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2008年4月26日 (土)

■崩壊してるのは、受け手の愛だ■

押井守著『勝つために戦え!』によると、「インテリが観る映画と大衆が観る映画でルールが違う。だから、映画祭用の映画とゴールデンウィーク用の映画は全然違うって言うんだけど、昔はそれで通用したかも知れないけど、今は通用しない。少なくとも、アニメの世界では通用しない、と僕は思っている」。

びっくりしたことに、『マクロスF』第四話の作画に、厳しい評価が下されている。これが駄目だったら、もうアニメーターは絵が描けないと思うよ。同じアニメーターが半年前と同じ絵を描けるかといったら、そういうものではないから。だから、作監修正がコピーされて配られるわけでしょう。物語に新しいシチュエーションが出てくると、絵も変わらざるを得ない。制作開始前に描かれたキャラ表だけじゃ、対応できないってことだ。
しかも、第四話は赤根和樹監督がコンテを切ってますからね。だてに『鉄腕バーディー』をつくってないですよ(夏放映)。ランカが歌うところなんて、もう動かさないと話にならないようなカット割になっていて、「すげぇなあ」と感動したんだけど、どうもそういうことじゃないらしい(笑)。いまや、作画の個性を楽しむのは「インテリ」なわけで、「大衆」は安定した絵が見たい。どっちが偉いという話ではなく、とにかく断絶がある。

アニメ誌には膨大に版権イラストが載っているし、ゲームで「崩壊」しないポリゴンキャラに親しんでしまったら、そりゃハイディテール、ハイエンドが要求されて当然だろう。「各回の作画の個性を楽しめ!」というのは、インテリの戯れ言でしかない。ルールが違うんだから、そこで不毛な論争をしてもしょうがない。「毎回、安定した絵で動きまくるのが理想」、もうそれ以外の道はないと思う。一人の人間ですら、どんどん絵が変わっていくものなので、そんなことは原理的に不可能なんだけど、やっぱり今の時代の求める理想は「いつも変わらない品質」なんだ。

ひとつ気になるのは、わざわざ「作画がダメだった」とネットに書いてしまうこと。せめて「私の好きなキャラを、あんなヘッポコに描くとは許せない」とでも言って欲しい。それは愛だから、どんだけ書いていいし、読んでも不愉快にならないよね。俺だったら、「ヘッポコなランカも、やっぱり可愛いよ」ぐらいは書く。例えば今回、ランカの歌うシーンが止め絵であっても、歌がよかったからそこで感動できるだろう。絵がダメでも、声優さんの演技がナイスフォローだったとか、いくらでもあるだろう。好きになったら、それぐらい我田引水して欲しい。我田引水、牽強付会こそ「愛」の特権だから。
「うわ、ひっでぇ絵! でも面白い。来週も見よう」、これが一番楽しいよ。本当に好きなら、作画が崩れたぐらいでガタガタ言わないこと。

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2008年4月21日 (月)

■緑の黒髪■

しばらくぶりに、CDを買った。
080420_18150001「タイクツなのかマイナスなのか あの世も何も変わりはしないよ」「あきらめなんかじゃない、これが19で覚えたジョークなんだ」とフルカワミキは歌う。この無責任さ、軽さと若さに嫉妬を感じながら聞く、苦い曲。

『マクロスF』と『ガンダム』の仕事を同時進行している。特に『マクロスF』は声優さんにインタビューしたばかりのせいか、「なんで、ランカ・リーのようなお転婆なキャラクターに神秘性を感じるのか」気になった。回を追うごとに謎が深まるのは、果たしてシナリオがそうなっているから、だけなのか?
安易な回答をメモ的に記すと、緑色の髪。これは彼女がゼントラーディ人のクォーターだからなんだけど、『マクロス』だけ見てればその説明だけで終わってしまうよね。でも、今やってる『コードギアス』にもC.C.っていう、緑髪の謎だらけのヒロインが出てくるじゃないですか。すると、もうゼントラーディ人だからとか何だとかいう問題じゃなく収まらなくなってくる。
『ガンダム00』に、そういう神秘的ヒロインはいなかったのかな?と思い出してみると、リボンズという少年が緑髪じゃないですか。「神秘キャラ=緑髪」ってことになりはしないか?

