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アニメ「ゲッターロボ アーク」はあえて泥臭いキャラで! ベテランアニメーター本橋秀之が、ロボット物の熱い息吹を令和の今に伝える【アニメ業界ウォッチング第81回】
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『ゲッターロボ アーク』の取材がとれそう……という話になったので、即座に「本橋秀之さん」と希望してインタビューが実現しました。


最近知り合った編集者がジェームズ・キャメロン監督の『アビス』がいい、と言うので、何十年ぶりかで見てみた(久しぶりにTSUTAYAでDVDを借りた……今回は、無事に再生できた)。
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完全版は3時間もあるので、一時間ずつ区切って見た。
メアリー・エリザベス・マストラントニオの演じる女性科学者のリンジーが、海水の中で仮死状態になり、旦那のエド・ハリスが基地に連れ帰って蘇生しようと努める。
旦那だけでなく、基地のメンバーが集まって、リンジーを蘇生させようと協力する。緻密に構図が組み立てられているのだが、ちょっと奇妙に感じたカットがある。まだ蘇生していない、すなわち死体の状態のリンジーの主観カットで、助けようとしているメンバーの姿を撮っているのだ。劇の上でも、まだ彼女は生き返っていないのだから、彼女の主観は成立しないはずである。

直後、今度はリンジーの真上にカメラが据えられる。これなら、分かる。蘇生しないままのリンジー、その周囲に集まっている人々を、突き放した構図に冷徹に収めており、彼らの結束と無力感などを効果的に描写できている。
そして、リンジーが蘇生した後、今度はエド・ハリスの演じる旦那が肺に液体酸素を吸入して、深海へと挑む。液体酸素は未知の技術だし、深海の水圧で彼は死ぬかも知れない。それでもミッションに挑む彼の主観カットが、一回だけ挿入される。水面を囲むようにして、メンバーがこちらを見ている――これなら、意図が分かる。彼の感じている孤独が、その主観カットでいっぺんに描写できている。臨場感もある。

もしかすると、「死んでいる」リンジーと「死ぬかも知れない」旦那の心情(孤独感)を、同様の主観カット(見守っているメンバーと基地内の風景)によって呼応させようとしているのかも知れない。そうだとしても、主観カットはライトやスタッフが映りこんではいけないので、かなり撮影が面倒なはずだ。そこまでの手間をかけて、「死んでいる」はずのリンジーの主観カットを撮った意図を知りたいと思った(演出ミスだと難癖をつけているわけではない)。


『アビス』ともう一本、ティム・バートン監督『ビッグ・アイズ』も観た。90分程度しかなく、明快な感情描写とシンプルな展開に好感をもてた。
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しかし、本来は『エド・ウッド』の脚本家コンビが監督までする予定が、ティム・バートンが脚本はそのままで監督だけすることになった……という経緯を知って、ちょっと複雑な気分になった。おそらく、誰がどう撮ってもこういう映画になっただろう。すなわち、映画の主体が演出ではなく脚本にあるのでは……という意味だ。


そして、この2本を返しに行ったついでに、コーエン兄弟監督の『ミラーズ・クロッシング』を借りてきた。公開時に見たはずなので、実に30年ぶりである。
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野沢那智さんや曽我部和恭さんらによる、素晴らしい吹き替え版で観たのに、ストーリーはよく分からなかった。
しかし、そんなことは少しも問題じゃない。アルバート・フィニ―の演じるマフィアのボスが豪邸で寝ているところを襲われるのだが、ベッドの下に隠れてマシンガンを持った二人組を返り討ちにする。
倒れた一人の脳天をしっかりと撃ちぬいて窓から脱出し、奪ったマシンガンで窓辺で背を向けているもう一人を撃ち殺す。背後から撃たれた刺客は、自ら手にしたマシンガンを部屋中に乱射しながら死ぬ(すごい!)。
それで終わりではない。アルバート・フィニーは車で襲ってきた追っ手をも、手にしたマシンガンで返り討ちにする。車からも撃ってくるのだが、夜道をふらふらと迷走した挙句、炎をあげて車は爆発してしまう(!)。一体全体、ここまでくどい描写にする理由とは何か?

この映画、そうした「描写のための描写」の連続で、そこが何より面白い。


タイトルが出るところで、主人公の帽子が森に落ちる。落ちたかと思うと、画面の奥へと飛ばされていく。
それを主人公は、夢だと説明している。まるで何かの暗示のように、繰り返し帽子がアップになる。たとえば、主人公が脅している相手に向かって、そばに置かれた帽子を手に取り、茶化すように頭にかぶせる。「殺すときには脳天を撃ち抜け」というセリフが繰り返され、ようするに帽子は死のイメージを想起させる。

それだけではない。組織を裏切った主人公が、ボスに殴られる。その周囲に、マシンガンを持った男たちがぎっしりと並んでおり、主人公は殴られるたびに彼らにぶつかってしまう。
何もない空間で殴られて壁にぶつかるより、マシンガンを持った男たちが壁をつくっている方がユーモラスだし、深刻さを薄める(このシーンでも、主人公の帽子がアップになる……それはやはり、死の予感のように見える)。
殴られた主人公が、店の階段を転がり落ちると、客が大きな悲鳴をあげる。太った女性が、悲鳴をあげながらフラフラになった主人公をバッグで叩く。
同様に、ある人物にとってショッキングな出来事が起きると、その場で見ている別の人物が絶叫する、泣く描写がいくつかある。

それらの描写は、「物語を映像で伝える」役割には、ほとんどまったく貢献していない。だが、たんに誰かが殺されるより、殺されない人物が叫んでいた方が面白い。その場かぎりの面白さのための描写のほうが、僕には純粋に感じられる。
だから僕には、劇映画のストーリーが描写のためのガイド、枠、入れ物のように感じられてならない。『アビス』の平和主義的なストーリーは薄っぺらいが、主観カットの効果には得体の知れない深みがある。『アビス』のストーリーがいかに薄っぺらであろうと、演出のあり方、構図の必然性は少しも色あせない。それは「物語が優れているから」「感動的だから」ではない。むしろ、何かの手違いが生じているからこそ、興味深いのだ。

