2017年3月23日 (木)

■0323■

毎晩、HDDレコーダーに録画されたアニメ番組を流したまま眠るのだが、明け方、とてもいい芝居が耳に入ってきた。
11_2凛とした奥方の声が、軽薄そうな若者をとがめている。どうやら、息子であるようだ。出かけようとする息子に、幼い子供が「フン! フン!」と怒っている声。そこへ、老婆の声が入る。年齢も立場も違う声が、無駄なくテンポのいい会話をかわしている。質のいいラジオドラマのようで、つい聞き入ってしまう。
オープニングテーマで気がついた。「そうか、『鬼平』の第11話を録画していたんだったな」と。

さすがに目を開けて、本編に見入る。
庭に、風車がある。回想シーンに入る前、その風車がカラカラと回る。回想シーンになり、場所や時間が変わっても、風車はフレームの同じ位置にある。
そして、回想シーンが終わると、もとの庭で風車がピタリと止まる。

その風車は、物理的に庭にあったものなのだろうか? おそらく、違う。物語を過去へいざなうための装置、デザインなのだ。
あり得ない場所に風車があり、物語の進行につれて回ったり止まったりする。その抽象性が、「アニメのリアリティ」なんだと思う。


実写で「ここからは回想シーンです」「ここで回想は終わりです」と合図するなら、もっと別の方法が、いくらでもある。実写映画に風車をデザイン的に配置したら、異物感だけしか感じられないだろう。絵だからこそ、許される演出なのだ。
同じ感覚、同じ意図を表現しようとしても、実写とアニメでは、別のあらわれ方をする。「現実」なり「実感」なりに肉薄して再現しようとする姿勢は同じでも、表現のうえでは別のものになる。そこが大事なんだと思う。

先日の話題()と結びつけるなら、「現実」「実感」に独自の方法で近づいたとき、アニメは映画に匹敵する。凌駕もする。
そうではなく、「現実」「実感」から距離をおいて、ただ「アニメの中だけのお約束」に終始している以上、それはせいぜい、アニメ愛好者の間でしか受容されない。外部に届かない。

アニメが映画になり得るかどうかは、アニメを観てない「外部」にアクセスできているかどうかなのかも知れない。


レンタルで、イギリス映画『さざなみ』。
Sub4_small_large ある老夫婦が、結婚45周年のパーティを開こうと計画している。ところが、夫のものへ、「雪山で行方不明となっていた元恋人の遺体が見つかった」との手紙がくる。夫と元恋人の関係を知るうち、妻は何十年も前に亡くなった元恋人への嫉妬をつのらせていく。

この映画は、夫婦の一週間の生活を追っていて、「月曜日」「火曜日」と文字がインサートされる。
月曜日は、広々とした田舎道で犬を散歩させている妻のカットから始まる。火曜日も、同様だ。しかし、月曜日は画面右から左へ歩いていた妻が、火曜日では左から右へ歩いている。注意して見ていると、妻にとって不安なこと(夫の元恋人)が話題にのぼると、妻は画面左にいると分かる。
(僕の思い込みでなければいいが)決定的なカットがある。妻がひとりで町に買い物に出て、夫に贈るための時計を見つける。カットの最初、妻は画面右から左へと歩いてくる。時計を見つけた妻は携帯電話を取り出して、夫に電話する。しかし、夫は出ない。そのとき、くるりと体の向きを変えて、画面左側に来るのである。


最初に会話するシーンでは、妻は画面右側に座っていて、夫は左側にいた。だんだんと妻が左側に座ることが多くなっていく。夫の過去の日記などを探って、恋人の写真を見つけるシーンでも、妻は終始、画面左側にいる。
ところが終盤、自分が元恋人のことを気にしていると夫に告白するシーンでは、画面右側へと陣取る。
もし、妻の不安感を感じさせるために、妻の位置を左側に寄せているとするなら、いろいろと説明がつく。セリフや出来事だけを追っていくと、実はほとんど何も起きていない。だから、構図によって心情を際立たせていくしか、方法がないかに見える。

……実写映画は本物の俳優を使って撮るから「リアル」なはずなのに、なぜ「構図」などという図像的な技法を駆使せねばならぬのだろう?
そして、同じことをアニメでやったとしても、誰が右にいて左にいたかなど、まるで意識しないうちに終わってしまいそうな気がする。(登場人物をフレームに収めて作劇する点では同じはずなのに)アニメと実写の演出効果は、決して同じではない。当たり前のようだが、いま一度、確認しなおす必要がある。

(C) オフィス池波/ 文藝春秋/ 「TVシリーズ鬼平」製作委員会
(C)The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014
(C)45 Years Films Ltd

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2017年3月20日 (月)

■0320■

劇場アニメの新時代  明日発売
71ishv3dxml_ac_ul320_sr228320_●「画が演技をするということ」 アニメーター/作画監督 安藤雅司の仕事
『千と千尋の神隠し』、『君の名は。』のムックでもお話をうかがった安藤雅司さんに、三度目のインタビューを行いました。
編集部からの依頼で、「アニメと実写の両方を知っている方に」とのことでしたが、よくぞ安藤さんに取材依頼したし、よくぞ僕に回してくれたと思います。