『アニメヒロイン画報』などを調べてみると(10年前の本だが)、意外に緑髪のヒロインというのは少ない。『バイファム』のカチュアぐらい。カチュアは仲間の中で唯一、異星人だった。最近だと、『エウレカセブン』のエウレカも同じような淡い緑の髪をしていたよね。なんとなく、ラインが繋がってきたような気がする。
さらに、『空想美少女大百科』(これも10年前の本)をめくっていて気がついたのが、『To Heart』のマルチ。このキャラは、ロボットだからね。明らかに「人ならざるもの」のアイコンとして緑髪を用いている。つまり、「その作品世界のエッジに属するキャラは、髪の色がグリーン系なのではないか」。そう思い込んで類例を調べていくと、どんどん例外が見つかって、自分の思い込みが破壊されていくんだけどね。
でも、「ランカは、ゼントラーディ人の血が入ってるから髪が緑色なんです」というのは、何の説明にもなっていない。それは膨大にあるアニメ作品の中から『マクロスF』を隔離しただけ。

いくつかの作品を並べて横から切らないと、ひとつの作品をすら見ることが出来ないんじゃないか。ここんとこ、どんな退屈でも谷村美月の出ている映画をしらみつぶしに見ているんだけど、そうしないと谷村って女優が分からないんじゃないかって恐怖心があるから。好きになった対象を、理解できないのが怖い。
だから、ランカ・リーが神秘的なのは、キャラクターの配置上そうなっているからではなくて、アニメの中で「緑」って色が異質だから。あるブログを見たら、「海外アニメの中で毒薬といえば緑色」と書いてあったよ。そういう異質な情報が入ると、対象が横からスライスされていくよね。それが「ものを見る」ということじゃないかと思う。

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2008年4月16日 (水)

■非現実の王国で■

EX大衆 5月号 発売中
Ex_08_05
●愛ドルのリコーダー 秦みずほ 
●中島愛里
●南明奈
●尾上綾華
それぞれ、グラビアポエム執筆。ふと気がついたが、俺はこういうセクシャルなものの中にギャグとかジョークの類が加わると、途端にイヤになるらしい。写真にそういう要素が入っていると、いつも苦労する。

さて、何本か観に行きたい映画はあったが、まずDVDになってもTSUTAYAに入りそうもな080414_14390001 い、『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』を(渋谷シネマライズにて)。ドキュメンタリーとしては凡庸なのかも知れないけど、題材が題材だけに、予備知識のない人が見たら、かなりショッキングな内容では……だって、引きこもりの老人のつくった、超有害図書だもんね、これ。いくら架空の世界の話とはいえ、奴隷の子供たちが大虐殺されるストーリーだよ。ちゃんと画面に絵も出てくる。なのに、ナレーションはダコタ・ファニング。悪夢のような凄惨なシーンにも、ちゃんと声を当てているのが素晴らしい。この勇気あるキャスティングのおかげで、映画に不思議な温かみが加わった。天国のダーガーも、きっと喜んでると思う。

それで、この映画の何がいいって、ダーガーのあの絵がね……動くんだよ、ちゃんと。セリフも入って、部分的にだけど物語調になっている……すごいね。この調子で全編、ダーガーの夢想したグランデリニアン大戦争とヴィヴィアン・ガールズの活躍を見たかった。
それで、今回あらためて思ったけど……彼の絵は、涙がでるくらい美しい。純粋なんだ。映画を見終わってから階段を上がって、渋谷のスペイン坂に出てみたら、街中に貼ってある広告ポスターの醜いこと! もう、色から何から、添加物満載って感じだ。あのギャップは、すごかったな。
もし、ダーガーを知らない人がいたら、斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』のダーガーの章だけでも読むといい。文庫にもなっていたはず。

映画の中で語られていたとおり「彼は、テレビもラジオもない部屋に住んでいたからこそ、膨大な物語を紡ぐことが出来た」。補足すると、彼にはマーケティングという概念がなかった。「こうした方がウケる」なんて、彼は微塵も考えなかったのだ。ダーガーの為したことを考えると、もはや「表現」という言葉すら甘えに聞こえてくる。
彼の人生の孤独は、作品づくりによってすら埋められなかった。この映画は全体に雑然としているけど、ダーガーに対する尊敬と慈愛だけは、しっかり感じられる。ラストは、ダコタ・ファニングの「おしまい」という柔らかい言葉で締められ、トム・ウェイツの哀切に満ちた歌声が流れて終わる。
この映画を見たあとでは、クリエーターだ、表現者だ、アーティストだ、そんな言葉が本当に空しく聞こえる。なんて僕らは、虚飾にまみれた世界に住んでいるのだろう、と呆然となるのだ。

