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珍色からパチモノまで……消しゴム人形からあふれ出る無限のロマンを、まんだらけミクロ館の宮越館長が語る!【ホビー業界インサイド第74回】
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まんだらけで、ケシゴム類を専門に扱うミクロ館でインタビューしてきました。


編集者から米アニメ『RWBY』の日本語版が、ひさびさに連続リリースされていると聞いて、Amazonプライムのレンタル配信でVolume 5と6を視聴した。
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林原めぐみさんが演じる、ヤンの母レイヴンの奥深い人物造形に驚かされた。単純な正義ではなく、敵とも組んで味方もあざむく。冷徹なのに、少しだけ涙を見せたりもする。
そうした新しい人物を縦横に使って、世界の根幹に触れる壮大な神話を何重にも設定しながらも、かつては学園ドラマを演じていたレギュラーキャラクターたちの性格を、繊細すぎるほど丁寧に彫りこんでいく。
ハリウッド映画でも、こんな緻密な脚本は構成できないと思うのだが、『RWBY』の若い脚本家チームの力は、本当に驚嘆すべきである。


今月末発売の「モデルグラフィックス」誌の連載コラムに、自分の高校時代の成績が「1」と「2」ばかりであったことを書いた。
我ながら、ちょっと病気というか一種の障害なのではないかと疑っている。社会に放り出された後、電話番やコピー取りのような簡単な事務仕事を頼まれたことがあったが、違うところへ電話をかけてしまったり、コピーの枚数もいつも間違えていた。
隣の席の女性は僕との雑談すら避けて、他の社員とは楽しそうに映画の話をしていた。その気持ちは、今なら分かる。あまりに、病的にバカな人間とは会話すら交わしたくないものなのだ。それぐらい、生理的な嫌悪感が生じてしまう。当時の自分は、表情もどんより暗かったと思う。

「バカ」「無能」「底辺」というキーワードで検索していくと、説得力のある動画が出てきた。
学校のテストで「A、B、Cのどれが正しいでしょう?」という問題が出た場合、Cが正解ならばAとBは誤りである。その感覚のまま、仕事をしている人が意外と多いのではないだろうか。頭の悪い人は、すぐ目の前にハッキリと答えを示されないと、不安になる。学校のテストのように「これが正解で、これ以外は誤り」という状況を好む。だから、「ネタバレ」という概念に頼る。
映画を観て、どんな感想を持ち帰って、どう人生に生かすかの回答は、自分の審美眼や認識力のなかにしかない。そして、生きれば生きるほど、答えは流動的となる。今は分からない、口を開いたら間違ってしまうかも知れない……その緊張感に耐えられないから、「AなのかBなのかCなのか、みんなで答えを決めてしまおう」「答えは黙っておこう、言ってはいけないことにしよう」と、己の認識力を問われないブラックボックスに逃げようとする。

分からないなら分からないで、判断を留保したまま立ちすくんでいるとしても、「これもまた答えなのだ」と自分で認める勇気がない。


僕は評判の悪い『スター・ウォーズ』新三部作が好きなのだが、そのことをブログに書いているとき、読者の人から「スター・ウォーズのファンの中でも、かなり位の高い発言してますよ」と言われて、かなり違和感をおぼえた。僕は自分の思ったことを気ままに書き散らしているだけなのに、「位が高い」とは何のことだろう?
「確実な答えを欲しがる」、もうひとつ「上下関係を決めたがる」。これも底辺というか、幸せじゃない人の特徴だ。尺度のない、多様な価値観が雑多にせめぎ合う状態に耐えられないんだと思う(『スター・ウォーズ』続三部作のときには、「劣等感性」という凄い言葉をレビューサイトで見た。彼らは、映画の感想をテストの答案みたいに扱っている)。

「程度の低い人とは関わりたくないな」と、僕は思う。距離を置いて、別々の場所で生きるべきだ。
しかし、相手はそうは思っていない。力のない者は自分と同レベルの仲間をつくって、グループで他人を排斥したがる。常に、排斥してもいい他人を求めている。レベルが低いんだけど、組織や集団は、ただ群れているだけでレベルの上下を不問にできる。何も持っていない者たちほど「俺とお前はこっちサイド、あいつは別」と、グループ分けが好き。ひとりで、自分の価値観だけを頼りに生きるほどの勇気がない。
だから、地位や立場を利用して、裏から手を回す。自分がどれぐらい充実できるかではなく、他人のことが気になって仕方がない。


もうひとつ付け加えるなら、彼らは「決まりがある」と言いたがる。
本当は相手のことが気に入らないだけなのに、「彼は決まりに反している」という言い方をする。人が動いた後から、あわてて「実はルールがある」と後出しジャンケンをする。後出しなら、どんな無能でも絶対に勝てるからだ。実力で勝とうとしない。
自分が不自由でのびのび出来ないのは、「決まりを遵守しているからだ」と言い訳したがる。

「バカ」「底辺」「無能」のキーワードからは遠ざかってしまった(論理性がないので僕は致命的に成績が悪かった)が、「早急に確実な答えを欲しがる」「上下関係を決めたがる」「ルールを決めたがる」……これらはすべて、創造性とは無縁の貧しい生き方である。創造的ではない、主体性がない、自分固有の価値意識がない、他人を尊重できずグループで群れたがる。それほどみじめな人生があるだろうか?

(c) 2018 Rooster Teeth Productions, LLC. All Rights Reserved.

