2018年1月15日 (月)

■0115■

レンタルで、オーソン・ウェルズ監督の『黒い罠』と、マキノ正博監督の『鴛鴦歌合戦』。
Mv5bnjhmztdjyzmtnwy4mi00ntmxltkznwq 『黒い罠』は、ダイナマイトの時限着火装置のタイマーのアップから始まり、クレーンで爆弾の仕掛けられた車に乗る男女を俯瞰でとらえ、さらに大通りに出た車にカメラがぴったりと併走するファースト・カットが素晴らしかった。ようやくカットが変わったと思ったら、それは爆発する車をとらえたショットだ。つまり、時限爆弾が爆発するまでの過程を、完全なリアルタイムで追っている。
ただ、ファースト・カットが完璧だった分、編集段階で大幅に削られたり付け足された痕跡が分かって、そこで白けてしまう。それでも、公開当時にゴダールやトリュフォーは絶賛したというから、カイエ・デュ・シネマの批評力は底知れない。


前回、アニメーションの気持ちよさはサイレント映画時代の「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回しから離れた、純粋な身体の運動」に通ずるのではないか、と四方田犬彦さんの著著を引用しながら、牽強付会に言いきった。
Singing_lovebirds_1『鴛鴦歌合戦』は、1939年に公開された和製ミュージカルだ。もちろんトーキーなのだが、そこには音楽に秩序立てられた「純粋な身体の運動」をありありと見てとることができる。人物はセリフで感情表現するのだが、そのセリフが歌となる。誰かが歌っている間は、周囲の人物もリズムにのって体をゆらしたり、楽器を演奏したりする。音楽が、人物の動きをコントロールしている。
歌の合間にセリフが入るので、セリフも音楽のような名調子である。

片岡千恵蔵の演じる三人の女性にモテモテの浪人・禮三郎が、ヒロインのお春(市川春代)と話している。2人は惹かれあっているが、嫉妬深いお春はツンケンして、自分の気持ちに素直になれない。
禮三郎「ふふふ、妬いてるね」
お春「誰が?」
禮三郎「お春さん」
お春「ちぇっ!」
禮三郎「ふふふ。ああ、いいもんだね。恋の絵日傘、紅傘か。青い水玉、浮き心……」
セリフが五七調となり、歌のようなリズムをはらんでいく。このシーンでの片岡千恵蔵は、「妬いてるね」で市川春代をピッと指差し、「恋の絵日傘」で目をそらして、傍らに置いてある傘を手にとる。演技に、音楽のような優雅な流れがある。

掘り出し物の古い茶碗を買った志村喬が、「アッハッハ」と笑いながら、茶碗の入った箱を両手で前に突き出して、画面手前へ来る。ところが出口を間違えていて、くるりと振り返って、箱を手にして小走りする。まったく不要な芝居なのだが、この段取りがシーン転換へのリズムを生んでいる。


圧巻は、女好きの殿様の家来を相手に、片岡千恵蔵が大立ち回りを演じるアクション・シーンだ。
効果音もセリフもなし、アップテンポの軽快なジャズが流れる。家来たちは刀で切りかかるが、丸腰の千恵蔵は右に左にヒラリヒラリと身をかわし、相手の頭を素手でコンと叩く。よろめいた家来が、わざわざカメラの前まで来て、痛そうに顔をゆがめる。
タタタッと走ってきた千恵蔵が、ピタリと止まって、取り囲んだ家来たちをグッとにらみつける。この間合い、まるで金田アクションである。斬られたら血が出るようなリアリズムではなく、迫力あるカットワークでもなく、被写体の踊るような動きが快感を生み出している。
あるいは、セリフのテンポが演技と調和して、音楽的な面白みとなっている。

意外と、「雨の中で思いのたけを叫ぶ」式のルーティンな演出にも“型”があって、ルーティンなりの出来不出来があるような気がしてきた。

(C)1939年日活株式会社

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2018年1月14日 (日)

■0114■

上映期間が短く、一日の上映回数も少なかったりするCGアニメ『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』。応援の意味も兼ねて、13日初日、新宿ピカデリーの夕方からの回へ行ってみた。
640半分も埋まっていれば御の字だな……と思っていたのだが、後から後からお客さんが入ってきて、空席が見当たらない! 127席の狭いシアターとはいえ、ほぼ満席という盛況ぶりで、場内のあちこちから笑い声が聞こえてきて、とても楽しい雰囲気だった。
小さな丸太にサーフィンのように飛び乗った少年が、何百メートルもの斜面を滑走する。5百年の眠りから覚めた斉天大聖(孫悟空)が、サーカスのように木々の間を跳躍する。彼らのアクロバティックな動きを、カメラは限界を無視して縦横無尽に追いかける。随所に挟まれるギャグは、体を張ったスラップスティックなものが多い。

ようするに、ぜんぜん「リアル」ではない。
CGキャラクターは、しばしば「ウソ」「作り物」として攻撃されることがある。『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』のジャージャー・ビンクスが、世界でもっとも忌み嫌われているCGキャラだろう。


