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2007年12月30日 (日)

■自分のスウィートウォーターを探せ■

「無いパーツは、つくるしかない」。今年、最も印象に残り、来年、最も役立ちそうな言葉。出典は、こちら。逆を言えば、「つくる」ための格好のモチベーションは、何かが「無い」という状況なのだ。「つくる」こととは、際限ないプラス・オンではないと思う。「欠乏」こそが推進力になるのだ。

『グレートメカニックDX 3』に書いたシャアに関する文章、そこそこ評判いいらしいのだが、良ければ良いほど、人は何も言ってくれないものだ。
確か、『逆襲のシャア』公開時の特番で、富野監督は「40歳ぐらいの人に観てほしい」と言っていたと思う。さて、40歳になった。何年ぶりかで観て、あれこれ納得した。その成果が『グレメカ』に掲載した文章なのだが、要するに「その歳になったら、お前のスウィートウォーターを探せ」ってことなんだと思う。

スウィートウォーターに拠点を構えたシャアは、むちゃくちゃ幸せそうだった。赤いモビルスーツはあるし、強化人間、アクシズ、大人の女ナナイ・ミゲルに、ニュータイプ少女のクェス・パラヤと好きなものが全部ある。何でも揃う男の城、それがスウィートウォーターだ。
何しろ、シャアは故郷を放逐された人間だ。だから、何とかアイデンティティを探そうと復讐ごっこをしてみたり、しつこくガンダムを追い回したり、結局、20代前半では何も手に入れられなかった。20代後半は、名前を変えたのに周囲にバレちゃったり、若造に殴られたり頭を下げさせられたり、挙句の果ては行方不明。一体、自分でも何をどうしたいのか分からなかったんだろう。
それで、ヤツもいろいろ考えた。好きな色は何か。どんな女が必要で、どんな部下が必要か。欲しいアイテムは何だ。「あれもこれもと手を出さず、いい加減に絞れ、俺」と。そうして集めたものを、すべて収めたオモチャ箱、それがスウィートウォーターですよ。

どうも、「隕石を地球に落として、人類を粛清する」というのは後から考えたことのような気がする。結局、カウンターとしてしか生きられないのであれば、権力に対してイヤガラセぐらいしてやろうってことじゃないだろうか。
そんなことより、若い頃に戦ったアムロをリングに上げることの方が、ヤツにとっては大事だったはず。「あと俺に必要なのは……やっぱ、ライバルがいないと!」 そういうのを卒業したアムロにとっちゃ、いい迷惑なんだけどね。そんなこと聞き分けてられないよ、人生のリターンマッチなんだから。分かってやれよ、みんな!

世の中、キャラ萌えはあっても、「飲みに行きたいアニメ・キャラ」を語る人がいない。今度、シャア専用機のガンプラ買おうかと思う。なんか、シャアの口座に印税が入るような気がするから。

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2007年12月24日 (月)

■時間を味わう■

合体指南書 其の参 29日コミケで発売
Aq_dojin
●ファイトだ、カサP!!
……というタイトルの読み物を書きました。『劇場版アクエリオン』完成までの3ヶ月のメモ帳を葛西プロデューサーから見せてもらい、 それにツッコミを入れるという、言われてみれば確かに同人誌っぽい企画。

今日24日は、なんとガルダスのスタッフとお会いするという飲み会。イヴなのに男ばかりというのが、いかにもガルダス。
今年は、こんな風にして人と会う機会が増えたせいか、やけに時間の流れが遅い。酒を飲むと時間の感覚が狂うのは僕だけじゃないと思うが、夢の中で数年間を過ごしたこともある。時計を見ると、5分程度しか経っていない。しかし、ありありと「数年間」という体感時間が、身体に残っている。この夢見の方法をマスターすれば、二百年ぐらいは生きられるのではないか、と思う。
時計の刻む時間というのは、自分以外の他者がいるから必要なだけだ。時計がまっすぐな線ならば、体感時間はカタマリである。計る単位が違うのだ。

