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2008年2月25日 (月)

■ワンフェスとガルダス■

20年ぶりだったので、あんまり論じる資格はないんですけどね。思わぬ人との再会もあって、総体としては楽しかった。
080224_13020001やっぱり、これだけ完成品のクオリティが上がっているのに、あえてわざわざキャストキットを作って売るってのは、80年代から脈々とつづく「オタク」の精神だなぁ……と思ったよ。金払ってでも苦労するのが「オタク」だから。どんな限定アイテムを手に入れたかなんて問題じゃなくて、どれだけ苦労したか。苦労自慢するのが「オタク」。そのスピリットは、あちこちに感じられたけどな。
ただ、第三回の頃に感じた、戦後の闇市で雑炊をありがたがるような「飢餓感」はなかった。

あちこち挨拶に回り、最後の最後に、やっと『ガルダス』のブースにたどり着く。それもそのはず、会場の一番端っこにあるのだ(笑)。そこだ080224_15280001け南洋の孤島のようで、当たり前のようにフジタタケハル氏が座っていた。なんだか、すごくリラックスしているように見えた。それがまた、リゾート感を演出していて、居心地がいい。
「そうか、ここが俺の行き着く最後の地なのか……」と、ポンと得心がいった。『ガルダス』ブースの左では、萌え系フィギュアを売っており、そこそこ繁盛している。右側は机が切れていて、何もない。つまり、萌えに押されて断崖絶壁。それが『ガルダス』らしくて、良かった。
撮影に使ったミニチュアが並んでいて、もう用済みとなったラジコン戦車にだけ数千円の値札がついてるんだけど、そりゃ誰も買いませんって(笑)。ここだけ、局所的に闇市。

ありがたいことにサンプルをいただけたので、家に帰って、さっそく第二話を見る。
……ぶっちゃけ、僕は『ガルダス』は第一話だけでいいと思っていた(笑)。もう第一話で「よく分かった、もうお腹いっぱいです!」って気分だった。
でも、今回も教えられた。だって、新装備のブースターとシールドとライフルが一度に失われちゃうんだもん。新しいものを出しておいて、早々とブッ壊す。そして、ただひたすら追い詰められていく。ピンチのためのピンチ。不条理なまでの崖っぷち感。それが何故かカッコイイ。絶望から本当の勝負が始まるのだ。
080225_22490001(←第三話の予告より。これ以上ない、最強のコピー)
なんちゅーか……ヒロインの扱いもどんどん容赦なくなってきてるし、破滅的……だよね。「安直なハーレムなんか、死んでもつくらない」という覚悟が見える。

だいたい、特撮担当者のブログからして、常にピンチだ。これとか、発売三日前にミニチ080224_20140001 ュアを作って、出来次第、撮影! この超高速セミ・スクラッチの模様は、ちゃんとDVDのメイキングに入っている。もう、まったく手を休めない。結局、つくらずにいられない人間がつくる。つくらない言い訳を考えられる人間には、つくれない。ただそれだけの事なのだ。
プロが何かするときには、必ず理由を付けなきゃならない。
ワンフェスの『マクロスF』のトークショウで天神英貴氏が言っていた。「プロより、アマチュア意識の方が、強いですよ」と。アマチュアでもダメな人はいっぱいいる。でも、プロでもダメな人は大勢いるし、ダメプロは、ただ醜悪なだけだからね。
やっぱり、粘土で何かつくろうかな……

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2008年2月23日 (土)

■実写版ルイズを1万5千人のオーディションから選ぶ日■

フイギュア王 No.121 発売中
819916
●『アクエリオン』新年会2008で昨年のブームを大回顧! 執筆

1ページの小さな記事だけど……いよいよ、『アクエリオン』関連の仕事もこれでラストですかね。ムックに公式同人誌にCDドラマ……と、浅すぎず深すぎずという関係でした。この作品は、絵柄も内容もアキバ文脈とは徹底的に外れていて、頭翅様がBLっぽいということぐらい? というか、BLとやおいはどう違うんだ? オタクとアキバぐらい違うのか?
ともあれ、同時期放映の『エウレカセブン』と比較すれば、どれほどトレンドに背を向けた作品であったかよく分かると思う。

