■『RIZE』を観て、キャバクラに飽きて考えたこと■
仕事がゆるゆるペースなので、昨今ほとんどキャバクラ日記と化しているけど、昨夜ひとりで近所の店に行って飽きた。今度こそ飽きた。
最近観た映画では、ロスの貧民層のダンスを扱った 『RIZE』というドキュメンタリーが面白かった。ようするにモノ的に何もない(貧乏である)、怒りがある(情熱がある)。それが力強い文化を生み出す土壌だな。逆を言うと、文化とは感情の吹き溜まりのようなもの。
(そう考えると、キャバクラという文化はもはや退廃。残りカスの中で香水と安酒の香りに酔う。感傷的だ。キャバが儲かる、なんてもう誰も思っていない。たまに、その店の“主”みたいな女の子がいる。キャバだけで何年も食っているうち、昼間の世界を忘れてしまったんだ。そういう子の周囲には、あきらめのオーラが漂っている)
毛沢東の有名な言葉に「偉大な仕事を成す三つの条件は若いこと、貧乏であること、無名であること」ってのがあるでしょ。この三つのどれかひとつが欠けたら、あとは惰性に流されていくのだろう。80年代にアニメが急成長したのは、ひとえに世間から認められていなかったから。そこには怒りがあった。怒りは、行動の必然だ。「何もない」ことこそが、行動の着火点となる。
忘れてはいけない。日本で商業アニメが爆発的に発展したのは不遇の時期があったればこそ。アニメなんて、文化として認められちゃいなかったのだ。
ただ、沸騰点を過ぎると、あとはもう「形をキープすること」が目的になってしまう。キャバクラで言えば、店を続けていくことだけが目的となっていく(と、いちいちキャバに例えないと考えを整理できない俺……でも、そうやって考えると、あらゆる文化が形骸化していく理由もよく分かるはず)。
それは個人の仕事だって同じことだよね。失うこと、手放すこと、飢えることを恐れてはいけない。「何もない」ことは、常に何かの「はじまり」だからだ。キャバに通えとは言わないが、『RIZE』はオススメ。
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コメント
いつもながら響きますね。「何もない」ことは常に何かの「始まり」・・・「不自由は最大の自由」だと自分は常に思っていたのですが、似ているところがあるかも知れませんね。この世にすべてが自由になる事なんて決してなくて、何が自由で何が不自由かと言う境界線は個人の考え方ひとつ。何も無い事は一見不自由にも思えるけど、実は何でも始められるという自由があると言う理屈です。不自由を恐れ綱渡りでやりくりして現状をごまかしているのが今の玩具業界でありキャバクラなのでしょうね。
投稿: 直江 | 2007年3月 8日 (木) 02時44分
■直江様
キャバクラの話題しかないのに、いつも見ていただいて
ありがとうございます。
>何も無い事は一見不自由にも思えるけど、実は何でも始められるという自由がある
まったく仰るとおりです。都会に暮らしていると、知らぬ間に
いろいろな制約を受けていますから、「自由」の感覚が
鈍ってしまうのではないでしょうか。
それで、やっぱり失うことを恐れてお金で何とかしようとすると、
文化というのはどんどんつまらなくなっていきますね。
玩具業界しかり、アニメ業界も一部そうなってきてますね……
投稿: 廣田恵介 | 2007年3月 8日 (木) 12時45分
スパイク・リーが白人だったら、ウディ・アレンになってただろう。という記事を読んだことがあります。
柳美里はいじめ・シングルマザー・在日・性的虐待などの体験があるから、創作する上での題材があるというような話も読みました。
柳美里が書いてるから共感してもらえるとか。
抑圧があるから、芸術は爆発するんだということだと思います。
投稿: キャバクラfan | 2008年5月 1日 (木) 23時10分
■キャバクラFan様
コメントありがとうございます。リンク先も拝見しました。僕も、どこへ旅行してもキャバは探してしまいますよ。稚内ですら探したし、実際面白かったし。
>スパイク・リーが白人だったら、ウディ・アレンになってただろう。
今回、北京五輪の芸術顧問を辞退したスピルバーグもユダヤ系ですね。表現って「言ってはいけないことを言って、ナンボ」と思うんですよ。だから、社会的にマイナスのない人間(負い目のない人間)は、どうしても信頼できませんよね。
「枯渇」以外に、表現するエネルギーはないと思うんですよ。
投稿: 廣田恵介 | 2008年5月 1日 (木) 23時52分