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2021年10月11日 (月)

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ダグラムアーカイヴス
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マックスファクトリー製の『太陽の牙ダグラム』プラモデル、発売中のキットをすべて組み立ててレビューしました。雑誌掲載時の時より、いろいろ書き足しています。


ネット配信で、『鬼畜』の映画版(1978年)と2017年のドラマ版を、つづけてレンタルして観た。
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結婚していた頃、妻の連れてきた犬が、僕によく懐いていた。僕はよく、「明日この子を遊びに連れていって、遠くの公園に置いてきてしまおう」などと冗談を行っていた。離婚してから、その妄想はどんどん広がり、「しょぼい小さな遊園地でいろいろな乗り物にのせてあげて、ソフトクリームも食べさせて、帰りにデパートの食堂でお子様ランチを食べさせ、くたくたに遊び疲れて眠ったところを置いてきてしまう」……という完成形にいたった(妄想の中で、犬は完全に擬人化されている)。
その妄想の原点は、すべて中学生のころにテレビで見た『鬼畜』だったのだと、最近思い当たった。

さらに余談を続けると、僕自身も幼稚園のころだったか、叔父さんに井の頭公園の小さな遊園地へ連れていかれ、温室の売店で安っぽいソフトクリームを買い与えられた記憶がある。叔父さんは母の弟だったので、何か母に用事があって「子供たちを預けた」一日だったのだと思う。
僕は、急に子供扱いされたことに戸惑った。兄はそういう待遇を素直に受けいられる子供だったので、100円で一種類しか売っていないチャチなソフトクリームを「わーい」と、喜んで食べていた。今の子供たちはどう過ごしているのか知らないが、昭和ではよくある光景だったのだろう。


1978年版の『鬼畜』を見ると、そうした「子供たちの情景」「子供の目から見た世界」が、映画の印象を強烈に形づくっていたことに気がつく。
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次男はまだ赤ん坊だし、まっさきに殺されてしまうのだが、長男と長女が2人だけで遊んでいるシーンがいくつかある。長男がひとりで出歩いて、田舎の家の軒先で親子が水遊びしているのを見るシーン、ここも大人の目線が不在である(続けて、新聞屋が家の奥さんに契約させようと無理を言っている場面を、長男が目撃する……それらのシーンに、分かりやすい解釈や説明は一切ない)。
緒形拳の父親に能登半島へ連れていかれた長男は、夜道で親子が花火しているのを見る。ワンカット、その親子の遊んでいる絵だけ抜いて撮っている。長男は父親にうながされて歩き出すのだが、カメラは子供の目の高さだ。
もし長男が「僕も花火をしたい」などと言ったら、それは大人の理屈や解釈でしかない。子供には子供だけの、言語化しえない感情領域がある。この映画は、そこにアプローチしているのだが、大人の目線で見ていると、それらのシーンは無意識へと逃げてしまう。


一方で、大人たちの感情描写は、大人のロジックで処理されている。
長女を東京タワーに置き去りにした父親が、画面手前に歩いてくる。彼が振り返った瞬間、バックで東京タワーの照明が点灯する。そのきらびやかなタワーを、カメラはティルトアップして撮る。映画のメインテーマであるオルゴールの曲が聞こえて、父親は逃げだす。そのカットで、父親の横を親子連れが歩いているのも、効果的だ(しかも綺麗なドレスを着た女の子が、二組も。これが男の子だったら、罪悪感をあおる効果は半減していただろう)。

また、能登半島に父親が長男を連れていくシーン。
けわしい崖を、親子が歩いている。夕陽のために2人の姿はシルエットとなり、長男の後ろには逆巻く海が広がっている……音楽が緊迫感を増し、「このまま、父親が長男を突き落としてしまうのではないか?」と思った直後、シーンは居酒屋で太鼓を叩く男へとつながる。
そのカットはゆっくりと引いて賑やかな店内を映し、入店してくる父親と長男を撮るために左へPANする。すると、太鼓を叩く男はフレーム外へ出てしまうので、その男が重要なわけではない。太鼓を叩くアクションと太鼓の音が、前シーンの緊迫感を受け継ぎながら緩和していることが大事なのだ。
このシーン転換はセオリーどおりと言えば、それまでだ。しかし、こうしたショットの繋ぎ方の上手さを、意外と我々は見落としがちなのではないだろうか。


大人の感情描写の最たるものは、旅館に泊まった父親が酔っ払って、辛かった少年時代のことを語るシーンだ。
ひととおり語った後、父親はちゃぶ台に頭を乗せて泣く。引きの絵で、父親の横ではヤドカリを遊ばせている長男が、やはりちゃぶ台に頭を乗せる。
その直後、前シーンの音楽が続いたまま、遠く離れた家に残った正妻が、つらそうに頭を押さえるカットが挿入される。前カットと同じく、引きの絵である。すると彼女が、まるで夫の子供時代の告白を聞いていたかのように見えるのだ。
あるいは、彼女も子供時代のことを想起していたのかも知れない。ともあれ、構図とカット繋ぎだけで、大人たちの抱えているままならない感情の重さが表現できている。

野村芳太郎という監督には作家性というほど際立った個性はないが、堅実な構図、適切なフレームサイズ、音楽の入り方や残し方などの工夫が、映画の「面白さ」を構成しているのは間違いないと思う。
その「面白さ」に気がつかない人たちに訴求するため、「大画面による迫真の映像体験」だとか、「見終わってすぐ禁断症状が出る」など極端な惹句が必要になる。『鬼畜』のような犯罪映画では、「許せないです」「あり得ないです」など、劇中人物の行為と脚本・演出効果をごっちゃにしてしまう人が多い。僕は、そのような放し飼いになった感情の暴走が、文化を廃れさせると思っている。

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2021年10月 9日 (土)

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昭和50年男 VOL.013
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神山健治監督インタビュー、高千穂遥さんインタビュー、あと『攻殻機動隊』SACシリーズの解説を担当しました。


配信レンタルが意外と高いので、『廃市』のDVDを購入した。
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10年ほど前にも、このブログに感想を書いたはずだ。祭に花火、かき氷……といった夏の風物詩が、16mmフィルムの粗い質感とあいまって、気持ちいい。18歳のころだったか、テレビで『時をかける少女』を見て熱に浮かされたように興奮し、大林宣彦の特集上映で『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』や『CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅』などの自主映画と一緒に観たのが最初だったと思う。
他の前衛的な作品に比べると、『廃市』は明らかに分かりやすい。峰岸徹の演じるモテモテの若旦那は、「好きではない」と公言していたはずの浮気相手と心中してしまうのだが、10代だった当時はその難解さを「大人っぽい」と感じていた。撮影当時、40代半ばだった大林監督も、そのように考えたのではないだろうか。

