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「超時空世紀オーガス」の「モラーバー・マーイ」(アリイ製)を作って、“女性キャラの乗る異世界ロボ”に酔いしれろ!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第3回
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今回から、撮影は編集部のスタジオでお願いしているので、これまでよりバージョンアップしました。ノリノリで書いているので、来月分の原稿も出来てます!


金曜日は、友だちの原健一郎氏が展示物に協力している「百才」へ。民家改造のカフェであり、展示スペースもある。
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飲み物を注文してから、座敷で待つ。座敷の奥の棚が、小さな展示スペースになっており、裏手には工房のようなところもある。
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これといって何もない、東村山という立地も込みの「デザイン」だと思う。喫茶店も空間デザインだし、居酒屋で何を注文してどう酔うか考えるのも「デザイン」ではないか、と思える。快楽を調律していく、というか。面白さの設計こそが、人生の醍醐味だろう。
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午後は東村山から所沢を経由して、中村橋へ。練馬区立美術館へ行った。
しかし、展示は今ひとつであった。作品も稚拙なら、展示の仕方も雑で、テープを貼った痕跡などが見えてしまう。区市町村の美術館など、こんなレベルなのだろうか? 
15時ごろ、バスで荻窪に立ち寄って、昼飲みしてしまった。平日、昼から営業している大衆居酒屋で……チェーン系で十分。しかし、これが3000円ぐらいかかってしまう。趣味としては、喫茶店めぐりより破格に高雅だろう。しかし、70歳ぐらいの男女が合コン状態になっていたり、平日昼だからこその風景を楽しめた。


月曜日は、日本橋にリニューアルオープンしたアーティゾン美術館(元ブリジストン美術館)。
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三つのフロアで、3種類の展示。ヴェネチア・ビエンナーレの日本館を90%に縮小して再現した『Cosmo- Eggs| 宇宙の卵』が、ダントツに良かった。
宮古島に残る津波石に取材し、それぞれをモノクロ映像に収めて、室内のプロジェクターに映写。中央にオレンジ色のバルーンが置かれており、それに人が座ると、天井のあちこちに吊られた自動演奏機へ空気が送られて、「ブォー」という不気味なフルート、「カカカカッ」という石か木を打ち鳴らす音が不規則に響く。その音が不気味で、気持ちがいい。
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津波石を撮ったモノクロ映像には音がないが、よく見ると、周囲に鳥が飛んでいたり草木が風に揺れていたり、波が打ち寄せたりしている。静なる動、というか。プロジェクターの背後の壁には、太古の石や島をめぐる短い神話が、独特の書体で刻まれている……が、ついたてのように垂直に突き出した壁をさけながら、洞窟に潜るように歩いていかねば文字は読めない。複雑に構成された空間が、能動性を喚起する。
立ったり歩いたり座ったりして空間に身を浸していると涙腺が緩むほど雄大な、幻想的な空間。他のフロアの展示に飽きて、再び戻ってしまったほど魅了された。
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だが、この展示が面白いのは、単なるヴェネチア・ビエンナーレ日本館の再現ではなく、日本館を作るまでの製作資料を展示した「メイキング」である点だ。
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壁新聞のように、制作過程を記した紙。テクスチャーのある紙に紫色のインクで印刷して、わざとシワが入るように貼ってある。四隅には、金属の細いピンが立ててあり、スクラップ感が増す。
先ほどの90%サイズで再現された日本館は、ベニヤ板が丸出しで建てられている(わざと映画のセットのようにしてあるのだ)。資料類は、ダンボールを重ねた物で囲われている。こうした素材の見せ方、構成の仕方は、書籍編集に通じる物がある。
他のフロアも展示の技術は高いと思うのだが、「Cosmo- Eggs」は何よりも素材が良かった。素材のよさに見合う展示のセンス。それを何時間でも観ていられるのだから、安いものだ。


映画は、配信レンタルでトリュフォーの『華氏451』、『リング』など。映画館には、まるっきり行かなくなった。

Twitterで、リベラルだとかフェミニストだとかの甘ったれた暴言を見ていて、いろいろ沸き起こる感情はあるのだが……。彼らは、他人に対する支配欲を抑制できないがため、彼らが言葉のうえでは嫌悪しているはずの権力側・加害側・いじめっ子と化してしまっているのだろう。見かねる発言は通報しているのだが、暴言系のフェミニストさんのアカウント()が、しっかり凍結されていた。それで十分というか、言い争う気も起きない。
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EX webの連載「社会に萌えキャラの居場所はあるのか?」)は、次回は表現規制サイドに聞くつもりでいたけど、彼らは取材に応じないんだよね。彼らは公平な場での自由な討論になんて興味なくて、自分だけが圧倒的有利になれる特権的な立場が欲しいだけなんじゃない? 他人を支配したい系のクレーマーは、下駄を履かせてもらって勝つことを恥ずかしいなんて思ってないんだよ。

書いていたら腹が立ってきたけど、美術館と喫茶店へ積極的に行くようになってから、自分の日々をどう面白くアレンジするかにしか興味が向かない(笑)。これが、人生の勝利なのだろう。高校~大学時代、まるで多額の借金のようにコンプレックスを抱えて、女性に救われようと涙に暮れていた日々を思うと、ウソのようだ。

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2020年9月17日 (木)

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DIME(ダイム) 2020年 11 月号 発売中
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●森口博子 ガンダムとの運命の絆
歌手の森口博子さんに、単独インタビューいたしました。以前(2016年、『THE ORIGIN IV』上映時)は、ぶら下がり取材のみだったんです。今回は、せっかく単独取材なので、富野由悠季監督へのインタビュー経験の豊富さも生かせたと思います。
そして、この上なく丁寧に原稿を構成したつもりです。


今週は取材も原稿もないので、フラリと金沢へ泊りがけで行ってきた。
金沢21世紀美術館が、主な目的。レアンドロ・エルリッヒの作品『スイミング・プール』は観光客に大人気のようで、10時すぎに入館したのに、プール内に入れたのは11時20分! 途中で帰ってしまう人もいたので、この待ち時間は事前にアナウンスするか、整理券を発行する必要があっただろう。
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しかし、地下道を歩いて抜けた先に、いきなり水中のような空間の広がっている驚きと幻想味は、自分で体験しないと分からない。十分に並ぶ甲斐はあるし、企画展の入場券を買ったのに、プールだけ見て帰ってしまう人さえいた。

企画展は『de-sport : 芸術によるスポーツの解体と再構築』。独特の円形の建物のせいか、ボリュームは足りない。
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ザ・ユージーン・スタジオの《Mr.Tagi’s room and dream》。架空の楽器を2人の男が叩いている様子を、ナレーションも何もなくただ撮った映像を、複数のスクリーンに映写している。部屋に入ってきた観客は、どれかひとつのスクリーンを見て意味を読みとろうとするが、どうしても視界に他のスクリーンが入ってしまう。
室内を歩き回っているうち、部屋の中央に斜めに吊り下げられたスクリーンが、刻々と部屋のイメージを変えていく。
映画館では、ただひとつのスクリーンから意味を読みとるよう、僕たちの脳は集中する。夾雑物を排除して、純粋にひとつの意味を心の中で結像しようと試みる。しかし、このインスタレーションは、その試みを放棄させる力を持っている。視点は分散せざるを得ない。スクリーン内の情報は部屋の中を縦横に飛び交い、それは僕たちの歩く速度、どこにいつ視点を向けたかによって、秒速で変化する。
映画館の中で、僕たちは限りなく静止しようとする。ゼロになろうとする。この作品の前では、まったく逆だ。「歩く」という主体性が、作品の構成要素になる。ちょっと部屋をのぞいて立ち去ったとしたら、作品の価値はグッと低くなってしまう。自ら歩いて、どこにも視点を傾けない散歩しているような状態になったとき、初めてこの作品のラフさ、美術館という空間の自由さを感じられる。


