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2007年3月27日 (火)

■ハードルは低く、志は高く■

先日、「資料」という件名で例の映画監督からメールが来た。「?」と思って開けてみると、『ムスメット』のサントラCDや漫画本、声優さんの写真が。Cd Photo Photo_1

件名だけで本文なし。だから一体、何の「資料」なのか(笑)。そういえば、監督に「映画化するとしたら、ムスメットのヘルメットだけは一点豪華主義で有名人にデザインさせよう」と提案したのだった。その時の返事は「シド・ミードはどう?」。俺は「ルイジ=コラーニの方が向いてるよ」。コラーニの方が曲線が得意だから。あと、チョロQのデザインもやったので日本文化に理解がありそうだから。確か去年だったかな、来日したんだよね。その時に頼めばよかったな。

仕事も一段落したのでネットを見ていたら、アニメイトTVで『ムスメット』第一話が無料で見られるじゃないか。で、見ましたけどさ。このアニメを「ひどい」と言う人は、本当にひどいものを見たことがないんだと思う。
070327_13440001←見よ、このレイアウトを。作画の良し悪しは、まずレイアウトを見れば分るというね。逆に、こういう落ち着いたレイアウトがあると、手を抜いたカットがばれやすいんだけどね。でも、全体に作画が丁寧で、まずは好印象。
あと、このシーンでマスコットキャラの宇宙人を「漬けるぞ!」と脅かすギャグがあって、無防備にも声出して笑っちゃったよ。
070327_13520001←これらのキャラは脇役とモブなんだけど、文句なしに可愛い。モブまでちゃんと可愛く描く、この実直さがいい。
ちなみに、左のキャラは関西弁。右のキャラは語尾が「~ありんす」。 廓言葉ってやつですな。何とも苦し紛れなキャラの描き分けなんだけど、作り手の視線はちゃんと視聴者の方を向いている。そこが大事。
070327_14010001←作画的に一番よかったのは、このカット。敵に襲われそうになる主人公をムスメットに変身した姉が助ける。奥の白いのが敵の移動した軌跡。だから、主人公と姉は画面手前に倒れてくるんだけど、一瞬、体がふわっと浮いて、それからドーンと倒れる。敵が通り過ぎるときの衝撃で体が浮いちゃってるわけ。アクションのつぼを押さえた作画だ。
070327_14420001070327_14440001あと、第一話はガンダム(というかシャア)のパロディなんだけど、ちゃんとオチまで引っ張るのが偉い。左の透過光のカットなんて、かなりガンダムっぽいでしょ?
だから、このアニメは自分たちで仕掛けたアイデアに従順。最後までケツを持つというか。

『ムスメット』放映の2004年というと、俺が見ていたタイトルだけでも『忘却の旋律』、『鉄人28号』、『恋風』、『巌窟王』、『サムライチャンプルー』 、『十兵衛ちゃん2』……と意欲作ばかりだったんだ。『忘却~』の宣伝プロデューサーが「今期から、全体に“キャラ”より“作品の質”へ軸足が戻ってきた」と言っていたのを思い出す。
『ムスメット』を見ていて、何とも気持ちよかったのは、とにかく“計算”がない。確かに上滑りしているギャグも散見されるし、肝心の変身シーンも薄ら寒いんだけど、とりあえず誰が見ても分かるようにしている。一見さん歓迎の誠実さがあるんだ。だって、『ハルヒ』なんて一見さんお断りでしょ? ラーメン屋を出た後に「どんなダシを使ってあったんだろう?」といろいろ考えなきゃ味を思い出せない。というか、食べ方まで店主が決めてて、食べ方を心得た常連だけが得をする。今のアニメってそうなってると思う。
『ムスメット』は、ハードルが低い。低すぎて、受けなかったんだ。だが、反省する必要はまったくない。今、こうして俺が学ばせてもらっているのだから。

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2007年3月24日 (土)

