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バサラの痛み、ミレーヌのとまどい……「マクロス7」第5話は、最終回へ向かって静かに走りはじめる【懐かしアニメ回顧録第90回】) 
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最近、ちょっと恐ろしい本を読んだ。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』。若い世代は、ウェブ配信で映画を見るとき、さっさと「ネタバレ」で検索して何が起きるのか理解してから、よけいな間を省略して観るのだという。
何が恐ろしいのかというと、「まあそうだろうな」と納得できてしまうからだ。よほど引き込むような演出を使っていないかぎり、ついスマホに手が伸びてしまう。さすがに、飛ばして見ることはしないが、途中でストーリーをGoogle検索して、誰が何をしているのか確認することはある。
しかし、登場人物が誰でどうなのか、意図的に曖昧にしている場合があったり、また、誰が誰だか分からないことが映画の印象を独自づけたりするのだから、これは勧められたことではない。ところが、食い入るように見たとしても、映画の本質は「記憶」へと遠ざかってしまう。「このカットに感心したんだ」と伝えるには、画面をキャプチャするか、上にリンクしたような評論風の読み物にして留めておくしかない(果たしてそうなのか……手元で、「ホラここのカット繋ぎを見てよ」と説明することが、今ならいくらでも可能なのに?)。

10年前に観たときはさっぱり分からなかった映画が、勉強をへた現在なら、ストンと腑に落ちたりする。若いころの出鱈目な“感性”とやらを恥じるし、知識も経験もない未熟な「感動」の薄さに気がついたりもする。一方で10年後、20年後の自分がいま知っている映画をどう理解するか、楽しみでもある。


しかし、『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ』で感じた本当の恐ろしさは、何十年前にもいたであろう無能で不勉強な若者たちが、ネットの時代、バカはバカなりの卑怯な手段で勝ちに来ている……という点だろう。
ツイフェミもそうだが、彼らは事実を精査したりなんてしない。「話」を「話し」、「裁判沙汰」を「裁判駄々」などと書いてしまう人もそう。伝わりさえすれば、間違っていようと事実でなかろうと、今の感情が絶対優先という人たちとSNSは相性がいい。「事実はどうであれ、私は傷ついた」「私が傷ついたことは事実」、これで相手を謝罪に追い込むことが出来る。
炎上に参加して社会的強者を殴っている人たちは、自分で情報を探してきたりはしない。あいかわらず、そこは勘のいい有能な人たちに丸投げで、彼らの成果にだけタダ乗りしようとしている。そもそも社会で認められていないので、「信用を失う」なんてこともない。学ばない人たちの刹那的で破滅的な態度が、僕はおそろしい。

よく気をつけて勉強しながら生きていかないと、見苦しく堕落してしまうということだ。人間は、自分で自分を騙す。警戒しないと、愚かな流れに飲み込まれてしまう。


先週水曜は静岡へ行って、ホビーショーに参加。伝説のプラモデル設定者、村松さんと飲んだ。
翌日、静岡県立美術館へ。ロダン館の「地獄の門」の迫力に圧倒された。
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昨日、土曜日は神楽坂の廃ビルに特設された美術展「惑星ザムザ」。その後、天王洲アイルまで行ってWHAT MUSEUMへ。「建築模型展ー文化と思考の変遷ー」と「OKETA COLLECTION 展」。
曇っていたが、テラス席でビールも飲んだ。


最近観た映画は、『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』、『漁港の肉子ちゃん』、『バクラウ 地図から消された村』、『トキワ荘の青春』、『ドライブ・マイ・カー』。

『漁港の肉子ちゃん』の作画が、圧倒的に凄い。「まだアニメには、こんな表現力があったのか」という驚き。
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一方で、おそらくチック症という設定なのだろう、誰も見ていないと発作的に変な顔をしてしまう少年の表現がグロテスクで、かなり怖い。何かのアクシデントで、映ってはいけないものが映りこんでしまったような感触さえする。そういう行き過ぎた表現も含めて、芸能人が企画したアニメにしてはオーバースペックの異色作。すべっていて、意図の伝わらない部分まで含めて、表現として力強い。
そして、ろくに観てもいない一般人から叩かれるのは、まさしく「芸能人が関わっていないと見ない」「普段は地上波テレビしか見ていない」層に届いた証拠ではないだろうか。そうした、「バカに伝わる」事態を恐れてはならないのだと思う。世の中の七割は、ろくに調べもしない向上心のない「バカ」だと覚悟しよう。

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2022年5月 8日 (日)

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ゴールデンウイークなどの連休は家でじっとして、平日に出かけたいのだが、いろいろ事情があって、まず前半は三菱一号館美術館、昭和館へ。後半は国立科学博物館、アーティゾン美術館へ行った。その合間に喫茶と夕飲みを織り交ぜた。
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すると、休日にしか飲食店に来ない人たちと出会うことになる。混んでいるのに、ひとりで4人席を占有する人、お冷を追加するどころかペットボトルの飲料を取り出してまで長居する家族もいる。
そうした人たちを見ていて思うのは、ようするに彼らは「タダ」で「得する」ことばかり考えているのでは……ということ。お金のかかる飲食の時間ではなく、無料サービスの水だけ飲んでいる時間は「タダ」である。お金を払っていないから、遠慮を忘れて強欲になる。スーパーで、無料で置いてある割り箸やビニールを山ほど持っていく人がいる。あれと同じだ。
いつも自分は損しているという実感があるから、その不公平感を手軽に払拭しようとして、「タダ」の物品や時間にたかる。クーポン券、サービス券は貧乏人に「得している、取り返している」というドリームを与える。逆を言うと、クーポンやポイントカードを使うほど貧乏な感覚が身についてしまう。


僕がいつも気にしている歩きスマホも、彼らが歩いている時間を「タダ」と捉えているのであれば、なんとなく説明がつきそうだ。
「タダ」で過ごせる時間なのに何もしないのは「もったいない」、だから、その場で現金をとられるわけではないスマホアプリで使いつぶそうとする。駅のホームから電車が発車しそうになると、あわてて駆け込む人がいる。あれも「損したくない」感覚のあらわれだろう。
つまり、「どっちにしても同じなら、スマホで楽しい思いをしたり早い電車に乗れたほうが得だろう」という考えが身に染みてしまっている。「タダ」を何かで埋め尽くそうとする焦りこそが貧乏の本質なのだ。だから僕は、同じ場所にタダのベンチとお金を払わないと座れない店舗のテラス席があったら、お金を払うほうを選ぶ。「タダ」は焦りを生み、人を厚かましく、はしたなくする。(ポイントの溜まる店にばかり行くなど)「タダ」にこだわるから選択肢が狭まり、気持ちに余裕がなくなり、貧乏になるのだ。