安藤さんは優れた表現者であると同時に、優秀な鑑賞者でもあります。インタビュー中、『この世界の片隅に』を評価していますが、おそらくこのような誉め方は、どのレビュアーも評論家も、していないと思います。
キャラクターデザインはよく話題になるし、絵がリアルだ、絵に説得力があるという誉められ方をされても、作画という工程に評価が及ぶことは皆無といってもいいぐらいです。

僕は「実写以上にリアルだ」なんて無責任な言い方をしたくありませんから、安藤さんの貴重な発言をまとめることが出来て、とても勉強になりました。たいへん有意義なインタビューになりましたので、必ず読んでください。


「アニメ映画」といっても、最近ではテレビ放送されたもの、テレビ放送前提でつくられたアニメもイベント上映されています。果たして、「映画館で上映されたんだから、すべて映画なのだ」とくくってしまっていいのでしょうか? そんな簡単な話なんでしょうか?
たぶん、アニメが「質的に」映画となる条件なり定義なりが、必要なはずなんです。

押井守監督の発言を振り返ると、劇場デビュー作の『うる星やつら オンリー・ユー』を「大きなテレビにすぎない」と反省しています。併映は相米慎二監督の『ションベン・ライダー』でしたが、そっちの方が好き勝手にやっている。
それで、第二作の『ビューティフル・ドリーマー』がどうなったかというと、おそらく『オンリー・ユー』より「映画っぽい」と感じる人が多いのではないでしょうか。

アニメが「質的に」映画である……という定義を考えるとき、いつも押井監督の「大きなテレビ」という言葉が、脳裏をよぎります。
人気のあるキャラクターたちをまんべんなく出して、笑いも涙も盛り込んで、新しい挿入歌もふんだんに入れたけど、それゆえに「大きなテレビ」にしかなっていない。
(いま、その「大きなテレビ」を「劇場版」として公開したら、「これこそ映画の王道だ」と歓迎されかねませんけどね……そういう雰囲気は、ちょくちょく感じます)

「大きなテレビ」ではなく、アニメが「質的に」映画になっているとするなら、「何が」映画たらしめているのか、関心をもっていなくてはなりません。


写実的なキャラクターデザインなら、実写映画に近づくんでしょうか? 現地にロケハンして、実在の場所を背景に描けば、それで現実感のあるアニメになるんでしょうか?
『王立宇宙軍 オネアミスの翼』が公開されたとき、僕は日芸映画学科に在籍していましたが、「あそこまで細かく描くなら、実写でいいじゃないか」と言った学生がいました。『王立宇宙軍』を忠実に実写で再現したら、より完璧な映画になるんでしょうか。アニメは「実写映画に到達すべき、未完成な何か」なのでしょうか?

「絵なのに、リアルだ」という誉められ方をしていると、僕は「うん?」と首をかしげてしまうのです。そう言いたくなる気持ちは分かるけど、言葉が足りてない。
「絵でないと感じられない存在感」を出すため、何かやっているはずなんですよ。3DCGで立体的になったからリアルだとか、その手の認識から抜け出ないといけない。

それには、実写映画もアニメも、熱心にいっぱい観ている人たちが必要なんですよ。
映画とアニメは何が違うのか、なぜアニメが映画になりうるのか。面倒だけど、面白いじゃないですか。今、それを考えるチャンスが来てると思います。

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2017年3月19日 (日)

■0319■

ホビー業界インサイド第21回:あまりに広大で自由な「ゲームズワークショップ」の高密度なミニチュアと世界観に、ホビー業界の沃野を見た!
C7k0fd0vsaay_rwモデルグラフィックス誌の連載、「組まず語り症候群」でミニチュアを取り上げさせていただいて以来、ちょくちょく客としてうかがっていたゲームズワークショップさんへ、ついに取材を申し込みました。
あの壮絶な成型のランナー写真を掲載したのは2014年12月ですから、遅すぎるようなしつこいような、不思議なタイミングでの取材となりました。


すっかり巨匠監督となったチャン・イーモウの2000年の作品、『至福のとき』をレンタルで。
冒頭、白髪の混じった冴えない男と太った中年女性が、お見合いしている。男は、結婚を焦っているが、女には離婚した元夫との間に、子供が2人もいるという。女の家に行くと、たしかに丸々と太った男の子がいる。
Shifukunotoki老けた男と太った母子、こんなパッとしない人たちの映画なのか……とウンザリしはじめた矢先、家の奥に、スラリとした背格好の少女が座っているのに気づかされる。静かに座っている姿を、背中から美しく撮っている。その、凛とした佇まいに、思わずハッとさせられる。
少女は、目が見えない。父親は、少女を置いて失踪してしまった。なので、母親がわりの女は少女を家から追い出して、どこかで働かせたいと愚痴る。それを聞いた男は、目の見えない少女なら簡単に騙せるだろうと、ニセの職場をつくる。

