■けなす暇があったら、学ぶ■
意外と、見もしないで「ああ、お涙頂戴のクソ映画だろ?」と切り捨ててる人も多いんじゃないの? かくいう俺もそうだった。どうして今日というタイミングで、この作品を手に取ったのかはわからない。
ただ、TSUTAYAでDVDの棚を見ているうち、思い出したことがある。物語をつくるということは、つまり自分が体感してきた世界を再構築することである。ひとつの作品というのは一人の人間が何十年か見てきた世界と同じだけの質量を持っている。そうした質量を感じられないとしたら、テクニックが足りなかったり、メソッドが間違っているというだけのことだ。逆を言うなら、世界を“つくり直す”ためには、膨大な技術やセンスを動員せねばならないのだ。だから、いかなる作品もなめてかかってはならない。
映画を見るとき、われわれは暗闇に座る。自室で鑑賞するにしても、私語厳禁でモニターの前でジッとしていなくてはならない。これは、眠りというより死に近い状態ではないだろうか。つまり、われわれは彼岸、あの世から映画を見ている。「この映画のキャスティングは…」「脚本のレベルは…」という文句しか出てこない人は、此岸つまり現世からしか映画を見れてない。
なぜ映画を観るシチュエーションが、かくも儀式的なのか考えてみなさい。
で、セカチューは心地よい重みを持った映画でした。あと、長澤まさみ↓とは20歳の年の差を越えて付き合いたい。
つまりさ、生身の人間のある一時期、その俳優の人生観・恋愛観・死生観をも切り取って材料にしてしまうのが映画ってもんでしょ? フィルムに残せば、それを100年後にも観ることが出来るわけだよね。で、100年後にも長澤まさみと付き合いたい人間は出てくるだろ。やっぱり、映画というのはこの世のものじゃない。
で、セカチューと長澤まさみは、まんまとあの世を描いてみせたと思うのです。
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