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EX大衆 2019年12月号 発売中
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●“いま考えるべき『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ”
秋葉原の大規模ダンスオフに参加した経験のある御坂しのぐさんのインタビューを含む、作品のディテール分析からオタクの社会的自認などに言及した3ページ記事です。

『ハルヒ』は、放送当時は人に薦められて(「アニメージュオリジナル」周辺では話題にのぼりがちだった)、数話見た程度。今回、第二期分を頭から見て、その批評性に魅了されてしまった。ただ、この記事は作品に対する評価だけでなく、初放送の2006年ごろの岡田斗司夫さんの発言、1981年の「アニメ新世紀宣言」にまで遡り、オタクがいかにして公的な場で自己主張を行ったのかをレポートしています。


時間が出来たので、恵比寿の東京都写真美術館へ。「イメージの洞窟. 意識の源を探る」展。
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800円ならこんなものなのかも知れないが、40分ぐらいで見終わってしまう。地下の「写真新世紀2019」は無料なので、これもついでに見て回る。
「イメージの洞窟」展は、文字通りの洞窟の写真からスタートするのだが、部屋の真ん中にプリントした紙でかこった物理的な洞窟が出来ている。その幕の内側に入ると、画の濃淡で光を通したり通さなかったり、外からでは感知できない情報に触れられる。
それが“展示"なのだと思う。先日の「富野由悠季の世界」が、いかに四角四面で面白くなかったか、ここに答えがある。写真はプリントするかモニターに映すしかないわけだが、それで終わりではない。壁にどう配置するか、壁をどう捉えるか、そこから新しい表現が始まるのだ。


「俺のBakery&Cafe 恵比寿」で玉子サンドを食べてから、秋らしい日差しで彩られた恵比寿を、東から西にかけて歩く。
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うっかりビールなど飲まないほうが、むしろ贅沢に思える。平日昼間をこうして好きなように過ごせるのだから、いい仕事をやれている。これだけ好きに過ごして貯金もあれば、半年後の予定も決まっているのだから。

恵比寿にはモンスタージャパンやミスタークラフトがあったので、高校時代から30代まで、よく足を運んだ。三鷹から恵比寿までは、山手線に乗り換えないと来られないので、ちょっとだけ不安になる。その不安感が、おそらく心地よかった。
ガーデンプレイスでは、クリスマスの飾りつけが進んでいた。


SNSをやっていると、たまに面食らうことがある。年齢が上というだけで説教モードになる人は、まだ分かりやすい。
面倒な相手は、元○○。僕に対してだったら、元ライターなので、実はあなたより身分は上なのだと明かしてくる人。どうして今、そんな凄い貴方がライターで食えてないのか、そこを聞きたい。ほぼ間違いなく、その本人が問題を起こして業界にいられなくなったか、営業努力を怠って仕事が減っていったか、どちらかだ。そしてほぼ間違いなく、本人は周囲のせいにする。
同じぐらい面倒なのは、名前を隠しているが実は○○。名前は違うけど、あなたと同じぐらい凄いライターで、あなたより稼いでいるのだ、どうだ驚いたかという人。一応、「すごいですね!」「負けました!」と挨拶することにしている。ぜんぶ嘘なので、ハナっから相手にしないこと。

その「嘘」というのは、だって証明のしようがないよね、そんな適当なHNでは?という意味。
HNならHN、ペンネームならペンネームで統一されていれば、そこに信頼が生まれる。僕が実名でしか書かないのは、常にリスクを背負っていたいからだ。リスクを冒さねば、信頼は得られない。「匿名で身分は明かせません、でも実は凄いんです、偉いんです」、そんなぬるま湯から相手を信用させたがる、その甘っちょろさを、僕は警戒するし馬鹿にもする。
「自分の現在やっている仕事はコレです!」と堂々と振舞える相手とだけ、仕事をしたい。


最近見た映画は、ドイツ映画『善き人のためのソナタ』。最初から最後まで食い入るように見たが、万人向けの映画だろう。

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2019年11月13日 (水)

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月曜から泊りがけで、兵庫県立美術館の「富野由悠季の世界」展へ。
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「富野作品・制作資料展」と思って見に行ったほうが、戸惑わずにすむだろう。「資料展」でなければ、安彦良和氏の原画やレイアウト、安田朗氏の油彩画(キービジュアル)が展示されている理由が分からない。セル画も美術ボードも、富野さんの仕事ではない。商業アニメは複数のプロの手で作られるものであり、演出家の仕事は絵コンテや企画書、修正指示だけではない。口頭でのやりとり等、形に残らない部分が、かなりの範囲を占めるのではないだろうか。
あと、話に尾ひれがついた「おまんこ舐めたい」発言も含めて、富野さんは自己言及によって自分の世界をつくっているように思う。先日、2~3年ぶりに富野さんにインタビューしたが、露悪的なパフォーマンスで自分を糊塗したり鼓舞したりすることも、作家性なのではないだろうか。

ようするに、この展覧会は富野さんの企画意図や演出意図を額面どおりに受けとりすぎ、「一本残らず傑作」という予定調和から作品を並べただけであった。例えば、「女」とか「空間」とか「科学」などのテーマで大きく切ってくれたら、作家の世界が立体的に見えたのではないだろうか。
生真面目すぎるのが気になった。恥ずかしいところ、みっともないところも含めて富野由悠季という作家だと思うので。