察しのいい観客なら早々と読めてしまうと思うが、男は少女を騙しているうち、彼女を娘のように大切にしていく。少女は騙されていると気づきながらも、不器用な彼を慕っていく。
この甘酸っぱいウソは、いずれバレる。その、ウソの滞空時間に漂う心地よさを、ひたすら堪能する映画だ。


新人の美少女俳優の発掘に長けたチャン・イーモウ監督は、美醜に容赦がない。最初に冴えない中年男と太った女性を同じフレームに押し込め、さらに太った子供を出して画面をギュウギュウに暑苦しくしておいてから、きれいに痩せた少女を出す。
その外見の対比は残酷といってもいいぐらい極端だが、そうでもしなければ、幸薄い少女の美しさが引き立たない。

また、「中年男が盲目の少女を密室で働かせる」設定には、どこか性的な淫靡なムードが入り込みそうなものだが、それについても、先手が打たれている。
金策に困った男は、同僚からの提案で、小さなラブホテルのような施設をつくる。密室にベッドだけ置かれた部屋を、カップルに貸し出すのだ。
当初、男はその部屋で少女を働かせようとするが、部屋は目の前で撤去されてしまう――つまり、性的なムードをもった舞台を、物理的に排除しているわけだ。
それなら、もう映画に性的な関係を持ち込む必要はない。必要はないのだが、少女の下着姿は頻繁に登場するので、海面下でセクシャルな要素は持続している。

プロット上では、性的な要素をしっかり排除している。だが、ビジュアル面では少女の下着姿を隠さない。この二律背反が、映画に力を与えていることは、間違いない。
そして、論理と情動との両方を機能させる作家を、体の芯から尊敬する。そうした作家の才覚に気づける、優れた観客でありたいと努めている。

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2017年3月17日 (金)

■0317■

EX大衆 4月号 発売中
Ex_taishu●機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 傑作の理由
モノクロ、4ページの特集記事です。
飯田一史さんにインタビューし、現代社会と『オルフェンズ』を比較した評論記事として掲載しました。
この仕事は、すでに原稿と取材を複数かかえている時期に割り込んできたので、シメキリから逆算して、構成可能な内容を割り出して、その範囲内でやります。
画像はバンダイビジュアルさんから借りられるので、「第○話のあのシーン」だとか面倒な指定はせず、公式サイトにある画像をピックアップしてお願いすれば、そのものズバリの画像が送られてきます。

相手(編集、デザイナー、関係各位)みんなが、なるべく手短に段取りできる方法だけで切り抜けようと努めれば、自分も無理なく仕事を進められるはずです。
「時間がない」と騒ぐ人は、余計な段取りを増やしすぎなんです。


レンタルで、『シークレット・アイズ』。
Main_large娘を殺された女性捜査官ジェシカ、美しい女性検事補クレアのあいだで揺れ動く、男性FBI捜査官レスの姿を描く。
あえてこのような書き方をしたのは、レスが明らかにジェシカへの友情とクレアへの愛情の両方に翻弄されていると分かるシーンがあるからだ。

まず、レスはジェシカの娘を殺したとおぼしき容疑者を尾行し、彼を取り押さえる。しかし、その場に現れたジェシカは「彼は容疑者ではない」と言い張り、レスに悪態をついて立ち去る。そのシーンは、腑に落ちない表情のレスのアップで終わっている。
手詰まりになったレスは、クレアの家へ行く。そのシーンも、レスのアップで始まっている。同じ人物のアップとアップをつなぐと、シーンのつながりは不自然になる。だが、ここではジェシカのために働いたのに彼女に悪態をつかれたレス、困り果ててクレアの家に行くしかなかったレス、彼の心の両面を描かなくてはならない。
よって、アップとアップでつなぎ、観客の注意を喚起する必要がある。事態に翻弄されるレスの気持ちを途切れなく描くには、レスのアップのみでシーンをつなぐのが、もっとも有効ではないだろうか。
レスは、打つべき手がなくなり、立ち尽くしている。その彼の前を、ジェシカが通り過ぎてフレーム・アウトする。つづくカットで、やはり立ち尽くしているレスの向こうに、風景の一部から、クレアが静かに現れる。上手い。完璧に整合している。カットと構図が、ドラマを生み出している。

こうした細部の語り口に、監督の知性や慎重さが端的に現れるのだと思う。


ほかにも、エレベータの中で、セスとクレア、ジェシカの3人が話し合うシーンも印象的だ。エレベータの中は鏡張りなので、3人の姿は右にも左にも、別々の角度から映し出される。
このシーンで、セスは容疑者の少年を「自分たちの手で、殺してしまおう」と提案する。法に準じて行動する彼らにとっては、あまりに重大な決断だ。その迷いを描くには、鏡なり密室なりの仕掛けが必要なのだと思う。
さもなければ、「泣き叫ぶ」「怒鳴りあう」ことが、もっとも強く感情を描く手法になってしまう。

