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アニメ関連の催し物ばかり行っている自分に嫌気がさしてきたので、上野公園へ、美術館めぐりに。まず、東京都美術館のクリムト展。平日午前なのに、やっぱり混んでいる。
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ひとつの絵の前に20人もお客さんがたかっている状態なので、まったく話にならない。係の人が「中へお進みください」って言わないと、みんな頭から順番に見ようとして行列をつくってしまう。動物園のパンダじゃないんだからさ。

本当によろしくないなあ……と思うのは、絵そのものより、短いドキュメンタリーを映写したモニターの前に人だかりができやすいこと。家でテレビを見る感覚って、昭和生まれには強烈なんだと思う。「ハイこういうお話でした、どうぞ感動して帰ってくださいね」と、手短にまとめてもらわないと、何かを見た気になれないんだろうな。
音声ガイドは、一体全体どういう狙いなのか稲垣吾朗を起用して彼の写真まで貼りだしてるし、大企業がいっぱい協賛に名を連ねているから、愚民どもをキャッチして金にかえないと成り立たないイベントなんだろうな。全長34メートルの絵が展示されますよって、実は複製だしね。バカにされてるんだと気がつかないと。


このままでは収まりがつかないので、やや閑散とした雰囲気だった国立近代美術館へ。ル・コルビュジエ展。
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こちらは、建築模型から壁面に投射したCG映像から、あらゆるメディアを投入していて楽しいし、何より適度に空いている。シックな装いのひとり客が多くて、とても居心地がよかった。しかも、60歳ぐらいの男女が「ホラ、ここのスロープがさ……」と、マニアックな話をしていた。何しろ、われわれのいる近代美術館そのものをル・コルビュジエが設計したのだから、彼の作品の内部で、彼の業績を追っているとも言えるわけ。

おまけに、キュビズムを批判しながら描いていた絵というのが、あまりカッコよくない。絵をやめて建築に進んでから、頭角をあらわしたんだな。解説文は難解でありながらも、ひとつひとつの文を追っていくと、ドキュメンタリーを見ているかのような苦みばしった現実感があった。
(大きく引き伸ばした当時のモノクロ写真や、批評活動のベースだった雑誌類が並べられているのも、現実味を増すための良い演出だった。ヌーヴェル・ヴァーグもそうだけど、表現者が批評家を兼ねてるのって凄いことだし、必要なことのようにも思える。)

日大芸術学部は、映画の授業はいっぱいあったけど、「美術史」ってのはなかったような……俺が専攻しなかっただけだろうけど、どこからどこまでが古典で、どこからが近代で、写真と絵画と建築がどう関係していったのか、今からでも学びたい。小学校~高校の美術(図工)の時間は「感じるままに描け」っていう最悪なものだった。クリムトの絵を「いい絵か悪い絵か、ただ感じろ」と突き放すのだとしたら、それは文化的と言えるのかな……。


最近の映画は、ロバート・レッドフォード監督の『大いなる陰謀』、フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』。
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どうも、フェリーニのように祝祭的な映画を撮っている人がロッセリーニ(というかネオレアリズモ)を手伝っていたというのが解せないでいたのだが、『カビリアの夜』を見て、これもひとつのネオレアリズモのあり方なのだろうと納得がいった。1957年だから、ロッセリーニの『イタリア旅行』から三年後。
ひとつひとつのエピソードはやはり夢の中のように茫洋としていて、リアリティはない。背景で音楽を演奏している人たちがいて、つねにパーティのような賑やかな雰囲気が漂っている。
ラストも同様で、求婚された男から金を騙しとられた娼婦のカビリアは、絶望して地面に倒れふす。そのまま夜になってしまい、彼女は寂しい山の中の道を、よろよろと歩き出す。すると、近くでキャンプでもしていたらしい男女がギターなどで音楽を奏でながら、涙で化粧の溶けたカビリアの周囲を踊りながら歩き出す。「こんばんは!」と、カビリアに挨拶する女がいる。カビリアは力なく笑い返して、彼らとともにヨロヨロと歩きつづけて、そこで終わり。客観的に見れば救いのない凄惨な終わり方……という意味では、間違いなくネオレアリズモなのだ。

