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2008年1月22日 (火)

■長すぎるテキストのこと■

もう一週間前のことだが、プレス試写で『ひぐらしのなく頃に』映画版を鑑賞。面白かった。何を見せたいのか、ものすごく分かりやすい演出だったから。例えば、注射器に毒薬が入っている。その毒薬の色が、黄緑に080121_22580001近いような黄色……って、それはもう、毒以外の何物でもないでしょう。怖がらせるシーンでは、ばーんと照明が変わり、部屋の中だろうと構わず“もや”が立ち込める。もう「分からせる」ことにかけては、容赦ない映画。これでダメだったら何がOKなのか、俺には分からない。
高校生が友情プライスで観に行って、「キャーッ」と叫ぶのに、これ以上ないほど明快なつくりだ。
ただ、最初に『ひぐらし』を知った時の違和感――ハイパー・グラフィア(過書症)的なテキストの膨大さ、どちらかというと稚拙な絵。あの「ここから先はオヤジお断り」な雰囲気はない。あのハイパー・グラフィアというかオーバー・テキストの洪水に溺れたのは、PS版の『To Heart』が初体験で、残念ながら、俺にとっては快楽ではなく苦痛だった。
どこかで言われていることだろうけど、京極夏彦に挑むかのようなオーバー・テキストは90年代にオタクたちの間に起きた断絶のひとつ、境界線のひとつだと思う。PCゲームは多くがオーバー・テキストで、数時間で読み終えられるようなシナリオは歓迎されない。オーバー・テキストは「長文は悪文」「長すぎる文章は素人の証」と確信している世代には、まったく未知の快楽なのだ。
だから、『ひぐらし』の映画化は、実は俺みたいなオヤジに分かるような形で為されてはいけなかったのではないだろうか。

明快すぎて期待はずれだった映画化といえば、夢野久作原作の『ドクラ・マグラ』がある。監督は、実験映画で有名な松本俊夫。期待したが、文庫本で600ページを越えるテキストが2時間に満たない尺で、あっさり「説明」されてしまったのにガックリ。せめて4時間ぐらいなきゃダメだろう。映画のスタイルとして。
映画『ドグラ・マグラ』の公開年、俺は21歳だった。だから、原作小説はそれより前に読んだことになる。分厚い文庫本に詰まったオーバー・テキストは、それだけで幻惑的で、読破した後はランナーズ・ハイな気分だった。とにかくね、疲れたかったの。本を読むことで。
つまり、オーバー・テキストは10代後半から20代前半にとってのみ魅惑的な創作物なのではないだろうか。結局、「文字を読む」のも身体を使わねばならないからだ。だとするなら、18禁PCゲームに膨大なテキストが必要なのもうなずける。読み疲れることは、それだけで気持ちいい。それは描写するためのテキストではなく、プレイヤーを物語の中に係留するためのテキストだ。読み続けさせることによって、出口を遠ざけるのである。

映画は時間芸術なので、開始と同時に終わりに向かって突進しはじめる。だが、『ひぐらし』はコミックやラジオ、アニメといったメディアを併走することで、永遠に「終わり」から逃げおおせようとしているかに見える。その全能感と映画という表現は、実は相容れないのかも知れない。

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コメント

廣田さんの文章で久々に大笑いしちゃいましたよ。

オーバーテキストって、どっかこう「思春期の背伸び」込みですよね。
で、俺がニューロマンサーとファイブスター物語にハマったのは、背伸びしている連中に対してさらに背伸びしようとした結果、一つ上の世代のオーバーテキストを選択したっつう(笑)。

投稿: 朝の銀狐 | 2008年1月27日 (日) 02時48分

■朝の銀狐さま
モテ欲求とはまた違った、「ちょっとでも頭良く見られたい願望」があるんですよね。スポーツが苦手なやつは、せめてインテリになりたいと願うわけです。

オーバーテキストって、衒学趣味的な側面がありますよね。漫画だと士郎正宗とか。まあ、知ったかぶりですね(笑)。知ったかぶりたいという愚かな願望に悩まされるのは、男子特有という気がします。

投稿: 廣田恵介 | 2008年1月27日 (日) 13時42分

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