『シークレット・アイズ』で、もっとも唸らされた芝居は、容疑者の少年にブラウスの胸元をのぞかれたニコール・キッドマン演じるクレアが、怒りをおさえた丁寧な言い回しで、少年を性的に侮辱するシーンだ。
演技も素晴らしいのだが、セリフの内容が「事実」を逆手にとった皮肉であって、無根拠に下品な言葉を羅列していないところに着目すべきだ。
強い「思い」の発生源は、つねに冷徹なほどの「事実」なのだと思う。「事実」を見失うと、人間はことごとく堕落する。作品も同じだ。


もう一本、友人に薦められた『ラブ・アゲイン』も観たが、僕向きの映画ではなかった。
努力や才能よりも、「何に拠って立つ」のか、それによって人生の質だとか、力だとかが左右されるような気がする。

(C)2015 STX Productions, LLC. All rights reserved.

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2017年3月14日 (火)

■0314■

吉祥寺プラザで、『モアナと神話の海』。誕生月割引なので、1,100円。
Moanaこの映画館はネット予約も座席指定もないので、混雑する映画では、ロビーに並ばされる。平日昼間のせいか、今日は行列ができるほど、混雑はしなかった。
『リトル・マーメイド』や『アラジン』の監督コンビにとっては、初の3DCGだそうだが、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオは、インフラが軍隊並に強固なため、まったくほころびが出ない。水滴ひとつにいたるまで、パーフェクトな完成度。

入れ墨が動いたり、壁画の世界にまぎれこむようなシーンでは、2D作画が使われている。いったい、どれだけ人材のストックがあるのかと呆然とさせられる。何百人という人間がローテーションで作っているのに、それでも「ディズニーらしい」と悪口を言われるのは、むしろ凄い(怖い)ことではないだろうか。


ポリネシアの神話をベースにしているそうだが、専門家に言わせると、あまりにもアレンジしすぎらしい。
外洋から流れ着いた先住民の意志をついで、平和な孤島から、再び新天地を求めて外洋へ進出する……というプロットには、確かに釈然としないものを感じる。欧米人からすれば、未開拓の土地に進出して簒奪するのは、違和感ないんだろうけどね。

また、手に入れなくてはいけないアイテムが二つあったり、貫徹目標(どうすれば物語が終わるのか)が明確でなかったり、欠点も多い。しかし、秒単位で挿入されるアイデアの豊富さに圧倒され、考えるのがアホらしくなる。キャラクターの繊細な表情も、有無をいわさず素晴らしい。太陽光の反射した波だとか、満点の星空だとか……。
それはもう、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかの問題じゃない。全世界の、あらゆる階級の人たちに残らず伝えたい……という、強固な思想めいたものを感じる。これが文化的侵略なのだと、おののきながらも感動する。

「自分が好きだった映画は、ストーリーで好きになったんじゃない。ワンショットを見た瞬間に“あっ、これは素晴らしい”って。それが、映画だと思っているから。」(宮崎駿)


ひとつ気になったのは、監督コンビが「『マッドマックス 怒りのデス・ロード』からインスピレーションを受けた」と語っているアクション・シーン()。観客サイドが『怒りのデス・ロード』だけで、作品全体のイメージを塗りかためて、一過性のネタにしているように見える。
でも、海賊が出てくるカットが似てるってだけでしょ? ポスターとのギャップが笑えるぜってだけでしょ?
『怒りのデス・ロード』のチェイス・シーンは、元をたどれば『駅馬車』まで遡れると思う。だけど、『怒りのデス・ロード』って、チェイス・シーンだけの映画だったかな。もっと雄大で、映画の根源まで遡るような作品だったよね。あらためて、考えなおしてしまう。

何だか、みんな映画の突出した要素(ネタ)だけを共有して、普遍性を切り捨てているように思えてならない。実はディズニー映画の世界は、すべて裏で繋がっているんだとかさ。次の『スター・ウォーズ』に、誰がカメオ出演しているとかさ。バルス祭が、盛り上がったり冷めたりするのも、分かりやすい一箇所だけしか共有できてない証拠だよね。
その一方で、流行りの映画を見て、言葉にならないほどのショックを受けて、何十年も胸に秘めつづける人がいると信じたい。そういう人が、誰の声にも耳をかさず、次の時代をつくるんだよ。

(C) 2017 Disney. All Rights Reserved.

