2018年9月16日 (日)

■0916■

「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の主人公は、なぜロケットの座席に座ったままなのか?【懐かしアニメ回顧録第46回】
Dngredrvyaa5hegこの連載には、いつも悩みます。カットワークや構図のことを書ける機会が少ないので、なるべく演出の話をしたい。だけど、それでは読んでもらえない。なので、最後には誰もが「やっぱり良い作品、優れた作品だよな」と共感できるような、どうとでも解釈できる曖昧な結論を持ってくるしかない。
でも、主人公のシロツグが戦場で椅子に座っているだけなのは、特筆すべきと思います。戦闘機で初めて飛ぶときも、操縦は後席のパイロットが行い、シロツグは座ったまま。だから、「主人公が何もしてない」ように見える。
シロツグが主体的にやったアクションといえば、リイクニを押し倒したこと。あと、暗殺者を刺殺したこと。ようするに、道徳的に悪いことだけしている。そこから、この作品の倫理観が垣間見えるような気がします。


仕事の関係で観ておかねばならなくなり、『地獄の黙示録』(特別完全版)。
9848view0021980年代にテレビ放送で見て、その後は撮影の舞台裏を映画化したドキュメンタリー、『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』公開時にレンタルで観たので、1991年か。27年ぶりの『地獄の黙示録』は、若いときよりもずっと衝撃的だった。
僕は、劇映画の様式は1950年代に完成してしまい、あとは様式を壊す時代に入ったと思っている。70年代以降は、フレームの中の被写体をどう珍奇にするかしか、映画の進む道がなくなったのではないか……。

『地獄の黙示録』も、その説を裏づける。次から次へと、見たことのない戦場の様子が映しだされ、それだけで興味をつないでいく。冒頭は極端なクローズアップとオーバーラップが続くが、キルゴア中佐の登場する河からの上陸シーンで呆気にとられた。
Mv5bnzfkotfjn2etzjiwyy00mmflltk1odeカメラは長い時間かけて横移動しながら、河から戦場へ侵入してくるボートを追う。着陸する何機ものヘリコプター、小屋を押しつぶして上陸する装甲車、もうもうたる煙……。
フレームの中を、それはそれはギッシリと珍奇な被写体が埋めつくしているのだが、それをなめらかな横移動で撮るセンスがいい。


有名な「ワルキューレの騎行」を流した攻撃シーンも、ヘリからの主観カメラを主体に、たえずカメラが動きつづけている。地上からの視点では、PANでヘリを追う。
Mv5bnjgznwi4ywitnmrlms00nmy1lwe1zweフレーム内で起きていることは暴力だが、カメラの動きは優雅。そこが狂っているのだと思う。もしカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した理由が“芸術性”ならば、被写体と動きとのギャップに、それが宿っているんだろう。被写体そのものは通俗的なので、撮り方によっては凡百のアクション映画になっただろう。
撮影は、80~90年代にかけて大作を続々と撮ったヴィットリオ・ストラーロ。


だけど、『地獄の黙示録』はオタク向けというか、内にこもった映画だと思う。
兵器や美女を「本当はこうじゃなかったんだろうな」「面白く描いてるんだから面白がってもいいよな」と、無責任に観ていられる。同じ戦争を描いていても、『カティンの森』や『サラエボの花』のように社会に向けて告発する映画ではない。
『地獄の黙示録』を観ている間だけは、映画のために映画を観るだけのシネフィルや素人評論家でいても許される。「芸術として評価される余地」とは、すなわち「ビール片手に笑いながら見られる領域」という気がする。ゾンビ映画を笑って見るのは当たり前なので、それとはちょっと違う……賢しらぶっている自分を楽しむというか。

先日、広島と呉を歩いて『この世界の片隅に』、ひいてはフィクションへの認識が変わったように思う。歩くことで、頭の中の地図が出来上がっていって、自分の限界を少し壊すことが出来た。

(C)Zoetrope Studios

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2018年9月13日 (木)

■0911~0913 広島・呉■

11日に取材があると思っていたのだが、僕の勘違いで金曜日だと分かったので、11~13日まKimg1947_2では丸々何も予定がない。手をつけた原稿さえ収めてしまえば、広島・呉へ行けるので、10日夜に原稿をがんばって、11日朝から荷造りをはじめた。宿も当日朝から探して予約して、『この世界の片隅に』のアニメを元に浦谷千恵さんが描いた地図、公式ガイドブック、自分で用意したのは呉港の地図のデータだけ(あと、絵コンテ集がKindleに入っていた)。
昼ごろに新幹線に乗ると、16時すぎに広島に着いた。

先日の土浦の一件()でも書いたことだが、『この世界の片隅に』では、イベント的な催しには参加せずにいた。うまく言葉にできないが、疎外感のようなものを最初から感じていた。
2016年9月9日の完成披露試写以降、「泣けるから、みんな観て」という声に、強い違和感があった。もっとハイブローでタフな、実験精神旺盛なガツガツした貪欲な映画……そんな風に感じたのは、どうやら自分だけらしい。
少なくとも「泣けるからいい」なんて、そんな簡単なものじゃないよ!と憤っているうち、自然と距離ができてしまった。
年末に向けて、ある企画を立てて、片渕須直監督ともあらためて話して、「最低でも呉の地は踏んでおかねば仕事にならない」状況に自分を追いこんだ。


なので、ファン心理からのロケ地めぐりではない。それこそ公開当初から、江波・広島・呉を粘り強く歩いたファンの方たちのブログが、いっぱいある。そうした方たちからすれば、「今ごろそんな有名なとこ行ってどうすんの?」と笑ってしまうであろう小旅行となった。
Kimg1939広島では、すずさんのスケッチしていた福屋八丁堀本店にたどりついて、近場でご飯を食べて夕陽のきれいな方角へ歩いていったら、たまたま、そこが産業奨励館。せっかくだから相生橋を渡って、レストハウス(大正屋呉服店)は明日、早起きしてから見にいく。ようするに、思いつきの連続だったのである。