まず、ジャージャー・ビンクスの話から始めたい。もともとはジャージャーはフルCGではなく、体はダンサーのアーメド・ベストが着ぐるみ姿で演じ、首から上だけをCGで作成する予定だった。全身をCGで描いたほうが早くて安上がりなので、アーメドの動きはアニメーションの参考用とモーションキャプチャ収録用にのみ使われた。
Openuri20150608276741babdql55472407ひょっとしたら、胴体を着ぐるみ、首から上をパペットやアニマトロニクスで動かしていたら、こんなに嫌われなかったんじゃないかと思う。誰もがジャージャーに抱く嫌悪感、その正体は生身の俳優たちの中にCGで作られたアニメーションが紛れ込んでいる違和感にあるのではないだろうか。
なぜなら、映画の本質とは「カメラによる被写体の記録」だからだ。僕らは、フィルムに収まったものはすべて「本物」と信じている。チャチな特撮であっても、それがミニチュアを記録した「本物」だと知っているから、許せてしまう。
しかし、CGのキャラやメカは、フィルムに記録されたものではない。形や動き、質感を後から付け足したのだと、僕らは知っている。だから、ジャージャーを仲間はずれにせずにいられない。「記録されていない」=「本物ではない」からだ。


だが、『エピソード1』の音声解説を聞くと、ジョージ・ルーカスは「無声映画のような雰囲気を出してセリフも映像も音楽の一部のようにつくり、ストーリーも言葉より映像で表現するようにした」と語っており、メイキングではシナリオ執筆時に無声映画時代のコメディを見ている。
800pxsafetylast1いわば、ハロルド・ロイドやバスター・キートンのように体の動きで笑わせる無声映画時代のコメディ・リリーフとしてジャージャー・ビンクスを位置づけていた……と考えると、あの大げさな演技にも納得がいく。
(左の画像は、ハロルド・ロイド主演の『要心無用』より)

無声映画の時代は1928年、すべてトーキーでつくられた『紐育の灯』の公開によって幕を閉じた。
だが、映画理論家のルドルフ・アルンハイムによると「映画はモノクロであり、またサイレントであるがゆえに、豊かな色彩と音響にあふれた現実の世界とはまったく別個の、自立した世界を構築することができた。つまり現実の機械的な再現ではなく、絵画や彫刻と同じく、独自の文法をもった芸術として価値付けられた」(四方田犬彦『映画史への招待』より)。
“現実の機械的な再現ではなく、絵画や彫刻と同じく、独自の文法をもった芸術”……まるで、今日のCGアニメを指しているように聞こえないだろうか?


「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回しから離れて、純粋な身体の運動を映像としてとらえ続けていたいという欲望」が、サイレント映画の消滅後も繰り返されてきたと、四方田犬彦は指摘する。
映画がトーキーになって以降、舞台劇の映画化、小説の映画化が激増し、映画の登場人物は高いところから落ちそうになったり、疾走する車から車へ飛び移るようなアクロバティックな肉体を喪失して、脚本に書かれたセリフによって内面や心情を語る存在になってしまった。最近の邦画では「泣きながら思いのたけを叫ぶ」なんてシーンが、内面吐露の典型パターンとなってしまった。

だが、『RWBY』や『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』のアクション・シーンはどうだろう? あるいは、どんな手描きアニメを思い浮かべてもらっても構わない。僕らがアニメを見て気持ちいいのは「純粋な身体の運動」が表出する瞬間ではないだろうか?
もちろん、キャラクターの動きだけでなく、木々がそよいだり、山が割れるのでもいい。「運動」が誇張され、むき出しになるから、アニメは面白いのではないだろうか。

乱暴に言うと、実写映画とアニメを分かつのは、運動の純粋さであるような気がする。
無論、実写映画もアニメもトーキー化されており、セリフによる演劇性を宿してはいる。だが、「劇」は映画に固有の本質ではない。映像作品に対する「お話がなっていない」という批判を聞くたび、僕はいつも首をかしげてしまう。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
TM & (c)2015 Lucasfilm Ltd. All rights reserved. Used under authorization.

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2018年1月13日 (土)

■0113■

レンタルで、ヴィットリオ・デ・シーカ『ひまわり』とヒッチコック『汚名』。
Mv5bmtcyndc5odm1nl5bml5banbnxkftz_2最初から最後まで目が離せなかったのは、ヒッチコックの『汚名』だ。1946年だから、イングリッド・バーグマンは『カサブランカ』に出演したあと。ロッセリーニに手紙を書く前の時期だ。

『汚名』のバーグマンは秘密結社の男の妻となり、彼らの情報を暴くスパイを演じている。その任務を彼女に与えるのが、FBI捜査官のケーリー・グラントだ。
ケーリー・グラントの登場の仕方からして、奮っている。バーグマンは父親が有罪判決を受けてしまったので、自暴自棄になって家でパーティをしている。画面では数人の男女が踊ったり酒を飲んだりしている。……が、画面のいちばん手前に、男の後頭部が映っている。バーグマンが「どこかでお会いしたかしら?」といぶかしむが、不気味なことに男は黙っている。そのシーンは、正体不明の男の後頭部が画面中央に来たところで終わり。
つづくシーンは、やはり男の後頭部。カメラが回り込むと、その男はハンサムなケーリー・グラントであり、べろべろに酔ったバーグマンに誘いをかけていると分かる。でも、「後頭部のアップ」という共通点があるから、この男は怪しいのではないか?と、観客は気になる。構図によって、セリフでは説明できない効果をもたらす。「ああ、映画というメカニズムが歯車を回しているな」と、僕は嬉しくなる。


秘密結社のメンバーの妻となって、邸宅に侵入捜査するバーグマンは、ワインの貯蔵庫が怪しいと踏む。そして、貯蔵庫のカギを盗むのだが、このシーンも素晴らしい。
夫に抱き寄せられるが、バーグマンは両手のコブシをギュッと握りしめている。なぜなら、手の中にカギを隠しているから。カメラはカギが隠されているであろうコブシに寄る……夫が右手のコブシを開かせる……だが、カギはない。ならば、左手でカギを握っているはずだ。カメラは、今度は左手に寄る。この容赦のないカメラワークが、すさまじい緊張感を生む。