閑話休題。『ライラの冒険』のプレス試写最終日は、別室でDVD上映せねばならないほど080223_06260001の混雑ぶり。それだけでも大ヒットの予感がする。
映画って、数百~一千通りぐらいの見方が出来ると思うので(人それぞれという意味ではなく、一人の人間の中にそれだけ多彩な視点が存在しうるということ)、ありきたりな批判はしない。だけど、この齟齬感は何なんだろう、と思う。
この映画の「物語」に、何の必然性も感じない。それは「ライトノベルが分からん、PCゲームが分からん」という感覚に最も近い。ひょっとして、俺らの知っている「物語」は数十億、数百億かけたメジャー映画からは消えつつあるのかも知れない。

主人公が選ばれし者、つまり「勝ち組」で、何の努力もなしに都合よく現れた大人に助けられながら冒険していく(そういうのは冒険とは言わないけど・笑)のは、もう『ハリー・ポッター』で慣れている。それはいい(よくないが)。
で、主人公の少女に、超重要アイテム「黄金の羅針盤」が託されるんだけど……これ、ゲームの攻略本なんだよ。危機の突破の仕方が、羅針盤を見れば全部分かるんだ(笑)。だけど、ケータイを持っているのが当然の今の小学生なら「あれ、ひとつ欲しいな」ぐらいは思うかも知れない。その便利さが、生理的にイヤだ。「守護精霊」として出てくる動物たちも同様。あいつら、餌とか糞はどうしてるんですか? たまごっちじゃないんだからさ。
つまり、便利なアイテムや可愛いキャラをアイキャッチとして配置しているだけで、努力とか信頼とか喪失とか苦渋とか、子供に必要なもの(と俺が思い込んでいるもの)は一切ない! そういう安全で快適な冒険が「映画」として通用するようになったのだ。時代は変わった。

で、それは「ダメな大作映画が一本増えた」ということではなく、何かドラスティックな変化080223_16340001 が映画と観客の間に起きはじめているのではないだろうか。その真裏には『ハリー・ポッター』を筆頭とする児童向けファンタジー文学のヒットがあるんだけど……それらライト・ファンタジーとライトノベルの爆発的普及は、やっぱり不可分なわけだよね。『キノの旅』とか『ゼロの使い魔』なんて、海外で実写映画化されてもまったく違和感がない。(国内のアニメをハリウッドメジャーに仲介する会社があるので、可能性はおおいにある)
さあ、どうする、旧世代のオタクたちよ! 俺らの楽しめるコンテンツは、どんどんクラシックに限られていくぞ!

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2008年2月21日 (木)

■「お客さん」気質■

080221_17140001 吉祥寺まで歩き、ワンフェスのカタログとMFLOGを購入。考えてみれば、「フィギュア王の取材です」とか言って、プレスで入場できたような気もするんだが……まあいいか。俺はなんと、ワンフェスには第三回に一度行ったきりなので(三回行ったんじゃないよ、開催第三回目にしか行ったことがないってことだよ)、あまり偉そうなことは言えない。
あの日は、ある模型メーカーさんの手伝いという名目で朝から出かけて、『バオー来訪者』のキットとプラキャスト(会場だけの安売りだった)を買って、「あんまり面白くないイベントですね」と言い残して、昼過ぎに帰った(笑)。当時は「フレンドリー・プラスティック」という新素材が出たばかりの頃だった。海外SFX映画ブームで、僕は映画を専攻していたから、身近にラテックスなんかもあった。ソフトビニールの玩具を紙粘土で改造してシリコンで仕上げたり、模型づくり=実験だったんだ。

今は完成品が増えてしまったので、金を払って実験する人はいない。みんな「お客さん」だ。いや、昔から「お客さん」気質の人間は、送り手の側にもいたような気がする。当事者意識のない人間、責任を負う立場から距離を置きたがる人間は、どんなに創作的な職場にもいる。
ともあれ、「お客さん」気質の人間は探究心が欠如しているから、モノが出来上がっていくプロセスに興味がないし、プロセスを目の前にしても感動しない。

