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年末年始に『赤毛のアン』を見たのに続き、一週間ほどかけて『母をたずねて三千里』、全52話を見た。
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過去、藤津亮太さんと対談連載をやっている頃、彼が「アメデオ」とか「フィオリーナ」とか当たり前のように比喩に使うので、その度にあわてて本編を見て確認する……という体たらくであった。全話ぶっ通しで見られる視聴環境が整って、感謝するしかない。
高畑勲さんの本を読んだら、この作品については「ネオレアリズモ」と書かれていて、『~三千里』がなければ、テレビアニメはネオレアリズモには1ミリも近づけなかったのではないかと思う。よほど重宝がられたのか、富野由悠季さんが最終回をふくむ多くの絵コンテを担当している。
「しかし」と言うべきか、「だから」と言うべきか、『ガンダム』の前に『~三千里』ありなのだ。この作品の後の高畑作品『赤毛のアン』が、ややファンタジックなデザートのような甘ったるい作風だったことも、とても納得がいく。それぐらい『~三千里』は重たく、強い必然性に支えられ、また冷徹なリアリズムに縛られてもいる。


いくつも、驚かされたシーンがある。
内気なフィオリーナがマルコに励まされ、路地で人形を躍らせると、通りすがりの人たちが喜んでくれる。フィオリーナは「まあ、嬉しい」なんて顔はしない。ただ、驚きのまま呆気にとられた表情で静止する。そのストイックな表現に、胸を打たれた。
一枚絵で静止したフィオリーナの顔。歌に合わせて踊る、命のないはずの人形。「止め」と「動き」。アニメーションという表現の機能が、むき出しになっているように感じた。
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あいるはまた、ブエノスアイレスまで来たマルコが、ペッピーノ一座と再会するシーン。マルコは疲労困憊して、公園のベンチで寝てしまう。その直前、彼は公園にいた子供たちに話しかけるのだが、子供たちは一言も発せず、マルコを怪しんだ様子で立ち去ってしまう。
つまり、マルコにとって世界は無慈悲で、彼は世界との結びつきを失ってしまう。彼が眠る前に見る公園。そのワンショットは、望遠レンズで、公園を平板にとらえている。横に並んだ木々の間を、子供たちが走っている。その向こうには道路があるのだろう、馬車が横切る。それはいわば、美しくもなければ楽しくもない、完全な無関心に封じこめられたショットだ。

僕の知っているアニメ番組は、とりあえず華やかに、楽しく、面白く脚色するものであった。
このショットは、正反対だ。マルコは世界に見放されている。話しかけた子供たちは走り去ってしまった。無味乾燥とした、味気ない絵が必要だ。大袈裟に泣かせる絵なんかではなく、何の感情も誘わないワンショット。それがリアリズムなのだと思う。絵を何枚も重ねて、さらに色を塗っていくアニメーションにとって、「無感情の絵」が、いかに難しい課題であったことか。
(そのショットの直後、ベンチで眠っているマルコの顔の近くに、小鳥がとまる。それは、フィオリーナがマルコの元へ近づいてくる予感のような演出だ。小鳥が幸せを運んでくる――その瞬間、僕の知っているアニメーションが、ポンと画面に戻ってくる)


ちょうど『~三千里』放送と時期が重なる頃なのだが、祖父の弟さんが家に泊まりに来たことがあった。
「君もこっちへ来て、漫画を見なさい」と、おじさんは僕を呼んだ。応接間のテレビには、『ドン・チャック物語』が映されていた。この番組がどれほど幼稚なものか、当時の僕にはよく分かっていた。あれは、恥ずかしい体験だった。とにかく彩度の高い色で塗り、目を大きく描いて、なるべく派手に、大袈裟に……それが、テレビアニメの常識だった。高畑勲さんは、反逆を企てたのだ。
それはテレビアニメ番組のヌーヴェル・ヴァーグであり、ヌーヴェル・ヴァーグの着火点となったネオレアリズモだった。


マルコやフィオリーナ、視聴者が応援したくなるキャラクターは、もちろん可愛らしいキャラクターデザインだ。永井一郎さんの演じる、ときにはマルコの不幸な境遇を利用して金稼ぎしようと企む、しかし憎みきれないペッピーノの親父さんですら「可愛い」デザインだ。視聴者へ「この人は善人なので、応援していいですよ」と目配せしているのだ。脚本レベルで、どれだけ複雑な人物に描かれようと、絵によってキャンセルされる部分がある。
キャラクターデザイン、それに朗々と感情に訴える哀切な音楽が、このアニメの安心材料といえるだろう。だが、自分の境遇をペッピーノ一座の出し物にされたときの、マルコの無表情を忘れることができない。マルコの旅そのものを劇中劇にするアイデア自体、悪趣味と言えるものだ。フィオリーナが「私、もうやりたくない」と拒絶するので、視聴者は自分の感覚の正しさに、ホッと胸をなでおろす。

しかし、不幸をダシにしたり見世物にしたりするほど人間はしたたかでずる賢いと、何十年か生きてきた人間なら気づいてしまう。
物語の終盤、イタリア人だけが集まる食堂で、マルコのためにカンパが集められる。遠くアルゼンチンまで働きに来ている酔っ払いたちは愛国心にかられて、肩を組んで歌いだす。僕は、このシーンで涙を流したが、彼らは文字通り酔っているだけではないか、素面に返った途端、マルコにあげた金が惜しくなるのではないか? 頭の片方で、その可能性を捨てきれないでいた。そのような得体の知れない曖昧さを、この作品は喚起する。何より、そのスケール感に圧倒される。
涙など、つくづく当てにならないものだ。

そう言えば、完璧な無表情で、人間には食べられない豆をパクパクと食べる白い猿、アメデオ。
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僕はアメデオが次に何をするか楽しみで仕方なかったが、あの表情のなさ、冷たい雪の中でもマルコと一緒にいるのに、どこか別世界で生きているような不気味さが、あのマスコット・キャラクターの魅力なのだろう(マルコが腹を空かせていても、アメデオはマルコに豆を分けたりはしない。そんな擬人化された分かりやすいキャラクターではないのだ。アメデオの先読みできない行動だけは、いつでも説得力があって、信用できた)。


最近見た映画は、ゴダール『軽蔑』(二回目)、ジャームッシュ『パーマネントバケーション』、ルイ・マル『恋人たち』。
ワタリウム美術館に、フィリップ・パレーノ展を観にいった。

©NIPPON ANIMATION CO., LTD.