翌朝は、ここ最近の打ち合わせで監督から勧められた「宇品からフェリーで呉に行く」ルートをとるため、路線バスに乗る。フェリーで行くと、広Kimg1958島港から呉港までは30分ぐらい。海の色もじっくり見ておく。
呉に着いて大和ミュージアムに入る頃には、雨が降り出してきた。大和ミュージアムを出て、呉軍港をぐるりと歩いてみることは出来ないだろうか? どれぐらいのスケール感なのか掴んでおきたい。それが旅の最低目標であった。


なので、呉観光プラザに立ち寄り、ほぼ思いつきで浦谷さんの絵地図を見せながら、大和を隠すための目かくし塀は、本当にまだ残っているのか聞いてみた。
Kimg1989(←日本一有名な『このセカ』ファン、水口マネージャーの絵が普通に貼ってあって、ビックリした。後ですごく役に立った。)
若いお姉さん二人は「ああ~っ、あの塀ですか」と顔を見合わせて、住所や写真を調べはじめた。もっとずっと年上のお姉さんに聞かないと分からないそうだ。
年上のお姉さんは10分ほど奥にこもってから、「とにかく古い資料を掘り出すしかないので、明日の14時までに揃えておきます!」と胸をはるのだが、明日は帰らないといけない。なので、「ここなら残っているはず」という住所を元に、若いお姉さんたちが即席の地図をつくってくれたのだった。「今度から、もっと分かりやすくしておきます」とのこと。

その即席地図によると、呉駅の隣の川原石駅から徒歩数分のところに、大和を隠すための塀のほんの痕跡があるはずだという。
ところが、川原石に停車する各駅停車は、一時間に一本ぐらい。駅員さんに地図を見せて事情を話すと、「海岸4丁目」というバス停からすぐなので、バスを使うといいですよと、切符を払い戻してくれた。
「バスはあと5分で出ます」と言うので、ダッシュする。幸いにも、雨はやんでいる。


さて、海岸4丁目下車すぐ、魚見山トンネル交差点から呉線を見上げると、確かに2本だけKimg1995 支柱が残っていた。監督が見たら「ぜんぜん違うよ!」と笑うかも知れないけど、最終日に各駅停車の車窓から見ても、いま本編をチェックして見ても、これが目隠し塀のはずだ。

だとするなら、「軍港」はここから始まっていたと言えるのではないか? その直感は大きく外れていたのだが、交通の便が悪いところなので、40分ほど港づたいに歩いて大和ミュージアムまで戻った。


バスの一日乗車券(日付を間違ってスクラッチしてしまったので、もう一枚買った)で、青葉終焉之地へ。有名な場所なので、あらためて書くこともなかろう。驚いたのは、Twitterの一部で有名になっていた「だし道楽」のうどん屋が建っていたこと。
Kimg2007ここで遠慮する理由はないので、天ぷらうどんをいただき、ついでに自販機でペットボトル入りの「だし道楽」を買った。
駅南口のホテルにチェックインしてから、今度は旧澤原邸(三つ蔵)へ向かう。ここもまあ、有名な観光地である。
だけど、円太郎の怪我を知った径子がこの坂を下りて海軍病院まで急ぐシーンがあるので、当時の呉の人たちはどれだけ歩いてたんだ?と気になってきた。だから翌朝、海軍病院(これまた有名な美術館通り)へも足を運んだ。

つまり、ピンポイントに回っていた建物を頭の中で地図化すると、「そんなに歩けるか?」とKimg2020 か「右にあると思っていたものが、実際には左にあった」と気づかされる。
大和ミュージアムでも観光プラザでも手に入るだけの地図を手に入れたが、自分は勝手に「向き」を決めてしまっていた。
上の写真は、すずと周作がデートした小春橋だが、僕は勝手に二人がもたれていたのは「港側」と決めつけていた。宿に帰って絵コンテで確認すると、ドンデン(カメラを正反対にすえるカット)があって、二人がもたれていたのは山側で、「呉に住んでいる人なら“生活者の習慣”で山側にもたれるのでは……」と手触り感すら生じてきた。つまり、僕は観光者目線だから「港側が表、山側が裏」と決めつけていたにすぎない。山側に家がある人たちが、山を「裏」などと考えるだろうか?
すると、百パーセントの「絵」が頭の中で立体図として立ち上がってくるような感触があった。その「絵」の中に方角もあれば、おのずと光線の方向が決まる。それですずさんの背後の雲が、少し夕陽に染まっていたわけだ。「なんとなくいい感じ」だから夕陽に染めたわけではなく、合理性が美しさを支えているというか……。

だから、単に「泣ける」だけの映画じゃないし、僕が感動するポイントは、理に理を重ねて「美しさ」や「ニュアンス」を醸す手腕なんだ。「世界の構造」を冷徹に紐解くことによって「世界の美しさ」を肯定したい前向きな意志が、強固に根をはっている。


そんな世界観の揺らぎを感じながら2時間ほどしか眠れぬままの朝、駅前のタクシーで「歴史の見える丘」まで運んでもらった。
Kimg2038とっくに足を運んだ人がいるだろうが、実は僕がいちばん来たかった場所である。さて、病院からここまで歩いて来られるのか? 頭の中の地図を、自分の足で実証してみた。画面の右隅にチラッと映っていた民家のあたりを下ってみた。なるほど、病院前に出た。
監督の「ここが歩道、もう一本下に車道がある」という言葉を、身体で感じている。
歩いているうち、絵の中の人たちに会えたような、手を合わせたい気持ちになった。企画のためではあるけど、呉に来たのは、弔いの気持ちも最初からあった。

通学時間なので小学生や高校生がいっぱい歩いていたが、ひとりの少年が僕に「おはようございます」と言った。僕も彼の顔を見て、「おはようございます」と挨拶した。
これまで気がつかなかった位相で、世界と関係を結びなおしたような、新鮮な体験だった。僕は感情的な人間なので、理や構造に憧れる。その憧れる意味というか効果を、今じわじわと感じはじめている。

