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2007年7月25日 (水)

■結婚<ギャルゲーだった■

シネマガールズ 発売中
Cinema_g
●オレが愛してやまない美少女映画の監督たち
●黒木メイサDVDレビュー
●長澤まさみDVDレビュー

これは、いい本ですよ。何より、写真が綺麗。デザインもお洒落。ここまで出来がいいと、もうテキストなんか読まなくていいと本気で思う。雑誌とかムックって、そういうもんだよ。女優が綺麗でなんぼでしょ。
でも、『深呼吸の必要』のレビューは、そこそこ面白いはず。

フィギュア王 No.114 発売中
114
●映画『スピードマスター』 蒲生麻由インタビュー
自分がスタッフとして参加した映画の取材記事を書くってどうなんだ……と悩んではいけない。大事なのは蒲生さん(とそのファン)であり、『スピードマスター』なのだ。俺の名前より、中身を見てくれ――そういう気持ちになれる仕事が理想なんだと思う。

先週末はTSUTAYAが半額レンタルだったので、ジャック・ニコルソンの映画を何本か借りに行った。いつもの癖でアニメコーナーに立ち寄ったら、放送翌日なのに『時かけ』が全部貸し出し中だったよ。放送を知らずに借りたウッカリさんだけだったら、すべて貸し出しになんかならないよね? 明らかに放送を見た人が翌日、TSUTAYAに走ったわけだ。AmazonのDVD売り上げは3位 (いま見たら9位だった)。
コメント欄にも書いたけど、なんだろうな、このアニメを「ワン・アンド・オンリー」の「自分史上、最高傑作」にランクインさせる衝動的な人たちというのは。かくいう俺も、83年版の『時かけ』の時(高校の頃ね)は何度も映画館に行ったし、関連商品を買いあさったものだが。
そうやって熱中したあと、世の中の広さを知って途方にくれる瞬間は、必ずやってくる。そのためにも衝動的に作品を愛するというのは、必要な行為なのかも知れない。

ふと思い出すのは、同年齢の友人にギャルゲー(『トゥルーラブストーリー』の一番最初のやつ)を貸したときのこと。二人とも30代前半で、友人は彼女と同棲してたはず。そいつは、『TLS』をプレイした瞬間、「俺の失った高校時代が、ここにある!」と叫んだ(と、そいつの彼女から聞いた)。ちなみに、そいつはイケメンで、かなりモテます。ただ、彼は男子校だったから、女の子と下校した思い出なんかなかったらしい。
070723_23430001それを補完してくれたのが『TLS』というわけだ。まあ、とにかく、30歳を過ぎて彼女がいても、ギャルゲーで癒されるヤツはいるわけ。俺なんか、結婚してるときに『True Love Story -Summer Days, and yet... 』を購入、女房の前でプレイして「キモイ」と言わしめたほどだ。
友人の場合はともかくとして、結婚してるくせに高校時代を舞台にしたギャルゲーを買うことに、俺ははっきりと冷たい自覚を感じていた。「今の実生活は、どうも違う」と。「本当の幸せじゃない」と。

フィクションというのは、常に何かの代替物だ。極端なのが『ホーリー・マウンテン』のラスト、「これは映画にすぎない。さらば、ホーリー・マウンテン。現実が待っている」という一言ね。AはBの代わりであり、BはCの代わりである。そして、現実世界だって、代替物でいっぱいなわけだ。俺は結婚生活を「本物じゃない」と感じたからこそ、わざわざギャルゲーというフィクションを必要としたのだ。
そうやって、「もう代わりのない本物」に行き当たるまで、この旅は終わらないんだろうね。

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2007年7月21日 (土)

■中年オタクは祝福されているのだ■

今夜は『時をかける少女』放映とのことなので、感傷的な中年オタクとしてはキャバの姉ちゃんと楽しく観に行った一年前を想起しながら、ぼーっと『時かけ』を眺めてます。
そう、中年オタク。これぞ、今の私につきつけられたテーマ。もともとコメント欄で、「シロクマの屑籠」さんのこちらの記事を紹介してもらったのがキッカケなんだけど、時間のある中年オタクどもには親記事も読むことを推奨します。(あと、今出てる「サイゾー」にも「“ノスタルジィ中年”が跋扈! 老害化が進むオタク論壇の憂鬱」という威勢のいい記事が載ってます。書き手は違いますが、参考までに)