中年になったいま見ると、モテすぎてしまうがゆえに簡単に満たされてしまい、退屈な人生しか生きられなかった男の傲慢さが感じられて、ちょっと不愉快に感じる。
実際、若旦那は「何もすることがないので、音曲に凝るぐらいしかない」などと文句を言いながら、歌舞伎を披露している。その後、楽屋で主人公に向けて話をするのだが、途中で歌舞伎の台詞をえんえんと冗談のようにそらんじるのが、またうっとおしい。その後、浮気相手にそうめんを運ばせて、主人公をさしおいて自分だけ食べるのも、嫌な感じだ(大林監督は食べ物に興味がないのか、あまり美味しそうに撮っていない)。


福永武彦の原作小説を取り寄せたので、原作を読めば、印象が変わったり理解できたりするのかも知れない。
映画の雰囲気は本当に好きなのだが、望まない心中を何か渋い大人びたことのように感じていた自分を、「幼い」と思えるようになった。自殺とか心中よりも、もっと面白い生き方はある。まだまだ先があること、未知のあることが「面白い」ということなのだ。
ここまで書いて気がついたが、だから、好きではない浮気相手とせいぜい心中するぐらいしか思いつかなかった若旦那は「廃市」で滅んでいくしかない、つまらない人生を終えたのだろう。

いい歳をして幼稚な人にかぎって、「この年になると分かるんだけど……」「大人になって分かったんだけど……」などと前置きしたがる。ただ、歳をとっただけ、ただ余分に傲慢になっただけなのに。
また、言われるより先に「おっさん」と自虐するのも、弱さの証という気がする。


さて、『廃市』のこのシーン。小林聡美の演じる妹娘の墓参りに、主人公が着いて行く。
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2人が庭でその相談を始めたところで、画面奥に尾美としのりの演じる船頭が現れる。2人が画面から出ていった後、船頭は家のほうを見る。家の廊下には、お手伝いの女性が立っている。船頭のバストショット、そしてお手伝いさんの手元からナメて庭を撮る。ちょうど、船頭とお手伝いさんが主役2人を挟み込むような位置に立って、無言で目くばせする。
この思わせぶりな構図、実は、主人公が墓参りのついでに隠れて住んでいる姉娘と出会うことの予兆として機能している。この家のもつ秘密をにぎっているのは、当事者たちだけではない。船頭やお手伝いといった周辺にいる者たちが、地域に根差した秘密を構成しているのだ。

僕は、このような映画の構造、知恵や工夫を読み解いていきたい。
「圧倒的な映像体験」などという脅迫的な、全体主義のようなスローガンに乗っていては、独立性のある審美眼が損なわれる。「ネタバレ」も同じことだ。「ネタバレ」は単に「知ること」だけを問題にしており、「読み解く」ことを前提していない。読解力を鍛えないとするなら、後はただ自分で判断できない盲目的なバカになっていくだけだと思う。

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2021年10月 1日 (金)

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「特装機兵ドルバック」の1/100ボナパルト・タルカスを組み立てて、ドスコイ系ロボの究極進化形を確認しよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第14回
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海洋堂・宮脇修一センムの履歴書|フィギュアに尽くした50余年。いま「敗北感しかない」と語る理由
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株式会社はてなさんの依頼で、インタビューしました。
“造形についてまるで素人のアニメの版権を持つ会社、つまりライセンサーの担当者が「目の位置を2ミリ下げてください~」なんて監修をするようになってしまった。”
“ほとんどのフィギュア・メーカーが「ライセンサー様、監修をお願いします、修正してください」と頭を下げている。”
案の定、ここの記述に、注目が集まっています。

SNSを見ていても、やたらと「~様」を多用したり、個人がへりくだり過ぎていると感じます。よく書いていることですが、不況が長く続きすぎて、誰もが自信喪失して、臆病になっているんでしょう。
それと、日本は家庭でも義務教育でも「集団の和のために、個人の自由は抑圧すべし」と教えられているのではないでしょうか。
たとえば、市内の中学校にエアコンを入れることが決まったのに、全部の学校にエアコンを設置しおわるまで、先にエアコンの入った中学校には「しばらく我慢しろ」「お前らだけ先にエアコンを使うな」と、何の実効性もないお達しが発せられる。
……こう書いても「そりゃあ我慢すべきでしょ?」「一人だけズルしちゃダメでしょ?」と、同調圧力に何の疑問もいだかない、あるいは「変じゃないか」と内心では疑っていても口に出せない人が大半ではないでしょうか? だから、世の中はこんなに息苦しいんです。


いつものように話が本筋からズレているけど、我慢させられるのが当たり前の教育をほどこされてきたから、他人に「好き勝手にするな」「決まりにしたがえ」って、誰もが命令したいんですよ、きっと。自分の人生への復讐みたいなもんです。
で、命令する側になりたかったら、退屈な仕事に耐えて、何年も我慢して出世すればいいだろうと考えている。そんな発想だから、ぜんぜん幸せになれない。誰にも命令せず、誰もが自分の意志で決定し、足りない部分を補い合うのが創造的な仕事なのに!

それと、仕事のできない人って「待つ」「待たせる」のが好き。傍から見ていても、自分では決定できず、「〇〇の許可が下りないから……」と、できない理由を探している。「でも、今月中に何とかしないといけないのに……」と、ストレスを増大させている。本質的な解決から、目をそらしているので、心の底から笑うことができず、愚痴ってばかりいる。

僕は、どんなにお金がよくても、そういう仕事は避けるようにしてきたんです。どこの誰だか知らない人が「ちゃんと許可は得たんですか?」などと、横から口出ししてくるタイプの仕事を。僕が立ち去っても残った人たちは、今でも陰気な負け犬の目つきで過重なストレスに耐えています。
「それでは、権利者の意向をガン無視すればいいのか?」「徹底的に反抗すればいいのか?」と勘違いする人がいるのですが、そうではなくて、ストレスのない自由な人生を歩むには何をどうすればいいのか(主に「何を避けるのか」)を考えるべきなのです。
自分で決定して、先へ進む人は、笑顔でいるはずです。「相手に命令できるかどうか」「いかに戦って勝つか」なんかではなくて、自分自身が「のんびりと自由に過ごせているかどうか」です。


