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2008年5月29日 (木)

■ラジオ、腑抜けども、ギャラクティカ■

機動戦士ガンダムの常識 発売中
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●30本ばかり、記事執筆
コンビニで良く売ってる500円本で『ガンダム』をやっちゃおうという企画で、「だいたい、ひとつの記事について1時間ぐらいで書けるだろう」という読みは甘すぎた。「トミノメモ」とか「アニメ新世紀宣言」とか「ガンボイ」とかそのへん担当だったので、出典が当時のアニメックだったりする。もう、『ガンダム』は常識がどこにあるのか、分からん……マニアの方は、いろいろ突っ込んでください。

やっと休日というか何も予定のない日が出来たので、のんびりと池田憲章さんのWebラジオ「談話室オヤカタ」に出演させていただく(放送は6月11日と18日)。過去の番組を聴くと、業界の偉い方々ばかりなので「なんで私が?」と思っていたのだが、非常にリラックスして楽しく話せた。自分には確固たる肩書きもないし、一貫性もない。そこが逆に面白がられたみたい。モデラーからライターになるまでの話もしたのだが、そこで何か決意したわけでもなければ覚悟したわけでもない。ただ、現場をしのいできただけだ。
よく凝りまくった名刺をつくってギッシリと肩書きを刷る人がいるが、僕の名刺はシンプルだ。連絡先さえ分かれば仕事は出来る。
やったことの結果は受け入れていくし努力もつづけるが、自我は殺したい。

永作博美目当てで『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を見たんだが、なんと30歳すぎても処女で、色気のかけらもない人妻の役。髪形も服装もダサくてしょうがない。でも、そんな役を引き受けてしまう永作の自我の希薄さに憧れる。
たとえ自分の名前を忘れてしまっても、自分が自分であることから脱することは出来ない。その一種の諦めが、人間を洗練するのだと思う。
人通りの途絶えた夜中近くの駅前へ出て、TSUTAYAで映画を選ぶ自由さは、なんと素敵なことだろう。店内には、まだ何人かの客がいる。こういう時間は、たいてい一人の客ばかりだ。平日の夜中から映画を観ようとする人たちには、どんな理由があるのかな、と想像してしまう。
『腑抜けども~』の舞台は携帯の電波さえ届かない田舎だったけど、だからこそ人間の“濃さ”が際立つ。逆に、都会は一人あたりに与えられた面積が少ないから、その分、「窓」としてのフィクションが必要なのかもしれない。

そういえば、宣伝会社から『ギャラクティカ』のTシャツを送っていただいた。
080529_10350001_2この地味なデザインが、作品のすべてを表している。無駄な自己主張がない。それが『ギャラクティカ』の魅力だ。

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2008年5月24日 (土)

■土木作業のアニメもあった■

22日木曜夜は、新宿バルト9にて『ギャラクティカ』DLP上映。
080524_04540001←観客に配られた、サイロン兵のお面。プレス関係者は貰えなかったので、帰りに「ください」とおねだりした。スタッフの着ていたギャラクティカのマーク入りTシャツも「ください」と言っておいた。記事がよかったら、くれるかも知れない。
プレス席は、ステージイベントを撮影しやすいように最前列。上映が始まると、ゲストへの個別取材のため、俺以外の全員がロビーへ出て行ってしまったのには驚いたよ。信じられない。この名作を大画面で見られる最初で最後のチャンスなのかも知れないのに。
そして、今度の吹き替え版は、「あれ?」と思っていた用語が直されている完璧版。まあ、それは記事に書いたので、とにかく皆さんはレンタルで『ギャラクティカ』を見て欲しい。

そして、翌日午前中にDVD-BOXが届く。
080523_19420001080523_22310001空箱の中には、さり気なくスチール詰め合わせが入っている。ちゃんと劇中どおりに8角形である上に、名言「So Say We All」ですよ? ちょっと写真とセリフが一致してないけど、そんなこと気にしてはいけない。ひさびさにマニアな気持ちになれる商品だ。
パッケージも含めて、アニメのDVDでこんな豊かな気持ちになれたことってないような気がする。それは、俺が中古ばかり買っているせいかも知れないけど……。でも、テレビで無料で流したものをネットにUPするのはダメで(UPした人間は何の利益も得てないのに)、その代わりDVDは買ってくれというのは、かなり矛盾している。「DVDを買わざるを得ない」価値の部分を、みんな忘れている。よくある言い方だけど「目先の利益」ばかり追求するから、こういうイビツなことになっているんだと思う。

