2016年9月27日 (火)

■0927■

昨夜は『ゼーガペインADP』、関係者&マスコミ試写会。新宿ピカデリーにて。
18b18b63764ae18b僕は劇場用パンフレットやBDのブックレットを構成したので、セリフが入ったアフレコ用の映像(CGは大部分が完成ずみ)を見ていました。その映像を見て驚く前に、関係者から「今度の新作は、こういう構造になっている」と知らされて、すでに十分、驚いていました。
にも関わらず、実際に完成した映像から、とめどなく溢れるサービス精神を感じて、終わったあとは笑顔になっていました。多分、この作品を見て、「どこも面白くなかった」という人はいないでしょう。どこかひとつは、見て良かったと思える要素が入っているはずです。

「アレが駄目なら、コレをどうぞ」「コレが駄目でも、まだアレが残っている」という具合に、次から次へとお楽しみ要素を盛り込んで、料理がお皿から溢れている状態です。「絶対に楽しませる」「決して飽きさせない」前向きなエネルギー、バイタリティは、テレビ版を凌駕しています。

一度きりの登場ではもったいない、個性の際立った新キャラクターたち(僕はテレビではワンカットのみの登場だったツムラ・サチコ推しです……)も楽しいのですが、個人的にはメカ! 主役のアルティールの密度感も素晴らしいし、ザコ級の敵メカまで「こんな動きをするのか!」と唖然。メカ目当てで見ても、十分に満足できるはず。


日本のテレビアニメは『鉄腕アトム』の時代から、バンク・システムと二人三脚でした。最近は少なくなりましたが、かつては戦闘シーンなどで「同じ原画を何度も使う」手法は珍しくありませんでした。

しかし、そもそもセルアニメは「同じ絵を繰り返して使う」ことで成り立っています。たとえば、歩く芝居がそうです。一歩ずつぜんぶ原画を描きなおしていては、二度手間になってしまいます。髪や服のなびきも、リピートです。きれいなリピートは、見ていて楽しいものです。
そして、口パク。会話するカットです。閉じ口・開き口・閉じかけの口の三枚だと思いましたが、セリフに合わせて巧みにタイミングを変えつつ、繰り返して使っています。
そのデジタル的な構造は手抜きではなく、セルアニメの基本概念、考え方の根本、いわば「原理」です。

さて、『ゼーガペイン』は、「ごく限られた生活空間を擬似的に再現した仮想現実」がメイン・モチーフです。その仮想空間は数ヶ月でリセットされ、人々(のデータ)はまったく同じ暮らしを、何度も何度も繰り返しています。
この物語設定が、セルアニメの「繰り返して同じ絵を使う」原理と、あまりにも密接にリンクしているため、『ゼーガペイン』は「アニメである」ことに自覚的な、自己批評的な作品になっていると思うのです。


たとえば、第7話で主人公のキョウが、ガールフレンドのカミナギを抱きしめます。
まったく同じ原画が、第20話で使われています。しかし、このときはカミナギが感情表現できなくなっているため、第7話の「戸惑って目をパチパチさせる」芝居はありません。じっと目を開いたままです。同じ原画でも、撮影で意味を変えることが出来るわけです。

むしろ、第7話と第20話で同じ絵を共有しているからこそ、キョウとカミナギ、2人の関係が決定的に変化してしまったことがハッキリと分かるのです。「同じ絵だからこそ、細かな差異が際立つ」わけです。

さらに言うなら、キョウたちはサーバー内で生活している記憶体にすぎないため、他者との共通部分の多い身体データは、「欠損部分を平均化して補っている」設定です。しかも、同じ生活を無限に繰り返しているため、行動も仕草もパターン化されているのではないか?
劇中でも、「今日は誰がケガをする」と、細かな出来事まで予定調和に組み込まれていることが明言されます。
この世界設定を映像化するとしたら、セルアニメが最も適しています。セルアニメの構造自体が、「繰り返される動作」を懐胎しているからです。
まったく同じ絵が使われているのは、この世界が無限にループしているからだ……と、説得力をもって説明できるわけです。テレビの絵を転用している『ゼーガペインADP』で何が起きるのか、何となく察しがつくのではないかと思います。


そして、新作カットを挿入したり、サーバー外の「現実世界」のシーンでもテレビの絵を転用することで、『ADP』は「ループする世界を同じ原画で表現する」約束事を、少しずつ壊していきます。