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2018年9月10日 (月)

■0910■

土曜夜、常磐線で土浦へ。『この世界の片隅に』を2016年の公開日から休まず上映しつづけ41360643_1876478915779347_3309628_2 ている唯一の映画館・土浦セントラルシネマズへ行って日曜朝の上映を観るため、その後に映画館から離れた亀城プラザで開催される「『この世界の片隅に』ロケ地を見よう会」に参加するため。

どうしても朝10時の上映に間に合う気がしなかったので、土浦駅前のホテルに一泊して、朝8時に宿を出た。
映画館のあるビルに着くと、やにわに「廣田さんですよね?」と声をかけられた。『マイマイ新子と千年の魔法』の上映をつづけようと試行錯誤しているころ、いずれかの場所でお目にかかった方だった。「百人ぐらい並んでいたから、もう劇場を開けたんです。びっくりしますから、行ってみてください」とのことだった。
(その方は、上映後に「廣田さん、お疲れさまでーす」と、自転車で爽やかに去っていった)。
このラフな空気感、特にどういう層ともいえない人たちが勝手に集まって勝手に解散する感覚は、確かに『マイマイ新子』が這うように上映を継続していた2009年秋~2010年春に特有のものだった。
ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに忽然と現れた『マイマイ新子』のサンドブラスト製グラスを手作りなさった首藤睦子さんが、『この世界の片隅に』グラス()を持って駆けつけてらしたのだから、いよいよ空気感は『マイマイ新子』めくのであった。「この空気は、僕は知ってるぞ」という感じだ。
(首藤さんとは亀城プラザでお話しさせていただいた)


『この世界の片隅に』に関しては、こうした“現場”におもむくことは自分の役目ではないとサボってきたところがある。しかし今回は、12月にある企画を考えて、自分を『この世界の片隅に』の前に正座させ、没入させねば仕事にならない……という状況に追い込んだ裏の事情がある。

何十回と映画館で観ているファンの方たちにとっては常識であることを、今ごろ発見している自分には、特に書くことはない。今回は劇中の衣装がどのように加工されていくか、じっと凝視していた。すると、片渕須直監督が劇や絵の裏に埋設した何本ものロジックのひとつに触れることができたような気がする。

『この世界の片隅に』の原作をぼんやりと曖昧に脚色して、ひたすら泣けるだけの映画に加工することも可能だったと思う。
でも、監督がそれですませるわけがないことを、僕は2010年には確信していた。まだ『マイマイ新子』は今後どうすれば継続できるだろうねとマッドハウスの方と話している頃に、「ご飯を食べている席でする話じゃないかも知れないけど……」と、監督が原爆の威力について深掘りした話題を切り出してきたから。もちろんそれは「泣ける」話なんかではなく、研究者視点からの冷徹な考察だった。
情緒的な劇や絵が成立しても耐えられるだけの頑丈な骨組みが、まず縦横に組んである。その仕事に触れないと、この映画を知ったことにはならないのでないか。……そのような焦りと畏れは、僕の場合、2010年から継続していたことになる。


「『この世界の片隅に』ロケ地を見よう会」は、すずさんの実家のある江波編だったが、象41309177_1876768802417025_683209942 徴的なシーンがあった。ファーストカットに登場する建物(現存するものなので劇中と外観は異なる)の縁の下に片渕監督が潜り込み、そこから先が海であったことを確認する。会場に、どよめきと笑い声が広がった。
主催のブリンキーさん(@bulynkey)のカメラが、監督が見たものを追う。すると、やけに高さのある鉄骨が組まれており、建物はかなり高いところに乗っかっているにすぎないことが分かる。地面は大きくえぐれており、なるほどそこから先は海だったに違いないと、素人目にも分かった。

この映像は、なんと2014年に撮影されたものなので、映画は影も形もなく……いや、影も形も出来つつあったのだ。僕が原爆についての話を聞いてから4年も経過している。
その間に、膨大に資材が集められ、猛烈な勢いで骨組みが組み立てられていたのだ。


「ロケ地を見よう会」の会場に、今年になってインタビューや個展で何度かお会いしている青木俊直さんが、ごく当たり前に「お客さん」として来ているのにも驚いたが、50~60代になってもクリエイティブな現場の第一線に立っている方たちには、独特の胆力・脚力がある。
若い頃に淡白だった人が、中年になっていきなり貪欲になるパターンは、僕は見たことがない。とすると、僕が濃度60%程度の若者だったとしたら、中年になっても60%を維持できているから、いまだに仕事をいただけていることになる。

濃度200%、1000%ぐらいの人たちは、何をどうやって生きてきたのだろう? 片渕監督にも「いつ、何時間ぐらい寝てるんですか?」「ご飯はいつ?」と、ずいぶん不躾なことを聞いてしまった。
たとえば、サンブラストのグラスを持参なさった首藤さんは監督の高校時代の同期だそうだが、短い言葉の中にも、独特のバイタリティが感じられた。
遠慮していては人生がもったいない。どこにでも行って、誰とでも会って、何でも食べてみないと、何事も分からない。

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2018年9月 2日 (日)

■0902■

レンタルで三隅研次監督の『座頭市喧嘩太鼓』、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』。
Photo 『座頭市~』の冒頭、市が小屋の中にひそんでいる男を斬る。カメラは小屋の中に据えられており、小屋の戸口に立った市を撮る。市が小屋の中に踏む込むと、彼の姿は真っ黒なシルエットになる。シルエットのまま、市は飛び出してきた男を斬る。「斬る」という決定的な見せ場を、わざとシルエットで見せるのがスタイリッシュでカッコいいわけだ。
このシーン、時間設定は夜である。真っ暗な小屋の中からカメラを外に向けているのだから、外も真っ暗になりそうなものだが、雪を降らせている。雪明りで、外が明るい。だから、市の姿がシルエットになる。ワンカットをカッコよく撮るために、段取りを組み立てている。