例えば、メシ屋に入って、メシが出てくるまで漫画を読んだとする。ページをめくり、衝撃的なシーンに出会う。その瞬間は、時計の針では2秒間であっても、計測不能な時間として凝固する。そこで「お待ちどう」とメシが出てくる。そのシーンのまま、漫画の中を流れていた時間は、僕がメシを食い終わるまでの間さえ、ゆっくりと引き延ばされていく。
僕が松本大洋の『花男』を知ったのは、床屋で順番待ちをしている時だった。シーンは、バッターボックスに立った花男が、空を見上げてカモメを見つけるというクライマックス。そこで床屋の順番が回ってきたので、僕はタイトルもつづきも知らないまま、いくばくかの時を過ごした。確か、友達に「こういう場面のある漫画、知らないか」と聞いてまわって、だいぶ経ってから単行本の一巻を手に入れたように思う。
床屋で見たカモメのシーンは三巻に収録されていたので、さらに待たされたことになる。うまく言えないが、時間というのは「使う」ものではなく、味わうためにあるのだと気がついた。

そのような時間のあれこれが、枝に果実がみのるように、僕らの人生に、いくつも発生しているのだと思う。つまり、僕らは何本、何百本という独立して並走するタイムラインを、飛び渡るようにして生きているのではないだろうか。
それとは関係ないが、昨夜、駅前のバーミヤンでメシを待っていたら、フェリーニの『道』のテーマ曲が流れはじめた。僕は、曲を最後まで聞くため、できるだけゆっくりとメシを食べた。

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2007年12月16日 (日)

■身体が司る■

グレートメカニックDX 3 発売中
Scan20007
●これが赤い男の生きる道!
「なんで今さら、何の思い入れもないシャアについて書かねばいかんのだ?」と最初は悩んだ。ライターになって間もない頃、『シャアが来る!』という本を書いて、今では誰もがやってる名セリフの活用法なんかもやったし、完全に飽きていたから。ところが、いざ書き始めたらオモシロイ! シャアというのは、若き日の赤っ恥の塊なのです。

●柿沼秀樹インタビュー
『機甲創世記モスピーダ』12ページ特集のラストを飾るのは、お会いするたび「うおお、活字にしてぇ!」と悶絶していた柿沼節が炸裂! 実は、ちょっと前に書いていた「人間の肉体的ピークは10代」というのは、柿沼先生の発言なのです。『モスピーダ』知らない人にも読んでほしいな。特に、年上から説教されたくてたまらないオヤジ初心者、必読!

●勝手にガンダム00 MSV選手権
Ca270149誌面じゃ暗くて分かりづらいので、携帯で撮った写真を。
けっこう遊んだつもりだったけど、ガンダムハンマーのトゲつけて、両肩をグフにしただけだからなぁ。隣ページの河合宏之さんは、ガンプラとA-10(アメリカの爆撃機)を合体させるという蛮行に及んでいる。くやしい。次は負けんぞ!

●オヤヂ酒場
お題は『機動戦士ガンダム00』と『ヱヴァンゲリヲン・序』です。なんで『ヱヴァ』が大ヒットしたのか、ずーっと分かんなかったんだけど……何となく、ヒントらしい言葉を業界の人から聞いた。ようは「学生さんはヒマだから」。『時かけ』でリピーター続出したのも、同じ理由かも知れない。やはり10代はあなどり難し、と。

EX大衆 1月号 発売中
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●小倉優子 グラビアポエム
●杉浦 幸 グラビアポエム
●希志あいの グラビアポエム
●アイドルのキス顔チュ! 最終回 福下恵美

「キス顔」は800字でストーリーつくるのが大変だったけど(しかも計16本)、グラビアポエムの仕事はやめたくない。写真のイメージに合わせて、女優さんの経歴に配慮したうえで、理性を捨てる。捨てた理性を、決められた文字数に合わせて、整列させる。こんな面白い作業、他にないよ。
だって、理性を捨て切るため、書く前にわざわざ寝たりしてるもん。会話したら脳がシャンとしちゃうから、電話もとらない。たかがグラビアポエムのために(笑)。

