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2008年6月30日 (月)

■バーディー、おろち、コスプレ■

昼過ぎから『鉄腕バーディー』試写。酔うぐらい動く。止まって口パクだけになると不安になるぐ080630_15360001_2らい、動き続けるアニメ。「おっ、ここは4コマかな?」とか、動きの中でメリハリがある感じかなあ。「作画酔い」しそう。
たぶん『幻魔大戦』が元祖だと思うんだけど、キャラクターの服の銘柄まで決めてありそうな、日常に近接した世界観。『幻魔』では、スラックスの裾をあげると、靴下にラコステのワンポイントが入っていたりした。『バーディー』も、その系譜。『妄想代理人』とか、今敏の作品も、その路線ですかね。あとは『フリクリ』とか。カジュアル系アニメ、とでも呼ぶべきか。写実的ではないんだよね。ちょっとカジュアルな記号がディテールにまぶしてあるだけであって、絵はかわいい。
そういえば、冒頭の敵の宇宙船のシーンは「Grasshoppa!」」の『TRAVA』みたいな感じもあって、ちょっとオシャレ。……で、そういうカジュアル感とかオシャレ感がコアなアニメファンに歓迎されるかというと、ちょっと疑問はある。例えば、女の子のキャラクターがシーンごとに違う服で出てくると、そこに日常に近い時間が生じてしまう。俺はそういう違和感が嬉しいけど、「アニメを見たい」人は、日常との近似性なんて求めてないんじゃないだろうか?
それは「アニメを見たい」のか「映像を見たい」のか……という志向性の差なのかも知れない。

試写会といえば、秋公開の『おろち』も見てきたんだ。先週。
もちろん、谷村美月目当てで。あいかわらず迫力ある顔してるんだけど、後半は普通の女の子(と言っても時代設定が70年代初期ぐらいなので普通といっていいのかどうか)の役もやっていている。たまには、歳相応の役もやらせてあげないと……笑顔のある役をさ。
映画自体は、木村佳乃と中越典子が業の深さをむんむんに発揮していて良かった。これぞセントラルアーツ、これぞ東映映画。そこはかとない80年代の香り。

80年代といえば、『バーディー』の試写会で木口亜矢がコスプレしてたけど、これが『ゼイラ080630_20320001 ム』みたいで良かった。特に、本来はコスチュームのない肌の露出部分をテカテカのビニール素材でごまかしてるところがエロい(左の写真は、そういう処理はしてないみたいだけど)。ちょっとバーバレラ風でもある。
80年代って、アニメだけでなく実写でもコスチューム・ヒロイン物が出てきた時代でもあったんだ(『マイティ・レディ』とか『地球防衛少女イコちゃん』とか)。ちょっと木口バーディーには、その時代のマイナーな雰囲気があった。
アニメの宣伝としては、男性向け過ぎて(『バーディー』はメーカーPも現場Pも女性だけど)、やや泥臭さを感じる。でも、原作のはじまった80年代の空気は確実にその場に発生しているという、不思議なプロモーション。

夜は『崖の上のポニョ』の先行試写だったけど、入場ハガキが複製禁止だったりして、いろいろモノモノしい。明日以降でいいや。

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2008年6月23日 (月)

■次の曲がり角■

Virtual Walker 創刊2号 27日発売予定
200805000306
●TV情報欄
●映画情報欄

後者は『スカイ・クロラ』レビューと、押井作品4本の紹介。TV情報欄には『鉄腕バーディー』の情報も書いたんだけど、これは編集氏の指示だったか自分で希望したのか、ちょっと覚えてない。来週試写だけど、どうなったかなぁ。

旅行中に録りだめしてあった『アクビガール』を見て、あいかわらずご都合主義でオチがないのに、やっぱり泣いてしまう。
080622_20340001(←これが、沖縄で買った琉球アクビのステッカー。このパラダイス感が、アニメのイメージにフィットしていると思う)
なんでこんなに泣けるんだろう、と考えた。『アクビガール』で泣く僕の感性が優れているのではなく、『アクビガール』という作品が特に優れているわけでもなく、単に、僕と作品の「出会い」「関係」が素晴らしかったのだ、としか言いようがない。
作品に点数をつけたり、頭ごなしに酷評する人は、実は作品と出会ってすらいない。自分を完璧だと思っているので、作品と「関係」なんて築けるわけがない。欠落を認め合わなくては、作品を愛せないし、愛されない。
脚本が良くない、演出が最悪、音楽もセンスなし……えんえんと続く作品への酷評は、実は自分への恨み節なのだと思う。自分の欠落を一切合財、相手になすりつけているだけじゃないだろうか。

