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2006年7月29日 (土)

■15 hours to the Future■

060728_04160001どうにも色っぽく撮れてしまったのだが、これは朝4時のラーメン屋である。あのね、そんな時間からラーメン食べてる場合じゃないんです。
この写真の4時間前、「30個集めると素敵なことが起きるスタンプカード」をもらって王子バーから送り出されたのだから。「素敵なことって何?」「それはそれは、素敵なことです」 ううむ。このカードは僕の掟破りを封じるための切り札なのかも知れない。
くだんの王子は虚構とうつつのあわいにたたずみ、その言葉でもって、その瞳でもって、僕の何かを確実に木っ端微塵にしていった。僕と王子を隔てるカウンターは、硬く冷たい。遠くて高い。

その2時間前。カラオケ屋でアニメ評論家のF津さんと対談収録。F津さんに言わせると、現在の僕は「廣田Ver.2.0」。つくることとは、壊すこと。だとしたら、「廣田Ver.2.0」は壊れながら生成されている。

その15時間後。北欧からのお客さんにサインをプレゼントするK森監督。060728_17070001シナリオライターの佐藤Dさんが見えたあたりで、僕はようやく自分の巣へ戻り、一週間の禁酒を誓った。飲んでる場合じゃ、ないのです。

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2006年7月26日 (水)

■過去も未来も星座も越えるから■

よく映画のことを話しているのに、「○○監督は…」と作品と監督名がゴッチャになっちゃう場合があって、それはつまり映画を人格化して見ちゃってるんだろうね。映画にも性別ってのはあるだろうし。
俺は、 『時をかける少女』みたいな人と付き合いたいなぁ~060725_18450001

(←劇場に「絵コンテ」と称して原画が貼ってあったんすけど)

ぶっきらぼうかと思ったら意外に内省的で、計算高いくせに情熱的で、さよならと手を振ったのになかなか帰ろうとしない寂しがり屋で……前向きなんだけど、挫折も知っているんだ。今度の『時かけ』は。
思えば、23年前にも『時かけ』に恋したんだよな。あの時も『時かけ』以外のことが何も考えられなくなった。だいたい、泣くほど恋したことなんてこの20年なかったよね。女にフラれても一晩で回復するよう訓練できたけど、それは間違ってた。

で、今回の『時かけ』に恋したせいか、一緒に観に行った女の子に「もう二度と会うことはあるまい」と言ってしまったよ。だってお前、『時かけ』みたいな素晴らしいプレゼントをもらったんだから、もう俺なんか必要ないだろって。
いい作品を見ると、「フリダシに戻る」って気分になるね。

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2006年7月24日 (月)

■荒地は耕すべき■

「フィギュア王」 102号 僕の書いた記事のみ列挙します。
103
●富野由悠季のオーラちから VOL.1
富野監督を「御大」とか呼んで無闇に神格化する連中はキモチワルイ。でも、ちょっとでもホビーとかフィギュアに金を使っている(というか踊らされている)人たちは必ず読むべし。

●BRICK KINGDOM Vol.6 SPECIAL
河森正治作“VAN-FORCE”の新作公開。全部で8ページもの特集なんだけど、表紙が東映ヒーローの雑誌で、果たして何人が「レゴ製のオリジナル・メカ」に注目してくれるんだろうか。

●VARIABLE RIDE
今回は『アーマード・コア』。いわゆる河森ファンですら読んでいるのかどうか、これも不安なページであります。

●ピュグマリオンの小部屋
「恋月姫、生と死のあわい、その彼方」と題して恋月姫さんにインタビュー。

●Toy's NEW ARRIVAL
ゼーガペインのプラモデルは、本当はこうやって遊ぶんだぜ。

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さて、こうやってオモチャとかアニメ周辺で書かせてもらっているわけだが、いつもいつも「お前ら、本気でオモチャとかアニメ好きじゃないだろ?」と上目づかいで書いている。「お前ら」ってのは、まあ色んな人たちのことだけど、本心では、みんな「こんなハズじゃなかった、右肩上がりで面白くなるはずだった」って思ってない? 俺は何でも地面に叩き落として「これもダメ、あれもダメ」っていう奴がキライなんだけど、批判精神のない奴はもっとキライなんだ。建設的な思考の出来ない奴は、さらに輪をかけてキライなんだよ。