学芸員たちはバカではないので、フレームの概念や演出の効果は、よく把握している。解説文を読めば、それは分かる。
ただ、絵コンテの横に完成画像のキャプチャや完成映像をエンドレスで流すことで、絵コンテという仕事の本質が見えるのかというと、それほど単純なものではあるまい。セルアニメは、薄いセルやレイヤーを重ねて厚みのない映像をつくるわけだが、出来上がった映像から、深みや奥行きを視聴者は知覚する。その映像のメカニズムを前提にしたら、二次元資料の羅列には終わらなかったはずだ。
『Gのレコンギスタ』のメガファウナの航路図は複雑で、「Febri」にカラー見開きで構成したとき、デザイナーが悲鳴をあげた。しかし、今回の展示では、刻々と変化する『G-レコ』の勢力図を富野さんが色つきでメモしていたことが分かった。ああいう図を投げっぱなしにしないで、立体として構成しなおすことは出来なかったのだろうか。

乱暴な言い方をすると、この展示会は「紙が並べてあるだけ」だ。
紙といっても、高荷義之氏や安田朗氏の原画は別格だ。額をくっつけて、じっくりとテクスチャーを観察してきた。また、見慣れたはずの大河原邦男氏の設定画にも、ありありと鉛筆の筆圧を感じることが出来る――が、それは作品個々の制作資料であって、演出家・富野由悠季の仕事ではない。
ここ数年はアニメ関係の○○展が増えたが、展示のしやすさが増加の理由ではないだろうか。紙を並べれば、形になってしまうのだ。


偉そうに批判してみたが、実は国立近代美術館の高畑勲展には、行っていない。こちらは模型が展示してあったり、高畑監督の言葉があちこちに散りばめられていたり、“立体的な”展示方法が試みられていたようだ。
僕はアニメの展覧会ばかり行っていてはバカになってしまう気がして、特に国立新美術館には、暇を見つけては通うようにしている。その代わり、シド・ミード展にも高畑展にも行かなかった。だったら、都内の知らない美術館に行ってみたい。その欲望のほうが上回った。

ボルタンスキー展に行って、古着の匂いや2メートル程度までしか届かないささやき声も“展示”し得るのだと知った。
だったら、富野ゼリフのあれこれを、うるさいぐらい会場に響かせたっていいじゃないか。結果、「富野のアニメって、やっぱり難解だ」という感想を持ち帰ることになっても、「あれもこれも傑作でしたね。さて、最後に『G-レコ』を宣伝しておきます」などという予定調和よりはいい。そういう生ぬるいファン心理や幼稚っぽい「大人の事情」からの脱却が、思春期に『ガンダム』や『イデオン』を見てしまった者のテーマではないだろうか。

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2019年11月 5日 (火)

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レンタルで、フランス映画『真夜中のピアニスト』。
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不動産ブローカーの青年が、荒れた生活の合い間合い間に、ピアノのレッスンに通う。
普段の乱れた暴力的な生活は、手持ちカメラで撮られている。終始、青年の周囲2メートルぐらいにカメラが近接しているので、画面内の情報が少なく、すさまじいストレスを感じる。ところが、中国人女性の家にレッスンに通うシーンだけは、上のスチールのように安定した構図で、カメラも固定だ。
2種類のカメラワークが、青年の心理状態にシンクロしている。こう書くと単純なようだけど、僕はそのコンセプトだけで映画になっている、映画として成立していると感心する。青年がなぜピアニストを目指しているのか、正直よく分からない。だが、そうした脚本上の些事はどうでもいい。


中国人教師の家は、つねに窓から陽の光がそそぎこみ、柔らかい絵づくりだ。
レッスンの後、お茶を飲むシーンが二箇所ある。ひとつめは、フランス語の話せない女教師に、青年が物の名前を教える。最後に「これは、マッチだ」と、マッチを示して、煙草に火をつける。ところが、その部屋は禁煙だと前のシーンで女教師は注意したはず。なので、青年はマッチをすった後、怒られたであろう。
ようするに、マッチをすったところでシーンがバツンと切れている。何か言い切る前に次のシーンへ行く。
ふたつめのシーンで、青年と女教師は無言でお茶を飲んでいる。青年は満足そうな笑みを浮かべている。それだけで、2人の関係がどれほど良好なのか分かる。なぜなら、青年は他のシーンでは何かしら怒鳴ったり、イライラしているからだ。そういう映画だから、無言のシーンが引き立つわけだ。

やはり、構造によってしか、映画は感情を喚起しえない。少なくとも、ワンカットなりワンシーンなりが単独で突出した表現力を持つことはあり得ず、他の要素との関係によって、初めてテーマなりメッセージなりが立ち上がってくるのだと思う。
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映画の後半、青年はいつものように、マンションから不法滞在している住民を叩き出す仕事に出かける。住民たちは、中国人教師と同じように、白人ではない。青年は彼らに手を出さず、黙って仲間たちの暴力的な振る舞いを凝視している。カメラはじっくりと、無言の青年の顔を撮っている。冒頭シーンでは、不法滞在している住民たちに対して、青年も暴力を振るっていた。しかし、中国人教師と懇意になった後は、暴力を振るわずジッとしている。
前後の比較によって、青年の心境が変化したであろうこと、また人種間の軋轢といったテーマが、うっすらと浮かび上がってくる。いきなり青年の顔をアップにしても無意味で、ふたつのシーンの比較の中でこそ、表情が意味を帯びてくるのだ。