臨死体験できるドラッグを探し回るロードムービー、『図鑑に載ってない虫』は下品なギャグも含めて、キュートな映画だった。途中で、「どうせ、なんかマジメなオチが待ってるんでしょ?」と気がついて、事実その通りだったんだけど、だからこそ愛らしい。常に「意外なオチ」が偉いなんて、誰が決めた?
この映画では「極楽」という言葉が出てくるけど、僕の好きな言葉を使うと「楽園」を捜す旅。すべて。映画やアニメを見るのも、人と会うのも仕事するのも、酒を呑んだり笑ったり泣いたりするのも、すべて精神的楽園にたどり着くための道程なのだと思う。
作品を見ることは、いつもは曲がらない角をちょっと折れてみるのに似ている。そこに何かあるかも知れないし、ないかも知れない。何もなかったら、次の角を曲がればいい。なぜなら、まだ旅の途中だから。

あまり関係ないけど、今週の『マクロスF』(第12話)がスゴイよ。ひさびさに「萌え~」という言葉を思い出した。やっぱ、アニメってすげえ。段取りやシナリオ上の約束事を重ねた上での「萌え」なんだけど、確実に理屈を越えた何かを語りはじめている。この番組を作ってきたスタッフの積み重ねと、見てきた視聴者の積み重ねがピタッと重なる。こんな幸福でいいのかな、とさえ思う。必見。

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2008年6月20日 (金)

■琉球アクビと路地裏のこと■

沖縄旅行より帰還。
080617_17460001那覇市内のホテルについてすぐ、国際通りに行った。すると、なんと沖縄限定の『アクビガール』グッズを並べた店が……ひさびさに、「えーと……店ごと、売って下さい」って感じだった。初日は、「おー、こんな店があるのか」程度だったのだが、名護に一泊した後、どうしても気になって那覇へ戻り、「俺が着るんじゃないですよ」と3度も言い訳しながらTシャツとステッカーを購入。でも、とっくに本放送の終了した番組をこんなにプッシュして、この店、大丈夫なのか……一体、誰が買うんだ。
しかし、瞬間最大風速でいうと、いま世界で一番『アクビガール』を好きなのは俺だと思う。

さて、旅行会社のセットしたホテルは、風俗街のど真ん中にあった。ビル一軒、丸ごとキャバだったりする。
080618_01100001どこかで泡盛を飲もうと思っていたが、まさかキャバクラで飲むことになろうとは。
しかし、この店、ちょっと雰囲気が妙だ。
「5千円払ってくれれば、お店の外に行けるんだけど、どう?」
「何それ、アフターって意味?」
「そうじゃなくて、ホテルでもどこでも、今すぐ行けるよ」
「……ホテルはいいよ、ゴハンにしない?」
「ゴハンでもいいし、それは交渉次第……どうする?」
あまりに押しが強いので、メシ行くつもりで店外へ。そしたら嬢のやつ、徒歩数分のところにあるラブホに直行しやがんの。受付まで来たところで「俺、やっぱり帰る」。もちろん、そこから先、何万円かかるのか怖かったってのもあるんだけど。結局、自己愛なんだよ、そこまで来て断るってのは。自分が汚されたように感じる。戸惑うような状況に出会ったとき、意外と俺は相手に罪をかぶせるんだな、と思った。通り魔事件が発生したら、ダガーナイフのせいにする警視庁みたいなものだ。
こうした観光客相手のデートクラブは、沖縄では裏人気スポットらしい……って、俺は沖縄に何しに行ってるんだか。
しかし、観光地がぜんぶ面白いかというとそれは大ウソで、自分と出会うためには薄汚い路地裏に迷い込まなくてはならないのではないだろうか。