「シロクマの屑籠」さんの記事を読んで思ったのは、つまり中年になったオタクが「自己実現できてるかどうか」が問題なんじゃないの?と。
ただ、俺の周りには、オモチャやアニメといった趣味を持ちながら結婚している人が多いし、そもそもオタク趣味を(モデラーなりライターなりといった)仕事にしちゃった人ばかり。みんな、家庭や仕事で自己実現している最中なので、こういうオヤジたちと話してても切迫した感じはまるで伝わってこないんだな。皆さん、いたって堅調で。
「一番切迫してるのは俺じゃないか?」と思う。もう『鈴木先生』第三巻後半の鈴木先生並070721_18060001にジタバタしているかも知れない。
(←参考画像)
先月だったかな、最も敬愛し、かつプライベートな相談にも乗っていただいているアニメ監督に「君は天職につけて、うらやましいよ」と言ってもらったんだけど……めっそうもない、それまでの迷走っぷりを話してあげましょう。20代の頃、映画監督になるつもりで数十社に持ち込みを続け、ひとつもモノにならなかったんだから。持ち込み活動のおかげでサンライズに入れてもらえたのに、あっさり辞めてしまったのも「映画監督になる」という気持ちが、どこかに残っていたから。

もしあの時、顔見知りの編集者が「ちょっと、雑誌に書いてみない?」と誘ってくれなかったら、今でも「映画監督になる」とほざいていたと思う。……ライターってのは、素敵な職業です。好きなジャンルについて書けて、憧れの有名人にも会える。向上心と積極性があれば、単行本も出せます。皮肉ではなく、マジで幸せな仕事だと思う。

さて、俺が映画監督になるのをスッパリあきらめられたのは、20代の終わりごろ、学生時代からの友人が商業映画を撮ったから。その映画を観て、いわば俺はそいつのファンになってしまったのだ。なので、綺麗に「夢」とお別れすることが出来た。
そう。「ファン」でありさえすれば何も困ることはない。よほどの人格破綻者じゃないかぎり、結婚もできる。結婚せずとも、生活に困らないだけの職業を得ていれば、30代になろうが40代になろう070404_21370001が、まったく焦ることはない。カラオケ屋に行けば、80年代アニメの主題歌は余すところなく揃っている。次世代ディスクを買い揃えるという楽しみも残っているじゃないか。中年オタクは祝福されているのだ。

不幸なのは、その祝福を受け入れられず、「俺はこんなもんじゃない、まだまだ!」と奮起してしまう中年オタクですよ。純粋なファンか、クリエイター崩れか。その差が40年間の幸せな人生を狂わす。俺は、何年か前に壮大な「失敗例」を目の当たりにしてしまったから、冷や汗が出る。その人、自分の才能じゃなくてマルチ商法で食うようになっちゃったからね……。
つまり、40ぐらいになって「自己実現できてない」ことに気がついてしまった人。しかも、社会常識を知らないオタク。この二つの条件が揃った中年は、身の丈に合わない壮大な創造的野心を燃え上がらせてしまう場合がある。
これから中年になるオタクは、自分がファンなのかクリエイター崩れなのかは自分で判断……いや、自分で決めた方がいい。経験的に言うと、30歳を過ぎて「俺(私)の仕事」を世の中に出せてない人は、ちょっと嫌な予感を感じた方がいいっすね。

オタクは情熱家が多いと思うけど、情熱だけで突破できるものなど、この世にない。人生は冒険的であるべき。挑戦的であるべき。しかし同時に計画的であらねばならない……と、この歳になってようやく分かった。

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2007年7月19日 (木)

■えっ、メカの装甲が半透明?■

「奏光のストレイン」 Waltz.Ⅵ 27日発売予定
St_06
●ブックレット構成・執筆
「宇宙空間で撃ちあう・斬りあう」という『ガンダム』風戦闘パターンの中では、演出・技術ともに『ストレイン』のCGバトルシーンって凄いレベルに達してると思うんだけど……と同年輩の友人に話したら、「でも、メカの装甲が半透明なんでしょ? それはNGだね」。この歳になると、「観たい」よりも「観ない」理由を先に探してしまうらしい。

