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2006年2月19日 (日)

「夜」

 名字は平凡だったのか聞いたそばから忘れてしまったが、確か名前は「さえ」といった。「え」は「絵」と書くのだと教えられたので覚えていたのだろう。

 くるくると巻き毛で、美人だが目立たない顔をしていた。声も小さく、聞かれた事だけを丁寧に答えた。

 その夜は電車がなくなるまで飲み、彼女は歩いて自分の家に帰った。私は行くあてもなく暗い住宅街をさまよった。途中、忘年会か何かの一団に出くわした。彼らのふざけようが幼稚に過ぎたので、喧嘩でもしかけようと思ったが、私の足は何となく駅に向かった。

 途中の公衆電話から女友達に電話した。酩酊していたので、よく覚えていないが「さえ」の魅力を熱っぽく語ったようだった。電話の相手は「でも、彼女とは多分もう会えないよ」と妙な確信を込めて言った。何かゾッとした私は、その言葉を打ち消すように力強くアスファルトを歩き続けた。夜の街を歩くのは慣れていたので寂しくはなかった。

 そうすると、いつの間にか「さえ」が隣を歩いていた。なぜ彼女が私を追って来たのかは聞きそびれた。私たちは細かく入りくんだ路地を黙って歩いた。暗闇の待つ狭い階段を先に立って上る彼女の後ろ姿をよく覚えている。

 その界隈は、どこか本郷あたりを思わせるものだった。「今度、下町に散歩に行かないか?」と私は誘ってみたくなった。その時「多分もう会えない」という言葉が浮かんだので、私は黙ったぎり「また次の機会に誘えるさ」と根拠もなく言い聞かせて不安を打ち消した。

 駅に近づくと、いくらか明るかった。24時間営業のコーヒーショップがあったので、私たちはコーヒーを立ち飲みしながら、静かに話をした。そこで初めて、彼女が創作人形のモデルをしている事を知った。人形作りなら以前の私の生業だったので、少し嬉しくなって「どんな画材で色を塗るのだろう?」と聞いた。彼女はバッグから箱入りのパステルを取り出した。妙に粉っぽいので「本当にこれで塗れるのかい?」と私は問い直した。彼女は困惑した様に「先生方はこれを使ってらっしゃるから……」と曖昧な笑みで答えた。

 会話の途中で、私は急に「さえ」と会えなくなる事の意味がありありと分かった。それは余りに明らかで絶望的だったので涙が溢れた。無駄だと知りつつも、私は彼女の名前を二度ばかり呼んだ。

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以上の夢の場合、最後の最後で「ああ、これは夢なのだ」と気がついたところ、そして実在の女友達と夢の中から電話で話せたこと(マトリックスかよ……)が画期的である。
ところで、以上のようなシチュエーションを僕は人生の中で数限りなく体験しているのだが、女にフラれて始発電車まで夜の街をさまよったことのない男など、童貞と同義である。
孤独で惨めで泥まみれの朝を知らない男は、本当の勇気を手に入れることは出来ない。
しょせん、導いてくれる精霊は夢の中にしか現れない。二日酔いに耐えながら毎日を有意義に生きるのだ!(と、自分を元気づけてみたり)

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