの宮崎駿研究本が出されたが、どれひとつ読んでいない。理由は単純で、原作の『ナウシカ』は終わってしまったし、『千と千尋の神隠し』は退屈だったし、宮崎駿に興味が失せたから。

そもそも、第一印象がよくなかった。初代『ルパン三世』のアダルトなムードをぶっ壊したのが、宮崎駿。それを知ったのは、もう第二シリーズが始まろうという頃だから、当時10歳か。『カリオストロの城』なんて、『ルパン』を子供向けにした張本人の作品でしょ。誰が見るもんですか。「確かにルパンとしては許せないけど、アニメとしては傑作だから」と友人に説得され、二番館で見た。でも、今でも好きじゃないな。
新『ルパン』の『死の翼アルバトロス』と『さらば愛しきルパンよ』もマニア人気が高くて、海洋堂からガレージキットが出ていたのを覚えている。宮崎駿って人は、兵器マニアっぷりが尋常じゃない。「こんなミリオタの癖に、なんでアカでロリコンなんだ」って、その矛盾が10代の僕には許せなかった。

アニメージュ誌上で『ナウシカ』が連載開始された時も、「なんだ、このチマチマした絵は。こんなの、漫画じゃないよ」とイライラしてばかりいた。翌々年公開のアニメ版『ナウシカ』は、友達がチケットを安く譲ってくれたので観に行った。その時、ちょっと心境の変化があったんだ。「まあまあだけど、これなら漫画の方が面白いじゃないか。あの漫画のチマチマした絵をアニメでは再現できてない!」と。それ以降、原作『ナウシカ』をむさぼるように読み返して、新刊が出るたび本屋に走って買いに行ったよ。
ようするに、人間って抵抗するんだよね。自分の深部に突き刺さった重要な作品ほど、罵倒せずにはおれないわけ。自分を知的で冷静だと思っている人ほど、周到に作品を否定する。否定しないと、自我が壊れるから。
今の『ポニョ』叩きがそうだよね。「ポニョは水道水で死んだはず」から始まって「熱いハムを食べたら、元が海水魚であるポニョは即死するはず」まで、新説続々。よっぽど『ポニョ』に圧倒されたんですね、と肩でも叩きたくなってしまう。

自我なんて、壊すためにあるんだ。「感動した!」ってのは、「自我が壊れた!」ってことだから。殻を脱がない蛇は死ぬしかない。
だから、僕がなるべくいろんな作品に触れたいと思うのは、好みの作品を見つけたいからではない。固まりかけた自分を打ち壊してくれるような衝撃を求めている。
宮崎駿という人は、原作『ナウシカ』と『ポニョ』で二回、僕の自我を粉々にしてくれた。とても感謝している。

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2008年8月11日 (月)

■『うる星やつら』に関する、ある挫折■

EX大衆 9月号 発売中
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●優木まおみ グラビアポエム
●愛ドルのリコーダー 坂本りおん 妄想ポエム館
●マクロスF徹底攻略!

グラビアポエムは毎月のことだけど、最後の「マクロスF徹底攻略!」は旧作と新作の似たシーンを比較……というミニ特集ですね。濃いマニアからは「だからどうした?」と言われそうだけど、読者に合わせて記事の方向・深度を変えられないとね。
実はこの雑誌で『マクロス』やるのは二度目なんだけど、その時は河森監督や飯島真理さんのインタビューを入れたりして、お堅くやりすぎた。