最近観た映画は、アッバス・キアロスタミ監督『桜桃の味』。とても異様な映画だった。
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映画の大半は、上のように車内のカットに終始する。自殺志願の男が、自分が睡眠薬を飲んで穴の中に横たわった後、死亡を確認して埋めてくれる相手を探している。なぜ男が自殺したいのかは、一切語られない。
男は二人の若者に声をかけるが、二人とも断って、車を降りる。男は行くあてもなく、工事現場に座って、ダンプカーが砂利を捨てて穴を埋めるのを見ている……が、シーンが変わると、また車の中だ。会話の途中である。どうやら、男は三人目の相手に声をかけて、自殺の話を持ちかけているらしい。
三人目の相手は、老人である。だが、会話が途中から始まっているため、この老人がどういう人物なのかは、すぐには分からない。

車は、砂漠の中を進む。老人が「こっちの道なら、わしは知っている。こっちの道のほうが景色がいい」と要望したからだ。
カメラは、ロングで走る車を撮っている。画面外から、老人の語りが聞こえる。「自殺なんて、つまらんものだよ」「もう一度、星空を見たいと思わないか」「また泉の水を飲みたいとは思わないか」と、彼の話は陳腐で凡庸な内容だ。画面も砂漠ばかりだ。しかし、老人の朴訥な語り口が、不思議と胸にしみる。

老人は「さっき言っただろう、わしは自然史博物館で働いているんだ」と、立ち去っていく。下のような、印象的な構図だ。
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老人を見送った男は、車で移動する。カメラは車内の男をフィックスで撮っている――まるで、この映画そのものが感情をなくしてしまったかのようだ。
しかし、車の外から「写真を撮ってください」とアベックの女性が頼んできたり、かと思うと「死にたいのか!」と怒声が聞こえる。車の外の世界は、生き生きとしている。男は無表情にハンドルを切り、車から駆け出していく。彼は、どこへ向かって走り出したのだろう?
上の博物館の門が、このままの構図で、ふたたび映る。男は、あの老人にもう一度会おうとしている! そのことが、端的な構図で分かる。一切の台詞、一切の演技、一切の感情描写を排しても、構図によって彼の心の変化が伝わってくる。あの老人の語りに感動したのは、僕だけではなかった。映画の中の彼も、心を動かされたのだ。映画のこちら側と向こう側が繋がった。

この機能的な効果が、映画を観る意味だと思う。
ちなみに、オチは「はあ?」と首をかしげる難解なもので、ネタバレとか何とかいう概念がいかに無意味か分かる。映画は、プロセスを体験するものであって、ネタがどうとかいう性質のものじゃない。

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2021年9月28日 (火)

体育の時間と『トゥルーラブストーリー2』

 小学校・中学校・高校と、体育の時間が辛かった。とび箱は三段ぐらいしか飛べず、水泳では5メートルも泳げない。球技でチームを組むと「廣田がいるんじゃ勝てないな」と聞こえるように言われる。高校時代がもっとも酷く、野球部員のクラスメートから遊び半分に地面に叩きつけられた。教師も他の生徒も、見て見ぬふりだった。体育の時間が終わると、クラスの人気者が「廣田がどれほどダメだったか」女子生徒の前で笑いながら話した。誰にも気づかれないように注意しながら、僕は泣いた。 

 そんな僕でも、高校時代は好きな女の子がいて、下校時に「体育の時間が辛い」と打ち明けてみた。「体育の時間さえ我慢すればすむでしょう?」と、彼女は横を向いた。彼女は勉強もスポーツも得意だったから、分かってくれるはずがなかった。僕は、理解者を探すことをあきらめ、劣等感の強い無口な大人になった。 

 アルバイトで食いつないでいた30歳のころ、知り合いから恋愛シミュレーションゲームの存在を教えてもらった。数値を上げることより、生き生きとした女の子キャラとの会話を求めて、僕は何枚もの恋愛シミュレーションを買った。『トゥルーラブストーリー2』では、誰とも話さない転校生の女の子のはかなげな存在感に心を揺さぶられた。ただ、親しくなるのが大変難しいので、プレイヤーの幼馴染という設定の「七瀬かすみ」と仲良くすることにした。かすみはおっとりした性格で、あまり快活ではない。ゲーム中のイベントに球技大会があるのだが、その話題になると、かすみはつまらなそうに下を向いてしまう。「絶対に応援に来ないでほしい」などと言う。僕はハッとして、コントローラーを床に置いた。彼女はスポーツが苦手なのだ。そのことを恥じているのだ。浮かない表情のかすみの前で、僕は大声で泣いた。出来ることなら、あの歯をくいしばって耐えていた高校のころに、同じように体育のできないかすみと出会いたかった。

(※2014年頃、個人の方のブログ用に書いたコラムです)

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2021年9月25日 (土)

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モデルグラフィックス 2021年 11月号 
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●組まず語り症候群 第107夜
今回の題材は、イマイ製1/72レギオスなのですが、WAVE製の『ガルフォース』のレジンキット(購入特典のラビィの全裸フィギュア)について、大学時代の思い出を書きました。


最近観た映画は、アッバス・キアロスタミ監督『友たちのうちはどこ?』と『そして人生はつづく』。
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『こうのとり、たちずさんで』の監督……と思っていたが、あっちはテオ・アンゲロプロスだった。キアロスタミの映画は、まったく未見であった。
先に言っておくと、後から製作された『そして人生はつづく』を観ると、『友だちのうちはどこ?』が事実ではなく「映画」として語られていることに驚かされる。『そして人生はつづく』は、『友だちのうちはどこ?』の出演者やロケ地をたずねるセミ・ドキュメンタリーとなっているのだ。
『友だちのうちはどこ?』で印象的だったジグザグ道が、『そして人生はつづく』のラストでは別の角度から撮影される――主人公の少年が、友だちにノートを届けたい一心で駆け上った坂道を、車が登ろうとする。あまりに急な坂道なので、車は一度は引き返す……が、後ろから上がってきた男が手伝って、車は再び坂を登る。そして、手伝ってくれた男を乗せて、車は坂道を登っていく。
その超ロングの構図には、虚構の物語へ現実の力で肉薄しようとする作家の粘り強い意志が感じられる。『そして人生はつづく』はオーソドックスな撮り方で、綺麗なシーンには分かりやすい音楽が流れるし、これといったストーリーもないのだが、『友だちのうちはどこ?』とセットにして観たとき、不思議と胸を打つ。


