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「天空のエスカフローネ」の主役ロボットが、「竜」に変形する意味と効果【懐かしアニメ回顧録第59回】
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アニメーションに登場する巨大ロボットは、あらかじめ合金玩具かプラモデルになることを前提にデザインされてきたので、劇中での演出から評価されることは、ほとんどなかったと思います。ガンダム・シリーズのロボットも、いきなり「宇宙世紀○○年の技術では……」と劇中の架空設定の話ばかりで、大変気の毒と思います(模型雑誌も、すべてそういう解説ばかりですね。架空の設定話のほうがライターも編集者も「考えなくてすむ」から楽というだけの話ですよ。演出のことを書こうとしたら、実写映画も幅広く見てないと無理ですから)。
今後、僕がどんどん演出面から評価してあげます。


台風一過の日曜日、いっぱい買い物をして晴れ晴れとした気持ちで、自分のマンションに帰ってきた。エレベーターを待っていると、玄関からメガネをかけた女性が歩いて来たので、一歩退いて場所をあけた。こういう時、挨拶をすべきなのだろうが、無視されることもあるので黙っておいた。
女性が僕のあとにエレベーターに乗ってきたので、ボタンを押そうと「何階ですか?」と聞いた。女性は「いえ、大丈夫です」と答えた。僕と同じフロアで降りるのかと思い、「ああ、五階でいいんですね」と、僕は答えた。
さて、エレベーターは五階に着いた。入り口近くに立っていた僕は、女性を先に降ろすのが礼儀だと思い、「開」ボタンを押して待っていた。すると女性は、「別の階ですから」と答え、そのまま立っていた。僕は先に降りて、女性は階数のボタンを押していないエレベーターの中に残った。

ちょっとよく分からないのだが、おそらく僕に階数を教えたくなかった、何階に住んでいるのか知られたくなかったのだろう。
あるいは、他人の世話になりたくない、関わりたくないという気持ちも分かる。そういう時、僕はエレベーターには乗らず、ちょっと周囲を歩いたり、郵便ポストに投げ込まれたチラシを眺めたりして時間をつぶす。たまに、同じようにロビーで気まずさを避けている人がいるので、「うんうん、分かりますよ」と親近感を抱きながら、僕はさっさと一人でエレベーターに乗る。
だけど、昨日は逆であった。
もしかすると、僕が泥棒か性犯罪者に見えたのかも知れない。ひょっとすると、ものすごく臭かったのかも。でもだったら、エレベーターに一緒に乗るのもイヤだったと思うのだが……。


僕は今年から、小学校の同窓会を欠席することにした。直接的な理由は、二年前の同窓会で女性たちが話しているところへ話しかけたら、確か3人いたと思うのだが、全員に無視されたこと。
別にセクハラ発言をしたのではなく、どれぐらい酒を飲めるか、という話題だったと思う。そのうち一人の女性が、facebookでかなり大量に飲めると書いていたので、「あなたが一番いっぱい飲めるんじゃない?」とか、そんなことを話しかけた。でも、その本人も無言。周囲も無言。僕は、男たちとの話の輪に戻った。
その後、facebookでのリアクションもなくなった。彼女たちが反応しているのは、結婚して子供もいる男性たち。少なくとも僕らの世代では、妻子持ちであることは、絶対的な安心材料。僕は彼女もいないし、結婚願望もなく、ひとりで生きるのが楽しいのだが、妻子持ちに比べると「何が楽しくてひとりで生きているのか分からない」と怪しまれてはいるだろう。「そんな得体の知れないヤツが一人前に同窓会なんて来て、一人前に異性に話しかけるな」と、そう言われたような気がした。そう思ったほうが、少し気が楽じゃない? 自分の会話スキルが下手すぎたとか、何か異様な犯罪者的なムードを発散していたのではないかと悩むよりは。

ちょっと卑屈とは思うけど、距離を置いたほうがお互いのためだろう?
妻子に暴力をふるって、時には殺してしまうような男さえいるけど、やっぱり、実社会で既婚者の安心感は鉄壁ではないだろうか。
結婚していなくても、初代面でいきなり「僕の彼女がですねえ」「私の付き合ってる彼氏が」と切り出す人たちの気持ちが、俺には分かる。社会性を示すには、「そのうち結婚するかも知れない相手がいますので」「ひとりで悶々としている気持ち悪い独身とは違いますよ」と、嘘でもいいから相手に示したほうが賢い。


僕には、異性の友達がいない。仕事以外で女性と話すことはないし、特に話したいとも思わない。男はみんな女に飢えている、それは幻想だ。
表現規制に反対する活動をしていた頃は、BL好きの女性から僕の知らない世界の話をいろいろと聞かせてもらって、けっこう楽しかった。もし、「綺麗なお姉さんと会話したい」程度のことなら、キャバクラやガールズバーで十分。何だったら、VRとかAIでいいんじゃない? それって、「女性をひとりの人間として見てない」のかな? エレベーターや同窓会で無視するのは、男性の人権に配慮していると言えるの? よく分からない。

僕は、男と女は社会で同権とは思っていない。どうしても体力や体格に差があるし、女性の方が圧倒的に損をしていると思う。政治活動でも、街頭でビラを配っていると、女性ばかり絡まれると聞く。もちろん、男に絡まれるんだよ。体の大きな男が目の前に立ったら、そりゃあ怖いだろうと思う。男という男が嫌い、男はみんな憎いって女性がいるのも、分かるんだ。
だから、男女が同じ権利を持つには、男性が女性に立場を譲ってあげないといけない。それを不合理とは思わない。
僕は歩いていても女性に道をあけるし、重たいドアを開けるし、席だって譲るよ。それは、女性のほうが損をするような社会だから。……でも、もういいよね。必要ないよね。異性のいない国へ行きたい。「親切してやってんだから感謝しろ」とは、少し違う。だけど、僕の考え方って報われない。消耗する。
性別は、めんどくさい。男でも女でもない存在になりたい。

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2019年10月13日 (日)