プロセスや中身に興味がない人というのは、どうもコンビニで出来合いの食品を食べているからではないか、とトンデモな仮説を立ててみる。コンビニ弁当というのは、模型界でいえば「塗装済み完成品」だと思うんだよな(笑)。コンビニ食品が好きで、「今度、ローソン限定のカップ麺が出たから、ちょっと食べてみましょう」ってレビューしてるのを見ると、俺は完成品フイギュアのレビューを思い出してしまうのだ。
生活習慣というのは、絶対に嗜好や人生観に影響を与える。コンビニが日本に誕生してから30数年。ガレージキットは25年。で、いまやコンビニに酒井ゆうじ氏が原型制作したゴジラの食玩が置いてある。間違ってもレジンキットは置いてないわけ(ガンプラは売ってるけどね)。
どうも日本人の中に、「お客さん」気質の人口が増えちゃったような気がする。受身であることが当たり前のようになってしまった。で、それはコンビニの責任である、と僕は本気でそう思う。

080221_17550001明日はマスコミ試写最終日なので、『ライラの冒険』に行ってくる。たぶん映画は『ハリー・ポッター』レベルのものなんだろうけど、ライド・クリーチャーが好きなんだ。『スター・ウォーズ』で言えばトーントーンみたいな、人が乗れるクリーチャー。最初に粘土造形したのは1/35のトーントーンで、田宮人形改造コンテストの昔の号に出ているはずだよ(笑)。

今でも、いつでも何でも作れるように、粘土は常に用意してある。完成品も好きだけど、「お客さん」になる気は僕にはない。

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2008年2月17日 (日)

■眼高手低■

劇場版『空の境界』 「痛覚残留」パンフレット
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●メイキングページ 構成・執筆
先日、地方の映画館のHPを見ていたら、「空の境界を上映して欲しい」という書き込みがあった。なるほど、おそらく全国的にニーズはあるのだ。北海道から泊りがけで観に来ている人もいる。
分かりやすい比較例でいうと、島本和彦『アオイホノオ』第一巻巻末、島本氏と庵野秀明氏との対談で「宇宙戦艦ヤマトの布教活動をやっていた」というくだり。「面白いから、みんなに観てほしい」というファン心理、それが今は無い。これは『空の境界』やアニメに限った話ではなくて、90年代というモノのない時代を過ごした若者たちに共通の感覚なのかも知れない。
ちょっと寂しいんだけど、感傷癖のある僕には、うらやましくもある。

『アオイホノオ』は80年代初頭を舞台にした青春漫画だ。アニメ・漫画業界の重鎮たちが実名で登場し、金田パースの良さを女の子に力説するシーンまである。そうしたネタが通080216_16520001 用するのは、単にアニメや漫画に熱中していた人が多かったから(どこかで人口ピラミッドを調べてみるといい)。若者が圧倒的に多かった時代、アニメ・漫画ブームの陰に「布教活動」が機能していたのは間違いない。

『アオイホノオ』は、たまたま漫画やアニメをモチーフにしているだけで、かなり本格的な(つまり古典的な)青春漫画だ。主人公が眼高手低なのがいい。「漫画家になる」というプレッシャーを「夢が大きすぎて口に出来ない」と涙するシーン、読んでいる方もマジ泣きするよ。あと、ヒロインがいい。ルックス的にはボーイッシュな津田さんの方が好きだが、主人公をかいがいしく支えるトンコさんが断然いい。今風に言えば「俺の嫁」という感じだろうか。
「萌え」はともかく「俺の嫁」って言葉はねぇ……結婚をあきらめた世代が洒落として使っているんだろうけど、いかにも亭主関白っぽい。理想だけで実体験のない人間は、どうしても眼高手低になる。『アオイホノオ』は、眼高手低を乗り越える話だ。いや、そういう話であって欲しい。眼高手低は、メディアに関わる人間にとっては永遠のテーマだから。

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2008年2月15日 (金)

