2017年10月17日 (火)

■1017■

録りこぼしていたアニメを、ウェブ配信で少しずつ見ている。
1_3『少女終末旅行』。軍服を着た少女ふたりが、廃墟となった無人の街を旅する。

ふたりは、終始密着しているため、動きのストロークが短い。一メートルと離れていない相手に、コーヒーカップを手渡す。相手はカップを受け取るまでに指を広げたり、指差したり、細かな演技をする。リピートも入っているが、短い距離の中に多彩な動きを織り込んでいる。絵が単純だから動きも単純なのだろう、というものではない。キャラデに惑わされてはいけない。
アニメーションは時間を組み立てるものだし、時間の推移を味わうものだと思う。


後半、飛行機のプロペラに少女ふたりが乗る。ひとりは、両足で蹴って、プロペラを回そうとする。ひとりは、落ちまいとしてプロペラにしがみついている。二回蹴ったところで、プロペラは大きく回転し、三回目の蹴りを入れようとしていた少女の体は浮いてしまい、縦に回転しながら落ちる。しがみついていた方の少女は、それこそプロペラのように手足を開いて横に回転してから落ちる。
まっさかさまに落ちるのではなく、ほんの少し滞空してから落ちる。実時間とは異なる、絵によって組み立てられた時間を感じとることが出来る。
少女であるとかミリタリーであるとか、モチーフは二の次であって、アニメーションの面白さを分解していくと、「時間をどうコントロールしているか」だけが残される気がしている。そこから副次的に、キャラが可愛いとかテーマやストーリーがどうだとか、文学的な評価へ分岐していくんだと思う。


『Just Because!』、これも第一話だけ。
Ab5e481434d8b684e7e0b9d561f5d290450「時間をどうコントロールしているか」がアニメの面白さ……と言っておいて何だが、こちらは空間を感じさせる作品だった。

教室をロングショットで捉えている。教室の入り口に立った二人の男子生徒が、机に座って日誌をつけている友人と会話をかわす。同じフレーム内に教師がいて、ふたりの女子生徒に「○○と○○は、この後、面談な」と声をかける。ひとりは「はい」と短く答え、もうひとりは「えーっ」と嫌そうな声を出す。
そのとき、入り口に立っていた男子生徒が無言でちょっと教師のほうを見る。そのさり気ない視線の移動によって、急に教室が広く見えるのである。教室は、椅子と机がBOOKに分けてあるだけで、レイヤーでいえば背景一枚だ。その一枚絵が、立場や状況の違う人物たちの芝居を交差させることにより、ちゃんと奥行きのある空間に見えてくる。


別のシーンで、廊下をふたりの人物がすれ違う。ひとりは静かに歩いていて、もうひとりは上体を思い切り前に倒して走っている。ふたりのポーズや移動速度が違うことによって、急に廊下の距離が意識される。一枚の廊下の絵が、廊下として空間的に機能する。

アニメの撮影がデジタル化されてから、撮影台に存在していた物理的な距離は消失した。だから、アニメーションだけの原理で距離を表現しなくてはならない。3DCGで背景を組んだから立体的な表現ができるわけではない(それはアニメーションの原理とは無関係に思える)。人物が息をきらして走ってくる芝居を重ねたとき、初めて距離が表現できるのではないだろうか。
つまり、空間であれ立体であれ、映像においては時間を駆使するほか、表現のしようがない。教室の広さや廊下の長さを表現するには、そこで人物を動かすしかない。あるいは、ピタリと止まった背景のみの絵でも、環境音を入れれば広がりが感じられるかも知れない。


実は、『Just Because!』には優れたカッティングがある。
転校生の少年が廊下を歩いてくるが、進行方向から女生徒ふたりが歩いてきたので、柱の陰に隠れる。手持ち無沙汰になった彼は、手近に置いてあるパンフレットを読む。
彼がふと目をあげると(ここまで、ロングショットのワンカット)、窓際にかばんが置かれている。人物はいない。完全な一枚絵だ。だが、ロングショットに直結した空舞台の(人物がいない)一枚絵は、とても広く感じられる。
すなわち、カッティングによっても空間は表現できる。しかし、音声であれカッティングであれ、結局は時間を必要とする。

『少女終末旅行』がエキサイティングなのは、なるべく演技だけで見せようとしているからだ。そこには実時間ではない、絵の連続のみによる架空の時間が流れている。
『Just Because!』のように、実写映画のロジックを援用した見せ方も面白いのだが、アニメーションとしての純度は薄まる(その分だけ実写映画には近づく)。
しかし、なぜか『少女終末旅行』のように、アニメーションならではの架空時間をむき出しにした作品のほうを、僕は「映画っぽい」と感じてしまう。
(C)つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会
(C)FOA/Just Because! 製作委員会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月15日 (日)