かなり以前に、「歩きスマホしている人はポケットからお金がこぼれ落ちても、気がつかない人」と書いた。
あるいは、「人にぶつからないよう気をつけて歩く」という余計なタスクを自分に課したうえ、実際のリスク管理は他人に丸投げしている。絶対に仕事では関わりたくない相手である。


『月曜日のたわわ』炎上に関して、プロ奢ラレヤーという人が回転寿司を例えにツイートしていた。
“不快な広告のはなし、「すごく納豆が嫌いなひとでも、回転寿司で納豆が流れてきたときに『嫌いなんです!流さないでください!』なんて言わない」という共通認識がくずれて、せかいのすべてが私の私物!わたしの為のせかい!わたしが不快なものはすべて犯罪!みたいに自我が膨張した妖怪のはなしっぽい”

この誰でも乗っかりやすい例え話に、ツイフェミ(?)の人が頭の悪い返事をしていた。
“女は回転寿司に流れたくないし、そもそも寿司じゃないのに、「お前らは消費される寿司なんだ」って言われて勝手に流されたいことにされたり無理矢理コンベアに乗せられるからふざけんなクソって言われんだよ。”
あまりに文脈を読み間違えているので「……え?」と首をかしげてしまうが、この人のプロフィールを見たら「カナダ在住」「翻訳者」となっていた。何年か前は「そうか、海外で仕事している人なら、俺の知らない経験や知識をいっぱい持っているんだろうな」と一目置いていたところだが、自己愛性パーソナリティ障害について調べていくと、彼らは「そんな嘘ついて空しくないの?」というぐらい、自己粉飾のため誇張した嘘をつくと分かる。信用してもらうには実名を出すなり「コスト」「リスク」が必要なはずだが、彼らは何でも「タダ」でやり過ごそうとする。

そういえば、広告も「タダ」で見られて、どんな貧乏人でも簡単に「客」になれるので、いつも損ばかりしている底辺がここぞとばかり文句を言うんだろう。貧乏というのは、そうやって「タダ」につけいって、あれもこれもと強欲に取り返そうとする心理のことだと思う。


さいきん観た映画はブニュエル『忘れられた人々』、ロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』など。

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2022年5月 1日 (日)

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「機甲創世記モスピーダ」のレギオス・アーモダイバー(イマイ)を組み立てたら、“中間形態”ゆえの不安定さにクラクラした!【80年代B級アニメプラモ博物誌第21回】
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今月の素組みは、『モスピーダ』のアーモダイバーです。


少し前に、「自己愛性パーソナリティ障害の呼び名が使いづらい、もっと的確で手軽な呼称がないか」と書いた。
漫画や広告を吊るし上げるツイフェミの人たちも、ほとんど自己愛性~で解説できてしまう気がしている。高校のころ、痴漢を捕まえたら相手は大企業の社員で、謝りに来たという話をTwitterで読んだ。
確かに日本社会に痴漢は多く、嫌な思いをしてきたことは分かるのだが、途中で「はっきりいうけど、大学は海外に行ったんだよ」という話題の切り替え方をしている。本当の話なら「はっきり言うけど」なんてもったいつけなくてもいいと思うのだが、留学したとか英語が話せるとか外国人の友人がいる、海外で働いている系の見えすいた自慢はフェミ……というより、自己愛性~の人にすごく多い気がする。
「実は自分は凄いんだ」「学業が優秀だったんだ」と隙あらば注釈を入れざるを得ないのは、社会に対して「役に立っていない」というコンプレックスがあるからじゃないだろうか。それでいて、プライドが高くてバカにされたくないから「なめんなよ!」とネットでイキるしかなくなる。

男性フェミニスト(?)のシュナムルさんの発言でも、「こんなに専門的で難しい話を娘に聞かせてやっている知的な俺」に陶酔している様子が、あちこちに顔を出す。いかに知識が多くても、そうやってTwitter上での自慢話にしたとたんに安っぽくなることが分かってない。……いや、分かってはいるんだけど、自分の夢想する「理想の自分」を維持するため、「生身の自分」を犠牲にしているというべきか(もし娘さんが実在するなら、父親が自慢するダシに使われて可哀そうな気がする)。
結果、現実の自分はほったらかしで理想だけが際限なく高くなっていく。せめてネットで勇ましい自慢話をして現実を忘れるしかない、それが自己愛性~の悲劇だと思う。
「ありのままの自分が好き」なのではなく、「過剰に理想化された自分が好き」なので、相手を自分の幼稚な幻想に巻き込もうとする。


先ほどの「痴漢を捕まえた」ツイートで勉強になったのは、「二次被害になるので痴漢被害者の連絡先は被疑者には教えないはずなので、警察の人が悪いんじゃない?」と、冷静に矛盾をついてきた人がいたこと。
それに対するツイート主の答えは、「父と今話をしていたのですが、父の記憶は警察から弁護士があって直接謝罪をしたいと言ってるが、私が未成年だし当事者なので親が代理でみたいな話から連絡が来たと言っていました。」
「いま父と話をしていた」って、後から設定を付け足したにしては、あまりにも苦しいでしょう……というより、いかにも取ってつけた言い訳だと自分では思わないのだろうか? 自己愛性~の人は、あからさまな嘘を相手に呑ませる傾向がある。「これ以上疑うなら、あなたも加害者だ」などと相手に罪悪感を抱えさせて、自分が身軽になろうとする。

「信じてもらえないなら、まあ仕方ないか」と、大きく構えることが出来ないんだよね。「いつ、どこでボロが出るか」「ちゃんと自分の期待どおりに他人が評価してくれるだろうか」と、いつも張りつめていて息苦しい。だから事前に、自慢話で防御せざるを得ないわけだ。
「もうちょっとうまい同調の仕方あるじゃん、勉強になりますーでもお詳しいんですねーまだまだ女性差別は根深いですねーでも。なんでこんな融通聞かない頑固親父みたいなリアクションしかとれないんだろ。」
これはシュナムルさんに対する感想だけど、まさにこれ。融通がきかない。自分が悪くなくても軽く謝罪しておくとか、その場を気まずくせずに自分が多少は損をするような大らかさがない。フェミというより、自己愛性~の人たちの特徴。自分が少しでも折れたら負け、という狭量さ。「まあ、いいか」「別にいいですよ」と、自分や他人を許せる優しさこそが、人生を豊かにするのだと思う。