ようするに、山の中の若者たちはカビリアの心象風景であって、「たまたま若者たちが居合わせただけ」と、額面どおりに受けとってはいけない気がする。
カビリアが映画スターの男に誘われるシーンにも、同じことが言える。カビリアはスターの家に招かれるが、そこへ彼の元恋人が帰ってきてしまう。カビリアは浴室に隠れて二人の様子をうかがうのだが、そこには子犬がいる。カビリアは音を立てないよう、子犬を抱きかかえる。
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そのシーンには、別に子犬はいなくてもいいわけ。でも、理不尽に浴室に追いやられて、できれば大声で騒ぎだしてやりたいカビリアの心がその子犬なんじゃないか?と考えると、それはそれで「リアル」だと思うんだ。
とは言え、ドキュメンタリー的な撮り方をすれば即物的に「リアル」になるのが映画なので、そこが本当に厄介! だって、劇映画なのにエキストラとして雇った人に「ふだんはどんな仕事してるの?」とインタビューを始めてしまうゴダールの映画だって、「リアル」と言えてしまうものね。


『カビリアの夜』で検索したら、「感情移入できた、彼女の境遇に共感できる」って感想があったけど、いま映画の見方がすべてそうなっている。あたかも、映画の役割が「共感を誘うだけの古典的な触媒」として終わろうとしているかのようであり、おそらくそれは間違いない。

3Dとか4DXのような、環境に頼った体験型ツールがもてはやされるのも、IMAXのような効率は悪いけど映写面積だけ無闇にでかい上映形式が「臨場感がある」と誉められるのも、「どれもこれも映画なんて似たようなもの」と、世の中が気がつきはじめてるからじゃないのか……。それで、「ネタバレくらった」「ネタバレすんな」と、“あたかも映画に中身があるかのように”振舞ってるんじゃないか?
今の僕の感触だと、映画の話法が刷新されていたのは、1970年代のニュー・シネマが最後。あとはSFXとCGによって、被写体が目新しくなっただけ。50~60年代が、映画の青年期だね。

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2019年5月12日 (日)

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9日(木)は、静岡ホビーショーで取材2件。前日の8日(水)から静岡入りして、ホビーショーに出展しないメーカーさんを訪ねて意見交換した。いくつか、具体化できそうなアイデアが出た。
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夜はホテル近くの居酒屋で、ひとり酒。旅先の常で、ジョッキ二杯と静岡茶ハイ一杯で、すっかり酔いが回ってしまう。バーに寄ってワインでも飲みたかったけど、店で悪酔いするのが怖いので、コンビニのカップワインで我慢した。ホテルの部屋で飲むなら、酔いすぎたらやめればいいし、なにかと調整がきく。翌日は取材があるので、二日酔いにでもなったらシャレにならない。
ひとりで寂しくないのかって思われそうだけど、僕は、旅はすべて一人。誰かと呑むのも、よっぽど仲のいい友達と、月に一度程度。仕事がらみの酒で、窮屈な思いしたくない。みんなでワイワイとか、著名な業界人に囲まれて……ってのは興味ない。僕は僕にしかできない仕事をやっている自覚があるので、価値意識を理解してくれる仲間は少しでいいし、おのずと少数精鋭になる。

こういう、ひなびたスナックがあるところも、地方都市の魅力だ。一軒目の居酒屋で酔ってしまったので、寄るわけには行かないけど。
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こんな風に、家をもたずにホテルを転々としながら取材して歩き、原稿も旅先で書くわけに行かないかな?と、考える。