招待券をいただいたので、銀座松屋へ「高橋留美子展」を観に行く。めちゃくちゃ人が多く、絵の前に立ち止まることが出来ないほど。でも、カラー原画にエアブラシが使ってある080808_14250001_2のを見て、高校時代、『うる星やつら』のイラストを描いていたことを思い出した。70~80年代、エアブラシはハイテクの象徴だった。スーパーリアリズムはもちろん、SFXの現場でも欠かせない魔法の道具で、憧れのアイテムだったんだ。星型のマスクを切って、ラムちゃんの後ろの背景をボカして描いたりした。中毒レベルの『うる星』ファンだったんだ。
だけど、同じ『うる星』好きの友人が、高橋留美子作品の18禁同人誌を集めているのを見て、すさまじい嫌悪を感じた。さらに初の劇場映画『オンリー・ユー』の試写会が追い討ちをかけた。ラムちゃんのブラジャーが外れるシーンで、一斉にカメラのシャッター音がしたのだ。「俺は、お前らとは違うぞ」と叫びたかった。
でも、あのシーンで写真を撮った連中が悪いんじゃない。そんなシーンをつくった押井守が悪いんでもない。ただ、僕と『うる星』の「関係」は、その夜に終わった。
翌日、ファンクラブの会誌から原作本、レコードから文具から、何もかも売っぱらって、二度と『うる星』、いや高橋留美子作品には近づかなかった。そんな複雑な思いも、「高橋留美子展」会場で僕の足を急がせた理由のひとつだろう。
思春期に漫画やアニメに熱中していれば、誰でもひとつやふたつはそういう過去があるんでは……と思うのだが、意外や挫折経験は耳にしない。

それも道理で、たいていの人は深く踏み込む前に、自分でも気づかぬほど小さな挫折を通過して、あっさりと漫画やアニメから手を離したり、自然に距離をおいたりしてきたのだ。
結局、ジャンル・国籍を問わず実写映画を一日に3~6本観るという生活を経た後、ある映像制作会社で『ジャイアントロボ』の冒頭10分ほどを見せられて、アニメという表現に再び強い興味がわいた。
今年、仕事の資料として『うる星』のテレビ版最終回と劇場版完結編を初めて観た。その時の感覚は、インポテンツに近かった。あるいは、疎外感といってもいい。あらゆるアニメの中で『うる星』に対する感情だけが、ぽっかりと空洞になっている感じ。
だけど、そんな事情と関係なく読者に記事を提供できるから、俺はこの稼業で食っていけてるのだ。「好き好き大好き」だけじゃダメだと思う。何ごとも。

余談だが、二日かけて『ギャラクティカ/シーズン2』全20話を一気に見た。シーズン1は話の方向性がバラバラで抽象的な部分もあったけど、シーズン2はがっちりと「事実」だけを積み重ねていく。その正攻法のドラマづくりが頂点を迎える第9話では、声を出して泣いてしまった。「熱い」のではなく「厚い」ドラマ。シーズン2の放映は9/17から。まだシーズン1を見てない人、北京オリンピックなんて見てる場合じゃないぞ。

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2008年8月 7日 (木)

■キキ、今年32歳■

オトナアニメ Vol.9 明日発売
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●『マクロスF』クロスレビュー
●河森正治年表
●『マクロスⅡ』レビュー
●『鉄腕バーディー』 出渕裕×植田益朗 対談

河森さんの年表は主観丸出しで書いたので、けっこう直されてるかも。あと、『CONTINUE』に書いたせいか、『マクロスⅡ』は僕のところに回ってくる(笑)。けっこう、見ないで黒歴史とか言ってる人が多いような気がするんだよな。

昨夜は五歳上のオッサン一人誘って、『ポニョ』二回目。いやはや、やっぱりスゴイ。宮さん飛ばしすぎ。どこにでもありそうな港町に、フジモトみたいな魔法使いが平然と住んでるところからして、もう空前絶後の異世界だ。日常と魔法が地続きなんて、これほどアニメ向けの世界はない。
080807_14350001ポニョ』を「常識に欠ける」と批判する人が多い。作品に合わせて自分のチューニングを変えられない人が、こんなに大勢いることに俺は驚く。「海水で暮らしていたポニョを真水につけたら死ぬはず」とかさ。俺も小さい頃、海でつかまえたカニを飼育しようとして、うっかり死なせてしまったものだ。それは実体験や親が教えるべきものであって、アニメに頼るもんじゃない。「宗介の母親は、乱暴な運転をしすぎる」とかさ。あなたが日常で安全運転すれば、それですむ話でしょ。作品を矮小化して、自分の目線にまで引きずりおろしてる人が多い。変幻自在に物理法則の変わる世界を敢えて手間暇かけてつくっているわけだから、見る側にも柔軟性がないとあかんのですよ。
『ポニョ』に限らないけど、エンターテイメントやフィクションに対して、被害者ヅラする人が増えた気がする。映画専門のクレーマーみたいな人がいるよね。自分の人生がつまんなきゃ、そりゃ何を見てもつまんないよ。……と、小言はこれぐらいにしておきますか。
「他の映画はどうだか知りませんが、今回はこれで最後まで行かせていただきます」というワガママっぷりでは『CASSHERN』に匹敵するし、目玉をくすぐるような視覚的快楽も含めてアンモラルな内容だと思うし、『ポニョ』嫌いな人は、その背徳性に怒ってるんじゃないだろうか。
ゾクゾクするような官能的な『崖の上のポニョ』、俺は大好きですよ(『ポニョ』が参考にした映画は、8月下旬発売のロマンアルバムの近藤勝也氏のインタビューで明かされるはず)。

