■武蔵村山市に『河童のクゥと夏休み』を観に行く■
「最寄り駅」であるはずの西武線・武蔵砂川で降りて30分歩いても辿り着かない。道に立っていた警官に聞いて、やっと着いたのがむさし野ミュー。……巨大ショッピングモールの中にある典型的な郊外型シネコンで、夕方一回だけ上映している『河童のクゥと夏休み』。外に出れば、川と空き地と住宅地。ちょっと映画の世界に近い。
(←映画館のあるショッピングモールの近く)
ここまで映画に対して無防備になってしまったのは久しぶりで、うっかり声を出して笑ってしまう。ネットの評判では「泣かせる映画」という声が多いようだけど、「実在感のある笑い」とでも言うのか、日常的な仕草や表情で笑わせるのが抜群にうまい。
次に驚いたのは、クゥと相撲をとるシーン。応接間のテーブルをどかすんだよね。相撲のスペースをとるために。すごいよ、そのさり気ない演出は。クゥのサイズとか体重がジワッと画面から伝わってきた。テーブルをどかすって芝居だけで。でも、だからって、リアルな河童を描くのが目的の映画ではない。
ストーリーは詳しく書かないけど、ラスト近く、主人公の康一がコンビニの前で一人で座っている。クゥはすぐ近くにいるが、画面には入らない。ずーっと康一だけを撮っている。問題はクゥではなく、康一が何を考え、どうするかなんだ。だからこれは、人間関係や日常の空白部分を「河童という仮の存在」で繋ぐ映画なんだと分かった。
そのちょっと前のシーン、康一が女の子のマンションに寄って、クゥも一緒に駅まで行く。別れるとき、クゥの入った箱をなでるんだよ、女の子が。画面にはクゥは映ってない。でも、クゥは「居ないんだけど、居る」。康一と女の子の間にクゥが「居る」から、初めて会話らしい会話が成立している。そのシーンだけをいきなり見たら、平凡な別れの会話なんだ。でも、クゥがいなかったら、そもそも二人は会話なんてしてなかったはず。その駅前のシーンは、いかにも私鉄沿線らしい地味な雰囲気がいい。ちっちゃい改札口の向こうから、もう会えなくなる女の子が見送ってくれる。劇的なシーンになり得るのに、そうしない。そうしないことが劇的なんだ。
公式サイトを見たら、養老孟司が「われわれは神が不在の世界に住んでいるのだなあ」とコメントを寄せている。別に既存の宗教でなくともいいから、信仰心というものは持っていたい。養老先生はもっと学術的な意味で言ったんだろうけど、生活の間というか隙間には、「神」がいると思う。それを河童という形で表現した作品じゃないだろうか。
康一がクゥを海へ連れて行くシーンがあるけど、あそこで初めて海を見たのはクゥだけじゃないんだ。康一も、「初めて」海を見たんだよ。
同じように、僕らも毎回毎回、違う海を見てきたはずなんだ。いつもいつも新しい体験をしているのだ、と実感できたら、他にはもう何もいらない。
この夏は『ポケモン』がメガヒットしたり、興行的には『クゥ』は苦戦したと思う。素直に「かわいい」とは言いづらい絵柄で損した部分もあるだろう。ちょっと子供には難しい表現もあった。尺も、やっぱり二時間に収めて欲しかったとも思う……でも、ビジネス的にもうひとつだったとしても、それすら愛する理由になってしまう。どこか欠けていないと、自分は作品と接点を持てないみたいだ。
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