■バレンタイン、7万円のフィギュアを前に■

EX大衆 3月号 発売中
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●スポ根アニメ 超難度トレーニング法 仰天公開!!
タイトルどおりの企画記事です。
スポ根アニメはあんまり詳しくないせいで、3分の1も書いてないような。「無茶なトレーニングなら、『カレイドスター』でしょう」と推薦してみたのですが、やっぱり懐かしアニメじゃないと通りませんでした。どうも、『カレイドスター』の特訓は、『アタックNo.1』を参考にしているようです。なかなか勉強になる記事。

●青島あきな、大友さゆり グラビアポエム
●ほしのあき グラビアポエム

今回は、ちょっとバカになれた気がする。

●愛ドルのリコーダー 第二回 KONAN
このコーナーは、本当にポエムが必要なのだろうか。これからも書くけど。

昨日2月14日は離婚記念日(脱獄記念日ともいう)。所用があって双葉社へ。
080214_15050001←こんなものが、玄関に置いてあった。
7万円で玩具メーカーから発売されるらしいんだけど、警備も手薄だし、二人がかりならあっさり持ち出せそう。でも、やらないように。

これを偉い人も通る玄関前に置くということは、おそらく「キワモノである」「変なことをやっている」「文句が出たら撤去する」ぐらいの認識は双葉社にはあるんだろうと思う。
後ろめたさ、気恥ずかしさは良識の証だ。
ファンも、こうしたフイギュアや漫画を、あっさり「認められている」などと勘違いしないで欲しい。後ろ指をさされる覚悟ぐらいして欲しい。少年犯罪が起きるたびにゲームや漫画がやり玉に挙げられるのは、むしろ健全ではないかと俺は思う。ゲームや漫画は、社会の闇や陰を受け持っているから。だからこそ、愛し、応援する者も必要だ。

昨日の新聞を読んで、市川崑監督が亡くなったことを知ったけど「アニメーション映画の下書きからスタートした」と書いてあってビックリ(読売新聞)。不勉強にも初耳だった。この件に関しては「YuiTadの日記 アニメ監督市川崑死去」が面白い。「国民的作家という看板のもとで、アニメ出身という経歴は、意識的無意識的にに抹消されたのである。」 アニメというのは依然としてそういうものだし、これからもそうあり続けてほしい。アニメがカウンターでなくなったら、たちまち力を失うような気がするから。
文化庁は『河童のクゥと夏休み』に賞をあげて何かやった気になってないで、全国で再上映ぐらいしろよ。文化は、世俗の中に放流されてナンボだろ。

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2008年2月 8日 (金)

■アキバ/オタク■

劇場版アクエリオン 逆転壱発篇DVD 22日発売予定
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●ブックレット構成・執筆
ブックレット以外では、レンタル版のキャッチコピー(というか、簡単な解説)を書きました。セル版とレンタル版とでは、微妙に仕様が違うというわけですね。見どころは、作り下ろしのエンディング。ポリゴンのシルヴィアとアクエリオンがばんばん踊りまくり、ちゃんとノンクレジット版も収録!

ほとんどテレビを見ない僕にとって、昨年の『アクエリオン』ブームは狂い咲きと呼ぶにふさわしかった。やっぱり、主題歌の完成度が、まず筆頭に上げられると思うんだけど……逆に、今は歌さえ消費できれば、にわかファンはそれで満足だろうし、それで何が悪いのかと思ってしまう。
実際、僕が先日「ハマってる」と書いた『洗脳・搾取・虎の巻』だって、ゲーム本編には興味がない。曲がよかったら当然のようにゲームもプレイする、という経路そのものが、もはや僕には「古く」感じる。コンテンツを徹底的に「面」で消費する人が、かつてはオタクと呼ばれていた。「面」を見るか「点」を見るかが、オタク文化とアキバ文化の境界線だ。
30代後半から40代で「ガンダムは初代から00まで、一通り押さえてます」という人はオタクではあるかも知れないが(以前なら確実にオタクと呼ばれただろう)、アキバとは何の関連もない。