セリフでは、カギのことなんて一言も話してない。セリフと関係なく手のアップばかり念入りに撮るカメラワークは、シュールですらある。だけど、観客は何が問題なのか理解している。これもやっぱり、映画だけが持つ機能だと思う。


果たしてワイン貯蔵庫に秘密が隠されていたのだが、何がどう秘密なのかはどうでもいい。みんなが「ネタMv5bywyymdcwymqtytqymy00mtywlthjn2i バレ」と言いたがるところだろうけど、別に何でもいいんだよ。発覚したらヤバいものであれば。

バーグマンが組織の秘密を知ってしまったので、夫と義母はバーグマンを毒殺しようとする。そのシーケンスでは、やたらとコーヒーカップをアップにする。テーブルの上に、誰かが飲み終えて空になったカップがある。そのまま、ワンフレームで庭を歩くバーグマンへ寄る。彼女は気分が悪そうにヨタヨタと歩いている。
3回目ぐらいにコーヒーカップが出てくるシーンでは、義母がコーヒーを淹れている。気分の悪そうなバーグマンの前にカップが置かれる。そのカップは、人物の手前に、やけに大きく映りこんでいる。この異様な構図によって、どうやらカップが重要らしいぞ、と観客は気がつく。
これが、映画の面白さでしょ? 「ストーリー」ではないよね? 強いて言うなら、「ストーリー」をカットや構図で解き明かす具体的な「プロセス」や「方法」が面白いのであって、「ストーリー」という文脈や概念だけがポンと観客に手渡されるわけではないと思うんだよな。

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2018年1月 9日 (火)

■0109■

アニメ業界ウォッチング第41回:“やさぐれた孫悟空”の中年らしい魅力を引き出す! 「西遊記 ヒーロー・イズ・バック」日本語吹替制作監修、宮崎吾朗の語る3DCGアニメの魅力とは?
T640_748636この取材記事は、『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会の翌日に企画して、すぐに宣伝会社に申し込みました。それから10日間も音信不通で、配給会社へは年末ギリギリになって連絡があったそうです。まあ、はっきり言うと宣伝会社はやる気がない。公式Twitterでも、試写を見た人たちの感想をリツイートもしない、映画の魅力が伝わるツイートもない。
そんな逆風の中で、「宮崎吾朗さんが監修ではダメだろう」「吹き替えは山田康雄さんが良かった」など、思いつきと当てずっぽうの下馬評ツイートがチラホラと目に飛び込んできて、これはもう、興行はダメだろうな……と、覚悟はしています。短いところでは一週間のみの公開ですので、志ある方は13日(土)の公開初日に駆けつけたほうがよいでしょう(上映劇場→)。

記事を読んでもらえれば分かるように、宮崎吾朗さんが日本語版の監修についたのは、監督からの直接のお願いであって、別に箔付けのためではないんです。宮崎さんも、ご自分の立場をよくわきまえておられるだろうと思います。誠実な仕事をなさっています。
「宮崎吾朗だからダメ」「中国アニメだからダメ」、そうやってどんどん、自分の世界が矮小化していくんですよ。


レンタルで、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』。
640ヒューマンで痛快だった『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャン=マルク・ヴァレ監督なので借りて見たが……、前半、ほぼ主人公のナレーションで進行する。その日に何があったか、今どう思っているか、ぜんぶ細かなモノローグで説明する。
トーキー映画の利便性は、こういう安易なシナリオを生んでしまう。むしろ、過剰なナレーションで埋め尽くすスタイルを徹底させれば、どこかで映画のメカニズムとカチッと噛み合ったような気がする。
ところが後半、出会うべき人物と人物が揃った時点で、ナレーションは後退して、いつもの、切り返しによる表情と会話による「演劇」だけが残される。
そしてみんな、「劇」の中身の話ばかりするでしょ? 主人公に共感したとか、あんな男は許せないとか、最後に二人は結ばれるとか別れるとか。それらはすべて、映画の内側に入り込んだ「劇」の感想であって、映画の感想ではないわけです。

僕も「劇」だけを素直に楽しんでいた時期もありました。今は、そういう気持ちにはなれないです。そうすると、借りてこられる映画の種類が減ってしまうんだけどね。


これは、ちょっと前から気になっていた事件だけど……。

とある新聞の「児童ポルノ購入者」の職業が完全に名指しをしている件について
検事や議員、警察官の実名は出さないけど、『るろうに剣心』の作者と書いてしまったら、もちろん仕事はなくなるし、社会的に抹殺されますよね。なぜなら、「児童ポルノ」と聞いたら、誰もが「自分の頭で考えられる最悪」を想像してしまうから。
僕も警察に電話して、どういうものがアウトなのか具体的に教えてほしいと聞いたけど、「ケースバイケース」と誤魔化された。その時は過去に出版された写真集だと思ったが、今回は何? 記事では「わいせつDVD」と書いているから、わいせつ性が問題視されているわけですよ。つまり「少女を見て興奮しているヤツは罰する」「そして身内である警察官の名前は隠すが、漫画家ごときは実質的に実名を出すから覚悟しておけ」ってことでしょ?