何かが変化することなしに、セルアニメで物語ることはできない……と、『ADP』を見て、あらためて気づかされるのです。昔の絵に手を加えることの意味、まったく新しく描くことの意味など、類推したり、批評しがいのある、奥行きをもった作品です。
さらに痛快なのは、テレビ版の『ゼーガペイン』を裏打ちしているように見えて、完全に合致してはいないこと。あえてズラしたり、ボカしたりしてある箇所に気づいて「!?」となります。
謎を解くには、輪をかけて大きな謎をかけるしかない――その大胆不敵さが、『ゼーガペイン』の鮮度を保ち、リニューアルし、レトロではない「2016年の新しい作品」たらしめているのです。素晴らしいことです。

(C)サンライズ・プロジェクトゼーガADP

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2016年9月25日 (日)

■0925■

モデルグラフィックス 2016年 11 月号 本日発売
0000000032822組まず語り症候群 第47夜
今回は、トランペッター社の1/35コンテナです。

「いよいよ、ゼーガペイン アルティールの魅力を語るときが来たようだな。」
プレミアム・バンダイの「1/72 ゼーガペイン アルティール」にかこつけて、テレビ版『ゼーガペイン』と来月上映の『ゼーガペインADP』について、カラー1ページで語っています。
ダメモトで「半ページ、もらえません?」と相談したところ、1ページもらえました。

ホビー業界インサイド第15回:株式会社アイジェットに聞く、3Dプリントサービスとの“賢いつきあい方”
企業向けに3Dスキャン&プリント・サービスをしているアイジェットさんに取材しました。ツイッターで見つけて以来、ずっと気になっていた会社さんです。


昨日24日は、全日本模型ホビーショーにて、マックスファクトリー主催のトークイベント【美少女Cr0uqg5umaamsrz プラモ最前線 金型に込めた「カワイイ」への祈り】に、ゲスト出演。司会は、玩具・ホビー関連のイベントではおなじみの五十嵐浩司さん、そして当イベントの発揮人でもある高久裕輝さんも出演しました。

そもそもは、自社でminimam factoryなる1/20スケールの美少女フィギュア開発に関わっている高久さんから、「バンダイのフィギュアライズバスト、コトブキヤのフレームアームズ・ガールと、三社三様に美少女プラモが併走している背景には、何が作用しているのか?」と、お題を振られたのがキッカケです。

僕は、80年代初頭に起きた美少女キャラのプラモデル化ブームを本にしました()。
しかし、80年代に発売された『うる星やつら』のラムちゃん、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』と同社のフィギュアライズバストは直結しません。「インジェクション・キットだから」「プラモデルだから」で無理に直結させようとするのは、現状認識が足りません。不毛です。知識が足りなくても、認識の精度をあげることは出来るはずです。


たとえば、90年代生まれの若い世代は『うる星やつら』のプラモデルが発売された時代を知らず、幼いころに造形も塗装もしっかりしたガシャポンを、お小遣いで買っていたわけです。60年代生まれの我々とは、「フィギュア」に対する肌感覚がちがいます。
そこそこ出来のいいアニメ・フィギュアを、たった200円で買える時代があったのです。
PVC完成品も3,000円ぐらいから、高くても8,000円で買えたはずです。関節可動するフィギュアも90年代後半から2000年代前半に進化・発展し、安いものなら2,000円程度で買えました。
いまの美少女プラモデルは、あの夢のような10年間のインジェクション的再生なのです。

92年の『美少女戦士セーラームーン』放送による女玩の活性化(そのムーブメントの中での『セーラームーン』女児向けプラキット発売)、94年のマスターグレード発売と『スポーン』の日本上陸とHGガシャポン発売、翌年の『新世紀エヴァンゲリオン』放送による異業種からのフィギュア商品参入、97年の超合金魂発売あたりから話を始めないと、「フィギュアライズバストを発売している現在のバンダイ」には繋がりません。


一方で、コトブキヤやマックスファクトリーはレジンキットを販売していたメーカーであり、「キットから完成品へ」という伏流水があり、その流れの中で生じた「ソフトビニール→PVC」にいたる素材の変遷も、決して見のがせません。

フィギュアという単語が一般にも浸透したのは、90年代から00年代にかけてでしょう。
あの時期の一大オモチャ・ルネッサンスを省いて、いきなりラムちゃんから話を直結させるのは、あまりに乱暴です。ホビー業界には、言論が足りていないのです。
なので、今回のイベントは良い出発点だったし、今このタイミングで語ることができて、とても有意義でした。まだまだ、整理すべきことは、いっぱいあります。

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2016年9月22日 (木)

■0922■

アニメ業界ウォッチング第25回:「ガンダム」の制作進行からアニプレックス会長まで…植田益朗の目指す「アニメ100周年プロジェクト」とは何か!?
T640_712455インタビューをしました。
植田さんは、僕が20代の後半、サンライズに勤めていたころの上司です。入社するときと辞めるとき以外も、なにかと相談していたように思います。
その後、イベントなどでお会いすると、「廣田……もう、アニメは終わりだろう」などと冗談とも本気ともとれぬ発言をしていたのですが、その雰囲気は、今回も変わりません。ただ、冗談のように聞こえる部分こそが、植田さんの本気なのだと感じました。