また、僕たちは映像情報から「物語」を読みとろう、解読しようと試みるが、そもそも僕たちの頭の中で「物事を理解する」「認識する」メカニズムはどのように機能しているのだろう? 本を読んでいると、文字をどう組み合わせてどう情報を脳内に結像させて理解しているのか、自分でも不思議に思うことがある。

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2021年9月 3日 (金)

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ホビージャパン ヴィンテージVol.6 発売中
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巻頭特集「BANDAI early 80's! 設計者・村松正敏の見た'80年代バンダイ模型」を構成・執筆しました。
村松さんへはもちろん、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』でも取材させていただいたベテラン木型職人の諸星亮一さん、海洋堂・宮脇修一さんへもインタビューしました。6月は、静岡と大阪を駆け回る日々でした(取材の交渉も、自分で電話したりメールしたりして手配したので)。

そうした取材のやり方、キットが集まってからスタジオで写真を撮ってもらう段取り(どれとどれをどう撮ってらって、次に何と何を準備しておくのか、予約した時間内に撮り終えるにはどう進行させるべきか)、ページ構成、デザイナーさんへの発注の仕方……たぶん、いろんなテクニックを使って40ページをつくったのです。
「誰かやっといてくれ」「自分の思うように、他のみんなが動いてくれ」では、40ページを形にすることは出来ません。どうすれば出来るのか具体的な段取りに落としこんで考えて、自分の足を運んで、自分の手で書くのです。いくら待っていても、状況は進みません。


中古DVDを購入して、ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』。
他には配信で、ウディ・アレン監督『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』、『女と男の観覧車』、リリアーナ・カヴァーニ監督『愛の嵐』など。どの映画も超絶に長く退屈に感じる中(それは僕の感受性の変化だろう)、『女と男の観覧車』は軽快な語り口で、ブラックな笑いをふんだんに盛り込みながら、「次はどうなるんだろう?」とサスペンスフルな興味を最後まで持続してくれた。
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撮影はヴィットリオ・ストラーロで、極彩色の映像がとにかく飽きさせなかった。
人物だけを追っているように見えて、ドラマがキーポイントを迎えると、ふっとカメラが人物から離れて、背景やモブを撮る中に人物が混じっている……という、冷めた撮り方をする。本当は、そういうカメラや構図が物語に対してどう機能するかだけを見ていたい。


世の中、成人したら七割の人間が勉強しなくなる、本も読まなくなると聞いた。
「店員さん」を「定員さん」、「延々と」を「永遠と」と書いてしまう人は、何も読まずに、ネットに短文を投稿するだけの向上心を失った人生なのだろう。

スマホ歩きしている女性は、盗撮被害にあいやすいとも聞いた。スマホ歩き人は自分の身の安全を周囲に依存しているわけで、みずから搾取される側になっている。どんなにカッコいい外見の人でも、公道を歩きながらパズルゲームしているなんて、人生終わっていると思う(自分の部屋とか、お店や電車内で座ってゲームするのとは意味が違う)。
トイレに入ってきて、ションベンしながらずーっとスマホに触っている男性がいる。ようは、(排便のような)自室でやるよう恥ずかしいことを公道でやってはまっているのがスマホ歩きだ。僕も寝床ではスマホを離さないが、その姿を人に見せたくはない。


また、僕自身にコンプレックスがあるので、ダサい格好の男性には、つい目が行ってしまう。
気がついたのは、別に高い服を着ていなくても、サイズのあった服をサラリと着ているだけで印象は良くなるということ。ダサい人は、服のサイズが体形に合っていない。特に、ぶかぶかのズボンをだらしなく履いている場合が多い。シャツが短くて大きなお腹が飛び出しているのに、考えもなくベルトで締め上げて、みっともない体形が強調されてしまっている。

もっと言うなら、背筋をしゃんと伸ばしているだけで、服が安いかデザインが悪いかは関係なくなる。靴が清潔なら、もっと良い(靴ひもが外れても平気で歩いているのは、おしゃれ以前に心がだらしないのだ)。
僕はずっと猫背だと言い続けられたのだが、それは自信がないからだ。今だって、体格のいい男性にはビビってしまう。だけど、苦労を重ねて、いろいろ諦めて手に入れただけの自信がある。内面から滲み出る自信は、見栄ではないと信じている。その心に恥じない外見でいたい、と思う。

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2021年8月26日 (木)

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モデルグラフィックス 2021年 10月号
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組まず語り症候群 第106回
今回は、レヴェル社のカルフォルニア・コンドルです。ふと忘れそうになると担当者さんが「来月どうしましょうか?」と連絡をくれる、小さな灯のような連載です。


月曜日はふと思い立って、軽井沢へ行ってきた。
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セゾン現代美術館。館内は撮影禁止だが、庭にはこの鉄橋のような作品が点々としている。
収蔵作品展(「collection 40」展)では、中西夏之氏の抽象画が良かった。その作品の中だけでの規律があって、その決まりを視覚化するために絵を描いているような、実直さと丁寧さがある。東京都近代美術館で観た具体芸術協会の前衛絵画には、なんら決まりを設けない放逸さがあった。中西さんの作品は、もっと几帳面でストイックだ。

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都美術館で観たイサム・ノグチ氏の彫刻も、このとおり風雨にさらされて貫禄がついた「本物」を観られた。
ところで、美術館へ向かう数少ないバスを待っていると、ゲイっぽい男性二人組と一緒になった。ずっと下品で幼稚な話ばかりしているのでウンザリしたが、バスの運転手さんに丁寧にお礼を言って、館内では静かに作品を鑑賞していた。いろんな人がいるもんだなあ、と思う。