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2017年3月12日 (日)

■0312■

【懐かしアニメ回顧録第28回】メカニックの“呼び分け”によって生じる「機動戦士ガンダム」の多面的リアリズム
C6mxe32uwai2g7lCS放送で『機動戦士ガンダム』を見ているうち、なぜ“やられメカ”の名前を律儀にセリフに組み込んでいるのか気になり、第一話を中心に「メカがどう呼ばれているのか」、軽く整理してみました。
この手の話では、リアリティを感じさせるために「RX-78-2」などと表記した時点で、悪手となります。番組がオンエアされる瞬間まで、モビルスーツという単語すら、誰も聞いたことがなかったはずです。

富野由悠季監督はファンから「御大」などと祭り上げられ、ガンプラは新しいブランドが出るたび、それが最新の「リアルな」「メカニックとしての」回答である……という反復に陥っています。
「ガンダムはリアルだからリアルなんだ」と繰り返す、怠惰で不毛な状態が、ここ20年ぐらいは続いているのではないでしょうか。

セルとポスターカラーで描かれた世界に、確かな存在感をおぼえたはずです。その生の感覚を、「みんなが理解しやすい形にまとめてしまおう」とする動きは、とてもつまらない。おそろしいとすら感じます。お台場に設置されていた1/1ガンダム、あれが答えのわけがないでしょう。だからわざわざ、第一話まで戻ってみたんです。

本日は、午後から三鷹市主催の「戦跡を訪ねるフィールドワーク講座」に参加。
三鷹コミュニティシネマ映画祭のとき、漠然と聞いていた企画だが、同映画祭で『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』の上映、片渕須直監督のトークイベント()を企画したドカン隊長から教えられて、応募した(残念ながら、ドカン隊長は抽選から漏れてしまった)。
どこか『この世界の片隅に』の感覚を引きずったまま、三鷹市内の大沢コミュニティセンターへ向かった。

フィールドワークは、調布飛行場を守るための高射砲跡。
Dscn2376_1540四つの高射砲台座跡は、今ではなんと保育園の敷地内にある。
現地の方の説明が、すごかった。まるで目の前で戦場が展開されているかのような言い方で、「あの林の陰からグラマンが低空で飛んでくるでしょ? もう間に合わないですよ」と、今でも残る林を指さす。
「後ろからは、味方の高射砲の撃った弾丸が空中で破裂して、その破片が、ここら辺にバラバラと降ってくるわけです。たまったものじゃないですね」とお笑いになる。

目の前に広がる風景に、まるでVRで戦闘機や高射砲が重ねられたような、異様な臨場感があった。距離感が生々しいんだ。
もちろん、『この世界の片隅に』の映像が頭の中で反復されたことは言うまでもない。現実の光景を想像するのに、アニメの記憶を援用するという倒錯。しかし、あの映画にはそれぐらいの説得力があったし、僕はフィクションを使わないと、現実にアクセスしづらい。


もうひとつの目玉は、公園内に二基のみ残っている“掩体壕”。
Dscn2394_1558これは本土決戦に備えて、航空機を隠しておくために造られた緊急の壕である。特別に、内部に入ることが出来た。
ここに隠されていたのが、タミヤからプラモデルが発売されて間もない飛燕であったという。現地には、1/10スケールの模型もあった。
ここでもやはり、僕はプラモデルというホビーを介して、現実との接点を見つける。それはやはり、ちょっと恥ずべきことなのだろう。

参加者の半分ぐらいは、70代の男性だったと思う。
言葉づかいがハキハキしていて、間違ったことを言ったら「申し訳ありません」と笑顔で頭を下げられる70代は、向上心を失わず、自己鍛錬してきた人なのだろうと想像する。年齢と品位は反比例する。それに抗う生き方を、目の前にした。
実は、そのことに最も教えられた、日曜日の午後だった。明日からは、また取材と原稿の日々が始まる。

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2017年3月 9日 (木)

■0309■

美少女プラモデルの本当の楽しみ方をフリーライター・廣田恵介が熱弁した「美少女プラモ最前線~金型に込めた『カワイイ』への祈り~」レポート
0001昨年9月、全日本模型ホビーショーで呼ばれたトークショーを、抜粋してまとめていただいた記事です。一緒に登壇したのは、いつもお世話になっている五十嵐浩司さん、高久裕輝さん。

半年前のせいか「こんな程度のことしか話せてなかったのか?」とも感じるし、フィギュアライズ・バストなどの製品が大量に出たせいか、こんな程度の切り方では何も言ったことになってないような……。
次のフェーズに行かねばならない、というのは、こういう感覚なんでしょうね。


『ひるね姫~知らないワタシの物語~』、マスコミ試写。こちらから神山健治監督にお願いしたインタビュー()の時点では、原画やレイアウトを繋いだ「未完成試写会」だった。今回は、完全版である。
Main3公開後に発売されるムック「神山健治Walker」では、未完成版しか見ていない状態で、監督の意図をつっこんでインタビューすることになった。

しかし、おかげで「未完成試写」のときの戸惑いはなく、ひとつひとつの描写に得心がいった。満席の試写室で、何度か笑い声がおきたのも楽しかった。ラストでは、拍手がおきた。


『君の名は。』や『この世界の片隅に』のヒットによって期待されている、柔らかなヒューマンな感動があるかというと、かなり肩の力が抜けた作品のため、泣かされるようなことはないと思う。