先日もちょっと書いたけど、何の因果か、今ごろになって『くりいむレモン』を観ることになった。特に凄かったのが『亜美・イマージュ』あたりかなぁ、無理やりつくったミュージック・080524_06030002 ビデオ。これは「目先の利益」が「芸」になっている。背景の殴り書き具合とか、もう凄い。「しょうがねぇだろ、時間がないし金も安いしよぉ」という現場の叫びが、フィルムにくっきり焼きつけられている。「クオリティ? お前ら、どうせヌキ目的で買ってんだろ? 背景なんか見てないだろっ!」というメッセージのこもった背景。もう、土木作業ですよ、これは。作画じゃなくて、工事。ただ、紙に絵の具を塗りつけただけ(笑)。
あと、ミュージック・ビデオのくせに、すごい暴力的な編集。今みたいに編集ソフトじゃなくて、スプライサーでガチャン、の世界だから。
でも、「アニメって面白いな」と思ったのは、背景でも動画でも「結局は撮影する」わけで、絵としての完結性が求められてないところ。フィルムをつくるために描かれる「材料」なんだ。それが理解できると面白い。

毎度おなじみの作画崩壊ネタでいうと、ワンカットごとに絵としての「完結性」を求めているから崩れて見えるんだろうな(止め絵にした時に崩れてないか気にする人は、作画がパーツであることを理解できてない)。
もっと大事なのは、セルとフィルムがなくなった時、どうしても滲み出てしまう「人手で作ってる」感が消えたこと。「技術」だけが見られるようになったこと。例えば、絵の下手な人が鉛筆でパパッと描くと「味」になるけど、Photoshop使ってマウスでパパッと描くと、腹立つぐらい「下手さ」が強調される。
『亜美・イマージュ』の、アートの域に達した手抜き作画を見れば、いい勉強になります。上手な破綻のない絵だけ見ていても、何にもならない。

あと、俺はジジイだから言うけど、昨夜の『マクロスF』。強化服で卵を割るのは『宇宙の戦士』が元ネタでしょ。そういうマニア的基礎知識が、まるで伝わってないこの断絶感。

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2008年5月21日 (水)

■リスクヘッジはしません■

別冊アニカンR 005号 発売中 
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●巻頭マクロスF特集、いろいろ執筆
中島愛さんインタビュー、葛西励プロデューサー(と八木下浩史CGIディレクター)インタビュー、マクロスヒストリーなど。クラン・クランの乗る「クァドラン・レア」は、脚本段階では「クァドラン・ローγ(ガンマ)」だったんだけど、それが誌面で直ってるかどうかは、見本誌が手元にないので分からない。意外に、こういうのはアフレコ時に変わったりするんだよね(この場合は分からないけど、脚本やコンテ通りとは限らない)。
この別冊アニカンR、公式サイトに情報が載っていてちょっとビックリ。しかも、Amazonでは売り切れ。それで俺のところに献本がないんだろうか。

先日は押井監督のインタビュー起こしだったけど、今日は富野由悠季監督の起こし。かなり変な質問をしている。これはかなり異色インタビューだし、互換性がない(他誌には載せられない)という意味では、非常に面白い。
それで、話の流れで思い出したんだけど、俺は『ターンエーガンダム』の時、富野監督にファンレターを出したんだった。ライターとしては新人だったから、インタビューのチャンスなんてないと思って、手書きで感想を書いたら、ちゃんと返事が来たよ。
河森正治さんもそう。『地球少女アルジュナ』放送中に手紙を出した。一度だけお会いしたことはあったけど、住所なんて分からないから「サテライト気付」で出したはず。富野監督も「サンライズ気付」で出したら、ちゃんと届いた。
何が言いたいのかっていうと、「マクロスFの作画が崩れていて、嫌だな」と思ったら、手紙出すぐらいすればいいじゃん。ネットに書いて、スタッフが見てくれるの待ってるのかよ。メールは担当者が読んで終わりかも知れないけど、手紙は届く。別に、もう死んじゃった監督に手紙出すわけじゃないんだからさ。