レンタルで、カナダ映画『ヴィクとフロ 熊に会う』。
Sub3_large_2コメディとも受けとれるタイトルだが、原題そのまま。ベルリン国際映画祭で、アルフレッド・バウアー賞を受賞。それ以外に、まったくセールスポイントのない希少な映画が、レンタル屋で86円で借りられる日本、すごい。

ヴィクという61歳の女性が、森にある小屋をたずねる。やがて、恋人のフロが合流する。レズビアンのカップルだが、そこを強調した映画ではない。見る人が見ると、同性愛にかんする記号や暗喩が入っているそうだが、あまり気にならない。
シーンの最初は、ほぼ人物の局所的アップで始まる。顔とか手とか。そうでなければ、まったく顔の見えないアングルから始まる。北野武の映画を思い浮かべてほしい。登場人物が、呆然と、あるいは憤然として何かを見つめている。次のカットで、ポンとそれが映される。詩のように、必要なことだけを、ポツポツと語るスタイルだ。
説明のための段取りを、周到にとり除いている。あるいは、説明をなるべく後回しにするよう、段取りしている。


事態は、唐突に起きる。あるいは、すでに起きてしまったあとだ。
そういうスタイルが好きな人には、至福の時間を提供してくれる映画。アキ・カウリスマキの『マッチ工場の少女』のような、乾いたムード。しかし、『ヴィクとフロ 熊に会う』は女優の顔がいい。歳相応の色気がある。
映画が低予算になればなるほど、俳優は生の顔をあらわにしていく。洋の東西をとわず、予算と俳優は密接に関係している。俳優が演技していること。それのみが、劇映画の最後の砦だ。生命線だ。街角でゲリラ的に撮影しようとも、カメラがなくてスマホで撮影しようとも、そこに俳優の顔が映っているかぎり、「劇」は成立している。

僕はそのような、映画が映画である原理をむきだしにしている、構造をあらわにした映画が好きだ。原理や構造は、嘘をつかない。主観に左右されない。感情移入という言葉に警戒せねばならない。誰にも感情移入できずとも、その映画の構造を愛することはできるはずだ。
情に訴えねば共感を得られぬ表現は、どこかで必ず嘘をついている。

僕が誠実でありたいのは、情を排除しても、なお美しい表現を見落としたくないからだ。
ただ泣きたいだけならば、映画など見る必要はない。
感性を弄ぶのではなく、僕は「これ以上は先へ進むない」というぐらい簡素な、力強い原理、構造に出会いたい。その地の果ての美しさを裸眼で見たとき、はじめて僕はまじりけのない涙をこぼす。

(C)9265-2775 QC INC. 2013

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2016年9月21日 (水)

■0921■

見逃した名作も見つかるかも…? #女性映画が日本に来るとこうなる が「どうしてこうなった」続出(
日本の映画ポスターは何故ダサいのか(

前者は「女性映画」というカテゴライズの偏狭さゆえ、かぎりなく難癖に近づいていく(音楽がモチーフの『はじまりのうた』は「女性映画」なのか?)が、何が不満かは、よく分かる。後者は現状分析をまじえた、かなり建設的な議論だ。
日本はアメリカ、韓国、ヨーロッパに比べて、絶望的に年間入場者数が少ない(「統計で見る世界映画産業の情勢」)。
「年に一回、映画館に行くか行かないか」という意識の人を振り向かせるには、パッと見た分かりやすさと通俗性に訴えるしかない。映画館へ行かないかわりに、CMが垂れ流しの地上波テレビを見ている日本人は多いだろうから、軽佻浮薄なタイトリングと派手なポスターは論理的帰結ではないだろうか。
(少ない観客を奪いあうため、表現は多様性を喪失していく。)

『ぼくのエリ 200歳の少女』と『ヴィオレッタ』で配給会社を取材したが、タイトルやポスターに関して、配給会社は現地法人に許可を求めながら進めていた。前者に関しては、決定権をもっているのは女性社員の方だったので、「オッサン担当者が勝手な女性像を押しつけている」のは幻想であろう。


「原題に対して邦題のタイトルがひどい」という論評を初めて目にしたのは、シガニー・ウィーバー主演の『愛は霧のかなたに』。1988年のことだ。
原題は“GORILLAS IN THE MIST”(霧の中のゴリラ)。見たことがないので、あとでレンタル屋で探してみよう。