帰りは40分ほどかけて、ゆるやかな道を中軽井沢の駅へと歩く。
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途中、星野リゾートというお店の密集したエリアで、クラフトビールを買う。「歩きながら飲みたい」と言ったら、このような形に注いでくれた。気温20度ぐらいなので、飲みながら歩く。女性の一人客が多い。
軽井沢駅に帰って、前夜に泊まったホテルとは逆の方角へ降りて、その通俗的な賑わいに嫌気がさした。人間は群れるとロクなことにならない。こういう観光地へ行くと、必ず似たような髪、似たような服装のグループがいる。仕草も話し方も、みんな互いに真似しあって生きている。

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(ホテルから、わざわざ10分も歩いて食べに行った喫茶ブロンコのモーニングDセット。なんと、ハムとレタスをくるんだクレープなのだ。こうした優良店の常で、朝早い客は近所の常連のみ。もっと観光地らしい高級喫茶もあったようだが、こういう庶民的な店が好きだ。)


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(前夜、徒歩圏内で厳選した居酒屋にて、信州産ズッキーニとアスパラのグリル、バルサミコソースで。思わず、赤ワインを合わせた。4皿3杯で5千円しなかったのだから、良心的だ。)

店内では、地元の人たちだろうか、「コロナにかかったらどうしようね」と言いながら8人ぐらいで宴会をやっていた。僕は過剰な自粛反対で、普通の娯楽はそこそこ気をつけて楽しめばよくない?と思っているのだが、そんなに警戒心がないなら東京の人をあまり悪者にしないでほしい(笑)。

東京が嫌いな人は、コロナにかこつけて東京を罵倒する。今まで自由でなかった人は、コロナにかこつけて他人の自由を禁じる。
ダメな人は、ダメだったことをいつまでも気にしている。「行けなかった」「できなかった」「買えなかった」「食べれなかった」。通り魔殺人の加藤智大が、「彼女さえいれば」と掲示板に書き残していたことを思い出す。「結婚さえすれば」「資格さえとれれば」……そんな、試験の合格点をとるような人生観だから、苦しくなる。


2ちゃんねるにハマっていた頃、「1ゲット」と書きこむ人の気持ちが、分からなかった。
Twitterでも、バズっているツイートに真っ先に「1」とだけ書きこむ人がいる。2ちゃんでは「前スレの2は、本当は俺がとるはずだったのに」といった恨みごとを書く人もいて、ひょっとして順位を競う以外に何も知らない人生なのでは……と、想像する。

Twitterで面白いネタを自ら創出して、あるいは発見して、自分が最初に書きこむならいい。「ああ、コレね」「それな」と、いま知ったくせに便乗するのが見苦しい。
そんなに詳しいなら、最初にそのネタを自分で書けないとダメだろうよ。詳しいことにはならないだろうがよ。
最初にネタを投下する勇気、受けなかった場合の気恥ずかしさを、便乗するだけの人たちは知らないまま、歳だけをとっていくのだろう。誰かの見つけてきたものに脊髄反射して「必ず行きたいです」「絶対に欲しいです」とだけ反応して、実際には行きもしないし買いもしない。「仕事さえなければ行ったのに」「お金さえあれば買ったのに」……本当に、そうなのだろうか?
「彼女さえいれば」「結婚さえできれば」「資格さえとれれば」……本当にそうなのか、よく考えてみたほうがいい。案外、何もなくても楽しいのかも知れない。ただ、そう認めることに勇気が必要なだけだ。そして、ほとんどの人は他人の発見や価値観に安易に便乗して、やれなかったことを悔やみながら死んでいくのだ。

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2021年8月22日 (日)

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「亜空大作戦スラングル」の1/48チャンサーを組み立てて、アオシマの試みた新路線“リアクション”シリーズの真実を目撃せよ!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第14回
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こういう連載記事でも、常にどこか改善しつつ、より良いものにしていかないとダメですね。
まだ誰も誉めていないものを「これ面白いよ!」と主体的に誉めることは、そこそこ勇気も必要です。「そんなの面白くないじゃん」と反応するだけなら楽だけど、主体性を持たないと、面白い人生にはならないです。人生がつまらない人は、ほぼ例外なく、他人まかせにしています。


19日木曜日は、国立近代美術館へ「隈研吾展」を観に行った。
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隈さんの展示という意味では、角川武蔵野ミュージアムで昨年開催された企画展「隈研吾/大地とつながるアート空間の誕生 − 石と木の超建築」のほうが良かった。
さて、常設展(MOMATコレクション)はどうしようか、つまらないだろうから早足で見ておくか……と思ったら、絵の具をぶちまけたような抽象画に心臓を射すくめられたようになってしまった。
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こうして写真で見ると何てことはないだろうが、作為を排するために、絵の具の垂れや滲みをそのままにした作法が、自由で優しく感じられた。その場で泣くのではないか、出来ればうずくまって泣きたかった。
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具体美術協会、彼らの一連の作品にすっかり心が癒された。
無意識に作用するというか、この前すこしブログに書いたように小児期はヨダレやハナクソが身近にあり、そうした体液に近いような汚れが、これらの抽象画に繋がっているのではないだろうか。意識が像を結ぶ前の、明け方の得体の知れない夢や体感にも似ている。

すっかり気分が高まって、企画展「鉄とたたかう 鉄とあそぶ デイヴィッド・スミス《サークルⅣ》を中心に」、これも凄く面白かった。
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こんな羊羹みたいな実用性のないオブジェを、わざわざ陶器でつくるバカバカしさが素晴らしい。


配信レンタルで観た映画は、ヴィスコンティ『白夜』、デ・シーカ『終着駅』、リリアーナ・カヴァーニ『愛の嵐』。『愛の嵐』は二度目だが、ほとんど内容を忘れていた。


メンタリストDaiGo氏の炎上に関して、「あれだけ本があるのだから自分も本を読もうと思ったが、本を読んでもダメそうだなあ」などと言っている人がいた。僕は20代の貧乏な時でも、古本などを買って読書は続けていた。
今は喫茶店で読むために、紙の本を積極的に買うようになった。若い頃は、本棚を充実させたい(頭のよさそうな本を並べておきたい)という見栄もあった。中年となった今は見栄などなく、どのタイミングでどんな種類の興味が喚起させるか分からないので、なるべく畑違いのものを手に取るようにしている。
……というか、普通の人は本を読まないのか。僕は、いつも何か読んでいないとバカになりそうで不安だけどな……。


