■思考をショートカット■
また誤解を招いてしまったようだが、先日は「ファンの外に届くぐらいポピュラリティのあるカッコいいアニメ映像」について好みを語ったつもりだった。それを知ってか知らずか、映像業界の友人から勧められたのがコレ。『ネギま!?』のOP。これはヤバイでしょ。 こんなハイセンスなケータイのCMみたいな映像が夕方5時半からやってる(テレ東の場合)。「色」が売りであるはずの萌え系アニメなのに、(いやだからこそ!)「色」を抜いている。全編モノクロ。31人の美少女を「番号」で処理してしまう手加減のないクールさ。番号の書かれた紙で少女たちの顔が隠れてしまうカットなんて、番組内容を否定しかねない倒錯ぶり。しびれる!
アニメが文学的・映画的である必要なんか、どこにもないからね。映像は劇映画の文法から語られ(あるいは、せいぜいストーリーマンガ)、物語は文学性を重んじられ、脚本を軸に語られる。語ろうとするとたちまち既存の近似メディアによって区分けされかねないのがアニメだ。語れば最後、映像に触れたときのレアな感触が失われる、今こうして書いている瞬間にも! だから、もう語る必要なんかないんじゃないか?とさえ思う。
一番振り切った映像は玉石混交の萌え系から来た。今更ながら、『涼宮ハルヒの憂鬱』の第一話もそうですよ。全編、自主映画という設定のアレ。これは、実際に8ミリフィルムを回した人なら、笑い死ぬよ。こんな凝り方が許されるのも、ラノベ原作の萌え系だからだろうね。間違ってもアートじゃないから。人物の動き、それも素人俳優の不自然な動きにカメラが追いつかない。その自然発生的なアクシデントを「はじめに意図ありき」のアニメ演出で再現しようという「遊び」。実写で言うなら擬似ドキュメンタリーみたいなもんだよ。カメラワークに迷ったら空にティルトアップ (アニメ業界ではパンアップ)するとか、カメラマンの癖まで再現してるんだから、もう脱帽。 自主映画経験者、というニッチな層へ爆発的にアピールするわけ。だから何だ、と言われても説明つかないよね。こういうものを観ると、アニメは先鋭的なメディアだと痛感する。
「今のオタクって踊ったりするんでしょ? アニメの曲に合わせて」と、またキャバクラ話で恐縮だけど、そんな話はキャバ嬢ですら知っている。もう、目の前に映像がなくても自分たちで“場”をつくってしまう。しかも、語るんじゃなくて踊る。思考をショートカット。『ハレ晴レユカイ』で踊る踊る。そういう動物的・本能的に「遊ぶ」行為は、長いこと「語る」オタクよりも低位に置かれていた気がする。それが今や逆転したんじゃないだろうか?
お金を払ってでも、メイド喫茶でメイドとゲームをする。「そんな金と時間があったら、本の一冊も読め」とは俺は言わない。「語る」ことは時とともに熟成するのかも知れないが、「遊ぶ」ことに関して時間は待ってくれないのだ。
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