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アオシマが「未来少年コナン」のプラモデル化で模索した「アニメ」から「模型」への最適解【ホビー業界インサイド第52回】(
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「ホビージャパンヴィンテージ」で取材させていただいた青島文化教材社さん。『イデオン』の取材中にふと気がついたのは、アニメの表現が違えば、プラモデル化の商品コンセプトも作品ごとに違っていて当然ではないか、ということ。もちろん企画者や時代による技術の変遷もあるだろうけど、『コナン』は作画のシンプルさに対して、実在する「機械の模型」として強烈なアプローチがなされていることが明らかになったと思います。
もしバンダイが作っていたら、ガンプラと区別のつかないものになっていただろうし、それが良いのか悪いのか、僕らはもっと考えてもいいんじゃないかと思います。


最近レンタルしてきた観た映画は、メリル・ストリープ主演の『幸せをつかむ歌』、ハワード・ホークス監督の『赤ちゃん教育』。
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メリル・ストリープは年齢以上に、性格の破綻したアマチュア・ロック・ミュージシャンという役どころがイメージをぶっ壊していてナイスだった。日本語吹き替えの一柳みるさんも、捨て身の演技だったと思う。

ネット配信が盛んになって、一週間以内に物理的に返却しなきゃいけないレンタルDVDは衰退しつつあるけど、ネット配信は「つまらないから、また次に見よう」と、安易にやめてしまうことが出来る。強制力がないので、作品一本の価値が軽いんだよね。
映画館で観ることの価値はスクリーンの大きさや音響の良さなどより、始める時間も終わる時間も映画館が決める(観客がコントロール下に置かれる)、そこから生じる緊張感なんだと思う。


関東にひさびさに巨大な台風が来て、「こんな時に、そうまでして目立ちたいか?」という人たちが、Twitterでは散見された。危険な場所に行って動画を撮ってくる人は分かりやすいほうで、「災害に備えてコレとコレは絶対に準備してください」「まだまだ油断は禁物ですよ」「今度はこういう危険が出てきますから、皆さん、気をつけてください」と命令したがる人は、僕はけっこう怖い。
たとえ「私は○○の専門家なのですが」と前置きしていても、不特定他者に対する支配欲がむき出しになっていて、恐怖を感じる。

そんな中、NHKから国民を守る党の三鷹市担当とされる山本たかひらさん(同党の議員ではない)が、昨年の大阪の台風の動画をあたかも現在の江戸川区かのようにツイートして、大炎上してしまった。アンチN国が、一晩で優勢になった。
僕は山本さんに投票したし、彼が政敵を批判する時に「(違法薬物をやっているかも知れないから)尿検査をすべき」とツイートしていたので、DMでクレームをつけたこともあった。僕のイベントに招待したことさえあった(多忙とのことで来てくれなかったが)。地元民なりに愛着を感じていたので、彼が結果的にデマを広めたことに少しは責任を感じている。

最初は憤りしかなかったのだが、「山本さんは学習障害なのではないか」という書き込みを見て、ハッとした。過去の動画を見ると、確かに彼は、論理的な話が出来ない。参ったなあ……。デマを広めた責任はとってもらいたいが、どこからどう話をすればいいのか……。


埼玉補選での立花孝志さんの手際は見事だし、しっかりと大義名分も用意してあるのだが、それを理解して評価できるのは、同じぐらい頭のいいエリートだけで、一般の有権者には伝わっていないと思う。
立花さんの頭のよさは「インテリ」って意味ではなく、「パチンコ必勝法」的な、処世術としての実用的賢さだから、お上品な左翼系知識人には嫌われるだろう。
一方、自分でモノを考えられない底辺(って言い方はよくないとは思うのだが)の人たちって、思ったよりも数が多い。ネットでよく「○○で草」「○○はバカ、キチガイ」としか書けない人がいる。2ちゃん全盛期から、定番のスラングしか発せない人たちっていたよね? そういう人って、荒しにでもなるしか居場所がない。でも、彼らも有権者なんだよね。そして、自分でモノを考えられない、自分の意見も何もない(だから騙されやすいし、反○○って単純な考えに流されやすい)人たちが、世の中の七割ぐらいじゃないかと、僕は踏んでいる。だから、投票率が低いんだよ。

自分でモノを考えられなくて、人の意見に対して「違う」「そうは思わない」程度しか言えない人たちは弱者であろうから、責められない。でも、N国党はそういう「多数派」によって勢いを削がれつつある、と感じている。

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2019年10月 6日 (日)

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レンタルで『マディソン郡の橋』、ルイ・マル『鬼火』。
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『マディソン郡~』は、当時言われていたように陳腐な昼メロなのだが、最後には泣いてしまった。僕だって、映画を観て泣く。というか、たいていの映画で泣いている。ただ、「泣いた」ことをもって映画の評価に代える、「私の情動が最優先なので、それ以上は語りたくない」「ネタバレになるので言語化しない」という態度には、背筋が寒くなる。「泣いた、泣いた」で、どんどんバカになっていく。
「泣いた」と「ネタバレ」は、「誰かにとって不快な表現は法律で禁じろ」式の、思考の手抜きに直結している。「犯人が憎いから、裁判抜きで死刑にしろ」……情動を最優先すると、結局はそこへ漂着する。


クリント・イーストウッドとメリル・ストリープが互いを誉めながら惹かれあっていく様子には、鼻白む思いがするのだが、ほぼラスト近く、2人が再会するシーンで一気に惹きこまれた。
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イーストウッドはトラックから降りて、雨の中、ストリープの方へ歩いてくる。しかし、ストリープは旦那と買い物に来ているため、自分たち夫婦のトラックの助手席から動けない。
彼女の脳天を打ちのめすように、雷の音が大きく響き、不意にカットが切り替わると、それは旦那がストリープの横に乗り込んでくるアクションの途中である。
イーストウッドはトラックに戻り、夫婦のトラックのすぐ前を走る。ストリープは今すぐにもドアを開けて、イーストウッドのところへ行きたい。ところが、旦那やイーストウッドは自分の感情で動いているのに、ストリープは旦那の横から動くことが出来ず、ただ、イーストウッドの去りゆくトラックを凝視しているだけだ。

つまり、「自分の意志で動けず、ただ事態を見ているしかない」登場人物に、「ただ映画を観ているしかない」観客は感情移入せざるを得ない。登場人物に共感させるには、演劇や小説とは異なる映画独自の手法・メカニズムが必要になってくるのだ、と意識しておいてほしい。
「泣きました!」ですませていると、どんどんバカになっていく。「浮気は許せないので、この映画の登場人物には感情移入できません」とかさ。劇の外と中をゴッチャにした倫理観も、バカの兆候だと思うんだよな。