小学三年生ぐらいから、教室で「お前だけ、きたねえぞ」という声を頻繁に耳にするようになった。「お前だけズルをするな」「不公平だぞ」という歪んだ平等意識が嫉妬へつながり、個人プレーの目立つ人は組織ぐるみでつぶされる。我々は義務教育によって「平等に」学力で競争させられ、嫉妬心ばかり増大させてきた。自尊心を育むチャンスを奪われつづけた。

僕は才能というほどのものはないので、自分のマシな部分を伸ばして、なんとか工夫して生業にしたわけだが、すると「あなたは恵まれているけど、多くの人たちは自分を出すまいと我慢している」「あなたも自己主張を控えてほしい」などと言われることがある。工夫が足りなく怠惰なばかりに退屈な人生に耐えている私たちに合わせろ、というわけだ。

ダメ人間の第一の言い分が「不公平だぞ!」なのだ(スマホ歩きしている人は「だって、お互い様でしょ」と言い訳するそうだ)。
ダメ人間は、「みんな同レベルのバカでいてほしい」と願う。どうすれば自分の良いところを磨いて、自分らしく成功できるだろうかと知恵を巡らすことをしない。いい大人になっても、偏差値とか学力というレベルで考えたがる。「資格さえ取れれば俺だって」という人もいる。

僕がライターを名乗っていると、「文章なんて俺のほうが上手く書ける」「なのに、アイツだけ金をもらってズルい」と勝手な嫉妬をしてくる人がいる。文才だの何だのはどうでもよくて、自分にとって何が楽しくて、人生をどう過ごしたいのかを精査して、その楽しい状態をキープするのに必要なものを揃える、そのための工夫だけが重要なのだ。学力も才能も関係ない。
よって、周囲から見ると単調でつまらなそうなアルバイトをしていようと、自分の幸せを正確に見極め、幸せを実現している人は必ずいるはずなのだ。尺度は他人じゃない、いつでも自分が主役だ。

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2021年8月18日 (水)

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「機動戦士ZガンダムII 恋人たち」、モビルスーツの身体表現とコクピットの使い方【懐かしアニメ回顧録第81回】
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ハマーン専用の白いガザCと、3機のモビルスーツが会話するラスト近くのシーンを解析しました。


16日月曜日は、雨模様の中、国立新美術館へ。「ファッション イン ジャパン 1945-2020」、これは圧巻の展示だった。
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当日は、ポールスミスの黒い開襟シャツ(店員さんに「太っていると着られませんよ」と念押しされたスリムなシルエットのやつ)を着ていったが、周囲の観客たちのファッションが気になって、なんとなく見知らぬ他人に親近感がわく。

敗戦直後から50年代の映画ブーム、60~70年代のみゆき族、ヒッピー文化、オリンピック、そして80年代の一大アイドル・カルチャー、90年代の女子高生ブーム、コギャル、渋谷系、裏原宿……とても書ききれないが、庶民のファッションを切り口にするだけで、僕たちの生活がすべて網羅されて、ひとつの奔流となる。
雑誌やレコードも大量に置かれていて、誰でも何かしら思い当たる、これまで生きてきた記憶を刺激される展示になっている。僕の暗かった青春時代も、逆方向から見たら煌びやかな昭和の歴史の一部だったのだ。そう気がついて、おおいに救われた気がした。


メンタリストDaiGoさんの、2度目の謝罪動画を見た。母親のことを語って、泣くやつね。
この人は、自己愛性パーソナリティ障害だろう。話が上手くて、いつも周囲がにぎやかで、経済的には成功している。社会で主導的な身分の人、政治家の半分ぐらいは自己愛性パーソナリティ障害だろうと、僕は思っている。それぐらい偏って存在しているが、たいして珍しい存在でもない。嫌な上司とか高圧的な教師とか、誰でもひとりやふたりはすぐ思い浮かぶだろう。芸術家にも多い。

こういう人は、傷つかないんだよ。損か得か、支配できるかできないかだけで経験や人間を分けているから、何も蓄積されない。だから、せいぜい「死んだ母親が、生活保護を受けていたら?」なんていう幼稚な仮定しか思いつかない。これが、彼の限界なんだ。
そして、「お母さん想いなんだな」「泣いて謝ったんだから許してやろうよ」などと表層しか見ていない甘っちょろい人たちは彼の栄養分なので、これからも騙されつづけるだろう。


自己愛性パーソナリティ障害の人は、「他人の痛みが分からない」とよく指摘される。
僕がひとつの尺度にしているのは、他人の好きなものを茶化すかどうか。僕がAという映画を好きだとしたら、自己愛性パーソナリティ障害の人は「ホラホラ、廣田さんの大好きなA作品ですよ~」「廣田さんが泣いて喜ぶA作品、ハイハイ良かったですね」などと、他人の「好き」という感情を茶化す。弱点につけいるのが上手い。
では、本人はそこまで大好きな作品があるのかというと、みんなが好きな話題作を優先的に見せてもらったとか、特別に早く観られたとか、優越感のためなら「秘密の試写会が開かれた」とか、嘘まで言うんだよね。自分が無我夢中になってつかみとった価値意識がないから、高級ブランド品が好きだったりする。
感情もそうだし、本人にはどうにもならない外見や年齢を指摘したりする。「だって廣田さん、ハゲじゃん」「もう50代のジジイじゃん」「事実でしょ?」といった具合に。「これ言ったら、相手は傷つくかなあ」と躊躇しないんだ。

