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2007年6月27日 (水)

■夢を見てたんだろう 忘れたくないんだろう 別れがくるまえに■

FEVER 配布中
Fever_01
●“ビジョンクリエーター” 河森正治120分インタビュー 執筆
これは、SANKYOの創刊したフリーペーパーですね。そろそろパチンコ店なんかに置きはじめるんじゃないかな。9ページもの河森さんインタビューと『創聖のアクエリオン』解説、『Genius Party』レビュー、「VAN-FORCE」解説を書きました。
インタビューの内容は、2000年に初めてお会いしたとき聞いた話(ケイブンシャ『東京ロボット新聞』掲載)とダブっている部分もあって、もう七年前かぁ……と感慨深くなりましたね。天才は歳をとらないんだな、とか。

『ゼーガペイン』DVD購入以来、EDを歌うROCKY CHACKのシングルをちょっとずつ買っているんだけど、肝心のED「リトルグッバイ」のCD。
070626_22570001サントラやOPに比べて、何だろう、このジャケのセンスは。でも、B面が10話でしか流れなかった「and you」ですからね。「夢を見てたんだろう 忘れたくないんだろう 別れがくるまえに」……いやー、いい感じに軟弱。あきらめ8割、未練が2割って感じの女々しい曲。実に『ゼーガ』っぽい。
『ゼーガ』のEDは評価が高いんだけど、今のアニソン・ブームからは取り残されている気がする。やっぱり、ストーリーを追っていかないと、歌詞の意味や演出効果が分からないからだろうね。つまり「全体の中の一部」なんだ。番組のEDとしては、ごくまっとうな役割を果たしたんだけど、今はそれじゃダメみたい。
その、「ちょっと残念」な雰囲気が、商売としてはとりあえず完結した『ゼーガ』のコンテンツ類からはジワリと染み出している。プラモデルも、「よく出来ているんだけど高い」とか言われてさ(笑)。
前回、前々回と80年代のことを回想したけど、結局、あの時代を見当はずれな期待感を持って生きたから、俺は感傷的になったような気がする。だから、ちょっと恵まれてない『ゼーガ』の今のポジションは、好き。居心地がいい。

自分の中の地図で、『ゼーガ』と近いところに位置しているのは『ヨコハマ買い出し紀行』かな、原作の。連載開始が94年だから、バブル崩壊後。そして、景気が上向いてきた去年になって終わった。90年代の空虚なムードを、かすかな動力源にして続いてきたような作品。だから、景気が良くなったら、もう走れないんだよね。
そういう、「世間の評価は寂しいんだけど、きちんと自分の役割を果たした作品」が好き。

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2007年6月20日 (水)

■続・後ろ向きに、80年代■

結局、はやばやと「挫折」を知ってしまったから、かえってアニメへの興味が消えなかったんだろうなぁ……などと思いながらTSUTAYAに行ったら、こんな迂闊なポップが。
070620_16250001並んでいたのは『パプリカ』『時かけ』など)
『幻魔大戦』以降、アニメと縁が切れなかったのは「Bクラブ」を購読していたせいもある。模型誌でもありアニメ誌でもあるという変な本だったから。『地球防衛少女イコちゃん』も載ってたし。また、僕は高校時代からモデラーとして小銭を稼いでいたので、ガレージキット・メーカーに出入りしていた。すると、「今度、これのガレキ出すんで、見といて」という具合に『ガリアン 鉄の紋章』とかのOVAが回ってくるわけだ。
その頃になると、アニメという 媒体が「病みがち」であることが分かってきた。典型例は、『ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』のセイラさんの入浴シーンをヒントに『くりいむレモン』シリーズが誕生したという逸話。うっかりしていると「病んで」しまうのがアニメなんだ、と認めるようになった。
80年代後半は、OVAという映画ともテレビともつかない媒体が栄えたため、アニメはますます「映画」から離れていったように思う。天下のバンダイ(当時の映像課)ですら、15禁アニメをつくりはじめる「病み」っぷりだったし。

