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2008年1月29日 (火)

■TSUTAYAの棚の片隅で■

映画とは、日常という意識の連続に穿たれる、ひとつの楔(くさび)である。映画を観ることは、ひとつの儀式である。映画には闇と静寂が必要だ。暗闇でジッと凝視することを求められる。儀式の前と後とで、自分が同じ自分であるとは限らない。映画は、自分が自分でありつづけることを保障してはくれない。

もう2年も前の映画だが、DVDで『ユナイテッド93』を観た。乗客の英雄的行為により、テロリストの目標に達せず墜落した93便の飛行を「再現」した映画だ。むろん、その「再現」の信憑性について、僕は眉にべっとりと唾をつけざるを得ない。今でも、おそらく何も信じてはいない。
だが、映画は現実に拮抗する。『ユナイテッド93』は、まずアメリカの航空管制と軍のシステムを克明に描き、その脆弱さをありありと見せつける。つまり、つい昨日まで当たり前に機能していた現実への不信感を、まず煽る。
上映時間の後半を占める機内の出来事は、遺族の証言に基づく「創作」である。メイキング・フィルムを見れば分かるが、遺族の大半は感情に流されている。つまり、彼らの証言には「思い」というフィルターがかまされている。その時点で、この映画の再現性・信憑性は、ぐっと低くならざるを得ない。監督は、乗客がコックピットに殴りこみ、ぎりぎりまで頑張ったという演出を加える。それは、「現実に拮抗する」ということだ。徹底的に事実に取材しながら、最終的には「思い」によって事実を捻じ曲げる。「こうだったはずだと、俺は思いたい」。常に「思い」が大事だ。人は思い込みによってしか、明日を迎えられない。明日も太陽が東から昇ると信じるからこそ、人は眠りにつける。
事実とは、砂漠である。砂漠で、人は生きていけない。

脂汗を流しながら本編を見終わり、そのままメイキングを見て、まだ足りずに監督のコメンタリー付きで本編を見直すうち、今度はうとうとしてしまう。目を覚ますと、またファーストシーンに戻って、監督のコメンタリーが続いていた(いつの間にリプレイされたのだろう)。喉が、からからに渇いている。明日は何をしようか、と考える。昼間やることは何か、どこで何を食べるか、抱えている仕事のどこからどこまでを終わらせるか。
『ユナイテッド93』を見終わった翌日は、何もかも順調に過ごせたような気がする。だが、それすらも思い込みだということを、僕は知っている。
相変わらず、僕は反戦思想を持てないし、家族を持ちたいとも思わない。『ユナイテッド93』が与えてくれたのは、そんなヒューマニズムなんかじゃない。「強い思いを抱かねば、現実はいつまでも砂漠のままだ」という教え、一種の信仰である。

こうして、僕らは気がつかないうちに、いくつもの儀式を通過しているのだ。TSUTAYAの棚の片隅で、今日も奇跡は誰かに起こされるのを待っている。

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2008年1月22日 (火)

■長すぎるテキストのこと■

もう一週間前のことだが、プレス試写で『ひぐらしのなく頃に』映画版を鑑賞。面白かった。何を見せたいのか、ものすごく分かりやすい演出だったから。例えば、注射器に毒薬が入っている。その毒薬の色が、黄緑に080121_22580001近いような黄色……って、それはもう、毒以外の何物でもないでしょう。怖がらせるシーンでは、ばーんと照明が変わり、部屋の中だろうと構わず“もや”が立ち込める。もう「分からせる」ことにかけては、容赦ない映画。これでダメだったら何がOKなのか、俺には分からない。
高校生が友情プライスで観に行って、「キャーッ」と叫ぶのに、これ以上ないほど明快なつくりだ。
ただ、最初に『ひぐらし』を知った時の違和感――ハイパー・グラフィア(過書症)的なテキストの膨大さ、どちらかというと稚拙な絵。あの「ここから先はオヤジお断り」な雰囲気はない。あのハイパー・グラフィアというかオーバー・テキストの洪水に溺れたのは、PS版の『To Heart』が初体験で、残念ながら、俺にとっては快楽ではなく苦痛だった。
どこかで言われていることだろうけど、京極夏彦に挑むかのようなオーバー・テキストは90年代にオタクたちの間に起きた断絶のひとつ、境界線のひとつだと思う。PCゲームは多くがオーバー・テキストで、数時間で読み終えられるようなシナリオは歓迎されない。オーバー・テキストは「長文は悪文」「長すぎる文章は素人の証」と確信している世代には、まったく未知の快楽なのだ。
だから、『ひぐらし』の映画化は、実は俺みたいなオヤジに分かるような形で為されてはいけなかったのではないだろうか。