その反面、自分が恥をかかないように凄まじい努力をするし、卓越した才能や容姿に恵まれているから、「いやいや待てよ?」「こんな凄い人をパーソナリティ障害などとケナしていいのか?」と、僕たち凡人は戸惑ってしまうわけだ。
そして自己愛性パーソナリティ障害の人は、後悔も自己嫌悪もないから、感情をさしはさまず大きな決断を求められる政治家、そこまで行かなくとも管理職についていることが多い。彼らは反省などしないので、少なくとも近寄らないように気をつけるしかない。


なので、メンタリストDaiGoさんは徹底的に叩かれていい。どうせ今後も身近な人間を養分にして生きのびるんだから、社会に出てきても来なくても関係ないわけ。今は不利だから大人しくしている、それだけのことよ。人間のマイナス面も勇気をもって直視しないと、利用されて終わりだぞ。
一方で、小山田圭吾さんもそうだけど、過去の失言で揚げ足とって失脚させたところで、何か世の中が良くなるのか……という疑問がある。十分な検証もないまま炎上させて袋だたきにするネット世論を、怖いとも思う。

具体的にどういうシチュエーションだったか忘れたが、僕が何かの偶然でプレゼントをもらった時、真横で「俺はそれもらってない!」と怒鳴られたことがある。
あと、仕事が認められたので喜んで報告したところ、「…ずるい」と言われたこともある。
そうしたケチな嫉妬の感情に、ネットの炎上は実効力を与えてしまう。努力していない人間が、努力した人間を蹴落とす千載一遇のチャンス、それが炎上なのではないか。社会の根底に、「成功した人間はズルい」「成功してない人間は不当に損をさせられているので、無条件に救済すべき」という幼稚な平等意識がある。

人間は平等ではない。人間は差別をする。それでも、互いの欠点や長所を知り、助け合って世の中を豊かにしていかねばならない(ただし、自己愛性パーソナリティ障害は除外する)。

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2021年8月14日 (土)

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木曜日は涼しかったので、東京都美術館「イサム・ノグチ 発見の道」へ。
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誰もが撮りたくなる大規模なスポットを用意しつつ、回遊型の会場には見ごたえある彫刻がほどよく、単調にならないよう配置されていた。3フロアごとに、はっきりとテーマを分けたのも主張が明確でよい。
各フロアごとにドキュメンタリーを映写する場所が設けてあったが、みんなそのスクリーンの前に集まって、作者の言葉にすがろうとする。自宅で、テレビを見るような感覚なのかも知れない。
彫刻とは具体性のない構造・テクスチャーを前にして、呆然と、あるいは恍惚とするものだろう。しかし、その不安定な関係に、ほとんどの人が耐えられない。

半券で安く入れるギャラリーでは、小規模な写真や絵画を集めた「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」が開催中。
いつまた来られなくなるか分からないので、見られるうちに何でも見ておく。よい物を(ハズレを引くことを恐れず)いっぱい見ておく。


映画は、ヴィスコンティ監督の『揺れる大地』と『郵便配達は二度ベルを鳴らす』。いずれも、デジタル完全修復版。
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どちらも、スクリーンで見た記憶がある。『揺れる大地』の二時間半は長すぎるのだが、ネオ・レアリズモの作家であることを意識しながら、生活臭のある貧困生活を見るのは、格別だった。


メンタリストDaiGoという人が、ホームレスを批判して炎上した。
配信や印税で稼ぐフリーランスは、一歩間違えれば即座にホームレスだ。だからこそ、「あいつらとは違う」と攻撃的になる。本当に心に余裕があるなら、「社会にはいろいろな人がいる」と泰然自若としていられるはずだ。
しょせんは、自分と似た者が気になる。過去の自分、あり得たかも知れない自分に敏感になる。同族嫌悪というやつだ。

僕も平日昼間の駅前を歩いていて、自分と似たランクのだらしのない格好のオジサンが気になる。スマホを見ながら、SNSやゲームにハマったまま歩いている若者に腹が立つ。あるいは、スーパーでひとつの品物を買うのにものすごく時間のかかる、おそらく知的障害のある人たち。
そういう人たちと僕は同レベルに属しているから、どうしても視野に入ってきやすい。イライラする要素は相手ではなく、僕の中にある。ああなってしまうことが怖いし、「何とか意識して努力して、ああまで堕ちてはないぞ」という驕りが、彼らへの軽蔑心になる。
怒りや憎しみの原因が自分のコンプレックスにあると、まずは認めておくことだと思う。そして、相手と自分の境界線が薄れてきた時、まるで自分のことのように腹が立つのだろう。ダイエットを始めたばかりの人が、他人の美食にイラつくようなものだ。


ここのところ、明け方に2時間ほどウトウトしてしまう。夢の中で、僕は何かのキャラクター商品を提案している。そのデザインは、2~3歳のころに身の回りにあった安っぽい玩具、お菓子の包み紙か何かをヒントにしていて、僕は「小さい頃に身近にありましたよね、ホラあれですよ」と熱心に説明するのだが、相手には伝わらない。

起きてから、具体的にどんな玩具やお菓子が身の回りにあったか思い出そうとするのだが、あまりに原初的な記憶なので、異様な気持ちになってしまう。それらの玩具(菓子?)は、幼かった自分の唾液や垢で、黒々と汚れていたような気がする。
その身体の汚れからどれほど距離を置けるか……ちゃんと風呂に入り、清潔な服を着られるかが、どれほど生活を文明化できるかが、生きることの意味だ。裏を返せば、人間は自分の汗や唾液などで汚れることから逃れられない。

ホームレスになることの恐れとは、自分が幼児期のような無意識状態に戻ってしまうことへの恐れなのかも知れない。
狂うこと、バカになってしまうこと、向上心を失うことが怖い。

(C)1948 Ar.Te.As. Film, Universalia Produzione. (C)1987 Marzi Vincenzo; (C)2004 MARZI Srl. All rights reserved. International Sales VIGGO S.r.l.