■人生のための仕事■

「アニカン×REIDEEN」 配布中!
Ani_rai
●本文執筆
見どころや解説のほか、インタビューは本郷みつる監督、荒牧伸志さん、竹内敦志さん、三間雅文さん、倉橋裕宗さん、池頼広さん、藤原啓治さん、本田貴子さん、三木眞一郎さん、千葉紗子さん、我妻正宗さん。
途中で絶対、誰かにバトンタッチしようと思ったけど、なぜか断りきれない不思議な仕事だった。 特に、三木眞一郎さんの頭の良さには脱帽した。俳優(声優)というのは、その瞬間瞬間に物語をつむいでいくわけで、いわばストーリーテラーなのだ。物語を生きている人間だけが、物語を語れる。場数を踏んだ声優さんが音響監督になるのは、すごく納得のいく話だ。
あと、東京国際アニメフェアで先行発売された「アニカンR」にもいくつか書いてるけど、こっちは別にいいや(笑)。
仕事には大別して、「生活のための仕事」と「人生のための仕事」がある。僕はオッサンなので、そろそろ後者に力を入れなくてはならない。

さて、先日書いた『ムスメット』続報。
友人の映画監督は、とりあえずこのブログのURLを出演している声優さんに送ったとのこと。が、それだけでは飽き足らず、その声優さん(もともと、誰かスタッフ繋がりで知ったようだ。その声優さんがどなたなのか、名前までは僕は聞いてない)に電話で「映画化したい」と申告したところ、「やっぱり嫌がられた」らしい(笑)。
でも、もはや彼にとって『ムスメット』映画化は「人生のための仕事」なので、断られれば断られるほど、あらゆるマイナス要素が創作意欲に転化されてしまうんだ。声優さんに電話したというのも、いわば「取材」なんだろうね、彼にとっては。燃料補給というか。
これが「生活のための仕事」だったら、まずは金集めだよ。損が出ないように、うまくプランニングするはず。でももう、『ムスメット』を選んだ時点で損してるんだよね。金銭とか名誉とか、そういうレベルでは、みんなが損をしている。そこへ敢えて分け入るのは、「人生のための仕事」だからだろう。
リラダンいわく、「生きることなど、家来どもにまかせておけ」。メジャーとかマイナーとか、勝ちとか負けとか、そういう問題じゃないんだよ。

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2007年3月21日 (水)

■アニメ・バブルの片隅で■

『奏光のストレイン』 waltz.Ⅱ 23日発売!
St3
●ブックレット 構成・執筆
アニメ・バブルの中で、ちょっと埋もれがちなアニメなだけに、ついついブックレットにも力が入ってしまいます。
見ていて、「ああ、80年代っぽいな……」と感じてしまうのは、『ゼーガペイン』同様、“物語る”ことに特化したアニメだから。メカはともかく、キャラクターに互換性がない。つまり、「このキャラで別のストーリーを物語る」というのは出来ないようになっている。かつて、それは完成されたアニメの特徴だったと思う。『ストレイン』は、ファンなら知ってるとおり、『小公女』がモチーフになっている。その控えめだが堂々たる“文学性の表明”に僕は好感を持つ。ただ、それが今の時代に有効なのかどうかは、正直わからないね。でも、支持している人たちは、その時代とのズレも込みで愛してくれていると信じている。