それにしても、『友だちのうちはどこ?』。映画の意義を激しく問いかけてくるのは、こちらである。
キアロスタミ監督は、後にフランス・イタリアとの合作も撮っているので、西欧化されたセンスを持つインテリなのであろう……と勝手に思っている。そう疑いたくなるほど、題材は素朴で、完成度は高い。構図も色彩も、非常に洗練されている。
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少年が友達にノートを届けようと決意して、坂道を登りはじめるシーンで、音楽が入る。それは弦楽器を用いた、民族音楽だ。他のシーンに音楽は入っていないので、そのシーンがどれほど重要なのか分かる。
少年が隣村へ着くと、背中にたくさんの草を背負った老人がいる。背中側から撮っているので、少年はまるで、草のかたまりと話しているように見える。果たして、この演出はどれほど意図されたものなのだろう?
少年がさらに村の奥へ行くと、扉の向こうから大きな岩が投げられる。扉の向こう側にいる老人が投げているのだが、その老人をなかなか映さないので、先ほどの草を背負った老人のように、おとぎ話の中の不思議な出来事に見える。

そういえば、映画の後半、すっかり暗くなった村で少年が最後に出会う老人は、「わしは家の扉や窓を作っていた」という話を、しつこく何度もする。扉を売って商売している男も、途中に出てくる。ロケ地となった村に扉を作る職人が多いだけなのかも知れないが、それをフィクションに取り入れると、寓話的な感じがする。
たまたま、村にいた家具職人を題材にしただけなのだろうか? だとするなら、パン職人でも良かったのだろうか? キアロスタミ監督は、どこまで意図して、この作品に豊かな風土を盛り込んで、ここまで異様な独自性を持たせたのだろう? 
「このように撮れば、必ずこう伝わる」という劇映画の話法は、たとえばロシアのレフ・クレショフが実証した。その後、どう世界に伝播して、どこまで受容され、今日どれほどの範囲で許容されているのだろう?


僕は『友だちのうちはどこ?』の、胸を打つ美しいラストカットには触れたくない。
あのラストカットを観れば、誰でも合点がいくというか「ああ、なるほどね」と、すっきりする。誰にでも伝わる心地よさ、分かりやすさがある。「上手いところで終わらせるなあ」と、おおいに納得がいく。……がゆえに、くだらないとも思う。映画の途中で「こんな朴訥なカットを、なぜ自分は素晴らしいと感じているのだろう?」といぶかしく思っている、その自問に比べたら、「誰にでも分かる感動」の値打ちは低い。

「ネタバレ」という概念には、映画には正しい感動のしかた、正しい受け取り方、正しい物語の解き方、絶対の「正解」があるのだ(それ以外は「間違い」)……とでも言いたげな、余裕のなさを感じる。
「正解」以外の読み解き方しか許容できないから、伏線回収や死亡フラグといった物語の様式にばかり強くこだわるようになる。迷いたくない、疑いたくない、早く答えにたどりつきたい、安心したい、保証がほしい……その焦りが、自分の感受性をやせ細らせていく。
「こんな簡単に感動していていいんだろうか?」と、僕は疑う。自分がどこにいるのか、正確に知りたい。自分の感動が低レベルならば、それを事実として受け止めたい。その迷いと疑いの中にしか、突破口はない。

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2021年9月21日 (火)

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「機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛」で、なぜキャラクターたちはショートケーキを食べていたのか?【懐かしアニメ回顧録第82回】

「パトレイバー」や石黒版「銀河英雄伝説」登場のメカを続々とプラモ化! 株式会社エイチエムエーって何者だ!?【ホビー業界インサイド第73回】

「何が、アニメをアニメたらしめているのか?」――「スター・ウォーズ」「ブレードランナー」「ロード・オブ・ザ・リング」など、超大作企画にもまれる神山健治監督からの問いかけ【アニメ業界ウォッチング第82回】
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株式会社エイチエムエーさん、神山監督とも、僕が直接メールして、インタビューの場を設けてもらいました。
宣伝会社を経由すると、その作品の宣伝期間だけしかインタビューできないのです。それはインタビュー記事ではなく、パブリシティという扱いなので、宣伝会社は一度に沢山のメディアを集めて、似たような記事が一度に露出することになります。

そのパブリシティのおかげで記事を成立させられたことも多いのですが、本来はインタビュアーとインタビューイさえ了解していれば、自由に取材していいはずです。神山監督は『スター・ウォーズ』のことをどう語ろうと、いちいちディズニーに確認はとりません。ディズニーの広報の仕切りだとしたら、発言が削られたかも知れません。
(ポロッと言ってしまった場合は、監督が「今のはナシね」とか「ここだけの話ね」と付け加えるので、良識をわきまえた記事になります。こちらも過激な内部告発をしたいのではなく、エンタメ記事として気軽に楽しんでもらいたいわけですから)

僕が怖いのは「版権元の許可がなければ、何も言ってはならないのではないか」と、発信側が極端に自粛するムードです。日本は30年間も不況が続いているので、誰もが神経過敏になり、最初から「これはヤバいだろ」「勝手にやっちゃダメだろ」と臆病になっています。だからこそ、こういう自由な立場から記事をつくると、幅広く反応が得られるのです。
ついでに、「廣田だけ自由にやりやがって」「廣田には仕事を回すな」という動きも出てきます。僕は自由にするから、あなた方も自由になればいいでしょう? みんなが自由に生き生きと仕事すれば、文化が活性化して、世の中が明るくなりますよ。


仕事の合い間をぬって、銀座蔦屋書店の山口歴氏の個展を観に行った。
あと、昨日は祭日で混むかと思ったが、東京都現代美術館へ。
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横尾忠則展がメインだったが、マーク・マンダース氏の作品をふくむコレクション展、あと、映像作品を使ったインスタレーションを主とした「MOTアニュアル2021」が良かった。
劇映画は例外なく横長の画面ばかりだが、こうしたインスタレーションでは縦長だったりする。劇映画がどうして今の様式になったのか、劇映画の外から考えることが出来る。労を惜しまず美術館に足を運べば、新しい知見が得られる。