同年、『孔雀王』公開にあわせて行われた一瀬隆重プロデューサーの講演に足をはこんだことを思い出す(僕は当時、日大映画学科の学生だった)。
A0305461_548554一瀬プロデューサーは、『帝都物語』の「東京には、怨霊がおんねん」という宣伝コピーを却下した人物だ。その結果、同作の新聞広告には「これが映画だ。」のコピーが踊った。(左のポスターを見ると、「我を祟めよ」がメインのコピーとなり、「これが映画だ。」は小さく書かれている。)

その講演で、一瀬プロデューサーは「映画の宣伝は、ちょっとダサくするのがコツ」と述べていた。言われみればなるほど、映画のポスターやコピー、雑誌の表紙などを見ていくと、「ちょっとダサい」ものが幅をきかせている。オシャレなものは、少数の客を相手にしたものに限られる。
「ダサくなった」のではなく、「ダサくした」可能性を忘れてはならない。


僕はレンタル店では、「ヒューマン」「ドラマ」の棚を漁ることが多い。『素敵な人生の○○』『しあわせの○○』といった邦題ばかりなので、原題も確認する。しかし、難解な原題だと戸惑ってしまうのも確かだ。

1995年、香港映画『恋する惑星』が話題になった。
ウォン・カーウァイの映像センスにも魅了されたが、何より邦題がよかった。映画雑誌で、配給のプレノンアッシュに邦題について訊いたインタビューが載っていたように記憶する。邦題のセンスのよさが、映画の印象をかっさらってしまった好例だ。
原題は『重慶森林』、英語圏では“Chungking Express”。『恋する惑星』のセンスのよさは断トツだ。それゆえ、『恋する○○』は20年たった現在でも、安易に多用されている。
(“Chungking Express”の北米配給は、クエンティン・タランティーノの配給会社Rolling Thunder Pictures。)

邦題のタイトルのダサさ……というより、多様性の低さは「映画館に足を運ぶ人が少ない」窮状が招いているにすぎない気がする。
その状況を裏づけるデータがネットにあふれているのに、「日本は文化的後進国」と嘆いていても、何も変わらない。

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2016年9月19日 (月)

■0919■

レンタルで、大島渚の『悦楽』と、米映画『クラッシュ』。
322654view001クローネンバーグの愛すべき変態映画『クラッシュ』じゃなくて、アカデミー作品賞を受賞した2005年作品。タイトルは車の衝突事故と、人種間の軋轢のダブル・ミーニングになっている。
幾重にもかさなる黒人差別や、ペルシャ人がアラブ人と間違われて、経営している店を襲撃されたり、テーマに即した事件を効率よく、別の言い方をすれば「都合よく」描いているにすぎないのだが、グイと引き込まれた。

かぎられた時間と場所で、多くの人々がすれ違う、グランドホテル方式の映画だ。俳優の顔が印象的かどうかが、大事になる。
黒人女性というだけで屈辱的な目にあわされるタンディ・ニュートン、すさまじい人種差別主義者の警官であるマット・ディロン、地方検事を演じたブレンダン・フレイザー、悩める黒人警官のドン・チードル、心優しきチンピラ、リュダクリスの顔も忘れられない。
数えきれないほどの顔、顔、顔……演出がどうあれ、脚本が何であれ、俳優は映画を救う。


そして、もうひとつ。キャラクターたちが「私はいま、こういう理由で怒ってるのよ」と、ストレートに説明してくれるのが、いいんだろうな。「このあたりは白人が多いからな。俺たちが黒人ってだけで警戒される」とか、遠慮なく、どんどん説明してくれるところが。
いつもの僕なら、「セリフだけで完結したセリフは退屈」と批難するところだ。だけど、この映画からは、多民族がごっちゃに暮らすアメリカの実相を知りたかったわけで、点数をつけることが目的じゃない。
まんまと、アメリカという国に興味がわいてきたので、それは十分な収穫。

11月の旅行で、ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港で乗り換えるんだけど……最初はアメリカ国内はイヤだったんだけど、そうでもなくなってきた。
ヨーロッパに観光に行けば、僕らは韓国人や中国人に間違われる。三番目に「ひょっとして日本人?」と言われる始末。向こうから見れば、「アジア人」と十把ひとからげだよ。
それを肌身で知れば、日本人の妄信する同質性・均質性に、ほとほと嫌気がさす。


昨夜、ツイッターで一方的なdisりを見ていて、思ったこと……。
威丈高に他人を叩ける者には、「このジャンルでは、俺がナンバーワン」「異論は認めない」優越感があるんだろうな。