もうひとつ、言葉も重要な要素だ。
中国人の女教師は中国語とベトナム語しかできない。青年は「言葉も通じないのか?」と、声をあらげる。しかし、彼がレッスンを投げ出そうとした時、女教師は自国語で彼を強く叱責する。字幕では一言も翻訳されないし、青年に言葉の意味が分かるわけでもない。しかし、彼は黙ってレッスンに戻る。
一方、青年は自分の父親を騙した金持ちの男に、脅しの電話をかける。その男は外国人なので、フランス語は話せない。「お前、言葉も話せないのか?」と、青年は相手をフランス語で罵倒する。
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これもやはり比較であって、言葉が通じないから感情が伝わることもあれば、通じないから憎しみが増すこともある。そして、中国人教師とマフィアのような外国人、この2人はラストシーンで同じ場所に現れる。交互に描かれてきた二つの世界が、ラストで交差する。
この映画は、何かを言い切る前にシーンを唐突に切るのだが、幕切れもやはり鮮やかであった。別に謎が明かされるわけでも何でもない。ラストで誰が死のうが死ぬまいが、どうでもいい。映画の価値は、そんなことでは変わらない。

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2019年11月 3日 (日)

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『ホテル・ニューハンプシャー』をレンタルで見たかったのだが、近くのレンタル屋には置いておらず、ネット配信でも見つからない(ジョディ・フォスター出演作なのに……)。やむなく、ヤフオクで中古DVDを購入した。送料込み、800円だった。
途中、どうもリアリティの基準が劇映画っぽくない(熊のぬいぐるみを着て生活している女性が出てくる等)、この抽象度はむしろ小説っぽいな……と思いはじめた。鑑賞後に調べてみると、ジョン・アーヴィングが原作であった。しかし、映画はどうもよく理解できなかった。
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大学のころ、ある女性を誘って『ブレードランナー』に行ったのだが、「レプリカントとか何とか、そういうのが出てくるのは映画じゃない」と言われてしまい、「じゃあ、どんなのが映画なの?」と聞き返したら、『ホテル・ニューハンプシャー』との返事だった。
当時はレンタルVHSで見たはずだが、やはりよく分からない映画で、彼女が魅力的だと言っていた男子学生に「『ホテル・ニューハンプシャー』は見た?」と聞いてみた。「見たけど、あんなもん映画じゃねえだろ」との答えだった。
しかし、彼女は素晴らしく美的センスがよく、僕はすっかり子供扱いされていた。


4年次になると、彼女は無精ひげを生やしたイイ男と連れ立って歩くようになっていた。僕は嫉妬すら感じることが出来ず、まあ彼女ほどセンスのいい人なら、ちゃんと中身のある男をつかまえるだろうな……と、納得して眺めていた。いずれにしても、僕には手の届かない世界の出来事だった。
彼女と、一晩だけの関係を結んでしまった後、友だちに「お前、あんな女とヤッたの?」と無礼千万なことを言われた。それぐらい彼女の外見はよろしくなく、また、かなりの変わり者でもあった。

なんというか、僕の決して入れてもらえない「恋愛王国」みたいなものが、はるか天界に燦然と存在していて、その王国からのおこぼれとして、たびたびセックスさせてもっているような惨めな気分が、僕の20代を支配していた。
僕はまだライターでもなかったし、漫画家かイラストレーターになりたいと言っては挫折し、今度は映画監督か映画プロデューサーだと言っては挫折し、そのツケを女性関係で補おうとしているところがあった。それでいて対人恐怖症に苦しみ、電車の隣に女性が座るだけで滂沱たる汗を流して緊張し、誰かとセックスすると、その症状はピタリと治まるのであった。
(なので、対人恐怖を克服するため、誰かと恋愛関係を維持しておかねば……と、ますます焦るわけだ。)

20代は苦しかった。熱意が空回りしてばかりいて、恋愛にも「底」があり、使い減りするものだと分かりかけていた。若いころに戻りたいなんて、微塵も思わない。女性と話すならガールズバーで十分、ひとり暮らしで誰とも会話せず、自分のペースで仕事できる毎日が楽しい。結婚生活は人権なしの牢獄だったし、恋人なんていたら、この自由さは失われるだろう。


「NHKから国民を守る党」の立花孝志党首が、今度は海老名市長選に立候補した。
選挙制度の裏をかいて、次々と候補者を準備し、しかも「外見の綺麗なお姉ちゃんは市議会議員なら必ず当選する」と、実際にキャバクラを歩いて美女をスカウトしているのだから、痛快というしかない。
選挙は真面目で堅苦しく、実現不可能な理想を掲げて悲壮に戦うものだ……という僕ら愚民の常識を、木っ端微塵に打ち壊していく。だから、自分の塗り固めてきた常識を死守したい人ほど、立花さんやN国党を嫌悪する。
申し訳ないけど、どうしてもN国党のアンチは保守的で、「人として小さい」と思ってしまう。立花さんを嫌悪してもいいが、あの大胆な発想を盗んでやるぐらいでないと、大成しない。とにかく、淡白じゃ面白くならないよ。年齢は言い訳にならない。

立花さんが選挙演説の合い間にやっている、有権者との雑談が面白いのだが、彼の人生観は「嫌いな仕事や苦しい事はせず、好きなことだけやって生きていけばいい」「楽しく明るく、自由に生きるのが一番」。その障害となるものは実力で排除していこう、それだけなので、「人生はツラさを乗り越える苦行」と定義している人は立花さんを嫌がるわけだ。

ダメな人というのは、四六時中「できない理由」を探している。「高いから買いませんでした」「遠いので行きませんでした」とかね。
僕は本をつくるのが仕事だけど、いちばん多いリアクションが「○○が載ってない」。積極的に「あれがない」「これがない」と言いたがる人は、その人の人生に何もないんだと思う。
さらに厄介なのは、あなたの本を読んだことがある、署名に協力したことがある程度の理由で「だから、あなたはこうすべき」「こう考えるべき」と、“あなたのためを思って”命令できると信じているタイプ。
そういう人たちも、何かしら挫折して生きているんだろう。俺は、自分にいちばん適した仕事を探り当て、挫折を克服したが、そんな幸運な人は少数なのかも知れない。

© MCMLXXIV ORION PICTURES CORP.