元をたどれば、僕らは「テレビ番組」としてアニメに出会っているから、作品をパーツ分割して見ることに慣れてしまっている。細田版『時かけ』がドラマとしてトータルな評価をされたのは、あれが「映画」フォーマットだったからだと思う。
アニメで「ドラマ」「物語」を見せるには、劇場版をいきなりつくるしかない。暗闇でいきなり90分なり120分なり見せるしかない。
ニコニコ動画で『ゼーガペイン』6話のラストシーン(シリーズ通じて、演出が傑出している)070620_22000001 がUPされていたけど、UPした人の気持ちはよく分かるんだ。だけど、どんなに優れたシーンであっても、全体のストーリーを順に追っていかないと、演出の意図は分からないと思う。でも、テレビ番組だから、何となく部品単位でも伝わるものと考えてしまうんだろうね。

僕は大学で映画を専攻していたから、ことさら「アニメは映画になれなかった」と悲観しがちだ(ここでいう「映画」とはフォーマットではなく、社会的ポジションのこと)。
80年代は希望の数だけ挫折があり、野心の数だけ失敗もあった。あの頃に若かった人たちはどこかで「こんなはずじゃなかったのに」と思ってるんじゃない? その思いの分だけ、アニメは「趣味を越えた何か」になっていった。そうじゃなきゃ、出たばかりの『ICE』を借りやしないって(笑)。そこに、未練も込みの淡い期待があるから見るのであって、それは挫折を知らない人たちと少し感覚が違うのかも知れない。 

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2007年6月18日 (月)

■後ろ向きに、80年代■

1989年1月7日、バイト先で知り合った子に「会いましょう」と呼び出された。だが、その子は「今日、実はちょっと用事があるんで」とか言って、ものの数分で帰ってしまった。帰りぎわ、電話番号を書いたメモ(当時は携帯電話なんかなかったので、自宅の電話)を渡された。夜になってから「何だったの、今日は?」と電話したら、いきなり「性格が合わないので、もう会えません」とか言い切られましたよ。
その日に昭和が終わり、翌朝から平成がはじまったんだ。「80年代って、昭和とともに終わったんだよな」とボンヤリ考えていたら、「そうだ、俺、天皇崩御の日にフラれたんだった」。なんか象徴的な気がする。コジツケだけど。
翌1990年、僕はひっそりと大学を卒業した。僕のモラトリアムは、90年代の到来とともに終わった。翌年、バブル経済も終了。何もかも、いっしょくたに全部終わってくれた。

80年代の後半、バンダイから「Bクラブ」というホビー誌が出ていた。『スケバン刑事』から士郎正宗、『王立宇宙軍』から小林誠まで、情報誌と呼ぶにはあまりに偏りすぎた内容。ただ、「Bクラブ」文化というのは確実にあったし、mixiに「Bクラブ」というコミュがあってもいいと思う(調べてみたら、あった。入った)。誌上で模型連動の映像化企画募集もあって、僕の応募作は「やってみようか!」とコメントされていたのに、いざ編集部に行くと、「いや、ちょっと口が滑っただけ」とはぐらかされたのを覚えている。
070617_23300001(←南野陽子をアニメ風にアレンジした『スケバン刑事』完成品。発想はガレージキットなのに、バンダイ・ホビー部の正規版権品というあまりに「Bクラブ」な製品。と、ちょっとあさのまさひこ風に紹介)
とにかく、「Bクラブ」の発行された85年ともなると、もうプロもアマも有名も無名もへったくれも、「とにかく才能とやる気のあるやつ、全員来い!」という部活ノリが、オタク文化を支配していた。