柳井信乃の作品《Blue Passages》も、同じような構造を持っている。
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聖火をくべるたいまつが部屋の中央にあり、左右の壁にモノクロとカラーでたいまつを手にして歩く女性の姿が映し出されている。
中央のオブジェを見ようとすると、どうしてもスクリーンが視界に入ってしまう。スクリーンは、オブジェの背景だ。背景だけを見るには、自分で最適な位置を見つけないといけない。「どこから見るの?」と考えている暇があったら、自分からどう見るか考えないといけない。
そうやって、空間と時間を自分で調整していくのが、美術館の面白さだ。
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企画展とは関係ないが、すべての壁が台形になり、真上の空に向けて窓のひらかれた部屋。この部屋それ自体が、ジェームズ・タレルの作品だ。時刻や天気によって、刻々と表情を変える。日光までもが、作品の一部だ。
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この緑壁は、パトリック・ブランの作品。あちこち通り抜け禁止になっているが、ガラス張りなので恒久展示はどこからでも見られる。どこか、遠い未来に残された廃墟のような寂しさが漂う。東京の美術館には、こういう侘びはなかなか感じられないかも知れない。
館内で働く女性たちのユニフォームは、ミナ・ペルホネンの皆川明さんデザイン。独特の柔らかさ、穏やかさも感じられる美術館だ。


喫茶店で休んでから、近くにあった石川県立美術館へ。
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こちらはまあ、江戸時代の刀とか屏風とか。蒔絵はデザイン性があって、なかなか面白かった。全体に堅苦しい美術館だったが、国宝と呼ばれるものは見ておいたほうがいい。

前の夜、ホテル近辺の居酒屋があまりに高くて、しかも料理がチャチだったので、東京へ帰る前に何とかして美味いものを食べたくなった。
美術館からはちょっと距離があるのだが、近江町市場というところまで歩いてみた。右も左も、海鮮丼の店が櫛比している。こういう競争率の高いエリアなら、ハズレはなさそう。「席、ありますよ」と声をかけられ、ふらふら入店。
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まだ14時台だが、かまわずビール。明日なんて言っていられない、欲しいときに飲めるように日々を設計していく。
さざえのつぼ焼きが品切れだと店のお姉さんは言うが、おすすめのホワイトボードには、「石川県産さざえ」の握りがあると書いてある。出来るかどうか聞いてみると、水槽の中から板前さんがさざえを取り出し、そのまま調理してくれた。
こうやって、「確実にある」と分かっているものより「あるかどうか分からない」ものを頼んでみる。「ありますよ」と言われたときの喜びが大きい。ちょっとしたリスクが、人生のスパイスになるわけだ。「どうせ無いんだろう」「どうせ駄目なんだろう」などと言っていては、こうやって泊りがけで美術館へ行く贅沢な日なんて絶対にやってこない。来週かぎりで人生が終わると思って、貪欲にどんどん行くんだ。自分で求めていかないと、人生は面白くならないぞ。


映画は、配信レンタルで『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』、『ヒッチコック/トリュフォー』。
どちらも、ヌーヴェル・ヴァーグの存在意義の感じられる優れたドキュメンタリーだった。貴重な音声や映像がいっぱいで、映画の引用も適切なシーンばかり。

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2020年9月11日 (金)

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■法的な問題は何もなかった“アベノマスクブラ”ポスター【新藤加菜さん独占告白】
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ひとつの記事として書いたのに、三つに分割されてさらに細かくページ分けされてしまって読みづらいと思いますが、是非ひとりでも多くの方に……。
この選挙ポスターは、萌えキャラ擁護の人たちからも見放されていたような気がします。「NHKから国民を守る党だから、いくら表現の自由でも擁護する必要はない」という冷たい態度の人もいました。
この記事では、自分の体をつかって表現した主体であり、批判されて自主規制に追いやられた主体である新藤さんに、バックボーンも含めてインタビューしました。

新藤さんを標的に、批判キャンペーンを行った池内さおりさんには取材拒否されたので、批判した側の言い分を聞くことは出来ませんでした。こうやって、Twitterで言うだけ言って投げっぱなし、特に目的も結論もなし……という無責任なパターンが、あまりに多いと思います。ハッシュタグをつくって法案に反対だとかTwitterデモとか、一時的な賛同を得られて気が晴れればすぐ忘れてしまう人たちばかりで、「しょせん本気じゃないんだな」と溜め息がでます。


「本気じゃない」という意味でいうと、昨夜配信で観た映画『ソラニン』。恋人と同棲していて、音楽の才能があるとかないとか程度の悩みしかない若者たち。福満しげゆきさんの漫画に出てくる、簡単に自己肯定できてしまって貪欲になれないバンドマンたちを想起した。
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表現に必然性がないから、ボートから落ちてびしょ濡れになったとか、交通事故でいきなり恋人が死んだとか、何とかして派手に見せようと頑張っている。「日常が満たされてるから、それほど頑張らなくても十分に幸せだ」って結論にはならないんだよね。だから、恋人を前ぶれもなく死なせて、悲劇を構築しないと間が持たない。

言っちゃ悪いけど、人生まあまあ楽しいリア充の人たちが「何か問題意識を持たなきゃカッコ悪い」と焦ると、すぐ反体制・反政権に走る。とりあえず反対していればいいから、楽なんだよね。『ソラニン』はそういう政治的な映画ではないけど、リア充独特の生ぬるさを知るには、よいサンプルと思った(ひでえ言いようだけど……この路線で、生ぬるく満たされた若者たちの空虚な焦りを描く映画はアリではないかと思う)。


左翼という意味では、連合赤軍が仲間に些細な難癖をつけて、「可愛く着飾ってるから」「一人で美味しいもの食べたから」なんていう理由でリンチ殺人にいたった経緯がどうにも理解できず、彼らを描いた映画を探していた。
で、レンタル屋で高橋判明監督の『光の雨』を探し当てた。連合赤軍の山岳ベース事件を描いているのだが、その『光の雨』という映画を撮っている監督や若いキャストたちに着眼したフェイク・ドキュメンタリーのような多層構造をとっている。
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山岳ベース事件は、森恒夫と永田洋子、ふたりの派閥争いの側面もあったわけだが、『光の雨』では(役名が違うとはいえ)森恒夫役に山本太郎。永田洋子役に裕木奈江! ミスマッチというか、ピッタリの配役であった。山本は冷徹な森を演じる一方、「元漫才師の現代の青年」役でもある。森役から離れた彼は、「統括とか革命とか、ほんま意味わからんわー」とボヤく平成の青年だ。(山本太郎さんは、俳優としてはすごく良い。見直してしまった。)