語弊を招く言い方だけど、ここ何年か「これさえ押さえとけば、とりあえず最先端のアニメを観たことになる」免罪符的な番組、もっと言うと探究心の欠如したミーハーにも分かる番組が各期に一本はあったと思う。『エウレカ』『コードギアス』『グレンラガン』……ネームバリューのあるスタッフが参加していて、作画が綺麗で、キャッチーなヒロインがいて、誉めやすく、ケナしやすく、ネタにしやすい。
もっと言うと、戦闘シーンが保守的。半透明なメカなんか出てこない。第一、ロボットがみんな手描きだし。そういう番組だったら、80年代ロボアニメ世代も着いて来られるらしい。イヤなもんすね。「知っているものが出てくるから観る」ってのは。

そうそう、先日も『ゼーガペイン』のことを熱く語ったら、「半透明の装甲かァ……」なんて溜め息つかれちゃいましたよ。
070719_02480001 ニコ動に『ゼーガ』の情報番組「舞浜南放送局」がアップされていた(ネットで無料配信されていたコンテンツなので削除対象にならないらしい)。初めて観たけど、声出して泣いちゃったよ。『ゼーガ』という番組が、確かにそこに「在った」と実感できたからだろう。俺は、『セーガ』をリアルタイムでノリノリで観ていたわけじゃないので、孤独を感じていたんだろうね。
しかし、メカの装甲が半透明ってだけでNGですか。80年代を体験した世代は、つまるところ「形」や「肌合い」しか覚えてないんじゃないか?
だから、高価格帯の懐かしグッズばかりホビー店に並ぶようになった気がする。バンダイの1/20スコープドッグ、絶対に買うだろうと思っていたけど、実際に店頭で見たらウソのように興味が失せた。

人生の後半は、ノスタルジアとの戦いなのかも知れない。とりあえず、俺は半透明メカの味方だぜ。

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2007年7月15日 (日)

■キキ、48歳■

EX大衆 8月号 発売中
Ex_07_08
●アイドルのキス顔チュ! 辰巳奈都子
辰巳奈都子さんといえば「確か『スウィングガールズ』でトロンボーンを吹いていた→トロンボーンは唇で吹く→キス」という童貞的思考プロセスを踏んで執筆したミニストーリー。
誌面のあちこちに「創刊2周年!」と書いてあるので「あれ、まだそんなもんか」と思っていたら、「アイドルのキス顔」は次号で連載1年だよ。「おいおい、一年もキスシーン妄想かよ!」と我ながら驚くやら呆れるやら。

日本映画専門ブログ「Hoga Holic」
一応、アニメ&特撮担当ということで、第一回は『Genius Party』の簡単なレビューを。http://channel.slowtrain.org/hogaholic/

金曜ロードショーで『魔女の宅急便』をやっていたので、定期的にジブリ作品を放映するのは洗脳っぽいからやめて欲しいなぁ……と思いつつも、珍しく見入ってしまう。
この作品の公開は89年。当時、別の大学で映画を専攻していた年上の女性と「宮崎駿って知ってる?」という話になり、それで観に行ったんだった。その頃、まだまだ宮崎駿の知名度は一般的とは言えなかったと思う。ジブリにも、今みたいなナショナリズム臭はなかった。
それで、勢いで観に行ったあと、あまりの道徳臭さにゲンナリした記憶がある。特に、ウルスラが黒猫のヌイグルミを直す時に「交換条件」と言って、キキに掃除をさせるところ。子供が労働するのをいちいち見せるのは嫌味っぽいよなぁ、と。

ところが、今回はキキの一挙手一投足にドキドキさせられた。その思慮の浅さ、考えの至らなさも含めて、まるで目の前で息をしているかのようだった。
それはおそらく、宮崎駿がこの作品をつくっていた年齢に俺が近づいたせいだろうな、と思って『雑想ノート』の年表を取り出して計算してみると、宮崎駿は当時48歳。今の俺より、まだ歳上です。その歳で13歳の少女の悩みだとか内面なんてものを描こうなんて、嫌味でなく本当に見上げた挑戦心だ。