ただ、部活ですからね。あくまで、それは放課後、生徒たちが勝手にやること。80年代前半というのは、ちゃんと大人が文化をリードしていて、僕らも大人に期待していたのだった。
80年代初頭、『ガンダム』劇場版公開ごろは、まだアニメのことを「まんが」と呼ぶ同級生がいた。前に「テレビアニメの劇場版は、ファンサービス」と書いたけど、当時は違っていた。映画として公開されることで、ちゃんと新聞に「映画評」が載り、扱いは『蘇る金狼』なんかと同列になるわけですよ。「ガキ向けテレビまんが」に映倫マークがついて、ちゃんと全国の一番館でロードショーされる……いじめられっ子が、いきなり校長先生に表彰されるようなもんだよ。ルサンチマンがあり、逆転の美学があった。『いぬかみっ!』が映画化されるのとは、根本的に違う(笑)。
070618_00130001そして、ついに1983年、飛ぶ鳥を落とす勢いの角川映画がアニメに進出。『幻魔大戦』。何たって、美輪明宏を「まんが映画」に出しちゃったんだからね。 『もののけ姫』に美輪さんが出るのとは、もう文化的革新性が違ったんだ。キャストには江守徹や白石加代子までいる。キャラクターは原作『AKIRA』でブレイク直前の大友克洋。「まんが映画」を「映画」にバージョンアップする手練手管に関して、角川春樹は当時のアニメ制作者の数段上を行っていた。
角川アニメには、「大人の力で、アニメ文化に社会性を持たせる」というベクトルが厳然とあった。

大げさじゃなくて「これは、映画の歴史が変わるな」と思ったよ。「ガンダムから4年で、テレビまんがはここまで来た」と。16歳の小僧にとっては「世界が革命される」に等しい高揚だった。
ところが、いざ公開が始まると、みんな『幻魔大戦』より『クラッシャージョウ』に流れる。キャラも監督も安彦“ガンダム”良和(ちょっと80年代風に表記)だし、あとは細かいゲスト・キャラをいろんな漫画家が描いていて、それが出てくるたび場内のあちこちで笑い声。劇中劇で『ダーティペア』が上映されると拍手喝さい。おいおい、アニメ・ファンしか観に来てないじゃん!
もうね、怒りで言葉が出なかった。オタクの友達は「あと二回観にいくぞ」と息巻いてたけど、ようは彼のような客を取り込むシステムがすでに出来上がっていたんだよね。これじゃ、「まんが映画」が「アニメ映画」になっただけじゃねーか! 当時から、「部分」しか見ないヤツはいたんだよ。同じ頃公開された『うる星やつら オンリー・ユー』では、ラムちゃんの胸チラを写真に収める者が続出したし。

僕は『幻魔』という作品ではなく、『幻魔』の“志”を支持した。その態度が、僕に挫折を味わわせた。『王立宇宙軍』の時も同様だった。「Bクラブ」に主観丸出しの熱い推薦文(編集部名義だったと思う)が掲載されていて、それに感激して初日に行ったんだ。時は87年、もう放課後の時代に突入していた。何もかも、部活で盛り上げるしかない時代になっていた。
翌年、『AKIRA』『トトロ』『逆シャア』が公開されたけど、僕はすべて無視した。それらを当時ノリノリで観に行った人たちは、アニメが「映画」になろうとあがいた頃を知らなかったんじゃないか、と思う。

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2007年6月15日 (金)

■ゼーガとドグラ・マグラ■

グレートメカニックDX 発売中
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●オヤヂ酒場DX
前号につづいて、オヤヂ酒場しか書いてません(笑)。お題は『鉄人28号 白昼の残月』と「CGによるメカの未来とは!?」の二本。この連載って、マジで昼間からカラオケ屋でビール飲みながら収録してるんだけど、最近は飲み代は全て自分持ち。藤津さんは夏に二人目が生まれるし、なにかと物入りだろうから、ほとんど俺が奢っている。その金額が、だいたい原稿代と同じくらいなんすけどね(二人とも飲みすぎ)。

ところで、『メガゾーン』というかガーランド・ファンのためにこんなページも↓あり。例の同人誌です。070615_17230001
実はバハムートのスペルだけ同人誌版と変えてもらったんだけど、余計なことだったかな……。
しかし、あまりにも「グレメカ」で働いてないので「申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と思っていたら、ものすごく意外な仕事がきた。普段から、煩悩は隠さずぶら下げておくもんだなぁ、と。