そして、この映画の見どころは、理解しがたい異様な概念だったはずの「統括」を、若い平成の男女が楽しい飲み会で仲間に迫るシーン。連合赤軍の役を演じているうち、映画の中の価値観が現実に染み出してきてしまうわけだ。
「統括」は、身内をいびり殺すのにもってこいのパワーワードなのだ。今なら「キモイ」かも知れないし、「性的搾取」かも知れない。まあ、それっぽい理屈で私刑が出来れば何でもいいわけだ。仲間はずれをつくりたがる残酷な性癖は、昭和も平成も変わらないのではないか……と思わせるところが、この映画のキモだ。

ラストシーンで、リンチ殺人された役も生き残った赤軍メンバーの役も、俳優たちみんなが手をとりあって撮影終了を喜びあう。
それは無邪気な平成の若者たちの姿であり、同時に、あり得たかもしれない赤軍メンバーのもうひとつの姿なのかも知れない。


本日は、東京都現代美術館へ行って来た。
企画展は三つなので、すべて見られる通し券を買った。予約販売ではないせいか、かなり混んでいた。
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前に現代美術館へ来たのは、皆川明展のときだった。あの時は楽しくてニコニコしてしまったのだが、今回はすべての企画展が説明不足で、ちょっとガッカリした。オラファー・エリアソン個展『ときに川は橋となる』は、最後のふたつの作品が良かった。
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ひとつは暗い室内に霧を発生させて、たったひとつのスポッライトで虹を見せるというもの。
もうひとつは、上の写真だ。部屋の中央に水を張って、12個のライトで照らす。水面にさざ波が起きると、12種類の少しずつ違った模様が、天井に照射されるのだ。どんな模様が生じるのか、自然現象なのだから誰にも予想できない。
思いがけずフワーッと美しい模様があらわれると、まるで皮膚の中にさざ波が入り込んで、神経を撫でられているような官能的な気持ちになる。なんて幸せなんだろう。

常設展で、鈴木昭男氏の「作品の上に立って音を聞く」作品、“no zo mi”に再会した。石段のうえに立つと、美術館の外を走る車の音や空調の音が、わずかの間だけ「作品」と化す。
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つい先日、森美術館で観たばかりの宮島達男さんの壁面デジタル時計も、やはり好きな作品だ。温かみがある。
人生の成功は、別にお金持ちや有名人になることではない。こうした自由な一日を、好きなように穏やかに過ごせること。ネガティブな感情にとらわれ、他人がどうしているか常に気になってイライラするのは、自由ではないからだろうな。

(C)浅野いにお・小学館/「ソラニン」製作委員会

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2020年9月 8日 (火)

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「涼宮ハルヒの憂鬱」第9話は台詞と構図を連動させて、登場人物の「関係」と「距離」を描く【懐かしアニメ回顧録第70回】
こうしたカットワークや構図の意図は、本当は無意識に感じられるものなので、無理やり言語化しないほうがいいのかも知れません。しかし、「とにかく泣きました」「よく分からないけど感動しました」という無防備で無責任な状態が、僕は怖いのです。なので、これからも映像の意図を読みとり、なるべく言葉に変換していくと思います。


昨日は森美術館へ、『STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ』を観に行った。あいかわらず駅からのアクセスが悪い(エレベーターで待たされる、昇った先で入り口が分からない等)が、展示はすっきりしていて、とても良かった。
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村上隆さんの作品を最初に持ってくるのも、まず入ってきた人をビックリさせる(等身大のフィギュア、“Ko²ちゃん”が客を出迎える配置)意図として、とてもよく分かる。不愉快な人は、さっさと次のコーナーに行けばいい。そうやって自分で鑑賞体験を調整できるところが、美術館の良さ。

宮島達男さんの展示は、ひとつの部屋を池のようにして、手すりにもたれて鑑賞するスタイル。水の音が聞こえ、あちこちにデジタルカウンターが置かれている。まるで、ホタルのように点滅している。
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その池(水を張ることは出来なかったので水音を入れたらしい)が何であるのか、ビデオで宮島さん本人が丁寧に解説している。すると、単調に思えたカウンターの見え方が変わってくるわけだが、それが良いことなのかどうかは、ちょっと難しい。
学芸員の解説パネルも、たまに解釈が入りすぎて邪魔に感じる場合がある。かといって、「感性」なんてものに体験の価値をまかせてしまうことに怖さも感じる。知識も必要なはずだ。その葛藤こそが、アート作品を見る面白さなのだ。

最後は、写真家・杉本博司さんの映像作品。横4メートル、縦2メートルぐらいのスクリーンだろうか。
映画館の大スクリーンに比べれば小さいじゃん……と思うはずだが、スクリーンのすぐ横に隕石なんかが置いてあるため、画面に映った花びらなどを「大きい」と認識してしまう。映画館でスクリーンの横に何か展示してあったら、邪魔なはずだろう。だけど、美術館ではスクリーンの物理的な大きさが映画館とは別の意味をまとう。つまり、劇映画を見ている間、僕たちは心の内側にスクリーンを持っている。美術館で見る映画は、肉体の外にある。


最近、レンタルで観た映画……『天気の子』。
まあ、これを観て中高校生が元気に生きていけるなら、それで存在価値は十分にあるだろう。やっぱり、今の若い世代をストレートに応援してくれる映画が少ないとは感じるんだ。
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コンビニ食やインスタント食をおいしそうに描いたり、現状肯定的、保守的なところが気になった。だけど、それは妬みなんだろうな、オジサンの。若い世代には、「今が一番いいんだ」「君たちは祝福されているよ」って、力いっぱい言ってあげないといけない。それが大人の責任なんだろう。

もう一本、『トラ・トラ・トラ!』。これには、度肝を抜かれた。僕が三歳のころに公開された映画だが、『スター・ウォーズ』が霞むほどの圧倒的な戦闘描写。本当に、わが目を疑った。
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滑走路から離陸しようとする戦闘機が、地上で走りながら爆発してしまう。よくあるアクション映画のようにバーンと粉みじんに吹き飛ぶのではなく、骨組みをむき出しにしながら並んでいる同型機に突っ込み、整備兵が逃げ惑う。戦闘機からは、回転したプロペラが機体から飛び出し、そのまま滑走路を跳ねる。
これらはリモコン操作で走らせたレプリカの戦闘機を実際に爆発したもので、ミニチュアではない。偶発性のかもす迫力。しかし、映画自体はオープニングからして、丁寧に構図が設計されている。それゆえ、予想外の爆発やアクシデント的な破壊シーンが生々しく感じられる。
この映画に対して、「何が言いたいのか」「メッセージが分からない」といった批判を読んだが、まったくナンセンスな話と思う。


“えぇっっっ!

この電通さんのデザイン料200万円!

高すぎる!と率直に思った件”

悪いんだけど、また共産党。根拠も示してなければ、代案も具体案もない。これじゃあ、素人の難癖じゃないか。国会議員の歳費は2千万以上と言われているんだから、問題だと思うなら具体策を提示しないと。「えぇっっっ!」なんてツイートしてる暇があるならさ。
本村伸子議員にはメールで意見を送ったけど、何の返事もない。Twitterで「えぇっっっ!」と驚いているだけで何の対策も考えられない国会議員なんて必要ないよ。ソースを示さないなら、同じ構造でデマを流布できてしまう。なんでこんなに無責任なの?

