清掃のバイトは楽だった。ビルが大きすぎて監視が行き届かないため、サボり放題だったからだ。夕方、屋外に出るとチケット屋だとかクレープを売る店だとかが賑わっている。その界隈を通り抜けて広いバルコニーから刻々と暮れていく夕空を眺めるのが、日々の贅沢だった。何より、都心から隔絶された埋め立て地のアミューズメント・ビルというのが、孤独癖のある私にとっては奇妙にロマンチックに感じられたのだ。
ビルは不思議な構造をしていた。貝殻の様に螺旋を描いているので、我々はよく道に迷った。仕事が深夜に及ぶと電源も落とされ、「昔、ここは墓場だったらしい」という常套的なおびやかしが笑いを誘った。デッキブラシ片手に「昔、ここは刑場だった」と唱えれば笑いが噴き出し、たとえ一晩の間ビルから出られなくても、同僚と愉快に過ごせた。
仕事を終え、地階に通じるエレベータへ乗った。時刻は0時近かった。エレベータの扉は透明で、地下に着いた瞬間、もぞもぞと動く彼女の姿が見えた。厚手のカーディガンを着ていた。もう、そんな季節だったのだ。
「迷ってしまって……潮留駅まで着ければいいんですけど」
おそらく何時間も地階をさまよったのだろう、彼女の目は赤く腫れて、短い髪はかきむしったように乱れていた。右手には、デッキブラシ。新入りのバイトだと私は看破した。
「大丈夫。外に出るにはコツがあるんだよ」
私は、エレベータを降り、狭い物置から通路に出た。一般の客は立ち入らない近道だ。ウォーターフロントのビルには似つかわしくない古い真鍮製のドアノブを回す。その時だ。「これは変じゃないか?」と私は思った。こんな時間に女性清掃員が残っているなんて。ローテーションで深夜に女性のバイトは入れないようになっているはず。しかも、清掃員は二人コンビが原則なのだ。好んで居残っていた私ならともかく、こんな時間に女一人とは、いかにも不自然に思えた。
「昔、ここは墓場だった」
例の常套句が浮かび、よもやと彼女の横顔を見た。血色はよくない。だが、瞳は澄んでいる。そして、見るのがつらいぐらいに疲れていた。
思い出しても不思議なのだが、私は全く迷うことなく扉を開け階段を上り、広いガラス窓の玄関まで彼女を導くことができた。のみならず「階段が長すぎると思ったら引き返すこと。地階から一階へ出るには、昇りばかりとは限らない」と、彼女にヒントを与えたりもした。この複雑なビルの構造をある程度まで把握していたとはいえ、多分、私は妙に張り切っていたのに違いない。
途中の物置にデッキブラシを置くように言うと、彼女は躊躇した。
「これ、別のフロアから持って来ちゃったやつなので……」
「いいんだよ、誰にも分かりはしないから」
柱のかげに、そっと隠すようにデッキブラシを置いて戻ってくると、彼女は初めて小さく笑った。
ガラスに仕切られた表玄関の外は、広い公園の先にモノレールの駅があるだけだった。ここまで来れば、迷うことはないだろう。暗い芝生のあちこちに、街灯もある。
「あの、出来れば潮留駅まで……」
送って欲しいという意味だったのだろうが、「駅はあっちだから」、そんな調子に答えて、私は彼女と別れた。しかし、とてもモノレールのある時間ではない。私はビルに帰って仮眠したが、彼女は灯の消えた駅に向かって、一人で公園を歩いて行ったのだろう。あの疲れた目で道を確かめながら。
私は、彼女と二度と出会う事もないまま、清掃のバイトをやめた。やめた後もしばらく、時々そのビルへ来ては、バルコニーから夕日を眺めた。すぐそこのチケット・ショップで、手に入れたい上映会の券が売れ残っているのを知っていたが、いつも買いそびれて手ぶらで帰った。
------------------------------------------------------
この文章を掘り起こして思い出したのだが、大学の頃にちょっだけ深夜清掃のバイトをしていたことがあった。ただひたすら無意味だったあんな体験を、いちいち覚えている脳というのは偉い。
この文章を書いたのはかなり昔のことだが、今になってちょこちょこ手を加えるのは楽しい。くすぐったい感じがたまらん。