この断絶に、オタクを自認していた人たちは戸惑う。カテゴリーを軽々と飛び越え、目の前のものには熱心な割に、その歴史には不勉強なアキバに眉をしかめる。そもそも、アキバ文化が秋葉原で発生するとは限らない。それはウィルスのように、個人の内面で発生する。よって、見つけることさえ難しい。オタクたちは、好きなアニメを自分の外に向かってアピールした。アキバは、間違ってもそれはやらない。内面で始まり、内面で沈静化する。
『空の境界』が映画興行史に残る異例のヒットを飛ばしても、ネットにはほとんどレビューが載らない。ファンたちは、この作品を周囲に薦めようとすらしない。なのに、記録的大ヒット。『エヴァ』を共有するようなわけにはいかんのだ。

アキバ文化というのは、どこか傷ついて見える。先日書いたように「殺す/殺される」関係もそうだし、いわゆる作画崩壊で「祭」が起きるのもそう。「壊れる」ことが、何らかの価値を持ってしまう。あちこちで生じる断線やディスコミュニケーションを積極的に楽しむ傾向がある。だから、明確な地図が存在しない。かつてのオタクたちは、地図を作成するのに躍起だった。アキバにとって、全体を見渡す地図など無用の長物、大きなお世話だ。
そんなことより、目の前のキャラなり作品なりが、自分の内面にどう関与するかの方が大事だ。内面に関わるものは、未完成でなくてはならない。未熟でなくてはならない。完成された古典はいらない。

僕は自分が関わったもの以外に、何度か美少女ゲーム企画について「意見を聞かせて欲しい」と呼ばれたことがある。「やはり、女の子だけでなく、老人をうまく描けないとダメでしょう」と言った記憶がある。ところが、僕から見て明らかに稚拙な絵のゲームが、売れた。プロデューサーは、その絵の稚拙さが「エロい」のだ、と確信を持っていた。
総合的なバランス感覚を体得せねばならない、というのは我々の世代の信仰でしかない。
オタクたちは、完成されたコンテンツを求め、評価した。アキバには、いまだ完成されざる何かが必要なのだ。

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2008年2月 6日 (水)

■左手に凶器を■

今、これ↓にハマっている。

仕事中も、ずーっと聞いている。アイマスは前から、「なんかいいな」と思っていた。トレーディングフィギュアを買うぐらい、気にはなっていた。だが、決定打は楽曲。『洗脳・搾取・虎の巻』。これをついこないだ知った俺に、ダメ出しをしたい。遅いよ、俺。
だって、電波ソングとかアキバポップとか、20代の若いやつらのもんだと思っていたから。毒汁たっぷりの歌詞がいい。「あなた方を搾取しますから、無知な愚民のままでいてください」って内容だもんね。元のゲームはまったく知らないけど、これだけで十分に強烈。どっかで、この曲を「癒される」って書いてたやつがいたんだけど……分かるような気がする。

昨年秋、『ひぐらしのなく頃に』と『School Days』が放送自粛になった。どちらも凶器を使った殺人シーンがあるからだというが、じゃあなんで萌えっぽい絵で殺人が必要なのか、放送自粛したって分かるはずがない。
『撲殺天使ドクロちゃん』を見れば分かるよ。美少女に凶器で殺されるってのが、一種の快楽になっているからでしょ。これを倒錯の二文字で片付けていいはずがない。ラノベやアニメやゲームの美少女に愛されることがウソならば、いっそ殺してくれってことじゃないのか。ハッピーエンドの用意された学園ドラマには、もはやリアリティがない。「そんなことで誤魔化されやしないぞ」ってことだ。
僕が劇場用パンフで関わっている『空の境界』もそう。ヒロインは、読者が感情移入すべき温厚な男子高生に殺意を抱えている。「殺す/殺される」関係に、ぞくぞくするようなテンションが生じるわけだ。それは「愛す/愛される」関係より、圧倒的に切実で甘美なはずだ。愛は観念、死は肉体。分かる気がする。

オタクでも努力すれば得恋できる『電車男』は、テレビ局に搾取されてしまった。僕はまとめサイトも読んだし、映画もドラマも見た。あれを喜ぶのは、まさに「無知で純粋な愚民」だよ。メジャー化するということは「愚民」に認識可能なレベルに薄められるということだ。そこに横たわる苦渋を、メジャー化する側が理解するはずがない。アキバ文化が大人に搾取される怒りが、『洗脳・搾取・虎の巻』には見え隠れする。怒りは愛の裏返しだ。