俺だって電通は嫌いだよ。確かに、政府のお金の使い方には不透明な部分が多すぎるかも知れないよ。だから、それを解決するのが国会議員の仕事じゃないの? 「えぇっっっ!」と驚くのが仕事なの?
うっかり、「また共産党」と書いてしまったけど、三鷹市の共産党議員に意見を送ったら、返事をくれたし、市民のために活動していることをちゃんと立証してくれたよ。そういう誠実な姿勢は、俺はどの党であれ評価しますよ。無責任に曖昧に、問題の所在をウヤムヤにするくせに自分の感情だけは最優先にする、その卑怯な態度を責めている。

(C)2019「天気の子」製作委員会

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2020年9月 3日 (木)

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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.4 本日発売
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6月ごろから準備してきて、ようやく発売となりました。イマイ製キットの素組みレビューを中心にした、構成・執筆です。河森正治さん、宮武一貴さん、高荷義之さんへの各インタビューは、取材交渉の段階から自分で行いました。
すでに次号のアイデアもいくつか提出しましたが、従来とは考え方を進歩させて、メリハリのある迫力ある誌面にしたいと思います。


昨日は、猛暑の中を歩いて歩いて、原美術館へ。場所が分かりづらくて汗だくになってしまったが、着いてからは建物の放つ静謐な雰囲気に飲み込まれた。
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開催されてるのは「メルセデス・ベンツ アート・スコープ 2018-2020」で、出品作家は3人。展示スペースは狭いわけではないが、一階と二階で5部屋なので妥当だろう。
一階の広いサンルームに、カンバスを裏にしたような板が、たくさん立てかけられている。一見すると、まだ展示準備なのか?と思ってしまうほど雑然としている。よく見ると、壁のほうを向いた面にはオレンジやグリーンの鮮やかな蛍光色が塗られていて、その色が壁に反射する。少し時間をおいて見に行くと、その反射具合が微妙に変わっている。部屋に照明はない。
部屋の隅にはスピーカーが置かれ、かすかなノイズのような音が聞こえている。すると突然、窓の外の蝉の声が意識された。そのノイズを聞いてからは、建物の空調の音さえも効果音として機能しはじめる。

二階へ上がると、iPodを渡される。自分でイヤホンを持ってきていたので、音を聞きながら展示室に入る。
すると、展示室はライティングされているだけで、室内には何ひとつ置かれていない。しかし、ヘッドホンから聞こえてくる声は、この部屋に彫刻があると仔細に説明する。小説を読むように、鑑賞者は何もない部屋に彫刻を想像することになる。無いものを、そこに見ようと努める。
もうひとつの部屋へ進むと、新しい音声が聞こえる。真っ暗な部屋の中で、荒れ狂うようにライトが回転しており、耳元では「あなたは私が守ります」と呟くような声がする。彫刻の置かれている(と想像させる)部屋も不気味なモノローグだったが、今度は鑑賞者の恐れに寄り添うように、声が内面に侵入してくる。


一階へ戻り、コーヒーを飲んだ。
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古い洋館を改造した原美術館は、建物も作品だ。いま見てきた数個の作品を反芻すると、すっかり意識が変わっているのが分かる。作品は僕の内側に潜入し、少なくとも建物の中にいるかぎり、作品の呪縛から逃れられない。感覚が変容している。
雨が近づき、窓外からの光線の具合が変わった館内を、もういちど歩いてみる。僕は作品から意味を読みとり、言葉に置き換えようとする。それは欺瞞なので、僕は思考を追い出そうと努める。そのような、心の葛藤をお金で買うのが美術館だ。

二階へ戻り、常設展をもういちど見直した。壁の一部がくり抜かれ、配管がむき出しになっている。そこへ鮮やかな紫色の花が絡まっており、スポットライトで照らされている。世の中のどこかで、人目の届かない場所で起きた奇跡的なドラマを、特別に覗かせてもらっているような気持ちになった。そういう異種体験を安全に提供するのが芸術作品であろう、とも思う。
映画でも漫画でも、どんなエンタメであっても、安全圏にいながら非日常を買うものだと思う。下劣な作品は、安全圏からくだらない日常を買わせようとするんだよな。地べたから離れようとしないというか。


映画は、デ・パルマ最悪の作品と呼ばれる『虚栄のかがり火』。
押見修造さんの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の原作本を買った。(映画版の感想はこちら→
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映画版では、原則的に「いい人」たちしか登場しないが、原作漫画ではモブシーンのクラスメイト(ほとんどがヤンキー)がこってりと醜く描かれていて、世界観が強烈に出ている。教師も母親も、無神経で無能な大人として描かれており、押見さんの苦悩の深さをうかがわせる。

青春漫画、エンタメ漫画としては予定調和を逸脱する脱臼ぶりを見せている。映画化にあたって志乃と加代が路上ライブを成功させて、ひとつの曲が別の曲となり、服装が変わり、ふたりがどんどん仲良くなり……という祝祭的な盛り上げ方をしたのも、理解はできる。脱臼した部分に、接木しようとしたんだ。
しかし、原作では加代のライブは笑われて終わる。志乃はラストシーンで超法規的に救われるが、加代の救いは描かれない。
人と普通に話せないことの、あの怖さを何とか映画に出来なかったのだろうか……と、未練は残る。ただひたすら、対人恐怖という現象と、誠実に向き合ってほしかった。そんな簡単に、人の戦いの勝ち負けを決めてくれるなよ……という気分。

今年は海外旅行へ行けなかった。海外へ行くと、自分は構造的に「言葉の話せない人」になる。だから、「人と普通に話せない」欠点を気にする必要がなくなる。日本社会で被っている硬直したお面を外して、裸になった状態で人と接することになる。だから、解放感がすごい。
僕はブサイクでキモいかも知れないが、その尺度すら日本社会との関係から生まれてくる概念にすぎない。海外の社会が優れているわけではない。僕が、たまたま生まれた国の関係性から逃避して解放感を満喫しているだけであり、「逃げるが勝ち」というヤツだ。

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2020年8月29日 (土)

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カップヌードルのプラモデルって、本当に組み立てて面白いの? BANDAI SPRITSさんに聞いてみた!【ホビー業界インサイド第62回】
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話題のプラモデル製品、成形の難しさ・面白さについて聞いてみました。
この取材はリモートだったため、僕も編集部も慣れずに苦労しました。そこをインタビューイの寺田 塁さんが、絶妙の手際でカバーしてくださいました。普通、取材相手が言葉を書き足すと、ポイントが増えて分かりづらくなります。しかし、寺田さんの加筆はポイントを押さえた見事なものでした。
大いに助けられて、とても面白い記事になりました。ぜひ読んでみてください。


最近観た映画は『ミスティック・リバー』、『兵隊やくざ』、『ハウス』、『あしたのジョー』、『座頭市』(1989年版)、『燃えよドラゴン』など。昨夜は、押見修造さん原作の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』をレンタル配信で。
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映画としては、「まあ、こんなもんじゃない?」といった感じ。最近の青春映画はみんなそうだが、紙芝居のような構図の中で、脚本に書かれた台詞をハキハキと喋って、だけど泣くようなシーンでは俳優のアドリブで生っぽい演技にして……可もなく不可もないと思う。
この映画を見たのは、『惡の華』の主題歌も担当したASA-CHANG&巡礼と押見さんのコラボ曲がキッカケであった()。