先日、知り合って日の浅い人に「NHKから国民を守る党に投票したし、立花孝志を支持している」と言ったら、「ええーっ」と呆れられた。彼は「俺は左翼といってもいいような人間ですよ」とも言っていたが、僕だって今後、共産党やれいわ新撰組に入れるかも知れない。
それで彼とケンカになったわけではなく、脱原発デモや秘密保護法に反対する活動をしていた自分が、単に「右傾化」しただけかも……と、立ち止まって考えるキッカケになった。

立花さんは揚げ足をとられる言動が多すぎるので、さすがに少し気をつけてもらいたいが、忘れられない動画が、いくつかある。
そのひとつは、6月の臨時総会のもの()。9分あたりから、能力の低いボランティアの人の仕事を奪いたくない、失敗しても構わない単純作業をあえて作る……という話をしている。「伊藤くん」という人の話をしているうち、ちょっと涙声になって、後から「伊藤くんを見ていると、自分の辛かった時を思い出す」と、ちょっと言い訳のようなことを言っている。
「頭の悪い民族は虐殺しよう」なんてことを、自分の理想や野望としてストレートに、ダイレクトに語るような、そんな便利な分かりやすい人間ではないよ。彼の中にも、俺の中にも、神と悪魔がいる。俺の父親は殺人犯だし、「決して人を殺さない」人間なんて、この世にいない。人を生かしうる人間は、同時に人を殺しうる。


国会議員や政党の偉い人たちが、立花さんの元発言を精査しないで、単なる「ええカッコしい」で「人道的に許しがたい」とか何とか、耳障りのいい綺麗事を紋切り口調で並べていることの方が、俺は恐ろしい。そうやって議論や考察、検証、思考が空洞化していくんだよ。どんな映画を観ても「泣いた」「ネタバレだから詳しくは言えない」、それと同じこと。しょせん、言葉にするほどの事じゃないんだろ? 信念もなければ、自分が何にどう感動したのかも探ろうともしない、「お気持ち」がすべて。この20年ぐらいの日本人、ずーっと「お気持ち」主体だよね。

日常の中に、どうにも解決できないモヤモヤがあって、そこに「アベ政権」あたりをポコッと当てはめているだけじゃないの? 
仲間と当たり障りのないデモをやって「増税されちゃったけど、次こそがんばろう」「まだ次があるよ、次が」……その人の生き方が、ぜんぶ露呈しているよね。本気じゃないんだよ。本気だったら、右翼であるか左翼であるかなんて関係なく、互いに認め合えるはずじゃないだろうか。

© 1995 - Warner Bros. Pictures. All rights reserved.

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2019年9月28日 (土)

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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.2 30日発売
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今年2月の月刊モデルグラフィックス誌の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は60ページほどの特集でしたが、作例が半分以上を占めていました。なので、僕が独力でつくったページは1/3程度で、あとは作例ページに入れるコラム類、その他、版権元さんとのやりとりを引き受けていました。

今回の『イデオン』は作例ページをのぞく約40ページをひとりで構成し、樋口雄一さんや湖川友謙さんのインタビューは自分でとりつけ、ランナー状態のキットの撮影も自分でディレクションし、次にはキットをすべて素組みして、二度にたわってスタジオで撮影してもらい、どの写真をどう配置するかページのラフを切り……と、アオシマさんの取材申請以外は、すべて自分でやりました。
何しろ、サンライズへのプレゼンも僕がやって、「まあ、廣田さんの著書的な扱いなら、何も口出ししませんよ」と(笑)、その約束は守られて、アニメ記事に付き物の「版権元からの理不尽な直し」は一文字もありませんでした。
アオシマさんの信頼も得られて、パーフェクトな仕事ですね。


これが、僕なりの「模型誌」です。
【模型言論プラモデガタリ】でも『イデオン』を取り上げ、あの時の取材がベースにはなっていますし、表紙は【プラモデガタリ】会場に持ち込まれたタンゲアキラ氏の「作品」をそのまま使わせてくれってお願いしましたので、読者が参考にすべき「作例」とは違います。もうひとつの「作例」?には、僕はまったく関与していません。

模型雑誌が惰性のように続けている、「どんなスゴイ作品だったかストーリーとキャラ解説を少々」、「では後はお待ちかね、有名モデラーたちによる作例です、どーぞ」。さもなくば「監督のロングインタビューつけました、ここに正解が書いてありますよ、多分」といった、怠惰で無責任な誌面構成に抵抗があった……というより、いつまでそんなことやってんの?と、おそらく千人以上のアニメ関係者にインタビューしまくって、ここ数年はあらゆるジャンルのプラモデルを素組みして、模型メーカーにどんどん取材するようになった僕に、やることはただひとつでしょ?

アニメーションの構造と、プラモデル製品の構造に、関連性を見い出す。探す。検証する。理解する。
これは、アニメに詳しいだけじゃ出来ないんです。また、模型界の常識だけではアニメ媒体に深くダイブすることは出来ない。「作画」までは気づいても「演出」には踏み込めない。言うまでもなく「プラモもアニメも大好きです」程度では仕事、ことに新しい仕事はできません。
アニメとプラモの隙間を埋めるのであれば、紙媒体だって、まだまだ使えるじゃないか。作品数の豊富な80年代アニメなら、団塊ジュニア世代が支えてくれている。勝算はある。まだまだ、これからやること一杯あります。


一昨日は、六本木の森美術館まで「塩田千春展:魂がふるえる」へ。
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雑多な店舗が無秩序に散乱した、森タワーまで汗だくで歩いていく。1Fのチケットカウンターで国立新美術館の半券を見せると、200円引きになる。
まあ、それは有難いとして美術館へはどう行ったらいいの? なんとシティビューとかいう展望台と同じフロアにあるので、そっちの客と一緒にエレベーターに乗らないといけない。静かに美術館に行く客と、展望台へ行くノリノリの観光客がゴッチャ……で、まず気持ちは削がれるよね。
フランス料理を食べに来た客と、ホッピーとモツ煮を食べに来た客を混ぜてしまうぐらい、無神経だと思った。

美術館を出ると、展望台も見られる。景色は最高に素晴らしい。だけど、あちこち入っちゃいけないスペースがあって歩きづらいし、静謐な美術館を出てきた客に何を感じさせたいの? 国立新美術館は、そこまで考えてるよ。出口から外に出ると、空間が余韻になるんだよ。
森タワーの俗物ぶり、乱雑ぶりが、あれこれぶち壊しにしていく。