■1015■

レンタルで、エリア・カザン監督の『エデンの東』。高校時代に見たはずだが、完全に忘却していたので。
Mv5bodm1mtgxnzyznv5bml5banbnxkftztc冒頭、ジェームス・ディーンの初登場が、左のカットである。
このカット、実はディーンを撮っているのではない。彼の母親であると後に判明する、ひとりの婦人の歩きを追っている。歩いている婦人をPANで追っているうち、ディーンが“たまたま画面の中に映りこんでしまった”に過ぎないのである。
続くカットで、カメラはやはり婦人の歩みをとらえている。婦人の後ろには、ディーンがためらいがちに彼女を追ってきているのが見える。だが、手前を通行人に邪魔されてしまったりして、あまりに存在感が薄い。
画面手前まで婦人が歩いてくると、カメラは再びPANして婦人を追う。その途端、ディーンはフレームの外へ消えてしまうのである。

つまり、カメラを振り向かせているのは婦人であり、ディーンはカメラがPANしたとき、“たまたま”映りこむ。あるいは、“たまたま”切れてしまう。たったそれだけの、脆弱な存在だと分かる。彼には、物語の主導権がないのだ。それはカメラワークを見れば分かる。
なおかつ、両者を同一のフレームに捉えることで、ディーンと婦人とが何か有機的な関係を結んでいるようにも見える。


驚くほど地味なドラマだが、いくつか感心させられる演出がある。
第一次世界大戦にアメリカが参戦すると決まり、ディーンの家族の住む田舎町でも派手なパレードが行なわれる。ディーンは無邪気にはしゃいでいるが、彼の兄は戦争を忌み嫌っているので不機嫌だ。
さて、このシーンで兄をどう撮っているかというと、街路樹の後ろからパレードを見ている。顔面はV字型に割れた木の枝に隠れており、片目だけが見えている。彼の隣には恋人がいるのだが、彼女の顔は隠れていない。兄の顔だけが、木の枝で大きく遮られているのだ。

つまり、登場人物が「不機嫌である」ことを表すのに、セリフや演技では足りないからこそ、「顔を隠す」「顔に傷が入っているようにも、割れているようにも見える」工夫が必要になる。
このような視覚的工夫を見過ごしながら、映画の評価などできないと思うのだが、どうだろう。


録画していたテレビアニメを見ていて、『このはな綺譚』『十二大戦』が面白かった。
16ea51f376c3a7316f304b687ea7ad87ともに第二話から見たのだが、面白いものは途中から見ようとラストが分かっていようと面白い。特にテレビアニメは、セリフがずっと聞こえず音楽だけになったり、あるいはパターンを外れた過剰なセリフが続いたりすると「?」と凝視するようになる。
つまり、音声の情報がコントロールされていると、画面に注意が向く。すると、だいたいパターンを外れた動きが展開されている。『このはな綺譚』では、振り向く芝居で二箇所、枚数を減らして原画をオーバーラップでつないでいるシーンがあった。現実の一秒間と、絵によって構築されるアニメーションの一秒間は、質的に違う。

『十二大戦』は小説が原作なせいもあるだろうが、ひとりのキャラクターの長ゼリフが多い。すると、セリフが画面から剥離して、絵の中の芝居とセリフとがズレはじめる。耳と目で、二重に流れる時間を追うことになる。その分、『十二大戦』は“長く”感じる。放送枠は30分だが、だいたい40分ぐらいのボリュームに感じる。
セリフが続いているのに芝居を見せない(代わりに別の芝居を見せる)など、情報の多層化が体感的な密度となって感じられるような気がする。「面白い」とは、情報が適度に隠され、適度に露呈され、目で画面を追いながらも、脳が画面外の箇所を探っているような状態を指すのではないだろうか。

どうも、作画枚数がかかっているからクオリティが高い、密度が濃くて面白い……というのは違うような気がする。アニメは人手がかかっているから実写より優れていて面白いなんて話では、もちろんない。
どこに何をどう割りふっているかが、大事なんだと思う。

(C)1955 - Warner Bros. All rights reserved.
(C)西尾維新・中村 光/集英社・十二大戦製作委員会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月14日 (土)

■1014■

Febri Vol.44 発売中
Dl7otjpu8aah1br●Febri Art Style
今回は『メイドインアビス』です。美術監督・増山 修さんにインタビュー、本編で使われた背景美術をカラー4ページに構成しました。
増山さんは「仕事の8割ぐらいはロジックで成り立っている」とおっしゃいます。絵を「感性」や「好み」だけで描いていると思い込んでいる人は、まだまだ多いのではないでしょうか。

【独占インタビュー】早見沙織・下野紘・洲崎綾・斉藤壮馬が語る、「RWBY VOLUME 4」の新展開と新事実
Dl7ikdku8aab7xdほぼ一年前の『RWBY VOLUME 3』公開時に引き続いて、今回は新メンバーにインタビューさせていただきました。
前回は、物語の展開と同じくしっとり静かな雰囲気でインタビューが終わりました()。それが『VOLUME 3』の余韻とフィットして、特に小清水亜美さんの「やっぱり人間なんだな」という感想が緊張感を与えてくれました。
今回はにぎやかで、終盤は雑談と化しているのですが、それが『VOLUME 4』の先の読めない散文的な終わり方と、よくマッチしていると思うのです。『RWBY』関連のインタビューでは、いい仕事をしていると自負しています。