例によって変わった音楽だなあ……と思って聞いていたら、何度目かで「これは吃音のため、自分の名前を普通に言えない人の歌だ!」と気がついた。可愛らしい声でドモりつづける「おおしま・しの」という名前をネットで検索して、映画にたどりついた。
ASA-CHANG&巡礼の曲のほうが、ドモりに悩む少女の告白が、“表現”できていると思う。女優に「お、おおおお、大島です」と言わせても、それはドモった台詞の書かれた脚本を読んでいるだけじゃないだろうか。「本当は普通に話せる女優さんだよね」と、思ってしまう。
ところが曲のほうは、いちど喋った言葉を分解して、サンプリングで機械的にドモらせている。つまり、「本当に話したい言葉」をまず録音して、出力する段階で壊しているわけだ。それこそが、表現だと思う。本当に言いたい言葉が確かにあるのに、その通りに言えないことがドモりの怖さなのだから。

映画で表現するなら、ひととおり俳優の演技を撮っておいて、編集でドモらせても良かった気がする。それこそ、トリュフォーがワンカットの中でコマを抜いたり止めたりしたように。
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コミュニケーションが「壊れている」ことが、ドモりの本質なのだから、スムースに普通に映画を撮ったところで、その苦悩が表現できるとは思えない。映画の原理の部分で、なにか工夫しないと。
……まあ、素直に良かったシーンを誉めてやりたいんだけど、決して高望みではないと思う。


『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の話題をつづけると、欠けた部分のある若者同士が依存しあいながら互いを厳しく責め合う、息の詰まるような人間関係は押見修造さんの独壇場と思った。人間関係って、少量なら薬、多量なら毒……というだけなのかも知れない。

『志乃ちゃん』はドモり。僕の場合は、猛烈な発汗。赤面症を笑われている同級生もいたっけ。他人からは、「気にしすぎ」「誰でも人前に出れば緊張する」「我慢しろ」「甘えるな」などと言われつづけた。
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大島志乃が映画のクライマックスで鼻水をたらして叫んだように、「なぜ?」「どうして?」と思う。今でも発汗することがあるし、話し言葉が他人には聞きづらいらしく、インタビュー中でも「えっ?」「はい?」と、必ず聞き返される。これが、いまだにグサッとくる。

父親が高圧的で、突発的に大声で怒鳴ることがあったため、萎縮しながら幼年期を過ごしたような気がする。僕が口の中でモゴモゴ話すものだから、父親は眉をしかめて「ああ!?」と、ヤクザのような聞き返し方をした。それが怖くて、ますます黙りこんでしまった。
学校でハキハキと喋れなかったのは、そんな家庭環境のせいかも知れない。小学三年のとき、イジメ気質のある同級生に「無口さん」とあだ名をつけられたが、黙って耐えていた。
その理不尽な抑圧の中から何とかして自分の……頼りない武器を見つけ、度重なる挫折の中で、その武器を少しずつ磨いて……これ以外の生き方は、自分にはなかった。だから今、こうして好きなことだけで暮らしていけることを、誇りに思っている。この安寧は、自分の力で手に入れたんだ。

しかし、今でもたまに、「廣田は教室の隅っこでウジウジしていたヤツだろうから、いじめても大丈夫だな」という加害欲求をむき出しにしてくる人がいる。中年になっても、まだそういう感覚の人がいる(笑)。仕事の上で、陰湿な嫌がらせをしてくるタイプ。一言でサッパリとすまさず、ネチネチと長文メールで責めたてる人(父親がまさに、そういうモラハラ男だったけどね)。
僕たちは、考えの違う人ともこの世界をシェアして生きていかねばならない。だけど、向上心がなく攻撃本能で生きているケダモノは、そんな風には考えてくれないからなあ……。

(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

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2020年8月23日 (日)

■0823■

ロボットアニメの必須アイテム“ヘルメット”を、「伝説巨神イデオン 発動篇」はどう使ったか?【懐かしアニメ回顧録第69回】

アキバ総研さんで連載している、最新コラムです。


木曜から金曜にかけて、泊りがけでプレオープン中の「角川武蔵野ミュージアム」と、すぐ近くで開催している「チームラボ どんぐりの森の呼応する生命」を見てきた。
なぜ泊りがけかというと、夜の回の「どんぐりの森」を見てから、翌朝、武蔵野ミュージアムへ行く日程にしたかったから。知らない街へ泊まって、のんびりと地元の居酒屋で飲むのが趣味でもあるし。

まず、「どんぐりの森」。
結論から言うと、どんな雰囲気の催しなのは、入場料を払って入らなくても、会場の東所沢公園の沿道を歩けば、誰でもタダで見れてしまう。
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会場に入る前、検温と除菌スプレーは良いとして、ビニール手袋をつけさせられるのは、あまりにも過剰に感じた。18時半から入場開始だが、まだまだ暑く、東所沢駅から11分も歩いてきて汗だくなのに、マスクはとれない、手袋をしなければならない……。落ち着いて作品のなかを散策できる気分ではない。
常設展だそうなので、もっと涼しい季節に行ったほうがいいだろう。それに、teamLab / チームラボの作品なら豊洲に行ったほうが迫力ある作品を、ストレスなく見られると思う。


さて、朝霞駅前のホテルで一泊して、翌朝は角川武蔵野ミュージアムへ。朝から酷暑のなか、11分も歩いて到着。
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まるで、外国の遺跡か城砦かと思うような、視界のほとんどを覆う巨大な建築に圧倒される。こればかりは、間近で見ないと分からない。
そして猛暑の中、汗だくで会場内に入ると、1階のギャラリーとラノベ図書館しかオープンしていないという。3~4階の面白そうな図書館などは、一切公開していない。周辺の施設も、ごく片隅がひっそり開いているだけなので、11月の本格オープンまで待ったほうが、断然いい。

物足りなさはあったものの……、唯一開催されていた企画展「隈研吾/大地とつながるアート空間の誕生 − 石と木の超建築」。これは素晴らしいクオリティだった。ミュージアムと関連施設のメイキングなのだが、人に「モノをつくることの意図、価値」を伝える見せ方としては、間違いなく第一級の展示であった。
入り口も出口も、順路もない。どこから見てもいい展示になっている。壁には、めいっぱいギッシリと読みやすい文字が並び、開かれた空間には建築模型が全方位的に(順序をもたず)並べられ、その説明と実際の建物の写真は、柱にレイアウトされている。それぞれの建築模型が、ゆるやかな高低差をもって置かれているのも良かった。


いちばん奥の壁には、隈研吾さんの建築物とその周囲の環境を丹念に撮った写真が、左から右へ流れるように映写されている。
もちろん、めいっぱい大きく。画面のしたの方には、隈さんと写真家の方のやりとりが床にはみ出る状態で書かれており、この展示がいちばん良かった。写真集が売られていたが、この思い切りのいいインスタレーションの心地よさには、遠く及ばない。