070714_18540001『出発点』に収録された企画書(「KIKI 今日の少女たちの願いと心」)を読み返してみたが、どうも映画の外枠を語っているだけのようだ。キキは、作家自身が少女に“なる”ことなしには描けないよ。48歳のオッサンの脳内・身体から、13歳の少女をジェネレイトする。その能力あってこその作家なんだ。
…と、そんなことを思っていたら、『出発点』159ページに「少女は、自分の外に生きているのではなく、自分の中に飼っている自分自身なのだ」という一文が。これは83年に書かれた文章だけど、もう間違いないでしょう。キキは48年分の人生経験を持った「少女」だったわけです。それが実際の13歳と比べてリアルかどうかなんて、まったく関係ない。ちょこんと挨拶したり、フンとすねたりするあの挙動ひとつひとつに48年分の重みが加わってるの。アニメというのは「撮る」だけじゃなくて「演じる」ものでもあるんだね。
ジブリアニメが国民的映画のように扱われるようになったのは気味が悪いんだけど、宮崎駿という作家はまだまだ奥が深くて面白い。(新作が楽しみって意味じゃなくて)

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2007年7月11日 (水)

■今日という日が、昨日のためにあるのだとしたら■

昨日の記事は我ながら支離滅裂だが、だいたい書きたかった話題は出揃っているな……読み返すのも恥ずかしいぐらいだが。

本日、ひさびさに80年代アニメの仕事をしていたら、こんな一言にであった。「だが、今日という日が、昨日のためにあるのだとしたら」。思わず背筋が寒くなった。80年代を神格視しないと、30~40代のオタクは今日のアイデンティティを維持できないのではないか。
そのことを自覚している者は、先日やり玉にあげたオーガスの完成品トイを歓迎することは出来ないんだよ(話がホビー寄りに傾いていて申し訳ない……)。オーガスに限らず、超合金魂のアレとかコレとか。
070711_20210001オーガスのデザインは好きで、当時のプラモデルを持ってはいるけど、「今」新たに製品つくる理由をメーカーは本当に突き詰めて考えたのだろうか。俺は生理的に受け付けない。メガ80'sなんてサイトつくっといて何だけど、こんな状況を望んでいたわけじゃない。
確かに1/100ウォーカーギャリアが発売されたなかったのは無念だったけど、それは『ザブングル』の放送中だったから無念なのであって、今になってプラモデル“だけ”出るってのは、なんか即物的な気がするんだ。
これでいいのか、80年代。

今の20代がうらやましいというのは本当で、それは90年代に対して根拠薄弱な憧れがあるから。
よくアル中の人が酒を絶つと、甘いものが好きになるというが、それに近いのかも知れない。人は皆、何かに依存して生きているのだ。
90年代後半から現れた泣きゲーを、今の俺はプレイしたこともないくせに過大評価している。今後もプレイしないと思う。それは年配のファンからの伝聞だけで「初代ガンダムって偉大だったんですね!」と言い切ってしまう20代のガノタと何ら変わりない。だけど、耳年増の何が悪いっていうんだ。

勝手な理想や妄想を抱くことは、生き進んでいくための知恵である。「いまだ手に入らない」ことは明日への原動力になる。
もう知ってしまったもの、よく知っているものは時として重荷になるんだ。オッサンになると、それがどんどん重くなっていく。だから、今の俺は空白の90年代に勝手に片思い中。

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2007年7月10日 (火)

■80年代・イズ・デッド■

俺らのつくってるアニメ&オモチャ系印刷物なんて「娯楽」以外には読まれないんだから、人様の休んでる時こそ必死に刷るべきだと思うんだけど……会社員は違うのかな。ともあれ、お盆進行だろうが何だろうが、俺は土日祝日も書きまくっている。