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2021年8月10日 (火)

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まだまだ元気な79歳! 劇場版『Gのレコンギスタ Ⅲ』「宇宙からの遺産」は富野由悠季を救い、そして地獄を見せている……?【アニメ業界ウォッチング第80回】
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『G-レコⅢ』の試写会に行ったら、富野さんご本人がいらしたので、その場で取材申し込み。宣伝会社さんにお願いして段どってもらい、インタビュー成立となりました。


この記事は、過去の富野さんへのインタビューでも、かなり上手に出来たほうです。
インタビュー記事って、ひょっとして「相手の喋った順番どおりにベタ起こししている」と思っている人が、まだまだ多いのかも知れない。全体を貫くテーマを設定して、最初に「つかみ」となるやりとりを入れて、途中でダレないように「?」と思うような流れをつくって、それこそ「長い」と感じさせないように終わらせる。構成がキモです。
(まったく手を加えないベタ起こしでいいなら、機械にやらせた方が正確で効率的でしょうし、ニーズによってはそういう資料が必要な場合もあるでしょう。)

このインタビューを読んで、インタビュアーが馬鹿、富野さんに怒られてる……と笑っている方がいますが、「こいつ馬鹿だぜ」と読者さんを笑わせるフックとして機能しないなら、怒られたシーンなんて入れる意味がない。
殴られ役を設定しないと、インタビューされている側の強さ、主張が引き立たない。だから、読者さんに「面白いな」と感じさせるひねった構成も演出も必要なのです。報道ではなく、エンタメ記事なのだから、当然のことです。


小田急線車内で無差別殺傷事件があったそうだが、誰もが嫉妬しやすく、あまりに傷つきやすい社会なのだと思う。SNSによって、他人の幸せや成功が自分への攻撃に見えてしまうらしい。
「こちらが不当に攻撃されたのだから、やり返すのは当然の権利」というやりとりを、何度も目にした。私刑を、みんなが望んでいる。「傷ついた」と言えば、私刑が正当化される。「明日、〇〇を買うつもりで楽しみにしていたのに、もう買う気をなくしました」、そもそも買う気がなくても、お客様のポジションを得ることで優位に立ててしまう。
コロナ禍で注目を集められるからだろう、「医療従事者です、もう限界です」「医者ですが、毎日つらいです」——これらの真偽不明なツイートにも、混じりけのない賛同以外に価値を見出せない、一種の傷つきやすさを感じる。

義務教育は、同年齢の子供たちを「平等」に競争させて、順位をつける。
その価値観から抜け出す、いわば落ちこぼれるためにアニメや漫画など、親や教師が眉をしかめる娯楽に価値を見つけたはずだった。その審美眼だって、SNSに放り込んだとたんに、「学力」と同質の優劣になりかねない。(……と、このように主観を書いたとしても、「アニメや漫画は落ちこぼれじゃない!」「こいつ馬鹿にしてんのか!」と、文脈無視のガチギレが成立してしまうのがSNS)
それぐらい、誰もが欠損を抱えている。どこへでも出かけて何でも見て、自分に向いてないかも知れないものでも試して、いろんな本を読んで、多様な価値観を身につけるしかない。

自尊心を育てるしか、報われる方法はない——。だが、恨みと呪いだけで生きている負け犬の不毛な報復を可能にする時代が来てしまったのかも知れない。


昨日は、東京ミッドタウン・ホール「北斎づくし」に行ってきた。個別の作品ではなく、展示空間を楽しむ美術展で、好印象。
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映画はプライムビデオでロッセリーニ監督『ロベレ将軍』、デ・パルマ監督『パッション』、カサヴェテス監督『オープニング・ナイト』、富野さんのインタビューにも出てきた『オーケストラの少女』。
他には濱口竜介監督『寝ても覚めても』、ドキュメンタリー映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』。
やはりジョン・カサヴェテスが、別格に良かった。積極的に見ていきたい。

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2021年8月 2日 (月)

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「機動戦士ガンダムZZ」の1/144 バウ、合体変形が無限の可能性を生み出す旧キットを組み立てて、猛暑とコロナに打ち勝つぞ!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第13回
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変形合体時にバキバキに崩壊する危険性におびえつつ、今回もスタジオで素組みしました。

80年代の「ナウいアニメ」を、どうやって現代に復活させる? 「MUTEKING THE Dancing HERO」の総監督は、あの髙橋良輔さんだ!【アニメ業界ウォッチング第79回】
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タツノコプロの方からメールで情報を教えてもらい、かなり長い時間をかけて交渉した結果、髙橋良輔監督へのインタビューが実現しました。


今月は書かなければならない原稿の量がハンパではなく、せいぜい近所の喫茶店までしか出かけられない。

それでストレスが溜まっているのかも知れないが、何というか、自分からは何も生み出さない/情報を出さないくせに、人が出してきた情報にケチをつける人は例外なく貧乏だよなあ……とつくづく感じる(貧乏ってのは、お金というよりは心の貧しさのこと)。
あるモデラーさんが、趣味として古いプラモデルを徹底改修して自身のホームページに掲載したとき、掲示板に「あれ? 〇〇バズーカは?」みたいな指摘をしてきた人がいた。その〇〇バズーカだって、追加で作るのは大変なんだよ。本体を徹底改修したんだから、それぐらい分かるだろうに……。
だけど、その人はお客さん意識が強すぎて、何でも自分の注文どおりに、簡単に事が進むと思っている。

いや、注文(手前勝手なワガママ)という意識すらなくて、「自分は受けとる側」という厳密な前提があるので、必然的に貧乏になっていく。貧乏とは「他人に与えるものを、何ひとつ持っていない」ということ。
欠損を、すごく気にするんだよね。本を見ても「〇〇が載ってない!」「◇◇について触れてない!」とか、マイナス部分を確認する。「載ってるけど、たったこれだけ?」「どうせ見てないんだろう?」とかさ。そういう人の要望をいちいち聞いていると、提供する側の負担だけが、際限なく増えていく。すると、社会は疲弊していくのだと思う。だから、あまり真に受けてはイカンのだろう。
心の豊かな人は、「うん、まあまあ満足」「ここは良かった」と、プラス部分を探そうとする。そう口にするだけで、ちょっとずつ感情に余裕が生まれていく。


