■しつこく80年代■
そんなことやってる場合じゃないんだけど、思うところあって『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を20年ぶりに見直した。押井監督らのコメンタリーが入っていたので、二回続けて。書かなきゃいけない原稿あるのに、何やってんだか。(←まずは、このショットが素晴らしかった。『ラピュタ』でシータが落っこちてくるシーンより、よっぽど神秘的だと思う。あと、この構図を成立させるまでのアクションの流れがいい)
当時は、前作『オンリー・ユー』で胸チラを写真に収めるファンに激しい嫌悪感を覚え、『ビューティフル・ドリーマー』は無視していた。80年代は、とにかく色々と幻滅したり、挫折したりしていたのだ。多感な年頃、というやつですね。
でも、友達に強く勧められて、ドラマ編のレコード(当時、アニメでは「ドラマ編」が出るのが常識)を聞きながらフィルムコミックを読む、という変な接し方をして、ちゃんと本編を見たのは大学に入った後だったかな。作品の公開は84年。この時期には「やがて人類は滅びる」という前提のアニメが多かった。華やかな時代の陰で、みんな割と本気で破滅を信じていたんじゃないかと思う。まあ、この映画は廃墟を理想郷として描いたのが画期的だったわけですね。(←このカットも好きだなぁ。ラムの仕草や表情に、何ともいえない色気があって)
『ビューティフル・ドリーマー』の「自分に必要なもの・人以外はすべて要らない」という発想は、ちょっとセカイ系っぽい。そういう意味でも先駆的だったような気がする。世界が廃墟になっても、ずーっとモラトリアム。社会との関係を放棄。労働の義務もない。『ゲゲケの鬼太郎』の主題歌みたい。押井守という人は、はからずもオタクの願望を描いてしまったんだ。でも、ラストで目覚めたラムの言葉を遮って、「それは夢だよ」とあたるに言わせる。そこでかろうじて映画に客観性を与えている。あの一言は、かなりイヤだと思うんだよな。幻想を放棄させる一言だから。でも、それを言わないと映画が終われない。始まった瞬間から、「終わり」に突き進んでいくのが映画だから。「演出」というのは、いかにしてその事実から観客の注意をそらすか、というテクニックだと思う。
そう考えると、押井守という人は、映画に対してかなり律儀だ。宮崎駿はやりたいだけやって、途中放棄している印象がある(笑)。吾妻ひでおの「宮崎駿の映画には、ドラマの進行を止めるようなシーンが必ずある」 という指摘にはハッとさせられた。宮崎駿は映画を終わらせたくないんだと思う。
あと、ギョッとしたのはフィルムの最後にビデオのCMが付いてたこと。映画館で、上映中の『ビューティフル・ドリーマー』のビデオが売っていた。併映の『すかんぴんウォーク』のビデオは売ってなかったんじゃないかな。どうも、アニメだけそういう「差別」を受けていた気がするんだよね、興行側から。
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