レンタルで、1976年の米映画『スター誕生』。
Mv5bmtq5mzmymji0ml5bml5banbnxkftztc冒頭から、カメラはコンサート会場の中に投げ込まれる。カットを割りながら歌唱するシーンはプレスコを用いねばならず、仕込みが大変なはずである。ところが、主演のバーブラ・ストライサンドの音声解説を聞くと、すべて同時録音なのだそうだ。
同録の甲斐もあって、カメラが現場に殴りこむような、荒々しい撮り方が出来ている。フレームを決めてから、俳優を配置するタイプの映画ではない。


完成度が高いのは、ラスト近くの構図だ。
落ちぶれたロックスターが、赤いスポーツカーで砂漠の中の一本道を疾走している。空撮も交えて、あらゆる角度から撮りつづける。荒々しいショットの連続で、彼が自暴自棄になっていることが分かる。
だが、カメラはその場にとどまり、画面奥へ去っていく車を凝視しはじめる。車はついに地平線をこえて、画面から消える。
カットが切り替わると、画面いっぱいの空である。車が消えた画面奥から、今度はヘリコプターが画面手前へ飛んでくる。トランシーバーを通して、「転倒による事故」「死者は男性一名」などのセリフが聞こえる。
セリフを裏付けるように、カメラがヘリの動きに合わせてティルトダウンすると、横倒しになってクラッシュした赤い車が、大きくフレームインする。横転した車は、いわば巨大な舞台装置として機能する。人々は、車の裏側で隠れるように芝居をする。

地平線の向こうへ消失した車。その消失点から現れるヘリコプター。事前と事後、決定的に違ってしまった二つの世界を表わすには、むしろ構図を共通させたほうが効果的なのだろう。
そして、カメラは去っていった車の手前に回りこんでいて、その悲惨な末路をあけすけに撮りつづける。いわば、観客を出し抜いて、何が起きたのかを目撃している。事故の瞬間を、われわれは見せてもらえない。だが、カメラは事前に知っていたのだ。
構図をどう決めるか、カメラをどう動かして、何を撮るのか。ただそれだけのことなのだが、われわれは個々のカットを頭の中でより合わせて、「とりかえしのつかいなことが起きた」と、事態を勝手に認識してしまう。われわれは、いつも映画に騙される。だから、「疑いながら見る」必要があるのではないだろうか。

(C)1976 - Warner Bros. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月11日 (水)

■1011■

【懐かしアニメ回顧録第35回】キャラクター描写にまで関与する、「THE ビッグオー」のすぐれたロボットデザイン
Dlqk8vzvwaeevoa第12話のビッグデュオとの対決について書きました。
ちょっと分かりづらいかも知れませんが、左目をカバーで覆っていて、右目がむき出しになった男が敵となります。彼の乗るロボットも、やはり左右不対象の顔をしています。そのロボットが、味方であるビッグオーの右目を砕いて、内部のカメラをむき出しにします。
つまり、敵の男とビッグオーが外見的特徴(右目がむき出しになる)を共有してしまうのです。ここで視聴者は「ビッグオーが倒されるのではないか」ではなく「ビッグオーに乗っている主人公が、敵のように狂ってしまうのではないか」を怖れているはずです。

つまり、「ロボットの顔」を通して、キャラクターに変化が起きてしまうのではないか、という不安が生じるのです。
いつも言っていることですが、「画面に何が映っているか」を検証することなしに、作品の価値は測れません。


レンタルで、ポーランド映画『パプーシャの黒い瞳』。モノクロ映画。
Papusza_sub1_large自ら文字を習得し、ジプシー出身の詩人として注目された実在の女性・パプーシャの生涯を、時系列を前後させながら描く。しっとりした溶暗・溶明が印象的な映画だ。
ここにアップしたのは、家族に売られて、望んでいない相手と結婚させられるシーン。左右から女たちの手が伸びてきて、花嫁衣裳を着せられている。ワンシーン・ワンカットである上、スローモーション、ようするにハイスピード撮影である。
きれいに化粧してもらいながら、パプーシャの左目からは涙が流れている。なぜハイスピード撮影かというと、このカットには彼女の主観的な時間が流れているからだろう。撮影はあっと言う間だったはずだ。だが、そのあっという間に、家族に売られた彼女はどれだけ様々なことを考えただろう? それを想定すると、撮影時と上映時の時間の流れを変えて、いわば無慈悲に流れていく実時間に抵抗するしか、「人物の内面」を映画の原理をもって描く方法はないかに思われる。


もうひとつ、印象的なシーンがある。上記カットの直後である。
パプーシャを金で買った男が、花嫁衣裳のパプーシャの前に現れて「これから贅沢させてやるぞ」と得意げにしている。パプーシャはナイフを取り出す。男を刺すつもりなのだろうか。
そうではない。彼女は自分の左頬をナイフで傷つけて、「これでも結婚する気はある?」と問いただす。そこで、画面はフェードアウトする。
しかし、シーンはそこで終わりではない。短いフェードインによって、再び、自らの顔に傷をつけたパプーシャのアップが映る。彼女の声がかぶさる。「大いなる森よ、どうか私の子宮を塞いでしまってください」と。彼女の顔の傷から、血が滴り落ちる。
それから、またフェードアウト。長い黒コマがつづく。画面が明るくなると、十数年が経過している。