何も与えるものを持っていない人は必然的にモテないのだが、欠損にはものすごく敏感だから、「どうして俺には彼女がいないんだ?」「俺がFラン大しか出てないからか?」とマイナス面を気にしつづけるんだよね。

最近、将来への不安からホームレスに取材した動画をよく見るのだが、おしなべて「過去に家族に裏切られたから」「大学入試に失敗したから」など、今さらどうにもならない理由ばかり並べる。そのくせに「月に40万稼いでいたこともある」「実は、友だちに頼りにされている」などと自慢して、プライドだけは高いんだ。だから、現状を改善しようとしない。

……いかん、どうしても話題がネガティブになってしまう。自分はどうやら、ホームレスにすらなれない気がする(失職したマンガ家の体験談『55歳の地図』も読んでみたが、原作者の方はボクシングをやるほど体を鍛えている……)。
ようするに、ダメになる原因を自ら呼び込む習慣が、ますます自分をダメにしていく。「原因は自分だ」と気がつかねば、何も好転しない。


プライムビデオで、濱口竜介監督の『寝ても覚めても』。
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取材時に話題となった監督なのだが、主人公の友人役である山下リオが、ムチムチとしたエッチな体形になっており、彼女が口論するシーンが最大の見せ場であった。
もうひとりの友人を演じた伊藤沙莉、彼女もハスキーな声でよかった。続けて、濱口監督の映画を観てみようと思う。

© 2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会 / COMME DES CINÉMAS

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2021年7月22日 (木)

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『100日後に死ぬワニ』が漫画であることすらよく知らず、したがって完結時に広告代理店が一気に人気を横取りした経緯なども、いまだに詳しく知らない。
では、どうしてアニメ映画化された『100日間生きたワニ』を観に行ったかというと、湖川友謙さんが絵コンテとアニメーション・ディレクターだと聞いたから。Twitterでは、「湖川さんっぽい作画が割とある」とツイートしている人もいたので、話のタネに見ておくか……と、忙しくなる前に出かけた。湖川さんは絵描きなのであって、演出は特に……という印象。

ところが、アバンタイトルの時点で、「いやいや、ちょっと待てよ?」となった。
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内容をまったく知らずに観たのだが、ワニは本当に死ぬらしい。こんな単純な絵なのに、こんな思わせぶりな演出なのか? 親子連れもいたし、子供にも分かるような可愛い話じゃないの? 俺が無知すぎたのかも知れないが、全編、30歳ぐらいの都会の青年の淡々とした日常を動物に仮託して描いている。セリフ回しがリアルで、邦画にありがちな大仰な感情表現がない。雨に打たれながら「俺は~~!!!!」とか絶叫する邦画の、ことごとく逆を行く。
(上のお花見のシーンでコーラをつごうとしてこぼしてしまうのだが、なぜそんなに動揺しているか、後に明らかになる。そういう繊細な仕掛けが、あちこちに埋没してある。小道具ひとつ、ゆるがせにしていない。こんな絵なのに、ずーっと緊張感が途切れない。)

よって、ワニが死ぬシーンも「ひょっとして死んだのか?」程度。
周囲のキャラクターたちは、泣きもしない。観客が読みとるしかない演出になっている。この映画では、泣くべき人たちが泣かない。関係ないキャラクターが、関係ない経緯で泣く。すると、感情の部分で、他人だったキャラクターがドラマに絡みつく。ただし、これは湖川さんの手柄とばかりは言えない。上田慎一郎という監督を、僕はナメすぎていたのかも知れない。


しかし、あらためて見てみると、本当にこんな「前から見た顔」「横顔」「後頭部」ぐらいしかないキャラクターばかりだ。
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俳優たちの演技も朴訥で、「あのさ……」「うん」「ああ、いいや」みたいなボソボソした日常会話がつづく。小津安二郎みたいだよ。
しかし、その平坦とさえ言えるセリフを、相手が正面から聞くのか、背中で聞くのかで重みは違ってくる。主人公のワニが、憧れの先輩にクリスマスの予定を聞く。先輩は「予定あるよ」と答え、ワニは「そうですよね、そりゃあ、ありますよね」とリアクションするのだが、そのセリフは画面外のものであって、画面には先輩の後頭部が映っている。カットの終わり、先輩はチラリと振り返って、ワニを見るのだ。
すると、「ああ、先輩はワニがクリスマスに誘う魂胆だったことを察して、ちょっと弄んだだけか」と分かる。さて、シーンが変わる。何の説明も段取りもなく、先輩は街頭でアルバイトをしている。先輩はワニを遠くに見かけるのだが、話しかけない。

でも、分かるんだよ。先輩のワニに対する距離感や、心づかいが。
そういう地味な場面に雑踏の音とか、鳥の声とか、まるで余白の広さを感じさせるように環境音が入る。ぎっちり詰め込まないんだよ。自信のない映画ほど何でも詰め込んで、主人公に「うおおおおー!」「俺は本当はー!!」と叫ばせるんだと思う。
この映画は、内面吐露なんてしないんだよ。代わりに、人物たちは別のことをする。前に通った道を、今度は別の人と通ってみたりさ。同じことが、少しズレる。そこに感情が入りこむ。特に映画オリジナルだという後半に、その効果が生かされているように思う。