明快すぎて期待はずれだった映画化といえば、夢野久作原作の『ドクラ・マグラ』がある。監督は、実験映画で有名な松本俊夫。期待したが、文庫本で600ページを越えるテキストが2時間に満たない尺で、あっさり「説明」されてしまったのにガックリ。せめて4時間ぐらいなきゃダメだろう。映画のスタイルとして。
映画『ドグラ・マグラ』の公開年、俺は21歳だった。だから、原作小説はそれより前に読んだことになる。分厚い文庫本に詰まったオーバー・テキストは、それだけで幻惑的で、読破した後はランナーズ・ハイな気分だった。とにかくね、疲れたかったの。本を読むことで。
つまり、オーバー・テキストは10代後半から20代前半にとってのみ魅惑的な創作物なのではないだろうか。結局、「文字を読む」のも身体を使わねばならないからだ。だとするなら、18禁PCゲームに膨大なテキストが必要なのもうなずける。読み疲れることは、それだけで気持ちいい。それは描写するためのテキストではなく、プレイヤーを物語の中に係留するためのテキストだ。読み続けさせることによって、出口を遠ざけるのである。

映画は時間芸術なので、開始と同時に終わりに向かって突進しはじめる。だが、『ひぐらし』はコミックやラジオ、アニメといったメディアを併走することで、永遠に「終わり」から逃げおおせようとしているかに見える。その全能感と映画という表現は、実は相容れないのかも知れない。

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2008年1月15日 (火)

■「傑作」をネタに、別の何かを成功させる■

EX大衆 2月号 発売中
Ex_08_02
●名作アニメ最終回 早読み25話
前回やった特集がやけに評判よかったらしく、作品数を増やして掲載。さすがに25話すべて見直すのは無理があったので、半分は橋本学さんという方の執筆です。コラムにも書いたんだけど、ソフト化されてない、されていても完全収録されてないアニメの多いこと……ついには、制作会社へお邪魔して、保存されていたテープをその場で見せていただくという荒業に。

●佐野夏芽 グラビアポエム
●愛ドルのリコーダー 第一回 青島あきな

佐野夏芽さんのページは袋とじだったので、もうちょっと過激な感じで書けば良かったなぁ……つい、いつものパターンでまとめてしまった。新境地、開拓したかった。
それより、新連載の「愛ドルのリコーダー」。前号の「キス顔」まではショートストーリーを書けば良かったんだけど、今回はキス顔ではなく「水着姿でリコーダーを吹いているアイドルの写真」ですよ。一体、何を書けばいいのよ。でも、こんな企画考えて実行しているってことは、雑誌が元気な証拠だと思う。

早いもので、本日はドラマ『ハチミツとクローバー』二回目。
なんでこのドラマに腹が立たないのか、昨夜『ヤッターマン』を見ていて気がついた。今度の『ヤッターマン』は、『ヤッターマン』を題材にしたバラエティ番組なんだ。リメイクでもなければ、新訳でもリビルドでもない。最初の『ヤッターマン』は、ロボットアニメ全盛期だから成立した。今は違う。だのに、同じことをしなくちゃならない。だったら、『ヤッターマン』をネタにした、限りなく『ヤッターマン』に近い番組を、アニメという手段でつくるしかない。
今度のはアニメ番組という形式を使ったバラエティだから、オリジナルと比べても意味がないんだよ。

漫画の『ハチクロ』は、羽海野チカさんが人生の半分ぐらいを注ぎ込んだ作品で、もう二度と同じような作品は書けないと思うけど、だからといってドラマ制作者までが命を削る必要はない。『ハチクロ』をネタに、別の何かを成功させればいい。
『ハチクロ』の山田のお父さんが「特別出演」の泉谷しげるで、ストーリーから完全に浮く演技をしていても、バラエティだから腹は立たない。もしかすると、80年代の「月曜ドラマランド」あたりで鍛えられたのかも知れない。あれはもう、考えられないような漫画まで無理やり実写化していて、その名のとおり、「ドラマ」ですらない「ドラマランド」だった。

有名な漫画やアニメが実写になると聞いても、ワクワクすることなんか滅多にない。「終わったな……」とため息が出る人がほとんどだと思う。だが、終わった瞬間に別のロジックによる何かが始まるのだ。俺は、それを見届けたい。「コレジャナイロボ」を与えられた子供のように泣きじゃくるより、「傑作」をネタにした別の何かが結実する瞬間を見たい。
というわけで、明日は映画版『ひぐらしのなく頃に』のマスコミ試写に行って来ます。