実はギャラリーのスペースは大して広くないのだが、満足してミュージアムの外へ出ると、メイキングを頭に入れたものだから、建物の外観が情報をまとってギュッ!と詰まって見えるのだ。
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写真を撮りそこねたが、周囲のベンチまで、この建物にあわせた幾何学的デザインになっているのだから、恐れ入る。
過去に学び、最新技術の建造物というかたちで未来へ手渡す、これこそが文化なのだと思う。


“フェミニズムなる学問は成り立ちからして「批判を避けてフェミニストがフェミニズムが正しい事を確認する為に設立した」学問であり、Twitterでフェミニスト批判として指摘されがちな「まともな査読や検証がない」「根拠がなく個人の主観が全てである」「理論が正しい事を自明としてる」「異なる意見を受け付けない」というのは見当外れな批判であり、もともとがその為の運動なのである。”

この記事からは、教えられることが多かった。
フェミニストを標榜する人たちは多様性を唱えていることが多いし、学問や主義なのだから、僕のような異物とも対話するよね……と、甘いことを考えていた。ところが、自己正当化のための学問や趣味なのだから、都合の悪い意見や批判は排除するのが当然……と。本当にそうなら、合点がいく。

男性にも、こんなことを言う人がいる。
“『#コクリコ坂から』みたいな映画は、注釈なしに放送してはいけないのではないかと思います。
男子生徒たちが好き勝手議論して方針を決めていく中、なぜ女子生徒たちばかりがただ働きさせられているのだろうか。
「1960年代当時を描いたバイアスある描写です」みたいな説明を付けないといけないと思う”

じゃあ、この人がスタジオジブリや日本テレビに具体的な提案をするのかというと、そんなリスキーなことはハナっから考えてないわけです。安全圏から不満やら不愉快やらをツイートして賛同が得られれば、あとは野となれ。そういう無責任でだらしのない意志薄弱なポンコツだから、Twitterで十分なわけだ。
「アベ辞めろ」も「○○法案に抗議します」系ツイートも、フェミニストの萌えキャラ・性表現批判同様、すべて「本気ではない」。少年ジャンプへの署名活動のように、気がすんだら逃げる()。

自分を危険にさらさずに手軽に鬱憤ばらししたいだけな軟弱さが、僕は嫌い。本人たちは硬派で、自分たちは本質的なことをしていると信じているだろうが、自衛隊の演習に反対する人たち()は災害時に自衛隊に助けてもらうのは当然の権利だと思っている。そこを「ダブスタですか」「矛盾してませんか」と責めても、まったく意味はない。本人たちは、そういう態度を卑怯とかみっともない等とは夢にも思ってない。最初からフェアに戦うつもりなどない(それどころか敵に守ってもらおうとしている)から、気軽に抗議ツイートが出来る。
そういう恥知らずのチンピラどもの難癖をどう無効化できるか考えるのは、われわれ合法的に正々堂々と戦いたい者たちの仕事というわけだ。


角川武蔵野ミュージアムへ行くため、間違えて乗り換えの多い朝霞駅前のホテルに泊まってしまったので、珍しく退勤時間に遭遇した。
みんな満員電車をマスク着用で無言で耐え忍び、駅の階段では片側が空いていても、「のぼり」「くだり」と書かれた方向だけを頑なに守る。僕自身、「ちょっとぐらい空いている側の階段を使ってもいいじゃん?」と思いながらも、大勢が右に流れたら、体が右へ向かって歩き出してしまう。

そういう身体レベルでの同調圧力を、猛烈に感じた。こんな毎日を送っていたら、理想的な暮らしを目指す気力など残らない(そのくせ、他人を嫉妬するマイナスエネルギーだけは、しっかり蓄積されていく)。
もし戦争に向かう要因が今の日本にあるとしたら、それは権力の横暴なんかではない。意志と気力を奪う、われわれ民衆同士の無言の同調圧力、意味のない習慣、異物を許さない不寛容さだ。熱中症の恐怖に耐えながら、周囲の目を気にしてマスクをつける無意味な息苦しさが、われわれを滅ぼす。

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2020年8月18日 (火)

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いつの間にか再オープンしていた、国立新美術館へ「古典×現代2020」を観に行ってきた。
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鎌倉~江戸時代につくられた仏像や刀、版画などと、現代アートの中に共通性を見い出して、同じスペースに展示している。
尾形乾山のつくった花模様の陶器のうえに、ミナペルホルン展で知った皆川明のパッチワーク作品が、天井から吊ってある。視線を天井へ動かすと、なるほど色と柄とが、きれいに呼応している。それを、和やかな、ゆとりのある配置のしたかで見せている。……陶器は近づいて見る。パッチワークは、後ろに下がって見る。こうして空間を自分で演出していく、眺める時間も自分で調整していく。それが、美術館の面白さだ。
映画館のように、受動的ではいられない。観客は、能動的に自分だけの時間と空間を、作品とのあいだに構成せざるを得ない。順路こそ決まっているが、この作品は五分以内に見ろ、このように感じろといった決まりはない。説明文など、すべて読み飛ばしてもいいのだ。


わけても感銘に打たれたのは、二対の仏像を暗闇の中に置いて、周囲に小さなライトをゆっくりと上下させてコントラストと質感をじっくり見せる田根剛によるインスタレーションだ。
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(撮影禁止なので、画像はより引用)
暗闇から声明が響いているので、まるでお寺の中へ迷い込んだような、敬虔な気持ちにさせられる。
上下するライトは、見る角度によってガラスケースへ二重三重に反射して、さまざまな表情を見せる。観客は、仏像の表面を刻々と流れる光のテクスチャーに魅了され、歩きながら様々な角度から眺めることになる。ライトの動くパターンは3分でワンセットと注記されているが、しかし、どれだけ眺めているかは観客が決める。
その奔放さが、美術館の醍醐味だ。

(同館で、なんかアニメ漫画都市トーキョーなんとかの展覧会もやっていたのだが、僕はああいうのは、しばらく見たくない……。なんというか、オタク系のコンテンツは自己の内面で完結させたいので、「ほっといてくれ」という気持ちになってしまうのだ。)


編集者から教えてもらったのだが、今度は何? Amazonプライムの解約運動ってハッシュタグで、Twitterが盛り上がったの?
なんか、三浦瑠麗という政治学者がCMに出演しているのが気に入らないので、Amazonプライムをみんなで解約するんだって。

“こんなヤバい奴を広告塔にするなんて普通はまず有り得ない。どういうルートで安倍応援団のコイツに大手CM出演の話が舞い込んだか解明されるべき。政治が絡んでるはず。”

で、何? このハッシュタグをつけてツイートするとAmazonが倒産でもするんですか? 安倍政権が倒れるんですか? 何人解約すると、具体的に何がどう好転するの? 何も考えてないでしょ?
こうやって、実効性の測れない、責任の伴わない、簡単で手軽な「運動」だけは熱心にやるんですよ。だから俺は、彼らをバカにしてしまうの。安倍政権を倒したいなら、どういう手続きが必要なのか、ちゃんと調べて出来ることをやらないと。
こんなTwitterなんて民間のSNSサービスで、目的も結果も分からない文字列をスマホに打ち込んでハイ終わり……って。あんたら、安倍総理が憎い、降ろしたいんじゃないの? 俺が反アベの人たちを嫌いなのは、「しょせん本気じゃない」から。「誰か、私たちの意向を汲んで何とかしてくれ」って他力本願でしょ、違うの? 