それぐらい、塩田千春展は良かったんだけどね。作品の下をくぐったり、立ったり座ったりして眺められる広大なインスタレーション。単純に、「こんな何千万本の糸、どうやって展示してるんだ?」という驚きもある。赤は血管であり内蔵であり……という直喩が、僕のような無知にも優しい。
泥まみれの風呂で、ひたすら顔を綺麗にしようともがく映像作品も、学生時代に見た実験映像のようで気持ちよかった。映画館より美術館が面白い。毎週、どこかの美術館に行きたい。
六本木の裏手の、安い飲食店も面白いし……。
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そして、昨日は全日本模型ホビーショーか! あれこれ「いつ出るんですか、これ欲しいなあ~」などと下品に好き放題を話した後、「連載見てますよ」「本読みました」と言われて、ドキッとすることが何度かあった。取材の成果は、また後日!

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2019年9月25日 (水)

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プラモデルなのか、ゲームグッズなのか? 「1/12テーブル筺体」を発売した株式会社ヘルメッツって何者だ?【ホビー業界インサイド第51回】
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ヘルメッツ代表の兒玉さんは理工学系のオタクで、文系の落ちこぼれオタクの僕には欠如している知性と熱狂をお持ちの方でした。機械や数字に強いオタクには、一方的な憧れがあります。

月刊モデルグラフィックス 2019年11月号 発売中
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今月の「組まず語り症候群」は、上記のヘルメッツさんの「1/12テーブル筺体」を取り上げさせていただきました。シューティング・ゲームにハマれなかった僕の、羨望の気持ちを書きました。


この十日間ほどの間に観た映画は、ゴダール『パッション』、野村芳太郎『砂の器』、シドニー・ルメット『オリエント急行殺人事件』。
『パッション』は相変わらず何がなにやらサッパリ……なのだが、ドキュメンタリックなシーンに、そのシーンがあたかも過去の出来事であるかのようなナレーションが被さる。僕たちは、たった今、目の前で流れている映像を「映画における現在」と勝手に解釈している。ゴダールは、その法則を壊す。彼の映画では、いつが「現在」なのか、見失ってしまうことがしょっちゅうだ。

『砂の器』は「ストーリーを説明してみろ」と言われても面倒なだけなのだが、クライマックスで丹波哲郎演じるベテラン刑事が事件のあらましを推察し、同時に犯人である作曲家の演奏会がスタート。オーケストラをBGMに、刑事の仮説と作曲家の追想が“同じ映像”として展開される。その構造こそが、『砂の器』であって、最後に誰が死んだとか何が起きたとか、そんなことは映画の「構造」の前には無意味。
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思考を停止させ、言論を封印する「ネタバレ」という言葉が僕たちから何を奪っているのか、そろそろ考え始めるべきではないだろうか。
何しろ、『スター・ウォーズ』シリーズの解説で、ダース・ベイダーがルークの父親であることが「重要なネタバレ」として伏せられてしまう世の中である。


NHKから国民を守る党の周辺、毎日いろいろなことが起きている。
地方選挙では、N国党からの候補者がボランティアと一緒に地道に活動して、勝ったり負けたりしている。NHK撃退シールは、1日数百枚は発送されている(ちゃんとレシートの写真がアップされている)。
だが、話題のほとんどは立花孝志代表が誰に公開討論を申し込んだとか、名誉毀損で訴えたが裁判に負けた、脅迫容疑で警察に呼ばれた……などの、あえて注目を集めるための「仕込み」めいた話題ばかりで、N国党への批判も仕込まれたネタに集中している。
今度は誰を訴えるとか、そのあたりの話に僕は辟易しているのだが、立花さんは政治家になる前から好戦的な性格なので、今後も変わらないだろう。

どちらかというと左翼がかった“純粋な”人たちから、N国党は蛇蝎のように嫌われている印象がある。
新日本婦人の会のように、いまごろ消費税増税反対デモをやって、何百人集まったと自慢しながら、内心では「どうせ増税は避けられない」「でも、一応反対したという思い出だけは残しておきたい」「次また、何か反対するための燃料がほしい」……と、矮小な自我をもてあましている人たちのターゲットになりやすい。
左翼は反権力のスタンスで、その点では僕と同じはずだが、なぜ巨大利権組織のNHKを問題視しないのか、不思議でならない。暴利をむさぼるNHKを擁護している左翼までいる。


左翼がダメなのは、与党精神がないから。「私たちは弱い、弾圧されている被害者だ」という立場で自分の意見を正当化しておきながら、どうすれば権力に具体的ダメージを当たられるかの方法は留保しつづけ、「とにかく反対するのだ」という精神論に逃げている。
「明日から現政権が消滅するので、あなた方の好きにしていいよ」と言われても、彼らは別の権力者を見つけ出して、「弱者」「被害者」の立場に甘えつづけるだろう。

N国党に反発している人たちにも、「市民の自由な言論が潰される」「民主主義の危機」と、弱者スタンスを維持している人が多いように見受けられる。いやいやいや、君らほど自由な発言している人たちはいないと思うよ? 今ちょっと検索しただけで「クズ」「暴力団」「反社会勢力」、あと「ナチスの再来」「オウム以上に危険」と、言いたい放題なのだが、どこが言論の危機?
本当は自由を満喫しているくせに「不自由で困っている」「弾圧されている」と装うのは、卑劣だよ。まあ、それがあなた方の処世術なんだろうけどさ。

この国は、自分なりの強固な意見を持って、具体的な方法を編み出して実践する人を叩く傾向にある。「みんな我慢してるんだ、お前もみんなに合わせろ」、これが根底にある。NHKだけでなく、個人が責任を放棄して組織に隠れ、一人称が「我々」になることって、よくある。「みんなに合わせろ」、これが諸悪の根源なのかも知れない。

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2019年9月16日 (月)