いちどフェードアウトで終わったはずのシーンを、なぜまた繰り返すのだろう?
二度目のパプーシャのアップでは、彼女の心の声が聞こえる。つまり、このカットは実時間ではなく、パプーシャだけが感知している「内面の時間」なのではないだろうか?
だから、フェードイン/アウトで包みこまねばならなかった。文章でいうと、( )のように。


「作中人物の内面」などという不可視のものを表現するとき、映画は機械的レトリックを駆使せねばならない。そのレトリックとは、すなわち撮影時に俳優が演技している「実時間」と、上映される「映画の時間」とを乖離させることだ。
Dbpbvbcvyaer1mたとえば、『ブレードランナー』終盤、ロイ・バッティが絶命するのを、デッカードが見ている。あのシーンで使われているのは「コマ伸ばし」。一秒間24コマで撮影した後、ひとつのコマを複数に増やして、スローモーションに近い効果を出している。
コマ伸ばしによってコントロールされたイレギュラーな時間は、一秒を一秒と錯覚させる「映画の仕組み」から逸脱する。そのようなメカニカルな手続きによってしか、「作中人物の内面」にアプローチするのは不可能。それが映画なのだと思う。(演技やセリフは、映画ではなく演劇に属している。)

(C)ARGOMEDIA Sp. z o.o. TVP S.A. CANAL+ Studio Filmowe KADR 2013
(C)1982 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 8日 (日)

■1008■

レンタルで『突然炎のごとく』。
Ce020c8ef73e3486『ピアニストを撃て』のほうがショックが大きかったが、やはり現場で思いつきのまま撮ったようなルール不在の奔放さは健在であった。
いちばん驚いたのは、女優の表情を印象的に見せるために、ワンカットの中で何箇所か、動きをピタリと止めてしまうこと。つまり、現像したフィルムを見ながらトリュフォーが「この表情がいい」と気に入ったフレームを何十コマも複製して繋いでいるのだ。
それまでの映画は、過ぎ去っていく一瞬をいかに観客の印象に残すか、それに腐心してきたはずだろう。前後のカットや芝居、カメラワークを工夫して、俳優の表情を印象づけるのが「演出」ではないだろうか。
しかし、トリュフォーは、そんなことお構いなしだ。「観客に長く見せたい」と思ったら、そこでフィルムの流れを止めてしまう。わがままで、お茶目で痛快なルール違反なのである。


見せたい表情を、ほんの一瞬だけ「止める」。しかし、フィルムは絶えず動きつづけているので、ビデオの一時停止とは違う。二秒間止めたければ、48コマも同じ絵を繋げなければならない。
映画は、終わるまで一度たりとも止まらない。始まった瞬間から、終わりに向けて突進している。トリュフォーは、それに抗おうとした。しかし、一瞬をフリーズさせるためには、一瞬の何十倍ものフィルムが必要だ。それが、映画の宿命なのである。

俳優が、カメラの前で思いついた演技をする。カメラは、それを「現在」として記録する。その結果、大量のフィルムが残される。いわば、映画の正体は過去の累積である。しかし、映画を見るとき、われわれは瞬間瞬間、「いま起きている新しい出来事」として俳優の演技を見る。過去を未来と錯覚する。

さらに言うなら、「映画は一度たりとも止まらない」、これも錯覚である。映写機にかけられた映画は、実はちょっとずつ止まっては送られ、止まっては送られているからだ。これを間欠運動と呼ぶ。知覚できない無数の「静止」を、われわれは「動き」と錯覚しているのだ。
結局、トリュフォーは、「静止」をもって「静止」を表現したことになる。彼は、カメラと映写機が共犯してわれわれを騙していることに気がつき、映画の目論見の裏をかいたのかも知れない。


さて、アニメーションである。生身の俳優は、自分の演技が無数の「静止画像」として記録されているとは自覚していない。カメラと映写機の存在を意識していない。だが、映画を撮るとは、無数の静止画像を作ることに他ならない。
アニメーションは、「静止画像を作る」ことに自覚的だ。3秒間、俳優の動きを撮った場合、実写映画では72枚の少しずつ違った静止画像が自動的に生成される。アニメーションでは、72枚も必要ない。3コマ打ちなら、24枚の絵を描けば、3秒間の動きを生み出すことが出来る。生身の俳優が24コマ分動いたとしたら、それはどうあがいても1秒にしかならない。

一秒間24枚の静止画に対して、どのような意識と経路でアプローチしているか。それがアニメ映画と実写映画の違いなのではないだろうか。
だとするなら、俳優の芝居を誉めるように、動画を誉めてもいいはずなのだ。……ということに、『突然炎のごとく』でジャンヌ・モローがピタッ、ピタッと止まりながら演技するカットを見て、ようやく理解できた。
(C)1962 by Raymond Cauchetier

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 6日 (金)