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2020年1月 5日 (日)

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キャラクターからメカニックまで――デザイナー・安田朗のこれまでとこれから【アニメ業界ウォッチング第61回】
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劇場版『Gのレコンギスタ』を応援する意味もこめて、以前からお願いしたかった安田朗さんにご登場いただきました。

複数の透過光が引き立てる「勇者エクスカイザー」の変形シークエンス【懐かしアニメ回顧録第62回】
90年代後半、サンライズに見学に行ったとき、ロボットの合体バンクはQAR(クイック・アクション・レコーダー)を使って、特別丁寧に作画されると説明を受けました。しかし、演出的に評価される機会は少ないと思います。


年末年始に観た映画は、『地獄に堕ちた勇者ども』、『ベニスに死す』、『ダイナマイトどんどん』、『ツィゴイネルワイゼン』、『ブルークリスマス』など。
しかし、たまたまYouTubeで『赤毛のアン』第1話を観て、どうしても続きが気になり、dアニメストアで全50話を観終えた。
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高畑勲さんの作品としては、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』と比較されてか、今ひとつ評価が高くない気がする。宮崎駿さんがレイアウトから抜けた痛手も、後半にくっきりと影響が出てしまっている。回想シーンを多用して作画の遅れを取りもどそうと焦っているのも、はっきり分かる。アンが大人っぽく成長し、マリラが涙もろくなった終盤は、最初のころの生き生きしたムードではなくなっていく。

逆に、どうして前半に魅力的かというと、空想癖のあるアンの世界観を肯定しながらも、マリラの覚めた目線を忘れずに描き、作品の中に「空想-現実」という拮抗する力が維持されていたからだろう。アンが「ああ、なんて悲劇的なのかしら!」と大袈裟に嘆いた直後、マリラの呆気にとられた驚き顔が「止め・無音」でインサートされる。そのタイミングが、くやしいぐらい面白い。
高畑さんの『映画を作りながら考えたこと』を引っ張り出して『アン』について語ったインタビューを読むと、原作を「ユーモア小説」と評していて、なるほど確かに笑える。マリラがアンの大袈裟な言動に慣れてくると、「そんなわけがないだろう」「またバカなことを言ってないで」とリアクションが手馴れたものに変化していき、そこも抜群に面白い。アンの空想とマリラの現実、どちらも対等に扱う姿勢がいい。双方の立場にたって、大真面目に描いている。羽佐間道夫さんの、いっさい感情をこめないナレーションが、作品の姿勢を体現している。


一方で、マリラがお気に入りのブローチをなくしてしまい、アンに盗みの疑いがかけられる第11~12話のサスペンスフルな展開も見事だった。
なぜなら、「空想癖のある少女を肯定的に描く(決して否定はしない)」という作品の基本姿勢を、視聴者が疑いはじめるからだ。マリラはアンがブローチを盗んだものと決めつけて、珍しく長めのモノローグが入る。いつもはアンが喋りつづけるはずなのだが、このエピソードでは逆転している。
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また、アンは自分の空想をマリラとの交渉の武器に転用する。アニメでは、彼女の非現実的な空想を本物のように1クールかけて描いてきたわけで、このエピソードでもアンの空想は本物として、セル画で描写されねばならない。視聴者も、そのいつもの段取りにコロリとやられる。セルに描かれたものはお皿であれ妖精であれ、それが空想なのか現実なのか視聴者には区別しようがない。自分の常識に照らして、「妖精が実在する世界ではないから、これは空想なのだ」と分別するしかない。このエピソードは、視聴者の常識を利用するというか、つけこむのだ。小説なら台詞だけだから、こういうミスリードは生じえない。
(いま気がついたが、現実と空想が等価に描写され、痛々しいほど拮抗する第12話は、富野由悠季さんの絵コンテであった。)

確認のため、第11話と第12話を見直してみたが、マリラ役の北原文枝さんの見事な芝居を聞くにつけ、テレビアニメは声優のものだと思う。キャラクターの印象は、半分は声優が決めている。
『アン』は綱渡りのようなスケジューリングのため、アフレコでは、演技の最初と最後をデルマで印しただけのリールが使われたという。そのような過酷な環境下で、生き生きとキャラクター像をつくりあげる。誉められたことではないのかも知れないが、それも一種の文化なのだと思う。

(c) NIPPON ANIMATION CO.,LTD.Presented by Janime.com

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2019年12月28日 (土)

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木曜日、たまたまネットで見かけた期間限定の体験型美術館“teamLab Planets TOKYO”()へ行ってみた。
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館内はスマホを持って入って撮影OKだが、肉眼で見たままを撮影不可能だし、平面で見ても何の意味もない。
まず、入場券を買ったら入り口で並ばされ、30~40人ぐらいで鑑賞説明を受ける。荷物類はすべてロッカーに入れて、靴を脱いで靴下も脱いで、裸足になる。ズボンの裾は、膝下まで捲くる。水の中にザブザブ入る展示もあるからだ。
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安心したのは、ツアーのようにグループで歩いて回る形式ではなかった点。説明を受けた後は、順路どおりに歩いていけばいい。気に入ったら、ひとつの展示空間に閉館までいてもいい。あちこちにスタッフが立っているが、彼らに「さあ、次の展示へ」と促されるようなことはない(混雑しすぎないように、入場したい時刻だけはチケットを買うときに決める)。
どの展示(というか部屋)も暗くて、天井も壁も鏡張りだったりするので、出口が分からないような場合はスタッフに聞けばいい。
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水の中を歩いていくと、CGの鯉が泳いでくる。本物のように挙動するが、光の軌跡を引いて泳いだりもする。記録された画像を投影しているわけではないので、鯉の動きは予測できない。
鯉だけでなく、花が咲いている場合もある。しかし、足元で花はみるみる枯れてしまう。もう一度、花を見たいと思う。それが、水の中を歩く動機になる。前も後ろも、最初も終わりもない。この開放感は凄い。
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最後に、先に入った人たちの「わあーっ」という歓声が聞こえてきたのが、上の展示。案の定、まったく見えたままには撮れてないが、あれはあの場所に行かないと決して分からない。プラネタリウムのように天井が半球型になっており、大小さまざまな花が遠くから頭上まで近づいてきたり、咲いたり散ったり、さまざまなストーリーを展開する。
これらの花の動きにも同じパターンはなく、ひまわりが群となって体全体を包む込むような動きをしたり、花びらが視界全面に散ったり、いつまで見ていても飽きない。(ほとんどの人が、床に寝そべって鑑賞していた。普通の美術館や映画館で、そんなことあるだろうか?)