ところで、リサが『トトロ』の歌をうたうのは、『トトロ』はもうクラシックになった(現役をしりぞいた)という、作家の表明であるような気がした。ちょうど20年だからね。あと、「どんな不思議なことが起きても、あとで分かるようになる」みたいなこと言ってたのは、やっぱりリサは成長したキキだからじゃないかと思う……『魔女の宅急便』が89年公開だから、今年でキキは32歳なんだよ。五歳の子がいても不思議じゃない。キキも自転車二人乗りで暴走してたし……。

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2008年8月 2日 (土)

■マクロス、ランカ、海獣の子供■

昨夜の『マクロスF』は、オープニングが良かった。知らない人のために説明しておくと、楽曲は中島愛さんの『星間飛行』で、ランカ・リーの素材だけを使った特別映像だったのだ。本編が沈みがちな分、せめてオープニングは明るく……という誠意が感じられて良かったよなあ。クレジットを見ると、このオープニングをつくったのは竹内康晃さん。『地球少女アルジュナ』の頃から、河森組では編集マンとして参加している人だ(『アルジュナ』でのクレジットはデジタルコーディネート……だけど、もっといろいろやっていたと思う)。
『アルジュナ』のDVDに収録されていた『KENjIの春』のPVも竹内さんの仕事。『アルジュナ』が文化庁メディア芸術祭で審査委員会推薦作品に選ばれたとき、本編未使用BGM(もちろん管野よう子作曲)に合わせて会場展示用映像をつくったのも竹内さん(この映像はDVDに収録されてない。めちゃくちゃカッコいいのに)。

そもそも、バンクを使って新しいストーリーをつくるのは河森正治の必殺技で、初代『マクロス』でも『アクエリオン』でもやっている。『アクエリオン』の後期OPも、バンクをセンスよく活用していた。『マクロスF』のアイキャッチとEDは、ありもの素材を使って撮影部がつくっていたはず。バンクを使っても十分に面白い映像がつくれるんだ、という気風が河森組の間に流れているんだと思う(バンク=手抜きという反応しか出来ない人には理解できないだろうけど)。
それで、今回のランカ・リー版の幸福感いっぱいのOPを見て思ったんだけど……もう、本編もこれぐらい軽くていいんじゃないの? 戦闘、ラブコメ、歌だけでいいではないか。セルフ・パロディを解禁したんだったら、初代『マクロス』並に自由気ままにバカを貫いてほしかった。陰謀を企む大人を出して、そいつらに何もかも押しつけてしまったら、もうその大人たちには死んで償ってもらうしかないじゃないか。それは単に「ダーク」なだけであって、若い主人公たちが苦難を乗り越える「ハード」な物語とは違うと思う。
やっぱり、『マクロスF』は中島愛さんがデビューして、CDもヒットして、現実に起きているお祭をひっくるめて「物語」だと思うんだよな。今は、本編がそれに水を差しているように見えてならないなあ……。

来週、友達ともう一回『ポニョ』を見てこようかと思うのだが、試写で見たとき比較対象とし080802_17340001て頭に浮かんだのが『海獣の子供』だった。『ポニョ』に比べれば、『海獣の子供』の海は物理的すぎて神秘がないな、などと思っていたら、第三巻で、いい感じに発狂しはじめた。やっぱり「怖い」と思わせるぐらいじゃないと、神秘は描けない。
小さい頃に読んで印象に残ってる絵本って、ぜんぶ怖かったもの。足元から常識が崩れていくような恐怖がないと、世界の神秘には触れられない。
だから、自分の常識に疑いを持ってない人ほど『ポニョ』を見て怒るんだろうな。

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