脳にある思考を文字に変換していくのが「書く」ことじゃないと思う。人間のやることは、なにもかも身体が司っているから、思考なんか役に立つのか、という瞬間さえある。 

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2007年12月13日 (木)

■リスクを負う■

月刊シネコンウォーカー 12月号 配布中
200712
●江川達也インタビュー
お題は、江川先生オススメの『地球防衛軍』なんだけど、やっぱりこの人の物の見方、応用の仕方はスゴイです。
この日は三件ほど取材があって、僕らは最後まで待たされたんだけど、ビックリしたのは僕らの前にインタビューしてた女性記者さんが『十二人の怒れる男』を知らなかったこと。
おいおい、『十二人~』ぐらい見てろよ、プロだったら。お前らがそんなんだから、映画評論とか映画雑誌のレベルが落ちるんだろうが!……って、俺が「怒れる男」になっちゃったけど、彼女らを笑って許す江川先生は、心にゆとりがあるよなぁ。

アニメーションノート No.08 近日発売
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●『空の境界』 全12ページ特集
これはものすごく勉強になる仕事でした。誌面は地味だけど、モノづくりへの考え方、チームプレイの賢いやり方、経験の応用の仕方、いろいろタメになるはず。

「人間はきっと何かを失うというリスクなしには人生を獲得できないのだと思う」「リスクを負わない人生というのは何も選択せずに可能性を留保しているだけ」……ともに、『Newtype』誌掲載の押井守の発言。ここまで熱く、ストレートな押井守に惚れた。こういう若いことを言っている時点で、もう『スカイクロラ』は傑作確定。どんな駄作であろうと、傑作である。いやたとえ、映画が完成せずとも、僕が映画を見ずとも、傑作であることは分かる。
『もののけ姫』も、メイキングを見た時点で「傑作」だった。完成作品を観てガックリしたんだけど、やはり傑作だった。
これは嫌味でなく、本当にそう思う。少なくとも、僕はそういう目で「傑作」を観てきた。

何かを賭けて――つまり、リスクを負って何かをやることが大事であって、リスクを負わないやつの目は死んでいる。
最も美しい花は、断崖絶壁に咲くのだと思う。

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2007年12月 8日 (土)

■王子の行方■

大人のガンダム 完全版 発売中
Oto_gun
●上野和典インタビュー
●川口克己インタビュー

あとは、川口さんのページの前にあるガンプラの解説ページも書きました。

一時期ハマっていた王子バーが、年内で休業することになった。
知らない人のために解説しておくと、男装コスプレした女性が給仕してくれるバーで、どちらかというと女性向けのお店。一階はメイド居酒屋で、こっちの方が男性向けだった。お気に入りの王子なりメイドなりを目当てに通う、という点では、まがうことなきキャバクラの係累。
王子バー休業の一方、メイド居酒屋は営業続行とのこと。そっちの店はどうでもいいので、俺は財布に入れっぱなしになっていたポイントカードを、ついさっき捨てた。

面白いもので、このメイド居酒屋の本店は、俺が結婚している頃に住んでいた家から、徒歩数分のところにあった。離婚後、こちらに一人で越してきて間もなく、吉祥寺に支店がオープン。つまり、店のほうが俺の足取りを追いかけてきたわけだ。
人と作品は、しばしば有機的な関係を結ぶが、それは場所や店についても同様だ。俺がメイド居酒屋を嫌うのは、結婚時代の残り香を、無意識が感じとるからなのだろう。

さて、気になるのは王子たちの行方だ。
王子のコスプレさえ脱げば、彼女たちは普通の女の子なのだろうか。役者が肉体で物語をつむぐように、夜の間だけ性別を曖昧にして「王子」と化する彼女たちもまた、暮らしの大半を物語に溶かし込んでいたんじゃないだろうか。
それが不可能となった彼女たちは、これから一体、どこへ行くというのだろう。
「コスプレなんかやめて、現実を直視しなさい」などと言ってくれるな。現実なんて、直視するだけの値打ちがあるのか?