何より気になっているのは……、一年前、二年前であれば、漫画業界が猛然と抗議したんじゃないだろうか?ってことです。同士である漫画家が晒し者にされたのに、シーンと静まっているのが、僕にはちょっと怖い。
「われわれは漫画やアニメの表現を規制から守りたいのであって、少女のわいせつDVDを所持していたら、たとえ漫画家だろうと守るに値しない」ってことなんだろうか? いずれにせよ、ついに「わいせつな」「児童ポルノ」を理由に、漫画ファンが漫画家を見捨てた。そのように見えるのは、僕の勘違いだろうか? 警察は警察官をかばっているぞ。こんな世の中を受け入れるのか?

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation, Demolition Movie, LLC and TSG Entertainment Finance LLC. All Rights Reserved.

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2018年1月 8日 (月)

■0108■

レンタルで、テオ・アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』。
Mv5botgyntrlntmtzjnlny00njgwlwi3ztg大学生のころ、同級生から「『旅芸人の記録』は観た?」と聞かれた覚えがある。実に30年前の話だ。何しろ3時間50分もの長尺であり、上映時間の長さも話題になった。1985年に日本語吹き替えされて、テレビで3回に分けて放映されたそうなので、そのタイミングで「観た?」と聞かれたのだろう。今回が初見である。

第二次世界大戦を挟んだ1939~1952年までのギリシャの近代史を、断片的に描いている。旅芸人一座が過酷な歴史に遭遇するのだが、誰が主人公で何を考えていて、何を成し遂げたのか、そんな通俗的なドラマとは無縁の映画だ。何しろ、切り返しで会話するような分かりやすい文法のカットは皆無で、ほとんどのシーンで人物は豆粒ほどのロング、数分間の長回しである。
さもなくば、人物のひとりがしっかりとカメラを見つめて (つまり観客と対面しながら)自分がどんな目に遭わされてきたか、えんえんと語る。話の内容はあまりにローカルなので、字幕を追っても無駄である。


ロングショットで美しいのは、旅芸人の一座が列車で駅に到着したシーンだ。
画面左手から列車がフレーム内に進入してきて、右手奥で停車する。列車から降りた一座が画面手前に歩いてくる。と同時に、画面外から、元気のいい歌声が聞こえてくる。
カメラは旅芸人一座が歩くのより早く画面左方向にPANする。すると、画面奥にたくさんの人々がパレードしているのが見える。画面をまっすぐに線路が横切り、その奥に人々が隊列をなしていて、さらに水平線が画面中央をきれいに横切っている。
続くカットで、カメラは画面奥、右手から左手にかけてパレードする人々を撮っている。先ほどのカットとは違って、画面左手にはギリシャの国旗を掲げた小さな町が映っている。パレードの人々は、ギリシャ人の誇りを称える歌を元気に歌いながら、画面手前へ行進してくる。カメラは左手にPANする。町の路地から、荷物を下げた旅芸人の一行が歩いてくる。彼らはパレードの人々に手を振ったり、笑顔で歩いてくる。やがて、一座とパレードの人々は合流して、一緒になって画面左手へ歩いていく。

どうやら、何か民族的に喜ばしい祝日らしい……程度にしか、事実関係は分からない。
だが、いかに歴史に無知であっても、画面奥から斜めに歩く旅芸人一行に比べて、きっちり水平線と並んで真横に行進している人々が何かの規律や秩序と共にあることは、構図を見れば明らかだ。パレードの人々と同じフレームに入ることで、旅芸人一座が大きな歴史の流れと出会った、歴史に飲み込まれたことと理解できる。


別の年代、別のシーン。広場にアメリカ、ソ連、ギリシャの国旗を掲げた人々が集まっている。カメラは、彼らの背後から俯瞰で集まった人々を撮っている。群集の奥では、アコーディオン奏者が演奏しており、人々は声高らかに合唱している。
Thiasos7_0ところが、一発の銃声が鳴り、人々は一斉に逃げまどう。カメラは群集を追うようにゆっくりと画面左方向にPANを始める。三つに路地が分かれており、人々は三方向に分かれて逃げていく。
そのまま、カメラは360度PANして、閑散とした広場に戻ってくる。撃たれた誰かが倒れている。アコーディオン奏者は画面中央にうずくまっている。すると、画面右手から民族衣装を着た人物がフレームインして、バグパイプを演奏しながら、まっすぐ広場を横切って、画面左手へアウトしていく。
カメラは再び、360度、ぐるりとPANを開始する。アコーディオン奏者は逃げ出すが、人々の散っていたった路地から、「イギリス帝国主義者は出ていけ」と書かれたプラカード、ソ連の旗を持ったデモ隊がぞろぞろと歩いてくる。広場は赤旗で染まる。

このカットは5分間あるが、リアルタイムで5分間の出来事を描いているとは思えない。
映画は直線で囲まれた四角いフレームでしかなく、『旅芸人の記録』では、真四角な建物、水平線、道路などがフレームと並列して収められる。まるで儀式のように、人々がフレームを真横に横切ることも多い。それは目の前で起きているドラマというより、図像を用いた象徴だ。
(調べてみると、上記カットはシンタグマ広場で起きた血の日曜日事件と、後に起きる内戦の対立図式を描いているようだ。)
カットバックで「人物の内面」を描いた分かりやすい映画に慣らされていると、ついつい映画の構造、映画のメカニズムを忘れてしまう。あるいは、気がつかないまま「人物の内面」が描かれていないと文句をつけて、自分は少しも変化しないまま硬化した価値観に埋もれてしまう。「面白くない」、「分からない」から価値がないと決めつけてしまうのだ。