乱暴にオタク文化、とくくってしまうけどもうカウンター・カルチャーじゃないよね。そのくせ、この手の雑誌の表紙はいつまでたってもダサイよね? そのダサさだけが際立って残っているんだ。で、いまだにダサいくせに市場だけがデカイからテレビ局のネタにされるんでしょうが。ダサいものには金を使わない、まずはそれを学ぼうよ。

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2006年7月23日 (日)

■Use the Force!■

原稿を書きおえた午前4時半、雨が降りはじめる。
飯島真理さんのファーストアルバムを聞きながら、先日のライブのレポートを書きおえた。「実はこの前、20歳も年下の男の子とデートしちゃいました」と告白する真理さんはセクシーだった。「どのくらい若いかっていうとね……彼はスケボーに乗って待ち合わせ場所に来たの」。一瞬、俺もスケボー始めようかと思った。
……と、こんなことを書いていたらロサンゼルスの真理さんご本人からメールが来た。僕が記事を書きおえてから、きっかり4分後である。
060717_21320001これは何かの瑞兆である、と僕は考える。

僕は真理さんとデートできるほど若くはないが、真理さんの「声」を聞きながら真理さんのことを「書く」ことで何らか有機的な関係が一瞬生じ、真理さんを「呼んだ」んじゃないだろうか。
ほら、中学生ぐらいのころ、女の子はよくおまじないというのをやるじゃないか。僕もかつてはそういう世界観を持っていたのに、大した理由もなく(おそらく諦めや失望によって)あっさり捨ててしまったのだな。まあ、それで大人になった気でいたんだろうけどさ。
「歌」というのも、まじないの最たるものだ。で、真理さんは歌を捨ててないよね。

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2006年7月20日 (木)

■真夜中の王子■

EX大衆 7月号
Ex7
●工場見学フリークス
「ガンプラ製造工場に潜入せよ!」

バンダイホビーセンターの取材記事、構成執筆。バンダイという会社は多様性を重要視しているので取材のたびに面白い。

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昨夜は、ある大手出版社の編集女史のお誘いで、台湾人の女性ライター(というか漫画も描けば写真も撮る)と台湾マニア?のヒプノセラピストの男性と例のコスプレ飲み屋へ行きました。オープン初日、あれだけ批判しておきながらもうダメかも。俺は。
060720_13060001 だって、3階の王子カフェでスタンプ始めてしまったもの(お気に入りの“王子”コスプレをした女の子にカクテルをつくってもらうたびにスタンプがひとつ押されるのだ。ああ、くだらん。しかし、このくだらなさとくだんの“王子”の美貌との間には何ら関連がないように思う。親指で隠してあるところには、実はくだんの“王子”のプリクラが貼ってある)。
それでさ。考えたよ、俺は。この宛てがいぶちのゲームに参加したことの意味を。とりあえず、キミは“王子”のバイトやめなさい。その脚ならジーンズの方が似合うでしょうに。そんなことを言うためには、ゲームのルールをいつかどこかで破らなければならないのよ。禁忌を犯さねばならんのよ。そして、「よし、ルールを破ろう」と決めた瞬間、なにかこう、もいではならない果物に触れた感じがした。俺は、その感触が欲しかったんだ。

古びた感情を卒業し、全く新しい心の使い方をじっくり学ぼう。そんなことを思いながら、朝まで一人で飲んだ。

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2006年7月14日 (金)