※メモ
“だから反出生主義でもフェミニストでもないんだってば。自分が得ることの出来ない「幸せ」とされてるものすべてを否定することで、自分を救おうとしているだけの人達なんだってば。目的がそこなの。正義じゃないの”


ほぼ2~3日に一度は、夕飲みに出かけている。陽気がいいので、電車に乗ってまで飲み場を探してしまう。
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都内某所……とだけ言っておくが、イベント参加のために泊まったホテルから二駅。以前に時間が合わなくて入れなかった店の前に、開店時間と同時に着いた。庭園に隣接しているので、ビニールカーテンの向こうは夢のような夕暮れの光景だった。

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2022年4月24日 (日)

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おとなが愉しむ プラモデルの世界
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セブンイレブンで発売されているムック本。監修・執筆を行いました。
お勧めキットのセレクト、各メーカーさんへのサンプル送付のお願い、画像の申請、取材の申請、撮影のディレクション、とにかく何でもやりました。静岡コーナーと田宮俊作さんのインタビュー、店舗ガイドなどは他のライターさんです。
ぴあのディレクターのほか、編プロさん、構成などを考えたライターさんとはリモートで定例会をもち、ほんのたまにお会いして一緒に取材したりしました。何でも意見できて、のびのびと仕事のできる優れたチームでした。誰かのミスは、必ず誰かがキャッチしていました。
そして、ストレスをためずに自由に仕事ができて、十分なギャラを得られた経験は、真っ青な空のように自分の人生を照らしてくれます。

アニメ業界の新人たちに必要なこととは――? アニメーター・コーチ、小島昌之さんに聞いてみた【アニメ業界ウォッチング第88回】

釣りファンも模型ファンも注目、「ルアープラモ」をつくった老舗の金型メーカー、株式会社マツキさんに人気の秘密を聞いてみた!【ホビー業界インサイド第80回】
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目の前に川の流れている下町の工場と呼ぶべき金型メーカーさんに、取材してきました。模型専門誌が拾わない小さなニュースは、しっかり僕が取材していきます。


19日(火)は新宿に前泊して、初台の東京オペラシティアートギャラリー、「篠田桃紅」展へ。
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無意味に思える抽象的な描線を、何とかして動物や人間に解釈しようとするのは、僕の認識力がそのように慣らされているせいだろう。抽象画を見ることは、その脳の慣れを排除することだ。
やがて、力強い描線が普段は眠っている深層へと訴えてくる。それは僕たちが無意識野に押しやっている、言語化未満のかすかな記憶だ。たとえば、若いころの強烈な思い出を正確に記述しようとすると、「こんな人と会った」「こんな事があった」といった物語的な出来事ではなく、色や模様で表現せざるを得ないのかも知れない。それが生きる、感じつづけるということではないだろうか。
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アートギャラリーはコレクション展も充実していて、中西夏之の絵もあった。こうした絵は目覚める直前の混濁した意識、遠すぎて思い出せない記憶の再現に思えてならない。
この日、中野までのバスが出ているのに気がついて、見知らぬ通りをバスに揺られて、放浪の人生を送っているかのようなゾクゾクする気持ちを味わった。


水曜日はスタジオで撮影、木曜日は吉祥寺まで裾上げしてもらったパンツを取りに行って、帰りに松月でビールを一杯やった。
金曜日は根津美術館へ、「燕子花図屛風」展へ。
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屛風絵は、立体的に展示するのでディオラマ的な表現だ。そのグラフィカルなデザイン性に、興味をそそられる。そして、人の大きさに合わせて描くので、実物を見ないと評価ができない。
すばらしく天気がいいので、ひさしぶりに海へ向かう。竹芝近辺のレストランは、ホテル併設で料金が高すぎる。なので、台場で以前によく利用していたレストランへ行った。
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中東系のウェイターが、「予約席ですけど5時までなら使っていいですよ」とテラス席に座らせてくれた。安いし、信用できる店だ。
家族連れが、ワインをあけて賑やかにパーティを開いている。しかし、海側はおそろしいほどの静寂で、その鮮やかな対比に「永遠」を感じる。誰にも邪魔されない、完全な自由。
しかし、お会計のときに大学生のような若い男たちが、だらしなく座ってビールを飲んでいるのが見えた。うるさくしないのは別にいいのだが、こうまで安いと色々な層の客がテラス席で飲みたがる(平日だったのだが)。なので、自分だけの特別感が薄れてしまうのだ。


翌日の土曜日は朝から打ち合わせで、昼からは自由なので、てきとうにバスに飛び乗った。この解放感!
しかし、夏のような気候の中、昼飲みの場所を探すのは手間取った。まず江戸川橋で地下鉄に乗り換えて、三田駅で降りた。御成門の近くの高層階にあるレストランがホテルに併設で、あまりに金額が高かったからだ。駅からすぐの居酒屋にテラス席があるというのだが、そこは雑居ビルの踊り場のような場所で、お世辞にも眺めがいいとは言えない。
そこで、そこから10分ちょっと歩くが、以前にマークしておいた運河沿いの店を訪ねてみることにした。
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駐車場もあるが、とにかく空いている。入ってすぐのところに、子供向けのくじのような物が置いてある。近くに高層マンションが多いせいか、よく子供連れが来るようだ。
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テラス側は川沿いの遊歩道に面しており、なんと船から来るお客さんもいた(調べてみたら、隣にホテルがあった)。
とても静かで、僕の後ろに近所の親子連れが来て、子供はアイスクリーム、お母さんはアイスコーヒーだった。店員さんは、とても親しそうに話しかけていた。駅からは歩くが、近所の人に支えられているのだろう。開店一周年だそうだが、きっと長く愛されるだろう。

グーグルマップを見てみると、以前に倉庫街を眺めながら飲むために行ったバグースバーが近い。歩いて行ってみることにした。
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ところが、この写真より一段低いところに、遊歩道と混じり合ったようなベンチ群があり、そこで外国人たちが酒盛りしていた。アベックで、缶ビールか何かを傾けている人たちもポツポツいる。
以前の僕なら、彼らをタダで楽しんでいる人として軽蔑しただろう。しかし、彼らの席の方が運河に近い。なぜか、あれはあれで楽しいんだろうな……という気持ちになった。前日の、アクアシティお台場5Fのレストランは、テラスの向こうが空だけだったので陶酔感が決定的に違う。その時その時の気分にもよるのだろう。