『真昼ノ星空』という映画に出てくる沖縄は、雨の似合う静かな町である。こういう映画を見ると、楽園のありかは、人それぞれに違うのだな、と思う。

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2008年6月16日 (月)

■沖縄前夜■

CONTINUE Vol.40 明日発売
Continue_cov40
●『超時空要塞マクロスⅡ』レビュー
●『マクロスダイナマイト7』レビュー

最初、編集さんからこの話が来たとき「他のライターさんが希望しなかった作品のレビューを引き受けます」と返事した。愛されない作品を愛するのは、俺の必殺技だから。そしたら、『マクロスⅡ』が来た(笑)。「続編」としては愚直なほどに良心的な作品なので、いずれまたどこかで取り上げたい。
もう一本の『ダイナマイト7』は、実は『プラス』あたりより成熟度が高いと思う。『プラス』は大人のドラマというよりは、青春モノだと思うんだよな。

EX大衆 7月号 とっくに発売中
Ex_taishu
●名作アニメ最終回 誌上再放送25
●愛ドルのリコーダー 安藤成子 ポエム
●山崎真美 グラビアポエム  
●相澤仁美 グラビアポム(袋とじ!)

「名作アニメ最終回」は、もう3回目。人気企画なんだけど、古いアニメは発掘して見るまでが大変なんだよなぁ。ソフト化されてなかったりするので。
あと、グラビアポエムに関して某局から取材の要請が来ているとか聞いたけど、いまだ連絡なし。取材、大歓迎なんすけど。

グレートメカニックDX5 本日発売
Isbn9784575464405
●富野由悠季 ザクを語る(インタビュー構成)
●ザクプラモの歴史
●ザクがもたらしたロボットアニメの変革
●ギャラクティカNOW
●『ブレードランナー』ファイナル・カット レビュー
●オヤヂ酒場DX

「オヤヂ酒場」のネタは、『マクロスF』と『亜空間漂流ガルダス』と『河童のクゥと夏休み』という異色三本立て。今回から、意識して辛口モードへ。
「ギャラクティカNOW」は、国内での『ギャラクティカ』の動きをなるべくお伝えしていくというコーナー(俺は連載のつもりなんですけどね)。いくら地上波でやっていないとはいえ、『ギャラクティカ』は10年後に見ては遅すぎる作品。「今」を描き続けるこの作品の切迫感・危機感は、巻頭特集の富野監督インタビューとも、かすかにリンクしている。ザクには富野監督の歴史観が表れている。世相を反映しないフィクションはあり得ないのだ。

青少年ネット規制法の成立、児童ポルノ法の厳罰化、人権擁護法案……これら耳ざわりのいい怪しげな法律によって、5年後には「思想・言論・表現の自由」なんて言葉は、死語と化しているかも知れない。
080614_00470001_2『ギャラクティカ』には、以下のようなセリフがある。査問会で嫌疑をかけられたアダマ艦長が、委員長に言い放つ。「君は見失っている。法の本来の目的をな。法は人を守るもので、吊るし上げるものではない。以後、われわれに残された道が何であれ、これよりはマシだ」
フィクションを通して、現実を見よ。現実から得たものをフィクションに落とし込め。快楽原則にのっとった萌え系アニメでさえ、現実と無関係ではいられない。鬱屈した中高校生が異性と隔絶している以上、『To LOVEる』だって現実と絡み合って存在している。現実と不可分なものを安易に規制すれば、歪みは必ず生じる。
あらゆるフィクション、あらゆる表現は理不尽な国家と戦うための、最も強力な武器である。

ちょっと唐突な話をしてしまったが、明日から3日間、沖縄へ。

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2008年6月11日 (水)

■ラジオとパズル、楽園のありか■

本日から配信の『談話室オヤカタ』に出てます。「とりとめなく何でも書くライター」と紹介されているけど、僕の定義では「ライター業で家賃光熱費を払い、日々生き延びている人がライター」。黒田硫黄さんがクイック・ジャパン誌のインタビューで「描きたいことがなくても描くのがプロの漫画家」と言っていたけど、「それで食っている」以外にプロの条件はないと思う。食えてない人は、プロでもなければライターでもない。