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2019年10月30日 (水)

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モデルグラフィックス 2019年 12 月号 発売中
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今月の組まず語りは、クラウンモデルの「バリエーションロボ ハリアー」です。
僕の記事は、「色すら塗らないなんて手抜きなんですか?」とよく怒られるけど、そういう方はビッシリと塗った作例がページを埋めているのが模型雑誌……という固定観念があるのでしょう。


一昨日に見て、翌朝に見直したレオス・カラックス監督の『ボーイ・ミーツ・ガール』。レンタル店で、借りてきた。
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上の2枚の写真を見てほしいが、主人公役のドニ・ラヴァン、相手役のミレーヌ・ペリエ、お互いが出会うまで別々にストーリーが進行するのに、同じチェック柄の服を着ている。主人公は冒頭で恋人に逃げられ、書き溜めてあった詩や絵を捨てられてしまうが、そのゴミの中にも同じチェック柄のスカーフが入っていて「彼女(恋人)の好きだった色だ! あの女、何もかも持っていきやがって!」と激昂する。そのスカーフは、悲劇的なラストで、主人公が覆面のように顔にまく……と、その演出は難解すぎて意図が分からないのだが、「やがて出会う2人が、同じ柄の服を着ている」、そのような観念的な世界なのだと、かなり早い段階で理解できる。
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つまり、「2人は同じ店で同じブランドの服を買ったのではないか」などという日常的リアリズムでは、この映画は理解できない。『男はつらいよ』だったら、そのようなエクスキューズが必要だろう。マーベル映画でも、同じ服を着た人物が別々に出てきたら、何らかの説明が必要だ。しかし、映画の種類は、ひとつではない。
「やがて2人は出会う」「同じものを心に抱えている」、そうした文学レベルの「事実」を伝えるには、「同じ柄の服を着ている」視覚情報で伝えるしかない。少なくとも、それがこの映画の構造である。


他にも、抽象的な演出が散見される。
主人公はあるパーティに潜入し(その潜入にいたる段取りが、また入り組んでいるのだが)、ミレーヌ・ペリエ演じる彼女と出会う。
その前に、かつての恋人の新しい彼氏に電話をかける。「電話はどこですか?」と女主人に聞くと、通された部屋は託児室で、赤ん坊がいっぱい泣いている。その部屋を、うんと引いた絵で撮っている。その部屋で彼は元恋人とその彼氏に別れを告げ、ミレーヌ・ペリエ演じる憧れの相手の電話番号を手に入れる。赤ん坊がいっぱい泣いている部屋は、いわば主人公の心の中と解釈することも出来る。

もっと分かりやすいシーンが、後に出てくる。
主人公は憧れの彼女と台所で出会う。彼女の気を引くため、主人公は詩を口にする。すると、横に置いてあったケトルの湯が沸いて、シューッと大きな音を立てる。言うまでもない、彼女と出会えて高揚した主人公の感情を表現するには、湯の沸騰した音を入れるのが何より効果的だろう。
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さて、2人は台所に並んで腰かけて話しはじめるのだが、主人公はまだチェック柄のジャケットを着ており、元恋人の置いていった同じ柄のスカーフを取り出したりする。ところが、ミレーヌ・ペリエはもうチェック柄のズボンは履いていない。やがて、主人公もジャケットを脱ぐ。
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暑いから脱いだのだろうか? この映画の、この場面では「暑いから」ではない。出会うべき2人が出会ったので、新しい関係へ進んだ。そう解釈をせざるを得ない観念性が、この映画では視覚として露呈している。
『市民ケーン』、あるいは黒澤明なら、こういう演出をやる。『ボーイ・ミーツ・ガール』は日常的なリアリズムに縛られた映画ではないけど、やや古典的な側面もある。


ところで、いささかショックではあったのだが、僕が10年前にこのブログで何を書いていたか、どう思っていたか、今ごろ調べて言質をとろうとしている人がいる。僕が過去に何を考えていたか、いちいち気にしている人が、このブログの読者に3人もいる。Twitterと違って、ブログにはブロック機能がないので、防ぎようがない。

確かに僕は過去のブログを残してはいるけど、単純に消すのが面倒なんだよ。それに僕は、昨日よりは今日、今日よりは明日をよりマシな自分として生きるよう努力している。他人の考えがどうなのか、なんて気にしつづけて停滞しているあなたとは違うよ。僕の10年前なんて、いまの僕より愚かに決まってるじゃん。その愚かな僕の発言を検索して調べるなんて時間の無駄だし、そんなことに労力を割いているあなたの人生は失敗作だと思う。

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2019年10月27日 (日)

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片渕須直監督の「マイマイ新子と千年の魔法」を救った小さな映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」の支配人が10年前を振り返る【アニメ業界ウォッチング第59回】
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10年前、『マイマイ新子と千年の魔法』の上映回数が次々と減らされていく中、社会人でも見やすい夜の時間帯を設定し、映画にマッチした上映形態を模索してくれたラピュタ阿佐ヶ谷さん。石井紫支配人に、初めてインタビューしました。
石井さんが、クールといってもいいぐらい冷静に事態を見ていたことが分かり、かえってホッとしました。こういう落ち着いた視点があってこそ、『マイマイ新子』は延命されたのでしょう。
岩瀬智彦プロデューサーにも10年目にして初めてインタビューしましたが()、こういう、作品を素直に愛している作り手たちが、美談とは言い切れない苦い気持ちを我慢しながら、火を消すまいと努めてくださったのだと思います。