ネットっていうのは怒りをバーチャルにして吸収する。書いたら、割とあっさり溜飲が下がるシステムになっている。「相手に矛先を向ける」というリスクを、極限まで回避できる。リスクを負わない発言には、説得力が伴わないというのに。
安全な場所から、自分の嫌な相手を狙撃できるようなシステムになってる。作画崩壊なら作画崩壊で、ネットのどこかにそう書けば、何か言った気になれる。それは、豆鉄砲で届かない弾を撃っただけなんだけど……「あっ、届かないんだ」って気がついた瞬間、もっと空しいでしょって。空しくないはずがないんだよ。
僕なんか、あちこちインタビューしている割に人と会うのが苦手です。いまだに取材先で汗が出たり、声が小さくなったりする。でも、それでも会話は成立する。何でかというと、こっちは「他人が苦手」というリスクをしょってるから。
思わぬところに話が転がったけど、話すのが苦手だからといって、僕は「人に会わない」というリスクヘッジはしません。会いつづけます。痛みのない人生は、しょせんまやかしだから。

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2008年5月16日 (金)

■(仮)のもの■

EX大衆 5月号 発売中
Ex_08_05●愛ドルのリコーダー 中村知世
●桜井まり
●大島麻衣
●相沢真紀

それぞれ、グラビア・ポエム執筆。よく「そんなことやらないと、食えないんですか?」という顔をされるが、文字数以外、内容に何の制約もない自由な仕事なんて、ほかにないよ? それに「好きなように書いていいです」と言われると、意外に書けないもんだ。しかも、それをお金のもらえるレベルにしなきゃならない。

たった今、押井守監督のインタビュー起こしをやっているけど、面白い。こんな面白い話が聞けるってだけで、アニメ好きで良かった。
どうせみんな掲載誌なんか読まないんだから、この取材テープをアップロードした方が、世のため人のためになるんじゃないの?と職業倫理を投げ捨てたくなるぐらい、面白い。だって、みんな見事に本を読まないもん。渋谷陽一が書いていたように、インタビューって上を見れば際限がないぐらい難しい。テクニックが必要。でも、どれぐらいニーズがあるんだろうかと考えてしまう。好んでインタビューを読む人は、もはや特殊なお客さんではないのか。
電車に乗ったら、みんな携帯かPSPを開く。本を開く人がいると「おっ」と感心してしまう。日本人はモニター依存症になってしまった。訴求力で言ったら、やっぱり文字より映像の方が強いんだ。
それも理由のひとつだけど、「書く」ということに僕は何の幻想も持っていない。お金をもらえる文章と、そうでない文章との差は歴然とあるけど、それすら絶対的なものではない。別に魔法を使って書いているわけじゃないし、ライターに免許なんかないんだから、ケースバイケースではないだろうか。
伝達だけが目的だったら、ネットの方が有効だと思う。事実、僕が仕事で書いた文は読まれてないのに、このブログはあっちこっちで叩かれてる(笑)。それでも、読まれているだけマシなのかも知れない。「読まれない」という事実に対峙しないと、僕の仕事には緊迫感が生まれない。「読んでくれるに決まってる」と思って書くと、たちまち内容が弛緩する。そういうヤツの文章は、一読しただけで分かる。
現実を直視しないと、その先の理想も野心もリアルにならないんだよ。まずパンチを食らわないと、こっちの一打は出せない。痛いから殴り返せるんだ。

と思っていたら、友達が「本って、いいもんだよね。たまに読むと、安心感があるよね」なんて080516_05280001 言う。持ち運べるし、人に貸せるし……と言う。「それは、紙とインクだからだよ」と俺は答えた。「本ってのは、物体だから」。
すると、こうしてネットに書き付けている文章というのは、「まだ印刷される前の文」とも考えられる。ネットの中のものは動画、音声、すべてバーチャル。文もバーチャル。電源を引っこ抜いたら消える。すべて仮のもの。この考えは、ちょっとだけ僕を安心させる。
でも、「もっと本を読め」とか「ペンの力は偉大だ」とかいう石頭をどっかで捨てないと「次」が来ない。「次」というのはネットで読む文学とか、人気ブログが書籍化などフォーマットのことではなく、「どう伝えるのか」っていう根源的なコミュニケーションの手段のこと。それが見つかったとき、僕はブログをやめるんだろう。

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2008年5月14日 (水)

■メルモちゃんに思う■

アニカンR 14号 発売中
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●中島愛さんインタビュー
声優さんにインタビューできる若いライターは多いが、プロデューサーや監督となると、途端に尻込みしてしまうと聞いたことがある。声優さんにインタビューするには、役のことだけ知ってればいいから……かも知れない。声優とお友だち感覚になれるのが嬉しいのかも知れない。
ところが、ランカ・リー役の中島愛のインタビューでは、歌や演技に関する専門用語が続出して、冷や汗をかいた。新人にありがちな「とにかく、がむしゃらに頑張ってます!」とか、そういう甘えたノリがない。それで、好感を持った。
『スカイ・クロラ』も、ほとんどアニメ声優を使ってないから色々と言われそうだけど、アニメ・ファンって排他的だよね。菊地凜子の声がNGなら、菊地凜子の映画を一本でも観てから言ってほしい。いいじゃないか、批判するために知らない作品を観たって。何も知らないまま「声優じゃないからダメ」というよりは、よっぽどマシだ。
そんなことを思いながら、明日は監督インタビュー。『立喰師』の時、中野のカレースタンドで取材して以来だから、もう楽しみでしょうがない。