床も鏡面になっているので、地平線のあたりを見ていると、空全体がぐるぐる回るような巨大なトリップ感を味わえる。何が4DXだ、何が没入感だ、この展示を体感してから言えよって気持ちになってしまう。


すっかりリラックスして、曇天の新豊洲の駅前に出た。美術館の前には店もあったのだが、ガスコンロが故障して食べ物は売っていなかったので、コーヒーを頼んだ。駅のまわりの閑散とした風景すら気持ちよく感じた。
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ちょうど買いたいものがあったので、新豊洲からゆりかもめに乗って、ガンダムベース東京へ向かった。
すると例えば、上のような展示物も何が面白くないのか、どうすれば良くなるのか、漠然と考えが向かう。自分の考える楽しさとは何か、どうすれば世の中が少しでも面白くなるか。美術館へ行くのは楽しいが、それはコーヒーと軽食を味わうためでもある。最低でも、その場でコーヒーは口にしたい。
その「いいコーヒーを飲みたい」と思わせる動機は、何なのか。歩いた距離なのか、施設の雰囲気なのか。どうして、どの映画館も窮屈に感じるのか。もっと言うと、どうして通勤電車はあんなに圧迫感があるのか。なぜ、海外旅行はストレスがないのか。環境をエンタメ化すれば、生きづらさも低減されていくのではないか。


帰宅してから、レンタル屋で借りてあったキルギス映画『馬を放つ』。
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東洋とも西洋ともつかないキルギスの風景、民族衣装がいい。
だけど、「この映画は信用できる」と思ったのは、冒頭で馬を盗むシーン。同僚がトイレに入ったとき、外からカギをかけてしまう。カギをかけた男の顔から手前のカギへと、ピントが送られる。とてもシャープだし、なぜカギにピントを合わせたのか物語的な意味もある(映画前半では、誰が馬泥棒かがメインとなるため)。

他には、妻と息子が家を出て行ってしまった後、主人公がひとりで泣くシーン。家族で寝ていた部屋に、馬のおもちゃが置いてある。しかし、息子と遊んでいるシーンでは、そんなおもちゃは出てこない。つまり、家族を失って、主人公が民族の誇りとしてこだわっている馬だけが、「馬の概念」だけが残されたという意味だ。
そうした小道具の使い方が知的で、感心させられる。号泣だけが感動ではない。

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2019年12月25日 (水)

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モデルグラフィックス 2020年 02 月号
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●模型で読み解く『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』延長版-2
片渕須直監督インタビューも込みの連載第2回は、ピットロードさんへ取材。難易度の高い1/700大和を、初心者が手にとるかも知れない『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』仕様として発売することの意義を聞いてきました。

●組まず語り症候群 第86夜
今回はPLUMさんのプラアクトシリーズから、インジェクション成型のみで再現された「クサリ」を取り上げてみました。


黒澤明の『静かなる決闘』をレンタルDVDで観た翌日、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を立川で観てきた。
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三年前はゼロ号試写に呼んでいただき、「とても泣けるから自分の目で確かめてみて」的な声が多くて、「えっ、そんなに分かりやすい映画?」と違和感をおぼえたものだった。もっと正確に言うと、「確かに泣けるだろうけど、そんなお涙頂戴の映画を貴方がたは求めていたのか? 単に泣かせるために映画を観てもらうのか?」と、反発に近い気持ちを抱いた。
それ以来、『この世界~』には、ずっと疎外感をかんじていた。この映画の意義、価値は着実に認められ、それが多数の受賞に結びついたのは理解できるし、喜ぶべきこと。
一方で、依存性の高い映画とも思う。すずさんはアイドル性があって可愛くて、全体に笑えるシーンが多くて、「おもしろうてやがて悲しき」式に最後は泣くことだって出来る。「愛らしい映画です、号泣しました」とでも言っておけば、それだけで受容される(うまく言えないけど、この映画には「許す」という機能があると思う)。

あと、片渕監督は博識でサービス精神が豊かだから、取材するのが楽なのよ。僕がやってる連載だって、かなり監督の発言に依存していると思う。考えることを監督に任せすぎて、受け手はどんどん楽になる。それでも『この世界~』さえ取り上げれば、一定数のファンは反応してくれる。一方で「今ひとつ、あの輪に入りづらいなあ」という人は、ますます疎外されていく。監督のご機嫌うかがいのような感想ばかりが、果たして健全な反応と言えるんですかね?
そんな予定調和を求めていたの? 『さらにいくつもの』を観ても、やっぱり「うん、確かに別の映画になってますね!」と合言葉を言わないといけないの? そう言わないと仲間はずれにされるんじゃないの? ある種の窮屈さを感じながら、映画館の席に座った。
 
でね、僕は泣くどころか、大きな溜め息をついていた。映画のトーンが、何とも苦い、気まずいものになっていて、笑ったり泣いたりするより「ぐぬぬぬぬぬぬ……」って感じ。すずさんと周作さんの交わすちょっとした会話に厳しい、ビターなニュアンスが加わってしまって、いたたまれなくて席を立とうかと思ったぐらい。でも、これを求めていたんだな。もう可愛い映画ではないし、手放しで泣ける映画でもない。嫌いな人もいると思う。僕は今回のほうが、断然好き。


映画館で映画を観ることの意味って、別にスクリーンの大きさでも音響の良さを味わうためでもないと思う。映画館では、映画に主導権がある。途中で止められなくて、最後まで凝視するしかない。「もうやめてくれ!」と思っても、止まってくれないんです。
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すずさんが周作とリンの過去を知ってしまって、それはもう原作漫画を読んでれば知ってるはずじゃん。「ああハイハイ、このシーンね」とタカをくくっていると、秘密を知ってしまうシーンが、その後のすべての会話に影響していく。漫画なら、読むペースを変えたり、途中でやめたりも出来る。映画は突進していくんですよ。
特に、すずさんと良い関係だった水原さんが泊まりに来るシーン。前作では何もなかったけど、今作ではすずさんと周作さんが気まずくなっているタイミングで来る。「えっ、ちょっと待って!」「今は来るな!」って感じ。
同時に、どうして周作が自分の妻を男と二人きりにさせたのかも、かなり難しいんだけど、前作よりは納得がいく。理由というかヒントぐらいはつかめる。そういうシーンが、いっぱいある。戦争が終わってすずさんが慟哭するシーンも、これだけいろいろ抱えたままなら、そりゃあ泣くでしょう、といった具合に。……大変な読解力が必要とされるけど。

こういうこと書いて、「ネタバレしてる」って思う? あのね、映画館でぶっ通しで観ないと、絶対にこのニュアンスは分からない。原作を読み返しても、あの苦い、切ない、しかし止まることなく突き進んでいく日常、すずさんの心境がどうであろうが、夫が憎かろうが何だろうが、必ず落とされる原爆、必ず終わる戦争、それでも容赦なく続いていく日常のあれこれの力強さ、残酷さは映画の奔流の中にしかない。