最近観た映画は、ゴダール監督『女は女である』、ジョディ・フォスター監督『マネーモンスター』、『ガス燈』、『にがい米』、『山河遥かなり』。
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『にがい米』が、圧倒的にリズミカルで躍動感があって面白かった。
厳しい労働に耐えている女たちが、一斉に反乱を起こす。
田んぼで腰を曲げて働いていた女たちが、申し合わせたように手を止めて腰を伸ばす。次のカットでも、別の女たちが腰を伸ばす。監督している数人の男たちが、同じタイミングで振り返る。次のカット、また女たちが手を止めて腰をのばす。別の監督役の男が、振り向く。次のカット、もたしても別の女たちが腰を伸ばす。
ここでようやく、男が「仕事を続けるんだ」と怒鳴るが、それまでまったく台詞がない。女たちが手を止めて曲げていた腰を伸ばす、そのミュージカルのような演技の積み重ねだけで、反乱が起きたことを示している。こういう機能的なシーンを、いつも探している。

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2022年4月15日 (金)

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EX大衆 2022年5・6月号 本日発売
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“ファーストガンダムの隠れた名作が映画化! いま、新たな1ページが開かれる 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』考察ガイド”、特集記事を執筆しました。ザク研究、映画化されなかったベスト・エピソード選集など。
この手の企画記事は、お手の物です。

カメラは近づき、カメラは遠ざかる――「戦闘メカ ザブングル」第1話に見る富野演出の基本【懐かしアニメ回顧録第89回】
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アキバ総研で連載しているコラム。ひさびさにストーリーではなくて、演出のことを書けました。


「いま、ウクライナで起きていることが理解できる」と古くからの友人が言うので、プライムビデオで『あの日の声を探して』を見た。
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現代とは思えないような、泥臭く原初的な人間の堕落、憎悪がむき出しに描かれている。
確かに優れた映画なのだが、そういえば「友人が話題にしていたから」……などという理由で映画を見ること自体、ひさしぶりのことだ。いつもは、ただ自分の内面や記憶とのみ対話して、その日にやりたいことを決めている。誰とも話さない。せいぜい、喫茶店の人に注文を言うか、クリーニング店に衣類を出すとき、事務的な会話をかわすぐらいだ。

どこからどこまでを友人と呼ぶのか分からないが、少なくとも「親友とそれ以外」という考え方をやめた。「彼は親友だから」と関係を口にした途端、たちまち呪縛となる。そこまで他人に期待しない、そこまで他人を追わない……それが、僕の生き方になっている。
たまたま、仕事でも付き合いのある人と飲む機会が重なったのだが、やはりどうしても相手のペースが気になり、自分の機嫌とのバランスを考えてしまう。相手を尊重しつつ、自分が後悔したりしないように……そのバランスを考えるのに疲れたから、ひとりで過ごすようにしている。
反面、友人がひょいと映画のタイトルを口にしてくれたように、自分とは関係なく遠くで世界が動いているのだと実感できる、この距離感も心地いい。孤独だけど孤独じゃない。海外旅行へ出ると、この温かい疎外感をキープできる。
こんな雨の日、喫茶店で窓際にすわって濡れた街路を眺めるのもいいが、常連客が大声でマスターと雑談している、その自分とは無関係の世界の残響に身を浸すのも楽しいものだ。ずっと、自分には孤独を楽しむ素養があった。しかし、若いころは「友達はたくさん居るべき」という俗説に取りつかれていたので、この年になってようやく味わい方が分かってきた。


一方、他人に依存し、他人を犠牲にすることで不自然なまでに自分が優れている、ケタ外れに優遇されていると意識しつづけねばならない自己愛性パーソナリティ障害の人たちに、もっと手短な呼び名はないだろうか?と考えている。「人格障害」では差別になるので、「パーソナリティ障害」なのだと聞いた。長すぎて覚えづらいとは、誰も思わなかったのだろうか。
「発達障害」「PTSD」という呼び名は、社会に定着した。言葉は悪いけど、バカとかマヌケとか無能とか、あきらかに社会に存在していたのに「努力が足りない」などと適当に言いくるめられてきた多数の人たちが、顕在化された。「発達障害」という呼称で救われた人は、かなり多いと思う。
そして、自己愛性パーソナリティ障害の人たちによるモラハラやドメスティックバイオレンスなどの加害と支配は、社会の一部と言ってもいい。しかし、彼らはナルシシストとかサイコパスとか、おおいに曲解されうる通俗的な呼び名しか与えられていない。それでは、問題が可視化できない。

自分が常に話題の中心にいないと気がすまず、ウソをついてまで他人の心に踏み込んでくる……何か問題が起きたとき、自分だけは責任を負うまいと他人を攻撃する。そういう幼稚でずる賢い人たちのせいで、どれほど多数が人生を台無しにされただろう? 自己愛性パーソナリティ障害は、社会の病根だと言ってもいい。
そういう迷惑な人たちは社会で養ってあげて、本当に仕事のできる人たちのみが、十全に能力を発揮できる間だけ働けばいいと僕は考えている。


『あの日の声を探して』以外で、見た映画。
『リリーのすべて』、『キャッツ』。どちらも、トム・フーバーの監督作品だ。
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『リリーのすべて』は、性別と異なる内面を持った男性が主人公で、しかも彼は画家である。したがって、『英国王のスピーチ』以上に画面は絵画的に構成されている。二重になった自我を表現するため、鏡面も積極的に使われている。その絵画性に着目すれば、『キャッツ』のように人工美にあふれた作品も理解できる。『キャッツ』はカット割りも構図もへったくれもなく、俳優と特殊メイクとCGによって描かれた動くイラストレーションだった。

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2022年4月 7日 (木)

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5日(火)は、府中市美術館へ。
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日曜・月曜は雨がひどく、ずっと部屋にこもっていた(部屋でできる仕事でよかった)。そのせいだと思うが、武蔵小金井駅からバスに乗って知らない停留所で降りると、「そこにいる」というリアリティがなかった。
人混みをかき分けたり、行列に並んだりするストレスもなく、あっさり入場できたのも良かった。

日本画は興味なかったが、近代美術館の鏑木清方展から変わった。
府中市美術館の『春の江戸絵画まつり ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります―京の絵画と敦賀コレクション』は、最初に大きな屛風絵でインパクトを与えて、以降もメリハリをつけた展示と分かりやすいキャプションで、楽しく見せてくれた。
コレクション展は地味ながらもボリュームがあって、あっという間に一時間が経過した。