■1006■

漫画版とアニメ版の表現を客観的に解析した書籍「二つの『この世界の片隅に』-マンガ、アニメーションの声と動作-」を読んでいたら、矢も盾もたまらなくなって、オープンしたばかりのシアタス調布へ。ようやく、4回目の鑑賞。
640せっかくなので、ULTIRA上映の回を選んだのだが、どこがどう特別なのか、鈍感な僕には分からなかった。機内上映の小さなモニターやレンタルDVDで見た人は『この世界の片隅に』を見たことにならないのだろうか? 彼らの感動は本物ではないのだろうか? そんなことはない。
ある洋画について「IMAXで見ないと監督の意図が十分に理解できない」と諭してくれた人がいたが、監督の意図を正確に理解するのが目的なら、字幕でセリフを追わずに、原語を聞き分けられないとダメなのではないだろうか。そもそも、字幕の面積分、画面が削られている。それは「監督の意図」ではないよね?
こういうくだらない優越意識のスパイラルから、いい加減に脱しないと人生が無駄だよ。僕は今回たまたま、調布までバスで行って、新しい映画館で見たかったというだけで、映画は「監督の意図」を答えあわせする試験問題ではないのだ。

スクリーンや上映環境に「見せられる」のではない。映画は、自分の目で主体的に「見る」ものだ。


「二つの『この世界の片隅に』-マンガ、アニメーションの声と動作-」は非常に優れた本で、第三者が再検証できるような素材からしか、作品を評価しようとしていない。
この芝居を描くのに、漫画では三コマ使っている。一コマ目はこう、二コマ目でこう、三コマ目はこういう絵だ。従って、このような効果が出ている。この効果を、アニメ版ではどう具体化しているか。一連の芝居の中で、どこが何コマ打ちで描かれているか、ひとつひとつ確かめている。
どこに何枚の絵が費やされているか量ることはディテールに過ぎず、マニアックな見方なのだろうか? 誰もが必ず目にしている「表面」にこそ、作品の正体があるのではないだろうか? 実写映画の芝居で、途中で意識してコマ数を変える(1/24コマの中で動きのタイミングを変える)なんてことは原理的に出来ない。芝居の効果を出すために結果から逆算してコマ数を調整することこそ、実はアニメ表現の正体なのではないだろうか。

そして、「ひとつの動きに動画を何枚、何コマに振り分けているか」、その事実に即して『この世界の片隅に』を評価しているのは、僕が知るかぎり、この本だけだ。
すべてのアニメ作品を、動画から評価せよと言っているのではない。フィルムに記録された「事実だけ」から映画を評価するスタンスを、僕は支持したい。
「心が温かくなった」「理由もなく泣けた」は、観客の感想としては自然だし、正しい。僕だって、泣いたり笑ったりしている。しかし、それは映画評論ではない。映画に点数をつけて定義すら曖昧な「ネタバレ」とやらを避けて、泣けるのか面白いのか見る価値があるのかを牽強付会に判断する雑談、それが映画評論と呼ばれてしまっていないだろうか。

コマ数に言及していれば頭がよくて高級、という話ではない。「とにかく泣けたんだ」という検証不能な気分、見た人の漠然とした内面だけが優先されて、「撮影され、フィルムに焼きつけられている事実」が軽視される風潮を、僕は怖いと感じる。


僕には、『この世界の片隅に』を評価する力はない。「このシーンで、実はこんな描写があった」などの発見は、もう大勢の人に言い尽くされているだろう。
主人公のすずが実家に葉書を出そうとして、住所が分からない、どこでしたっけと食卓で聞く。次のカットは、表札をサッと指差すふたつの手のアップ。セリフに頼らない、この乾いたユーモア。ひとつひとつ、意図が確実に達成されている。フリとオチが繰り返される。問いには、必ず何らかの答えが用意されている。情報を隠したり見せたりするテンポが、映画を前進させ、観客をのめり込ませるよう機能している。

もうひとつ、昭和19年はこういう時代で、広島と呉はこのような場所でした、という説明がここまで省かれているとは思わなかった。だから、観客はどういう時代で、どういう場所なのかを読みとろうと前のめりになる。「戦争は悲惨だった、戦時下は大変だった」というおぼろげな印象を材料に、いつ何が起きているのか、自分なりに検証しないといけない。
そして、何がどう悲惨で大変だったのかという問いには、答えが用意されていない。共感能力が必要とされる。これが初めから300スクリーンで上映されるようなメジャー大作だったら、「ここでこう感動してください」という最大公約数が用意されていたことだろう。
僕が心打たれたのは、「二つの『この世界の片隅に』」が事実に対して謙虚だったように、アニメ化が原作という一次成果物を最大限尊重し、どう読み解いてアニメ表現としての「解」を示すべきか、悪戦苦闘しているところ。本編のラストカットは、径子お姉さんが、娘の服を取り出す芝居だったはずだ。漫画では大勢の描かれたコマのいちばん左に描かれている芝居だが、映画ではPANして径子の姿だけ捉えていた。娘を失った径子の、意外な優しさを拾いたい姿勢が、さり気ないPANから感じられた。

僕には、径子の気持ちまでは分からない。しかし、最後にちょっとだけ径子を救ってやりたい映画のスタンスは理解できるし、共感もする。

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 4日 (水)

■1004■

メイキング オブ 『マイマイ新子と千年の魔法』 6日発売
03352733_12011年に発売されたムック本が、電子書籍になります。
電子書籍化の話自体は、かなり前から聞かされていました。当時としては力不足でしたし、出来れば作り直したいし、そもそも僕では役不足とも思うし……。
『この世界の片隅に』の大ヒットによって『新子』にもスポットが当たったことは、とても嬉しいです。今後も、ちょくちょく上映されていくことになるだろうと思います。
冒頭の福田麻由子さんのナレーションが「去年の夏」のところで途切れて、また「去年の夏」で再開する、あの音楽のようなタイミング……時間感覚。「これは何にも代えられない、すごく大事なものが始まった」という直感は、何度見ても新鮮なままだし、いまだに何がどう凄いのか言い当てることが出来ません。