晴美さんが亡くなったり、戦災孤児を連れて帰ったりするんだけど、それらはもう「泣かせ」ではない。リンさんの秘密と等価値に感じられる。
逆に、リンさんと周作の過去を抱えたままだから、すずさんは酷い目にあっても生きていけたのかも知れない。戦災孤児を連れ帰れるほどの力が出たのかも知れない。そして、映画が終わっても何も解決してないんだよ。あいかわらず、夫に対して忸怩たる思いを抱えたままなのだろう。失った右手が戻ってこないように。

今回の映画は、そうなかなか依存を許してくれない厳しさがある。
この割り切れなさに、僕は元気づけられたけどね。この後の人生、何とかなる気がしてきた。

©2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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2019年12月21日 (土)

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40年近く変わらないデザイン……「装甲騎兵ボトムズ」をプラモデル化しつづけるウェーブの熱意と誠意【ホビー業界インサイド第54回】
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高校時代から仕事をもらい、モデルグラフィックス編集部や初期のワンダーフェスティバルに連れて行ってくれたウェーブさんに、取材に行ってきました。キャラクターモデルの取材は、来年も積極的にやります。


小学校時代、第一作目の『スター・ウォーズ』に熱中していた友人と一緒に、『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の初日に行ってきた。まあ、彼と観にいく映画は酒の前の余興みたいなものなので、「初日に行く」のは一種のイベントである。
(吉祥寺オデヲンだったのだが、前の席の人の座高が高く、字幕の真ん中あたりがずーっと見えず、英語を頭の中で翻訳しながら観るハメになった。これだから僕は、映画館が好きではない。)
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たぶん今後は、『スター・ウォーズ』だからといってお祭騒ぎするムードは、冷めていく気がしている。
『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の興行的失敗がいい兆しで、80年代後半の、旧三部作の完結による「冬の時代」が再来して、本当にしつこいファンだけが、それぞれの思い入れで追いかけているほうが幸せなんじゃないだろうか。僕はEP1~3の新三部作が好きという変わり者で、わけてもEP1公開前夜のフィギュア・ブーム、リバイバル玩具ブームの雰囲気が忘れられない少数派なので、「冬の時代」はけっこう居心地がいいはず。まあ、なんとなく負けそうなヤツ、恵まれてないヤツを応援するのが好きなんだ。

『スカイウォーカーの夜明け』は、死んだはずのキャラクターまで総出演、EP6を焼きなおした予定調和で、無難に、穏当に事を済ませたい人は大好きだろうと思う。創作というのは「ぶっ壊す」ことだと僕は思っているので、まるでお話にならない。右でも左でも、黒でも白でも何でもいいんだろうな。ディズニーランドに貢献できさえすれば。
続三部作自体が、ディズニーランドの題材を求めて墓を掘り返したマーチャンダイジング、企業活動にすぎないので、真面目に論評する気にもなれない。平和が訪れたはずの銀河で、ふたつの勢力が何をめぐって争っているのか、やっぱり最後まで分からなかった。
さて、EP7『フォースの覚醒』公開のとき、僕が危惧したことは、「最初の『スター・ウォーズ』だってご都合主義だったじゃないか、だから新作だってこの程度でいいんだ」と、自分の懐古趣味を正当化する人たちの出現だった。「あのテーマ曲を聴くと、自然と涙が出てくる」って、それは懐メロを聞いて若かったころを思い出しているに過ぎないよね。


でも、僕は「泣けるかどうか」しか問題にしない人たちをバカにしている以上に、恐ろしく感じている。
「自然と涙が出てくる」主体性なき感想は、映画の価値はさておき、情緒だけを問題にしたポスト・トゥルース的な風潮だから。「難しいことは分からないけれど」式の責任回避、主体性放棄の態度が、僕は何より怖い。
ストーリーを最後まで明かしたところで、ストーリーを効果的に伝えるのは画面効果なのだから、映画の価値が減じるとは思わない。先日、レンタルで岡本喜八監督の『ブルークリスマス』を観たのだが、誰が何でどこでどうしているのかサッパリ分からないのに、面白い映画は山ほどある。物語でなければ、では何が面白いのか? それを解き明かすことが、作品を鑑賞する意義ではないだろうか。

僕も『スカイウォーカーの夜明け』で誰が生き残って、誰が復活して誰が死んだ……などと、わざわざ書く必要は感じない。だけど、ネタバレという概念がストーリーに“しか”映画の価値はないと誤解させ、作り手に「ただひたすら予想を裏切ったり、理屈ぬきで情緒に訴える展開」ばかりを用意させているのではないか? 映画をアミューズメント化させているのではないか? その疑念は去らない。
「ネタバレになるので言えないけど、とにかく泣けた」、これは思考の放棄ではないのだろうか。本当は「ネタ」などどうでもよく、実は考える価値さえなく、「泣けた」事実だけが重要なのではないだろうか。僕は、そういう鈍磨した心理状態が怖い。
なので、これからも古い映画を見つづけて自分の無知を思い知りつつ、発見を繰り返していきたい。新しくて大ヒットしている映画にも価値はあるはずで、そちらもなるべく見ていきたい。


火曜日は、東京都現代美術館へ。
二枚綴りのチケットを買って、「ダムタイプ」展と「ミナ ペルホネン/皆川明」展。「ダムタイプ」はひとつひとつの作品が大きいせいか、展示数そのものが少なく、やや物足りなかった。「ミナ ペルホネン」はまったく知らないファッション、アパレルの世界の展示だが、素晴らしかった。
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たとえば、上の写真のように「これまでの仕事」を並べるとしたら、普通は時系列にする。この展示は違う。時代はバラバラで、造形美だけを基準にしているのだ。あるいは、使わなかった布、書き散らしたアイデアなども展示して、作家が何を捨ててきたのか明らかにする。服を買って着ている人たちの暮らしを映像で、文字で明らかにしていく。すると、服の価値が立体的にあぶり出されてくる。
物事を、作家の仕事を豊かに「伝える」アイデアと構成力、それが見事だった。美術館は自分のペースで回れるので、飽きない。常設展も含めて、3時間も歩いていた。

(C)CAPITAL PICTURES/AMANA IMAGES

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2019年12月16日 (月)

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EX大衆 2020年1月号 発売中
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特集記事「ポケットモンスターが教えてくれたこと」の中で、同人誌研究家の三崎尚人さんに取材、1998年に同人作家が刑事告訴された「ポケモン同人誌事件」を振り返っています。