さて、アニメ・バブルの余波で埋もれっぱなしのアニメについて、面白い話を聞いた。
Pict0011←これなんすけど。『流星戦隊ムスメット』。ちゃんと公式サイトもある。 僕はこれ、ぜんぜん知らなかった。映画監督の友人が、「実写映画にしたい」と言って、嫌がるメーカーから無理やりDVDを借りてきた。この「メーカーすら隠蔽したがる」という点が、また彼の心にグッときたらしい。ようするに、作り手にとって、このアニメの存在は「ちょっと恥ずかしい」ってことだ。かつて、ダニメ・ライブラリーを義務のように書いていた俺は、思わず身を乗り出したね。
で、よくよく話を聞くと、「10人ぐらい熱狂的なファンがいる」らしい。100人じゃないよ、10人だよ。それじゃイベントも出来ないよ! でも、彼は「こんなマイナー・アニメを支持している10人のことが、すごく気になる」と言う。『ムスメット』じゃなくて、『ムスメット』を追っている「10人のファン」が、彼の創作意欲のトリガーを引いた。その10人のために、彼はクリエイターとしてリスクを背負うと言うわけ。その時点で、もう「たった10人」ではないよね。「選ばれた10人」だよ。
『ナウシカ』を好きな人は100万人ぐらいいるだろう。でも、だから『ナウシカ』の方が優れているという証拠にはならない。『ナウシカ』を好きな10人と『ムスメット』を好きな10人では、すでに「一人当たりの愛情の濃度」が違うのだ。作品にとって、どちらが幸せであるかは、もはや説明するまでもあるまい。

人と作品とは、しばしばこのような甘美な関係を結ぶ。世界でたった10人だけが『ムスメット』の聖なる秘密を探り当てたのだ。我々には感知しえない、何かを。
実際に、『ムスメット』のDVDを見た友人は「俺には、何がいいのか分からない…」とうめくように呟いた。だが、その呟きには「ムスメットの神秘」に触れている「10人」への羨望と、純粋な驚きとが込められていた。クリエイターたる彼は、その「10人」に未知の領域があることを教えられたのだ。
崇拝や信仰は、何も教会の中でだけ起きる感情ではない。宗教的な体験は、アニメ・バブルの片隅で、ワゴンセールにかけられたDVDのビニールが破かれる瞬間、そこここで起きている。……明日、東京国際アニメフェア2007開幕。果たして奇跡は見つかるか?

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2007年3月20日 (火)

■アニメを解体しよう■

アニメーションノート No.5 発売中!
An05
●まなびストレート! 構成・執筆
やっぱり、最初に見たPVのショックが忘れられず、『まなび』の絵づくりにのみ焦点を絞って取材しました。でも、こうして読むと今ひとつツッコミが足りないね。
まず、俺は集団の中で夾雑物になりたいので、ソリッドな「アニノー」の誌面にウェットな『まなび』の絵を地雷のように埋設したかった。とにかくね、この前も書いたけど、「好み」なんてものを俺自身も捨てたいし、読者にも「好み」を超越したところの「なぜ、そこまで描く?」という部分に注視して欲しかった。
……とは言いながらも、取材したのは第一話完成直前の頃で、俺は『まなび』を『台風クラブ』みたいなアンニュイな、シーンの点描みたいな作品になると勝手に思い込んでいた(それこそ、お前の「好み」じゃんか、と言われればそれまでだが)。描き込まれたワンカット、というのはそれだけで何かを語り出してしまうんだ……。「映画は、2コマあれば成立する」と言ったのは奥山順市だったかな。「映画の本質はアクション」と言ったのは押井守だったと思う。ここで言う「アクション」というのは銃撃戦という意味ではなく、モーションというか純粋な動きのことだろう。文学性・演劇性は、映画が他所(よそ)から借りてきたものである。宮崎駿が脚本という“演劇からの借り物”の段階をスキップして絵コンテから入るのは非常に納得できる。

優れたワンカットは、それ自体がひとつのストーリーだ。ロボット・アニメの合体シーン(バンク)070320_01150001は、本編とは別のひとつのストーリーである。オーケストラがピタリと止まって、バンドが演奏を始めるような感じ。
その瞬間を、みんな目撃しているはずなんだよ。それはメカが好きだとか萌えキャラがどうとか関係ない、純粋な美しさであるはず。メカ好きってスペック・マニアばっかりで、合体シーンの美しさを言う人間が誰もいないね。萌えアニメも同様。「絵」を見ているだけで「映像」を見てない。いや、見ているんだけど気がついてないんだろう。気がつくか否かは、人生観によるような気がする。刹那的に生きてるか否か、とか(笑)。

