コーヒーがふたつ運ばれてきた。僕のはホット。彼女のはアイス。僕はウェイトレスが彼女の前に置いたガムシロップの容器を無言で手に取ると、手がべとべとになるのも構わず自分のコーヒーカップの中に注ぎこみ、細長い袋に入った砂糖もすっかりカップの中にぶち込み、乱暴にスプーンでかき回した。
「大嫌いなんだ、コーヒーが」
「あなたは、子供のようだよ」
彼女は表情をかえずに繰り返した。「あなたは、子供みたい」
僕は自分の行為について考えた。どうして喫茶店に入ると好きでもないコーヒーを頼んじまうんだろう? それはきっと習慣だ。喫茶店にはいつも仕事で人と会うときに入る。だから、社交辞令だな。コーヒーを頼むというのは。今は仕事でもないのに習慣でコーヒーを頼んでしまった。そのことに苛立っていたのだ、僕は。その気持ちを彼女に伝えようかと思ったが、片言の日本語しか話せない彼女に理解できるとは思えなかった。僕らは無言を、沈黙を飲み干すため、こうして何時間も向かい合う。ただそれだけの関係だった。
「ねえ。日本語でオオカミという字は?」
不意に彼女が尋ねる。紙ナプキンとボールペンを僕の目の前に差し出す。さあ、今から手品を見せてよ。そんな雰囲気だ。
「これ。これで、オオカミと読む」
僕は「狼」と書いたナプキンを彼女に差し出す。彼女は首をひねっている。キツネにつままれたように何度も首をひねっている。「狐」とさらに書き加えた。
「キツネ」
「ああ、キツネは分かるよ。日本にオオカミいる?」
どうだっけ。剥製なら見たような気がする。
「ニホンオオカミというのがいたけど、今は絶滅した」
「ぜつめつって?」
「滅んだ。一匹もいなくなった」
彼女が紙ナプキンを差し出す。僕は「絶滅」、その下に「zetsumetsu」と書いた。ふうん、と彼女はうなずく。たまに饒舌になったかと思えば、こんな話ばかりだ。きっと彼女にとって沈黙も饒舌も関係ないのだろうと僕は思った。家族もない。自分の国に帰るつもりもない。将来の夢もない。「だったら、せめて僕を上海に連れてってくれないか? 旅費は出すから、案内してくれよ」 会ったばかりの頃、そう頼んだことがある。「今年は無理だから来年ね」 彼女にとっては今年も来年も変わりがないのだろう。
「ねえ、ぜつめつの反対は何?」
「はんえい」
僕は答えると同時に、ナプキンに「繁栄」と書いた。今の僕らにもっとも関係のない言葉だ。まるで外国語だ。そんな投げやりな僕の字を見て、彼女は「ああ」と声をあげた。
「この言葉なら、知ってるよ」
「ふぅん。きみの国にも繁栄はあるのかい?」
彼女は黙ったまま漢字でいっぱいの紙ナプキンを驚くほど丁寧にたたむと、革の財布にしまって、それから勝ち誇ったようにうなずいた。