今は三誌同時進行で、過去のアニメをネット配信やレンタルで拾い見してるんだけど……080513_20330001 『ふしぎなメルモ』のセクシャルな世界に、またもやノックアウトされた(10年前に仕事で見た時もそうだった)。絵が艶っぽいというのもあるけど、性の未分化な女の子が大人と子供の間を行ったり来たりして、しかもそこに恋愛という思春期の要素が、無理やりに入ってくる暴力的展開にクラクラする。
あと、「赤いキャンディ」「青いキャンディ」というケミカル・ドラッグに支配されているのが、またセクシャルというか不健康な世界だよね。また、この薬ビンのフタを開けるとき、ビンが「ぽよん」と揺れる。「もう! テヅカ先生のエッチ!」って感じだ。
しかも、これを見ていたのは幼稚園の頃だからね。「エッチ」の何たるかも理解してない。でも、生物学的な刷り込みは強烈だった。うちは放任主義だったから、いくらでもアニメを見せてもらえたしね。つまり、我々は環境に飼いならされた生き物だということだ。

ここで、さっきの菊地凜子の話に戻る。「アニメ声優の話をしてるんだから、菊地凜子の映画なんて観る必要ない」という人は、飼いならされたままじゃないの?と思うわけだ。自分に与えられた軌道を完全に外れることは無理でも、ちょっとは広げたり捻じ曲げたりする必要を、僕は感じる。
物心ついたときにアニメの視聴環境があった人は、習慣で、惰性でアニメを見続けてしまう。惰性に逆らえなくなった時、人はオタクになる。それはもうあきらめるとして、あとは自分の負ってしまった性(さが)をどう加工して、ちょっとは役に立つ技能・知識に育てるかだと思うんだよな……。
「バカにされたくない」でもいいじゃない、純粋な知的欲求じゃなくても。習慣にハマる教科書はあっても、習慣を捨てる教科書はないよ。

あ、そうそう。俺、『くりいむレモン』のストーリー書いてくれと編集に頼まれてるんだけど、「見たことないよ」って逃げ回ってるんだよ。それはウソじゃなくて、当時は大学生だったから、さすがに恥ずかしいと思って避けていた。だけど、ウハウハで全巻買ってるやつもいたんだよ。そいつを見て、やっぱり習慣に飼いならされた人生はキモチワルイと思ったよ。苦し紛れに逃げ回っていれば、どこかで転ぶ。その転ぶ瞬間をいつも待ち続けてる。俺の場合はね。

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2008年5月 8日 (木)

■すべての映画は、過程でしかない■

『スカイ・クロラ』の試写、行ってきた。
080507_19270001まあ、仕事がらみなのであまり多くは語れないんだけど……恋愛映画と銘打たれているからといって、女性を誘ってはいけない。あと、エンドクレジットが流れはじめたからといって、そこで席を立ってはいけない。クレジットの後が、見どころ。
帰りに新橋の流行ってないラーメン屋に入ったら、松山千春の『恋』が流れてきた。「男はいつも待たせるだけで~女はいつも待ちくたびれて~」、まさにそういう映画……かも知れない。ラストシーンだけ、原作とはっきり違う。見終わって数時間たつと、じわじわ効いてくるような美しい終わり方だった。

結局、作家というのは手練手管が増えても、そんなに大きく変わったものを描けるわけじゃない。一生をかけて、一枚の絵を描くようなもの。行定勲が脚本にかかわろうが、どんなにスタッフが変わろうが、それはたいした問題じゃない。映画には社会向けの顔と、個人としての顔のふたつがあって、社会へ向けた顔は飽くまでプロデューサーのものだと思う(今回のプロデューサーはジブリ出身の石井朋彦。プロデューサーが何をどう動かしたのか、触れてない雑誌が多すぎる。俺が聞こう)。
たいていの人は、メディアがアナウンスする「社会向け」の部分しか見てない。声優でなく、タレントを起用していることに文句をいう人は、つまり映画の外ヅラしか見てない。映画の個人的側面は、タレントを使おうが素人を使おうが、絶対に揺らぐものではない。