三鷹市役所納税課から、「オール東京滞納STOP」というキャンペーン(?)の刷られた督促状が送られてきた。「差押えやタイヤロック、捜索等の滞納処分など、多様な徴収対策に取り組んでいます」と結ばれており、いつもにも増して脅迫めいている。脅して払わせるのではなく、税金に対する理解を促して、納得して払ってもらうべきではないのか?
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というか、確かに僕は遅れ気味ではあるが、今月最初に6万円も、都市民税を払ったばかり。これから大きな収入があるから、また払おうという気持ちでいた。脅される謂れはない。
そこで、土曜日でも窓口を開いているというので、30分ほど歩いて市役所まで行ってきた。すると、これ見よがしに設置されたタイヤロックが目に飛び込んできた。これを目にするのが不愉快きわまるので、ずっと市役所には行かず、駅前の市政窓口を払っているんだ。撤去してほしい、とメールでお願いしたことさえある。
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その時の会話はすべて録音して、こちらにアップしてある()。「権力を振りかざしてるじゃないですか?」という僕の問いに、三鷹市職員さんは「まあ、そうですね」と答えてしまっている。
NHKもまったく同様なのだが、「丁寧に話して聞かせて、納得してもらって払ってもらう」努力を放棄させるのが、こうした嫌悪や恐怖を引き起こす力づくの示威行為だ。僕が納税は世のため、人々との助け合いのためだと思っていても、市役所側が「滞納は許しません!」「財産を没収します!」と、最初からケンカ腰では僕の誠意も消し飛ぶ。リンクした動画を見てほしいが、僕が払ったばかりの6万円を女性の職員は「期限内に払ったわけではないから、払ってないですよね」と言い換えている。期限内でないと、いくら払っても納税したことにならないんですと。

もうね、話し合いになるわけないでしょ? 相手は権力と組織にガードされてるから、何とでも言えるわけ。動画の最後、僕は「……恥ずかしい」と言い残しているけど、彼らの脅迫行為が情けなくて、泣いてましたからね。
だって、すべての仕事は他人のため、世の中を良くするためにあるんじゃないの? 市役所は、納税者を脅すことが快感になってしまってないか? だとしたら、俺はあなた方の余興につきあって、せっかく稼いだ金を払いたくない。納得のうえで気持ちよく納税したいのに、ことごとく気分を害しているのは、市役所側じゃないか。喜んで払えるように工夫すればいいのに、バカだよね。企画力がない。


まあ、「廣田のこういうところが嫌いなんだよ」って人も多いだろう。「決まりは決まり」「ひとりだけ例外は許されない」など、小学校の頃から刷り込まれた価値観に、50代にもなればガチガチに脳が硬化させられていく。「自由には責任がともなう」って分かった風な賢しらな言い方があるけど、それ自体が自由を放棄した、身をもって自由を体験したことのない組織人間の悲しい言い訳なんだよ。

僕は自分で企画を考えて、自分で取材して構成を考えて記事を書いて、読者さんに少しだけ暇つぶしを楽しんでいただく。ちょっとだけ楽しい思いをしてもらう。その対価として、お金をもらえているわけだよね。
お金がほしいがためだけに、面白くもないものを「面白いですよ」と宣伝したりはしないわけ。そうしなくていいように、ウソをつかなくても仕事が出来るよう、努力というか工夫して注意してきたよね。他人を脅して、困らせてカネを得ているヤツには分からないだろ? この澄み渡った空気。濁りのない自由。
ちょっとでも、わずかでも世の中が過ごしやすくなるように、誰もがイヤな思いから逃れられるように……そう思って仕事してますからね。理想をもって。
理想がない人は他人を説得できないから、脅迫するしかなくなるんじゃないだろうか。別に役人でなくても、ちょっとした人間関係で優位に立ちたい人って、脅すような威圧的な会話を好む。豊かな理想のないニヒリストは、どんどん冷酷になり孤独の中に篭城していく。


最初から税金を天引きされている方は不愉快だろうけど、僕のように収入に波がある人間は、「税金は払えるときに払う」しかない。「払わない」わけではない。
まずお金を得たら、生活に困るところから埋めていくわけですよ。家賃とか光熱費とか。で、今月は数万多く稼げだぞとなったら、やっぱり映画に行こう!とか、美術館に行くとか本やプラモデルを買うとか、美味い食べ物だとか、まずは幸せになること、心が豊かになることを考えますよね。それを我慢しろ、ひとりだけ贅沢すんなって空気が、本当に日本には充満している。3千円のパンケーキを食うなとかさ。

動画の中でも少し話しているように、僕は貯金が少ない時、税金を払わないでいたら口座を凍結されてしまったことがある。
次に何が起きると思う? 強制的に生活保護を受けさせられる。ちょっと待ってくれ、今月だって少しだけど原稿料が入ってくるし、再来月には数十万入ってくると説明しても、無理やりボロいアパートに引っ越しさせられた。つまり、収入に波があるがゆえに貯金をコントロールして切り抜けていくのがフリーランスなのに、市役所は「定収入がなきゃ駄目!」「清掃員か警備員に転職しろ!」って均してしまう。
人間は幸せになるために生きているのであって、税金はその助けになるべきではないのか? やってることが逆なんだよ。まるで文化的ではない。「納税者」という名前の家畜を飼ってるみたい。


昨夜は、クリント・イーストウッド監督の『恐怖のメロディ』を観て、眠気が吹き飛ぶほど面白かったのだが、また今度。110円でレンタルしてきた映画で、こんなにも充実した時間をすごせるのか。
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お金のない若者に言いたい。少しでも余裕ができたら、映画を観よう。本を読もう。少しでもいい、文化的なことに時間とお金を使おう。あなたは納税する機械じゃない。生まれながらに、自由の翼だ。

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2019年12月12日 (木)

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「マイマイ新子と千年の魔法」は、積み重なった世界を“鏡”で指し示す【懐かしアニメ回顧録第61回】
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10周年記念上映で観て、気になった「鏡」について書きました。
10年も経ったことだし、「初興行時には不入りで、熱心なファンが活動したおかげで……」といった枕詞は、今後は不要と思います。10周年記念でアートブックを作ることになったときも、「当時どういうことが起きたのか記録しておきたい」という案に、僕は賛成しませんでした。他の映画と同様、純粋に作品の価値だけで生き残っていってほしいからです。


最近レンタルして観た映画は、ロバート・レッドフォード監督『ミラグロ/奇跡の地』、フランシス・コッポラ監督『タッカー』、そして市川崑監督『現金と美女と三悪人』。
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『現金と美女と~』、これが圧倒的に凄い。タランティーノの原型みたいな感じ。
このバージョンは短縮版で、原題は『熱泥地』だそうだけど、ラストに地獄のような泥火山が出てくる。もちろん、本物ではなくて特撮。その特撮の泥火山が、ひとつの見せ場になっている。主人公の男とヒロインを追ってきた男が、馬からふり落とされて、泥火山に転落する。『ターミネーター2』みたいに、片手を伸ばしたまま沈んでいく。特撮としては稚拙な部類なのだが、表現としては破天荒で力強い。