この本の発売日に東日本大震災が発生して、そのちょっと前から、僕は母の死の中でこの本を作っていたのだなあ……と、当時のあれこれを振り返ると、買ってくださった方、これから買ってくださる方には申し訳ないけど、いつか『新子』資料集の決定版が、僕以外の誰かの手によって作られるべきだと思わずにいられません。
『この世界の片隅に』を20回も観に行っている人たちは、どんな気持ちなんだろう。
『新子』が上映されるたびに何度も足を運んで、いつの間にかお客さんが途切れなくなってきて、寒い寒い冬から少しずつ春になって、「そろそろ僕が行かなくてもいいかな」と距離を置きたくなった、ちょっと胸がしめつけられるような気持ち。明らかに過剰な思いいれ。

「廣田さんが、そこまで言うなら」と、映画館に一緒に行った知り合いたち。卒業した小学校から歩いて行ける映画館で、映画そっくりにドカンを開催した日。映画そっくりに集まってくれて手伝ってくれた人たち。福田麻由子さんに渡した花束。
貴伊子の母の不在と、タツヨシの父の自死は、どこかで僕の母の死と結びついてしまっている。人生を分け合ってしまっている。この映画と僕とが。
『マイマイ新子と千年の魔法』は、僕の人生から離れてくれない。他のどの映画とも違う。あのとき親密にしていた他の誰とも、分け合えない。それは「独占したい」とか「俺がいちばんよく分かっている」というくだらない感情とは、まったく違います。「孤独」なのです。この映画のことを思い返すたび。

僕の「孤独」は、この映画の中に溶け込んでいて、分けることが出来ない。僕は、この映画に甘えているのです。あまり、こういう関係はよろしくないな、と思います。


僕の世界観というのは、「何もなくて退屈だとボヤくよりは、ちょっと豊かな気持ちになれるように、ほんのちょっとの慰めがあるように」。映画やアニメも、そのためにあると思っているし。僕の仕事も「ちょっとの豊かさ」につながってくれればいいと思っているし。
広い道は敷けないけど、細くて歩きやすい道を、あまりいい思いをしていない誰かが安心して使ってくれればいいな……と思っています。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2017年9月30日 (土)

■0930■

アニメ業界ウォッチング第37回:“ぴえろ”創設者の布川郁司が語る、アニメ企画のこれまでとこれから
T640_739353ぴえろの布川郁司さんに、取材させていただきました。布川さんのお名前を記憶したのは、言うまでもなく『うる星やつら』のオープニングです。
この取材は、10/7(土)から開始予定の【三鷹ゆかりのアニメ『魔法の天使 クリィミーマミ』ビジュアル展】の告知の意味もありますが、お話のテーマは、あえて別のものにしています。


レンタルで、1996年のイギリス映画『秘密と嘘』。
Secretsandlies若い黒人の女性が、母親を亡くす。彼女は役所で、自分には生みの母親がいることを知り、彼女に会いに行く。母親は白人で、工場で働きながら成人したばかりの娘と暮らしていた。母親は、黒人の娘が会いにきたことに戸惑う。
まあ、筋立てを整理すればこうなるのだが、最初は三つぐらいのプロットが別々に並走している。母親の兄は、小さな写真館を経営している。そっちはそっちで、妻とのいさかいが絶えない。それぞれ、小さな家族模様が描かれる。

映画にグイと引き込まれるのは、写真館を経営する兄が、家族写真を撮るシーン。おそらく俳優ではない普通の人たちの家族を実際に集めて、カメラの前で正装させて、アドリブで撮っている。次から次へと、さまざまな夫婦や親子、ペットの犬などが画面に現れては消えていく。カメラを覗いている兄の声は、「笑顔でお願いします」「もう少しあごを引いてください」など、画面外から聞こえるだけだ。カメラのファインダーごしに、彼と観客とは一体感を経験する。
このシーン以降、どんな場面が出てきても、親しみをもって場面に没入することが出来る。


この映画は、ほとんどすべてアドリブで撮られている。だから、表情を捉えやすいように、人物は並んでいるか、横顔を見せるような位置に座っている。どうしても切り返しをしなければならないシーンでは、カメラを二台置いて、同時に撮っている。
F_4909083_1クライマックス、バラバラに生きてきた人たちが一堂に会するパーティのシーン。正面の座席には、誰も座っていない。なので、7人全員のリアクションを同時に撮ることができる。
検眼師の黒人女性が「人の目を見ると、その人の性格が分かるのよ」と話すと、写真家の兄が「その通りだな」と相槌を打つ。職業や立場をふまえながら、それらしい雑談を交わしている。
この手の人間くさい撮り方をした映画が好きな人にとっては、至福の二時間半だろう。