美術館に併設されたカフェでは、陽気がいいのでビールにした。
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酒は10日ぶりなのに、それほど酔えなかった。
府中駅に行ってテラス席で飲んでもいいな、と店を検索してあったのに、国分寺行きのバスが来たので、国分寺駅へ出てしまった。
すると、なかなかテラス席がない。あっても、すぐ横に質素なアパートが建っていたりして、なかなかロケーションが難しい。ついつい、以前にも入ったことのある喫茶店へ入ってしまった。そこは、インテリアも音楽も適当で、喫煙者がタバコを吸いに立ち寄るような店だった。みんな暇つぶしに来ているので、最低限のドリンクだけ注文して、あとはタバコをふかしながらスマホをするだけになってしまう。
こんな店なら、自分もちゃんと座ったり落ち着いて読書しなくてもいいんじゃないかと思ってしまう……選択を誤ると、そういう恐ろしい思考の侵入を許してしまう。

どんなにカッコいい人でも、短距離で手っ取り早く快楽を得ようとすると、とたんにだらしなくなる。せっかくファッションを小奇麗に決めていても、だらだらとスマホ歩きしている人は低知能でルーズに見える。
「駅から近いから」「どこにでもあるチェーン店だから」「安いから」「ポイントがつくから」……それは自分の培ってきた価値観ではない。自分の外からヒョイと借りてきた、薄っぺらな価値観でしかない。そうした「考えない人」にアピールするよう狙いをすまして、チェーン店やスマホアプリは設計・デザインされている。
単にお店に入るだけで、何も買わない人でも即座に権利を手にすることができる。簡単に、最短距離で優越感を得られる。だから、お店に入ったときに人間の品性が露わになる。気を付けなくてはいけない。


電車の中で、スマホを眺めながら足を組んでいる人は多い。
先日、空いている電車で足組みしてスマホを眺めている若者がいた。前を人が通っても、ヒョイと足首を伸ばして「ほら、通れるように避けましたよ?」とアピールする程度。次の駅で、片手にベビーカー、もう片手で幼児の手を引いたお母さんが乗って来た。その若者は、彼らが前を通る時は足組みしたままだったが、しばらくして足を降ろして、きちっと座り直した。
ひさびさに、美しいものを見た思いがした。恥を感じて、自分の身振りを顧みる。それが、人間らしい思考と感情だ。(車内は空いていたので、お母さんは子供を座らせて自分は立っていた。)


さいきん観た映画は、『英国王のスピーチ』と『ザ・シークレットマン』。
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『英国王のスピーチ』は10年ぶりぐらいだ。
上のスチールは、ジョージ6世の教師となったライオネルの部屋だ。ジョージ6世とライオネルが初めて会話するシーンでは、不機嫌なジョージ6世の座るすぐ後ろに、この塗装の剥がれたような壁が広がっている。一方、会話をリードするライオネルの背後には、空間が大きく余裕たっぷりに広がっている。ランダムに色の散った壁紙は、いわば追いつめられて混乱するジョージ6世の心理を表わすように、彼の背後にのみ広がっているのだ。
では、ジョージ6世がライオネルに見守られて開戦後すぐのスピーチをするクライマックスのシーンはどうか? 
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このように、規則正しい模様が、狭い放送室のすべての面にキチッと並んでいる。圧迫感もあるが、調和してもいる。優れた美術デザインだと思う。

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2022年4月 2日 (土)

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キャラクター・プラモデル・アーカイブVol.001 4月5日発売
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企画から半年も経って、よ~うやく発売になります。作例ページ以外のキット素組みレビューなど構成・執筆です。
「ホビージャパン ヴィンテージ」の特集ページをまとめて、『戦闘メカ ザブングル』のページを他の2作品に合わせて新しく編集し、インタビューも新規に加えました。富野由悠季監督、出渕裕さん、湖川友謙さん、設計者の村松正敏さんです。
富野監督のインタビューは、プラモデルも含めたメカニック観を語ってもらったもので、なかなか他では読めない貴重な内容になっていると思います。


先日、クリーニング店で太っちょの女性に待たされた話を書いた。ちょっと意地悪く書きすぎたかも知れない。
つくづく、僕は人間社会を軽蔑してるんだろうと思うけど、「店」「客」は簡単に誰でも力関係を築けるので、注意して振る舞わなければならないと実感している。
セルフサービス式で、駅から近いチェーン系の店には、最底辺の客が集まる。撮影や取材の帰り、「改札内だし、軽く駅そばでも食べていくか」などとフラリと寄っていくと、だらしなく椅子に座って、食べ終わっても無料で取り放題のネギなどをつまみながら、ずーっとスマホを眺めている自堕落なサラリーマンを見かけてしまう。
「こっちは客だぞ」「片付けるのは店員の役目だろ?」という力関係に持たれかかった人間は、とことん図々しく、だらしなくなる。


僕がよくビールを飲みに行く公園の休憩所があるが、中年女性でひどい客がいた。
まず、注文した料理を残す。ただ残すのではなく、皿の上に散乱するように汚く残す。口を拭く紙ナプキンなども折りたたまずに、適当に丸めるめて机の上に捨てる。そして、家族経営の小さな店なのに、1万円札を出す。
それぐらいなら、「たまたま大きな札しかなかったのかな?」と思う程度だっただろうが、その人の入った後に店のトイレに入ると、手を洗う水が出しっぱなし。使ったトイレットペーパーが、床に落ちている。
それで、わざと500円程度の支払いに万札を出したのではないか……と、疑ってしまった。もちろん、店の人たちは「お釣りのお札がなくなった」と困っていらした。

ここまで読んで、「どうしようと客の自由だろ?」と思った人もいるだろう。
だから、それが底辺の、貧乏の、品位の低い発想なのだ。一万円札を持っていようと、心が貧しければ貧乏だ。
普段から、「私はそれなりに品位を保つ努力をしている」という自信があれば、お店の人も同じ人間なのだから、私のせいで余計な仕事が増えないように……と考える余裕が生まれる。店を汚く使う人には、「こっちは客だぞ!」という幼稚な特権意識しかない。


40代に入ってから、清掃のアルバイトをしていた時期がある。
それなりに名前の通った飲食チェーンの本社オフィスだったのだが、トイレの使い方の凄い人がいた。便器が新しくなった時があったのだが、まず自分が最初に汚さないと気がすまないらしく、朝一番に出社してきて、「まだ掃除終わらないの?」とタメ口で聞いてくる。
そのうえ、男性トイレで大便をして、いつも流さない社員がいた。「清掃のバイトのやつらに俺のクソを流させたい」という、あれも力関係に基づく特権意識だったのではないだろうか?