神山監督、肩コリが治ったんだな……と、ホッとさせられた。同時に、あの“悩める青年期”は、二度と帰ってこないのかと、ちょっと残念な気もする。
僕の神山監督への第一印象は、「引きこもりがちなのに、知略だけで世の中と渡り合えるインテリのアニメ監督が、ついに現れた」。それに尽きる。美少女フィギュアや美少女ゲームがギッシリ積まれた部屋で、だけど複数のPCモニタだけは煌々と明るい、そんな内向的生活を肯定してくれる、頭の冴えた青年アニメ監督が、とうとう出現した。そう思った。
僕は神山監督と同い年だけど、『攻殻機動隊』のころは、勝手に十歳ぐらい年下だと誤解していた。それぐらい、尖っていた。
「俺には神山監督の作品はわからないけど、彼に救われる若者は、数知れぬ」と直感した。


『東のエデン』放送中、「アニメージュ」の企画で羽海野チカさんと神山監督との対談記事などを書いて、その流れで、劇場版パンフの仕事を引き受けた。
だけど、プロデューサーの方針に納得がいかず、「せめて監督インタビューだけでもお願いします」と引き止められたけど、劇場版パートⅠまでで、パンフの仕事は降りてしまった。
配給会社から招待券が送られてきたので、こっそりと『東のエデン』劇場版パートⅡを観にいってみた。「本当は、こうじゃないんだよな」と、眉間にしわを寄せている監督の表情が、スクリーンに刻みこまれていた。まさに“Paradise Lost”だった。
神山監督は、悩んでいる。それだけは、痛切に伝わってくるフィルムだった。この監督の劇場デビュー作が、この2本でいいはずがない……とも思った。

それは、映画の出来がいいとか、面白いとかつまんないって問題ではないんです。みんな、そういう話題にもっていきたがるけどね。

『ひるね姫』は神山作品と見るか、たくさん公開されているアニメ作品のひとつと見るかで、だいぶ評価は分かれるだろう。
「未完成試写会」のとき、ピンとこなかったカットが、今回の完成版では鮮烈な印象を放っていた。それは、事件が解決したクライマックスの終わり。
カメラが引いて、主要人物やモブの人たちを俯瞰で撮っている。その背景が、真っ白なんだよ。スコーンと抜けたような白。それが、とても綺麗というか鮮やかで、「もう大丈夫、事件は解決した」と安心させてくれる。
その白はイメージ背景ではなくて、アドバルーンがしぼんだ色、物理的な色なんだ。何カットも前から、そのアドバルーンが仕掛けてあって、大団円のために、わざわざしぼませている。ハラハラドキドキのオーソドックスな展開を進めながら、同時進行でアドバルーンがしぼんで、登場人物がその上に集まれるよう、裏側で段取りを踏んでいる。
それが「演出」なんだよ。

同じような演出は、『攻殻』でも『エデン』でも『009』でもあったと思う。だけど、今回は違う。白は、もっと白い。曇りがないというか。
それは、ロジカルに説明できるはずなので、いつか時間をかけて書いてみたい。

神山監督、50歳の再スタートは、澄みすぎるぐらい澄んでいて、やっぱり不器用だった。その不器用さに、好感をもてるかどうかだろうな。
エンドロールはサイドストーリーになっていて、ここからいくらでも派生していける、希望のもてる再出発だ。

(C)2017 ひるね姫製作委員会

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2017年3月 7日 (火)

■0307■

誕生月割引が使えるので、吉祥寺オデヲンで『ラ・ラ・ランド』。
640満席で、ご年配の女性が多かった。ようするに、30~60年代のミュージカル映画を、ぎりぎり記憶している世代じゃないの? ロビーでマストロヤンニだとか、やや昔の俳優の話をしていたもの。
映画は、クラシカルなつくりだ。スマホやネットのある時代を舞台にしながら、挿入されるテロップは50年代風のタイポグラフィ。これは『スター・ウォーズ』と同じように、「映画のフォーマットを使ったデザイン」なんだと思う。


ようやく、書くことが出来る。僕が生まれて初めて惚れこんだ映画って、小学6年のころにテレビ放映された『ダウンタウン物語』なんだよ。
1976年製作だけど、禁酒法時代を舞台に、子役たちにギャングを演じさせたミュージカル・コメディ。イタリア系ギャングの情婦を演じたのが、まだ14歳だったジョディ・フォスター。
Bugsy_malonecd_soundtrackテレビで観て感激して、サントラLPを買いに行ったら、こんな洒落たジャケットだった。カラーのスチールをモノクロにして、人工着色している。
映画の描写も、マシンガンから漆喰が飛び出し、顔が真っ白になったら、それが「銃殺された」サイン。暗殺シーンでは、顔にパイをぶつけたりする。パイ投げは、サイレント映画時代、キートン・コップスという喜劇団が流行らせたギャグで、『ダウンタウン物語』は「こんな古風なギャグを今さら……」という批評的な笑いを狙っている。

(余談だけど、『ダウンタウン物語』は40年たった現在、英語圏の演劇学校などで、卒業公演の定番と化している。歌も踊りもあるし、教材としては格好なんだろう。)