とは言え、『
座頭市』シリーズは年二本のペースで撮影され、本作は18作目。 同じ三隅研次の第一作目『座頭市物語』ほどの切れ味はない。


『パリ、テキサス』は大学時代に観たはずで、中盤以降のいくつかのシーンはぼんやり記憶していた。今回はブルーレイを借りてきたので、その撮影の繊細さに、最初から最後まで陶然と見入った。
Mv5bn2mxmmnjmtktytc0zi00yta2lwjjotyほとんど夜といってもいいぐらいの、地平線にぎりぎり赤味が残った夕景だとか、駐車場の緑がかったライトだけの夜景だとか、わずかな光源で色彩豊かな画を撮るには高感度フィルムが必要だし、優れた撮影監督でないと不可能だろう。やっぱり、時間と金と技術を惜しみなく投入した映画に接するべきと思う。
撮影監督は、先日亡くなったロビー・ミューラー。この後、ジム・ジャームッシュの作品を何本か撮ることになるが、ジャームッシュはヴェンダースから譲られたフィルムで処女作『パーマネント・バケーション』を撮った……という、出来すぎたエピソードがある。


撮影のほかに特記すべきは、衣装デザイン。
Mv5bnge1nzlinzityzk2oc00mjhklwe1zdu冒頭で、ハリー・ディーン・スタントン
の演じる父親は赤いキャップをかぶっている。映画の後半、父親は幼い息子と母親探しの旅に出る。旅立ちを決めるシーンで、父親は赤いシャツを着ている。息子は赤とグレーのチェックのシャツ。モーテルで寝るときは、赤いトレーナー。
翌日、おそろいの赤いシャツと赤いトレーナーを着た父と息子は母親の乗った車を探し当てる。その車の色は赤。母親が働いているときに着ているカーディガンはピンクに近いが、まったく同じ色調では不自然だろう。ともあれ、離れ離れになっていた父・息子・母が赤い服を着ることで、心理的に近づきつつあることが分かる。

ラスト近く、父は息子をホテルにおいていくが、別れの時は赤いシャツではなくグレー。父親の残していったテープを聴いている息子も、グレーのTシャツに着替えている。
さて、母親はまだピンクの服を着ているのだろうか? なんと、申し合わせたようにグレーなのだ。登場人物の着ている服の色を合わせることでデザイン性が高まって、映画は抽象化していく。なんとなくありあわせの衣装を俳優が勝手に着てきたら色が揃ってしまった……というレベルではない。これが美術監督や衣装デザイナーの仕事なのである。
だけど、本当は色なんかで合わせなくても、映画の前半で登場人物たちが統一性なく着ている衣装だって、十分に趣味がいい。フィルム映えする衣装ばかりなのだ。


撮影がよくて、衣装がいいということは、つまり被写体を美しく撮ることに映画が傾いているとも言える。80年代ともなると、もう映画には壊すべき様式が残っていないから、映像を綺麗にするしかない。ジム・ジャームッシュがモノクロにこだわったのも、「映像美」を選択したに過ぎないと思う。
『パリ、テキサス』はシーン単位、カット単位の色彩と風景が美しいのであって、構図やカットワークが斬新なわけではない。斬新でありようがなかったし、その必要もなかった。

僕が大学に入った1980年代中期は監督ごとの特集上映が盛んで、レンタルビデオ店が爆発的に普及したころだ。漠然とした印象だけど、当時は「作家性=映像の独自性」みたいに言われていた。色をきれいにするか、面白い構図にするかしか、映画にやることは残されていなかった。SFXが劇的に進化したのも、映画の開拓すべきフロンティアが消滅したからじゃないかという気がする。

80年代は、僕も僕の周囲も映画通ぶって、新しい映画監督の名前を次々に口にしては「観たことあるか? 観なきゃダメだよ」と好みを披瀝しあっていた。ヒッチコックや黒澤明、ゴダールもトリュフォーもロッセリーニも、たくさんいる映画監督のひとりでしかなかった。レンタル店でも監督名でビデオが並べられたりしていて、ようは映画の歴史なんかじゃなくてデータの羅列にすぎなかった。
「どの映画監督が好きか」なんて、よりどりみどりのようでいて、それしか話題がないなんて貧しい時代だった。というより、自分の映画の見方が貧しくなっていないか、若ければ若いほど点検しなければならないのだと思う。


(C)1968 角川映画
(C) 1984 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH, ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH, PRO-JECT FILMPRODUKTION IM FILMVERLAG DER AUTOREN GMBH & CO. KG

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2018年8月27日 (月)

■0827 『ペンギン・ハイウェイ』■

映画公開から31年――。「王立宇宙軍 オネアミスの翼」展を前に、山賀博之監督の心境を聞く【アニメ業界ウォッチング第48回】
T640_773974記事中に出てくる“1987年、僕は渋谷の映画館で「王立宇宙軍」を見たのですが、外に出たら見慣れているガードレールや横断歩道が、まったく新しいものに見えました”、この一言に同意してくれたのは、なんと今回の山賀監督だけでした。31年間、『王立宇宙軍』についてはずっと孤独だったとさえ言えます。
何かコネがあったわけではなく、例によってぶっつけで取材依頼しました。


取材も打ち合わせもない平日なので、立川シネマシティで『ペンギン・ハイウェイ』。
Twitterでは、「おっぱい」「オネショタ」ばかり言われていて、森見登美彦さんのアニメ化作品は生理的に苦手なところがあって、「つまんなかったら途中で帰ってもいいや」って気分だった。
640_51/3ぐらいしか座席の埋まっていない劇場で、最初の30分は「いくら3D背動だからって、そのカメラワークはないだろ」「小学生役なら、ちゃんと子役を使おうよ」と、文句しか浮かばなかった。いじめっ子の描写には、最後まで疑問符がつきまとった。

だけど、憧れのお姉さんが謎のペンギンと関連があると分かるバス停のシーンから、俄然のめり込んだ。
端的に言うと、美術設定が良かった。終点だから、バスがぐるっと円を描けるような不思議な空間で、背後が山になっていて、水溜りができていて。
漆原友紀さんの短編マンガに、同じようなバス停が出てくる。既視感とノスタルジアを喚起する空間で、ちょっと寂しいところがいい。