映画の個人的部分というのは、恋愛に似ている。10代だろうが50代になろうが、恋愛のパターンは一個人の中では、そうたいして変わらない。常に破滅的な男を好きになってしまうとか、みんなに自慢したいから顔で選ぶとか、「好み」とか「タイプ」を越えた領域で、その人間の生き方・求め方が出てしまう。「今回も犬が出ているから、やっぱり押井守の映画だね」とか、そんな記号的な話ではないと思う(それで見抜いたつもりの人が多いけど)。
俳優もそうだよ。いろんな役をこなして、死ぬまでに「その人」自身を完成させていく。そう考えていくと、映画というのは監督や俳優の「過程」なんだと気がつく。「過程」なんだから、そこに100%の答えがあるわけがない。

「過程ってことは未完成なんだろ? 未完成な映画なのに金をとるのか」という反論が成り立ちそうだけど、金払って観に行くわれわれも未完成じゃん。
未完成同士だから、出会う価値があるんじゃん。映画に点数をつけるのが好きな人は、100%の完成度を求めてるんだろうね。せつないものの見方だね。

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2008年5月 3日 (土)

■鏡音リンの歌声に泣く■

昨夜の『マクロスF』も面白かったけど、ランカの歌ってるシーンは前回の方が圧倒的に良かったなぁ……。かと言って、前回と同じ演出ではシーンにそぐわない。結局、モノづくりはトレードオフであって、カット数も作画枚数も無限にあるわけじゃない。例えば、今回は戦闘シーンが皆無だった。でも、その間もデジタル部は働いていたはずだから、いずれ戦闘シーン主体の回もあるだろう、ぐらいの予測は誰でもつくでしょ。そういうプロセスも含めて「面白い」ということだと思うんだ。

さて、コメント欄で突っ込まれてしまったけど、僕は音楽のセンスがありません。知識もなければ、経験もない。だから、インタビューした歌い手さんもアニメ関係の方たちばかり。僕の中には、音楽の地図がない。みんなが洋楽のレコードを買ってる時、僕は『うる星やつら』のサントラを聞いていた。
あの頃より、今の方がアニメと音楽の親和力は近いような気がする。もっと正確に言うと、「オタクと歌」の絆が強くなった。電波ソングなんてスラングがあるぐらいだ。初音ミクの存在も大きい。まあそれでも、僕は音楽センスが欠如しているので、「人工音声ソフト? 俺には関係ないな」と冷ややかにスルーしていたのだが、たまたまニコニコ動画で発見した鏡音リンの歌声に泣かされてしまった。
mp3があったので、そのリンクを。http://piapro.jp/a/content/?id=i3km3cin90ecnk0d
こういうジャンルを何というのかすら、僕には分からない。ノイズミュージックと書いてあるな。ちょっと調べてみたら、密室系という言葉も出てきた。これを聞くときには、ぜひとも歌詞を見ながら聞いて欲しい。「明日何があるの? 昨日は何があった?」あたりから……病んだ美しさというのかな。「ああ、でも、生きたいな―――」のところも凄い。これは、人間が歌っても感動しないと思う。合成音声だからこそ、綺麗なメロディが痛々しく聞こえる。余計な情念が入らないから、歌詞がストレートに胸に突き刺さる。
同じ「≡A」さんのつくった曲は、こっち↓も泣けた。http://piapro.jp/a/content/?id=ayvwimfem4l340pt
これはもう、命を削っている。街頭でギター一本で歌った方が伝わる、なんて絶対にウソだ。泣きながら肉声で歌った方がいいとか、俺は信じない。カーテンを閉め切った病室からしか生まれない音楽もあるんだよ。
相変わらず、僕の中には音楽の地図がない。でも、だから「≡A」さんの曲をいいと思えるんだろうね。まずは、自分が自分でしかないことを肯定しないと。

それで、「≡A」さんは売れ線を狙おうとか、ちょっとでも儲けてやろうとかぜんぜん考えてないところが美しい。僕は煩悩のカタマリだから、こういう人に憧れます。ヘンリー・ダーガーも、彼は自分の作品で一山当てようなんて思ってなかったからね。損得じゃないんだ。
またコメント欄からの引用になるけど、「音楽が世界を救うんじゃない、音楽に救われた君が世界を救うんだ!」(ヴィレッジヴァンガードの手書きポップの言葉)、これが基本。音楽に感動したら、その感動で他人に何が出来るか、でしょう。やっぱり、与えられる一方じゃダメなんだよ。

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