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2007年1月29日 (月)

■グラデーション■

同人誌「OTAKU×DESIGN」が届きました。
070129_14300001こういうプロ仕様の本をつくると、プロ的な対応、プロ的なクレーム処理に追われるでしょうけど、そこはアマ精神で乗り切っていいんじゃないですかね。

デザインをやっている人は、どんなものを見てもデザイン的な視線を捨てられない。そういう意味では、ごく当たり前のコンセプトを持った本で、ショックバリューは低い。でも、村上隆のような高邁さを感じないのは、「出すぎたマネ」をしてないからだろうね。編集後記を読んで思ったけど、どうもオタクに対して低温の距離感がある。「小難しいアニメ評論本も読まなくちゃいけない気がする」と書いてあるけど、そんなオタクは希少種でしょ。「時には古典的作品から気の効いたセリフの引用だってできるように昔の名作もチェックしなきゃいけないし」 ……その「しなきゃいけない」って感覚が、今のオタクにはないんだよ。
この「ないんだよ」って物言いが、もうオタクから反発を買うだろうね。「断定するな」とか言われそう。決めつけないし、決めつけられたくないのが今のオタクで、ぼんやりとしたグラデーションの中で、みんな(と時代)に染まっていたいんじゃないかな。限りなく無色に近いグラデーションのあわいの中でさ。

だから、「OTAKU×DESIGN」が売れてるというのは、そのグラデーションにうまく溶けてるからじゃないの? 「デザイン面からものを見れば、もっとオタク文化は面白くなるのに」とさえ言ってない。啓蒙してないんだ。村上隆って、「お前ら、こういう作り方もあるんだぜ」と啓蒙してたんじゃないの? だから蛇蝎のこどく毛嫌いされてたんだろうね。

でも、「萌え」という言葉がすでに懐かしく聞こえてしまうね。たっぷりの水で薄められた絵の具のようにじわじわ広がって、もう「萌え」が何色であったかさえ分からなくなっている。分かる必要もないしね。どこからどこまでがオタクなのか、その境界すらにじんで来ているようで、それはそれで美しい時代だと思うな。バブル直前が、こんな気分だったかも知れない。

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2007年1月27日 (土)

■タワークレーン■

家に合計何万文字という原稿をおいて、取材に出る。
070127_12430001_1(相変わらず、高いところの写真ばかり撮ってしまう。地べたを這っている感覚が濃いせいだ。歩きながら、今日は何時間寝られるのか、どこで何を食べるべきか、ばかり考えている)

今かかえている数本の仕事のうち……かなり自由に、一冊のアニメムック本をつくっているのだが、設定画をぺたぺた貼ってしまえば、形にはなる。それでは自分がやる意味がないので、ちゃんと意図をもって構成を考え、優れたデザイナーに手渡し、明確な、いや強靭な意志のこもったテキストを書かなくてはならない……そこまでしなくとも、「いつものフォーマット」でアニメの本はできてしまう。どこかの誰かが考えた「いつものやり方」でやっつけていければ、そんな無神経さを仕事として割り切れるのなら、気にするのは仕事相手の顔色ぐらいでいいのかも知れない。
「そんなくだらない大人にはなるまい」と思ってきたし、今も思っている。

先日も書いたが、ライターは誰でもなれる商売である。現に、僕がなれた。
Ca270050ただ、「誰でもなれる」からといって、その仕事をルーティンにすます奴は、どこで何をやっても変わらない。だから、ライターという仕事そのものには何のステイタスもない、と常に自覚しておかねばならないと思う。業界周辺をうろつき、有名人にも会える職業であるから、つい勘違いしてしまいがちなのだ。
(それで自己実現できる人にとっては、ライターという職業は悪くないのかも知れない……ということは、常にちょっと不満がちな人間の方が、いい仕事をするということか)

ライターは誰でもなれる。そうした「身の程」を知った上で、では、お前は何者なのだ、と常に聞いていかねばならない。
仕事はプレゼントではない。もらったからといって、祝福された気になってはいけないのである。

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2007年1月23日 (火)

