■思い出はどこにしまう?■
『千と千尋』の完成前に宮崎吾郎館長(当時)やロボット兵を作った鯱丸さんに取材して以来、そのまんまだったジブリ美術館。ようやく行く機会が来た。
『水グモもんもん』にはホロリときた。こういうのこそ、映画館でやればいいじゃないの。
ただ、ここに来た今日の日の思い出というのは、結局美術館の外にあるんだよ。建物の中では決して完結しない。
インパクトとか感動というものは、もっとアクシデントであったり、偶発性の中にあるんだと思う。みんな、それを操作しようとしすぎだよ。
いや、すごい贅沢を平気で言ってるとは思うけど。ここまでの施設を目の前にして。
帰りは吉祥寺まで歩き、PARCOでシャツを一本買った。帰ってきてから試着したら、一番下のボタンが取れてしまった。やれやれ。
つまるところ、こういう「思い通りにいかねぇなあ」というつまらん部分が、いつの日にかの大きな感動の下地として蓄積されていくんじゃないか。
人生って密度だから、たくさんレイヤーを重ねたほうがいいんだと改めて思った。
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コメント
廣田さま こんにちは。
>人生って密度だから
一度きりの人生だからという言葉は、長いこと使い方が誤解されていて、もはや好きではありません。けれども本来は、こういう意味だったはずなのになァ、なんて思いました。
人生って、いろんなところが、でっぱったり、引っ込んだりして、思ったのとは違うカタチに積み重なっていくオブジェのよう。
最後の最後で、出来上がった造形物をみて「うんうん」とうなずきつつ、一等好きなモノをのっけて、完成!みたいな・・・。
多分にハチクロの「彼」のイメージですわ、きっと。
投稿: TAKA | 2006年3月 8日 (水) 12時42分
■TAKA様
すみません、レスが遅くなりまして。
仕事が立て込んでいるという意味で「密度のある日々」を過ごしています。
でも、たいていの人は密度ではなく「十年来の親友」だとか「学生時代からの付き合い」だとか、過去の時間軸を人生の尺度にするようです。
時間というのは、決して均一に流れているわけではないのにね。濃密な一日、凝縮された一瞬というのは必ずあるのに。
>多分にハチクロの「彼」のイメージですわ、きっと。
僕は最近、真山の気持ちを理解したいですねー。
投稿: 廣田 | 2006年3月10日 (金) 19時38分
廣田さま おはようございます。
>濃密な一日、凝縮された一瞬
それは懸命に生きていることの証明です。
過去の時間軸に重心が行くのは、多分それがラクだし、周囲もなんとなく納得してくれるしからなんでしょうな。
友人はもちろん大事にせねばなりませぬ。
しかしながら、その旧友だって時間が流れれば、ちゃんと変化するのだから、それを忘れないようにしよう、と思います。
「ひとはかわってゆくのね。わたし(たち)とおなじように。」
>真山の気持ちを理解したいですね
おとこのこのエゴというか、永遠の願望ですね。
よかった。
後日の日テレのお話と合わせて、やっぱりきれいなおんなのこに目が行くのは、時間が健全に流れているからですよ。きっと(笑。
投稿: TAKA | 2006年3月11日 (土) 08時06分
■TAKA様
真山というのは、自分のしていることに対して、ちゃんと対価を払っているところが好きですね。
伊達に山田をフッてないですよ(笑)。
投稿: 廣田 | 2006年3月12日 (日) 17時30分