でも、優越感と劣等感は、コインの表と裏だから、「てめえの意見は認めない」とムキになっている人は焦ってるんだよ。優越意識が脅かされていることを、本能で悟っている。
いつもは傲慢で偉そうなのに、落ち込むと雨に濡れた犬みたいに、心配になるほどションボリする人って分かりやすいじゃん? 本当に自信のある人は、誰に対しても謙虚で、落ち着いて丁寧に接するものです。

男でも女でも、右でも左でも、ネットでもリアルでも、汚い言葉で他人を罵る人は、強いコンプレックスを持っていると思って間違いないです。

Lions Gate/Photofest/MediaVast Japan

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2016年9月18日 (日)

■0918■

EX大衆10月号 発売中
Ex_taishu●機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ エッセンシャル・ガイド
4ページの紹介記事ですが、文芸評論家の藤田直哉さんに取材し、『鉄血のオルフェンズ』と現代社会の関わりについて、語っていただきました。
たとえば、60年代の学生運動のころと国会前デモとでは、お互いの人間関係について、もっと繊細で複雑になっているのではないか……といった話が出てきます。
そうした切り口からアニメが語られる機会が、もっと増えてもいいと思います。


【備忘録】インターポール(ICPO)が支持する『児童を性的搾取及び性的虐待から保護するための用語ガイドライン』策定までの議論と経緯勉強の記録 #児童ポルノ x #児童性虐待記録物(
参議院議員秘書の経験もある翻訳者、勝見貴弘さんによるインターポールの声明の抄訳まとめ。勝見さんのツイートで、以前、僕が行った署名活動に言及しているとのことで、教えていただきました。以下、勝見さんのツイートからの引用です。

「日本の法律でいうchild pornography (児童ポルノ) は、米国の法律では同様に表記とされるが、国際刑事警察機構 (INTERPOL) やEUROPOL、オーストラリアやタイ等の国では、"child abuse material (児童虐待記録物) " と表記される。」

撮影過程に盗撮や性暴力などが関与しているものは、「性欲を興奮させ又は刺激するもの」でなくとも処罰対象にすべきと、僕は考えています。なぜなら、あきらかに性暴力をふるわれている過程で撮られた写真でも、「顔」だけを撮ったものは(性欲を刺激しないため)禁じられていないからです。
(“児童ポルノ撲滅”を訴えている人にかぎって、この「性暴力をふるわれている顔写真は現行法では取り締まれない」事実を無視します。「ポルノじゃないなら、顔写真ぐらい我慢しろよ」とでも思っているのでしょうか。)


そして、僕の署名に賛同したばかりに、ゆうきまさみ先生が、ひどい暴言を浴びていたことを知る……。

まなざしカバ「恥を知れ!!!!お前が受け取る金銭には子供の血と涙が付いている。」(

署名の告知チラシに、お名前を使わせていただきたいと申し出たときも、ゆうき先生は何もおっしゃらなかった……。
お恥ずかしい。ご迷惑をおかけしました。

そして、矛盾したことを言うかも知れないけど……ポルノ漫画でもイメージビデオでも、AVでも何でもいいよ。どうしても気に入らない、許せないなら、メーカーや出版社に抗議するなり、もっと実効的・建設的な方法があるだろう。匿名で、ネットでわめき立てるよりも。
そのとき、メーカーや出版社の考え方を、よく聞いてみればいい。僕も、自分と考えのちがう国会議員や警察の人が、何をどんな風に考えているのか、なるべく直に聞いてきた。
得られた成果は大きいとは言えなかったけど……単にクレームを押しつけるだけではなく、自分自身が啓発されなければ、あらゆる行動は空しい。ちょっとでもいいから、相手に学ぶ。ちょっとでも、昨日よりはマシな人間でありたい。誠実になりたい。

崖というのは、登るときは一歩ずつ、ちょっとずつ。だけど、堕ちるときは一瞬です。

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2016年9月16日 (金)

■0916■

昨夜は、『RWBY VOLUME 2』のマスコミ試写。
Maxresdefault前作は、ゆるくも硬くもできる、魔法少女アニメと学園アニメを足したような雰囲気からスタートし、後半に行くにしたがって、メンバーの出自や対立が明確化していった。冒頭は軽薄といってもいいぐらいアップテンポの主題歌で始まったのに、エンディングが静かな大人っぽい曲で、その落差に感嘆した。こんな通俗的な設定でスタートしながら、こんな深いところまで潜れるのか……と、愕然としたものだった。すっかり感激して、試写会場をあとにした。