EX大衆 7月号 発売中
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●アイドルのキス顔チュ! 秦みずほ
なんと、連載10回。キスシーンで終わるショートストーリーを妄想すること10回。月に一度はキスを妄想。失ったはずの童貞が、メキメキ戻ってきそうです。この連載の原稿料とオヤヂ酒場の原稿料が、だいたい同じぐらいなんだよね。それで、うまいことオヤヂ収録時の飲食代が相殺されてる(されてないか…)。

先日、『ゼーガペイン』って『ドグラ・マグラ』に似てるよなぁ……と気がついたんだけど、その理由が分かりました。『ドグラ・マグラ』というのは、一種の仮想現実を舞台にした小説。すべてが胎児の見ている夢、だからね。作中でも、論文を読んでいたら日記が引用されていて、その日記を読んでいたら新聞記事が引用されていて……と、もう自分が何を読んでるのか分からなくなるような描写がある。サイバーパンクの登場する50年前に、仮想現実の概念を導入している。
070615_19480001それで、『ゼーガペイン』は(最終回を見て思ったんだけど)登場人物全員が「生まれる前の話」なんだよね。設定的には「幽霊」なんだけど、物語的にはサーバーという子宮の中に暮らす「胎児」であり、彼らが夢から抜け出すまでの話。それで、ラストは「早く生まれておいで」なんだ。
あのラストは蛇足な感じがしたけど、「生まれてくる話」だと考えれば納得。でも、シズノまで人間になれるかも知れないとか、最終回は蛇足がいっぱいあるな。なんかまとまらなくなってきたので、このへんで。

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2007年6月14日 (木)

■セットからパーツを拾おう■

アニメーションノート No.6 17日発売予定
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●新作映画紹介『エクスマキナ』
●「動画革命東京」、革命進行中。
●『アズールとアスマール』レビュー記事

それぞれ、構成と執筆ですが、前回は『まなび』だけで8ページだったのに、今回は全部あわせて4ページ。これは決してやる気がなくなったわけではなく、次号では『エクスマキナ』ちょっとした特集やります。荒牧監督からのプレゼントも予定!
しかし、『アズール~』のレビュー、こんな短いのにここまで論理が破綻した文章を書ける自分に今さら感心。ちゃんとした論評は、ちゃんとした評論家に期待してください。

『奏光のストレイン』 Waltz.Ⅴ 22日発売予定
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●ブックレット構成・執筆
逆に、『ストレイン』は「俺が書かなきゃ、誰が書くの?」という気持ちが沸き起こり、毎回全12ページ、わがまま言ってます。良心的なつくりなんだけど、もうちょい、もうちょい頑張れば……って部分があちこちにあってね。あと二巻。なんか、マラソンの最終ランナーを暮れなずむグラウンドの隅から応援している気分。

さて、今日は蒲生麻由さんにインタビューしてきました。緊張しすぎて、朝8時に目覚める始末。インタビュー5分前にトイレに立つ始末。この記事の入稿は一ヶ月ぐらい先。そんだけあれば、いい記事にならないはずがない。

昨日はニコ動を00年代アニメ文化の究極点みたいに言って悪かったよ。YouTubeの時もそうだったけど、俺は現状容認派なんだ。気が弱いから。それはさておいて、アニメの「パーツ」として一番楽しめるのはOPだったりするんだ。『らき☆すた』の本編を「理解」する必要なんかない。「もってけ!セーラー服」を知ってさえいれば大丈夫。OPかEDにヒキがありさえすれば、みんなで共有できる。『創聖のアクエリオン』もOPのみ一人歩き。それに文句はないよ。いまや、アニメという13話なり、26話なりの「セット」からどれだけ「楽しめるパーツを拾えるか」が課題だ。