特に、星五点評価とネタバレ禁止だのネタバレ注意だのは、時代・地域の異なる映画を一種類に均質化してしまう。さまざまな映画が同時に存在しているし、その価値もさまざまな角度から推し量ることが出来るはずだ。

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2018年1月 6日 (土)

■0106■

明日7日は、ひさびさにスーパーフェスティバル()に参加。いつもどおり、素組みのプラモデルを売ります。


レンタルで『偉大なるアンバーソン家の人々』。1942年の作品。
Mv5bmtg4ndu0mzgxnl5bml5banbnxkftztc確かに素晴らしいショットもあるのだが、ナレーションの多用、フェードアウトやディゾルブといった凡庸なシーン転換も多く見られる。微に入り細を穿って、徹底的に計算されたショットを特撮的に構成した『市民ケーン』には程遠い。
ちょっと調べてみたら、『市民ケーン』は興行面で失敗し、翌年の『偉大なるアンバーソン家の人々』は大幅にカットされ、ラストも勝手に変えられて公開されたのだという。黒澤明にとっての『白痴』のような苦境に立たされた映画だったのだ。

しかし、オーソン・ウェルズ監督の意図どおりに復元されたとしても、その評価はまた別のものになるだろう。トリュフォーは、「まるで『市民ケーン』を毛嫌いした別の映画作家が謙虚さの規範を示してみせたような作品」と、舌鋒鋭く辛口の評価をくだしている。


四方田犬彦『映画史への招待』を、図書館で借りてきた。第一章で、いきなりジャブをかまされた。
四方田先生は、大学の講義で学生たちに4種類のフィルムを見せたのだという。
一本目は、自分が高校時代に適当に撮った8ミリの自主映画。
二本目は、実験映画作家スタン・ブラッケージの難解な映像。
三本目は、『カサブランカ』のワンシーン。
四本目は、インド映画『プレグ・ログ』の大ミュージカルシーン。

結果、学生たちがひとりの例外もなく受け入れたのは、三本目の『カサブランカ』のみだったという。『カサブランカ』を「何の障害もなく受け入れてしまう者は、実のところ、一九一〇年代から四〇年代において古典的ハリウッドが構造化することに成功した映画の観念に、どっぷりと漬かりきっているだけである」と、四方田先生は結論づける。
「映画はかならず美男美女のスターが登場するエンタテインメントでなければならないという、ハリウッドの了解については、いうまでもない。登場人物は人格的に一貫性をもち、二人で向き合うときにはけっして真正面から撮った顔を続けて並べてはいけない。三十度か四五度か、いくぶん傾けた場所にカメラを置き、そうして得られた映像を交互に繋げていくことで、二人が見つめあっているという同時の事件を語ってみせなければならない。こうした約束ごとを定式化したのがハリウッドであって、以来その映画観は世界中を席巻してきた」。

このブログで、さんざんカットワークや構図の機能性を書き記してきたが、それは1940~60年代のハリウッド映画を起点にしている。無意識のうちに、そうなってしまっている。
これは、警戒せねばならない。


ここのところ、映画レビュー5点評価に対して「○億点」「○兆点」といった記述を続けて見かけた。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は教科書的に完成度の高い『駅馬車』をバージョンアップしたような作品だと思っているが、どうも『キック・アス』(あとはタランティーノ作品かロドリゲス作品)と並んで「ルール破りのカッ飛んだ映画」という認識が行き渡っているようだ。

それらの作品をダメだという気はなくて、呉越同舟というか、誰も彼もが同じ映画観しか持ち得ていないのではないか? それを危惧する。
インターネットは、同質性を求める。商業映画の公開がどんどんイベント化してネタ化して、滅多に観られないマイナーな映画を探したり、研究のために古い映画を求める映画ファンが減ってしまった(あるいは見えづらくなってしまった)。
高校時代、戦争映画・SF映画・アクション映画にしか興味のなかった僕は、不感症だったのだと思う。今はただ、自分を熱中させているものの正体を見極めないまま死ぬのが嫌だと思っている。

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2018年1月 4日 (木)

■0104■

【懐かしアニメ回顧録第38回】「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード」のストーリーを前に進めるのは“セルで描かれたおいしそうな焼き肉の質感”である!()
61rvij0nyzl『栄光のヤキニクロード』は、アナログからデジタルへの過渡期の作品で、後半ではポリゴンのしんちゃんも出てくるし、ワンカットだけ手描きの背景動画ではなく、3DCGの背景もありました。その一方で、70年代のアニメのように、キャラクターが絡まないかぎりは、洋服も食べ物も美術として描いています。今なら、テクスチャを貼って質感を統一するところですが、実務的な都合から、焼き肉がセルだったり美術だったりする。
だけど、セルで描かれた肉は人間に近い、柔らかくておいしそうな感じがします。人間は必ずセルに描かれるので、セルに描かれたものは温かくて柔らかいものに見える。そこに鈍感であってはならない、すべてが脚本に描いてあるとは限らないのです。


レンタルで『無防備都市』と『映画に愛をこめて アメリカの夜』。
Mv5bndyyzdqxntitnzc1my00zji2lthlnju『無防備都市』は初見だった。ロッセリーニ映画祭で観たのは『ドイツ零年』のほうだった。それぐらい、両者は作風が異なる。ありがたいことに、レンタルDVDなのに文字による解説が入っていて、すさまじい物質不足の中で撮影されたことが分かる。ニュース映画用のフィルムを使ったそうなので、ワンカットが短いのはそのせいかも知れない。カットワークが、ちょっと白けるぐらい端正で手堅い映画だ。