■放蕩一夜■

フィギュア王 No.108 明日発売!
108
●Toy's NEW ARRIVAL 執筆
●ピュグマリオンの小部屋 構成・執筆

昨夜。
高円寺のアニメ会社から原画と絵コンテなどをお借りして、その足で歌舞伎町ロフトプラスワンへ行く。 『アクエリオン』新年会の取材である。僕のみアルコール禁止を厳命されていたので、中ジョッキをぐいぐいやっている編集長の横で、ウーロン茶をすすっていた。
僕があまりに辛そうにしていたためか、イベントが終わるなり、編集長が「飲みに行こうよ」と誘ってくれて、僕らだけ打ち上げに出席せずに居酒屋へ(打ち上げでもアルコール禁止だったため)。
空気が変わったのは、刺身の特盛りが運ばれてきた時である。普通の居酒屋の女給のくせして、ものごっついキャバ嬢っぽい。僕も編集長も「お店、何時からですか? 指名料、いくら?」と、うっかり聞きそうになってしまったほどだ。さすが歌舞伎町。

なんとなく、そのまま家に帰るのもアホらしくなり、何ヶ月ぶりかで雨女さんの店(もちろんキャバクラです)に行った。最近、Aガール化が進んでいるとかで、コスプレ写真を見せてくれた。別にオタクになってもいいけどさ…」と僕は額にしわを寄せて説教をはじめた。「ボロボロになるまで恋愛したことあるか? 大声で泣くぐらい人を好きになったことないだろ?」 いま書いてても十分に恥ずかしいが、オタクには恋愛落伍者が多いので、あえて言う。しかも不戦敗の分際で、「現実の女なんか興味ねーよ!」とほざいている童貞ばっか。負け惜しみは、戦ってから言うもんだ。
なんでこんなに「まず恋愛すべき」と力説するかというと、耐性がつくから。生きていくうえでは、しょぼいプライドや屁理屈を一気にぶっ壊される瞬間がある。若いころに恋愛でボロボロになってれば、「傷つく」などという言葉を30過ぎてから吐かずにすむ。ようするに、強くなる。それが、恋愛のたったひとつの効力だ。
オタクは、頑固で傷つきやすい人が多い。だから、コスプレという防護服が必要になるのだ。「キャラ」で本当の自分をコートせねばならなくなる。少なくとも、俺は雨女さんにそうなって欲しくなかった。さっさと恋愛しろ。以上。

070123_03290001僕は珍しく閉店前に店を出て、駅の北口へ走って朝までやっている店を探した。
アロワナを飼っている店しか開いてなかった。閉店時間が近いせいか、どの女の子も疲れていた。たいした店ではなかったが、この気だるい雰囲気に、たまらない親しみを感じる。酒と香水の匂いが、昨日と今日の境を曖昧にしていく……。こういうムードで、「そろそろ就職活動はじめるんですよ~」などと日常的な話をされると、ひどく白ける。

僕は南口に走って戻り、雨女さんを焼肉に誘った(まだ説教がし足りなかったのかも知れない)。アフター御用達、という感じの早朝の焼き肉屋には、かすかな優越感を襟元あたりに漂070123_05400001わせた客と嬢が杯を交わしている。僕と雨女さんには、とてもそんなトキメキも下心もなかったのだが、別れ際、彼女は僕にキウイをひとつ握らせた。店の子が分けてくれたのだという。
何だか、こういう「ポイントづくり」だけは、やけにうまい人なのだ。いやでも印象に残るような演出を残していく。

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2007年1月21日 (日)