『となりのトトロ』で、小学生女子のサツキが働かされてばかりいるのは女性差別……と言っている人が多いようだけど、たまたま地上波テレビで放送したから『トトロ』に難癖つけてるだけだよね? 単に「テレビつけたらやってた」ってだけでしょ? なんでそんなに受動的なんだよ。
こういう人たちって、自分から面白いものを探したり、有益な物を手にするための苦労をしない。ただ、Twitterのタイムラインや地上波テレビをぼーっと眺めて、気に入らないものに脊髄反射しているだけ。カラッポなんですよ。その人の中身というか、歩んできた人生がスカスカなの。

吾妻ひでおさんのエッセイを読んでいたら、格闘漫画『ホーリーランド』を絶賛していたので、Kindleで読んだ。
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いじめられて不登校になった少年が、ボクシングの技術を独学で習得して、自分を排除してきたヤンキーたちを秒速で打ち倒していく。彼の戦う理由は「抵抗しないと、自分の居場所がなくなるから」。彼は抵抗するために、誰もしない努力を重ねて、技術を獲得した。抵抗するために、震えながら敵に向かっていく……。
その「抵抗」が、軽いんですよ。反アベとかフェミっぽい人たちは。不満だけは人一倍だけど、どうすれば不満を解消できるのか、何も工夫していない。自分の弱点と向き合ってない。

逆に俺は、自分なりのルートを見つけ、自分の強みを生かした「抵抗」をしている人なら、反アベでもフェミでも好感をいだくと思う。
まがりなりにもインタビューを試みた太田啓子弁護士。彼女の主張には納得しかねるけど、論敵の反撃をあらかじめ封じる斬りこみ方、反論を上手く利用する手腕には感服した。くやしいけど、「じゃあ、太田さんの好きにおやんなさい」と黙るしかない。「言っても無駄」という状況をつくったほうの勝ちなのよ。
石川優実さんもそう。言っている内容は「?」と思うけど、あの戦いかたは独創的だよ。自分が絶対有利な方向へ、卑怯だろうが詭弁だろうが持っていくじゃん。それで本人が楽しければ、最初の主張から遠ざかろうが運動が挫折しようが、すでに勝ちなんですよ。人間は悩むためではなく、幸せになるために生きてるんで。

理不尽な酷い目にあえばあうほど、工夫して勇気を出して自分だけの独特の「抵抗」を試みなければ、負け犬の人生しか待ってない。それだけの話です。


『ホーリーランド』で格闘技の面白さに目覚めたので、みんなの嫌いなAmazonプライムで『燃えよドラゴン』をレンタルして観た。

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2020年8月16日 (日)

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「六神合体ゴッドマーズ」の戦闘メカ「パンドラ」(バンダイ製)を組み立てて、“作画と模型の関係”を考えよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第2回)

背景布にシワがよる安い撮影ボックスを買ったせいもあり、写真がヒドすぎて見てほしくない記事ですが……そこそこアクセスを稼げているそうで、ありがとうございます。次回からは編集部で、カメラの得意な編集者に撮ってもらうので、かなり写真はレベルアップするはずです。
(本当は、この連載だけやっていきたいぐらい、入れ込んでいるので)


ここのところ観た映画は、レンタルDVDでは『コラテラル』、『ファイトクラブ』(二回目)、岡本喜八『吶喊』、配信では久々に『どついたるねん』と『時計じかけのオレンジ』、最近作ではアニメ映画『プロメア』、そして実写版の『惡の華』。
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監督の井口昇さんは、特撮ヒーローやアイドル系の人であって、決して青春映画を撮るタイプではない。なので、まあ、こんな程度でいいんではないか。
いま邦画界を覆っている「原作どおりでないとファンに叩かれる」「よって原作そっくりのコスプレが似合う、売れている俳優を探してくる」「しかし、売れている俳優に無理をさせると関係各所から怒られるので、こじんまりと破綻なく収める」パターンには、なかなか抗えないのだろう。
ひさびさにアニメ版『惡の華』を一気に見て、「そういえば実写映画版ってどうなの?」と気になったわけだが、アニメ版が表現形式のアイデンティティを問うようなシャレにならない作品だったので、両者を比べても意味がないような気もする。


監督が井口さんだと思うと責められないんだけど……、ボードレールの本の表紙の「惡の華」のキャラクターを、CGIを縦横に使って絵のとおりに作ってしまうのは、別に井口さんだけではない。そういう「原作と寸分たがわぬ再現度」しか尺度のない即物性が、僕は怖い。
漫画原作の映画って、ぜんぶコスプレばかり。原作のエッセンスだけすくって、しっかり監督の映画にしてしまおう……という次元では、ハナっから勝負しようとしていない。最近では是枝監督の『海街diary』 ぐらいじゃない、監督の作風に染めあげた映画化作品って? 俺は、映画が映画なりの主体性をもってアレンジするんなら、『翔んだカップル』や『花のあすか組』ぐらい、原作を無視してワガママをやっていいと思う。
まずは、原作そのままのビジュアルやストーリーでないと「原作と違う」とわめく即物的な感覚しかもっていないファンたちが邪魔をしている。そして、保守的なファンの反応を気にしてビクついている映画製作者たちも、主体性を捨てている。その行き着く先は、有色人種の役を白人俳優が演じてはいけないというハリウッドのたどりついたポリコレ地獄、デッドエンドだ。

主体性の欠落は別に、映画業界にかぎった話ではないと思う。出版業界の末端で仕事していても、「誰かの許可がないと好きに仕事してはいけないのではないか」「勝手なことをしたら、誰かに怒られてしまうのではないか」という根拠のない萎縮が、日本社会で常態化しているのが分かる。ちょっとした取材でも、「いったん会社に持ち帰って検討します」「上司の判断をあおぎます」。個人が決断力を発揮しようとしない。個人の意見は学校や会社などの組織に封殺されるし、その窒息状況の中で個人は「自分独自の考え」から逃避しつづけて、そのまま大人になってしまった。
でも、『惡の華』はそういう“普通人間”のクソつまんない生き方にツバを吐いて、ドロドロのグチョグチョの“真実の変態”を目指す漫画でしょ? だから、映像化のアプローチにも厳しいものが問われてくる。

長濵博史監督のアニメ版『惡の華』は原作の絵柄の向こう側へと深く潜行して、決死の思いで「ドロドロのグチャグチャ」を片手に生還し、もう片方の手で作品として社会的なフォーマット(1話30分のアニメ番組)として定着させることに成功した。
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ロトスコーピングでつくられた違和感だらけのアニメ画こそが、仲村さんが死ぬ気で超えたかった「向こう側」を炙り出す、おそらく最もマシな手段だったんだと思う。


ロトスコーピングの過程で、実写映像のもっている曖昧さ、複雑さは整理されていく。
情報が快楽原則によってデザインされすぎてしまうから、たぶんアニメ絵は「気持ち悪い」んだろう。作者の好きな物だけで構成できる漫画やアニメは、嗜好性が前面に出すぎる(その単なる嗜好性に、技術によって説得力を持たせるところに価値があると僕は思っている……そして、アニメ絵を批判する人たちは、この「技術」の部分を丸ごと見落としている)。

『惡の華』も、他のアニメと同様、線と色の面で構成されたセル画にすぎない。だが、思ったように可愛いキャラを描いてやろう、気持ちいい動きだけを描こう……という意志は、実写をトレースする工程によって阻まれる。トレースの結果、生身の肉体だけが持つ予測のつかない動き、だらしのない仕草まで、すべてセル画として描かざるを得ない。
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生身の人間の「見たくない部分」が、セル画にすることによって、デザイン的に炙り出されてくる……これぞ、ドロドログチャグチャの「向こう側」の世界ではないのか? これこそ、原作漫画が絵柄のうちに秘めた本質ではないのか? テーマが、表現方法を選択するとは、こういうアニメ化のことを言うのではないか?