さて、先日『くりいむレモン』の話を出したけど、ようは「まんが」から「アニメ」になった後、「アニメ」にこれから先何が出来るのか?と考えた末が「18禁アニメ」だったわけで、『くりいむ~』の先進性は「ガンダムの続編やりましょう!」よりは、よほど評価されるべきだと今さらながら思う(企画として)。
80年代後半は、「テレビまんが」を脱した「アニメ」が、次は何になろうか狂ったように模索していた時期だったのだ。18禁アニメも、そのひとつだった。
初期の『ポップチェイサー』、比較的最近の『MEZZO FORTE』が、著名な演出家やアニメ070709_21090001 ーターの技量やネームバリューで賞賛されるというのは、「アニメ」の評価軸から一歩も出られてないわけで、18禁アニメの社会的ポジションとは全く関係ない。そんな「アニメマニア」の視点はどうでもよくて、「いま」18禁アニメが「どう」消費されているかを割と、みんな見てない気がするのだ。
逆に「18禁ゲーム」は、この10年ほどユーザーを増やしてきたし、ラノベやアニメに多大な影響を与えてきたはず。「アニメ」ってのは、どんどん後衛に回っていくね。ただ、それを支える層(作り手側)は確実にいる。絶えない。しぶとい。だから、面白いんだ。

PCゲームというのは、その残弾をラノベやアニメにバトンタッチして、そろそろ息絶える頃かも知れない。無論、PCゲームの名作を語り継ぐ者たちも出てくるとは思うが、俺らの世代で言えば『ドラグナー』を見て「あーあー、もうやめたら?」って時期に入ってるよね、確実に。……えっ、『デモンベイン』のプラキットが出る? それこそが祭の終わりだって気がするんだが。

いまの20代のオタクって、本当にうらやましい。『エヴァ』が10代の頃にあって、ここ数年はエロゲとラノベでしょ。80年代の挑戦と挫折を知らず、いわゆるアキバ文化の恩恵を存分に浴びた君たちに、俺は嫉妬する。それは若さへの嫉妬でなく、挫折を知らないことへの嫉妬。
僕らには、送り手と受け手の間に齟齬があった。「角川アニメ」が最たるものだ。あと裏切られたのは『ヤマト』シリーズだな(笑)。80年代って、大人と子供の対立があった。だから、みんな怒っていた。なぜ1/100のウォーカーギャリアが出ない!とかさ(笑)。あれは、俺たち本気で怒ったよね。「大人の事情」ってやつに幻滅した。
90年代~00年代に思春期のヲタだった人には、そうしたメーカー対ユーザーの対立がなかったように見える。そ070709_21070001れが、心からうらやましいよ。憧れる。今は地方都市で孤独にラノベを読んでいても「アニメになるかも?」「それは無理でもCDドラマにはなるかも?」って期待感が、出版社にも受け手にもあるからね。何という幸福な、甘美な時代なんだろう。
その時代の喜びを、僕らは概観は出来ても、実感は出来ないのですよ。君らにはバブルでも、僕らにはバブルでない。それをオヤジ世代は片意地はらずに実感しないとね。

岡田斗司夫が「オタク・イズ・デッド」を感じたように、俺らも「80年代・イズ・デッド」の最後の悪あがきを感じているはず。『オーガス』の完成品が出るってのは、もう飲み会で言ったら3次会、4次会の世界だよね。
間違っても5次会はない。5次会で『スラングル』まで歌えって、それはもう拷問ですから!
「終わっている」コンテンツをどうするのか。眠らせておくか、呼び覚ますのか。それは第一次黄金期を知る僕らオヤジ次第。はっきり言おう。あの時代の挑戦と失敗を知る僕らより、緩慢な死と緩慢な性を満喫する君たちの方が、ずっとずっと幸福なのだ。

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2007年7月 7日 (土)

■ドラえもんに、くりいむレモンというジュースが出てきたってホント?■

あるムック本の仕事で、邦画を10本以上ぶっ通しで観た。良かったのは『深呼吸の必要』というやつ。役者が全員よかった。お盆進行が終わったら、この監督の他の作品観よう。