『この世界の片隅に』がヒットした時、名前の通った映画関係者の方が「『マイマイ新子』ってあんな傑作なのに、公開当時はどうしてヒットしなかったんですか?」なんて言っていたけど、「あなたこそ当時、どこで何してたの?」と思います(業界の中にいて、もし当時のことを知っていたら、ネットで広めるぐらいのことは出来たはず)。
他人の残した結果だけを受け取っておいて、「まあ、俺も当然、評価してはいたけどね、言わなかっただけで」的に後だしジャンケンするのは、非常にみっともない。
「すみません、公開当時は『マイマイ新子』の存在すら知らなくて」と言う人のほうが、むしろ有り難いです。当時の状況を正直に語ってもらった方が、後の人が歴史を知る手がかりになりますよね。粉飾して見栄をはるような人には、人知れず消えていく映画は救えないと思います。


コッポラ監督がマーベル批判のスコセッシ監督を擁護「嫌悪すべき」

このニュースを受けて、マーベル映画のファンが「コッポラなんて二流」とツイートしていて、ずいぶんと叩かれた。
その人が他人とやりとりしているツイートを読んでいたら、コッポラの映画は見るには見たけど、「面白くなかった」のだという。面白くないから、価値がない……まあ、一般の映画ファンなら、それで十分だろう。けど、映画評論家ですら、メディアでは「面白かった」「泣けた」レベルだよね?
自分が見てつまらなくても、その作品には価値がある。その価値を言い当てようとすると、他者の評価軸を受け入れざるを得なくなる。すると古今東西の本を読んで、多面的なものの見方を追求することになる。ぼんやりと目の前に飛び込んできた映画だけ見ていても、価値観は磨かれない。大ヒット作か、最新の映画にしか興味が向かわないようなら、かなり深刻な事態。僕も、うっかりしているとそうなってしまう。

「自分の快・不快以外の価値はどうでもいい」という人は、老いるのが早いと思う。萌えキャラがポスターに使われるたび、Twitterに愚痴レベルの批判を書いている人も、自分の快・不快だけで生きている。「泣いた」ことの気持ちよさを持って映画の価値に代えようとする態度も、僕からすれば同レベルだ。
それと、映画って時間芸術だから、またたく間に目の前を過ぎ去っていってしまう。僕は最近、30代までに見た映画をレンタルしてきて、50代の視点から見直そうと試みている。若い頃は経験不足で知識の裏づけがないから、浅い部分で理解しようとしていたんだと恥ずかしくなる。だから、一度見た映画の評価を、やすやすと決めないこと。100点評価で何点なんて書いてしまうと、そこで評価がフリーズして思考も凍結するから、本当にやめた方がいい。
でも、たいていの人は自分の価値意識が変化して、映画への評価がそのつど変わることの流動性に耐えられないわけ。そして、自分固有の、今日ただいまの価値意識を表明することは孤独なんだよね。俺は、その孤独によって得られる何かがあると信じている。自分の価値意識をバージョンアップするには、今日の恥に耐えるしかない。


最近見た映画は、レンタルでハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』。
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『ゼイリブ』は、初めて見た。主人公が非常にアクティブに動いて、自発的に宇宙人(かどうかも分からないうちに)をバンバン撃ち殺しはじめる。でも、見ている側は彼に「頑張ってもらいたい」と思う。少なくとも、彼がピンチになると「ここで死ぬなよ、生きのびろよ」程度には感情移入していると思う。
なぜなら、この流れ者の主人公は、最初の30分ぐらい、ひたすら町で起きている異常な事態を「見るだけ」だから。どんな映画でも事態に関与せずに「見るだけ」のキャラクターは、椅子に座って動かずに「映画を見ているだけ」の観客と同化する。『ダイ・ハード』の暴力的な主人公に感情移入できるのは、彼が人質が殺されるのを「見ていることしか出来ない」シーンがあったからだろう。

『ゼイリブ』に説明なく登場する重要な小道具は、サングラス。主人公がひたすら「見る」ことでしか、観客は事態を把握できない(なにしろ、彼の主観映像でしかドクロのような宇宙人を見る手段はないのだから)。第三者視点にカメラを置くと、そこには宇宙人は映っていないのだ。
この関係、この構造こそが『ゼイリブ』を独特の、他に類を見ない個性的な映画にしているのではないだろうか。その強い個性さえ認めることが出来れば、他の無理やりな展開など気にはならない。

(C)1988 StudioCanal. All Rights Reserved.

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2019年10月21日 (月)

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レンタルで、シドニー・ルメット監督の『セルピコ』。
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同じルメット監督でアル・パチーノ主演の『狼たちの午後』は良かったし()、犯罪物という意味では連続性があるはずだが、どうも『セルピコ』はピンと来なかった。ルメット監督の『オリエント急行殺人事件』も、舞台劇をそのまま撮ったようなアバウトな印象しかない。
そうなると、『狼たちの午後』を見たときの自分の感覚も当てにならないのか、あるいはその当時のほうが冴えていたのか、ちょっと不安になる。