最近観た映画は、クリント・イーストウッド主演の『人生の特等席』、深田晃司監督の『海を駆ける』、トルコ映画『ミルク』。
『人生の特等席』は野球選手のスカウトマンが主人公で、年老いた彼のところに弁護士の娘がやってきて、彼の手助けをしながら恋愛を成就させる。二時間に満たない映画で、ストレスなく気持ちよく観られた。
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たとえば、田舎の野球場で試合が始まる。カメラは野球場の周辺を拾う。中継席に座るアナウンサー、そして野球場の外を走る子供たち。それをPANで追う。すると、子供たちとは関係なくソーセージを焼いている男の手が、フレームに入る。そのワンカットの流れで、お祭り感が出る。
あるいは、野球チームを持っている偉い人が、社長室でゴルフのボールを打つ。ボールは画面に映らないが、次のカットでは、真上から野球のボールが転がる様子を撮っている。そのボールへ、選手が駆け寄る。
「偉い人のちょっとした挙動が、実際に体を動かしている選手の運命を左右する……この二つのカット、その力関係の比喩だ」と、言葉に還元することも出来るけど、単にシーンのつなぎ方が気持ちがいい。カットの流れやシーン転換の気持ちよさだけで、この何気ないストーリーを視覚的に受け取れるんだろう。

『海を駆ける』は以前に見たかも知れないが、深田監督らしいショッキングかつ曖昧さの残る怪作だった。それでも、『よこがお』『淵に立つ』の後味の悪さには、及ぶべくもない。僕は、この静かに狂った監督を今後も追っていきたい。
『ミルク』は、ほとんどがワンカット=ワンシーン、かっちり決まった風景の構図で、人物が奥へ歩いていく。あるいは、手前に歩いてくる。二人が並ぶと、静かに会話が始まる。その静謐で丁寧な良さもあるのだが、どのシーンも似たようなテンポなので、やや飽きてくる。


小学校~高校まで、僕は成績表が1と2ばかりの落ちこぼれであった。テストも50点を越えればいいほうで、20~30点ぐらいが平均。社会に出てからも常識的なことが出来ず、今でも発達障害か何かではないかと疑っている。
ところが、クラスで60点とか70点とか取っていた大多数の同級生が、ちゃんと大学を出て会社に入れたのに、その安定した人生が「面白くない」らしい……と分かってきた。

たまに書いていることだが、平日昼間の町には、ボーッとしている大人がいっぱいいる。スマホに熱中しながら平気で横断歩道を渡っている人は、誰かの考えたアプリに搾取されつづけている。いわば寄生虫に身体をのっとられて、寄生虫にとって都合のいい行動を意志とは関係なくとらされている。彼らは、アプリにスマホ歩きさせられている宿主でしかない。
また、30歳をすぎて社会人として仕事をしてきただろうに、いまだに東大に入れなかったとか「早慶」なんて言葉を持ち出して、「受験が挫折経験だった」なんて言っている経営者がいる。

そういう退屈な大人たちが、みんなで同じ遊びをやり、みんなで同じものを食べ、みんなで同じ音楽を聴いてきたクラスの大多数のなれの果てなのではないか。一斉に同じ時間に出社して、一斉に昼休みに入り、みんなが並んでいる飲食店の列に加わる……。
僕は致命的な落ちこぼれだったので、その「みんな」の中に入らず、好きな時間に起きて、好きな喫茶店や美術館に行って、発作的に旅行することさえ出来る。仕事もアニメとプラモ、好きなジャンルのことしかやってない。なので、「来月こそホームレスかも知れない」とビビりながら満喫する落ちこぼれの自由は、そう悪くない。

(C)2012 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

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2021年9月10日 (金)

■0910■

アニメ「ゲッターロボ アーク」はあえて泥臭いキャラで! ベテランアニメーター本橋秀之が、ロボット物の熱い息吹を令和の今に伝える【アニメ業界ウォッチング第81回】
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『ゲッターロボ アーク』の取材がとれそう……という話になったので、即座に「本橋秀之さん」と希望してインタビューが実現しました。


最近知り合った編集者がジェームズ・キャメロン監督の『アビス』がいい、と言うので、何十年ぶりかで見てみた(久しぶりにTSUTAYAでDVDを借りた……今回は、無事に再生できた)。
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完全版は3時間もあるので、一時間ずつ区切って見た。
メアリー・エリザベス・マストラントニオの演じる女性科学者のリンジーが、海水の中で仮死状態になり、旦那のエド・ハリスが基地に連れ帰って蘇生しようと努める。
旦那だけでなく、基地のメンバーが集まって、リンジーを蘇生させようと協力する。緻密に構図が組み立てられているのだが、ちょっと奇妙に感じたカットがある。まだ蘇生していない、すなわち死体の状態のリンジーの主観カットで、助けようとしているメンバーの姿を撮っているのだ。劇の上でも、まだ彼女は生き返っていないのだから、彼女の主観は成立しないはずである。

直後、今度はリンジーの真上にカメラが据えられる。これなら、分かる。蘇生しないままのリンジー、その周囲に集まっている人々を、突き放した構図に冷徹に収めており、彼らの結束と無力感などを効果的に描写できている。
そして、リンジーが蘇生した後、今度はエド・ハリスの演じる旦那が肺に液体酸素を吸入して、深海へと挑む。液体酸素は未知の技術だし、深海の水圧で彼は死ぬかも知れない。それでもミッションに挑む彼の主観カットが、一回だけ挿入される。水面を囲むようにして、メンバーがこちらを見ている――これなら、意図が分かる。彼の感じている孤独が、その主観カットでいっぺんに描写できている。臨場感もある。

もしかすると、「死んでいる」リンジーと「死ぬかも知れない」旦那の心情(孤独感)を、同様の主観カット(見守っているメンバーと基地内の風景)によって呼応させようとしているのかも知れない。そうだとしても、主観カットはライトやスタッフが映りこんではいけないので、かなり撮影が面倒なはずだ。そこまでの手間をかけて、「死んでいる」はずのリンジーの主観カットを撮った意図を知りたいと思った(演出ミスだと難癖をつけているわけではない)。


『アビス』ともう一本、ティム・バートン監督『ビッグ・アイズ』も観た。90分程度しかなく、明快な感情描写とシンプルな展開に好感をもてた。
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しかし、本来は『エド・ウッド』の脚本家コンビが監督までする予定が、ティム・バートンが脚本はそのままで監督だけすることになった……という経緯を知って、ちょっと複雑な気分になった。おそらく、誰がどう撮ってもこういう映画になっただろう。すなわち、映画の主体が演出ではなく脚本にあるのでは……という意味だ。