つくづく、「泣ける映画」=「優れた映画」という考え方が、いかに狭量で偏向しているか思い知らされる。泣ける要素などひとつもなくて、ショボい銃撃戦や殺し合いばかりだし、ヒロインは変にエロいしドラマはないし、ミニチュアからマットペイントから、ヘンテコな特撮シーンが満載。だけど、その天衣無縫のムチャクチャさが“熱い”んだ。
冒頭が客船の中で(セットと特撮のみ)、途中から山の中に舞台が移るんだけど、狼が遠吠えしてるカットがある。明らかに、普通の犬なんだよね。笑ってしまうけど、だけど「これは狼なんだよ、本物なんだよ!」と映画が訴えているかのようで、かえって感動する。


カット割りも出鱈目で、ラストで主人公たちを追ってきた男が馬に乗っているわけ。馬の走る足と、乗っている男の顔がカットバックするんだけど、ぜんぜん繋がってない。俳優が馬に乗っておらず、スタジオでそれっぽい演技をしているのがモロバレ。だけど、そのほうが「意図」は強烈に伝わってくる。
黒澤明なら、何としてでも俳優を馬に乗せるじゃん? あとクリストファー・ノーランだとか、やたら現物主義だよね。本物の戦闘機を飛ばすと、映画の格が上がる、みたいな即物的な価値観。

だけど、そればかりが映画じゃないんだよ。低予算ゆえの事情が露呈しているからこそ、さっきまでセットだったのにカットが変わるとロケになったりするからこそ、現場の、生身の熱気が伝わってくる。きっと、企画の段階でも撮影現場でも、思うようにいかなかったんだろう。
思うようにいかなかった映画には価値がないの? 監督のイメージを完璧に再現するのが映画なの? 「完成度の高い」映画ばかり観ていると、歳とるのが早くなるよ。


友人とDMでやりとりしていて、たまたま、シュナムルさんの話になった。
彼は、自分から『魔方陣グルグル』の幼女キャラがアカウント名の由来だと告白しておきながら()、「主食はナムル」とか「朱奈」とか、由来を曖昧にして二次ロリコン疑惑から逃れようとしているよね。でも、彼が描く小学生の娘のイラスト()って、このキャラに似てない? 写真は一枚もなくて、奥さんも娘もイラストばかり。
しかも、奥さんは学者で料理が上手くて、娘は小学生で本を読むのが好きなんでしょ? 彼の知性に対する憧れが、イラストに仮託されているように思う。奥さんや娘にこうあってほしいのに、実際は奥さんはお笑い番組見てゲラゲラ笑っているし、娘はハナクソほじってる……って話ならリアルだし、そういう作り話が出来るなら、器がでかいと思う。だけど、理想を理想のまま絵にしてしまっている未熟さが、(嫌味でもなんでもなく)シュナムルさんの魅力だと思うし、そういう意味ではファンなのかも知れない。

Twitterでアベ政権や性表現、何かしらに対する不満を温存しながら悪態をついている人は、実生活に大きな欠損を抱えている。実際にアベ政権がなくなったり、萌えポスターがなくなったら、彼らは次のターゲットを探して、自分の抱えた欠損から目をそらしつづけると思う。「世界に対して恥だ」とか「日本は遅れている」とか、曖昧とした正論らしきものにしがみつきながら。
それでいいんだよ、それが人間だもの。彼らのことは、僕は本気で憎いとは思えない。

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2019年12月 4日 (水)

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昨日は雨が小降りだったので、国立近代美術館の「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」()へ。
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(スマホを忘れていったので、画像は公式HPより)
ご覧のように、前庭にコンセプトモデルを移設してまで、象徴としての「窓」、概念としての「窓」、モチーフとしての「窓」、物理的存在としての「窓」、古今東西から自由自在に作品を引っ張ってきて、展示方法も多様。「窓」以外の共通項がまったく無い奔放さが良かった。

途中、「西京国」という、架空の国へ行くための税関もあり、そこでは歌をうたうなり踊るなりしなくてはいけない。
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まあ、ちょっと学芸員の自己満足っぽいんだけど、他の展示もかなり好き放題なので、それほど気にはならない。……気にはならなかったのだが、一日たって考えてみると、作品の発想は浅知恵かな。歌とか踊りが平和の象徴とは限らない。

展示物のキャプションに、学芸員の個性や自説が出すぎてしまっている。こんな好き勝手な解釈を書くんなら記名でやるべきじゃないかと思うんだが、それも美術館の個性なのかな。学芸員の意図が見えないほうが、カッコいいとは思う。


映画でもそうなんだけど、「作品を見る」こととは、時間を止めて、自分を幽霊のように透明な認識装置にしたい願望と、表裏一体なのだろう。少なくとも、僕は作品を見ている間だけは肉体を捨てていられる。理想どおりではないこの肉体を、邪魔とも感じている。

映画といえば、黒澤明の『素晴らしき日曜日』。これも大学の授業で観たはずなのだが、すっかり忘れていた。
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ひとつだけ素晴らしいカットがあった。
沼崎勲と中北千枝子のカップルが、ささやかな楽しみを求めてさまよう。電車に乗って移動するシーンで、カメラは並んで座る沼崎と中北をティルト・アップで、足元から撮る。楽しくてソワソワしている中北が、足をパタパタと動かしている。そのまま楽しそうな二人の全身を下から撮って、カメラは二人の頭上へ。すると、そこではつり革が並んで、ゆらゆら揺れていた。
そのつり革の動きは、言うまでもなく二人の急くような期待、喜びを表現している。そのカットが見られたのだから、まあ良いじゃないかと思う。


1月28日(火)「対人恐怖症歴30年の独身中年男は、海外旅行でどんな目にあった?」
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こんなトークイベント、開催します。旅好きな方は、どうぞ。
写真をまじえた旅行記……ということになるんだろうけど、僕の場合、対人恐怖(というかパニック発作に近い)が海外旅行している間はほぼ治ってしまう……という点が売りで、おそらく「生き方」の話になるんだろう。 

でも、この「生き方」をテーマにする、言語化するってのが面倒を呼ぶのかも知れないな。
なんだか、僕の周りには上手く生きられてない人たちが、集まってきやすい気がしている。ネットでの僕の言動に意義をとなえてくる人は、勝手に僕を美化したり、いい加減な感情移入をしていると思う。俺は、俺のために生きている。誰かの期待にこたえるためじゃない。
この半年の間に、二人ぐらいの見知らぬ人に「あなたはあなたの人生を生きてください」とお願いせざるを得なかった。俺のことなんか気にせず生きてほしい。