だからといって、情緒で泣かせるような映画ではなくて、主人公の少年は徹頭徹尾、不思640 議な出来事をロジックで解析しようとする。最初から最後まで、一秒たりとも気を抜かない。ハードボイルドな主人公。
茶化しているわけではなく、彼には強固な研究心と哲学があって、どうすれば自分を含めた人類が今より利口になれて、どうすれば家族や友人が悲しまずにすむかを考えている。何とかして、今よりちょっとはマシな存在になれるだろうか、常に努力している。「子供なんだから無力に、可愛らしく描いておけ」って甘えや驕りがない。

少年のライバルとも言える、クラスメイトの女の子だって、自分のプライドや美学を侵害されると激怒する。かつては誰だってそうだったし、大人になった今でもそうあるべきだ。あの頃より、僕たちは怠惰になった。「大人と子供は違う」と線引きして、あぐらをかいている。
アニメって、大人だろうと子供だろうと女だろうと男だろうと、実線と色の面で描くしかない。そういう意味では、原理的に年齢性別の区別が発生しえないのがアニメの世界。大人も子供も、同じ材料から出来ている。
だから、アニメって子供をバカにせずに描けるわけ。そう考えていくと、大人の声優が子供を演じるのも、そんなに悪いことではないような気がしてくる。


アニメーションらしい動きのダイナミズムも、とても効果的だった。
Dll73uzuuaiuiji特にキービジュアルになっているペンギンの大群のシーン。シチュエーションとしては悲壮というか、無邪気に喜べないシーンなんだけど、それでも力強く進まないとダメな状況。そういうシーンでは、アニメって、物量を投入するしかない。いっぱい枚数を描くとか、背景を3Dでモデリングして動かすとか。アニメーターたちがいっぱい仕事すると、必ず画面の情報量が増す。
あと、少年が熱を出して寝込んでいるシーンでは、ちょっと画材を変えて違うテクスチャで見せるとか、実験精神も旺盛。たくましいし、図太い映画だよ。日常芝居は演出も含めて荒っぽいんだけど、ダイナミックで堂々としている。明日も明後日も、まだまだアニメをつくるぞ!って勢いだ。

なんで大人になっても、こんな独身のオッサンになってまで、平日にひとりでアニメ映画を観にいくのか? 何だか、『ペンギン・ハイウェイ』が答えてくれたような気がする。
アニメ映画って万人向けで、必ず親子で楽しめないといけないの? 親子連れは客席にいっぱいいたけど、オッパイ好きを隠さない主人公に、さぞかし気まずい思いをしただろうと思う。でも、作画フェチ的にオッパイが揺れるカットって、まったくなかったと思う。そういう、屈折したマニアにだけ目配せするシーンはまったくない。そっちの方向は向いてない。
さりとて、「夏休みのアニメ映画なんだから、親子を泣かせとけばいいだろ」って映画でもない。世界と対峙する孤独というか、いきなり「死」が怖くなったり、突如として「永遠」を意識するあの瞬間は、大人のほうが分かるだろう。

オタクの玩弄物でもなく、いま流行りの「泣かせアイテム」「SNS用の号泣自慢グッズ」でもなく、ド直球で「表現」を投げつけられて、昼間に観て、夜中になってもまだ呆然としている。それは、この映画に対して正しい態度だと思う。

(C)2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

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2018年8月25日 (土)

■0825■

モデルグラフィックス 2018年 10 月号 本日発売
Dlwgigov4aihjfq●組まず語り症候群 第70回
今回はエアフィックス社のエンジンのプラモデルで、ひさびさにメカメカしい雰囲気のページとなりました。

●ひそまそ実写化計画
アニメ『ひそねとまそたん』を実写化するとしたら……?というゴール不在の企画、第一回は東宝で特撮美術を担当していた長沼孝さんが、『ひそまそ』全話を見てどのシーンをどう特撮で再現したらいいのか、余談たっぷりに語ってくださってます。
CGは使わず、あえて昭和の技術にこだわっている点がポイントです。


レンタルでヒッチコック監督の『トパーズ』、ジョン・フォード監督の『黄色いリボン』。僕はやっぱり、ベテラン監督が円熟期に、時代を味方につけて手堅くつくった映画に惹かれる。

『トパーズ』は1969年の映画で、『サイコ』『鳥』で路線変更した後、スランプに陥っていた時期の作品だ。キューバ危機を背景にしたスケール感がヒッチコックには似合わないし、劇中で起きていることは難解だ。それでも、部分部分でハッとするような撮り方をしている。
She_wore_a_yellow_ribbon_trailer_2『黄色いリボン』の原題は“She Wore a Yellow Ribbon”、「彼女は黄色いリボンを着けていた」と、過去形である。騎兵隊が、隊長の夫人と姪を駅馬車の停車場まで護衛していく。姪はキリッと軍服を着て、騎兵隊のシンボルである黄色いリボンを髪に結っている。それだけで洒脱というかキュートというか、どれだけ品位のある映画か分かるでしょう?
確信したんだけど、ジョン・フォードは男たちは横に並べて、視線の高さ(アイレベル)で凡庸に撮っている。そして、女性だけが画面の奥から手前に歩いていくる特権を有している。「カメラ位置に対して特権を持たせる」ことで、登場人物に敬意をはらう。映画というメカニックだけで表明可能な美学ではないだろうか。


ヒロインである姪の登場カットは、彼女が建物の二階のベランダからひょいと下をのぞきこむ仕草を、アオリで撮っている。それまでの男たちのやりとりは、すべてアイレベルで横位置だったので、アオリで撮るだけで彼女が「特別な存在」だと分かる。優雅だし大胆だし、息をのむぐらい美しいカット。
僕は、映画のそうした機能、叙述方法が好きだ。びっくり箱のような種明かしで気を引く映画は……それこそヒッチコックが始めて、ヒッチコックが終わらせたのだと思う。彼が『鳥』を撮らなければ、ゾンビ映画というジャンルは生まれなかっただろう。