それよりも重要なのは、ムッソリーニが欧州のハリウッドを目指して建設したチネチッタ撮影所が空襲で被害をこうむったため、オールロケで撮影が敢行されたこと。スタジオで撮影できないため、苦肉の策でロケしたわけだが、その逼迫した制作状況がネオレアリズモのスタイルを決定したのだろう。


しかし、プロの俳優がずらりと並び、女優はメイクを決めた美人ぞろいだ。(通りすがりの人Mv5bndm4nda5mjitytk1nc00nzfmlwfhnwe を撮るのではなく)エキストラを集めているし、カットワークもしっかりしているし、ドキュメンタリーのような生々しい迫力はない。オールロケとのことだが、ドイツ将校たちがくつろぐ大広間は、まるでセットのように広々としていて、照明もしっかり組まれている。
三年後に公開された『ドイツ零年』のほうが、敗戦国の窮乏した環境を生々しく伝え、ひとつひとつのシーンにのっぴきならない切実さが漂っていた。お金がなくて環境が悪化すると、劇映画は、ウソで固められたヴェールを脱ぎ捨てていく。セットが使えないと構図は限られてしまうし、フィルムの無駄使いを抑えようとすると、カット数を減らさざるを得ない。

『無防備都市』は戦勝国のアメリカで公開され、大評判となった。イングリッド・バーグマンは作品に惚れこんでロッセリーニに手紙を書き、映画史に残るスキャンダルを起こした。
そんな華やかな尾ひれも含めて、どうも『無防備都市』には誠実さを感じられないんだよなあ……。


『アメリカの夜』は大学時代に観て、かなり好感をもった映画だ。
Mv5bmjqyogzmmjitzdhmnc00ndezlwfhytgトリュフォーは、『大人は判ってくれない』『ピアニストを撃て』で映画を街中に解き放つと同時に、熱烈なシネフィル、優れた評論家としても活躍を続けた。彼はロケ撮影を好んだが、その一方でセットを組んでフィルターで昼間の風景を夜にする「映画のウソ」への偏愛を隠さなかった。『アメリカの夜』で撮られる劇中劇は、街をまるまるひとつ作ったセット、雇われたエキストラたち、消防車を動員した雪の再現など、バカバカしいまでに大仕掛けなハリウッド式の劇映画をなぞっている。
処女作『大人は判ってくれない』でデビューしたジャン=ピエール・レオも出演しているし、トリュフォーの創作・言論活動の集大成のような映画だ。

小道具係の持ってきたネコが言うことを聞かず、有能な衣装係が別のネコを調達してくる。画面は、ネコを撮影している“カメラの主観カット”となり、画面外から「ピントが外れたぞ」など撮影スタッフの声が入る。映画は、意図とメカニックによって成立している。
だが、劇映画の構造を“劇映画の形のまま”あけすけにしたのがゴダールであり、初期のトリュフォーだった。あの過激さは、十数年をへた『アメリカの夜』には見られない。
トリュフォーが十数年の間、何をしていたのか、敷衍するような映画だと思う。分かりやすく噛み砕いたから、世界で大ヒットした。20歳そこそこの僕でも、理解できたのだ。

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2018年1月 1日 (月)

■0101■

レンタルで『ゴダールの決別』と『007 スカイフォール』。
Photo『ゴダールの決別』の主演は、なんと前年に『1492 コロンブス』に出ていたジェラール・ドパルデューである。そんなメジャー大作に出ていた俳優が、ゴダールの難解な映画に出てしまうギャップが凄い。というより、こんなに意味不明の『ゴダールの決別』が商業映画であることに何より驚かされた。
『気狂いピエロ』から30年ちかく経過した1993年の作品だが、基本的に作風は変わりがない。
シーンの途中だろうと何だろうと、無作法に挿入される黒字に白の文字列。画面外から聞こえてくる、その場の状況と関係あるようなないような哲学的なナレーション。カメラの位置や動きを意識して動いたり止まったりする不自然な演技の俳優たち。つながらないショットとショット。しかし、湖畔の風景や女優は美しく撮られていて、まったく飽きない。
何かに似ていると思ったら、『化物語』にそっくりだ。


『ゴダールの決別』では、「この男優とこの女優は夫婦を演じている」「ある日、夫に異変が起きた」……など、劇中の筋書きは確固として存在する。しかし、劇とは関係なくナレーションが進行し、画面外から乱入する断片的なセリフによって、劇の進行は大きく乱される。
映画における劇、お話は、バラバラに撮られたショットを分かりやすく並べてあるから観客に理解可能なのであって、ショットひとつひとつは意味を持たない。ショットを分かりやすく組み立てないと、お話などあっさり空中分解してしまう。劇映画の脆弱さを、ゴダールは暴きつづける。

僕が学生のころはミニシアターが増えていた時期で、ゴダールの映画はちょっとしたブームになっていた。自主制作の8ミリ映画でも、ゴダールのように切れ切れのショットを、難解なセリフで繋いだ作品が散見された。
ヌーヴェル・ヴァーグによって、映画は解放された。ゴダールやトリュフォーの気ままな撮り方は、商業映画の中で希釈され、浸透していった。たとえば、岩井俊二や是枝裕和のロケ重視のラフな撮影方法は、ヌーヴェル・ヴァーグに根拠を求めることができる。口あたりよく薄められているから、鈍感な僕らはついつい見過ごしてしまうのだ。