■下位代替機種■

焼肉といえば、キャバ嬢とアフターで食べる早朝の食べ物。
070120_20400001そんな放蕩生活から遠のいて久しく、昨夜は某誌のスタッフの皆さんと新年会。その席で、ここ最近つらつら考えていたことを口にしてみた。
「ライターという仕事は、他の何らかの仕事の代替物である」
たとえば、インタビュアーという仕事がある。評論家という仕事がある。ルポライターという仕事がある。ジャーナリストという仕事がある。ライターは、それらの職業の下位代替機種でしかないのだ。
よく、イラストレーターやカメラマンなのに、「たまにライターなんかもやります」という人がいる。名刺に、ついでのように「ライター」と刷っている人がいる。まあ、ようするに他の分野のプロが片手間に出来てしまうのが、このライターという職業なわけだ。
僕は、編プロの知り合いに「ちょっと雑誌に書いてみませんか?」と言われたのがきっかけだったから、ライターに「なりたい」と思ったことは一度もない。ライターズ・スクールを出て、その学校の先生の紹介で仕事を始めた、なんていう人がいるらしいが、ライターなんて、そんなたいそうなもんかよ? 日本語が書けて、締め切りさえ守れれば、誰でもなれるって(締め切りを守れない人はプロ失格だがな)。

代理業であるから、ライターのゴールなんてものはない。ライターは作家じゃない。クリエーターじゃない。ただ、幸い、俺は「雑誌」という媒体が、読み捨てられる安手の印刷物が好きだった。誌面の細かいところまで、きっちり情報が入っていたり、遊びが入っていたりすると、それだけで世界の豊かさを感じられた。「雑誌って、いい加減につくられてんだな。やっぱり、世の中はつまんないな」と読者に思ってほしくない。だから、決して手を抜かない。俺の仕事のモチベーションは、たったそれだけかも知れない。

さて、「EX大衆」の小さな連載「アイドルのキス顔 チュ!」。次号の分を書き終わったが、家からすぐのところにある遊歩道がラストの場面として出てくる。
070120_23530001花屋を抜けた先の川に小さな橋がかかっていて、沖縄民芸品の店がある。絵本の専門店がある。店の前の花壇にまで、商品が丁寧に並べられている。そのいちばん奥、小道の途切れるあたりにひっそり佇んでいるのが、写真の喫茶店。あまりに家に近いので入ったことはないが、いい店であることは分かる。窓際の席で、書きものをしている人がいるからだ。
彼らはライターなどという代理業ではなく、本物の文筆家だろう、と勝手に想像している。そう考えたほうが、世の中の豊かさを感じられるからだ。

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2007年1月17日 (水)

■神秘と狂気は、四本足で■

どんなに忙しくても、一分でもいいからプラモデルを組み立てる。
070117_18230001←発光ダイオードと蛍光剤で、ここまで光るゼーガペイン)
出来れば、最近のガンプラのようにパーツ分割が考え抜かれているものがいい。なぜなら、パーツとパーツを組み合わせるうちに論理的な思考が指先から伝わってくるから。これは、文章を書く上で役立つ。そのために、ガンプラは絶やさないようにしている。趣味ではなく、仕事のツールだ(まあ、ゼーガペインは作品が好きだから買ったんだけどね)。
レゴなんかも、論理的思考を鍛えるのにピッタリかも知れないが、俺は幼稚っぽいので、ロボットのプラモの方が向いてるみたいだ。

あとは、犬のように路上を歩き回るのも仕事のひとつだ。犬はよく「人間の三歳児なみの知能」と言われるが、061225_00010001 それは違うと思う。「知能のあり方」が、人間とは異なるということではないだろうか。そんな考えでいるから、犬を擬人化して接している人とは、まったく話が合わない。犬が言葉を喋るような映画・漫画は、お話にならない。ほかの生き物に神秘を感じられない人は、人間に対しても想像力が働かないんではないか、と思う。
想像と妄想は別であって、「その人がどんな暮らしをしているか」なんていうのは妄想だ。「どのような考えをしているか」を洞察するのが想像力である。それは、神秘と狂気の領域だ。
神秘と狂気は、足元を四本足で歩き回っている(僕のアパートでは犬を飼えないが、散歩で出会うことはある)。

そうそう、散歩も仕事のうちだ。思いついた文をその場で携帯メールにして、自宅のPCに送る。そのままワープロソフトにコピペして、どんどん貯めていく。神秘も狂気も、文章化すれば下世話なエロ話と同じフォーマットに乗る。文章は傲慢だ。機能的なものは、何だって傲慢なんだ。