「いい大人が、ウンコを使って特権意識を誇示するか?」と思うだろうが、僕は大人なんてそんなもんだと思っている。社会を支配しているのは高い志しなんかではなくて、どっちが上か下か、誰がこっちの仲間か、ムカつく相手には嫌がらせだ……大人の社会の大半を占めるのは、小学生レベルの力関係だと思う。
駅のトイレは、たいていドロドロに汚れているが、あれも「清掃員の人たちに掃除させる」ことで「自分は少なくともアイツラよりは上だぞ」と思いたいだけなんじゃないか……そう考えたくなるほど、異常な汚さだと思う。


僕はよくテラス席に座ってビールを飲むが、実は眺めのいい店の外、2~3メートルの距離にタダで利用できるベンチが設置してあることが多い。だけど、そっちへ座るぐらいなら、僕は家へまっすぐ帰る。
同じ眺めでも、ちゃんと店員さんの管理する席に座る。そうすることで、自分の行動を制限する。他人様のスペースを借りることによって、「綺麗にテーブルを使おう」「店員さんのことも考えよう」という意識が芽生える。僕の場合、もともとがハゲていてカッコ悪いオジサン客なのだから、他の客や店員さんに気持ち悪く思われないようキチッと座り、きれいに飲食しようと気を引き締める。
わざわざお金を払わないと座れない場に入ったのだから、それに相応しい客であろうと努める。すると、心の中も整理されていく。たいした人間はないけれど、とりたてて恥ずかしい人間でもないだろう……という高度をキープしていれば、電車の中でデーンと足を投げ出すような迷惑な人間にならずに、自信をもって納得のいく人生を送れるだろうと信じている。

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2022年3月30日 (水)

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プライムビデオで、ヴィム・ヴェンダース監督の凡庸な人間ドラマ『誰のせいでもない』とラース・フォン・トリアー監督の『アンチクライスト』。
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タイトルで損をしているが、『アンチクライスト』は、CM映像のように人工的かつ淫靡で暴力的な冒頭シーンから魅了された。
以降、手持ちカメラを主体とした会話劇はドキュメンタリーのようにところどころでコマが飛んで、緊張感を持続する。かと思うと、登場人物が空想する風景は、精神病者が描いた絵のようにシュールで不自然。その自由闊達で傍若無人な表現の幅広さに、僕は憧れる。

ウィレム・デフォーとシャルロット・ゲンズブールの夫婦が病室で会話していると、カメラが窓際の花瓶へ寄っていく。花瓶に満たされた水は澱んでいて不潔だ。しかし、カメラはゴミの浮いた汚らしい花瓶を「これでもか!」と言わんばかりの超クローズアップで捉える。容赦がないし、臆さない。これから映すのはすべて汚なくておぞましいものばかりだが、決してウソはつかないという宣言だ。
悪趣味でもいい、豪胆で勇気のある堂々とした作品や人が好きだ。


下着以外の衣類は、近所のクリーニング店で洗ってもらうことにしている。
ごくたまに店が混んでいて、外で待たされることもある。本日は、小太りで赤いフチの眼鏡をかけた女性客が店内にいるのに気がつかず、店に入ろうとしてしまった。こういう場合、「待たせてすみませんでしたね」と丁寧に謝る客もいれば、ちょっとだけお辞儀して去っていく客もいる。今日の客は、(僕が後ろから入店したのが癪に障ったのかも知れないが)何分もかけて長々と値引き交渉した末、こちらをチラリと一瞥して去っていった。
僕がシャツ2枚とスラックス1枚を預けて店を出ると、すぐそこの信号で、先ほどの小太りの女性がスマホを見て待っていた。青信号になったのに、スマホに熱中したまま動かない。僕が後ろから追い抜かすと、その女性はハッとして、思い切り速度をあげて抜き返してきた。言っちゃ悪いんだけど、人生全般で負けてるから、こういう些細な場所で勝とうとして頑張るんだろう。

この一件から、「歩きスマホする人は傲岸不遜」と、あらためて認識できた。


たとえば、あるイベントがもうすぐ終了だと告知されると、「行くつもりだったのに~!」と恨みごとを書く人が必ずいる。
その人は、そもそも行くつもりなんかなかったんだと思う。ただ、終了を告げられて「一方的に不利益をこうむった」構図を捏造することで、「権利を侵害された」自分を演じているに過ぎない。もともと自分は権利など持っていないと心のどこかで分かっているから、終了告知を利用して「俺には確かに権利があったはずなのに、こうやって強制終了させられたおかげで、せっかくの権利を失ってしまったじゃないか」と自分を偽る。実際には、最初から今にいたるまで、何の権利も持ってないのだ。
人生の不満は、たいていこの構造を持っている。

学歴も職歴も自慢できないネトウヨの人は「俺は日本人であって、日本人として正当な権利を享受できるはずなのに、在日外国人のほうへ権利が不当に流れてしまった」という仮想のストーリーを構築して、「はなっから何も権利がない」自分を直視すまいとする。
この誤魔化し、合理化はたいていの人がやってしまっていると思う。「●●大学の■■科を卒業したのに、どうして結婚相手が見つからないんだ?」と不満をのべる中年は、異性にとって魅力がないから結婚に恵まれないだけであって学歴は関係ない。「学歴のせい」という仮構によって、魅力のない自分を磨くチャンスを失っている。

もし、権利というものがボーナスのように与えられる一方のものだとしたら、たいしたものではない。
自分で工夫して、ひとりでコツコツと戦略を練って手に入れたものは、一生使える。そのことを知らないまま、「権利をもらえなかったせいだ」「権利を奪われたせいだ」と呪いながら死んでいく人が大半なのかも知れない。権利は、自分でつくれる。誰かから与えてもらえるのを待っている時点で負けだろう。

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2022年3月26日 (土)

■0326 ポーラ美術館~国立新美術館~森美術館~東京国立近代美術館~東京都現代美術館■

旧キットの金型改修で爆誕した1/144ザク・マリナーを組み立てたら、「機動戦士ガンダムZZ」の混沌ワールドに溺れかけた!【80年代B級アニメプラモ博物誌第20回】
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いつもの連載コラムです。

