■冒険者たちのバラード■
時間がないので、メモ書き程度に。ある企画のため、『ガンバの冒険』のラスト数本だけを観た。地上波で再放送を見て以来だ。
とにかくノロイが怖いわけだけど、何が怖いって真っ白なところ。他のいたちは、茶色です。量産型です。で、海中戦でガンバに倒された量産型のいたちを、ノロイが「邪魔だ」とばかりにツメで払いのける。これ、『イデオン』のザンザ・ルブだよね。アディゴをツメで押しのけるカット。ザンザ・ルブも白いから怖い。劇場版のエヴァ量産機も白。まあ、そんな比較はいいとして。
ガンバたちの最終作戦で、ノロイとガンバは一度、渦巻きに飲み込まれる。仲間たちはガンバが死んだと思い、泣くわけだ。ところが、海の中から大きな影が現れる。瀕死のノロイだ。もう、ノロイは大塚周夫の声では喋らない。人格の消えたまま、まだ何匹かのネズミを殺し、ようやく倒れる。気を失ったガンバが背中に張り付いているんだけど、明確な死因は分からない。ガンバが致命傷を与えたようには見えない。
それで、両腕をかかげ、口が耳元まで裂けたまま、ノロイは海岸に倒れる。その倒れたカットがすごいの。ものすごい形相をしたノロイの向こうで、波がザーンと揺れているんだ。ノロイは死んだけど、その代わりに海が動き出すの。
カメラが引き、ノロイは動かない。波は動く。波は、動かないノロイをさらっていく。やがて、渦を巻いた海は、両腕をかかげたファイティング・ポーズのままのノロイを、ゆっくり飲み込んでいく。もはや、このシーンでは海が主役だ。
俺は思った。勝ったのは、ノロイだ。海は、偉大なるノロイを弔ったのだ。
逆に、ガンバたちは、海へ出て行くためにイカダをこしらえるしかない。そこへシジンのナレーションが入る。「こんなに大きな海なのですから、オシッコぐらいしてもいいでしょう? 涙をこぼしてもいいでしょう?」と、海へ許しを請う。彼らは海を畏れているのだ。「さかまく波とひらめく空が ガンバと仲間を打ちのめす」とEDテーマは歌う。
つまり、ノロイを丁重に埋葬した海は、以前よりもっとガンバたちに冷たく険しく、だから彼らは「また」「目的もなく」出帆しなくてはならないのだ。
ガンバたちの本当の敵は、ノロイではなく、ノロイを受け入れた海なのだ。
しかし、なぜ体も大きく頭のいいノロイたちは、あんな小さなネズミたちを全滅させようと懸命だったのだろう? おそろしく理不尽な話だ。たぶん、そこに理屈はないのだろう。
ひとまず「ノロイは理不尽な暴力である」と解釈しよう。そう認識すれば、ガンバたちが恐怖の中から勇気を搾り出して「得体の知れない理不尽」へ立ち向かう気持ちが、少しは理解できる。ガンバたちには、戦う理由が必要だった。「死んでもいいから、存分に戦いたい」という原初的な衝動がまず先にあり、だからノロイが必要だった。
見えやすい「権力」を倒したら、その向こうに茫洋と広がる「社会」を敵にせざるを得ず、だからガンバたちは、今度は「海」との戦いへ赴くのだ。
もちろん、これは僕の手前勝手な、思いつきの解釈に過ぎない。「原作はぜんぜん違うんですよ」「監督のインタビューでは違うことを言っていますよ」、そんなことは関係ない。作品を肉体化することの方が、圧倒的に大事である。
作り手の心が冒険しているから、絵で描かれたネズミたちの冒険が「本物」になるのだ。
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