ホビーショーは、静岡の小学生を招待する特別日にメディア取材が入ってしまって、情報がどんどんウェブにアップされた。
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見本市として最新製品を真っ先に見に行く意義は、ほぼ完全に霧散した。取材で知り合ったメーカーの方たち、いつもは東京で会う模型メディアの方たちと、ふと出会って話しこむ。東京では話しづらいことも、ここなら気楽に口にできる。それが、ささやかな楽しみだ。
声優さんかアイドルか知らないが、若い女性が「ハイーッ、今度は○○さんのブースにやってきましたーっ!」と頑張ってレポートしていたけど、どこもかしこも似たような盛り上げ方をするんだなあ……。なおさら、空虚さが増す。アイドル的な立場の女性にプラモデルを作らせて「どうですか、難しいでしょう? こうすると上手にできるんですよ、知らなかったでしょう?」式に、おじさんがレクチャーするのも男尊女卑で時代遅れに感じる。

女性を、「無知で無垢なアイドル」として使うしか盛り上げ方がないとしたら、模型趣味はどんどん時代に取り残される。僕の取材してきた実感だけど、模型メーカーでは女性の開発者も多く活躍していて、女性モデラーも(顕在化していなかっただけで)以前からいっぱいいる。メディアが頭を切り替えられてないだけだろう。そんな風だから、僕が企画をねじこむ余地がいっぱいあるわけだ。


9日夜に編集者と2人で帰宅して、翌日夜は藤津亮太さんのウェブ番組『アニメの門』に出演。
藤津さんとはマチ★アソビで即席のトークショーをやって以来だから、7~8年ぶりだと思う。お題は『∀ガンダム』なので、静岡へ行く前と帰ってきた夜、しっかりメモをとりながら何度も作品を見直しておいた。藤津さんとは意見が異なりながらも、お互いに「なるほどそう考えたか」と納得しあえて、有意義な2時間になった。

だけど、Twitterでの反応はどうかな?と、キーワードで検索してみたら「これは俺の好きな方向性じゃない、というような論じ方」を、僕が多くしていたという。うーん、どの発言がそうなのかな? 批判する以上は根拠を用意していったはずなので、おおいに首をひねった。「好きな方向性」だとか、そんなレベルでプロが仕事できるわけないでしょ?
というか、自分の名前で仕事してないくせに「知識量はこっちの方が上だぜ!」とイキってる素人さん、本当にめんどくせえ。プラモ媒体は「リスナー」と「プレイヤー」に分かれていて、僕は「リスナー」に徹底しようと決めているので、「プレイヤー」の皆さんに敬遠されることは計算の上なんです。でも、アニメって作り手以外は「リスナー」しかおらず、優れた「リスナー」と愚かな「リスナー」がいるという考え方があるらしく、そこが面倒。

小学校の頃、揶揄するニュアンスで「怪獣博士」って呼び方があった。怪獣博士は、ちょっとでも誤った怪獣情報を聞くやいなや、「それ違うよ!」と横入りしてくるウザい存在。好きなものを使って他人を貶めたり嘲ったりするから、怪獣博士は嫌われるんだと思う。怪獣のことなんて真剣に考えてない無知なクラスメイトが間違った発言をしてくれないと、怪獣博士は己のプライドを維持できないわけだな。
僕は誰とも競いたくないから、いまのポジションを手に入れた。どこへ行くのもひとり、酒を飲むのもひとり。贅沢な身分だと思うよ。他人に勝とうとしてないから、ひとりの贅沢ができる。徒競走で一等とビリッケツがあるのが嫌で、トラックを降りてしまった人間なので。ビリッケツの悔しさとプライドを持ったまま、トラックの外で歩いたり走ったりしているだけなんだ。「お前、トラックの上に乗ったらビリッケツだぞ! みんなと同じルールに従えよ!」と僕を叱ったところで、無駄ですよ。誰とも競うのもやめた人間なので。ビリッケツは確かに悔しいけど、かといって、僕が一等で誰かがビリッケツになるのも嫌なんですよ。

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2019年5月 6日 (月)