俺、『ギレンの野望』のことを「ゲーム批評」で悪く書いたことがあった。もう掲載誌が手元にな070614_19570001 いけど「整合性のある“物語”を無視し、メカとセリフだけをみみっちく集める矮小なコレクター向け」と酷評した。今でも、あのゲームは嫌い。
でも、今にして思うと長大な聖書は読まないくせして賛美歌だけは歌ったり、日曜日に教会にだけは通ったりするのと変わらないよね(例えが跳躍しててすみません)。ゲームで起きてた断片収集癖が、今はアニメに移行してきたってだけと思う。あ、2,900円のレンタル落ち『ゼーガ』セットは、誰かが買っちゃったみたいだよ。

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2007年6月13日 (水)

■ゼーガペイン、2,900円■

見崎徹『編集者という病い』、24ページほど読んだところで読了。このままBOOK-OFF直070613_15230001 行。序章からして自慢と自己陶酔だらけの駄本。自分のことを「男はその頃…」なんて書いてやんの。キモ。
(←帯にあった書評。確かに「凄い」自慢話に「驚き」ましたけどさ)

さて、徒歩五分のところにあるTSUTAYAにレンタル落ちの『ゼーガペイン』DVD1~8巻(9巻のみナシ)が、2,900円で投げ売りされていた。特典映像はナシとしても、これに新品の9巻を加えても一万円以内に収まるよね。俺、その四倍の値段を出してボックス付(もちろん中古)を買ったわけです。

それで、なんとなく太宰治が入水自殺した玉川上水(家から衝動的に走れば30秒で着く)を散策しながら考えた。『ゼーガ』って、なんで2,900円で投売りされるようになっちまったんだろう?と。3Dの戦闘シーンには作り手の愛情が感じられないし、2D作画も、まあ大したことない。作画崩壊したくても、崩壊しようもない淡白な絵柄。
070612_00460001(←というか、この人たちあまり動かないよね)
例えば『エヴァ』というのは「アニメという表現とは何か?」に挑んでいた。だから、ちょっとアニメをお休みしていた旧世代も振り返った。『ゼーガ』は、「アニメ表現とは何か」どころか、「あるものを使え」なんだよね。「ストーリーさえ伝わればいい」と。その態度は『コードギアス』と似ているような気がする。『コードギアス』は「今あるものを全部使え」だったから。ただ、『コードギアス』はテレビの前を離れた後も話題を提供しようとあれこれ仕掛けがしてあった。「全部使う」のか「必要なだけ使う」のか、この差は大きい。これはもう、作り手の人間性にかかわってくる問題だ。
結果、『ゼーガ』は2,900円で売られちゃったわけだけどね。

しかし、『エヴァ』と『コードギアス』と『ゼーガペイン』を語る……なんか「古い」よね。これが070612_00440001_1 40男の「対アニメ生理」のサイクルなんだと勝手に思い込んでみる。
(←『ゼーガ』に挿入されていた数少ない小ネタ。これ、本物のオニギリじゃなくて「オニギリのデータ」なんだよね)
いまアニメに期待されているのは、ニコニコ動画でネタに出来るかどうか。 『ゼーガ』のEDもニコ動にUPされていて、書き込みもいっぱいあったけど、結局、『ゼーガ』で残った「ネタ」はEDだけかよ、と。同人誌なんかの二次創作はストーリーやキャラを噛み砕かないとつくれないけど、ニコ動で遊ぶなら作品世界を把握する必要ないからなぁ。
それで、やっぱりアニメは過去も未来も、ずっと中高校生ためのメディアだと思うので、これでいいと思う。ニコ動は、00年代の中高校生の対アニメ生理に、うまいことマッチしたんだ。あの短さとか手軽さが。

そのことと関係あるのかどうか分からないけど(実はぜんぜん関係ないんだけど)、最近は仕事断ってばかりだなぁ……みんな当然のように俺が全番組をチェックしてると思っているようだけど、そんなこと出来るわけないじゃない。やっぱり俺は「必要なときに必要なこと」だけをする『ゼーガ』派なんだ。

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2007年6月 7日 (木)