毎日を偶然のつながっただけのもの、と思いたくないから、我々は例えば恋愛によって現実を物語化する。「将来の夢」を持つことで、殺伐とした暮らしはストーリー化される。
現実が、ただそれだけでは何の価値も持たないことを、我々は知っている。だから、そこへストーリーを練りこむのである。
俺がコスプレを嫌悪しきれない理由は、そこにある。
――願わくば、王子たちが閉店後、裏口からこっそりと馬車に乗り込んで、祖国へ通じる暗い森々を走りつづけんことを。いつまでもいつまでも、夜のつづかんことを。

先日、『ブレードランナー』のユニコーンのことを書いた。昨日、駅から遠い古本屋まで歩いてみたら、「Unicorn」と書かれた外国の絵本が入荷していた。瑞兆かと思ったが、買うのはやめた。やめれば、また何かに出会うはずだから。
071208_01140002今は、夫・中島らもさんとの思い出をつづった中島美代子さんの『らも』を読んでいる。

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2007年12月 6日 (木)

■冒険者たちのバラード■

時間がないので、メモ書き程度に。ある企画のため、『ガンバの冒険』のラスト数本だけを観た。地上波で再放送を見て以来だ。
とにかくノロイが怖いわけだけど、何が怖いって真っ白なところ。他のいたちは、茶色です。量産型です。で、海中戦でガンバに倒された量産型のいたちを、ノロイが「邪魔だ」とばかりにツメで払いのける。これ、『イデオン』のザンザ・ルブだよね。アディゴをツメで押しのけるカット。ザンザ・ルブも白いから怖い。劇場版のエヴァ量産機も白。まあ、そんな比較はいいとして。

ガンバたちの最終作戦で、ノロイとガンバは一度、渦巻きに飲み込まれる。仲間たちはガンバが死んだと思い、泣くわけだ。ところが、海の中から大きな影が現れる。瀕死のノロイだ。もう、ノロイは大塚周夫の声では喋らない。人格の消えたまま、まだ何匹かのネズミを殺し、ようやく倒れる。気を失ったガンバが背中に張り付いているんだけど、明確な死因は分からない。ガンバが致命傷を与えたようには見えない。
それで、両腕をかかげ、口が耳元まで裂けたまま、ノロイは海岸に倒れる。その倒れたカットがすごいの。ものすごい形相をしたノロイの向こうで、波がザーンと揺れているんだ。ノロイは死んだけど、その代わりに海が動き出すの。
カメラが引き、ノロイは動かない。波は動く。波は、動かないノロイをさらっていく。やがて、渦を巻いた海は、両腕をかかげたファイティング・ポーズのままのノロイを、ゆっくり飲み込んでいく。もはや、このシーンでは海が主役だ。
俺は思った。勝ったのは、ノロイだ。海は、偉大なるノロイを弔ったのだ。
逆に、ガンバたちは、海へ出て行くためにイカダをこしらえるしかない。そこへシジンのナレーションが入る。「こんなに大きな海なのですから、オシッコぐらいしてもいいでしょう? 涙をこぼしてもいいでしょう?」と、海へ許しを請う。彼らは海を畏れているのだ。「さかまく波とひらめく空が ガンバと仲間を打ちのめす」とEDテーマは歌う。
つまり、ノロイを丁重に埋葬した海は、以前よりもっとガンバたちに冷たく険しく、だから彼らは「また」「目的もなく」出帆しなくてはならないのだ。
ガンバたちの本当の敵は、ノロイではなく、ノロイを受け入れた海なのだ。

