■スーパー歌舞伎とギャラクティカ■
昨日も明日も、どういうわけかグッと濃い目の漫画家さんばかりにインタビューするスケジュールの中日、朝から新橋演舞場でスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』観劇。途中、退屈してウトウトしてしまったけど、第三幕は「越えていた」。なんというか、スーパー歌舞伎のくせに、スーパー歌舞伎というジャンルを越えていた。俺は、映画を越える映画が好きだ。アニメを越えるアニメが好きだ。
自ら打ち立てた様式を、その作品自体が打ち壊す瞬間が好き。冷静沈着な人が、冷静さのあまり泣き出してしまうようなほころびを、俺はいつも探している。
もともと、俺が「スーパー歌舞伎、いつか見なくちゃな」と思ったのは20代の終わりごろ、あるアニメ会社から企画を頼まれたときだ。「最近は、どういうアニメを観てるの?」と聞かれ、「ジャイアント・ロボが凄かったです」と答えたんだ。すると、「あれは、スーパー歌舞伎に通じるものがあるよ、廣田くん」と。あれから十年ちょっと。ようやく気楽に観に行ける身分になりましたよ。
アニメつながりで(?)、今日もTVドラマ『ギャラクティカ』の話題を。友人が「このSFX技術で『マ クロス』や『イデオン』が映像化されればなぁ」とメールしてきたけど、それは違います。『ギャラクティカ』の中に、ちゃんと『マクロス』も『イデオン』も入ってます。だから、80's世代は観なくてはならんのです。というかねぇ……俺ら40代の人間が、中学から高校ぐらいにかけて観てきたSFXだのアニメだのは、すべて『ギャラクティカ』のためにあったんだったんじゃないの?とさえ思える。『ブレードランナー』の要素もあるし、『ターミネーター』そっくりの設定もある。ぜんぶ『ギャラクティカ』に統合されている。……こうやって書くと、『トップをねらえ!』みたいだけど(笑)、同時多発核攻撃によって情報が錯綜していく描写は、何度見てもゾッとする。
どうしても、マニア的な視点から入らざるを得ないのが欠点だけど(視聴環境も限られているし)、『ガンダム』も『エヴァ』も最初はそうだった。その作品の「普遍性」は、作者ではなく「時代」がつくるのだと思う。「時代」をつくるのは、言うまでもなく個々人の意識である。
そして、何より『ギャラクティカ』が素敵なのは、こうして僕がブログで布教しているつもりでも「誰か一人が楽をしようとしたため、大勢の人間が犠牲になった。だから、コンピュータをネットワーク化してはならない!」なんてセリフが出てくるところなんだ。
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