『007 スカイフォール』にしても同じことであって、ヌーヴェル・ヴァーグの片鱗が見られない代わりに、絵コンテでサスペンス・シーンを効率的に組み立てるヒッチコックの撮り方、あるいはオーソン・ウェルズのように画面に何かを象徴させたり、構図で展開を暗喩したり……といったクラシカルな演出は、現在の娯楽映画の中にも薄められて紛れこんでいる。
愚鈍な僕らは、目の前のショットの連なりを見ずに、ショットの組み立てによって伝えられるストーリーの中に浸って、その中で起きた(ように製作者が見せている)出来事についてしか発言しない。これは、怠慢である。

冒頭のバイク・チェイスのシーンを見てみよう。
Mv5bmtm4mjc4oduxnf5bml5banbnxkftztc 悪役の乗ったバイクを、ダニエル・クレイグ演じる007が追いかける。ワンショットの中で、画面右から左へ走っている。ところが、悪役はトラックに道をふさがれてバイクを急停止させる。次のショットで、バイクは左から右へ、建物の階段を駆け上がる。ずっと画面右から左へ走っていたはずのバイクが、急に逆方向へ走る画が入るので、ちょっとギクシャクする。
だが、そのショット以降は街中ではなく建物の屋上でバイクを走らせる、つまり新たなシーンへ展開するので、逆方向の絵が入ったほうがいい。走る向きが変わるときには、必ずキーとなるような、あるいはクッションとなる画が入っている。……いま、確認のためにスローで再生したら、ちょっと編集が荒いことに気がついた。同じアクションを重ねてしまって、部分的に流れが悪くなっている。

ようするに、劇映画は、ひとつひとつのショットを編集者が判断して繋いでいるわけで、意図的に情報が組み立てられているのだ。僕らはその作為を無視して、いきなり「バイク・チェイスがカッコよかった」「いや、あのシーンは余計だ」とか、ストーリーの内部の話題から入る。それは、眠ったまま夢の話をしているようなものだ。


と偉そうに言ったものの、『007 スカイフォール』を観たキッカケは、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』とよく似ている、と聞いたからだ。何が似ているかといえば、ストーリーを構成する要素が似ている。
Mv5bmtfjndrjm2qtyzbhny00otm2ltkyzde『007』シリーズも23作目、スパイ合戦だのペン型爆弾だの、60年代は斬新だったアイデアが古くなってしまった。『スカイフォール』は、シリーズを存続させる意義に自己言及して、ストーリーの存立基盤であるイギリス秘密情報部を解体する話まで出てくる。ジェダイ騎士団の存在価値を疑った『最後のジェダイ』と、確かによく似ている。 
面白い/面白くないといったレベルの話ではない。劇映画の体裁を使ったシリーズ論なのだから、その領域で評価せねばならない。

『007』シリーズを頭からちゃんと観たことは一度もないのだが、『スカイフォール』がシリーズのマンネリ化と誠実に向き合っていることは、よく理解できた。『スター・ウォーズ』も『007』も、アイデアやルックスを新しくすればするほど、シリーズを継続する意義を問われる。したがって、『スカイフォール』のクライマックスでは懐かしのアナログ兵器に活躍の場が与えられ、かろうじてのアイデンテイティを保つ。
「ただの娯楽映画なのだから、楽しめたか楽しめなかったかだけで判断すればいい」という態度は僕は嫌い。なぜ楽しめたのか、その理由を知らないまま死にたくない。

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2017年12月30日 (土)

■1230■

レンタルで、『マルタの鷹』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』。 
Mv5bmty2mtu0mja1ml5bml5banbnxkftzty『マルタの鷹』は、後に『007 カジノロワイヤル』を撮ることになるジョン・ヒューストン監督のデビュー作で、『カサブランカ』の前年、1941年に公開された。
こうした四角四面の舞台劇をそのまま映像に置き換えたような作品がアカデミー賞をとったと聞くと、十数年後に活躍するヒッチコックがキワモノ扱いされて批評の対象にならなかったことには納得がいくし、その状況に憤ったのがトリュフォーら、カイエ・デュ・シネマの面々であることは筋が通っている。
(トリュフォーは、「トーキーの発明以後、ハリウッドは、オーソン・ウェルズという例外をのぞけば、真に偉大な視覚的才能を持った強烈な個性をまったく生み出さなかった」と、『映画術』で明快に書いている。ほとんどの映画が、セリフに頼りすぎているのだ。)


『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、多くの岩井俊二監督の作品と同じように、主演女優のPVRvw_postercut_large のような撮り方をしている。主演の黒木華の友人たちはキャバ嬢やAV女優という設定なのに、主人公は彼女たちの職業を理解しようとも近づこうともしない。その無神経なまでの潔癖さは、一種のアイドル映画なのだと考えれば納得がいく。

ひとつだけ、感心させられたシーンがある。
結婚相手の家族をだました黒木華が、今度は相手の母親に陥れられ、家を出ていくことになる。彼女は結婚式で偽の家族を用意してくれた詐欺師のような男(綾野剛)に頼るしかなく、路上で、荷物を抱えたまま電話を受ける。
綾野に「今どこにいるんですか?」と聞かれた黒木は、「自分がいま、どこにいるか分からないんですけど……」と繰り返す。もちろん、そのセリフは具体的な場所が分からないだけでなく、家庭にも社会にも居場所がなくなってしまった黒木の困惑を語っている。
だが、それ以上に「ここはどこですか?」と不安にならずにおれないような、何でもない場所――鉄柵の向こうに何台もバスが停まっていたり、石垣の向こうに工場のような建物があったり、視界をふさぐように団地が並んでいたり、日本のどこにでもある、誰でもが見覚えのある退屈で平凡で殺伐とした風景を切り取った、そのセンスに唸らされた。
それはいわば、他人の顔をしたよそよそしい風景だ。