『カメラを止めるな!』に盗作疑惑が持ち上がっているそうだけど、ああいう構造で見せて感心を誘う映画ってよくあるじゃん……としか思えない。
『カメラを止めるな!』は、「低予算でもアイデア次第で面白い映画はつくれるんだ」「それを理解している俺たちって根っからの映画好きだよね」という共感の部分が大きいのであって、それ自体は良くも悪くもない。そして、盗作はいけない、いや盗作ではない……といった映画の外で起きていることに感心が集まったり、潔癖なまでのオリジナリティ崇拝が露呈するのも今日的だ。

そういえば、ワンカットで丸々一本の映画を撮るのは、70年前にヒッチコックが『ロープ』でやっているよね。『カメラを止めるな!』は手持ちカメラだからテクニックの方角が別なんだけど、原理的・構造的に劇映画の叙述法が70年前から大きく進歩したわけではない。それぐらいは認識しといても損はないと思う。

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2018年8月21日 (火)

■0821■

Jウィング 2018年9月号 本日発売
Dlcszsjv4aat83d●『ひそねとまそたん』特別企画 それゆけ!女性自衛官 特別編/岐阜基地 基地渉外室 甘粕ひそね 2等空曹
当企画にて、突発的に始まったJウイングさんの『ひそねとまそたん』短期集中連載はいったん終了です。
ひそねのインタビュー記事を掲載しよう、という話は最初の打ち合わせから出ていて(確か編集長からの提案)、たまたま「版権イラストに予算がいくらかかって納期はこれぐらい」と知っていた僕が、イカロス出版さんとワーナーさんとの間で話し合いをもってもらい、形にすることが出来ました。
予算とスケジュールの提案まで含めての「企画」です。

そして内容に関しては、自衛隊にパイプのあるJウイングさんが、航空幕僚監部を通じて岐阜基地・基地渉外室に取材申請しました。
誌面を見ると「ふーん」って感じかも知れませんが、それぞれが得意技を出し合って、4ヶ月じっくり準備して成立した企画です。僕は絶大な自信をもっています。

●「千と千尋の神隠し」に秘められた「解放への道」を、シーンとキャラクターから探る【懐かしアニメ回顧録第45回】
T640_773816いつも冗長になってしまうコラムなので、今回は簡素にまとめました。キャラクター自体が「道」であり「場所」であり、それゆえに束縛もするが脱出口にもなるという視点は、そんなに的外れなものではないはずです。
だけど、アニメ作品を深読みするとしたら、「カオナシの正体とは?」など謎本のような企画か「このシーンが好き!」といった共感を誘う感情的なものが受けます。画面を凝視して解析するというスタイルは、「流行らない」と断言できます。


アニメ作品の評論は、『新世紀エヴァンゲリオン』がヒットした95年以降、けっこう盛んだったはずです。氷川竜介さんがたてつづけに単行本を出して、新作旧作とわず分析や研究が盛んだった時期がありました。
それ以前、『宇宙戦艦ヤマト』ブーム下の1977年にロマンアルバムが発刊されて、設定資料・名場面・インタビュー・グラビアで構成するスタイルが生まれました。そのフォーマットに落とし込めば、どんなアニメでも書籍化できるんです。

今でもたまに、「各話解説」「各話レビュー」「インタビュー」でアニメ特集いっちょあがりな企画を見ます。『オトナアニメ』や『Febri』で、僕も手を貸していたから偉そうなことは言えない(笑)。ああいう記事に、カットワークや作画のことを書くと、編集部にいやがられるんです。解析ではなく「思い」を書いて共感を得ることが、あの手の特集だけではなく、レビューの目的になってしまった。プロの映画評論家すら「ただただ、泣いた」と書いてしまう時代になった。
図書館で映画評論の本を探すと、構図の効果だけひたすら研究したり、フィルムからカメラ位置を割り出してる人もいます。アニメ研究家は何人もいらっしゃいますが、専門知識なしには出来ないものなんです。ただ、ネットというかSNS的には流行らない。
「流行なんて関係ねーや」という気持ちに、最近ようやくなれました。流行らなくても、本当に自分が面白いと感じたことだけを解説していこう。


もうひとつ気になっているのは、ロマンアルバム的な書籍に「公式」と銘打たれるようになったこと。「公式」って言葉には権威を感じられるから、出版社も読者も安心なのでしょう。
企画者や編集者が絶対の自信をもっているなら、「公式」という言葉に頼らなくてもいいはずだと、僕は思います。世の中全体、与党精神が衰えてますよ。

「公式が認めたんだから間違いない」って考え方が芽生えたのは、ここ十年ぐらいでしょうか。あと、仕事がらみで「~様」を誰もが乱用するようになりました。僕だったら「アキバ総研様に記事をご掲載いただきました」とでも言えばいいんだろうか。仕事って、発注側も受注側も対等の関係のはずですよ。いったい、誰に何を遠慮しているのか。やっぱり、波風たてず穏便に……という世相なのでしょう。
心からの敬意と感謝をかんじたときは、僕も「~様」をつけるでしょう。だけど、何かの保障のように「公式」「~様」を連発すると、当事者意識が逃げていく。空虚な世間体だけが残るような気がしています。

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2018年8月17日 (金)

■0817■

吉祥寺オデヲンで、『カメラを止めるな!』。平日昼間なのに、超満席。映画の途中から笑い声が大きくなってきて、ガヤガヤしながら映画を観るのは楽しい体験だった。
640_2僕はギャグよりも、Aパートで感じた「おいおい、なんでここでカメラが動かなくなったの?」「これ、フレーム外で役者を待機させてるのがバレてるよ?」などの疑問が、Cパートでひとつ残らず拾われているのに感心した。映画の現場に身を置いていないと分からないディテールを、ロジカルに組み立てていて、そこが良かった。