閑話休題。
どうやら来週の沖縄一人旅まで仕事漬けになりそうな気配なので、公開二日目のレイトショーで『神様のパ080609_00330001ズル』を鑑賞。三池崇史、今回はいい方向へ原作をクラッシュしてくれた。
市原隼人の演じる主人公が双子という設定になっているのに首をひねったけど、「ひょっとして、双子って物質と反物質の比喩?」と気がつけば、色々と納得がいく。市原が交響曲第9番を歌うという破れかぶれのクライマックスも、谷村美月に「父がいない」という設定にちゃんと繋がる(説明が難しいけど、注意深く見れば分かる)。
細かいところでは、関東・東海の大停電という非常事態に総理大臣が駆けつけられない理由が「母親の誕生日」。その日、谷村は「宇宙を誕生させる」実験をしていたのだから、ナルホドである。谷村演じる天才科学者は、「父」の存在を確かめるために「母」を誕生させようとしていたと解釈できる。とにかく、バラバラになりがちな難しい題材を、裏側からカチッとネジで締めるような工夫が、あちこちに仕掛けてある。映画自らが作り出した法則を、最後まできっちり守っている。誠実だ。こういう映画を、あなどってはいけない。
ただ、お目当ての谷村美月は、市原隼人の名調子っぷりに食われてしまった感があるな080610_05580001 ぁ……。やたらタンクトップからのぞく谷間に話題が集まっているが、三池監督がそんなストレートなエロスに本気であるはずもなく、むしろ足。ふくらはぎの肉をつまむ、足の指の間に手の指を通す……など、ねっとりした足フェチぶりを見せる。出世作『カナリア』でも、顔よりも棒みたいな足が印象に残ったからね。この女優は「存在感」というよりは、肉とか骨を感じさせる人。「映画で見た」というより「会った」気にさせる女優。
しかし、「天才」という設定は役者を殺すと思った。どんな名優が演じても、「天才」と「狂人」はうまくいった試しがない。『地獄の黙示録』のマーロン・ブランドぐらいじゃないだろうか。まあ、俺にとって谷村美月は20歳になろうが30歳になろうが「将来、楽しみな役者」であり続けるだろうから、良しとしたい。
あと、巨大建造物マニアの方には、架空の量子加速器「むげん」が、かなりツボにくるはず。

『アクビガール』、相変わらず至福の5分間。主である「るる」があくびをしないとアクビは出てこれないんだけど、るるはストーリーに脈絡なくあくびをする。悩んでいる最中ですら、あくびをする。それはもちろん脚本の都合なんだけど、別の見方をすれば、るるは何のキッカケもなくあくびが出るほど「満たされている」わけだ。幸せすぎて、あくびが出ちゃう。楽園は、きっと退屈なのだね。毎日、それを感じられるだけでも『アクビガール』を見る価値はある。

この世は楽園ではない。楽園は存在しないのかも知れない。だが、われわれは楽園を探さなくてはならない。

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2008年6月 7日 (土)

■予定調和の何が悪い?■

月刊「創」 7月号 発売中
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●日テレ、TBS、フジを中心に映画事業本格化 今や最大の製作会社TV局の課題
●星野康二(スタジオジブリ代表) インタビュー記事
●押井守(「スカイ・クロラ」監督) インタビュー記事

年に一度の映画特集ですね。押井監督インタビューは、「どうして声優でなく、俳優を使わざるを得なかったか」の部分が面白いと思う。このインタビューに関しては、11日配信のラジオ「談話室オヤカタ」で、裏話というほどじゃないけど、どんな様子だったか話してきた。とにかく話のネタとしては本当に最適の映画だし、ひさびさにドラマであるとかセリフであるとか演技であるとかについて語れるアニメ。

