■時が戻ったら■
あーあ、ついにやっちまった……ヤフオクで『ゼーガペイン』全巻セット購入。
この作品だけは、「昔話」にするつもりだった。思い出の中で誇張し、熟成させ、自分の脳の中に溶け込ませるつもりだった。「昔、とてもいいアニメがあったんだよ。あれだけは忘れられないなぁ……」と、この口が語りだすときには、もう半分以上、俺の記憶で美化されている。そういう関係でいたかった。『ゼーガ』とは一期一会でいたかった。
DVDを所有する、ということは作品を対象化する、はっきりと自分の体の外に置く、ということなので、むしろ作品との間に距離をつくってしまうのではないだろうか。「その作品が好きならば、DVDを買うべき」――そんな短絡的なことではないと思う。ジブリ作品のDVDなんて、BOOK-OFFにいっぱいあるよね。映画館で楽しく観た記憶が、DVDで蘇るわけじゃない。
その作品を求めている時間、「もう一度観たいのに、観られない」と思いを募らせる時間にこそ、実はもっともその作品への愛が高まっているはず。「観ない」という選択で、その贅沢な時間を無限に引き延ばすことも出来るはず。
あえて事情は書かないけれど、僕はその権利を手放した。
よく、友達同士や知り合った人同士で映画の話をすると、記憶違いに気がつくでしょう。「あの映画で、こんなシーンがあったろ。あれは最高にカッコいいよね」と相手が気持ちよさそうに語っていても、「いや、それはPART3ではなくて、PART2の方だろ…」とか、「確かに似たようなセリフはあったけど、ぜんぜん解釈が違うんじゃ、コラ」とか、心ひそかに記憶違いを訂正したことは誰でもあるんじゃないの?
でも、それが映画なんです。フィルムという物理的存在が映画じゃないんです。1秒間に24コマも流れていってしまう過去、それが映画なんです。
上映を始めた瞬間から、どんどん終わっていく。途中で上映をやめても、映画館を抜け出しても、やっぱり映画が「終わる」ことには変わりがない。
映画の話をするとき、僕らはいつも過去の話をしている。しかも、人間には過去を正確に覚える能力がない。だから、映画は人の記憶にデタラメに刻み込まれ、その人間の価値観とゴッチャになって存在するしかない。
(以上、「映画」と書いた部分をすべて「映像作品全般」と言い換えてもらっても、ほぼ同じことです)
話がとっちらかってきたので、話を『ゼーガペイン』に戻します。(←相変わらずお気に入りだけど、なんか「世界名作劇場」に出てきそうなキャラだと思った)
エンディング・テーマの「時が戻ったら/時が戻ったら」というリフレインには毎回泣かされるけど、それが『ゼーガ』が「過去」を守ろうとする話だから。舞浜のシーンは、すべて「過去のシミュレーション」で、主人公たちは保存された「過去データ」に立ち会う観客でしかない。その物語構造は「映画」と「我々の人生」とを何か抜き差しならない方法で結び付けているように思う。どちらも、流れていく(終わっていく)時そのもの。『ゼーガ』に心ひかれる人たちは、そのことに気がついているはず。
逆に……そんなシャレにならないことをやったから、『ゼーガ』は受けなかったのかも知れない。みんなが気がつきたくないことを、このアニメはやってしまったのかも知れない。
僕がこうして『ゼーガ』のDVDを買ってしまったことも、おそらく取り返しのつかない「過去」なんだよね。
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