つい熱くなってしまったが、アニメ版『惡の華』は単に手法だけが優れているだけでなく、未成熟な中学生同士のいびつな社会を、絶妙な構図やカッティングで痛々しく表現している。主人公を新人、脇をかためる女性たちをキャリアのある声優が演じることで、なんとも言葉にできない間合いの悪さ、気まずさ、空回りする必死さを、一呼吸ずつ丁寧に伝えてくる。

どうしてこんな作品本位の、ワガママかつ誠実な仕事ができたのだろう? いまの社会では不可能な気がしてしまう。
僕は基本的にひとりで生活しているので、ついSNSばかり目にしてしまうが、どんどん即物的に、簡単なことはとことんまでやる癖に、面倒な手続きは回避する無責任な社会が形成されていくようで、怖くてならない。映画の感想を読もうと検索しても「あらすじ・ネタバレ・考察」とテンプレのようなサイトばかり、あらすじは書き手の解釈ではなくてウィキペディアのコピペ……こんな雑な、右から左へハンコを押すような感覚で、作品の価値なんて測れるんだろうか?

(C)押見修造/講談社 (C)2019映画「惡の華」製作委員会
(C)押見修造・講談社/「惡の華」製作委員会

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2020年8月10日 (月)

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レンタルDVDで、『ハイキック・ガール!』。主演の武田梨奈は、『ワカコ酒』でアクションなしの演技でも注目された。まだ20代、いい女優人生だと思う。
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さて、案の定、ネットでは「ストーリー性がない」「ストーリーが薄い、分からない」といった批判が散見された。映画の本質を物語だと思っていて、あらすじを知ったら「ネタバレ」で面白さが損なわれると信じている人は、歌詞カードを読んで音楽のよさが分かるのだろうか? 僕は、音楽のメロディに相当する部分が構図やカットワークだと思っている。

では、『ハイキック・ガール!』の構図はそんなに凝ったものなのか? 印象的なカット割りやカメラの動きはあるのか? 実は、映画のほとんどが「嘘のないアクションを克明に見せること」に徹しているため、俳優の動きが収まれば十分……というロングショットばかりだ。カットを割ったらアクションを“盗んでいる”(編集時に動きを抜くこと)と疑われるので、長回しがほとんど。

さらには、一度リアルタイムで見せたアクションを、スローでもう一度見せる。『ピアニストを撃て!』で、トリュフォーが俳優が建物から転落するシーンを何度か繰り返したように、そこには「種も仕掛けもございません」と言いたげな見世物性がある。ヌーヴェル・ヴァーグの場合、撮影や編集による作為を排除しようとした結果、素人の撮ったような映画になったわけだが、『ハイキック・ガール!』は(物語や構図よりも)アクションを見せることを優先しようとした結果、ひとつのスタイルを獲得したのだと思う(『マッハ!!!!!!!!』のパクりとも聞くが、パクりは表現ではないのか?)。
理知的な構図だから映画なのではない。文学性のあるカット割りだから映画なのではない。映画の本質は一種類ではない。『ハイキック・ガール!』の場合、若い女優が本当に相手を蹴ったり、自分も蹴られたりする「生の記録」に本質がある。


とはいえ、監督がまったく意図しなかったであろう文学性も、あちこちに垣間見える。
映画の前半では、空撮の高層ビル街がシーン転換に使われていた。後半、武田梨奈の演じる空手少女が敵の罠に落ちてからは、地面から見上げた銀色の曇り空が、もっぱらシーン転換に挿入される。空撮のビルからあおりの曇り空への変化には、明らかな「ストーリー性」がある。……が、映画(というよりバトル)の舞台が都会ではなく山中に移ったため、やむなく空ばかり撮っていたのが真相ではないだろうか。
そうした、現場の都合がことごとくフィルムに影響してしまうところも、ヌーヴェル・ヴァーグっぽい。

もうひとつ、映画冒頭で、武田が神社で練習している男たちの間に、ズカズカと乗り込んでいく。
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これは、縦の構図であるが、左右方向へ男たちが次々とハケることで、武田が門を開いている(自分の道をつくっている)ように見える。まあ、こういう左右対称の構図と縦方向のカメラワークは、黒澤明の映画によくあるだろう。
なのでやはり、この“上手な” “意図的な”カットも、『ハイキック・ガール!』の本質とは思えない。いい表情の抜き撮りもあるのだが、この映画は「捨て身のアクションの記録」に他ならず、単なる記録が「映画として程度が低い」などとは誰にも言えないはずだ。

その記録性って、僕の言葉でいうと「AV性」なのかも知れない。(先日、『検察側の罪人』の恫喝シーンについて似たことを書いた。→
フィルムで撮られたポルノ映画は、(形式上の制約もあって)明らかに創作、表現の領域に属していた。AVは長回しワンカット、嘘のないセックスの記録が主体となった。作為のないビデオ映像を「表現」と呼ぶには、ちょっと覚悟がいる。
だから僕は、『ハイキック・ガール!』の記録性を語るにはヌーヴェル・ヴァーグを援用せざるを得ない。映画を、「なにか文学的なテーマを伝えるためのツール」と信じきっている人が、あまりにも多すぎるのだ。何らかの意味あるメッセージを伝えるのが表現、という素朴な思い込みがある。我々の信じている古びた伝達手段を壊すことだって、表現の役割ではないだろうか。

それにしても、武田梨奈の大胆不敵なセリフや表情、激しいアクションの中で、人をくったようなユーモアを混ぜる表現力には魅了された。そう、女優の顔だって表現のひとつなのだ。メッセージ性なんてものがあろうが、なかろうが関係ない。


玄関先に“中傷”するビラ 青森の実家に帰省
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(画像は、上記にリンクした記事より引用)

驚くことはない、人間ってこれぐらい排他的で意地悪な生き物でしょ? 覚えがないとは言わせないよ。
僕が怖いのは、差別してもいい他人をサーチ&デストロイするのは人間の本能なのに、そこをすっとぼけて「法的に取り締まろう」などとその場かぎりの解決策しか思いつかないこと。何を見てもセクハラだヘイトだ、「犯罪として厳罰を課すべきだ」と、新しい武器を欲しがるほうが、俺には恐ろしい。
そういう人たちが、戦闘機を買うな兵器を持つな戦争反対と喚いているのだが、私的制裁という即効性の高い暴力に訴えたがるのは、いつだって彼らの方ではないのか? ハッシュタグをつくってRT数で相手を屈服させるのが暴力でないとしたら、何なんだ?

(C)2009ハイキック・ガール!パートナーズ

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