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2008年1月10日 (木)

■怒りをこめて、ふりかえれ■

劇場版 『空の境界』 「殺人考察(前)」 パンフレット

Scan20008●メイキングページ 構成・執筆
今回は「走り」のカットなのにリピートではなく、中割りすらしてない驚異の原画ですね。フタコマ打ちなので、掲載の都合上、一枚ずつはしょって掲載しても良かろう……と判断したのですが、フレーム毎にエフェクトが異なるため、あんまり良くない。一応、文中でフォローはしてありますけどね。この壮絶なカットを見たときは、マジで心臓が止まるかと思いました(笑)。原画も大事だけど、撮影がいかに重要なウェイトを占めているか、思い知らされますね。

前回の記事は、最初、『ネギま!』や『ひぐらしのなく頃に』の実写化に猛反発した人たちを、くさすつもりで書きはじめたはずだった。でも、彼らが本気で怒っているのなら、企画が成立した事情なんか理解しなくていいから、怒りつづけろ、という気分になった。怒りというのは、心の覚醒状態だ。それゆえにコントロールが難しいわけだけど……心が眠っているよりは覚醒していた方が、いいに決まっている。いいんですよ、怒っても。それが、「作品を愛している」という気持ちの表明なら。
大人の思惑なんか、叩き潰すぐらいの欲望を持っていい。力石徹の葬儀をやったのは、僕らより一回り以上、上の世代だ。彼らより、今の君たちの思いの方が、おそらく切実だ。

劇場アニメの声優に有名タレントが起用されることも、やはり「社会化」だと思う。有名タレントが出てきた方が、世の中と繋がるパイプが何倍、いや何百倍にも増える。出資者からすれば、当然の選択だ。タレントにギャラを払うわけだから、相応のリスクも課せられる。ただ――先日の繰り返しになってしまうけど――それをナワバリを荒らされたように感じてしまう人たちもいるわけだよね。
文句を言うぐらいだったら、なぜそれを阻止する行動に出なかったのか、と俺は思ってしまう。「自らの怒りを大地に刻みつけることが出来ないのは、おそるべき失意である」だっけ。ボーヴォワールの言葉だ。
ところが、怒りというのは自尊心を傷つけるから、多くの人はそれを嘲笑へとすりかえる。……難しっすね。社会に対して怒ることは、社会を意識するということだから。自らの存在を表明し、自らの意思を表明することには、必ずリスクが伴う。友人を失うかも知れない。仕事を失うかも知れない。

かくいう俺は、昨年、ある仕事を下りた。理由は、担当者の態度に腹が立ったから。「ギャラも要りません。後は勝手にやってください」と。その後、俺の代わりに仕事を請けた人が辞め、その次の人も辞め……で、いまやグダグタになっているという。因果応報というやつだな。悪がひとつ滅んだ。
だから、蔑み・嘲笑は何も生まないけど、怒りには効能もあるんだ。蔑むぐらいなら、自分の名にかけて怒ればいい。後悔は、中年になってからでも遅くない。

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2008年1月 8日 (火)

■社会性を持つ■

アニメも映画も観たし、なんのかんの言って気になるらしく、フジテレビの『ハチミツとクローバー』を視聴。
080108_22180001映画については「グレメカ」誌上で苦笑させてもらったけど、ドラマは結構いい。というかねぇ、「見た以上は悪口禁止」という気分。
「原作漫画はとっくに完結したのに、アニメやって映画やって、まだドラマまでやんのか!? お前ら、そこまでネタないのかよ?」という気分は分かるんだが、そもそも漫画というもの自体、高度に「商品」として完成されたメディアだと思うので、そういう文句は出ない。

ただ、漫画というのは「人間の手」で描かれるので、読者との親和力が強い。ゲームも「手で」進めていく以上、気持ちが入りやすい。だから、『ネギま!』や『ひぐらしのなく頃に』の実写化には猛烈な反発が起きた。……まあ、少女漫画の場合はそんな過剰な反発は起きないんだけどね。独占欲の強い男性オタク特有の現象、といってしまえば話はそれで終わってしまうんだが、じゃあ、なんで男ばかりが原作漫画(あるいはゲーム)を死守したがるのか。