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2007年3月17日 (土)

■マニューバ・ブック■

『メガゾーン23 マニューバ・ブック』 3/25(一般販売は4/4 4/9)発売!
Mzmb_1 ●構成・本文テキスト執筆
ちょっと早い予告かも知れませんが、ネットでは予約受け付けているところもあるので、表紙をスキャンしたものを掲載します。
やまとさんのコンプリートボックスに同梱されるものには、左の表紙の上にガーランドの書き下ろしピンナップを兼ねたカバーが付きます。4/4に一般書店に並ぶものは、この写真のようにカバーがないものとなります(中身は全く同じ)。
灰色に見える背景は、実際にはガンメタルのような色味になっており、その上にタイトル・ロゴの入った透明の樹脂製ケースが付きます。ちょっと分かりづらいかも知れませんが、樹脂製ケースを外すことで初めて本が開ける構造です。
070317_17380002(←こんな感じに取り出します。樹脂製ケースはコンプリートボックス版にも付きます)
肝心の中身ですが、無印の『メガゾーン23』に特化していますので、PARTⅡやⅢの資料が欲しかった方はゴメンナサイ。その代わり、無印の『メガゾーン』のメカ、キャラ設定はほぼ全て掲載しています(たっぷりページを使って見やすくしました)。
他には、荒牧伸志さんインタビュー&描き下ろしイラスト、美樹本晴彦さんインタビュー&描き下ろしイラスト。インタビューは他に久保田雅人さん、石黒昇さん、冨永みーなさん、小野寺脩一さん、すべて昨年から今年にかけて収録したもの。あとは現存するポジとキャプチャした画像を使った名場面集、初期企画案、85年当時のガレージキット開発秘話、そして表紙を描いてくれた片桐Kさんのイラストギャラリーなど(これはなかなか凄いと関係者の間でも評判です)。
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以下、独り言です。
30代の終わりに、『メガゾーン』の本を丸一冊任されたのは、とてもラッキーだった(まあ、自分でやった分、アラも目立つけど)。インタビューの一部はライターの河合宏之さんと担当編集さんにお願いしたけど、後はすべて自分で書いた。とにかく、今までのアニメムックの定石は捨てて、アートディレクターの木村祐一さんの事務所に足繁く通って打ち合わせ、朝の5時にカメラマンと渋谷で待ち合わせて写真を撮ったり……「ここまでやることは、今後二度とないかもなぁ」と思いつつも、こうして見本が刷り上ってくると、「まだまだやれるな」という気持ちになった。
ただ、審判を下すのはお金を払うユーザーさん(期待しながらも、中身を見て買うのを控える人も含めて)だから、誇りは持っても自分の仕事を過大評価はすまい……偉大なのは、『メガゾーン』をつくった一人一人のクリエーターさん。そして、過去の作品をこうして取り扱うとき、何に留意しなくてはならないのか、さらに踏み込んで考えなくてはね。
設定資料ひとつとっても、生きた人間の描線なんだよね。その人が、人生のある瞬間、ひとつの意志を持って引いた線でしょ。それを考えたら、「固定ファンが何万人いるから、そこそこ売れる」なんて考えは絶対に通用しない。