■私が泣いて彼女の命が戻るなら、いくらでも泣くさ■

月刊「創」 7月号 発売中
Tsukuru0707
●「いまや最大の製作会社 テレビ局の映画事業」 取材・執筆
なんか今月の『創』はスゴイ。総力特集「映画界の徹底研究」。もう日経エンタとか、そういうレベルじゃない。もう何度目かの付き合いになるけど、俺は『創」をナメていた(編集長は尊敬していた。あの歳で俺より早歩きで恵比寿スカイウォークを走破するあたり)。
まあ、某リメイク金色ロボット・アニメのDVDブックレットのように「こちらがナメられていた」ような仕事は「右クリック→削除→ゴミ箱を空にする」として(ギャラも激安だし)、今いただいている仕事は、とにかくナメずに頑張ろうと改めて思った。

…つうかね、自分の仕事をナメすぎだったかも知れない。特にこう、手前で「俺様はクリエイター」と僭称する(ほぼアマチュアの――つまり自分の名前で仕事とれない程度の)人間の前ですら、「あなた方、クリエイター様に取材させていただきますのが、この私どもの仕事でございます」と。その卑屈さたるや、『ザ・ムーン』のクソ虫の比ではない。謙虚さと卑屈さは、少なくとも俺にとっては紙一重だった。
「謙虚」の劣化バージョンが「卑屈」なのかも知れない。気をつけよう。

そして、あれだけ女々しいこと言って、見ないフリしてた『ゼーガペイン』を3日間で一気に070607_20180001 鑑賞した感想。まず、EDを歌うROCKY CHACKのマキシを二枚買った。そもそも、あのED曲(「リトル・グッバイ」)自体が、番組に合わせてつくられたものではなく、ROCKY CHACKのオリジナル(番組放映前までネット配信されていた)と聞いて唖然。「え、どうして……どうやって?」という間抜けな言葉しか出てこない。間違いなく、『ゼーガ』は神に愛された作品。
あとは、シマ司令の「私が泣いて彼女の命が戻るなら、いくらでも泣くさ」。男が泣くときは、そうありたい。目的のために泣きたい。

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2007年6月 4日 (月)

■アニメじゃない!■

とりあえず、近くのTSUTAYAに行ったら、『時かけ』にも『パプリカ』にも目をくれず、『ICE』 を借りよう。070603_20520002何しろ、あの秋元康がプロデュースしたOVA。しかも、どう考えても秋元と接点があるとは思えない小林誠が監督。もう、サンライズのアニメにCLAMPが参加するなんていうショックのはるか斜め上を行っている。
(あ、ごめん。秋元×小林の接点といえば『ZZガンダム』ですね……それでも作詞家とメカデザイナーって交流あるんだろうか?)
「こんな得体の知れないアニメに金を出すぐらいなら、もう一回『時かけ』を観るよ!」という人は、うまく社会に適応できていると思う。ただ、その人生は破綻のない退屈なものになるだろう。
さあ、怖れずに『ICE』をレジへ持っていくんだ!

内容は近未来の変わり果てた東京……え、2012年? ロボットとか兵器とか、いっぱい出てくるんですが。とりあえず来年には、東京は廃墟と化して、世界中の男性は死滅するそうです。「これは女性キャラをいっぱい出すためのご都合主義的な設定だろう」と私のアニメ脳は類推する。が、そうではない。なんかこう、抜き差しならないガチな雰囲気、「何のためにこういう設定にしたか分かりますか、皆さん? ちゃんと僕のメッセージ伝わってるかな!?」という原作者でもある秋元康の怒声が飛んできそうで、思わず姿勢を正してしまう。
070603_20530001(←2008年、ようするに来年、日本には騎士団が誕生してるそうです。来年ですよ、来年)
もうね。声優初挑戦のAKB48の棒読み演技なんて、付録みたいなもんですから。普段、我々がアニメを見ている時に使っている回路というかコードが、ブチブチちぎれていく。怖いよ、これは。『グレンラガン』の第四話を見て「作画崩壊」とはやし立てたお子さまたちが、俺はうらやましい。表面的なところで騒げていいなーと。
だって、『ICE』は作画とかストーリー以前に、制作者の「考え」が読めないんだから。これは、見ていて追い詰められる。笑ってすませられない。「ははは、秋元はアニメが分かってねえな」と笑ってすませられれば、どれほど楽だろう。
赤ん坊をマシンガンで撃ち殺したり、女性キャラの頭がもげて転がったり……でも、秋元は『イデオン』を意識してるわけでも何でもない。「彼の中では」表現として必要だから、やったんだ。彼には確信がある。そこが怖い。
この、コードが断線していく不安感は、猟奇殺人のニュースを聞いたときに感じるザラリとした不気味さに最も近い気がする。