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2008年4月12日 (土)

■遠い遠いはるかな道は■

シネマガールズ Vol.2 発売中
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●「2007年公開シネマ オレたちの魂のガールズシネマはこれだ!」 構成
全20本の映画を見て、藤津亮太、岩岡としえ、ヤマザキ軍曹、内田伊久(敬称略)、そして廣田の5人が話し合い、勝手に賞を決めるというページです。
ちなみに、私は「再婚したい賞」を、『クワイエットルームにようこそ』の内田有紀に。

●「ガールじゃなくてもガールズ映画は楽しめる」 執筆
これは1ページコラムです。お題は『渋谷区円山町』と『好きだ、』ですが……まだまだ書きたいこと、いっぱいあったなあ。

今週は谷村美月の映画を積極的に見ているので、出世作である『カナリア』を鑑賞。谷村、手錠をされる。谷村、レズ女に(おでこに)キスをされる。谷村、老人から金を取るために(上半身だけ)脱ぐ。谷村、ザ・ピーナッツの『銀色の道』を鼻歌で歌う。撮影時14歳にして、すでに人生の辛酸を知りすぎた谷村(劇中の設定では12歳)。援交しておきながら、「うちみたいのが、夢見たらあかんのか?」と苦い本音を吐いてしまう谷村。
080412_08050001 これだから、女優という職業はすごい。俺は、谷村美月にセクシャルなものは何ひとつ感じてないので、尊敬心が喚起されるんだよな。この映画の後半では、お人形さんみたいに扱われてしまうんだけど、前半の処世術に長けた谷村のほうがカッコ良かったな。

で、谷村美月の出てない残り3分の1ぐらいのシーンは、どうでもいい。映画を「評価」したがる人は、「全体のテーマが」「脚本が」ってなるんだろうけど、そういう人は何か刷り込まれてるよ。『クローバーフィールド』を観て、「パート2を観ないと、話が分からない」って言ってた人がいたけど、クルクルパーかと思ってしまう。
分かんなかったりつまんなかったりしたら、すべて「映画のせい」にしちゃうんだよね。その映画を観ようって決めた「自分の選択」は、棚に上げたままなんだ。
送り手がリスクをしょっているのに、受け手はリスクをしょわなくていいのか? 違う。いかなる関係も、フィフティ・フィフティであるべき。それが成熟した文化、成熟した社会である。

谷村美月から話が飛んでしまったが、彼女の出演作でも「ちょっと、これは……」という作品もある。でも、そういう場合はタイトルは書かない。そんな非建設的なことはしない。谷村は、すでに俺の先生である。楽しませてもらっているし、学ばせてもらっている。彼女に楽しませてもらった分、俺は別の形で社会に還元しなくちゃイカンのよ。
誰かのファンになったり、作品を好きになるって、自分が何かを「負う」ってことだからね。責任を負わずに「好き」という感情を機能させることは、出来ないはずなのです。

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2008年4月 7日 (月)

■クローバーフィールド■

月刊『創』 5月号 発売中
Tsukuru_05
●「まさかの実写映画化」を原作者に訊く
『デトロイト・メタル・シティ』の起点 若杉公徳
●「怪作」マンガ作者ロングインタビュー
『鈴木先生』と「文芸漫画」の看板 武富健治

それぞれ、若杉先生と武富先生のインタビューです。『デトロイト~』の方は、映画を企画した川村元気さんにも話を聞きました。最初にこの漫画特集の相談が来たとき「『鈴木先生』と『デトロイト』、あと『アオイホノオ』!」と即答したのですが、『アオイホノオ』は編集部が取材しちゃったようです。ちょっと残念だけど、あの漫画が世に広まるのは、絶対いいことだと思う。