土曜は編集者と2人、昼間から飲んだ。彼と別れてから、何ヶ月ぶりかでガールズバーへ行った。
一時期、たまにキャバクラやガールズバーへ行っても、着いてくれた嬢には必ず敬語で話すという偽善的なふるまいをしていた。敬語で話すのを、まずやめてみた。「僕はキャバクラに連れて行かれても、自分から女の子に気を使ってしまうので、かえって疲れるんですよね~」って男に、何人出会ってきただろうか? テンプレなんだよね。ええかっこしいの嘘つきの。そんないい人アピールしたって無駄だよ、楽しく遊んできたくせして。
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あと、「そういうお店に無理に、付き合いで仕方なく連れて行かされたことはあるけど、自分の金では行ったことない」とかさ。他人の金で楽しんだんであれば、かえってタチが悪いよ。「僕は女の子を金で買ったりはしませんよ、潔白ですよ」ってポーズだけなんだよ。5千円だろうが五十円だろうが他人の金であろうが、女の子の容姿と態度と時間を、アンタは金で買ったんだよ。
「売春宿に行ってセックスせず、会話だけして帰ってきた」なんていうのは、自慢にならない。男なんて、童貞であれゲイであれ何であれ、糞尿と精液のつまった袋よ。
そんな汚い自分を恥じすぎず、嫌いすぎず、開き直らないことだろう。


で、ひさびさのガールズバーは、そこそこ楽しかった。エレベーターの中で、妙に警戒されるという体験()をした後だけに、女性を嫌わずにすんだ。
女の子は三人いて、そのうち一人がなんと、【エストニア~デンマーク~アイスランド】を旅してきたそうで、写真をいろいろと見せてくれた。ようするに、「そろそろ旅に出ろ」って啓示でもあった。
海外を旅している間、それこそ飛行機に乗った瞬間から、僕は自分のことをいちばん大事に考え、自分の欲望を肯定し、ありありと靴の底から頭の先まで「自分自身」になれるのを感じる。日本社会では、どうでもいい大義名分とかキャバクラに入店しておいて敬語で話すような偽善的倫理観に拘束される。

女性というのは、僕にとっては得体の知れない圧倒的な「他人」であって、だからこそ、普段は怖い。最近は軽くなったが、電車で隣に座られるだけで緊張して、汗が噴き出してくる。だから、二十数年間も精神安定剤を服用している。もの心のつく前の幼年期、何か致命的な体験をしたのかも知れないな。いずれにしても、僕は自分を正常だなんて思ってない。
海外でも、マルタ共和国の都会っぽいバスで、隣に十代の女の子が座ったときは、汗が出てきた。混雑した近代的なバスは、あまりに日本的シチュエーションであった。そうでないかぎりは、海外では女性に話しかけられることが多いので、素直に「嬉しい」と思ってりゃいいんだ。
生きている以上は、自分を肯定しないとダメ。ガールズバーに行って救われたんなら、そんな低レベルの自分を認めてやらないと。


ところで、俺がN国党支持というだけでコメント欄で咬みつき、なぜかTwitterをブロックしてきた卑怯者・ものくる@monocuruさんは、まだこのブログ見てるのかな? こっちが無防備なのを知っていて、先回りして絡んだことすらないTwitterをブロックして自分の発言は見られまいとする、その姿勢がクズなんだよ。N国アンチの人って、なぜかヘナヘナ・ナヨナヨした卑怯者が多い。

© 1973 STUDIOCANAL

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2019年10月17日 (木)

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台風の脅威が完全に過ぎ去ったのを確認して、約束どおり、小学校時代の友人と『ジョーカー』を観にいった。
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最近はヒーロー映画から遠のいていて、評価の高い『ダークナイト』という映画にも首をひねった過去があるので、やや警戒はしていた。でも、思ったよりずっと品位と知性があり、ヒーロー映画でお馴染みの奇想天外な万能新兵器(どんなに渋くデザインしてもバットモービルが出てくると私は白ける)は、ひとつも出てこない。
唯一の凶器、それはありふれた一丁の拳銃である。拳銃は重要なモチーフで、主人公アーサーの恋人は手で拳銃の形をつくり、頭を撃ちぬくフリをする。それを見たアーサーも、指鉄砲で自分を撃つジェスチャーをする。その自虐的なユーモアは、実はとりかえしのつかない出来事を暗示してもいる。

この映画は、何か特筆すべき構造を持っているわけではない。凝ったプロットを、丁寧な美術、衣装、撮影で見せてはいるのだが、びっくりするような構造を持っているとは言えない。「プロットを説明している」という意味では、よくある凡庸な映画であり、いたって正気だ。
だけど、このプロットの持っている力強さは、いつか誰かの役に立つ。少なくとも、犯罪者扱いされたばかりの僕()は、救われた気がした。
ハリウッドのメジャー映画が「犯罪者になってしまったのは、あなた自身のせいではない」と明快に宣言するのは危険でもあるが、必要なことなのだと思う。キャラクターではなく、テーマに殉じた映画だった。ばかげた続編にはつながらなそうなので、晴れ晴れした気持ちになれた。


レンタルで、『夏の夜は三たび微笑む』。ベルイマン監督作なのに、拍子抜けするぐらい通俗的な作品であった。

僕が危惧しているのは、「名作、良作」が「泣ける映画」と定義づけられているのではないか?ということ。みんな、映画の中に無理にでも「泣けるシーン」を見つけようとしているのではないか。無理にでも「泣けた」という感想に持ち込もうとしていないか。
結果、配信には分かりやすい人気作だけが残り、感情移入を拒むような難解な作品はレンタル屋の店頭で埃をかぶることになる。

観客が何をもって「泣ける」かというと、おそらく自己犠牲だったり親子の愛情だったりするのだろうが、それらはプロットに込められたものであって、映画の構造とはいささかも関係がない。プロットにばかり着目するから、映画=プロットだと早合点し、「伏線」にこそ価値があり「ネタバレ」によって価値が損なわれると信じられている。