こんな絵だからこそ、ちょっとした空白とか余白に、じわっと感情が宿るんだよ。それが表現なんだよ。


ところが、主題歌を聞こうとYouTubeを検索したら、レビュー動画がひどい。
この映画が期待されてない、ヒットしてない現状は仄聞していたが、それにかこつけて「作画崩壊」だとかさ。こんな単純な絵が、どうすれば崩壊するんだよ。「作画」のさの字も知らないだろう。「目と口しか動かない」とかさ。ディズニーのCG映画の観すぎではないのか。立体でぐりぐり動くのが優れたアニメだと思ってるだろ?
あと、『シン・エヴァ』を観た後に、同じ料金でこれはないわーとかさ。悪いけど、大ヒット作しか観てないよね? みんなが認めて、きっちり保証された作品しか誉めてないよね?
実写の『デビルマン』をとりあえず酷評しておけば、なんとなく映画通の仲間入りができる。その状況から、何も変わっていない。

かろうじて『100日間生きたワニ』を擁護しようと頑張っているプロレビュアーも大同小異で、演出を見ていない。そもそも、構図やカットワークを認識しているレビュアーは、滅多に見かけない。
広告代理店が横入りしてきて、原作ファンが白けたのは推察できる。でも、わざわざ「あんな映画は見ない、俺は騙されない」と威張っている時点で、騙されたのと同じレベルに落ちてしまっている。なんでも自分の目で確かめないと、バカのまま死ぬことになる。
で、「感動」なんてものは他人は一切保証してくれないぞ。感動する主体は、あなた一人だよ。その主体性を、いつも他人にあずけてるだろう? 自分の激しい感情を、自分で引き受ける勇気がないまま、周囲にあわせた凡庸な大人になってしまっただろう?
作品に向き合うとき、誰しも裸にされてしまうんですよ。そして、裸眼で作品と対峙するには、いろいろな作品を区別なく観て、いつも眼力を鍛えておかないとさ。「え? いろいろ観てますよ?」って人にかぎって、ロクに観てないから困っちゃうんだよな……。
では、『100日間生きたワニ』、二回目に行ってきます(連休が終わったら上映が変わりそうなので)。

(C)2021「100日間生きたワニ」製作委員会

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2021年7月19日 (月)

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金型を管理し、売れ筋アイテムを読む……童友社が、40年前の「太陽の牙ダグラム」のプラモデルを完全復刻するまでの苦労とは!?【ホビー業界インサイド第72回】
Subaru_and_luna__hololive__by_cutesexyro
東京下町の人情味たっぷりなプラモデル会社、童友社さんに日東科学版『ダグラム』の復刻について聞いてきました。
僕が模型業界にコネがあるかのように信じている人もいるようですが、こういう取材も、いちいち問い合わせフォームから申請して、自分で交渉して決めているんです。一歩ずつ、具体的に行動した成果ですよ。


サンライズに僕のことをチクって仕事できなくしてやる!!!!!!って言われましたが何も言われず何事もなく元気にサンライズ作品やりまくっております。

あきまんさんのリツイートで知ったけど、いるよねえ、「仕事できなくするぞ?」って脅しかけてくる人。たかが、Twitterのやりとりで逆転しようとする無名の凡人さん。
僕はプロライターという肩書きなので、「それでもプロですか?」「こんな人がライター?」「こんな奴が雑誌連載してるの?」と自分の幼稚な尺度で評価して、いかにも致命傷を与えている感じで嫌みや皮肉を言ってくる。あと、「文章ヘタクソ」「小学生以下の文章」とかけなして、それでプライドを傷つけられると思っている。

そういう人は絵師さんに「資料を見て描く人って、どう思いますか?」などと愚鈍な質問をして、「痛いところを突いてやったぞ」と優位に立てたと思っている。資料を見ないで描く「丸暗記」に価値を置いて、絵の能力を試験勉強のレベル、どんなバカにも評価可能な「学力」のレベルに引きずりおろす。ライター業なら、国語力レベルで「俺のほうが勝てる」「文章なら俺のほうが上手い」などと本気で思っている(そんな程度だからプロになれないわけだが)。
絵でも文章でも、仕事として、実務として遂行するところにプロたる所以があるのだが、そういう本質を見ようとせず、「何かコネを使ってズルをしてるんだろう」と陰謀論に落とそうとするんだよね(だから「サンライズにチクる」などと言えてしまう)。何だったら、「才能を使って仕事するなんてズルい」ぐらいに思っている。才能を磨いて努力する、工夫するって肝心なところは決して直視しようとしないんだ。

僕は掃除のアルバイトをしていたが、そういう世界にも「プロ」はいる。
才能とか創造ってものを幼稚に美化して嫉妬してくる人は、いま目の前の仕事で本質的な「プロ」を目指したほうが、自己実現できると思うよ。


最近ちょっと、ぼやくためにブログを使いすぎかも知れない。
TSUTAYAでDVDをレンタルしてきたら、2枚とも傷があって再生できなかった。これじゃあ動画配信に勝てないぞ……と思っていたら、レンタル事業から撤退するというニュースを聞いた。配信では見られない映画も多いのだが、DVDレンタルは物理的に成立しないだろう。

なので、Amazonプライムで『未知への飛行』、『グロリア』などを借りた。
『グロリア』は、なんとカサヴェテス版をシドニー・ルメットがリメイクしたのか。言うまでもないが、カサヴェテス版のウォン・カーウァイが真似したくなるほどのスタイリッシュさは、ルメット版にはない。
その代わり、得意の密室劇で壮大な軍事サスペンスを演出した『未知への飛行』、確か初見のはずだが、息をのむような緊張感で、誠によかった。
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たとえば、上のシーン。米大統領がソ連の議長と会話する緊急用電話機を、あり得ないほど大きく画面に入れている。そして、ソ連側にはカメラを一切入れない。飽くまでも、無機的な電話を構図の中で大きく扱って、会話の重みを代弁させている。
オーソン・ウェルズ的なクラシックな演出だが、その手堅さに安心感をおぼえる。決定的な決断をする時、短く人物の顔がインサートされるのも良かった。ずっしりしたカット繋ぎの中で、緊張感のあるシーンではカットを短く使っているわけだ。トータルの設計の中で、リズム感をコントロールする。そのリズム感や音楽的な気持ちよさが、「面白さ」の正体ではないだろうか。

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