ブルーレイを毎晩のように見て、シーズン2が日本語吹き替えされるのを待ったが、以前からのファンの人たちは、すでに英語版で見ていた。
製作会社Rooster Teethの公式サイトで、冒頭の何本かのエピソードを日本語字幕つきで公開したので、今年になってようやく見た。
まずは、悪役2人の登場シーンに凄みがある。彼らは対立相手の潜伏する本屋に入店し、少しずつ店主を脅していく。逃げられないと悟った店主が先制攻撃に出たところでシーンは終わり、時間経過があった後、2人は意気揚々と店を出てくる。「ああ、店主は戦いに負けて殺されてしまったのだな」と分かる。

では、新登場した悪役2人は、いかにして主役のルビーたちと対峙するのだろう? いつ戦いのシーンがあるのだろう? ルビーたちが遊んでばかりいるシーンがえんえんと続くので、やきもきさせられる。……が、こちらが敵の存在など忘れてしまったころ、ルビーは廊下で誰かとぶつかってしまう。ぶつかった相手は、制服に身をつつんだ悪役2人なのだ。
もちろん、彼らはその場で戦ったりはせず、思わせぶりなセリフをはいて、その場をあとにする。全編、どこかで見たような、それゆえに安心してドキドキさせられる演出ばかりだ。エンタメとして、洗練されている。


前半は、ルビーたち4人が力をあわせて、数メートルもあるロボットと戦うシーンがクライマックスとなる。このロボットは、ハリウッドのSFX映画に出てくるような、線の多いパワードスーツ系。『RWBY』のローポリな絵柄には似合わないのだが、とにかくこのアニメ、絵柄にだまされてはいけない。ありとあらゆるアイデアを投入して、生身の4人がロボットを粉々にしていく様子を、説得力をもって描いている。

“人形劇効果”という概念を聞いたことがある。ゲームでいえば、初期のドラクエぐらいの情報量のほうが、観客は気持ちを込めやすいのだという。
『RWBY』のキャラクターデザインは愛らしいが、線は少ないし、最初は手抜きにさえ見える。その手抜きキャラがアクロバティックな動きを動体視力ギリギリのスピードで見せ、「まさか」と耳を疑うような複雑なドラマを展開するから引き込まれるわけで、線が多かったら、ここまで愛着をもてなかっただろう。
別の言い方をすると、アクション向けのローポリなキャラクターの感情は、ボディランゲージかセリフを聞かないと分からないわけで、だからこそ、「日本語吹き替え」であることの強みが問われてくる。
線が少ないからこそ、「劇」としての側面が立ち上がってくる。「耳で聞かせるドラマ」として成立する。


今回の『VOLUME 2』は、12本のエピソードをつなげたものなので、2時間半もある。トイレの近い僕は、ラストの戦いで席を中座してしまった。エンドロールの後に重要なシーンが来るはずなので、それまでにトイレに行っておきたかった。
逆をいうと、クライマックスのトレイン・チェイスは、トイレに立ってなんていられないほど綿密に構成されている。四つの戦いが、一本の列車の中で同時進行し、勝負がつくかどうか……のタイミングで、ひょいと次のシーンへ飛ぶ。まさに、極めつけの職人芸なのだ。

しかし、何よりも『VOLUME 2』で感心させられるのは、大人たちの挙動だ。ファンタジックな魔法の世界かと思わせておいて、他国の軍隊が介入してくる。大人が、子どもたちを守ってばかりとは限らない。新登場したアイアンウッド将軍は、敵味方どちらともつかない態度をとっている。
繰り返すが、『RWBY』は“人形劇”だから、ここまで振幅を持たせられたのだと思う。モンティ・オウムのような巨大な存在を欠いた『RWBY』が、今後どうなっていくのか不安ではあるが、ここまでやったんなら十分……という気もする。作品は過程が大事なのであって、オチがどうあるかは、僕は重要視していない。

(C)Rooster Teeth Productions, LLC.

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2016年9月14日 (水)

■0914■

V-STORAGE Vol.7 本日配布・配信(
Crpcgglukaan_ob
●『ゼーガペインADP』下田正美(監督)インタビュー
なにしろ、『ADP』の中身を知らされる前だったので、のんきなことを質問しています。これから『ゼーガペイン』に触れる人向けに……というオーダーがあったような気もします。

『ADP』は、「テレビアニメの総集編」のあり方の、ある分岐点を提示しています。テレビアニメの作り方を最大限に活用しているだけでなく、何しろ10年前の作品なので、当時のアイデアを最新型にアップデートしています。
批評性の強い作品になっているはずなので、僕より頭のいい人たちに見てほしいと願っています。