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絵による“例え話”で怪異に説得力を持たせる「化物語」の発想【懐かしアニメ回顧録第58回】
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10年前の放送当時、『化物語』は文字の大量のインサートに多くの人が戸惑い、それを読解してこそ初めて作品の価値が分かる……といった風潮があり、中には明らかに漢字を読み間違えている人もいて、その雰囲気がとてもイヤでした。
この記事の中では、「体重がない」「軽い」といった視覚化不可能な感覚、画面に一切姿を現さない「蟹」の存在感をどうやって描出しているか?に着眼しています。「原作が小説なのだから、文字で書かれたシーンをそのまま映像にしてやればアニメになるだろう」という幼稚なものではなく、むしろ文字を信用していないからこそ、読めないほど大量の文字を画面にそのまま出すような演出が出来たのではないか?と思うのです。


一昨日の夜、レンタル店で借りてきた黒澤明監督の『野良犬』が、あまりに自意識過剰というか「意図の塊」のような作品なのでウンザリして、なぜか野村芳太郎監督の『鬼畜』が見たくなった。レンタル店に行けば置いてあるのかも知れないが、何しろ夜中だ。YouTubeの有料配信で300円だったので、中学以来40年ぶりに見はじめた。
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事前にネットで感想やレビューに目を通すと、「緒形拳の父親が浮気しているので、最後まで感情移入できず」「子供を捨てたり殺そうとする映画なので、許せない」式のものばかりで、みんな映画を「スクリーンの中に入りこんで、疑似体験すべき娯楽」と思い込んでいるのが、よく分かった。
せめて、終始ノースリーブで汗に濡れた白い肩を丸出しにしている岩下志麻がエロい……と書くのが礼儀であろう。

その岩下志麻が、いちばん幼い子供の顔にビニールがかかっているのを放置して、結果的に殺してしまうシーン。印刷機で仕事している岩下の背中を、黙々と撮っている。グッとズームで寄るのだが、岩下は決して振り向かない。カメラはただ、彼女の物言わぬ背中だけを撮り続けている。台詞がない分、彼女の“殺意”だけは強く伝わってくる。
子供が死んでしまった後、緒形と岩下の会話シーンで、子供の顔にかぶせられるビニールが落ちてくる様子を、ハイスピードで撮ってインサートしている。妙な言い方だけど、そのビニールが落ちてくるカットが綺麗なんだよね……。まあ、「このカットは○○の暗喩なんだよ! 観客のみんな、分かるかな?」と終始つめ寄ってくるような『野良犬』なんかより、職人監督・野村芳太郎が時おり見せる凄みあるカット・ワークのほうが数段上、という発見があった。
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もう夜中の3時ごろだが、矢も盾もたまらず、今度はAmazonプライムで野村芳太郎監督の『震える舌』。
余計な感情描写は省いて、破傷風に襲われる幼い子供と両親、医者たちのミッション物に徹しており、「入院○日目」「午後○時○分」など字幕スーパーがインサートされる冷徹さに好感をもった。渡瀬恒彦の父親が「自分も感染しているのではないか」と、そればかり気にして間接的とはいえ、妻を犠牲にしているなど、意地の悪い心理描写がひとつひとつ効いていた。
結局、朝まで3本続けて邦画三昧だった。


さて、『鬼畜』も『震える舌』も僕が小学校高学年~中学生のころ公開された映画で、どちらもテレビで見たはず。高校時代の友達が「舌かんじゃったよー!」と『震える舌』のモノマネをしていて、「結構みんな見てるんだな」と気づかされた。
『鬼畜』で娘を置き去りにするシーンも、あちこちでギャグに使われていた。
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結婚していたころ、妻の連れてきた犬が僕によく懐いていたので、わざと「明日、遠くへ捨ててきてしまおう」「こんなに丸々と太っていておいしそうだから、今日のご飯にしよう」などと、寝床でジョークを飛ばしていた。
離婚した後も、犬をしょぼい遊園地に連れてき、ソフトクリームを食べさせて、くたくたに遊びつかれさせたところで置き去りにする……という妄想(その妄想の中では、犬は幼稚園児レベルの会話が可能)を繰り返し頭に描いた。その妄想の元ネタは、中学時代にテレビで見た『鬼畜』だったのだろう。


だが、『鬼畜』だけではない。
小学一年生ぐらいのころ、親戚の叔父さんに、井の頭恩賜公園へ連れて行ったもらったことも、おそらく妄想の元ネタなのだ。
熱帯温室にソフトクリームを売る店があり、あまり食べたくないのだが、叔父さんが「食べな」と買ってくれたことを覚えている。広くもなければ人もあまりいない小さな遊園地、動物園……。
多分あの日は何か大人たちの事情があり、まだ大学生の叔父さんが、僕を押しつけられたのであろう(その叔父さんは子供の相手が苦手そうで、僕も子供扱いされることに抵抗があり、気まずい雰囲気だった)。

そんな幼いころの、寂しい思い出は、こんなにも長いこと僕の心に巣食い、センチメンタルな妄想を抱かせる。
野村芳太郎という人は、子供がひどい目に遭う映画を少なくとも2本は撮っているわけで、どこか僕と似たような性癖があったのかも知れない。一種の自己憐憫とでも言えばいいのだろうか?
幼年時代とは実は寂しいものであり、大人に優しくされるほど、得体の知れない切なさのようなものがこみ上げてくる(祖父が酒屋でオレンジジュースを飲ませてくれたり、喫茶店でプリンを食べさせてくれたことも、なぜか“寂しい思い出”として、僕の記憶に刻まれている)。

そう言えば小学校のころ、図書室で「かわいそうなお話」という童話集を見つけて、ゾクゾクしたのを覚えている。借りて帰って、家で泣きながら読んだのだが、それは「哀れむ」「悲しむ」という娯楽だった。『鬼畜』『震える舌』は、そうした秘めやかな娯楽要素に支えられている気がしてならない。

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2019年9月13日 (金)

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国立新美術館へ、『話しているのは誰? 現代美術に潜む文学』へ。
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現代美術家6人のグループ展で、写真からインスタレーションから映像から、いろいろ見られて1,000円は安い。
原爆や沖縄の基地問題をテーマにしているけど、入場時に渡される解説書を読まないと、なんだかサッパリ分からないと思う。でも、僕は自分の「感性」なんてものだけを頼りにする方が、よっぽど怖い。解説書も含めて作品なのだ、と考えた方が絶対に得だ。プラスになる。