■3/23
22日に小田原駅前に泊まり、翌朝一本きりの直通バスで、ポーラ美術館へ向かった。
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林の中の遊歩道は、雪のため閉鎖されていた。よって、林の中に展示してあるという作品には出会えなかった。
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しかし、質感に富んだロニ・ホーンの作品は、ゆったりと空間をつかって展示してあり、雪明りの差し込む半地下の建物にも満足した。
「水の風景」と題して、モネの作品を水をキーワードに集めた展示はロニ・ホーンのモチーフとの共鳴を狙ったもので、その意図の明確さに気持ちがよくなった。いわば、印象派は添え物だ。美術館全体を堂々とひとつのコンセプトが貫いている。これが正しいのだと思う。
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365日、大晦日も元旦も休まず営業しているという(近隣の温泉から足を運ぶ客がいるのだろう)。しかし、こんな山奥のカフェの食材は誰が運んでくるのだろう? こんな都会を離れた寂しい美術館で働くのは、どんな気分だろう?
直通バスは確かに数えるほどだが、この一帯に温泉や遊楽施設が点々としており、スマホでパスポートを提示して路線バスを乗り降りする客もいた。乗り換え場所さえ間違えなければ、簡単に小田原駅まで戻ってくることが出来た。

■3/24
東京へ戻ってきた翌日、24日は国立新美術館へ向かった。
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ダミアン・ハースト展は、似たような桜の絵ばかりで、開放的な空間を構成している。しかし、「えっ、これだけ?」と拍子抜けするような物足りなさがある。
もうひとつのメトロポリタン美術館展は、行列が出来ていたので素通りするつもりだったが、空いてきたようなので入場してみた。
しかし、この手の「〇〇館展」はパッケージ化されて巡回しており、美術館サイドが企画したわけではないという。まして、新美術館は収蔵作品がなく、小屋を貸すだけの美術館だ。だから、この日も場所を借りて素人の作品を展示する公募展が二つもあった。

カフェに寄ると、いかにも俗物な画家きどりの老人が、若い女性相手に「あいつは美大出身で、俺が絵の勉強を見てやった」といったホラ話を得意げに吹聴している。
そうした通俗的な雰囲気が、メトロポリタン美術館展には濃厚に立ち込めていた。みんなもっともらしい顔で小さな絵を食い入るように見つめていたが、本当にいいと思っている? お互いに顔を見合わせて感心したようにため息なんてついているけど、ポーズだけなんじゃない? こういう権威にまみれた企画を「つまらない」と言うには、それなりに勇気がいると思う。


白けた気持ちを少しでも消し飛ばしたくて、そのまま陽光に照らされた六本木の街を横断して、森美術館へ向かった。
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Chim↑Pom展。彼らの作品は二つほど見たことがあって、覚悟はしていたのだが、高校の文化祭レベルだった。
権威や道徳を蹴破って乱暴に表現するとしても、技術は問われると思う。彼らの作品……というよりガラクタは、とにかく汚い。下手くそなだけだ。お客さんの半分は呆れていたが、もう半分は熱心に写真を撮っていた。悪いけど、最上級の美術展を見たことがないんだと思う。
福島原発や原爆ドームをモチーフにするとしても、「そうでもしないと注目してもらえない」薄っぺらさと余裕のなさが感じられる。そして、こうした批判からも「ほらね? そう言われることも最初から織り込んであるんですよ」と逃げているような、「本気でない」ムードが感じられて、すっかり不愉快になった。

先ほどのメトロポリタン美術館展もそう。芸術になんて本気で興味があるわけじゃないのに、自分を騙して、それっぽく取り繕ってしまう。「自分は凡人とは違うんだ、感性が優れているんだ」と思い込んでしまう。人生に待ち受ける罠のなかでも、これはなかなか厄介と思う。


さて、どうしよう? まだ昼過ぎだ。海や川が近いわけでもないし、飲む気にはなれないので、どこか喫茶店へ行こうか?
高校のあった国立競技場の近辺はよく歩くが、原宿方面がにぎやかな感じがして、前から気になっていた。
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まず商店街の入り口に神社があり、その向こうには怖気づいてしまうほど洒落た店舗がポツポツと立っている。
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駐車場のようなところに、真っ白なプレハブの小屋があって、「なんの店舗だろう?」と近づいてみたら、扉をあけてショートヘアの快活そうな女性が歯を磨きながら出てきた。まるで、ヌーヴェル・ヴァーグの一場面のようだ。
そこから先は、不思議な気分だった。脳内物質が不均衡になり、認知能力が鈍ったせいだろう。道行く人々が、みんな洒落た格好に見えるのは場所柄かも知れないが、誰もが映画のエキストラのように「よーい、スタート」で演技をしているように感じられるのだ。
人物だけでなく、建物もすべてがセットのような、表面だけのハリボテに見える。それは多少不気味ではあったが、どちらかという気分がいい。酩酊しているような感じであった。すべてが音楽のように調和していた。
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グーグルマップで調べてみると、駅の反対側に、テラス席のあるカフェが見つかった。
川沿いでも海沿いでもないが、流れるような車の列をながめて、右から新宿御苑の鳥の声、左から高架を走る中央線の音の聞こえる都会らしい環境が、今の気持ちにマッチしていた。
クラフトビールを二杯飲んで、帰宅した。あの酩酊した気分には、なかなか戻ることが出来ない。

■3/25
翌日、25日は朝から東京国立近代美術館へ向かった。
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鏑木清方展。日本画で美人画なんて興味なかったはずだが、漫画やアニメに通じるような生き生きとしたスケッチには、心をつかまれた。
大きな絵では着物の柄はパッキリと明快に塗り分けてあり、女性の顔はうっすらと透き通るように、まったく別の描き方をしている。技術が、すなわち説得力なのだ。

また、会場の章立ては「生活」「物語」とテーマで追ってきて、第三章で「小さく描く」と絵のサイズへと視点を変えている。その明快さ、大胆さも気持ちがいい。
コレクション展も、気をつけてみると技術に秀でたものが多い。


竹橋から木場へ、バスを使って東京都現代美術館へ。なんと四つも展覧会があるが、すべて観る。
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井上泰之展、吉阪隆正展。特撮も建築も、ただ図面や写真の羅列になりかねない。後者は、建築模型の向こうに実寸大に引き延ばした図面を配して、さらに本人の写真もライフサイズで壁に貼っている。
しかし、どちらも「なるほど、考えたな」という印象。この美術館では、過去に石岡瑛子やミナ ペルホネンなど、興味の範疇外から一気に胸に飛び込んでくるような優れた展示があった。