僕は毎日、好きな時間に起きて、ほとんど一人で誰とも話さずに過ごしている。その贅沢な時間は、自分で手に入れた。友だちとワイワイやるだけが人生の成功じゃないよ。

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2019年11月30日 (土)

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PLUMの「1/80 中央線」は、昭和~平成の記憶を刺激するプラモデル【ホビー業界インサイド第53回】
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こういう良いネタは、ホビーショーで見て記憶して、自力で取材交渉します。
プレスリリースを待っているようでは、生き生きした記事は書けません。


さて、劇場版『Gのレコンギスタ Ⅰ』「行け!コア・ファイター」である。初日第1回を観るべく、モデルグラフィックス誌の撮影の帰り、調布のホテルに投宿し、朝7時に宿を出てモーニングを食べてからシアタス調布へ向かったのは、通勤ラッシュを避けたいがためである(家から調布へは、バスで30分)。
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――まあ、とにかく驚いた。
途中までは、やっぱりフレームに入る被写体が多すぎ、あちこち説明過多だったり説明不足だったりして、ゴチャゴチャしているのはテレビ版と変わりがない印象(宇宙海賊なのに、地球上の島に基地があるとか……)。モノローグも、ちょっと追加しすぎ。
だけど、タイトルが「行け!コア・ファイター」でしょ? テレビでは段取りっぽかったコア・ファイターの合体シーン。ベルリが活躍するのを、アイーダがサポートしなくてはならない。だけどアイーダは、恋人を殺したベルリの顔を立てるなんてイヤなわけ。この感情描写が、テレビでは希薄だった。劇場版では、アイーダが操舵手のステアに寄り添う芝居に、ほんのちょっと台詞が付加されていた。他にも、いくつか追加があったかも知れないが、アイーダの複雑な心情を、しつこいぐらい丁寧に追っている。

戦闘後、いやいやベルリの活躍を手伝ったのに、ドニエル艦長に促されて(テレビではあっさりしていた台詞が、いささかコクのあるものになっている)、アイーダはベルリにお礼を言わないといけない。ひとりで苦しむシーンが追加されている。
その後、無理を押してベルリにお礼を言う。見ている側は、アイーダの苦しさがピークに達していると分かる。そこへ、クリム・ニックがひらりと飛び込んできて、ベルリに関係ない話をする。見ている側は、クリムをめちゃくちゃ邪魔に感じる。というか、クリムが話している間に、アイーダがフレームから消えているじゃないか。こんなストレスのある流れでいいの?
と、カメラがPANすると(途中で視界を遮るようにモビルスーツが入るのが効果的)、アイーダは狭いエレベータに乗っていた。エレベータで、死んだカーヒルに泣いて謝っている。カメラが引くと、泣いているアイーダの前に、大きく整備兵が入ってきて、大声で何か実務的なことを喚きながら仕事している。すると、アイーダの孤立感がいっそう引き立つ。

……と、コア・ファイター合体の前後から、アイーダの感情描写に徹していて凄いなあと思ってテレビ版を確認したら、大きな流れは、ほとんどテレビのまま! ちょっとした順番の変更やインサートのみで、機能的に情感をかもし出している。
だから、「再編集」の目的が、要約や矛盾点の解消や効率化ではなくて、既存カットに新しい意味を与えて、文芸性を高めることにシフトチェンジしている。やはり只者ではない、富野由悠季。


しかし、わけても気に入ったのは、ベルリにお礼を言わねばならないアイーダが、Gセルフに宇宙用パックを取り付けているのを見て、「ああ、そういうこと……」と力なく呟くカット。つまり、自分の感傷とは関係なく、他のスタッフはベルリを認めているし必要としているし、事態は勝手に進んでいるのだという意味が加わっている。
確認のためテレビ版を見て、びっくり仰天。宇宙用パックの絵は、何ひとつ変わっていないのだ。ただし、パックを見るのはベルリであり、彼は「あれ、僕が使うんだ!」とはしゃいでいる。

アイーダの嘆息とベルリの稚気は、同時に存在しうる。映画版では、アイーダにスポットを当てた。映画というか、フィルムの編集というのは、そういうことが出来てしまう。同じカットを残したまま、それを見ている別のキャラクターのカットを繋いで、意味を変えることが出来る。メカの背中に語らせることだって出来る。だてに、ロボット物の再編集ばかりやってきた監督ではないのだ。
なので、本質的な意味で「映画」のメカニズムを理解したければ、『G-レコ』は見逃せない。


ひさびさに、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』。これがDVDで観られるのだから、レンタル屋ももう少し頑張れる。
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普段は映像の色合いなんてことは気にとめないが、この作品の絵画的な美しさには息をのんだ。「絵画的」とは、ピタリと静止した画面のことではない。むしろ、急速にズームしたりPANしたり、画面は非常によく動く。砂浜で、風にはためく天幕の淡い色調……などが、絵画を思わせるのだ。
映画の前半で、カメラはダーク・ボガードの演じる老音楽家の目の役割を果たす。彼が魅了される美少年の姿を追って、カメラはしきりにPANする。切り返しで、少年を陶然と見つめている老音楽家。背景がボケていると、何となく彼を身近に感じる。一方で、美少年を追うカメラは背景までピントが合っており、どこかよそよそしい。ふたつのレンズが、見つめる者と見つめられる者とを隔てている。

映画の後半では、2人は同じフレームの中に収まることが増えていく。まるで老音楽家が、少年の属する彼岸の世界に近づいていくように感じられる。
なぜそう感じられるかといえば、「少年がピアノを弾いているのを老音楽家が見ている」シーンで、老音楽家が立ち上がってホテルの執事と話しはじめる。会話が終わって老音楽家がピアノの方へ歩き、カメラは彼を追う。しかし、そこには少年はいない。ピアノの音だけは鳴っている。少年は、本当は実在しないのかも知れない。


そのピアノの音をきっかけに、老音楽家の若いころの回想シーンが始まる。
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この売春宿の回想シーンでは、少年が弾いていた「エリーゼのために」を、若い売春婦が弾いている。シーンの最初で、老音楽家は太った女と並んで座っている。壁には鏡があり、反対側の壁に扉があって、誰が出入りしているのか見える。つまり、老音楽家の見ている風景が同一フレームの中に収まっている。ピアノの音は、鏡に映った隣室から聞こえているのだ。
老音楽家は、若い女に促されるようにして、隣室へと入る。すると、その隣室の壁にも、やはり鏡がある。時間経過があって、若い女は下着姿でベッドに寝ている。その姿は、鏡の中のものであった。
鏡の中の部屋に入ったり、性行為の相手が鏡の中にいたりするせいで、このシーンは老音楽家の深層心理に潜入していくかのようだ。そして、「エリーゼのために」が少年と売春宿を繋いでいるということは、老音楽家はやはり少年にセクシャルな欲望を持っているのではないだろうか?