映画の「構造」とは、『ジョーカー』でいえばラストシーンがそれに当たる……と、一度は書いたのだが、ラストシーンは映画の「構造」ではなく、やはり「プロット」に過ぎないのではないかと反省した。以下に書き直す。
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ドンデン返しのラストシーンなんかより、僕が友達に「どこが良かった?」と聞かれて答えたのは、シーンが変わっても、ジョーカー(アーサー)のポーズがほとんど同じだった所だ。確か洗面台に手をついているポーズで、ロング・ショットだった。別のシーンになったのに、ほぼ同じポーズ、サイズだった。背景と照明が変わったので、別のシーンだと分かる。
あるシーンがロングで終われば、次のシーンはアップで始めるなど、サイズを変えて「シーンが変わりました」と明示するのが劇映画の文法だ。ポーズとサイズが同じままだと、ちょっと異様な、不自然な印象を与える。それは、映画の構造に踏み入って、僕たちが何を見ているのか問い直そうとする試みだ。
見慣れた文法から外れたシーンの繋ぎ方をすると、少なくとも映画を見ていて不安になるし、それは映画の企画意図とマッチしているように思われる。

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2019年10月14日 (月)

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「天空のエスカフローネ」の主役ロボットが、「竜」に変形する意味と効果【懐かしアニメ回顧録第59回】
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アニメーションに登場する巨大ロボットは、あらかじめ合金玩具かプラモデルになることを前提にデザインされてきたので、劇中での演出から評価されることは、ほとんどなかったと思います。ガンダム・シリーズのロボットも、いきなり「宇宙世紀○○年の技術では……」と劇中の架空設定の話ばかりで、大変気の毒と思います(模型雑誌も、すべてそういう解説ばかりですね。架空の設定話のほうがライターも編集者も「考えなくてすむ」から楽というだけの話ですよ。演出のことを書こうとしたら、実写映画も幅広く見てないと無理ですから)。
今後、僕がどんどん演出面から評価してあげます。


台風一過の日曜日、いっぱい買い物をして晴れ晴れとした気持ちで、自分のマンションに帰ってきた。エレベーターを待っていると、玄関からメガネをかけた女性が歩いて来たので、一歩退いて場所をあけた。こういう時、挨拶をすべきなのだろうが、無視されることもあるので黙っておいた。
女性が僕のあとにエレベーターに乗ってきたので、ボタンを押そうと「何階ですか?」と聞いた。女性は「いえ、大丈夫です」と答えた。僕と同じフロアで降りるのかと思い、「ああ、五階でいいんですね」と、僕は答えた。
さて、エレベーターは五階に着いた。入り口近くに立っていた僕は、女性を先に降ろすのが礼儀だと思い、「開」ボタンを押して待っていた。すると女性は、「別の階ですから」と答え、そのまま立っていた。僕は先に降りて、女性は階数のボタンを押していないエレベーターの中に残った。

ちょっとよく分からないのだが、おそらく僕に階数を教えたくなかった、何階に住んでいるのか知られたくなかったのだろう。
あるいは、他人の世話になりたくない、関わりたくないという気持ちも分かる。そういう時、僕はエレベーターには乗らず、ちょっと周囲を歩いたり、郵便ポストに投げ込まれたチラシを眺めたりして時間をつぶす。たまに、同じようにロビーで気まずさを避けている人がいるので、「うんうん、分かりますよ」と親近感を抱きながら、僕はさっさと一人でエレベーターに乗る。
だけど、昨日は逆であった。
もしかすると、僕が泥棒か性犯罪者に見えたのかも知れない。ひょっとすると、ものすごく臭かったのかも。でもだったら、エレベーターに一緒に乗るのもイヤだったと思うのだが……。


僕は今年から、小学校の同窓会を欠席することにした。直接的な理由は、二年前の同窓会で女性たちが話しているところへ話しかけたら、確か3人いたと思うのだが、全員に無視されたこと。
別にセクハラ発言をしたのではなく、どれぐらい酒を飲めるか、という話題だったと思う。そのうち一人の女性が、facebookでかなり大量に飲めると書いていたので、「あなたが一番いっぱい飲めるんじゃない?」とか、そんなことを話しかけた。でも、その本人も無言。周囲も無言。僕は、男たちとの話の輪に戻った。
その後、facebookでのリアクションもなくなった。彼女たちが反応しているのは、結婚して子供もいる男性たち。少なくとも僕らの世代では、妻子持ちであることは、絶対的な安心材料。僕は彼女もいないし、結婚願望もなく、ひとりで生きるのが楽しいのだが、妻子持ちに比べると「何が楽しくてひとりで生きているのか分からない」と怪しまれてはいるだろう。「そんな得体の知れないヤツが一人前に同窓会なんて来て、一人前に異性に話しかけるな」と、そう言われたような気がした。そう思ったほうが、少し気が楽じゃない? 自分の会話スキルが下手すぎたとか、何か異様な犯罪者的なムードを発散していたのではないかと悩むよりは。

ちょっと卑屈とは思うけど、距離を置いたほうがお互いのためだろう?
妻子に暴力をふるって、時には殺してしまうような男さえいるけど、やっぱり、実社会で既婚者の安心感は鉄壁ではないだろうか。
結婚していなくても、初代面でいきなり「僕の彼女がですねえ」「私の付き合ってる彼氏が」と切り出す人たちの気持ちが、俺には分かる。社会性を示すには、「そのうち結婚するかも知れない相手がいますので」「ひとりで悶々としている気持ち悪い独身とは違いますよ」と、嘘でもいいから相手に示したほうが賢い。


僕には、異性の友達がいない。仕事以外で女性と話すことはないし、特に話したいとも思わない。男はみんな女に飢えている、それは幻想だ。
表現規制に反対する活動をしていた頃は、BL好きの女性から僕の知らない世界の話をいろいろと聞かせてもらって、けっこう楽しかった。もし、「綺麗なお姉さんと会話したい」程度のことなら、キャバクラやガールズバーで十分。何だったら、VRとかAIでいいんじゃない? それって、「女性をひとりの人間として見てない」のかな? エレベーターや同窓会で無視するのは、男性の人権に配慮していると言えるの? よく分からない。