ロドリゲスとタランティーノの『グラインドハウス』のように、映画文化の再生産としての「映画」。二次創作なんだ、『ダウンタウン物語』は。
『ラ・ラ・ランド』も、クラシックな様式を過剰に取り入れた、二次創作になっている。少なくとも、ミュージカル映画がディズニーアニメぐらいしかなくなった現在でないと、その価値を推し量ることは出来ない。二重三重の批評性を求めてくる、厄介な映画だよ。
(だから、賞賛も批判も、知識合戦みたいになってて、すごく煩わしいよね……。)

『ラ・ラ・ランド』を観にきて、劇場で年上のおばさまたちが集まってワイワイしているのを見て、『スター・ウォーズ』も、ターザン映画や海賊映画、西部劇や戦争映画を覚えている大人たちに受けたんではないか……と、合点がいった。映画単体としての評価より、二次創作としてのクオリティが評価された、「こういうの、昔あったよね!」と共感を得られたんだ。当時10才だった僕には、早すぎた(笑)。

『ラ・ラ・ランド』に話を戻すと、ラストに大仕掛けがある。
だけど、それは仕掛けとして洗練されている、ビジュアル的な発想が「美しい」という以上の価値はない。文芸的に編みこまれてないので、仕掛けのための仕掛けにしかなっていないのだが、だからこそ綺麗なんじゃないの? 『スター・ウォーズ』のSFXが、作り物であるがゆえにカッコいいようにさ!


僕は「このような企画を考えた」コンセプトの段階を、もっとも評価する。
コンセプトは冴えてるのに、お金が足りなかった、十分に実現できなかった……それでも、志の高さは変わらない。むしろ、概念を十分に視覚化できてない方が、足りなかったピースの美しさが増すような気すらする。

「…惜しい!」ってのが好き。惜しくて、ちょうどいいというか。だから、創作物に優劣をつけることを空しく感じている。

(C) 2016 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved.

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2017年3月 6日 (月)

■0306■

レンタルで、『ディパーテッド』。
スコセッシ監督で、アカデミー作品賞受賞。そうなのか。まったく知らなかった。Twitterの知らない人のツイートから、作品名だけメモしておいた。
398x265主演のマット・デイモン、レオナルド・ディカプリオ。この2人の区別がつかず、前半はかなり混乱した。
マット・ディモンはジャック・ニコルソン演じるマフィアのボスに、ひそかに情報を横流ししているエリート刑事。ディカプリオは、ニコルソンの組織に潜入捜査している覆面刑事。
この2人の行動が、カットバックで描かれる。しかも、同じサイズで撮った絵を、そのまま繋げている。ディカプリオのバスト・ショットの直後に、マット・ディモンのバスト・ショットを繋げるという、まるで素人のような編集をしている。
普通は、シーンが変わった場合、サイズは変えます。同じサイズにしたら、シーンが変わったと分からないからです。あるシーンがアップで終わったら、次のシーンはロングで始めるとか。だけど、その原則を、わざと壊している。


俺が、俳優の顔を見分けられないのだろうか? ひとりのマフィアを通じて、対称的な位置で働いている2人の若い刑事を判別できないほど、俺の頭が悪いのだろうか……と悩んだ。
ところが、それは杞憂であった。ニコルソンが、ポルノ映画館でマット・ディモンと待ち合わせる。彼は、黒いベースボール・キャップをかぶっている。ニコルソンを尾行するディカプリオ、彼も黒いベースボール・キャップをかぶっている。服装もグレーっぽくて、よく似ている。
ここでようやく、「観客を混乱させるために、よく似た俳優の、よく似た役柄の、よく似たショットを前後させていたのか」と、分からせる。少なくとも、僕はポルノ映画館のシーンで、ようやく分かった。

ヴェラ・ファーミガの演じる精神科医をめぐっても、やはりマット・ディモンとディカプリオは、彼女をサンドイッチして、ゆがんだ相似形を描く。「あれ? さっき出会って知り合いになったじゃん? ……いや、あれはコッチの刑事だっけ」と、混乱する。「その混乱を積極的に楽しむ映画なんだ」と、気づく瞬間がやってくる。
俳優の顔やカットワークを使ったこんな表現をできるのは、劇映画だけだと思う。脚本やドラマが感動的なのではない。その演出意図が感動的なんだ。
例によって、ラストは評価の対象にしない。映画の進行するプロセスに比べれば、ラストシーンなど、あまりにどうでもいい。監督が、何を試みたか。失敗していようと何だろうと、何に挑んだのか。肝心なのは、それだけだ。

当時69歳だったジャック・ニコルソンは、表情の色っぽさもさることながら、衣装が素晴らしかった。デート用のすみれ色のスーツから、ポルノ映画館で着ていた汚いコートまで、「CGかよ」と思うぐらい、よく似合っていた。


ネタバレという言葉が汚らしいのは、「ネタ=ウソ」というネットスラングを想起させるせいだろう。英語では“Spoiler”(台無しにするもの)という。
それでも、ただ他人から「こんなシーンがあるんだぜ」「最後に、こうなるんだぜ」と聞かされただけで、本当に、映画の価値は減じるのだろうか? 映画の価値は損なわれないが、「なんとなく楽しみが奪われたような気がする」、その茫洋とした不快感を「ネタバレ」という言葉で忌避しているに過ぎないのではないだろうか?