そして、この2本を返しに行ったついでに、コーエン兄弟監督の『ミラーズ・クロッシング』を借りてきた。公開時に見たはずなので、実に30年ぶりである。
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野沢那智さんや曽我部和恭さんらによる、素晴らしい吹き替え版で観たのに、ストーリーはよく分からなかった。
しかし、そんなことは少しも問題じゃない。アルバート・フィニ―の演じるマフィアのボスが豪邸で寝ているところを襲われるのだが、ベッドの下に隠れてマシンガンを持った二人組を返り討ちにする。
倒れた一人の脳天をしっかりと撃ちぬいて窓から脱出し、奪ったマシンガンで窓辺で背を向けているもう一人を撃ち殺す。背後から撃たれた刺客は、自ら手にしたマシンガンを部屋中に乱射しながら死ぬ(すごい!)。
それで終わりではない。アルバート・フィニーは車で襲ってきた追っ手をも、手にしたマシンガンで返り討ちにする。車からも撃ってくるのだが、夜道をふらふらと迷走した挙句、炎をあげて車は爆発してしまう(!)。一体全体、ここまでくどい描写にする理由とは何か?

この映画、そうした「描写のための描写」の連続で、そこが何より面白い。


タイトルが出るところで、主人公の帽子が森に落ちる。落ちたかと思うと、画面の奥へと飛ばされていく。
それを主人公は、夢だと説明している。まるで何かの暗示のように、繰り返し帽子がアップになる。たとえば、主人公が脅している相手に向かって、そばに置かれた帽子を手に取り、茶化すように頭にかぶせる。「殺すときには脳天を撃ち抜け」というセリフが繰り返され、ようするに帽子は死のイメージを想起させる。

それだけではない。組織を裏切った主人公が、ボスに殴られる。その周囲に、マシンガンを持った男たちがぎっしりと並んでおり、主人公は殴られるたびに彼らにぶつかってしまう。
何もない空間で殴られて壁にぶつかるより、マシンガンを持った男たちが壁をつくっている方がユーモラスだし、深刻さを薄める(このシーンでも、主人公の帽子がアップになる……それはやはり、死の予感のように見える)。
殴られた主人公が、店の階段を転がり落ちると、客が大きな悲鳴をあげる。太った女性が、悲鳴をあげながらフラフラになった主人公をバッグで叩く。
同様に、ある人物にとってショッキングな出来事が起きると、その場で見ている別の人物が絶叫する、泣く描写がいくつかある。

それらの描写は、「物語を映像で伝える」役割には、ほとんどまったく貢献していない。だが、たんに誰かが殺されるより、殺されない人物が叫んでいた方が面白い。その場かぎりの面白さのための描写のほうが、僕には純粋に感じられる。
だから僕には、劇映画のストーリーが描写のためのガイド、枠、入れ物のように感じられてならない。『アビス』の平和主義的なストーリーは薄っぺらいが、主観カットの効果には得体の知れない深みがある。『アビス』のストーリーがいかに薄っぺらであろうと、演出のあり方、構図の必然性は少しも色あせない。それは「物語が優れているから」「感動的だから」ではない。むしろ、何かの手違いが生じているからこそ、興味深いのだ。

また、僕たちは映像情報から「物語」を読みとろう、解読しようと試みるが、そもそも僕たちの頭の中で「物事を理解する」「認識する」メカニズムはどのように機能しているのだろう? 本を読んでいると、文字をどう組み合わせてどう情報を脳内に結像させて理解しているのか、自分でも不思議に思うことがある。

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2021年9月 3日 (金)

■0903■

ホビージャパン ヴィンテージVol.6 発売中
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巻頭特集「BANDAI early 80's! 設計者・村松正敏の見た'80年代バンダイ模型」を構成・執筆しました。
村松さんへはもちろん、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』でも取材させていただいたベテラン木型職人の諸星亮一さん、海洋堂・宮脇修一さんへもインタビューしました。6月は、静岡と大阪を駆け回る日々でした(取材の交渉も、自分で電話したりメールしたりして手配したので)。

そうした取材のやり方、キットが集まってからスタジオで写真を撮ってもらう段取り(どれとどれをどう撮ってらって、次に何と何を準備しておくのか、予約した時間内に撮り終えるにはどう進行させるべきか)、ページ構成、デザイナーさんへの発注の仕方……たぶん、いろんなテクニックを使って40ページをつくったのです。
「誰かやっといてくれ」「自分の思うように、他のみんなが動いてくれ」では、40ページを形にすることは出来ません。どうすれば出来るのか具体的な段取りに落としこんで考えて、自分の足を運んで、自分の手で書くのです。いくら待っていても、状況は進みません。


中古DVDを購入して、ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』。
他には配信で、ウディ・アレン監督『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』、『女と男の観覧車』、リリアーナ・カヴァーニ監督『愛の嵐』など。どの映画も超絶に長く退屈に感じる中(それは僕の感受性の変化だろう)、『女と男の観覧車』は軽快な語り口で、ブラックな笑いをふんだんに盛り込みながら、「次はどうなるんだろう?」とサスペンスフルな興味を最後まで持続してくれた。
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撮影はヴィットリオ・ストラーロで、極彩色の映像がとにかく飽きさせなかった。
人物だけを追っているように見えて、ドラマがキーポイントを迎えると、ふっとカメラが人物から離れて、背景やモブを撮る中に人物が混じっている……という、冷めた撮り方をする。本当は、そういうカメラや構図が物語に対してどう機能するかだけを見ていたい。


世の中、成人したら七割の人間が勉強しなくなる、本も読まなくなると聞いた。
「店員さん」を「定員さん」、「延々と」を「永遠と」と書いてしまう人は、何も読まずに、ネットに短文を投稿するだけの向上心を失った人生なのだろう。

スマホ歩きしている女性は、盗撮被害にあいやすいとも聞いた。スマホ歩き人は自分の身の安全を周囲に依存しているわけで、みずから搾取される側になっている。どんなにカッコいい外見の人でも、公道を歩きながらパズルゲームしているなんて、人生終わっていると思う(自分の部屋とか、お店や電車内で座ってゲームするのとは意味が違う)。
トイレに入ってきて、ションベンしながらずーっとスマホに触っている男性がいる。ようは、(排便のような)自室でやるよう恥ずかしいことを公道でやってはまっているのがスマホ歩きだ。僕も寝床ではスマホを離さないが、その姿を人に見せたくはない。