僕は、男と女は社会で同権とは思っていない。どうしても体力や体格に差があるし、女性の方が圧倒的に損をしていると思う。政治活動でも、街頭でビラを配っていると、女性ばかり絡まれると聞く。もちろん、男に絡まれるんだよ。体の大きな男が目の前に立ったら、そりゃあ怖いだろうと思う。男という男が嫌い、男はみんな憎いって女性がいるのも、分かるんだ。
だから、男女が同じ権利を持つには、男性が女性に立場を譲ってあげないといけない。それを不合理とは思わない。
僕は歩いていても女性に道をあけるし、重たいドアを開けるし、席だって譲るよ。それは、女性のほうが損をするような社会だから。……でも、もういいよね。必要ないよね。異性のいない国へ行きたい。「親切してやってんだから感謝しろ」とは、少し違う。だけど、僕の考え方って報われない。消耗する。
性別は、めんどくさい。男でも女でもない存在になりたい。

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2019年10月13日 (日)

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アオシマが「未来少年コナン」のプラモデル化で模索した「アニメ」から「模型」への最適解【ホビー業界インサイド第52回】(
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「ホビージャパンヴィンテージ」で取材させていただいた青島文化教材社さん。『イデオン』の取材中にふと気がついたのは、アニメの表現が違えば、プラモデル化の商品コンセプトも作品ごとに違っていて当然ではないか、ということ。もちろん企画者や時代による技術の変遷もあるだろうけど、『コナン』は作画のシンプルさに対して、実在する「機械の模型」として強烈なアプローチがなされていることが明らかになったと思います。
もしバンダイが作っていたら、ガンプラと区別のつかないものになっていただろうし、それが良いのか悪いのか、僕らはもっと考えてもいいんじゃないかと思います。


最近レンタルしてきた観た映画は、メリル・ストリープ主演の『幸せをつかむ歌』、ハワード・ホークス監督の『赤ちゃん教育』。
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メリル・ストリープは年齢以上に、性格の破綻したアマチュア・ロック・ミュージシャンという役どころがイメージをぶっ壊していてナイスだった。日本語吹き替えの一柳みるさんも、捨て身の演技だったと思う。

ネット配信が盛んになって、一週間以内に物理的に返却しなきゃいけないレンタルDVDは衰退しつつあるけど、ネット配信は「つまらないから、また次に見よう」と、安易にやめてしまうことが出来る。強制力がないので、作品一本の価値が軽いんだよね。
映画館で観ることの価値はスクリーンの大きさや音響の良さなどより、始める時間も終わる時間も映画館が決める(観客がコントロール下に置かれる)、そこから生じる緊張感なんだと思う。


関東にひさびさに巨大な台風が来て、「こんな時に、そうまでして目立ちたいか?」という人たちが、Twitterでは散見された。危険な場所に行って動画を撮ってくる人は分かりやすいほうで、「災害に備えてコレとコレは絶対に準備してください」「まだまだ油断は禁物ですよ」「今度はこういう危険が出てきますから、皆さん、気をつけてください」と命令したがる人は、僕はけっこう怖い。
たとえ「私は○○の専門家なのですが」と前置きしていても、不特定他者に対する支配欲がむき出しになっていて、恐怖を感じる。

そんな中、NHKから国民を守る党の三鷹市担当とされる山本たかひらさん(同党の議員ではない)が、昨年の大阪の台風の動画をあたかも現在の江戸川区かのようにツイートして、大炎上してしまった。アンチN国が、一晩で優勢になった。
僕は山本さんに投票したし、彼が政敵を批判する時に「(違法薬物をやっているかも知れないから)尿検査をすべき」とツイートしていたので、DMでクレームをつけたこともあった。僕のイベントに招待したことさえあった(多忙とのことで来てくれなかったが)。地元民なりに愛着を感じていたので、彼が結果的にデマを広めたことに少しは責任を感じている。

最初は憤りしかなかったのだが、「山本さんは学習障害なのではないか」という書き込みを見て、ハッとした。過去の動画を見ると、確かに彼は、論理的な話が出来ない。参ったなあ……。デマを広めた責任はとってもらいたいが、どこからどう話をすればいいのか……。


埼玉補選での立花孝志さんの手際は見事だし、しっかりと大義名分も用意してあるのだが、それを理解して評価できるのは、同じぐらい頭のいいエリートだけで、一般の有権者には伝わっていないと思う。
立花さんの頭のよさは「インテリ」って意味ではなく、「パチンコ必勝法」的な、処世術としての実用的賢さだから、お上品な左翼系知識人には嫌われるだろう。
一方、自分でモノを考えられない底辺(って言い方はよくないとは思うのだが)の人たちって、思ったよりも数が多い。ネットでよく「○○で草」「○○はバカ、キチガイ」としか書けない人がいる。2ちゃん全盛期から、定番のスラングしか発せない人たちっていたよね? そういう人って、荒しにでもなるしか居場所がない。でも、彼らも有権者なんだよね。そして、自分でモノを考えられない、自分の意見も何もない(だから騙されやすいし、反○○って単純な考えに流されやすい)人たちが、世の中の七割ぐらいじゃないかと、僕は踏んでいる。だから、投票率が低いんだよ。

自分でモノを考えられなくて、人の意見に対して「違う」「そうは思わない」程度しか言えない人たちは弱者であろうから、責められない。でも、N国党はそういう「多数派」によって勢いを削がれつつある、と感じている。

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