特に、黒人女性と彼女の母親とが、どんどん仲良くなっていくシーン。笑いながら店から出てくる二人を、望遠レンズで撮っている。セリフは聞こえない。周囲には、映画と関係ない通行人も映っている。そのラフさが、心地いい。
昼間から酒を飲んでいた母親は、最初は髪も服も乱れていたが、だんだん明るい色の清潔な服を着るようになる。二人が食事する店が、あまり高級そうではないレストランなところもいい。当然、セットなど建てるタイプの映画ではないので、すべてロケである。
しかし、衣装やメイクや撮影場所は、とても丁寧に選択されている。


こういう映画では、カット割りや構図を分析しても、ほとんど意味がない。俳優の生のリアクションを引き出しながら、たまたま撮れた良い表情を選んで編集したりしているからだ。
無理やりなことを言うと、街にカメラを持ち出したという意味では、こういうロケ重視、アドリブ重視の映画はヌーヴェルヴァーグの子孫と呼べるかも知れない。というより、アドリブ重視といえば、ジョン・カサヴェテス監督の『アメリカの影』があった。そっちに近いのか。

結局、いろんなタイプの映画を受容するには、いろんなタイプの映画をあれもこれもと見続けるしかない。そして決して点数などつけず、映画によって寛容に、おおらかに尺度を変えることだと思う。

(C)October Films

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月28日 (木)

■0928■

水曜夜は、『RWBY  VOLUME 4<日本語吹替版>』のマスコミ試写。
1499130938_1_7_267c31726089125dea0bウェブで配信された全エピソードを繋ぐと3時間を超えてしまうため、今回は145分に編集されたものが劇場で上映される。僕はYouTubeで配信されるたびに少しずつ見ていたのだが、日本語版が製作されると聞いたので、それまで待つことにした。
『RWBY』の新しいエピソードを見る前は、いつも心配になる。特に、上図のようなスチールを見てしまうと「こんな絵で大丈夫なのか?」と、不安になってしまう。今回はソフトが新しくなり、3DCGモデルが刷新されているそうなので、あのカクカクの愛らしいローポリ感は、少し薄まった。しかし、やはりアングルによっては造形が不自然だしイマイチだし、そうでなくては『RWBY』ではないと思える。
これは、不思議な感覚だ。CGモデルの出来があまり良くないほうが、「劇」や「ドラマ」の優秀さ、日本語吹き替えの声優たちの演技力がパリッと際立つ。不思議なバランス感覚が成立している。

なんというか、この今ひとつ理想どおりには出来ていないかも知れないCGキャラたちが、なんとかしてドラマを伝えようと懸命に、必死に演技しているように感じる。いつもいつも、それを愛らしいと感じる。
だから僕は、普段は重視しない「ストーリー」の構成力、「物語」が前進しようとする力強さ、機能美に魅せられる。「お話」の力強さに、打ちのめされるのである。


『RWBY  VOLUME 3』は、前半はそれまでの明るい学園モノだったが、後半は学園モノが学園モノであるための舞台そのものを破壊する、ダイナミックな展開を見せた。試写を見て仰天したのは、もう一年近くも前のことだ()。
4人の主役キャラクターたちは散り散りになってしまい、主人公のルビーはサブキャラクターのジョーンたちと別のチームを組んで、旅に出る。
一方、親元で停滞しているのは、ルビーの姉で精神的にも肉体的にも深刻なダメージを負ったヤン、父親や有能な姉、家系にコンプレックスを抱いているワイス、人種差別にさらされ続けているブレイクだ。ルビーは旅をしながら危機をのりこえるが、他の三人にはそれぞれ克服すべき課題がある。

つまり、ひとつの動とみっつの静が、コントラストをつくっている。『RWBY』を見ているとき、僕はいつもそのような抽象的な構図を思い描くし、それに魅了される。
ルビーが新たな4人のチームをつくる。対する敵も、前作から生き残ったシンダーを含めて4人のチームであることが判明する。前作で存在が明らかとなった四季の女神も、4人である(彼女たちのエピソードも、まだ継続している)。また、この世界を構成する王国も、四つある。それは偶然なのだろうか、何かの象徴なのだろうか。
そして、四季の女神のうちの一人が倒れ、ひとつの王国が陥落したところで前作は終わっていた。つまり、『VOLUME 4』はバランスを欠いた、不均衡な世界が舞台となる。絶えず、不穏な雰囲気が漂っている。ルビーの旅は困難に満ち、かつてのメンバーだった三人も、深く苦悩する。


だが、それでも物語は希望を予感させる。停滞していたヤン、ワイス、ブレイクは、それぞれに動き出す理由を見つける。まるで、バラバラに回転していた歯車が、いつの間にか噛み合い、同時に回りだすように。

徹底的にダウンした後は、ちょっとずつアップしていく過程がいちばん面白い。その面白くなってきたところで、『VOLUME 4』は幕となる。次の舞台は緑の多い、「春」を予感させる王国だ。前作のラストが冬で、今作のラストが春。このような抽象的な対比や構成が、『RWBY』は非常に上手い。CGキャラのルックスを、概念や観念で補っている。情熱ではなく、知能で戦っている。
(そうやすやすと再登場させないほうが効果的なキャラクターは少しも顔を見せず、ちょっとだけ名前を出す。その名前を聞いた相手の意外なリアクションで、相手がどういう人間か分かる……といった、高度な作劇をやっている。)