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過酷な物語を抽象化する“童話”としての「機動戦士Vガンダム」【懐かしアニメ回顧録第54回】(
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僕は1999年のガンダム20周年前後にライターデビューしたので、当時整備された宇宙世紀年表の「史実」にもとづいて、モビルスーツの全高設定だの出力だの武装だの、あとはリアルだの富野節だの上っ面だけの決まり文句を叩き売りしてきました。
でも言っちゃ悪いけど、模型雑誌っていまだに同じこと書いてますよね。それか、ロボット戦の部分を無視してドラマだけ語るか、どちらかだと思います。

富野由悠季監督は一作ごとに作品のコンセプトを変えているはずですが、しかし、ほとんど上手くっていません。
玩具を売りたいのであれば、第1話で味方のロボットを出さなければ失格です。ドラマを優先した結果、主役ロボを出せなくなった? それは作劇が下手くそであるか、玩具を売るビジネスをバカにしているからです。まず、そこを冷静に見つめないと、本質的な評価はできないと思います。
それでは、当時のスポンサーがどこで、本当に玩具やプラモデルを売らないと番組が成り立たないのか? ちゃんと確認したことがありますか? 評価する側も「あれは玩具会社の都合で……」と出鱈目なごまかしをしていないか、十分に気をつける必要があります。さもなくば、僕たちの洞察力はアップデートできず、「懐かしい~!」と叫ぶたびに脳細胞がどんどん死んでいくだけです。

「富野さんや安彦さんが間違ったことを言うはずがない」という思い込み、僕には全体主義のように見えてゾッとします。
せめてリアルタイムに『ガンダム』を経験してない世代は、オジサン世代の陶酔ぶりを疑いの目で見てください。懐メロと化した『ガンダム』は、醜悪なだけです。


最近、レンタルで見た映画は『ワイルド・スピード』、『勝手にふるえてろ』、『フルメタル・ジャケット』、『トパーズ』、『引き裂かれたカーテン』、『ベン・ハー』。
誰もが『ワイルド・スピード』がもっとも新しい製作年度なのだから、映画の形式としても新しいと認識しているだろう。レストランでの会話シーンを見てみると、立って歩いているモブたち(顔は切れている)をドリー移動でナメて、画面外から主要人物たちの会話を入れる。そのままドリー移動していくと、人物が座って会話している(顔がフレームに入っている)……と、『カサブランカ』の頃と変わらない演出をしている。
だから、映画の形式なんてそうそう簡単に新しくならないんだって……。被写体が派手ならば映画も派手になるというほど、甘いものではない。

反面、『引き裂かれたカーテン』の中盤、農家でのアクション・シーンの迫力はどうだろう?
Highlight
主人公は西側の諜報部員で、お目付け役の男に正体を見破られてしまう。主人公は男に首を絞められ、農家の女は包丁で男の胸を刺し、さらにスコップで足を殴打し、ついにはオーブンの中に頭を突っ込ませて殺す。
短いショットを激しくカットバックさせ、じりじりと男はオーブンに近づいていく。ついに頭をオーブンに突っ込まれた男は絶命するわけだが、死ぬまでが長い。しかも真上から撮っているので、顔は見えずに男の痙攣した手だけがずーっと、ヒクヒク動いている。じれったい。
そして、男が動かなくなると、今度は首を絞められていた主人公と男を引きずっていた女が、ゼイゼイと息を荒くして、その場にへたりこんでいる。何十というカットを短くカットバックさせたあとの、長い長いロングショット。フッテージだけ見ると、確かに古臭い。特殊メイクはチャチだし、撮影も綺麗ではない。
でも、映画は被写体で決まるわけではない。どう撮って、どう繋ぐか。それだけが、映画を支配するんだよ。