前の日記で「EX大衆」のポエムの一節を抜粋したが、ちょっと失敗したよなぁ……全体を通して読むと、ぜんぜん良いはずなんだよ。次号は2月中旬なので、バレンタインデーのネタでひとつ。

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2007年1月14日 (日)

■彼女を起こすのは僕の役目だろう■

EX大衆 2月号 明日発売!
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相澤仁美 グラビアポエム執筆

●「アイドルのキス顔 チュ!」連載第5回 愛川ゆず季 妄想ポエム館 執筆
 僕は、すっかり冷え切ったポテトフライに手を伸ばした。まるでスポンジのように味気なかった。ぱさぱさに乾いたポテトを意味もなくかんでいると、彼女と過ごした長いとはいえない日々、昨夜から今朝にかけての中身があるとはいえない会話が脳裏によみがえって来た。おまけに、外では雪さえ降りはじめている。彼女を起こすのは僕の役目だろう。二人が過ごす時間はすれ違ってばかりだ…… (抜粋)

今回の「キス顔」はよく書けたと思うんだよな。全文掲載したいぐらい。これは高校の帰りに同級生の子とマクドナルドに寄った実体験と、旅行前に好きな子に別れを告げに行くという数年前に見た夢と、ムーンライダーズの「駅は今、朝の中」という曲、それぞれの印象がゴッチャになっている。
実体験だろうが夢だろうが、文章化した時点で均質化されるのが「書く」ことの面白み。僕はもうすぐ離婚一周年で、周囲から気の毒がられたり、気を使われていることが最近わかったけど、僕にとっての離婚は「書く」ことの材料でしかない。これから先、いかようにも活用できるわけだから、離婚しといて良かったし、これはキャバクラ通いにも同じことが言える。あらゆる体験は「書く」ことによって加工可能な状態でストックされるんだ。

離婚や失恋で「書く」ことが出来なくなった文筆業者がいるそうだが、そういう人は転職したほうがいいとさえ思ってしまう。……と偉そうに書いたところで、先日の『オトナアニメ』の僕の記事が誤字・脱字のオンパレードだったので、ちょっと気をひきしめないとね。

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2007年1月10日 (水)

■そのあたりのサジ加減■

オトナアニメ Vol.3 明日発売!
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●『ジャイアントロボ 地球の静止する日』
●『ブラックラグーン』
●『獣装機攻ダンクーガノヴァ』

それぞれレビュー執筆しました。『ジャイアントロボ』は、今川泰宏特集の一部ですね。最初は「名作と認められている作品を、改めて名作と書くのには抵抗がある」と編集さんに意見していたんだけど……結果的にどうなったかは、書店で確かめてみてください。

アニメ雑誌といえば、正月に読んだ押井守の『これが僕の回答である』に以下のような文章があった。「アニメもゲームもデジタルも、雑誌の基本的な姿勢が現場やメーカーや配給会社とまったく同じで「当たってほしい、売れてほしい」という方向性でやるから、新しい情報が生まれない。ジャーナリズムが業界に影響力を行使できない、業界に憎まれるような雑誌がない――そういう力が機能していない業界というのは、正常じゃないという気がする。悪口書かれ放題でもびくともしないというくらいの根拠をもたなければ、アニメもデジタルも幻想で終わる。「売れるアニメが出てくれば雑誌も売れる」――そういう慣れ合いは健全じゃない。」
逆を言えば、慣れ合ってさえいれば、雑誌は出来てしまう。以前にも書いたが、アニメ批評誌が長続きしないのは、版元から画像や資料を貸してもらえなくなるから。それは業界の構造的欠陥であると思う。たまに「DVDの告知さえ載せてくれれば内容は問わない」という有難い場合もあるが、それだってフェアとは言いがたいよね。
やり手の編集者を見ていると、99回はYESと言いつづけて、1回だけNOと言っている。相手が気がつかないぐらいの割合で、自分のやりたいことを押し通している。それが一番、賢いやり方なんだろう。
その名もスバリ『アニメ批評』は、そのあたりのサジ加減が下手だったね……。長続きしないのは構造的欠陥ばかりじゃないのだ。「好き放題に書くと、どうしても悪口になってしまう」という人は、そもそも精神的に問題があるだろう。
それより問題なのは、「自由に書くと、いつの間にか誉め殺しになってしまう」場合。そういうオーダーのもとに書くのなら話は別だが、コピペのような常套句を連発した絶賛文を自動的に書いてしまう人はけっこう多い。そういう人は極端に権威に弱かったりするので、やはり「慣れ合い」は個々人の心の問題なのだ。