山城知佳子さんの作品は、30分ほどの短編映画。といっても、これといってストーリーがあるわけではなく、沖縄で絵画を制作する様子をドキュメンタリー調に撮ったり、琉球語で行われる寸劇を撮ったりしている。
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上の画像はワンシーンだけど、アスペクト比が変でしょ? スタンダードより横幅が狭い、IMAXに近いんじゃないの? だけど美術館の一角を暗幕で仕切っているだけなので、スクリーンは小さい。その代わり、スクリーンの横に大きな樽が転がしてあって、上映と上映の間には天井からスポットライトを床に当てて、馬の走る音を流したりして、ムードを高めている。
こういう、空間丸ごとを使って「上映する場」を作るのであれば、3Dでも4DXでもいいんじゃない? もちろんIMAXデジタルでも。


だけど、新美術館はサンドイッチもおいしいし、何より空間の使い方がいい。窓から見える樹の配置、ガラスや木材の配分。椅子の傾き、配置、すべてが優れている。すべてが創作的。「勉強になる」というか。
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乃木坂駅から直通で来られて、帰るときは美術館の中をつっきって、そんなに暑くもないので六本木駅へ抜ける。
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大袈裟かも知れないが、サンドイッチやコーヒー、六本木の裏側を歩く道、人々、それらも含めた巨大な空間、歩いている時間までもが「作品」という気がする。……そう考えたほうが、将来、ひとつの価値観として実を結んでくれそう。正直に言うと、映画館へ行って「帰りの道まで作品の一部だ」と感じたことは、一度もない。
まあ、上野の美術館も意味なく有名俳優を使って客寄せしたり、ひどいもんだけどね。新美術館は別格と思っている。来月も、きっと行くよ。


トイレを我慢させられる映画館よりは、寝転んで家で観られるレンタルDVDの方が、僕には向いている。最近観たのは、クリント・イーストウッド監督の『恐怖のメロディ』、ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』。
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『ローマの休日』は大学の授業で観たはずなんだが、今回のほうが良かった。
Twitterでも指摘したが、アン王女が宮殿を脱け出す時、三輪トラックの荷台に忍び込む。トラックが走り出して、ローマの庶民的な風景が見えると、笑顔になった王女のまわりで、積まれているビンや鍋などの金物がガラガラと音を立てる。その音が、王女の喜びを表現している。拍手のようにも、笑い声のようにも聞こえる。
そうやって小道具を使ったり、構図を使って何とかして登場人物の「内面」とか「気持ち」を物理的に表現するのが、僕は映画だと思う。セリフで「嬉しい」と言わせれば喜びが伝わるのだろうか? それでは、表現になってない。


ところがね、アン王女とグレゴリー・ペックの記者とが別れるでしょ?
孤独なペックのところに新聞社の上司とカメラマンが来て、約束の特ダネ記事はどうした?と詰め寄る。上司を帰したあと、ペックは2人の思い出を記録してくれたカメラマンに「もう特ダネ記事なんて書く気はない」と告げる。カメラマンは「でも、写真はいい出来だよ」と、2人で王女の写真を見はじめる。
このシーン、不思議と胸がしめつけられた。なぜだろう?と、考えた。2人は「この時は、本当に驚いたなあ」「この写真にタイトルをつけるとしたら……」と盛り上がる。劇映画というフィクションの中に、さらに写真という虚構を設けることで、シーンの実在感を強調している……いや、逆に「あのシーンもこのシーンも、映画なんてぜんぶ作り事だ」と確認しているようにも見える。だから切ないのだろうか?

演出としては、演劇でも成り立つ凡庸なものなんだけど……。分からない。
上に書いた荷台でビンや金物が鳴るシーンは、この映画の中で「映画」が機能している数少ないシーンだ。あとは、通俗的な「ドラマ」であるに過ぎないと思う。だけど僕は、グレゴリー・ペックが写真を見るシーンで、背後から盲点を突かれた気持ちになった。

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2019年9月 5日 (木)

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“やられメカ”から世界観を構築する――。出渕裕の仕事と美学【アニメ業界ウォッチング第57回】
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20年前に「東京ロボット新聞」で1回、「月刊モデルグラフィックス」で2回インタビューしたことのある出渕さんに、ご登場願いました。僕らの世代でいうと「ブチメカ」なので、徹底して敵側の話ばかり聞いています。


月曜までに30ページほど書かねばならないんだけど、こういう時こそ映画を観なくては。
ウイリアム・ワイラー監督の『おしゃれ泥棒』、ロベール・アンリコ監督の『暗殺の詩/知りすぎた男どもは、抹殺せよ』。後者は凄い邦題がついているが、『冒険者たち』の監督作なので、男2人女1人のサスペンスフルで大人っぽい逃亡劇をたっぷり楽しめる。生ハムとワイン、釣りをするシーンもある。

しかし、ここではオードリー・ヘプバーンとピーター・オトゥール主演の『おしゃれ泥棒』に触れておこう。
1966年の映画で、何かアイデアに新味があるわけではない。後半、オードリーは「美術品泥棒」のオトゥールとヴィーナス像を盗み出すが、そのアイデアがとり立てて面白いわけでもない。だが、映画のほとんどでオードリーが右、オトゥールが左に立っていることに気がつくと、俄然、面白くなってくる。
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オードリー演じる娘は何もせずブラブラしているだけだが、父親は凄腕の贋作画家だ。父と一緒に映るシーンでも、オードリーは必ず右に立っているか、座っている。オトゥールと一緒のシーンでも、2人はサッと身を交わして、結局はオードリーが右側に落ち着く。
では、いつオードリーは画面左側に来るのだろう? オードリーがオトゥールに銃を向けるシーンでは、彼女はほぼ左側に立っている。後半、ヴィーナス像を盗んでまで欲しいのか、と聞かれて「欲しい」と答えるカット、オードリーは左である。ラストシーンで、オードリーが初めてオトゥールに嘘をつくカット。オードリーは左だ。

ようするに、彼女がイニシアチブを握るシーンでは、彼女は左側にいる。
それ以外のシーンで左側にいるのは、父親かオトゥール、贋作画家と美術品泥棒、どちらも人を騙して手玉にとる役柄だ。気がつけばこの映画、オードリーは男2人にリードされるばかりで、自発的に動くことはない。彼女がわすがながらに主体性を発揮するシーンで、ようやく画面左側に立つ。