ただ、これをさも画期的な映画、新しい映画のように評価しているとしたら、かなり違和感をおぼえる。
「映画の映画」なんてトリュフォーの『アメリカの夜』があったし、フェリーニなら『8 1/2』、あまり有名ではないけど『王様の映画』とか、メジャーどころでは『アルゴ』『ウォルト・ディズニーの約束』なんかもその範疇に含まれるんじゃない? 『ホーリー・マウンテン』のように最後で撮影クルーをフレームに入れてしまう映画もあるし、ゴダールなんて、ほとんどの作品で「映画であること」をバラしながら撮ってるよね? 
低予算・少人数のフェイクドキュメンタリーといえば、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』があったし、僕は小中千昭さんが脚本を書いたVシネマ『ドラッグレス』を思い出した。
時系列を置き換えて事実を明らかにしていく構成は、『メメント』や『レザボア・ドッグス』など、シネフィルが熱烈に愛するスタイルだよね。映画好きなら、食いつかないはずがない。

映画の舞台裏をモチーフにした映画は、もっともっといっぱいあるはず。決定的に違うのは、映画をとりまく環境だと思う。


何年か前のラジオだと思ったけど、コメンテーターが「私はこの映画を見て泣いたんです」と話していて。「どこが良かったんですか?」「いえ、分かんないんですよ。でも自然に涙が出てきたんですよ!」と力説していることがあって、いまの映画の評価って、ほとんどそうなっている。
640_1『カメラを止めるな!』だったら、「とにかく見てくれ」「何を言ってもネタバレになるから」という勧め方が大半。勧めること、勧められて観にいくことに最大の価値がある。映画単独をソリッドに評価することには意味がなくて、単館上映から全国に広がりつつあること、低予算だけど工夫して撮ったこと、お互いに「とにかく見てくれ」と言い合うことが『カメラを止めるな!』のボディ、本体なのだと思う。

そして、それは『カメラを止めるな!』が正当に評価されてないのではなくて、もはや一本の映画を、作品をとりまく独自の環境や情報と切り離して評価することの、価値や意義が消失しつつあるのではないか。
『カメラを止めるな!』は、「実はたいした映画ではない」「よくあるシネフィル向けの映画」とは言いづらい空気に置かれており、なぜかというと、その“空気”にこそ価値があるから。繰り返すけど、『カメラを止めるな!』だけでなく、リアルタイムで劇場公開されている映画はすべてそうなっているのではないか。
『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』が賛否両論になった昨年末、Twitterではアカウント名の後ろに「@最後のジェダイ」とつける人が数え切れないほど大勢いた。映画そのものではなく、「映画を観た」個人の体験、映画との関係性に価値が置かれている。


ディズニー・アニメ『モアナと伝説の海』には、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にヒントを得たシーンがある。公開時、「『モアナ』を観にいったら、『マッドマックス』だった」とツイートするのが流行った。「○○を観にいったら××だった」、その情報をツイートすることに価値が置かれている。たとえ映画を観ていなくても。

だから、一本きりの映画を純粋に楽しもうとしたら、情報のまとわりつかない古い映画を観るしかない。僕がゆうべ借りてきた映画は『スティング』だ。半世紀近く昔の映画だから、誰にも邪魔されずに楽しむことができる。
僕はこのブログで、いやってほどカメラワークや構図の効果について語ってきたけど、今日びそんなものは流行らない、ジジイの趣味だよ。もういいんだよ、それで。「廣田さんから見て、あの映画はアリですかナシですか?」「百点満点で何点ですか?」「それ言うと、ネタバレになっちゃうけどいいですか?」って、うるせえよ。俺はカメラワークや構図だけを、偏執的に味わいたい滅びゆく民で結構だ。そのほうが自由だし楽しいから。

(C)ENBUゼミナール

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2018年8月15日 (水)

■0815■

EX大衆 9月号 16日発売
Dki1giiuwaexqqo498x640●現在進行形『ゲゲゲの鬼太郎』を見よ!
放送中の『鬼太郎』について、誰にインタビューしたいのか聞かれたので、『地球少女アルジュナ』DVDブックレットで何度も原稿をお願いした脚本家の大野木寛さんに取材させていただきました。
この仕事は『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を企画・編集してくれた編集者の依頼なので、彼が決めた文字数どおりに納品して、以降はデザインも見ないし構成もおまかせです。
僕の仕事は「ライター」から逸脱しつつあるけど、いつでも雇われライターに戻れるフットワークも、生存戦略には必要です。


レンタルで、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』。
Graduatecovre01967年、トリュフォーやゴダールのデビューから10年と経っておらず、彼らと同世代の映画といってもいい。ヌーヴェル・ヴァーグより明らかに金はかかっているが、実験精神では引けをとらない。
アップの手持ちカメラで情報をそぎ落として臨場感を出したり、カットが変わるとアクションは連続しているのに時系列の異なるシーンへ繋がっていたり、不自然なズームバックで感情表現したり、全編、突拍子のない演出で生き生きとしている。


ただ、やはり映画が新しく更新されつづけていたのは、70年代初頭のニューシネマまで。以降は、SFXやCGによって被写体が変化しただけで、ドラスティックに映画の話法が書き換えられてはいない。アジア映画は活性化したが、それは経済面の話、世界市場に進出したという話だ。映画作家自身は、それぞれの小さな戦場でゲリラ戦を展開している印象がある。
タランティーノがウォン・カーウァイにラブコールを送っていた90年代中盤、ミニシアターの全盛期、ようするにああいう同人的な時代が今もつづいている。映画は組織力や政治力を失った。日本でいうと、ATGはムーヴメントを起こすことが目的の政治活動だったと思う。


ようやく時間に余裕が出てきたので、吉祥寺オデヲンで『未来のミライ』。不入りだと聞いていたが、半分ぐらいの客席は埋まっていた。興行的には下落の一途ではなく少しずつ持ち直していると聞く。
640エンドロールを見て呆気にとられたのは、関連企業の多さだ。こんなにがんじがらめに多方面からの利害が絡んでいるのに、作品の個性を維持しつづけるのは至難の業と思える。「細田守はケモだ、ショタだ」と下卑た感想をつぶやけるのは、奇跡といってもいいほど幸せな状況であって、どこの誰がどう細田監督を守っているのか、おおいに気になる。だが、その人が誰なのかおいそれと探り当てらないのが、今の商業アニメなのかも知れない。もし取材しようとすれば、三重四重に東宝のチェックが入るだろう。