レンタルで『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』。
Main_largeワンダーウーマンは、なんと映画開始後2時間たたないと登場しない(あのコスチュームにはならない)ので、映画館で見なくて正解だった。だいたい110分ぐらいから、尿意がスタートするからだ。二時間半の映画は最近ザラにあるので、頻尿の僕には、本当に困る。
イスラエル出身のガル・ガドットは、顔立ちもエキゾチックで美しいが、何はともあれ戦闘シーン。
周囲が焼け野原になっているのに、ワンダーウーマンの素肌だけ、真っ白に輝いている。醜いモンスターに生身で斬りかかっているに、素肌だけはつるつる。このエロティシズム、分ってもらえるかしら。

レックス・ルーサーが「われわれは民族によって、都合のいい神様を何人もつくってきた」と軽口をたたく。多人種・多宗教国家のアメリカにとっては、おそらく大事なことだ。
神のように慕われるスーパーマンに対して、バットマンは敵の使っているナイフを奪ってまで、徹底的に泥臭く、ずる賢く戦う。銃も使う。
というより、何かというと銃を向け合って脅しあう、殺しあう映画だ。核ミサイルも簡単に使うし、殺伐としている。善悪の概念よりも、暴力の是非が際立って感じられる映画だ。(それゆえ、ワンダーウーマンのファンタジックなセクシーさが救いとなる。)

しかし、とても大事な発言があった。「善とは対話であり、断定ではありません」。


僕の先日のエントリ()。
「俺はアイドルになんか興味ないし、中には悪質なイメージビデオもあるんだろうから、一斉に削除されてよかったんじゃね?」と言っている人がいます。
「○○国でテロが起きたらしいけど、俺は○○国なんて行かないし、中には悪い○○人もいるだろうから、まとめて殺されてよかったんじゃね?」と言っているように聞こえます。

僕はアイドル文化には詳しくありませんが、蒼井優さんが18歳未満で出ていたイメージビデオがエロティックで非合法であったかのように扱われ、彼女が同じく18歳未満で出演した劇映画だけが温存される状況には、違和感をおぼえます。
脱原発アイドルとして頭角をあらわした藤波心さんが、過去にきわどい水着姿でイメージビデオに出演していたことをダシに「児童ポルノ犯罪者のくせに、何を偉そうに」とツイッターで責められたことがあります。そのときと同じ、攻撃的な匂いがするのです。

超法規的な絨毯爆撃ではなく、正当な手続きを踏むべきだったと思います。
(C)2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC., RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC AND RATPAC ENTERTAINMENT, LLC

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2016年9月13日 (火)

■0913■

峯岸みなみに道重さゆみも…DMMが18歳未満イメージビデオを一斉削除

先日のブログを書いた翌日、このニュースを知りました。
峯岸みなみさんも道重さゆみさんも、名前を存じあげなかったのですが、記事中には「削除された動画のなかには、女優の蒼井優のほか峯岸みなみ、道重さゆみといった有名アイドルが18歳未満当時に撮影されたDVDも含まれており、彼女らが18歳になるまでの作品の一部が封印されたこととなる。」とあります。

蒼井優さんが『リリイ・シュシュのすべて』で、映画に初出演したとき、彼女は16歳でした。
蒼井さんが18歳未満のときに出ていたイメージビデオが削除されたのであれば、18歳未満のときに出ていた劇映画も、削除されかねません。

そこで、DMMに「報道は事実なのか」「事実だとしたら、イメージビデオと劇映画の違いは何か」とメールで問い合わせたのですが、「弊社での取り扱いを終了とさせていただきました商品の基準等につきましては情報を公開しておりません」との、テンプレな返答がかえってきました。

不誠実な会社だと憤慨して、DMMを退会したのですが、手続きの過程で、二度ほど「配信サービス(AKB48グループ、動画)が利用できなくなります」と引き止めてくるんです。なぜ、AKB48を強調するんでしょうね?
NPO法人の圧力に屈して、アイドルの出演しているビデオを削除したくせに、まだアイドルで稼ぎたいわけですね。


合法的なイメージビデオが削除された(非合法なものと一緒くたにされた)以上、合法的な劇映画が「上映禁止」「視聴禁止」になる状況は、すでに現出していると思います。
DMMは『リリイ・シュシュのすべて』は扱っていないようですが、同じことです。発言力の大きなNPO法人が抗議すれば、どんな映像作品でも視聴の機会が奪われることが、これでハッキリしたわけです。

個人のフィギュア・ブログをGMOメディアが広告主の圧力で削除したとき()も、理由は「児童ポルノまたは それに類する疑いのある内容」でした。
今回、NPO法人ヒューマンライツ・ナウは「児童ポルノないし児童ポルノと疑われる作品」という言葉を使っています。
「疑わしい」から、非合法であろうが合法であろうが、一緒くたにしてしまえ。そういう提言をしているわけです。文化の破壊者ですね。