以前にもこういう映画を見たぞ……と思い出したのが、ヒッチコック監督の『泥棒成金』だ()。
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この映画では、泥棒のケーリー・グラントが画面左側を占めているのだが、グレース・ケリー演じる娘に翻弄されるうち、画面左の「優先位置」をどんどん彼女に明け渡していく。ヒッチコックなら、さすがに俳優がどちら側にいて、どちらへ向かって歩くか計算していただろうと思う。
11年後の『おしゃれ泥棒』が、『泥棒成金』を参考にしていても不思議ではない。それを裏づけるかのように、『おしゃれ泥棒』でのオードリー・ヘプバーンは、「ヒッチコック」というタイトルの本を読んでいる。……まあ、当時のヒッチコックは『サイコ』と『鳥』で、今でいうホラー映画の巨匠のような立場だったので、演出意図はまったく別のところにあるだろうとは思う。


僕にとって「映画が面白い」とは、画面内の俳優の位置が決まっていたり、あるいは展開に応じてカメラワークや構図が変わったりすることであって、決して「物語」ではない。だが、映画の本質を「物語」にして、ラストシーンが「ネタバレ」するとかしないとか、伏線を回収できているかいないかを評価軸にした方が、観る側は「楽」なのである。
メディアに登場する映画評論家は、まず構図の話などしない。平然と「ネタバレ」がどうのと言うし、あっさり「泣いた」なんて言ってしまう。映画を語る言葉がどんどん痩せていくので、観客は3Dよりも4DXのほうが高級だとか、IMAXで見ないと迫力が伝わらないなどと、自分の体験した上映形式に優越感を見い出すしかない。

僕はつい最近、スマホの画面で映画を観て、ちゃんと面白いことに愕然とした。むしろスマホのほうが、構図をしっかりと確認できる。
スマホでもIMAXでも3Dでも、四角いフレームのどこに何が位置しているかは変わらない。フレームの中に時間があり、時間とともに情報が変化していく。それ以外に、映画を定義づける要素はないと思う。
もし映画の本質が「物語」なら、ゴダールの映画は「伏線も何もない、劣った映画」にされてしまう。


最後に、またN国党関連の話題。この「さゆふらっとまうんど」さんがNHKの上田良一会長の会見に激怒している動画()。
俺が受信料を払いたくないのは、NHKという組織の愚鈍さ、無神経さ、公平さに対する関心の無さを知っているからだよ。「廣田さん、質問に答えてください」とか偉そうにコメント欄に書いてきた人()。そんなにNHKを必要と思うなら、あなたが高い受信料を払って支えればいいじゃん。
どうせ「みんなが平等に払ってるんだから、払うべきだー」程度にしか考えてないんでしょ? 本当の自由、リスクを賭けて自由を勝ちとろうなんて考えたことないんだろうな。俺をブロックしながら、そっちはこのブログを見放題、それこそ不公平じゃないのか? 恥を知れよ。 

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2019年8月26日 (月)

■0826■

親子で楽しむ かんたんプラモデル
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『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』以来の著書、ようやく発売となりました。
親子向けどころか児童書にしよう、というコンセプトは編集者が立てました。その軌道修正によって、中身を子供向けにしたりはしてません。あいかわらず、「プラモデルを素組みすることの醍醐味!」を、豊富な写真とリリックな文章で伝えています。
本のテイストとしては、編集者と「こんな本にしたいよね!」と持ち寄った参考資料が、たまたま同じ料理の本でした。なので、料理の本のように手をいっぱい入れて、温かみのある写真を撮っています。

月刊モデルグラフィックス 2019年10月号
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組まず語り症候群 第82回
今回は、ペガサスホビー製の「クレーター」展示台を取り上げています。


本日も、「NHKから国民を守る党」の話題。
僕は党首の立花孝志を知る前からNHKには爆発的な不満を持っていたので、世界で僕1人だけになっても不払いは続けます。納得できる理由があるなら、僕は一億円でも百億円でも払いますよ。集金人に何度もウソをつかれ、嘲笑われて脅されて、どうしてお金を払わないといけない? 納得できる説明を、何度となくNHKに求めてきました。何年たっても、騙して脅してまで僕に受信料を払わせる理由を、ただの一言も聞かせてもらえていません。
どうしても僕から金を取りたくば、殺して奪っていけとさえ思う。

もし集金人がウソをつかない誠実な人だったら、NHKとは、こんな関係にはなってなかったと思う。テレビを捨てたりもしなかった。
また同時に、自尊心の持ち方、権利意識についても、真剣に考えなかっただろう。NHKにいいように卑しめられたから、僕は自分が何者なのか考えるようになった。……原則的に、僕たちは「長いものには巻かれろ」「自分の意見など持っても無駄」と、義務教育で叩き込まれて育った。なので、個人が意志をこめて自分自身を大事にするための勝算の薄い戦いを、ほとんどの人たちはバカにする。


Twitterの反応を見ていると、なかなか面白い。
N国党への嫌悪をあからさまにしている人は、正義感の強い人が多いと感じる。右も左も関係なく、生真面目なタイプが多いのではなかろうか。
(このブログに言いたいだけ意見を書いて、自分のTwitterアカウントは先回りブロックして反論不可能にしたものくるさん()は、臆病者かつ卑怯者だと思うけど……)
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「ああ、なるほど」と納得した言葉にも出会った。
デュープスだ。意味を調べてみると、思い当たる。優れた表現者なのに、自分から物事を調べず、左翼的な発言を迂闊にしてしまう人は、僕の知り合いにもいる(というか、反原発運動に参加していたころの僕がデュープスだった)。
二言目には「アベが悪い」と言う人は、それで気が晴れるなら構わない。「すべては在日外国人の陰謀だ」と同じぐらい、その人にとっては精神安定効果があるのだろう。