Cap304無印の『メガゾーン23』のラストってのは、「それで、あなたの日常はどうですか?」という辛らつな問いかけになっていると思う。それは設定的に似た構造を持つ『ゼーガペイン』でも同じ。『ゼーガ』は「何気ない一日一日を大事に生きよう」というところまで踏み込んでるかな。しかし、「みんなが知っていることを、みんなで考えよう」というお話が、今は通用しないのだね。
『メガゾーン』が一度はロボットでメカ戦をやる、というSFアニメ・フォーマットに染まりつつも、ラストシーンで再び渋谷駅前という日常へ戻ってきたのには、ちゃんと意味がある。「これから、どうやって生きるの?」という残酷な問いを発するには、冒頭で省吾が由唯をナンパした渋谷に戻ってこざるを得ないわけ。世界が強固に存在し、自分がその世界に対して無力である、と認めるのは「怖い」。
でも、省吾は杖を捨てて、何とか恐怖を克服しそうな気配を見せて、ストンと終わる。ちゃんと完結してるんだよね。物語ってのは、テーマを語り終えた時に終わるわけで、主人公の運命がどうのって問題じゃないんだ。でも、今はそれじゃダメらしいね(笑)。ラノベが何巻も延々と続くのは、語り終えるべきテーマが最初からない(必要ない)からじゃないかな。その是非は、自分のこれからの仕事の中で見つけるしかない。

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2007年3月15日 (木)

■動機、空白について■

「グレートメカニック24」 発売中!
Gm24●「オヤヂ酒場」
今回のお題は『コードギアス 反逆のルルーシュ』と、ちょっとページを拡大して「ロボット物に未来はあるのか?」……で、なんと今回のグレメカで俺の書いた記事ってこれだけなんすけど、「オヤヂ酒場、最終回か?」というぐらい面白いはず。編集者が帰ったあとも「もう一軒、行こう」と延々と語りつづけたからね。うまく伝わったかは分からないけど、『コードギアス』ちゅうのは優等生すぎてどうも……誰一人、キャラに感情移入できないんだよな。それは絵柄のせいだけじゃないし、声優がどうのって問題でもない。製作者も予想しなかった“ほころび”がないとね。

あと、最近いろいろな方に会って話を聞いて思ったんだけど、アニメって社会的な意味では、最早つくる根拠を失っていると思う。先日の話を読んでもらえば分かると思うけど、これだけアニメが「ある」ってことは動機が「ない」ことの証拠でしょうよ。「お金があるから」なんて理由で成り立っている文化は、最低なんだ。動機さえあれば、お金がなくてもつくってしまう。それが文化。
『コードギアス』はギアス能力という誰もが欲しがる力を描いたことで、ぎりぎり社会性を獲得できているんじゃないかな。説得でも脅迫でもなく、そういう手続き抜きに相手に言うこと聞かせる、という幼稚な欲望。それをてらいもなく描くことに、かろうじてつくり手の意志らしきものを感じる。それは、見続ける動機になるよね。
あと、『デスノート』や『コードギアス』のようなピカレスクが若者に受け入れられる時代というのは、大人の権威が失墜しているんじゃないか、とかね。
僕らはもういい歳なんだから、つくり手の姿勢から何か学ばないと。批判しかしない人間は進歩しないし。

「EX大衆」 四月号 発売中!
Ex07_4●アイドルのキス顔チュ! 平田弥里
毎回毎回、よくもまぁこんな空想デート話を書けるなあ、と我ながら呆れているのだが、これも何かの埋め合わせだって気がする。人間の脳には、欠けたものを何とかして回復させる機能がある。モノつくったり、書いたりって時は、その機能を逆転利用してるんだと思う。さっきと矛盾したことを平然と書くが、「積極的に空白部分をつくっていく」ことも必要なんじゃないかな。
だって、空白を埋めることが人間の生きる目的じゃないもんね。

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2007年3月 9日 (金)

■厄介な癖■

珍しく、アニメのドラマCDの脚本を書いた。このアニメに関して、僕は最もラッキーなファンに違いない(何しろ、テレビ放映時は一視聴者に過ぎなかったのだから…… )。しかし、その「ファン」が「好み」で書いたものが「プロ」の列席する会議にかかる、というのは非常にコワイものだと思い知った。