絵とドラマのギャップが、『RWBY』の武器なんだと思う。
僕は『RWBY VOLUME 1』の最終エピソード、ワイスとブレイクが思想的・人種的に対立し、「お友達さん」を求めるペニーという少女が介在して2人が仲直りするエピソードが大好きなのだが、あれは前半の学園モノの軽いノリがあったから、対比として叙情的に感じられたのだと思う。

『VOLUME 4』は、ずっしりと重たい。会話も複雑だ。だが、絵はペラペラに薄く感じられるときがある。ペラペラなルックスだからこそ、声優たちの演技が真価を発揮する。がっちりと重厚に感じられる。アクションの爽快さが増す。嫌味ではなく、本当にそう思う。
なんという深遠な物語なのだろうと、呆然と立ち尽くすのである。

(C)2017 Rooster Teeth Productions, LLC.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月27日 (水)

■0927■

モデルグラフィックス 12月号 発売中
Dkikizxvwaax5rs●組まず語り症候群 第59回
今回は、ぞっこんコレクション『まじかるタルるートくん』より、「1/10 江戸城本丸」(バンダイ)です。このシリーズについては、ほぼ歴史の闇に葬られているのではないでしょうか。
ついつい、気を緩めると、この手のフィギュアネタに走ってしまうのですが、「まだそんなことやってんの?」と言われるぐらい、しつこく続けたいと思います。誰が読んでるか分からない、雑然としているけど無限に自由な連載でありたいのです。このブログも、そうですね。


レンタルで、『チャンス』。この映画も、中学生の頃にテレビで見たきり、すっかり分かった気でいた。
Mv5bnzbkzgi0mzitowq3mc00n2izltkymtqたぶん、概要はよく知られているのではないだろうか。生まれてからほとんど外出したことのない無学な庭師が、初めて街に出る。たまたま大統領とも付き合いのある実業家夫婦と知り合ったことで、庭師としての他愛ない発言が勝手に誤解され、政治的影響力を持ちはじめてしまう。
優れたコメディなのだが、後味は悪い。空虚といえるぐらいの人間不信が根底にある。原作・脚色のジャージ・コジンスキー氏の数奇な運命を知ると、その不信感も納得である。


主人公の庭師は、人と会っているとき以外は、テレビばかり見ている。
彼自身が副大統領の代理でテレビ出演するシーンからは、テレビ番組を見ている人々にカメラが向けられて、視点が複数になる。
14706_005庭師である主人公と暮らしていた黒人の家政婦が、黒人ばかり集まったホテルで、テレビを見ている。そのシーンはテレビ画面のアップから始まるのだが、テレビの性能が悪いのか、画面は真赤である。家政婦は「白人なら、この国ではどうとでもなる」「本当は頭が空っぽなのに、白人だからテレビに出られた」と、いわば真実を言い当てている。しかし、彼女が見ている画面は真っ赤で、本来あるべき色ではない。
色眼鏡をかけているのは彼女なのだろうか、それともテレビなのだろうか。


「テレビを見ている」といった、登場人物の受動的な状態を見てしまうと、観客は(自分も映画のスクリーンを見ているかしかないので)登場人物と自分とを重ね合わせてしまう。冒頭から、ピーター・セラーズの演じる庭師はテレビを眺めているだけだ。いやでも映画に没入してしまう。
さらに、「実は彼は世間知らずの庭師にすぎない」と知っているのは観客だけなので、観客は優越意識をもって映画を見ることができる。彼の正体を知る弁護士や家政婦の再登場によって、その優越感は揺らぐ。

もうひとり、庭師の正体に気がついた者がいる。実業家の家に寝泊りして、彼の治療をつづけている医者である。周囲の人間が庭師の言動にうっとりと魅了されているとき、医者だけが不審の目を向けている。
彼の登場シーンにも、ちょっとした工夫がある。庭師は実業家に薦められて、葉巻を吸おうとしている。歓談する2人の背後でひとり、ビリヤードのキューを構えているのが医者なのである。いわば、彼だけが勝負に出ているというか、戦闘状態に置かれている。
そして後半、医者は庭師の情報を外部にリークしようと、電話をかける。そのシーンで、医者は右手を椅子の背もたれにかけて後ろに引き、左手を机のうえ、まっすぐ前に伸ばしている。つまり、ビリヤードで玉を突くのと、まったく同じポーズをしているのである。

映画を見るなら、こういうところを見ないと。「監督の意図ではないから認識する必要はない」「監督の意図を受け取れたものが、正しい観客」という考え方は、文化を萎縮させる。


『けものフレンズ』の監督降板をめぐるTwitter上の騒ぎには、うんざりさせられた。
監督=作家の側を神聖視しすぎ、例によって「僕は彼のことをちょっとは知っている立場なんだけど」と事情通の顔をしたがる者。人気の出た過去のコンテンツについて「実は、あれは俺が仕掛けたんだよね」と得意顔になる者。
第一線で戦いつづけている者は、いつだって「今」と「明日」の話しかしない。「昨日」の話をすればするほど、第一線は遠のいていく。

(C)United Artists Corporation

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«■0925■