さて、先週末、『クローバーフィールド』鑑賞。最初の10分ぐらいは手持ちカメラのあまりの下手さ(そういう演出なんだけど)にイライラするけど、伊福部昭オマージュのエンディング曲が流れる頃には、もう何もかもオッケー。これは凄い。気が狂ってる。こんな映画、見たことない。フェイク・ドキュメンタリーとしては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に似た手法なんだけど、もう画面の向こうで起きている出来事の不条理さ、不可解さが度を越している。
上映後、飲み屋で友だちが「9.11を、こういうエンターテイメントに消化できるまで、アメリカの傷は癒えたんだろうか」と言っていたけど、俺は違うと思った。9.11のワケの分からなさは、こういう暴力的な映像で殴り書きするしかない。この映画には、意味もなければテーマもない。劇映画が、演劇や文学から拝借してきた方法論は、ほとんど無視されている。ルイ・リュミエールの『列車の到着』に最も近いような気がする。生の映像をただ観客の前に放り出す、という意味では。それだけ、映画の始原に近い映画。
こういう、たった一人で風に吹かれているようなフィルムが好きだ。

ただ、映画を観る、という体験は、内容がどんなに強烈であっても、また元の地点に戻っ080405_19100001 てくるような空しさがある。特に、友だちと観に行くとそういう感覚がある。それはやっぱり、「娯楽」というプログラムに映画を組み込んだからだろう。もちろん、『クローバーフィールド』を観る前の自分たちには、もう戻れないんだけど。
この日は、いつものメンツに加えて、小~中学校時代に同級だった女の子が飲みの席に加わった。地元の居酒屋に河岸をかえ、夜中2時まで彼女の話をえんえんと聞いていた。味わい深い夜。

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2008年4月 3日 (木)

■「面白い」禁止■

最近ちょっと、やりすぎな感のある某私鉄駅前。
080402_17420002080402_17460001_2例の銅像は、女子高生が写真を撮ったり、子供たちが触ったりしてたけど、さすがに駅売店のシャッターは……。
ちなみに、今日は仕事ではなく、単にメシのために待ち合わせただけでした。しかし、相変わらずメシを食うのには、やや不便な町であることには変わりがないです。

先日、知り合いと飲んだとき、「アニメを語るなら、まず映画を見ないとダメじゃないの?」という話になった。「映画は年に2~3本ぐらいですが、アニメなら百本は見ます!」という人が何を言っても、あまり真面目に聞く気になれないでしょって程度の意味です。
うーん……でも、「映画が大好きで、映画館で年に百本は見ますよ!」という人に会っても、何だかゲンナリしてしまうよなあ。きっと、そういう問題ではないのだよね。

今週末、俺は小学校時代の友人たちと『クローバーフィールド』を観に行くんだけど、それは酒の肴にするためであって、「娯楽」なわけです。ただ、昔よしみのメンツで観に行っても、結局は「俺は面白かったのに、お前らはダメだったんだ、フーン」と白けた空気が流れることもしばしば。この「面白い」っていう言葉がクセモノなんだよなぁ……やけに便利で、誰もが口にする割に、使う人間によって意味がぜんぜん違う。
俺だって女優やVFX目当てに映画を見るけども、根本的には「何か得るため」に見るわけだよ。「何か」というのは、もう「ありとあらゆるもの」としか言えない。女優の演技がエロくて最高だったとか、ものすごく下劣なことかも知れない。あるいは、何十年も言葉に出来なかった概念をポンと目の前に視覚化されて見せられることかも知れない。そういう「勉強」が出来たときに「面白い」と、基本的には言うことにしている……俺はね。

そうすると、「えっ、楽しむために映画に行ったのに、なんで勉強しなきゃいけないの?」と猛然と挑まれたりする。だから、その「楽しむ」ってのが「何か学ぶ」ってことじゃないの?と僕は無駄な抵抗を試みる。相手は「お前ほど高尚な気持ちで映画を見たりしてねーよ」とか言って、横を向いてしまう。
いや、だからさ。その「面白かった」ってのが、すでに高尚な体験なわけだよ。「最高にドキドキした!」ってことは、もう未知の何かに触れているはずなの。「楽しんだ」という体験の裏には、ほぼ間違いなく奇跡が起きているんだって。
ただ、その本来体験した「何か」を、いちいち言葉にするのは大変難しい。めんどくさい。だから、僕らは「面白い」という言葉で一発変換して、すませてしまう。あるいは「60点」とか点数つけて、さっさとゴミ箱に投げ入れてしまう。

高尚な映画があるわけでなく、高尚な観客がいるわけでもない。ただ、高尚な体験は、万人に平等に与えられているはずなんだ。

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