昨日は、所沢の古本まつりへ。帰宅後、猛烈に眠かったけど『アクビガール』だけは何とか見たんだよな。5分なら起きていられるから。
080607_03480002今回も良かった。で、このアニメの何がいいのか漠然と分かってきました。主人公の女の子(るる)が、男の子(いとしクン)に恋をしていて、アクビはるるの恋のキュービットになるべく魔法を使う。でも、いつも魔法は失敗してしまい、るるは大あわて……それが毎回のパターン。
アクビの魔法は失敗するんだけれど、いとしクンの寛容さや勘違いによって、るるの恋は「毎回、必ず」救われる。というか、るるはいつも「いとしクンと仲良くなりたい」と言っているけど、物語開始時点で二人の恋はすでに成就している。このアニメは、るるの得恋ラブラブ状態を描いているに過ぎないのだ。アクビは、るるの恋があたかもピンチ状態に置かれているかのように見せかけるためのトリックスター。だから、アクビの失敗は常に許される。
『アクビガール』の世界は祝福されているのだ。寛容と慈愛に満ちている。どれだけ失敗しても、見えざる神の手によって「ほら、これで元通り」と修復される世界。そんな優しい甘ったるい予定調和の、何がいけないっていうんだ。この物語の主人公の名前は「夢見るる」。たった5分間の夢なんだよ。

……まあ、そんなことをレンタルも始まった『ギャラクティカ』を見ながら考えた。
080607_05120001_2ミリタリーSFの装いで始まったこの物語は、少しずつ予定調和によって侵食されていく。人造人間であるはずのサイロンが、すべての出来事を「神の計画」と呼びはじめるのだ。実際、人類を裏切ったバルター博士が当てずっぽうで「神」に祈ったとたん、偶然に偶然が重なって、主人公たちは窮地を脱してしまう。最前線に立つギャラクティカの面々は、サイロンの「神の計画」など知るすべもないというのに。この薄気味悪さも、また『ギャラクティカ』の抗いがたい魅力のひとつだ。
いまや「論理的に説明のつく客観的事実」(バルター博士のセリフより)の世界に、われわれは住んでいない。だから、どんなに不条理であろうと「神」や「予定調和」が物語に介在した方が納得できるというか……努力によって克服される物語は、もはやリアリティを持っていないと思う。この何十年か有効だったフィクションの常識が通用しなくなってきているんじゃないだろうか。

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2008年6月 5日 (木)

■アクビの魔力■

『空の境界 伽藍の堂』 パンフレット
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●メイキング・ページ 構成・執筆
折り返し点、第四章(よくクビにならずに続けさせてもらえたなー)。なんと、監督と作監を兼ねた滝口禎一さんが自ら描いたカット……と、こういう情報は一番最後に分かったりするのだが、なんと8枚もセルを重ねてある。「凝った作画」=「動きの派手なカット」と考えがちだが、そんな単純なものじゃないんだ、と勉強になった。

ところで今、『アクビガール』を毎日見ている。『よばれてとびでて! アクビちゃん』じゃなくて、金田朋子さんが声をやっている5分番組。
080605_01490001たまたま見ていて、「あれ? この声、金朋さんじゃないの?」と思ってから、もう一日に一度は見ないと気がすまない。別に熱烈な金朋さんのファンじゃないけど、この人が出ていると、たいていのアニメは許せる。
「たまたま見ていて」というのは実はウソで、「日経キャラクターズ!」の取材で「今、タツノコアニメのグッズが若い女性に人気」というのがあったんだ。商品開発担当者(男性)がノリノリで。おっさんをもトリコじかけにするアクビの魔力。それを確かめたかった。
『アクビガール』は、まず背景の絵がいい。ファンシー。脳裏に「ジュニアそれいゆ」という誌名が浮かんだが、それは古すぎる。俺、『キャンディ・キャンディ』が好きで「なかよし」買っていたから、そっちの乙女回路が作動したんだろうな。
あと、ストーリーがないところがいい。主題歌で数十秒、アクビの決め台詞で20秒近くとられるから、物語は抽象的にならざるを得ない。原画マンは一人らしいのだが、作監はいる。制作進行は3人もいる。クレジットの都合でそうなっているんだろうけど、気になるよね。