■古い夢は置いて行くがいい■

060713_03210001月曜日の飯島真理さんのライブ以降、ものすごい勢いで夜遊びモードに入ってしまい、連日朝帰り→夕方まで就寝→風呂に入って出かける。あるカメラマン氏はこんな俺を「月下の人」と呼ぶ。

それで、昨日は吉祥寺で約束があって。そろそろ出ようかな、と思った矢先、待ち合わせしている相手から「私って、つくづく雨女なんですね…」とメールが届く。「?」と思って窓を開けると、どしゃ降りで。彼女は、雨が降ってしまったのを自分のせいだと思っているわけ。本人は傘もなくて、駅まで濡れながら歩いているってのに。
でさ。カウンターに座ってタコの刺身なんかを注文していると、「これ使ってね」とビー玉をあしらった小洒落た器をくれた。俺が茶碗でヨーグルトを食べている、と話したのを覚えていたわけよ。泥酔しながら割らずに持って帰るのに一苦労。
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で、考えた。雨と彼女は、おそらく本当に特別な関係にあり、これからも雨に降られつづけるであろう。自然と人とは、しばしばそのような関係を持つのではないかと。別の言い方をするなら、彼女の方が雨を操っているともいえるわけ。
魔法という発想の原点には、古い暮らしの中での体験や感覚が息づいているように思える。魔法というのは本の中にあるんじゃなくて、空気や肌の中にある。

それと、彼女のくれた器。これを見つけたのは俺ではないが、俺に手渡された瞬間に「俺の所有物」になるんだろうか? そうではなく、俺が割れないように大事に抱えている間に、何かがゆっくりと器に染み込んでいくんじゃないだろうか。
060714_17370001使ってみると、付属していたスプーンの細さに唖然としたのだが、そんなことにビックリしたりといった“物とのやりとり”を繰り返していく過程、時間が「他人の物が俺の物になる」という出来事なんじゃないか。

俺は他人(女性限定)に物をくれてやるのが好きなのだが、それは相手が人生の進路上に予想しなかった感覚やプロセス、時間をプレゼントしているわけ。
だから、引き換えに何かよこせ、とか、まして「返せ」なんていうのは言語道断。だって、魔法をかけているんだからさ。

こういう解釈を楽しめないと、損得でしか人生を考えられなくなる。みんな、魔法使いを目指せ!

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2006年7月11日 (火)

■De culture!■

渋谷クラブ・クアトロ。いきなり、楽屋入りしたばかりの飯島真理さんから握手を求められた。プライベートで招待されたのに、いつの間にか「取材」になっていたからでもある。しかし、まさかミンメイと握手する日が、我が人生に来ようとは! やはり旅は続いている!
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ライブ開始後、せいいっぱい「プライベート」であることを実感するため、ターキーの水割りを頼んだ。
サウンドチェック前のインタビューの影響もあったのだと思うが、真理さんの歌声と聴衆の手拍子を聞いているうちに、ありありと「歌の役割」というものが分かってきた。映画とは正反対に、歌は聴衆に「生」を求める。
僕は、精一杯に床を踏み鳴らし、“真理さんのいる次元”へ一体化をはかった。
物騒な言い方をすると、音楽は聴衆という生け贄を必要とする表現形式なのかも知れない。例えば、カラオケというハードは、肉声というソフトがあって初めて成立する。

あらゆる表現は、生と死のあわいを繋ぎとめる秘められた鍵であり、それを探し当てた者がクリエイターと呼ばれるのではないだろうか。

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2006年7月 9日 (日)

■Work■

「シネコンウォーカー」 7月号
Cinecon
●『ゲド戦記』 宮崎吾郎監督インタビュー
吾郎監督とは、『千と千尋』のムックでジブリ美術館の館長としてインタビューして以来。カメラマンさん(女性)が「男前ですねぇ」を連発。