あくまで“茫洋とした不快感”に過ぎず、明確な定義がないから、やむなく「映画のラスト、後半の展開を明かすことを、ネタバレってことにしない?」と、同調圧力こみの合意が形成されていったにすぎない。目的は摩擦をさけることであって、「映画の楽しみを万人にキープすること」ではない。

「他人のことなど気にせず、どんどん話せ」と言っているわけではない。「ネタバレ」は俗語にすぎず、定義も曖昧ゆえ、拘束力も緩いという認識を忘れてほしくないだけだ。プロの書く記事に、赤字で「ネタバレ注意!」と書かれていると、本当にゲンナリする。
僕は公開前の映画について……いや、公開されてから何年もたつ映画についても、「後半の展開はこうなる」「ラストはこうだ」と書いたことはない。このブロクでも、商業原稿でも。
映画の面白さが集約しているのは、「後半の展開」「ラストシーン」ではない。もっと思いがけないところに面白さが生じているので、「後半の展開」「ラストシーン」については書く必要がないのだ。「バラす」もへったくれもない。

それでも、僕の中にも、ネットに触れている人たちの中にも、「自粛」「萎縮」が生まれている。言論の自由を、僕らは手放している。

(C)2006 Warner Bros. Entertainment Inc

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2017年3月 4日 (土)

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レンタルで、『シチズンフォー スノーデンの暴露』。2014年製作のドキュメンタリー。
640エドワード・スノーデンのことをよく知らない、名前ぐらいしか聞いたことがない……という人でも、大丈夫。彼が何者で、2013年に何が起きたのか、とても丁寧に解説されている。
国家安全保障局(NSA)の市民監視プログラムをリークしたのに、アカデミー賞を受けたのだから、面白い。

映画は、まだスノーデンがマスコミに姿を現す前、暗号でメールをやりとりしているところから始まる。やがて、米国法の及ばない香港のホテルの一室で、スノーデンとジャーナリストとの間で、NSAの内情をマスコミに暴露すべく、慎重に話し合いが進んでいく。
スノーデンが、ホテルの電話を指差して「このタイプの電話機は、盗聴機として遠隔操作可能なんです」と話しているとき、なぜか火災警報器が鳴るあたりから、緊張感が増してくる。


監督は、米政府からマークされ、ベルリンに滞在しているローラ・ポイトラス。後々、スノーデンの存在が大きくなることを見越して、彼の一挙手一投足を、粘り強く撮りつづける。それこそ、鏡の前で髭を剃っているときの表情まで、余さずに。
いよいよリークした情報がテレビで騒がれはじめた翌朝、ホテルの窓から、曇天の香港の風景を見渡すスノーデンの言葉がいい。「何だか、こんな気分は初めてですよ。なんと表現すれば……言葉では、伝えられません。一時間後に、何が起きるか分からない。怖いけど、同時に解放感もある。変化する予定がないから、計画も立てやすく、とにかく行動するのみです」と、パチンと指を鳴らす。
「僕はコソコソしたくないし、する必要もない。堂々と出ていくほうが強力だと思うんです。僕は怖くないし、誰も怖がる必要もない」。この言葉にも、強く胸を打たれた。
スノーデンと今後の計画を相談する記者の言葉も、力強い。「帰ったら、すぐ投稿しよう。調査だ何だと言うヤツらに、宣戦布告だ。この精神と態度を……相手の脅しへの怖れを知らぬ態度を、今後は維持しよう」。
「最高ですね」と、スノーデンは返す。「これまで、真実を言う者は、匿名で隠れて言うものでした。そんなの、クソくらえです」。

政治の映画というよりは、勇気の映画だ。権力やシステム、社会に対して、どんな態度を持つべきか。それについて真面目に考えてこなかった人には、むしろまったく縁のない映画。
どの政党を支持するとか、どの政策に反対するとかいう話ではなく、自分の接する状況に、どう抗うか。スノーデンの気骨、気概は、そのことを教えてくれる。
抗わない人生は、創造的ではない。ひたすら、退屈なだけだ。


『この世界の片隅に』、日本アカデミー賞、最優秀アニメーション作品賞、おめでとうございます。
公開直後、「のんさんの事務所の圧力で、テレビでは『この世界の片隅に』の情報を流せない」といった流言を、facebookで、僕にささやいて来た人がいた。「不満があるなら、テレビ局にメールしては?」と返事したけど、それきりだった。
おそらく、「そうですよね、ひどいですよね」と共感してほしかっただけなのだろう。

その場かぎりの共感のみが期待され、真実を知らず調べず、ただ「溜飲が下がればいい」だけの時代。でも、だからこそ『この世界の片隅に』の静かな広がりは、一縷の希望なのかも知れない。『君の名は。』だって、東宝配給以外これといった武器もなく、熱烈なファンにのみ支えられている映画だと思う。

(C)Praxis Films (C)Laura Poitras

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