■ラジオ、腑抜けども、ギャラクティカ■
機動戦士ガンダムの常識 発売中
●30本ばかり、記事執筆
コンビニで良く売ってる500円本で『ガンダム』をやっちゃおうという企画で、「だいたい、ひとつの記事について1時間ぐらいで書けるだろう」という読みは甘すぎた。「トミノメモ」とか「アニメ新世紀宣言」とか「ガンボイ」とかそのへん担当だったので、出典が当時のアニメックだったりする。もう、『ガンダム』は常識がどこにあるのか、分からん……マニアの方は、いろいろ突っ込んでください。
やっと休日というか何も予定のない日が出来たので、のんびりと池田憲章さんのWebラジオ「談話室オヤカタ」に出演させていただく(放送は6月11日と18日)。過去の番組を聴くと、業界の偉い方々ばかりなので「なんで私が?」と思っていたのだが、非常にリラックスして楽しく話せた。自分には確固たる肩書きもないし、一貫性もない。そこが逆に面白がられたみたい。モデラーからライターになるまでの話もしたのだが、そこで何か決意したわけでもなければ覚悟したわけでもない。ただ、現場をしのいできただけだ。
よく凝りまくった名刺をつくってギッシリと肩書きを刷る人がいるが、僕の名刺はシンプルだ。連絡先さえ分かれば仕事は出来る。
やったことの結果は受け入れていくし努力もつづけるが、自我は殺したい。
永作博美目当てで『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を見たんだが、なんと30歳すぎても処女で、色気のかけらもない人妻の役。髪形も服装もダサくてしょうがない。でも、そんな役を引き受けてしまう永作の自我の希薄さに憧れる。
たとえ自分の名前を忘れてしまっても、自分が自分であることから脱することは出来ない。その一種の諦めが、人間を洗練するのだと思う。
人通りの途絶えた夜中近くの駅前へ出て、TSUTAYAで映画を選ぶ自由さは、なんと素敵なことだろう。店内には、まだ何人かの客がいる。こういう時間は、たいてい一人の客ばかりだ。平日の夜中から映画を観ようとする人たちには、どんな理由があるのかな、と想像してしまう。
『腑抜けども~』の舞台は携帯の電波さえ届かない田舎だったけど、だからこそ人間の“濃さ”が際立つ。逆に、都会は一人あたりに与えられた面積が少ないから、その分、「窓」としてのフィクションが必要なのかもしれない。
そういえば、宣伝会社から『ギャラクティカ』のTシャツを送っていただいた。この地味なデザインが、作品のすべてを表している。無駄な自己主張がない。それが『ギャラクティカ』の魅力だ。
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