そのシーンでは、手持ちカメラの効果もよく出ていた。
というより、手持ちカメラでなければ主人公の不安を演出することは出来ず、カメラワークが劇を説明するのではなく、表現のイニシアチブを握っていた。


また、家族を失った黒木華が偽装家族のアルバイトを請け負い、たまたま居合わせた人々と束の間、本物の家族のような雰囲気に包まれるシークエンス(シーンの連なり)もよかった。やはり、手持ちカメラと自然光による実体験感がシチュエーションとマッチしている。

ひさびさに最近の日本映画を観てみたが、漫画原作の学芸会のようなコスプレ映画を避けようとすると、どうしても是枝裕和作品か岩井俊二作品になってしまう。
刹那的に泣けた、瞬間的にネタとして楽しめた、それが映画を観る動機になっている現状では、映画をつくる動機が消失して当たり前なのかも知れない。

(C)RVWフィルムパートナーズ

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2017年12月29日 (金)

■1229■

レンタルで、イタリア・フランス・ドイツ合作映画『ドイツ零年』。
Mv5bmtgyndq0mze2m15bml5banbnxkftztg20代のころ、吉祥寺ジャブ50でロッセリーニ映画祭があって、トイレを我慢しながら観たのが同じロッセリーニ監督の『無防備都市』だったと記憶する。しかし、『ドイツ零年』の後半、敗戦直後のドイツの廃墟を、少年が行く宛てもなくさまようシーンには確かに見覚えがあった。
1948年の公開だから、先日観た『カサブランカ』とは戦争をはさんで6年の差がある。ほとんとがセットで撮影されている『カサブランカ』に対して、『ドイツ零年』はオールロケ。本物の廃墟で撮影されている。室内シーンもロケセットなので、狭い室内で苦心して撮った跡がうかがえる。長回しが多い。

では、素人のような苦しまぎれな撮り方をしているのかというと、そんなことはない。病床にある少年の父親が、戦争や自分の過去について長々と話すシーンがある。カメラは父親、姉、兄、そして少年の顔へとゆっくりPANしていく。少年が立ち上がって別室へ行ったところで、カットは切り替わる。だが、父親のセリフはつづいている。少年は室内で紅茶を用意しているのだが、彼は家族に見られないかを気にしている。少年と父の顔がカットバックする。少年は画面右方向をチラチラと気にしていて、父親の顔は画面左方向を向いている。すると、少年が父親に対して何か意図をもっていると分かる。いつも書いているように、向かい合うように配置された二人の人物のカットが続くと、まるで会話しているように見える。二人の間に、何らかの関係が生じる。
少年は家族のいる部屋に戻ってきて、紅茶を淹れると、父親のもとへ持っていく。もちろん、画面左から右へ歩いていく。さもなくば、少年と父親のカットバックが台無しになってしまう。
本当にでたらめな映画は、人物の位置関係にルーズだ。人物がどちらを向いているか留意した映画は、たったそれだけで劇的効果を生み出す。

このシーンの意図は、少年が父親に毒を飲ませた、と観客に理解させることだ。上記のカッティングで、ちゃんと異変が起きていることが伝わってくる。


貧しさのあまり、父親を毒殺せざるを得なかった少年は、家を出て徹底的に破壊されたドイツの街をさまよう。ここが、『ドイツ零年』の本当の見せ場だろう。
Mv5bn2mxmdjkzgqtymvjoc00mdqyltgymjg冒頭で解説されるように、この映画は敗戦直後のドイツの風景を記録することを目的にした劇映画だ。(このセミドキュメンタリー技法は、ロッセリーニ監督の助手だったトリュフォーや、ゴダールに受け継がれていく。ただし、ヌーヴェル・ヴァーグには、ネオレアリズモの悲壮さや義務感はなく、ただ放埓さだけがある。)

とても好きなシーンがある。
父親の死を見届けて、誰からも相手にされず、ひとりで廃墟を歩く少年のバストショット。不意に、パイプオルガンの荘厳な音色が響き、少年は顔を上げる。カメラが少年の背後に回りこむと、そこには焼け残った教会がそびえている。
教会の中で、神父がオルガンを弾いている。教会の周囲では、道行く人々が立ち止まり、教会を見上げている……が、少年はその場を立ち去る。道路には、斜めに建物の影が落ちている。少年は、その影の中に入るのである。
パイプオルガンが背後に流れている。だが、少年は寂しそうな顔で歩きつづける。父親を殺した彼には、救いなどない。その冷淡な事実が、一言のセリフもなしに伝わってくる美しいシーンだ。アップとロングの使い分けも、カメラの動きもいい。


僕は今年になってヒッチコックの優れた娯楽サスペンス映画群にはまって、では、なぜヒッチコックを高く評価していたトリュフォーがヌーヴェル・ヴァーグのような自由放埓な映画を撮りはじめたのか、興味をもった。

日大の映画学科でも映画史の授業があったはずだが、ネオレアリズモもヌーヴェル・ヴァーグも、僕は佐藤忠男さんの『ヌーヴェルヴァーグ以後』で知った。しかし、いきなりロッセリーニやトリュフォーを見はじめても、その価値は分からない。
1940~50年代にかけて、大衆娯楽として完成された映画を経ないと、ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグがどれほど衝撃的だったのか理解することは不可能だと、この歳で知った。若いころの“感受性”など、何の役にも立っていない。

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