ここ数日、憑かれたように読んでいる漫画は花沢健吾の『ボーイズ・オン・ザ・ラン』
070308_13100001『宮本から君へ』の恋愛パートを拡大したような感じ。俺は『宮本』では甲田美沙子、綾部栞といった恋愛スパイスとして出てくる“扱いの軽い女”たちが好きで、『ボーイズ~』に出てくる植村ちはるも、(単にスパイスでしかないという意味で)彼女たちに似ている。
それにも増して、東京都内の番地まで指摘できるロケーションの細かさが『宮本』ゆずり。 『宮本』で印象的だったのは飯田橋や王子近辺だったが、『ボーイズ~』では、池袋や三ノ輪が出てくる。とにかく、『宮本』の素敵ポイントを抜粋して飲みやすく割ったような漫画(その素敵ポイントが、飽くまで「俺の感じる素敵」でしかないことが重要だ)。
「素敵ポイント」とか「好み」を主張するのは、なかなか勇気がいる。「好き」という感情は、「慣れ」とか「癖」に左右される、とても脆弱なものだ。そこまで不確定なのに、何が「好き」かを表明することで、人間の程度が知れてしまう。「好み」なんてのは、脳が覚えた惰性や習慣の表れでしかない。それゆえに、最も雄弁にその人を語ってしまうのだ。
(冒頭で「プロ」に「好み」を読まれるのがコワイ、と書いたのはそういう意味)

「好み」ってのは、しばしば自分の本質を誤魔化す。……本質というと語弊があるか。自分の欠損部分を代替しているのが「好み」「シュミ」なんじゃないかと思う。
だから、いろんな経験や知識を重ねて、「好み」なんてものをどんどん刷新していくべきなんだよね。欠損部分が埋め合わされた瞬間、「好み」なんて全く用をなさなくなるはず。これはホント。

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2007年3月 2日 (金)

■『RIZE』を観て、キャバクラに飽きて考えたこと■

仕事がゆるゆるペースなので、昨今ほとんどキャバクラ日記と化しているけど、昨夜ひとりで近所070302_03170001の店に行って飽きた。今度こそ飽きた。

最近観た映画では、ロスの貧民層のダンスを扱った 『RIZE』というドキュメンタリーが面白かった。ようするにモノ的に何もない(貧乏である)、怒りがある(情熱がある)。それが力強い文化を生み出す土壌だな。逆を言うと、文化とは感情の吹き溜まりのようなもの。
(そう考えると、キャバクラという文化はもはや退廃。残りカスの中で香水と安酒の香りに酔う。感傷的だ。キャバが儲かる、なんてもう誰も思っていない。たまに、その店の“主”みたいな女の子がいる。キャバだけで何年も食っているうち、昼間の世界を忘れてしまったんだ。そういう子の周囲には、あきらめのオーラが漂っている)

毛沢東の有名な言葉に「偉大な仕事を成す三つの条件は若いこと、貧乏であること、無名であること」ってのがあるでしょ。この三つのどれかひとつが欠けたら、あとは惰性に流されていくのだろう。80年代にアニメが急成長したのは、ひとえに世間から認められていなかったから。そこには怒りがあった。怒りは、行動の必然だ。「何もない」ことこそが、行動の着火点となる。
忘れてはいけない。日本で商業アニメが爆発的に発展したのは不遇の時期があったればこそ。アニメなんて、文化として認められちゃいなかったのだ。
ただ、沸騰点を過ぎると、あとはもう「形をキープすること」が目的になってしまう。キャバクラで言えば、店を続けていくことだけが目的となっていく(と、いちいちキャバに例えないと考えを整理できない俺……でも、そうやって考えると、あらゆる文化が形骸化していく理由もよく分かるはず)。
それは個人の仕事だって同じことだよね。失うこと、手放すこと、飢えることを恐れてはいけない。「何もない」ことは、常に何かの「はじまり」だからだ。キャバに通えとは言わないが、『RIZE』はオススメ。

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