『電車男』を書いたのは、実は40歳の男性だという噂が流れていた。俺も40歳になってみて、おおいに得心がいく。あれは「ちょっとの努力で、人並みの恋愛は出来る。出来るっていうか、しろ」という説教だから。でもそれは、俺らの若い頃の話だよね。そういう古典的な恋愛観を、殺人を介在させることで、今の若いやつらは秘かに転倒させていく。その光景をよく見つめなければ。俺らオヤジは、右手に古典を抱えながら、左手に凶器をぶら下げなくてはならんのだ。
それが、「時代を生きる」ということだと思う。

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2008年2月 3日 (日)

■ガンプラ考■

シネコンウォーカー 2月号 配布中
200802
●Movie special 『ジャンパー』記事お手伝い
見どころポイントみたいな超短文コラムを5本ほど書きました。

もう2005年のことだが、日経キャラクターズ!で「ガンプラで脳が活性化!!」という記事を書いた。諏訪東京理科大学の篠原菊紀教授がバンダイからの打診で、ガンプラを作った時に脳が活性化するかどうか調べたのだ。月刊トイジャーナルにも同じ内容の記事が載ったらしいのだが、僕の記事はバンダイの川口克己さんも列席し、「イマイチ信用できない!」と言いたげな表情の写真が載っているのが面白い。
とにかく、この時は「ガンプラを作ると、計算能力が上がる」「学習に役立つかも知れない」という効能のあるなし論で話がまとめられてしまったのが残念だった。(いま記事をめくってみて、すごい誤植を発見したけど黙っておこう……)

僕は、去年の秋ぐらいからガンプラ(具体的にはマスターグレード)を切らしたことがない。常に何かしら作っている。漠然としたアイデアが必要な仕事のときは、必ず組み立てるよ071006_16420001うにしている。黙々と数字に従ってパーツを追っていると、必ず相応しいフレーズが頭に浮かぶ。すぐ横にワードを開いたままのPCがあるのだから、散歩に出るより効率がいい。脳だけ散歩に行かせるにはガンプラがちょうどいいわけだ。
色なんか塗らない。何の創意工夫も工作技術もなしに――ようするに、本気にならずとも組み立てられるのがガンプラのすごいところだ。マニアやプロは「本気」で作るから、この手軽さを絶対に評価しない。
また、ライトユーザーは「このモビルスーツが好きだから買う」などの嗜好があると思うが、僕はパーツ数が多いか、安く買えるかどうかしか問題にしない。つまり、パーツを切り出して組み立てる時間だけが欲しいのだ。まったく、最低のユーザーだと思う。

ガンプラは車や艦船のプラモデルと違って、フィクションを基盤にした模型である。ここまで精度の高い製品でありながら、その根拠を夢想の中に置いている。そのような文化は、海外にはない。どうもこれは、「西洋では物の形をマッス(塊)で捉えるが、日本は線で捉える」という宮崎駿の指摘とも結びつくような気がする。
いわば、ガンプラはどれだけ立体的に構成されていようと、平面――線で描かれた抽象世界に奉仕しているのだ。どこまで精密に進化しようと、抽象性から逃れられないアンビバレンツがガンプラの人気の秘密ではないだろうか。そのガンプラの「日本性」については、なかなか誰も言及しない。

アメリカでアニメ映画といえば、キャラクターをマッスで捉えた3DCGがほとんどだ。一方、ガンプラが何億円の売り上げを示そうと、「では、立体的なガンダムを3DCGでアニメ化しましょう」とはならない(皆無ではないが、2Dのガンダムほどの支持は集めていない)。
何かを「実現」させるということの意味、「リアルである」ということの意味が日本と欧米では決定的に違う。日本のキャラクター文化は、無数のアイコンから成立している。僕はガンプラを必要としてはいるけど、そこに愛があるかと聞かれたら、ちょっと困ってしまう。

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