■ブレードランナー・ブルース■
新宿バルト9にて、『ブレードランナー』ファイナル・カットを鑑賞。『ブレラン』(笑)と言えば、ついこないだ、「ディレクターズ・カット最終版」のDVDを入手し、その意外な退屈さにウンザリしたばかり。ファイナル・カットは、その最終版と「大差ない」というじゃないか。一緒に観る友人には悪いけど、「こりゃ、確実に寝るな」と覚悟完了でシートに座る。
ところが、予想もせぬ事態が起きた。
完璧に蛇足と思えた、ユニコーンの走る追加シーンで、「グラリ」と平衡感覚が狂った。頭はシートにしっかりもたせかけているし、地震が起きたわけでもない。なのに、「フラッ」と視界が揺らいだのだ。
画面では、ハリソン・フォードがカッと目を見開いている。「なるほど、そうか!」ってな顔だ。そして、彼はレプリカントの残していった写真を分析しはじめるのだが、そこから先は、もう映画そのものが「他」ではなくった。スクリーンに映っている何もかもが「自分」のことのように感じられる。
初公開時はロードショーを見逃し、二番館に友達を連れて六回ほど観に行った。あちこち たらい回しにされてきたフィルムは、もちろんボロボロで、10秒あるシーンが三秒にちょん切られているのなんかデフォルトだった(パーフォレーションという穴が壊れた場合、フィルムが輪転しなくなるので、映画館主が勝手にスプライサーで切って繋いでしまうのだ。だから、『ブレードランナー』には「館主ファイナル・カット」が無数に存在するはず・笑)。
あの劣悪な環境で観た『ブレラン』こそが、俺にとっての『ブレラン』だった。そのノスタルジアが木っ端微塵に打ち砕かれたのは、もちろんDLP上映で音も映像もクリアになったから、だけではない。
相変わらずストーリーはご都合主義で安っぽく、次に来るシーンも分かってはいる。にも関わらず、ユニコーンのシーンから最低でも10分ほどは、スクリーンとの距離がゼロになった。それは網膜ではなく、脳内に再生される映像だった。
デッカードは私であり、レイチェルの弾くピアノの音色は私であり、未来の街の雑踏は私であり、ゾーラが撃たれて割れ散るガラス片ひとつひとつさえ、私だった。
ラストシーンで、もう一度ユニコーンが登場する。ハリソン・フォードは、またも「なるほど、分かった」という顔をする。何が分かったのかは、分からない。そんなことは重要ではない。おそらく、誰もが自分のユニコーンを持っているのだ。それは神がかった啓示なのかも知れないし、不吉の前兆なのかも知れない。いずれにせよ、論理では説明不可能な「何か」である。
人は、生きているうちに何度かユニコーンに出会っている。あるいは、ユニコーンの存在に気がつくことが、人生の目的とさえ思えてくる。
こうして、80年代ノスタルジアに閉じ込められていた『ブレラン』は、聖性をまとって俺の中に再インストールされた。
結局、重要なのは映画を「分かる」ことではなく、その映画と「いかなる関係を結ぶか」に尽きるのだ。「自分」を抜きに、映画を語ることは出来ない。
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