でも、ヒッチコックはまだ分かりやすい方であって、ハリウッドが超大作ばかり連発していた50年代後期の『ベン・ハー』は、さすがに間伸びした構図なんじゃない?と油断していると、これがまた引き込まれる。壮大な英雄譚で、『スター・ウォーズ』EP1~3は、これがやりたかったんだな。
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たとえば上のカット。ガレー船で奴隷として酷使されるベン・ハーは、戦争で船が破壊された隙に脱出し、ついでに艦隊の司令官を助ける。助けるというか、復讐の意味で殺さず、生き恥をさらさせるわけだ。
ところが、友軍の船に拾われた司令官は自分に差し出された水を飲まず、奴隷であるベン・ハーに先に渡す。これだけの演技で、彼の心のうちが分かるよね。
ベン・ハーは水を飲み、器を司令官に戻す。すると、司令官は同じ器から水を飲むわけだ。ひとつの器から、奴隷と司令官が水を分け合う。もう、ほんのこれだけで2人の関係が激変したことが分かる。こんなシンプルで雄弁なカット、なかなかお目にかかれない。

だけど、ここまで平板な構図でいいの? カッティングの工夫もないのに、どうして俺はこんなに感動してるんだろう? その理由を考えつづけようとすると、図書館に行って映画の専門書を漁ることになる。だって、ネットには「泣いた」と「ネタバレ」しか書いてないもん。

(C)Universal Pictures
(C) 1959 - Warner Bros. All rights reserved.

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2019年5月 3日 (金)

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モデルグラフィックス2019年6月号
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●組まず語り症候群 第78夜
今月は編集部からの持ち込みで、イタレリ製の1/24トラック・アクセサリーセットです。

異色作「ベターマン」の生まれた時代と環境を、米たにヨシトモ監督が振り返る【アニメ業界ウォッチング第53回】
『ガオガイガー』をリアルタイムで観ていたので、米たに監督がオリジナル企画を撮ると聞いたときは、本当にドキドキしました。だけど、この記事はパプリシティですからね。僕が残したいと思っていた部分は、土壇場で切られてしまいました。

プラモデルやフィギュア製品を「撮影する仕事」とは――? ベテランのホビー専門カメラマン、高瀬ゆうじさんの目撃した昭和~平成のホビー業界【ホビー業界インサイド第46回】
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バンダイ近辺を取材中、ごく普通に耳に入ってきたのが、キャラクター製品専門の高瀬カメラマンのお名前でした。私も、中高校生のころには、誌面でお名前を覚えていました。思わぬ話が聞けたし、記事の反響もあり、満足しています。
予定どおりの話を聞くってのは僕の仕事じゃないし、そうならないように気をつけてるつもりです。ホビー(フィギュアやプラモデル)は、文字パートが非常に弱いですから。


コミティアで発売される同人誌『MANGAの自由』()で、インタビューを受けました。
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GMOメディアが、個人の制作した美少女フィギュアのブログを「児童ポルノ」と呼んで切り捨てたとき、抗議のために署名を集めましたので、それに始まる活動いくつかについて取材されました。最後に抗議活動をしたのは、テレビで児童ポルノ所持容疑の男性の私物として、市販のキャラクター・フィギュアが映されたとき。2016年3月、愛宕警察署まで抗議に行きました。
だけど、その後も美少女フィギュアって酷い目に遭わされています。最近では、フィギュアの首をすげかえてオークションで販売しただけで逮捕されましたよね。著作権法違反の容疑だけそうだけど、版権元からの通報ではなくて、警察の独自判断でした。そして、またしても水着姿の美少女フィギュアが「犯罪」を強調するためにテレビに映されました。

さすがに、ネットで「おかしいのではないか?」という声は高まってきました。
だけど、フィギュアメーカーや模型会社は「我関せず」の立場を貫いています。もし、フィギュアではなく漫画だったら、作家や出版社団体が抗議声明を出すと思います。ホビー業界って、そういう動きが一切ないんです。「社会性がない」と思われても、仕方がないでしょう。文化として未熟だから、警察のいいカモになっているのではないでしょうか。
メーカーさんは弁護士と相談して「黙っていても不利益はない」「余計なことを言うと危険だ」と、判断したのかも知れません。でも、そういう問題じゃないと思います。特に、個人が犯罪者のように排除されているのに、組織に属していながら沈黙しているのは、ちっともカッコよくないです。恥ずかしいです。「児童ポルノ」という、まやかしの言葉の圧力に、まんまと屈しているから。