セクシャルな欲望といえば、舞台となるベニスにはコレラが流行りはじめ、町のあちこちに白い消毒液がまかれる。
考えすぎだと言われても構わないが、僕にはこれが精液のメタファーに感じられる。
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老音楽家は消毒液の匂いに耐えられず、何人かに「この匂いはなんだ?」「何が起きているんだ?」と聞いて回るが、誰も本当のことを答えてくれない。ようやく、ホテルの執事がこっそりとコレラが流行っていることを打ち明けてくれる。
老音楽家は、ただちに少年の母親に家族を連れてベニスを立ち去るよう、警告する。その場に現れた少年の髪に、老音楽家は震える手で触れる……のだが、そのシーンは髪に触れるところで終わり、ホテルの執事がコレラの件を話し終えたシーンへ戻る。つまり、本当は老音楽家は家族に警告しておらず、少年に触れてもいないのではないか。
美への羨望、過去、疫病。この三要素が、象徴的な映像でシャッフルされるので、とても受け止めきれない。死が隣り合わせている表現は、生きている者には手に負えない気がする。

(C)創通・サンライズ
(C) 1971 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

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2019年11月26日 (火)

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敵味方のロボット・デザインの差異を無効化する「ブレンパワード」の革新的なメカ描写、君は気がついているか?【懐かしアニメ回顧録第60回】
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『ブレンパワード』は、シリーズ中盤で新主役メカ、ネリーブレンが登場します。ネリーブレンは、ヒメブレンと同じベージュ色だったものが、搭乗者ネリーの死とユウの引き継ぎによって、ユウのパーソナルカラーである青に染まっていくのが、ひとつのドラマとなっています。
当初のネリーブレンのベージュ色は、「ネリーはヒメと似ている」というユウの心証を裏づけるカラーリングです。なので、『ブレンパワード』においては、ロボットの色について無神経では許されない気がするのです。そういう意味で、第1話の評価はやや辛口にならざるを得ない。せめて、ユウのグランチャーを青(寒色系)にしてはいけなかったのか……。

一発で敵味方を区別できるという意味で、改めてザクの一つ目は(『宇宙空母ギャラクティカ』がヒントかも知れないが)、素晴らしい伝達力を持つデザインだったと感心します。対するガンダムが赤青黄色のオモチャ色だったのも、もちろん正解です。
また、『イデオン』の敵メカがすべて非人間型であったことは、同じフレームに入れた瞬間、シルエットだけで敵味方の判別がつく優れたアイデアでした。『ダンバイン』の一本角、『エルガイム』の純白のカラーリング、いずれも見事なアイコンでした。


昨日は、やや風邪気味ながらも、六本木の森美術館で開催されている『未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命――人は明日どう生きるのか』へ。
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結論から言うと、僕が美術館に求めているものが目一杯つめこまれていて、大満足。展示物が空間の中にバラバラに置かれ、どれを先に見てもOK。「こっちから見る」と視点が決まっている展示が少なく、自由度が高い。小部屋として仕切られている展示があるのも、視点がバラけて良い感じ。
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美術というよりは、研究物やコンセプトの成果物の展示なのだが、歩いて回るだけ本当に楽しかった。人体改造や人間と他の動物との異種交配など、倫理を踏み越えた見世物くささも素晴らしい。
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みんなが笑顔になっていたのは、上の展示。ひとつの部屋の壁面がすべてスクリーンになっていて、あらゆる角度から撮影された入場者全員が映る。そして、任意の客と客が線で結ばれ、「可能性アリ」「確認された」「距離をおいた」など、意味深なキーワードが表示されるのだ。
思わず、自分と結ばれた初対面の客を探してしまう。そんな、空間を共有する親近感と戸惑いが、ひとつの表現となっていた。


一方で、施設としての森美術館は、やはりあまり好きにはなれない。
今回は、Googleマップで最短と表示された六本木一丁目駅から行こうとしたが、(風邪なのに)土地勘のない曲がりくねった道を20分も歩くことは不可能である。現地でスマホを開いても「バスで移動して、さらに七分間も徒歩で移動」……などの無茶なルートしか表示されない。しかたなく、タクシーで移動した。十数分かかって、1060円。
森美術館のサイトは最寄り駅として六本木一丁目を指定してはいないので、まあ、Googleマップを信じすぎた僕がバカだった。

それにしても、エレベータに乗るたびに並ばされ、エレベータを降りてから美術館の入り口までグルッと歩かされるのはどうなのか。美術館に入ってからは……トイレがないんだよね。そこそこ広い会場なので、一箇所はトイレが欲しかった。塩田千春展といい、内容はとても良いんだよね。


実験者が「あなたの目の前でオッさんに100万円をあげますが、あなたが私に100円渡せば、あげるのをやめます」
と問いかけた際に……

上記ツイート、一瞬、何のことか分からないと思う。
これは要するに、自分と関係ない人が労せずして大金を得ることが我慢できず、自腹を切ってでも他人の幸福を阻止したい……、と望む日本人が多いということ。「ずるい」ってやつです。
生活保護制度に「不正需給が多い」「在日外国人が受給している」などと難癖をつけるのも、「ずるい」で説明がつく。他人の邪魔をしても自分の不遇な生活はまったく改善されないというのに、「他人がどう暮らして何を消費するか」に口出しする権利だけは欲しいわけだ。萌えイラストを広報に使うのは性の商品化と、わざわざ海外から口出ししてくるうるさい連中も、萌えキャラで癒されているオタクたちを「ずるい」と妬んでいるのかも知れない。
他人の幸福が許せない、邪魔したいってことは、あなた自身は幸福じゃないんだよね? 自分が幸福になる努力(というか選択)を、なぜしない?

なんちゅうか……「自分から始める」以外、何もないと思う。自分の得意というか、他のことよりはマシにこなせる分野を見つけて、そこを伸ばしていくしかない。得意なことを伸ばすのは、楽しい。
僕は最近、「名前は隠しているが、実は○○」「今は活動していないが、元○○」という人から「実は俺はけっこう凄い人なので、あなたは俺に一目おくべきなのだ」的に、ぞんざいな態度をとられることがある。いま何をしているのか、堂々と言えない時点で、あなたの負けだと思う。あなたにはあなたの人生があるのに、どうして他人の優位に立ったように錯覚したがるのか。□□に関しては古株です、古参ですってオジサンに多いよね。
自分が充実して楽しければ、他人から見て冴えない職業だろうと無職だろうと、関係ないじゃない? 僕は独身で年収も高くはないけど、ぞんぶんに孤独を楽しんでるよ。

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