●日米アニメスタジオ解説
マッドハウスが入っているのは『時かけ』があるからですね。

この冊子は、角川メディアハウス発行で、シネプレックス系で配布されているそうです。今号はアニメ特集。40万部発行なので、アニメ誌より部数はすごいですね。

「ノエイン もうひとりの君へ」 第7巻
Dvd_07
●ブックレット構成
いずれ、公式ブログで書かれると思いますが、今回は映像特典がスゴイです。
アニメの原画というのは、手描きなのにデジタル的。実にフェティッシュ。この作品(商品)ではその魅力を優先して、自分の主張を文章で書くことを避けました。で、残り一巻。

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原稿に追われている。しかし、追ってくる者を追いつめることで、ゲドは優位に立った(原作の話)。
060709_00020001_1  原稿を追いつめることも可能だ。昼寝をしたり、酒を飲んだり。前の俺だったら、ネットゲームにハマっていたかも知れない。逃避の方法だけは、いやというほど揃っているのだ。しかし、それだけではプレッシャーの大きい仕事には勝てない。

「ちょっと待った」
「なーに?」
060624_00470001「もう酒はいい。水をくれ」
「あなたのお酒なのに飲まないの?」
「ああ。俺の酒だから飲まないのさ」

酒も仕事も主体性がないといかんな。

今は仕事に飲まれている気がする。

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2006年7月 6日 (木)

■けなす暇があったら、学ぶ■

意外と、見もしないで「ああ、お涙頂戴のクソ映画だろ?」と切り捨ててる人も多いんじゃないの? かくいう俺もそうだった。どうして今日というタイミングで、この作品を手に取ったのかはわからない。
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ただ、TSUTAYAでDVDの棚を見ているうち、思い出したことがある。物語をつくるということは、つまり自分が体感してきた世界を再構築することである。ひとつの作品というのは一人の人間が何十年か見てきた世界と同じだけの質量を持っている。そうした質量を感じられないとしたら、テクニックが足りなかったり、メソッドが間違っているというだけのことだ。逆を言うなら、世界を“つくり直す”ためには、膨大な技術やセンスを動員せねばならないのだ。だから、いかなる作品もなめてかかってはならない

映画を見るとき、われわれは暗闇に座る。自室で鑑賞するにしても、私語厳禁でモニターの前でジッとしていなくてはならない。これは、眠りというより死に近い状態ではないだろうか。つまり、われわれは彼岸、あの世から映画を見ている。「この映画のキャスティングは…」「脚本のレベルは…」という文句しか出てこない人は、此岸つまり現世からしか映画を見れてない。
なぜ映画を観るシチュエーションが、かくも儀式的なのか考えてみなさい。

で、セカチューは心地よい重みを持った映画でした。あと、長澤まさみ↓とは20歳の年の差を越えて付き合いたい。Masami002wq
つまりさ、生身の人間のある一時期、その俳優の人生観・恋愛観・死生観をも切り取って材料にしてしまうのが映画ってもんでしょ? フィルムに残せば、それを100年後にも観ることが出来るわけだよね。で、100年後にも長澤まさみと付き合いたい人間は出てくるだろ。やっぱり、映画というのはこの世のものじゃない。
で、セカチューと長澤まさみは、まんまとあの世を描いてみせたと思うのです。

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2006年7月 3日 (月)

■対価を払う■

マスコミ試写会に行ってきました。脅かされていたほど混んではいなかったかな。
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ここで具体的な感想を書くわけにはいかないので、原作小説の中から気に入っているセリフのひとつを引用します。

「魔法は楽しみや賞賛目当ての遊びではない。いいか、ようく考えるんだ。わしらが言うこと為すこと、それは必ずや正か邪か、いずれかの結果を生まずにはおかん。ものを言うたり、したりする前には、それが払う対価をまえもって知っておくのだ!」
(念のために言っておくと、このセリフは映画には出てきません)

ものづくりをする人間が作品を発表したとき、「いずれかの結果」を前もって想定しているのは当然のことです。ただ、映画を観る側にも、どんな結果も受け取る覚悟が必要であると考えます。

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