それで、ちょっと気がついたんだけど、まさか、『ICE』ってタイトル、「愛す」とかけてる? 第一話のサブタイトルも「はと-HEART」だし、これはダジャレじゃなくて、本気だろうね。何に対して、どう本気か分からないから、怖いわけだけど。
070603_20560001(←メカも世界観も、どこか『コードギアス』風)
だから、我々はメディアに接するとき、ある種のコンセンサスを維持しているわけだよね。その「盟約」を限りなく強固にして、もし裏切られた場合(たとえば、うっかり『ICE』を見てしまった場合)、「出来がよくない」と叩くことで自分の「正気」を保つ人がほとんど。特に、安定した作画が当たり前の時代に育った若いアニメファンはそうなんじゃない?
僕はどっかで、コンセンサスを裏切られることを期待している。得体の知れないものに接してみたい。むき出しの狂気に触れないと、自分の正気度が分からないからだ。

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2007年6月 2日 (土)

■少女たちの戦いの物語■

映画を観にいこうか迷った末、原美術館のヘンリー・ダーガー展へ。
070601_15160001思ったとおり、若い女性のひとり客か二人連れが圧倒的に多い。だが、彼女らの一体何人がダーガーの孤独と悦楽を理解していたのだろう、と思う。
すれ違いざま、「(ダーガーは)どうやって暮らしていたんだろうね」「国から援助金でも出ていたんじゃない?」というお気楽な会話が耳に飛び込んできた。とんでもない、彼の仕事は「病院の清掃や皿洗い」と入場時に渡されたチラシにも書いてある。徹底した極貧生活が、彼にこの奇想の超大作を書かせた(描かせた)のだ。
ダーガーのアパートのカラー写真が壁面に大きく掲げられていたが、「ジブリ美術館」にある「映画の生まれる場所」にそっくり。少女愛好や戦争への興味など、ダーガーと宮崎駿の共通点は数多い。しかし少なくとも、少女たちを守るドラゴンのような聖獣たち、このデザインの独創性に関してはダーガーの勝ちである。

普段、いかに我々は調味・加工されたものばかり見させられているか。いかに無意識に刷070602_00210001 り込まれた条件づけで生かされているか。こうしてダーガーの「チラシの裏の落書き」をじかに見るとき、そのことを強く意識せずにおれない。
もちろん、ダーガーも雑誌のイラストや広告写真を複写して作品に使ってはいる。だが、それらは飽くまで彼にとって「材料」以上のものではなかった。雑誌や本を見て「これと似たような絵を描いてみよう」などと彼は思わなかった。彼のクライアントは彼であり、作業に従事するのも彼であり、最高にして唯一のユーザー、それも彼だった。
ダーガーには金も知識も技術もなかった。そして、何も望みはしなかった。現在、クリエーターを自称する者は、ほとんどがその逆である。

我々は、ただ生きているというだけで何千・何万・何十万という条件づけや規制、ブロックをかけられている。「禁煙」なんてのはまだ分かりやすい方で、愛だの恋だのといった「神聖なるもの」も、巧妙なプログラムのひとつ、長年メディアによって施された洗脳に過ぎないと思う。規制や洗脳こそが社会の本質であり、それを免れては社会で生きることは出来ない。だが、少しずつ解除していくことぐらいは出来るはずだ。
ダーガーの物語は、架空の戦争を描いたものだ。なぜ、戦争であらねばならなかったのか。彼の心の中に、戦争が起きていたからである。彼は、拘束されていない心の中の一領域を探り当てたのだ。

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