また、僕自身にコンプレックスがあるので、ダサい格好の男性には、つい目が行ってしまう。
気がついたのは、別に高い服を着ていなくても、サイズのあった服をサラリと着ているだけで印象は良くなるということ。ダサい人は、服のサイズが体形に合っていない。特に、ぶかぶかのズボンをだらしなく履いている場合が多い。シャツが短くて大きなお腹が飛び出しているのに、考えもなくベルトで締め上げて、みっともない体形が強調されてしまっている。

もっと言うなら、背筋をしゃんと伸ばしているだけで、服が安いかデザインが悪いかは関係なくなる。靴が清潔なら、もっと良い(靴ひもが外れても平気で歩いているのは、おしゃれ以前に心がだらしないのだ)。
僕はずっと猫背だと言い続けられたのだが、それは自信がないからだ。今だって、体格のいい男性にはビビってしまう。だけど、苦労を重ねて、いろいろ諦めて手に入れただけの自信がある。内面から滲み出る自信は、見栄ではないと信じている。その心に恥じない外見でいたい、と思う。

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2021年8月26日 (木)

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モデルグラフィックス 2021年 10月号
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組まず語り症候群 第106回
今回は、レヴェル社のカルフォルニア・コンドルです。ふと忘れそうになると担当者さんが「来月どうしましょうか?」と連絡をくれる、小さな灯のような連載です。


月曜日はふと思い立って、軽井沢へ行ってきた。
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セゾン現代美術館。館内は撮影禁止だが、庭にはこの鉄橋のような作品が点々としている。
収蔵作品展(「collection 40」展)では、中西夏之氏の抽象画が良かった。その作品の中だけでの規律があって、その決まりを視覚化するために絵を描いているような、実直さと丁寧さがある。東京都近代美術館で観た具体芸術協会の前衛絵画には、なんら決まりを設けない放逸さがあった。中西さんの作品は、もっと几帳面でストイックだ。

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都美術館で観たイサム・ノグチ氏の彫刻も、このとおり風雨にさらされて貫禄がついた「本物」を観られた。
ところで、美術館へ向かう数少ないバスを待っていると、ゲイっぽい男性二人組と一緒になった。ずっと下品で幼稚な話ばかりしているのでウンザリしたが、バスの運転手さんに丁寧にお礼を言って、館内では静かに作品を鑑賞していた。いろんな人がいるもんだなあ、と思う。


帰りは40分ほどかけて、ゆるやかな道を中軽井沢の駅へと歩く。
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途中、星野リゾートというお店の密集したエリアで、クラフトビールを買う。「歩きながら飲みたい」と言ったら、このような形に注いでくれた。気温20度ぐらいなので、飲みながら歩く。女性の一人客が多い。
軽井沢駅に帰って、前夜に泊まったホテルとは逆の方角へ降りて、その通俗的な賑わいに嫌気がさした。人間は群れるとロクなことにならない。こういう観光地へ行くと、必ず似たような髪、似たような服装のグループがいる。仕草も話し方も、みんな互いに真似しあって生きている。

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(ホテルから、わざわざ10分も歩いて食べに行った喫茶ブロンコのモーニングDセット。なんと、ハムとレタスをくるんだクレープなのだ。こうした優良店の常で、朝早い客は近所の常連のみ。もっと観光地らしい高級喫茶もあったようだが、こういう庶民的な店が好きだ。)


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(前夜、徒歩圏内で厳選した居酒屋にて、信州産ズッキーニとアスパラのグリル、バルサミコソースで。思わず、赤ワインを合わせた。4皿3杯で5千円しなかったのだから、良心的だ。)

店内では、地元の人たちだろうか、「コロナにかかったらどうしようね」と言いながら8人ぐらいで宴会をやっていた。僕は過剰な自粛反対で、普通の娯楽はそこそこ気をつけて楽しめばよくない?と思っているのだが、そんなに警戒心がないなら東京の人をあまり悪者にしないでほしい(笑)。

東京が嫌いな人は、コロナにかこつけて東京を罵倒する。今まで自由でなかった人は、コロナにかこつけて他人の自由を禁じる。
ダメな人は、ダメだったことをいつまでも気にしている。「行けなかった」「できなかった」「買えなかった」「食べれなかった」。通り魔殺人の加藤智大が、「彼女さえいれば」と掲示板に書き残していたことを思い出す。「結婚さえすれば」「資格さえとれれば」……そんな、試験の合格点をとるような人生観だから、苦しくなる。


2ちゃんねるにハマっていた頃、「1ゲット」と書きこむ人の気持ちが、分からなかった。
Twitterでも、バズっているツイートに真っ先に「1」とだけ書きこむ人がいる。2ちゃんでは「前スレの2は、本当は俺がとるはずだったのに」といった恨みごとを書く人もいて、ひょっとして順位を競う以外に何も知らない人生なのでは……と、想像する。

Twitterで面白いネタを自ら創出して、あるいは発見して、自分が最初に書きこむならいい。「ああ、コレね」「それな」と、いま知ったくせに便乗するのが見苦しい。
そんなに詳しいなら、最初にそのネタを自分で書けないとダメだろうよ。詳しいことにはならないだろうがよ。
最初にネタを投下する勇気、受けなかった場合の気恥ずかしさを、便乗するだけの人たちは知らないまま、歳だけをとっていくのだろう。誰かの見つけてきたものに脊髄反射して「必ず行きたいです」「絶対に欲しいです」とだけ反応して、実際には行きもしないし買いもしない。「仕事さえなければ行ったのに」「お金さえあれば買ったのに」……本当に、そうなのだろうか?
「彼女さえいれば」「結婚さえできれば」「資格さえとれれば」……本当にそうなのか、よく考えてみたほうがいい。案外、何もなくても楽しいのかも知れない。ただ、そう認めることに勇気が必要なだけだ。そして、ほとんどの人は他人の発見や価値観に安易に便乗して、やれなかったことを悔やみながら死んでいくのだ。

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