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2007年1月 7日 (日)

■皿は洗ってあるか?■

正月に見た映画が立て続けに良作だったので、うっかり審美眼というか批判精神が消えうせてしまったのかと思ったが、そんなことはなかった。残虐で猟奇的でトラウマ必至と噂の『SAW 2』を見たからである。この映画には、かつてなかったほどの憎悪を感じた。
070108_03130001僕は、映画を見て「アタリだった」「ハズレだった」と言うことにはあまり意味を感じない。そういうことを言い合うのは、いわゆる映画ファンだろう(☆が五つ並べば最高得点とか、年間ベスト10を選ぶ人たち)。僕は「その映画が何を為したか」ということにしか興味がない。『SAW 2』は生理的に途方もない嫌悪感を催させるが、それ以上に罪なのはネガティブな想像力を(強制的に)観客に植えつけてしまうことだ。この映画は死を描くのではなく、死に付随した生存本能を面白半分に描く。観客は、その残虐なショーを楽しむ以外に、この映画を見続けるモチベーションを見出せないだろう。人間の想像力は、理性が否定する方向へも、しっかり膨らんでしまうのだ。まずは、そこに気をつけねばならない。僕がこの映画を最後まで見た、という事はどこかでこの残虐ショーを楽しんでいた、という動かぬ証拠だ。

猟奇殺人を売り物にした映画では、たいてい殺人者が独自の哲学を語る。『羊たちの沈黙』のレクター教授を思い出してもらえば分かるだろう。そうした人物を出すことで、どんな映画も一種の免罪符を得る。『SAW 2』も同様で、犯人のジグソウがもっともらしい犯罪動機を語るのだが、そこに説得力がない。主人公の刑事は、自分の息子が殺されかけているために必死になるが、そこにも説得力がない。どんな言い訳でもいいから、そこには異常殺人を正当化するに値する建前が必要だったのに、この映画の制作者は、それをサボった。ようするに、工夫をこらした残虐シーンを早く描きたいがために、よく考えずに走り出してしまったのだ。そこに激しい憎悪を感じる。対価をキッチリ払いさえすれば、何をどう描いていもいい。だが、この映画の作り手は、「やらずぶったくり」。最低のクズだ。
060904_03180001 これは、何も猟奇殺人やホラー映画のことだけを言っているのではない。単にまずいラーメンなら許せる。だが、どんぶりを洗わずにラーメンを出すなら、そんな店は潰れても構わない。ラーメンを出す以上は、まずどんぶりを洗え。その程度のことを言っているのだ。

ネットの映画評を見ていて驚いたのは、『SAW 2』に限らず、「私には分からないけど、この手のモノが好きな人にはオススメです」という書き方をしている人がいること。彼らも、汚れた皿を洗わずに腐った料理を出している。
文化は、まず豊かであるべき。この世に、生まれながらに「ダメ」なものなどない。それが僕の基本スタンスだ。「最悪」「駄作」などと簡単に言う人たちは、綺麗に洗われた皿の上の料理に文句をつけているだけだ。
また、清らかな友愛を謳うだけで世の中が豊かになるはずもなく、人の道から外れるようなネガティブな感情も豊かさのうち。清濁まじり合った状態を「豊か」というのだ。ただ、手抜き仕事だけは決して許してはいけない。逆を言えば、手抜きさえせず、誇りを持って為せば、どんな仕事も尊い。それが文化の「豊かさ」を形づくる。

つまるところ、『SAW 2』は手抜き仕事なうえに、食中毒を起こしそうなほど内容が酷い。どうしても見たければ、海賊版を違法コピーせよ。汚れた皿なぞ、無銭飲食で十分だ!