細田守はあいかわらず、どこを切っても細田守。『デジモンアドベンチャー』からずっと。観客には、好きか嫌いかの選択肢しか残っていない。好き嫌いだけで語らせてくれるのって、やっぱり甘やかされているといってもいいぐらい、幸福な状況だ。
(裏を返せば、現場や作り手の生の言葉や状況が届きづらい環境なのかも知れない。)


たったひとつの家族、4歳児の主観だけで成立した小規模な映画だ。
640_1構図はフラットなのに、階段状の住居が画面に奥行きを与えるし、成長とか退行といった抽象性を帯びたりもする。中庭が、4歳児だけに知覚可能な異空間と化すアイデアは面白いと思った。その異空間のルールが何度も改変されて、その破綻ぶりも『時をかける少女』から変わっていない。
美術が良かったのだが、美術をいくら誉めても、作品にとってプラスに働くとは思えない。作画が、キャラデが声優が……といった各論は、もはやアニメ作品の本質ではない。アニメが世の中に評価されていなかった頃は、どんなディテールも評価の対象になったが、今は違う。

絵が綺麗なのは当たり前。綺麗で、そこそこ泣けるやつ。家族とか恋愛の美しさを謳ったやつ。ひょっとすると、大作アニメにはそれしか求められていないのかも知れない。
『未来のミライ』がいいとか悪いとかっていうセコいレベルの話ではない。世の中から求められるアニメがどんどん口当たりのいい無害な映画に希釈されているとしたら、あまり明るい気持ちにはなれない。

『未来のミライ』には、僕は好感をいだいた。だけど、その好感ってやつが曲者なのだ。

(C)Rialto Pictures
(C)2018 スタジオ地図

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2018年8月12日 (日)

■0812■

ご当地でしか手に入らないプラキット、“ゴトプラ”って何だ!? プレックスのデザイナー、坂尾重紀さんに聞いてみた!【ホビー業界インサイド第38回】
T640_772569ゴトプラを開発した坂尾さんは知り合いの編集者から何ヶ月か前に知らされていて、僕から独自にコンタクトをとっていました。おかげで、情報解禁の直後に最速でインタビュー記事を掲載することができました。


プラモデルといえばガンプラと即断される中、ノンキャラクターのプラモデルを売っていくには知恵とセンスが求められます。
ゴトプラは誰でも知っている建物と漢字を組み立てキットという構造でつないだわけですが、では東京タワーは誰がいかにして広めて、大阪城をビジネス化するにはどんな環境が必要だったのか、思いを馳せずにはいられません。「売る」とは、どういうことなのか?を考えざるを得ないわけです。

今回はプレックスの営業さんが記事露出のタイミングを図ったおかげで、記事は普段より読んでもらえています。
一方で、僕が特集を担当したホビージャパンエクストラは書店においておらず(僕も地元では一度も見てません)、ビジネスチャンスを逃しています。卑近な例でいうと、そういうことです。
ガンプラ以外のプラモデルがガンプラほど売れてないのは何故なのか、真面目に考えてる人は少ないのでチャンスだとも言えます。僕にできるのは本をつくることなので、山ほど企画はあるしアイデアは尽きないし、いくつか実準備に入っていますよ。


ようやく、ひさびさに映画をレンタル。トム・ハンクス主演だから、それなりに見ごたえあるのでは?と、知識ゼロで借りてきた『王様のためのホログラム』。
640妻に別れられたサラリーマンが、サウジアラビアの砂漠に仕事で飛ばされる。環境は苛酷だが、彼は美しい女医と知り合い、ストレスを脱していく。例によって、文学レベルのストーリーは僕には把握できなかったし、ストーリーが映画の面白さを左右するとは思えない。

会社のリムジンを下ろされたトム・ハンクスが、呆然と砂漠に立ち尽くす。『北北西に進路をとれ』の飛行機に襲われるシーンのような不条理さが感じられる。砂漠にカメラをすえた瞬間、映画は地平線に支配される。構図が制約をうけることに、反発するか従うか。
そういう話が好きなのに、映画好きを名乗る人から構図の話を聞いたためしがない。


砂漠に立ち尽くすトム・ハンクスの背後に、古びたショベルカーが見える。カットが切り替わると、トム・ハンクスは振り返って、「やあ」と挨拶する。誰に挨拶したのだろう? カメラは、ショベルカーに少し寄る。そこには、ショベルカーの錆の色と同じぐらい汚れた作業服を着た男が座っていたのである。
最初のカットで、僕らは作業服の男を見落としていた。だが、主人公は気がついていた。3カット目で、僕らはようやく監督の目論見に気がつく。この3カットの間で、情報が増えたわけではない。実は、1カット目と3カット目は同じ構図だ。
最初のカットを装飾するように、トム・ハンクスの演技、作業服の男に寄ったカットが足されていく。「実は、ショベルカーに男が座っていたのだ」という情報を、別の角度から説明しているにすぎない。

文語的に言うなら、それは「ショベルカーが働く必要もないぐらい、運転手が暇そうに休んでいるぐらい閑散とした職場を表現している」ことになる。映画レビューや映画評論は、いつも文語的な結論ばかり口にする。
だが、分解しなければ映画ならではの機能を解読することなど出来ない。カットを重ねることで、他人行儀だった映画は、僕らの認識と寄り合わされていく。その過程はエキサイティングだし、機能的に洗練された映画は本当に美しいと、僕は心から酔いしれる。その瞬間を、僕は待ちわびている。ストーリーがどう落着するかなど、本当にどうでもいいことだ。

(C)2016 HOLOGRAM FOR THE KING LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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