駅前図書館まで、盲目の人に肩を貸して、送って行ったことがある。その方は、「この通りは歩道が狭くて、危ないでしょう?」と指摘する。確かに、その通りだ。「これは、今の市長が悪いんですよ。余計な建物にばかりお金を使ってるから」「もっと言うと、アベってのは最悪だよねえ」などと愉快そうに話すので、聞いていて不快にはならなかった。「在日韓国人が悪い」などと言われたら、ちょっと複雑な気持ちだったろう。
左翼思想まで行かず、やや反権力的なスタンスのほうが健全ではないか?程度に、僕は思っている。ただ、すべてアベ政権が悪い、あの件が解決しても今度はこの件が問題だ、日本は狂ってる、日本は滅びると不満と憎悪をエネルギーにかつかつ生きている人は、破滅的で少しも共感できない。海外に移住して優越感を持っているはずなのに、日本国内にアレコレと問題点を見つけては口出ししてくる人も、結局は自分の人生が楽しくない、その根本原因を解決できてないんだろう。
デュープスも、手っ取り早いところに諸悪の根源を設定して、本来、自分が対峙すべき心の問題から逃げてるんだと思う。そういう手近なところに、N国党はスッポリと収まるのかも知れない。デュープスは例外なくN国党を嫌悪して、結局は理不尽な利権組織であるNHKの片棒を担いでしまっているよね。
貴方にとってNHKが必要で、貴方がNHKを信じているなら、今後とも黙々と受信料を払いつづけて、組織を支えてあければいいんじゃない? 俺は嫌だがな。


自分こそが愚かではないのか、無知ではないのか、間違っているのではないかと疑いたくない人が、こんなに多いとは思わなかった。
「新日本婦人の会」の人たち、彼女たちの意識の根底にあるのは「私たちを批判する者は、政治的な敵対者である」という断罪だった。Aに賛同しないなら、反A派に違いない、という危険な考え方。そう断じないと正気を保てない人たちの集まりが、新日本婦人の会なんじゃないか。
だとしたら、気の毒だ。組織力に甘えきった驕った態度には腹が立つけど、日本婦人の会は本気で憎めない。

結局は人生を楽しいと感じられるかどうか、自分を愛せるかどうかの問題なのだろう。
『かんたんプラモデル』だって、どうせ子供たちが読むなら、君たちの指先の仕事はどんな楽をしても構わないし、すべての作業にちゃんと意味があるよ、無駄じゃないよと伝えたかった。「プラモデルって難しいよ、アレとコレを覚えて、がんばって自分の個性を出して」と教えたがる人は、自分の人生をまずは楽しくする必要がある。

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2019年8月19日 (月)

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「雲のむこう、約束の場所」――“垂直”と“水平”が織りなす新海誠のユートピア【懐かしアニメ回顧録第57回】
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今、ほとんどの人が映画をストーリーでしか捉えられていないので、構図にテーマが組み込まれていることに気づいている人は、かなりお得な見方をしていると思う。プロによる映画評論も、質的には「ストーリー批評」の域を出ておらず、だから「ストーリーの結末」が「ネタバレ」しないように……といった閉塞状況に陥っている。
「感動した」「泣いた」なんて感想は検証しようがないけど、画面の中に垂直のものと水平のものが交差している……という話なら、第三者による再検証が可能で、そこから建設的な評価が始まるものと僕は信じている。


「NHKから国民を守る党」は話題性が高いので、ブログに書いたら何かしら反発は来るだろうな……と思ったら、ものくる(@monocuru)さんという人から書き込みがあった()。このやりとりの後、俺はTwitter上でブロックされてしまったけど、メアドとIPアドレス検索したら、数分でこの人に行き当たった。本名も教えてくれたけど、ふだん匿名の人がいきなり本名を名乗っても、何の信用にもならない。
僕の発言や活動にわずかでも説得力があるとしたら、名前・顔・職業などを継続的に明らかにしてリスクを払っているから。ものくるさんは、ブロックされる前にアカウントを見たらコスプレイヤーの撮影をしている人のようで、ようは趣味アカウントだよね。それは楽しみでやってる活動だろうから、別に責めないし追求もしないよ。だけど匿名で趣味の活動しか公開してないってことは、それだけ発言の信用度も低く見られる。まして、僕はものくるさんを初めて認識するのに、相手は挨拶も自己紹介も一切ナシだしね。

ものくるさんは「僕自身匿名であってもそういったリプはダメージになります。ましてや廣田さんは実名でリスクを負いながら意見を発信されているのですから」と理解を示した風の書き込みをしているけど、名前と収入が直結している人の立場を、そんなにも簡単に分かったフリをして、飽くまで対等に立とうとするから、さらに信用を失うんだよ。
立場の違う相手に「ハイハイ、分かってますよ」「あなたの気持ちは理解できますよ」などと浅はかにリアクションする弊害のほうが、僕はものくるさんの言う「正しい意見を黙らせようとする」ことなんかより、根が深く傷も深いと思うよ。ここで俺が「分かってもらえて嬉しいです」なんておためごかしを言ったら、そこから後はウソをつき続けるしかなくなる。(そもそも、俺の意見が必ず正しいなんて、あなたそんな簡単に言って大丈夫なの? 俺が絶対に性犯罪者ではないと証明できるんですか? ……話の流れが見えない方は、前回記事のコメント欄を読んでください。) 


N国党の話題からはズレてしまったけど、あれほど無名でキワモノだった(今でもキワモノだと僕は思ってるけど)N国党がここまで話題になっていることのメリットは、僕ら有権者のバケの皮を剥がしてくれたことだろう。だって、2012年ごろの立花孝志代表が心を病んでいたころの発言までスクショで発掘し、「精神分裂病」と責め立ててる人までいるんだよ? どこをどう掘れば、そこまでドス黒い悪意が沸いてくるんだよ?
「N国党に投票した人に罪がある」どころか、「投票した連中の住所を公開してほしい」なんて人までいる。ユーゴスラビアのように、隣人同士が殺しあうような日が来るのかも知れない。NHKの集金人が家で大声を出したり、住民にキスしたり、子供を泣かせたりすることを見逃してきた人が、そうした蛮行に我慢できなくなった被害者たちを「晒せ」と迫る。人間は本能を理性で押さえつけているので、僕は別に驚きはしないよ。NHKが存在し、いまだ圧倒的多数の支持を受けていることが、理不尽の象徴だと思っている。NHKが『ガンダム』や『プリキュア』や『このセカ』を扱うことも含めてね。
一点の曇りなく清く正しいことなんてない。どんな事でも、少しずつ汚れている。

僕はNHKに、ウソをついてドアを開けさせる集金人、「個人情報を近所にバラす」と脅してくる集金人は何なのか、と電話や手紙で何度となく質問を繰り返した。NHKは一言も答えず、ただ「法的手段に訴える」と、脅迫めいた文面の請求書を送ってくるだけだ。
もし立花さんが消えたとしても、俺はひとりでNHKと戦う。負けつづけの自分の人生を、これ以上、屈辱と劣等感で汚したくないんだ……。

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