たぶん、映画になる、ドラマになるって「社会性を持つ」ということだから。漫画だったら独力で描ける。『ひぐらし』だって、竜騎士07さんの個人作品だ(ご本人は非常に社会経験豊富な方で、びっくりしたけど)。
ところが、映画・ドラマになるって、かかるお金の規模も違えば、かかわる人間の数もケタ違いになる。あちこち折り合いをつけて、関連各社の目論見も理解し、お金のことも考え含めなければ、企画なんて前へは進まない。
あと、実写になると、単純に作品を見る人間の数が増える。かけたお金の分、マスコミに露出しなくてはいけないから。顔見知りばかりだった公園から、誰がいるのか分からない広場に出ていかなくてはならないんだ。
で、女性は行動範囲が広がることに抵抗がないんじゃないだろうか。つまり、生まれながらに環境適応能力が高い。男のオタクは、逆なんだ。自分の理屈が通じない世界へ、自分の好きな作品が泳ぎだしていってしまう、その変化が怖い。胎内回帰的だ。せめて、心の拠りどころにしている漫画やゲームぐらい、生々しい大人の世界から隔離しといてくれよ。そういうことだと思う。

僕は、映画やドラマが成立するプロセスをある程度、知ってしまっている。だから、ドラマの『ハチクロ』で『北の国から』のパロディをやっても許せる。キャスティングだって、プロダクションの力関係とか、いろいろあったんだろ。つくってる側は、ファンと違ってリスクしょってるんだ。だから、「見た以上は悪口禁止」だ。
胸を張って言えるが、僕には社会性がない。にも関わらず、大人のやることに対して、怒る権利を失ったんだ。疲れたからじゃない。知りすぎ、分かりすぎ、諦めすぎ、許しすぎたんだ。

以前に、「蔑むな、愛せ」と書いた。愛は、怒りによって支えられるのかも知れない。だとしたら、『ネギま!』『ひぐらし』の実写化に猛反対した人たちには「最後まで、許すな」と言いたい。もし本当に、怒れば怒るほど、愛が深まるのであれば。

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2008年1月 2日 (水)

■ペ・ドゥナは第二志望■

元日。TSUTAYAに韓国映画『復讐者に憐れみを』を借りに行ったが、見当たらない。仕事の参考になるかな、と思っていたのに残念だ。
しょうがないので、手近にあった『子猫をお願い』を借りる。理由は、ペ・ドゥナが出ているから。けっこう、「第二志望」というのは人生に大事なことかも知れない。ここで「何でもいいからSFだ」という人もいるだろうし、「とりあえず最新作を」という人もいるだろう。俺の場合は女優。というか、ペ・ドゥナ。「第二志望」には、建前を取り除いた自分のだらしなさ、みっともなさが表れるのではないだろうか。
080102_23270001_2が、観はじめると、あちこちでレコードの針が飛ぶように映像が途切れ途切れになっていく。とうとう、ペ・ドゥナが運河のような場所でタバコを吸っているシーンで、映像はピタリと止まってしまった。
DVDを取り出してみると、盤面に無数の傷が入っていた。

翌日、どんな文句を言ってやろうかと思案しながら、TSUTAYAに向かった。
ところが、TSUTAYAはレンタル代を返してくれない。代わりに何か借りたいものはないのか、と聞いてくる。『子猫をお願い』は、その一点しか在庫がないのだ。俺が未練がましい顔をしていると、「では、盤面を研磨してみます。しかし、この傷では……」。さらに俺が未練がましくカウンターの脇に立っていると、「店内でお待ちください。研磨が終わったら、お呼びしますので」。
こういう時、「じゃあ、第三志望はアレだ」と即答できる? 俺は出来ない。もう、何でもいいから話題作にしようかな、とか、店員に「コレにします」と見せても恥ずかしくない方を意識してしまう。
もうどうしようもなくなって、結局、韓国映画のコーナーに戻ってきて、ぼんやり棚を見ていた。すると、あらぬ場所に『復讐者に憐れみを』を発見。店員が「申し訳ございません、やはり研磨してもダメでした……」と言いに来たのを待ちかねたように、俺は「じゃあ、代わりにコレにします」と『復讐者に憐れみを』を差し出した。

もちろん、仕事の参考に観はじめたので、気持ちは重かった。何しろ、パク・チャヌク監督の復讐三部作全制覇が目的だから。
しばらくすると、画面いっぱいに、あの独特の間抜けた顔の女優が大写しになる。何だ、ペ・ドゥナが出てるんじゃん! しかも、準主役といってもいいぐらい、いっぱい出てくる。ペ・ドゥナは出演時期によっては、どえらく老けて見えるのだが、『復讐者に~』の撮影時はいい感じだ。髪型もいい。『子猫をお願い』より、断然いいじゃん。

こういう偶然を、俺は「ただの偶然」ですますことが出来ない。第二志望までは意識で選択できても、第三志望だけは自分には選べないのだ。こういう時、俺は自分以外の、しかし自分を包含する「世界」に畏怖の念を感じる。

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