さて、コレクション展はあまり変わり映えしないのではないか、だからこそハズレのない安心感を抱いてもいるのだが、中西夏之の抽象画が貼られていて、まずはこれが良かった。
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適当に模様を描いているのではなく、色の選び方が洗練されている。
撮影禁止だったが、宇佐美圭司の抽象画も、同じように完成度の高い作品だった。これだけで、十分に満足のいくものだったが、入場無料の展覧会もあった。
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藤井光の、木板や絨毯などの素材を等間隔にぎっしりと部屋に敷き詰めた作品。空間ごと体験する、有無を言わさぬ作品を無料で見られるのは凄い。
もう15時近く、少し日が傾いてきた時間に若いカップルが入り口でチケットを買っていて、「こんな時間から観るのか、もう一日も終わるのに……」と勝手にセンチメンタルな気分になってしまった。曇り空の下、小さな公園で親子が遊んでいても、似たような気持になる。そういう寂しい雰囲気が、僕は好きなのだと思う。


さて、木場近くのケバブ屋にテラス席があると知った。川沿いなので迷わず寄っていこうと思ったのだが、小さなテラスは橋のすぐ近くで、近所の人が自転車で通るような落ち着かない場所だ。
それと、隣のセブンイレブンの前で、中年男が一番安い缶ビールを買って、路上にしゃがんで飲んでいた。あの男と僕と、何が違うんだろう? こんな場所で妥協してはいけない、茅場町から数分のところにビル4Fのテラス席があると聞いていたので、そこを目指す。

ところが、時間帯が悪い。ランチは15時まで、ディナーは17時からという店ばかり。
グーグルマップを必死に調べて、茅場町から秋葉原へ移動、浅草橋近辺のテラス席を片っ端から当たるが、川沿いではなく歩道に面していたり、どこか今ひとつだ。ヘトヘトになってしまったが、ここまで来たら両国へ行くのも同じだと思って、隅田川の向こうのイタリア料理屋を目指す。ところが、その店もランチとディナーの中休み。これはもう、飲まずに帰れという神のお告げなのだろう。

しかし、いつか浅草橋での取材のときに、川の向こうに見えた灯りが気になっていた。確か、水上バスの発着場だ。
そこを目指して横断歩道を渡りエスカレーターで登ると、なんとテラス席のレストランがあった! こういう時の自分の勘というかツキは、なかなかのものだ。
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疲れていたので、素直に「ビールとナッツじゃダメですか?」と言えた。ボーイは「軽食ですか? メニューには載っていませんが……」とクラフトビールを紹介してくれた。もちろん、それにする。そこでしか飲めないものを必ず選ぶ。「いつもの安い生ビールでいいや」などと妥協はしない。
一食4,000円という高級店だが、トータル1,700円ほどですんだ。


最近観た映画は、『クリムゾン・タイド』、『フォレスト・ガンプ/一期一会』。

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2022年3月22日 (火)

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モデルグラフィックス 2022年 05月号
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河森正治さんのインタビューのみ、依頼されて担当しました。
連載が終わっても、なにかと頼りにされるのは、有り難いことです。


“変身”とは、物語に挿入される新しい物語――「劇場版 美少女戦士セーラームーンR」で何が起きたのか?【懐かしアニメ回顧録第88回】
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このコラムは何度も作品を見て、メモをとっているうちにテーマが見つかって、その頃には2日ぐらいしか時間がなくなっているので、いちばん書けそうなテーマでまとめています。
20代のときに『狼男アメリカン』の変身シーンが長い意味を考えた評論を読んで、アニメの変身シーンに応用して考えられないか、ずっと考えていました。これから何度でも考えたいと思っています。


【アーカイブ】メカデザイナーズサミットVol.08
大河原邦男×ストリームベースがガンプラを語る。
1979年アニメ放送からガンプラ発売、当時の熱狂的なブームになにがあったのか!
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昨年、司会をやったトークイベントがアーカイブ化されたので、ぜひご覧ください。
出演は、大河原邦男さん、小田雅弘さん、川口克己さんです。


さて、みぞおちの辺りに違和感があるので、大病院へ行ったら90分も待たされた話を、前回書いた。
数日して、今度は消化器科の町医者へ、予約せずに行ってみた。
すると、「お待ちいただきますよ。一時間ぐらい」とのこと。最初に分かっていれば、ぜんぜん気にならない。空いている静かな待合室で本を読んでいると、きっかり一時間で呼ばれた。こういう仕事を段取りがいい、というのだろう。
医者は、声が大きくて的確なことしか言わない優れた人物だった。エコー検査をやってもらうと、膵臓はよく見えないが、肝臓は通常の大きさ(あんなに毎日飲酒していたのに)。膵臓ではなく、胃酸過多なだけかも知れないので、胃酸を押さえる薬を出してもらって、すっかり足取りが軽くなった。

井の頭公園まで歩いて、喫茶店へ行く。なんと、2軒もハシゴ喫茶してしまった。
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コーヒーカップとスプーンが、和風になっている。
いつも静かな店内では、若いサラリーマンたちが熱心に仕事の話をしていた。「この世の中、そんなにバカばかりでもないんだな」と明るい気持ちになる。
そして、一滴も飲まずに帰宅し、スーパーで安酒を買って部屋で飲むのもやめた。気分のいい、解放されたときに飲むだけにしよう。


昨日は、アーティゾン美術館「はじまりから、いま。 1952ー2022 アーティゾン美術館の軌跡—古代美術、印象派、そして現代へ」へ。
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具象的な絵や印象派よりも、緻密な模様を描いただけのような抽象画に心打たれる。
僕は「同じ絵の前で、3時間も4時間も座っていた」という神話を信用していない。アニメの資料系の展覧会で「5時間会場にいた」という話を聞いても、同じ内容の資料集があれば、それで済むよね?と思ってしまう。数字で、作品の重みを表わすのが好きではない。
どんなに心打たれたとしても、客観的な時間でいうと、数分しか絵の前にいないと思う。見た後のすべての時間、死ぬまでの何年もが刷新される、そっちの事実が重たい。どのように展示されているか、どんなタイミングで見たのか、場所や時間との関係を度外視できない。何度も見た絵が隣に飾られていると、印象はまるで異なる。

「画面が大きいから映画への没入感が増す」とかいう話も、まるで信用していない。
優れた映画なら、スマホの大きさでも臨場感を演出できる。それが表現だと思う。


最近観た映画は、『オーシャンズ11』、『42 世界を変えた男』、『アポロ13』など。

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