あと、面白かったのは『くりいむレモン』。山下敦弘監督といえば『リンダ リンダ リンダ』。でもその直前に『くりいむレモン』。なぜ。特典映像で、監督本人も「なんで僕のところにこの企画が来たのか」と首をひねっていた。そりゃそうでしょう。公式サイトの解説見たら、「セイラ・マスの入浴シーン」が『くりいむレモン』成立のキッカケだと堂々と書いてある。そんなこと、誇らしげに書かれてもなぁ……。
070706_23470001実は、このシリーズって2本ぐらいしか観たことない。実写版のもとになった『媚・妹・BABY』も観てない。最初に友達みんなで上映会を開いたときは(他の作品は『デッドリー・スポーン』などのホラー映画)、むしろアニメに興味ないやつの方が喜んでいた。18禁アニメというのは、微妙にオタク文脈とは違うところに位置しているように思う。一般向けアニメを観て、それを脳内で18禁バージョンに置き換えるのがオタクだから。18禁アニメは18禁アニメのマニアによってのみ支えられているんじゃないだろうか。つまり、普段はアニメを見ないのに18禁アニメなら見る、という人たちがいる。だとしたら、そこには語られてこなかった秘められた「アニメの魅力」、秘められた「アニメの社会性」が潜んでいるような気がするのだ。
大衆から厭われているものの中には、必ずその社会の実相が隠されている。ポルノ・メディアをぶっ潰せ、と叫んでいる婦人団体や女性議員をこそぶっ潰さなくてはならない。

山下監督の『くりいむレモン』はセリフのやりとりや間合いが独特で、まったく飽きない。企画としてはネタっぽいんだけど、どんな作品でも公開したもん勝ち。『ときメモ』の実写映画のような破壊力を期待すると、ちょっと肩透かしをくらうかも。
ちなみに、18禁アニメが必ずストーリー仕立てなのは、規約で「Hシーンだけでなく物語性を入れること」と決められているから、らしい。

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2007年7月 1日 (日)

■しつこく80年代■

そんなことやってる場合じゃないんだけど、思うところあって『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を20年ぶりに見直した。押井監督らのコメンタリーが入っていたので、二回続けて。書かなきゃいけない原稿あるのに、何やってんだか。
070630_02120001(←まずは、このショットが素晴らしかった。『ラピュタ』でシータが落っこちてくるシーンより、よっぽど神秘的だと思う。あと、この構図を成立させるまでのアクションの流れがいい)
当時は、前作『オンリー・ユー』で胸チラを写真に収めるファンに激しい嫌悪感を覚え、『ビューティフル・ドリーマー』は無視していた。80年代は、とにかく色々と幻滅したり、挫折したりしていたのだ。多感な年頃、というやつですね。
でも、友達に強く勧められて、ドラマ編のレコード(当時、アニメでは「ドラマ編」が出るのが常識)を聞きながらフィルムコミックを読む、という変な接し方をして、ちゃんと本編を見たのは大学に入った後だったかな。作品の公開は84年。この時期には「やがて人類は滅びる」という前提のアニメが多かった。華やかな時代の陰で、みんな割と本気で破滅を信じていたんじゃないかと思う。まあ、この映画は廃墟を理想郷として描いたのが画期的だったわけですね。

070630_02170001(←このカットも好きだなぁ。ラムの仕草や表情に、何ともいえない色気があって)
『ビューティフル・ドリーマー』の「自分に必要なもの・人以外はすべて要らない」という発想は、ちょっとセカイ系っぽい。そういう意味でも先駆的だったような気がする。世界が廃墟になっても、ずーっとモラトリアム。社会との関係を放棄。労働の義務もない。『ゲゲケの鬼太郎』の主題歌みたい。押井守という人は、はからずもオタクの願望を描いてしまったんだ。でも、ラストで目覚めたラムの言葉を遮って、「それは夢だよ」とあたるに言わせる。そこでかろうじて映画に客観性を与えている。あの一言は、かなりイヤだと思うんだよな。幻想を放棄させる一言だから。でも、それを言わないと映画が終われない。始まった瞬間から、「終わり」に突き進んでいくのが映画だから。「演出」というのは、いかにしてその事実から観客の注意をそらすか、というテクニックだと思う。
そう考えると、押井守という人は、映画に対してかなり律儀だ。宮崎駿はやりたいだけやって、途中放棄している印象がある(笑)。吾妻ひでおの「宮崎駿の映画には、ドラマの進行を止めるようなシーンが必ずある」 という指摘にはハッとさせられた。宮崎駿は映画を終わらせたくないんだと思う。

あと、ギョッとしたのはフィルムの最後にビデオのCMが付いてたこと。映画館で、上映中の『ビューティフル・ドリーマー』のビデオが売っていた。併映の『すかんぴんウォーク』のビデオは売ってなかったんじゃないかな。どうも、アニメだけそういう「差別」を受けていた気がするんだよね、興行側から。

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