それとも、劇映画は文化で、イメージビデオは文化ではないのですか? 一般向けの漫画は文化で、18禁エロ漫画や18禁同人誌は文化ではない?
「ここまでは文化だが、ここから先は文化ではない(ので規制すぺき)」と、NPO法人が決め、業者がそれに従ったのが、今回の状況だと僕は解釈しています。
この状況がまかり通るなら、もう法律はいりません。


「でも、着エロのイメージビデオと、映画館で上映する映画は別だろう」と思いますか?
フランス映画『ヴィオレッタ』は、映画倫理委員会に「児童ポルノなので、審査できない」とされ、3年間の間、日本では公開できませんでした(海外では一般公開)。
「児童ポルノ」「児童ポルノと疑わしい」と唱えれば、一般映画でもお蔵入りにできるのです。(『ヴィオレッタ』に関しては、「創」誌2014年7月号で、映倫と配給会社の双方に徹底的に取材しました。現在、『ヴィオレッタ』はレンタルDVDでも視聴可能です。)

『リリイ・シュシュのすべて』の岩井俊二監督作『スワロウテイル』には、当時16歳だった伊藤歩さんのヌードが出てきます。僕が「児童ポルノではないのか?」とNPO法人に訴えれば、全国のレンタル店から抹消可能でしょう。今の状況ならば。
映画だけではありません。フィギュアでもアニメでも、大きな団体が圧力さえかければ、なんとでもどうとでも規制できてしまうんじゃないでしょうか。「また大げさな…」と笑われるでしょうけど、規制できない理由がどこにありますか?

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2016年9月11日 (日)

■0911■

【懐かしアニメ回顧録第22回】キャラクターの“歩き方”で幼少時代を描く、細田守の「デジモンアドベンチャー」
『ぼくらのウォーゲーム!』ではない、短編のほうです。
うまくまとまらなかったのですが……、太一とヒカリ、コロモンは「友だち」だと、僕らは感じるわけです。それはセリフで「友だち」と言っているからではなく、「地面を歩く」身体感覚を共有しているからではないか?と考えました。
すると、地面を歩かず、空から舞い降りてくるデジモンは、おのずと「敵」に設定できます。もし、空ではなく地面から現れたら、「敵」には見えなかっただろうと思います。


ようやく、すこし時間にゆとりが出来たので、レンタルで『ウィズネイルと僕』。1987年公開のイギリス映画だが、日本では91年公開。当時は、吉祥寺バウスシアターで単館上映されたのみだった。

201404240010001viewなるほど、ミニシアター向けの、みっしりと作家性のつまった、充実した映画だ。劇中の設定は1969年のロンドンだが、80年代末~90年代にかけての東京の倦怠感、無気力感も包含されているようにかんじた。
特に、劇的ななにかが起きるわけではない。乾いたギターの音色。彩度の低い、落ち着いた映像。アクティブなカメラ・ワーク。ジョークの効いた会話。

映画の冒頭近く、フライパンの上の目玉焼き――シズル感たっぷりなアップ。それを食パンに乗せるウェイトレスの手。目玉焼きの乗った食パンを、カメラが追うと、奥のテーブルに主人公が座っている。質感から動きへ、ワンカット内でカメラの役割が切りかわる。
少なくとも、僕にとってはカメラやカットが「映画の枠組み」を決めたり、破ったりするのが面白い。演出の創意工夫を、ひとりの俳優がかっさらってしまうことがあるから、映画を見るのをやめられない。

「自然と、涙があふれてきました」なんていう他人事みたいなレビューが、僕はいちばん嫌い。「泣ける」の一言で、かえって映画を矮小化してないだろうか。


ピュリツァー賞の写真を「児童ポルノ」として削除 Facebookが検閲撤回へ(
ゼロ・トレランスではなく、寛容さをもって子供を守ろう(

後者に関しては、「HRN」でツイッター検索したほうが、さまざまな角度からの情報が得られる。特に、セックスワークに従事している、かつて従事していた女性たちからの反論は、ためになる。
結局、「児童ポルノ」という語感のもつ「ワイセツで背徳的」なイメージが、こうしたおとなげない事態を誘発するのだろう。最低限、「ポルノ」ではなく「性虐待記録物」と呼びかえて、頭を切りかえるべき。

昨年の話だが、審査未了のまま捨ておかれた、こちらの請願もお忘れなく。→【実在児童への性暴力写真に関する請願書】について(

【追記】峯岸みなみもアウト!DMMが18歳未満イメージビデオを一斉削除(
日本アカデミー賞を何度も受賞している、蒼井優の18歳未満時のビデオすら「児童ポルノ」と一緒くたに削除……。
(C)1986 Handmade Films (1985) Partnership

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