金朋さんには二回インタビューしたことがあって、二度目は10人ぐらいの声優さんに面接形式で話を聞いたんだけど、金朋さんは一番最後にしてもらったんだ。話が長いから(笑)。
それはともかく、『アクビガール』って批評眼を持って見ることのできないアニメなんだ。なぜなら、短すぎて批評眼を持つ前に終わってしまうから(笑)。もちろん、このアニメを見て得るものなんかひとつもない。何かを「得る」というのは消耗することでもある(先日、『コードギアス』を見ていてマジ泣きしてしまったんだけど、それを消耗と言わずして何という。感動とは消耗である)。『アクビ』は見ていても消耗しないわけだから、癒される一方だよ。そういう卑怯かつ甘美な関係って成立しうるんだな、と不意に思い出した。恋愛もそうだし、子供の頃って過剰に得したり損したりするよね。

ところが、ある程度の歳になると物語(作品)にギブ・アンド・テイクを求めるようになる。例えば二時間の映画を見せるなら、ちょっとは笑わせてくれ、泣かせてくれ。分厚い本を読ませるんだから、せめて知識欲は満足させてくれ、とか。
『アクビガール』は、そんな大人のルールから逸脱している。綺麗、かわいい、笑える。こちらがギブするものは何もない。ソフト・ドラッグみたいなアニメだ。なんか不安になってきたので、社会性・宗教観・倫理観がとことん試される『ギャラクティカ』でも見よう。『ギャラクティカ』は、面白い代わりに疲れるからな。

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2008年6月 1日 (日)

■センス・オブ・ワンダー■

誰でも、「これ傑作!」と気に入った映画を見なおしてみて「こ、こんなはずでは……」と愕然とした経験をお持ちのことと思う。僕も、同じ映画を二度、三度と見ていた若い頃は日常茶飯事だった。幻想は、壊されるためにあるのだ。
過去、このブログで二度ほど取り上げ、「シネマガールズ Vol.2」のコラムでもしつこく「良かった」「感情移入しまくり」と絶賛した『渋谷区円山町』がケーブルテレビで流れていたので、後編だけ見る。

やっぱ、良かった。感獣移入しまくり。いじめられっ子の仲里依紗に、いつも一人で超然としている原裕美子が話しかける、その何気ないシーンからがっちりとドラマが始まっている。いや、たいしたドラマじゃないんだけど、それが「がっちり」していることが大事。
あと、こんなベタベタした話がどうして心を揺さぶるのか、何となく分かってきた。これは個人が「学校での友達づきあい」という「社会」に初めて向き合う話なんだ。例えば、「実は友達からいじめられていた」事実を受け入れた仲里依紗が、渋谷でプリクラを撮り合っている女子高生の集団を目撃してしまうシーン。自分と仲のいいフリをしていた友達のことが、いやでも頭をよぎる。それを意識させるためだろう、このカットは長めだ。それは目をそむけちゃいけないカットなんだ。だから、長いんだ。仲里依紗の「ガーン、ショック」なんて顔もなければ、芝居もない。そんな説明はない。彼女が何を感じたか、それは観客が一番よく知っている。知らないとは言わせない。そういう映画、そういう表現が好きだ。

ちょっと話がそれた。「社会」に対して盲目的に迎合することしか知らない仲里依紗に対して、原裕美子はハッキリと「社会」に対して線を引いている。もっと言うなら、「個人」と「社会」が両立可能なギリギリの境界線を、彼女は知っている。言うまでもなく、観客のほとんどは仲里依紗のように社会と馴れ合いながら生きている。本当は原裕美子のように一人で堂々と生きたいはずなのに。
だから、『渋谷区円山町』(の後編)は、単なる女子高生のナヨナヨ話ではない。いや、一面から見ると確かにそうなんだけど、同時に「社会とどう折り合いをつけるのか」という問題を提起している。そこまで噛み砕いてから、その作品を「好きだ」と言えるよう、今後は努める。

さて、先日の『マクロスF』。話としてはありふれているんだけど、クラン・クランがバルキリーをビンタするシーンで何もかも吹き飛んだ。
いま、巨大ロボットをアニメに出す意味って「ガンプラを売りたい」以上にないと思っていたんだけど、あのシーンには発見と必然があった。「巨人族と戦うために、巨大ロボットをつくる」という『マクロス』最初期のアイデアに血肉が通ったし、巨大ロボットの芝居がドラマ本編と力強く結びついた瞬間だと思う。ああいうシーンを……そうそう、センス・オブ・ワンダーと呼ぶんだったな。

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