しかし、なぜ体も大きく頭のいいノロイたちは、あんな小さなネズミたちを全滅させようと懸命だったのだろう? おそろしく理不尽な話だ。たぶん、そこに理屈はないのだろう。
ひとまず「ノロイは理不尽な暴力である」と解釈しよう。そう認識すれば、ガンバたちが恐怖の中から勇気を搾り出して「得体の知れない理不尽」へ立ち向かう気持ちが、少しは理解できる。ガンバたちには、戦う理由が必要だった。「死んでもいいから、存分に戦いたい」という原初的な衝動がまず先にあり、だからノロイが必要だった。
見えやすい「権力」を倒したら、その向こうに茫洋と広がる「社会」を敵にせざるを得ず、だからガンバたちは、今度は「海」との戦いへ赴くのだ。

もちろん、これは僕の手前勝手な、思いつきの解釈に過ぎない。「原作はぜんぜん違うんですよ」「監督のインタビューでは違うことを言っていますよ」、そんなことは関係ない。作品を肉体化することの方が、圧倒的に大事である。
作り手の心が冒険しているから、絵で描かれたネズミたちの冒険が「本物」になるのだ。

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2007年12月 5日 (水)

■蔑む分、愛す■

劇場版『空の境界』 「俯瞰風景」 パンフレットScan20006_3

●メイキングページ 構成・執筆
スキャナーの関係で汚くなってしまったけど、実物の表紙はツヤ消し黒に銀文字、という渋いデザインです。
単館でレイト、しかも月替わりで中篇を連続上映するという異例の興行パターンのため、ファンでない方はちょっと見づらいとは思いますが、「映画感」はむせかえるほど濃厚です。
今年ほど劇場アニメが充実してしまうと、テレビアニメを見るモチベーションが薄れていく……というのは、おそらく一部のマニアなのかな。

映画というメディアは特別だ。他の誰かが、僕の気に入った映画をどう思っているのかは、あまり興味がない。なぜなら、映画を気に入る、とは映画を自分の肉体の中に置くことだと思うから。
映画を自分の「外部」に置きたがる人が、あまりに多い。そうした人たちは、気に入った映画にさえ点数や順位をつけたがる。義務教育で最も嫌っていたことを、映画に対してやってしまっているんだ。
小学校低学年の頃は、先生が赤鉛筆でつけてくれるカタツムリのようなうずまき模様が点数だった。目の前で「よくできました」とオマケをつけてくれると、友達まで一緒になって喜んでくれた。
愛情が数値化できないことを、先生の赤鉛筆が教えてくれたんだ。

それが中学ともなると、「教育」の方向が急転換する。教室で盗難騒ぎがあれば、「犯人が見つかるまで、黒板の前に正座だ!」なんて教育が、1970年代に行われていた。正座はまだしも、土下座なんて日常茶飯事(いや、昼食抜きなんてこともあったから茶飯事とはいわない)。いいかい、14歳かそこらで、「クラスのみんな、ごめんなさい」って土下座だよ?
だから、ボクサーも相撲取りも、「国民のみんな、ごめん」と謝るわけだよ。あの見世物は、戦後民主主義教育のグロテスクな産物よ。
そして、「一人でも競争相手を下に蹴落とせ」の受験勉強が10代の少年少女を引きこもらせる。みんな、社会に出ても「自分より下」がいないと気がすまない。嘲笑したくてたまらない。10代の頃に「友達を蹴落とせ」と叩き込まれりゃ、そりゃそうなるでしょう!

……つい熱くなってしまったけれど、みんなもうちょっと「誉めようよ」と思う。もちろん、批判精神がないと、作品は鍛えられない。競争意識がないと、作り手は磨かれない。俺だって、編集者と議論してまで批判的な記事を書くことはあるさ。周りが誉め殺しなら、逆風を吹かすため、批判もする。本というものは、多様性がないといけないから。
だけど、そのずっと以前の、いわば幼稚な段階で「誉める」こと。それは、義務教育で叩き込まれた「蔑み」に対するカウンターになる。
……どう言ったらいいのかな。「誉められるものを見つける、探す」でもいいんだ。叩けるもの、嘲笑できるものを探してはいかん。蔑んだら、その分だけ、愛せ。
そうしないと、結局、俺らは義務教育の「成果」を繰り返す、くだらない日本人として一生を終えてしまう気がする。

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