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2007年1月 6日 (土)

■80'sの逆襲■

小学校時代の友人二人と酒を飲みに行った以外は、ひとつも正月らしいことをせずに過ごした。
070104_18010001その友人たちと最後に観に行った映画は『オネアミスの翼』だったと思う。その当時、すでに彼らはバンドをやったりスポーツに熱中したり、あるいはファッションに金を使ったり、僕とは違って普通の大学生らしい暮らしを送っていた。僕はアニメからは少し遠のいていたが、服装は相変わらずで、彼らほど社交的ではなかった。
そうまで生活観が違っても、アニメが一応の共通の話題として出てくるのは、80年代に若者だった僕らの特権だろう。そして、アニメに疎い人間でも辛うじて同時代感覚を維持できた最後のアニメが『オネアミスの翼』だった。
80年代に10~20代だった人は幸せだ。『スター・ウォーズ』も『ガンダム』もリアルタイムで体験できた。何より景気が良かったから、好きなように暮らしていけた。内向的な人間には、「根暗」というレッテルと引き換えに市民権が与えられ、ちゃんと時代に救われていたと思う。80年代は、とても寛容な時代だった。

友人二人のうち一人は『トップをねらえ!』のタイトルすら知らなかった。もう一人は、エヴァ・ブームのときに観たという。言うまでもないが、『トップ~』は『オネアミス』の次にGAINAXがつくった88年の作品。ようするに、80年代の終わりとともに、アニメは同時代感覚を失い、ちょうど僕らも社会へ出て行く年齢になり、お互いにレールが逸れていったということだろう。後腐れなく、アニメを卒業できたわけだ。
070106_16250001それでも、あの時代に若かった者は、いつでもアニメやSFXにチャンネルを開くことが出来るんじゃないだろうか。そういう寛容さは、時代から手渡されているような気がする。
うまい具合に話題が繋がったので、あらためて。
←今夜、『メガゾーン23』のラジオドラマが放送開始!
これのために、新品のラジオを買ってしまったよ。AM放送なんて自宅で聞くのは、20年ぶりぐらいだろうか。
以前に開いていたサイト「メガ80's」は、業界の人がかなり見てくれていて、『メガゾーン』の版元さんもその例にもれない。完全に趣味でやっていたサイトなのに、こう繋がるか?という。80年代に若僧で、つくづく良かったと思うよ。

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2007年1月 3日 (水)

■Movie mode■

この二日ほど、昼間は仕事をして、夜~明け方までレンタルしてきた映画を観るモードに入っている。

何気なく手にとった『ロード・オブ・ドッグタウン』が思いのほか良かったので、同じキャサリン・ハードウィック監督の『サーティーン』をすぐ借りてきた。これもすこぶる良く、朝まで続けて二回観てしまう。
どちらも、粗暴ででたらめ、まあ簡単にいうと社会性に欠けた人間しか出てこない。カメラは、一見すると彼らに振り回されるかのようなルーズな動きしかしない。その素直さがいい。映画そのものがフラフラになってベッドに倒れこむ。映画そのものが、しきたりやプライドを捨て、感情に流される。「感情を説明する映画」ではなく、映画が「感情そのもの」になっている。だから、二回つづけて観ても疲れない。
いろいろな人に薦められた『ホテル・ルワンダ』も観たが、こちらは説明に終始している。しかし、映画の語り口に社会性があった方が支持を獲得しやすい。感情的な人間より、社会性の高い人間の方が安心して付き合える、というのと同じことだ。

昼過ぎ、一緒に王子バーに行ったヒプノセラピストの方とその友達である哈日杏子さんから電話があった。社会性のない生活を送っていたので、不意の電話に狼狽する。
200608091052001(←携帯のデータを整理したら出てきた写真。夏ごろ、キャバ嬢が送ってくれたもので、山梨に行ったときに撮ったものだと分かった。この頃は、日課のように何人かのキャバ嬢とメールばかりしていた。もちろん金があるからキャバに行けるわけで、それなりに仕事もしていたはずなのだが、とにかく、その頃はそういうモードだったのだろう。あの、嘘と優しさで塗り固めた夜の世界には、実人生にはない魅力がある)

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