だけど、酒の席とかでは「廣田さん、ああいう活動してて大丈夫なんですかねえ」なんて説教されるわけ。普段、フィギュアを商売にしている人から。もちろん、全員がそういう卑怯者ばかりじゃありませんけど、組織の中から個人に文句を言うのは楽でしょうよ。どんな立派な製品をつくっていても、どんなに素晴らしい技術やセンスを持っていようとも、心の底で僕は軽蔑してしまう。
だって、酔って僕の活動を批判するのは、「あの時、自分は何もしなかった」って恥じてるからでしょ? 「何もしない」「言わない」のは、頭がよさそうに見えます。でも、「何もしなかった」ことで責任を逃れられるかというと、世の中そんなに甘くはないですよね。皆さん、ご存知のはずだ。   


NHKになぜスクランブル放送をしないのか質問したら逆切れされた3-1
先日の選挙以来、「NHKから国民を守る党」の動きは、とてもスリリングです。上にリンクした電話のやりとりを聞いたら、受信料なんて払う気は消し飛びます。
なぜNHKがスマホやPC所有者からも受信料をとろうと息巻いてられるのかっていうと、不義理やウソや誤魔化しに誰も対峙してこなかった、それだけの話です。「何もしないのが、かえってカッコいい」「ここは黙ってやりすごすのが賢い」と、僕らは義務教育のころから組織への盲従を叩き込まれてきたんじゃないだろうか。牙を抜かれつづけてきた。でも、牙を抜かれたまま人生を終えるのは、どう言い繕っても負けだと思う。負けは負け、勝ちに転じることはない。

NHKのように有名タレントをいっぱい出演させている組織が、そんな詐欺みたいなことを働くわけがない?
その、「有名人が出てるから」「でかい組織だから」間違うはずがないって考えが、すでに「組織への盲従」そのものなんだよ。身も心も差し出せなんて、組織は絶対に言わない。彼らは僕たちに、「とにかく黙っていてくれ」と願っている――。それを忘れないでほしい。

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2019年4月26日 (金)

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24日は、個人で毎月主催しているトークイベント【模型言論プラモデガタリ】第4回。公開から30年を迎える実写ロボット映画『ガンヘッド』、当時は記録的な不入り(と事実を書いただけで「あのライターには書かせるな」と仕事を取り上げられてしまうほど)だったのに、会場の阿佐ヶ谷ロフトAは立ち見が出るほどの大入りでした。
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(※写真は、取材に来ていたモデルグラフィックス編集部からお借りしました)
まず、河森正治さんの活動40周年を記念する河森正治EXPOの開催が来月に迫り、サテライトさん側からすれば、宣伝としての側面が期待できたこと。これは本当に偶然で、先方からしても願ってもない話だったはずです。河森EXPOがなければ、たぶん河森さんは登壇してくれなかった気がします。

河森さんからは、誰も書き手のいなかった『地球少女アルジュナ』DVDのブックレットで、「廣田というライターなら絶対に書いてくれるはず!」と指名されて以来の付き合いです。貧乏だった30代のはじめ頃、『アルジュナ』をテレビで見て感激して、ファンレターを書いたのがキッカケです。
それから「フィギュア王」で『創聖のアクエリオン』の連載を企画して、温泉まで旅して、CDドラマの脚本を書かされて……と、河森さんとのお付き合いも独特のものでした。だから今回、「廣田さんは進化した」と誉めてもらえて、感激もひとしおでした。


サテライトさんとあと、サンライズさん。サンライズさんが「廣田の個人主催のイベント」として見逃してくれていることも、非常に大きいです。

そして、現在はサンライズに籍を置いていない山田哲久プロデューサー(元・企画室長)に開催を伝えたところ、来場者プレゼント用のパンフレットとプレスシートを提供してもらえました。それは、20代のころから、山田さんとの付き合いがあったからこそですね。
20代だった僕に山田さんを紹介してくれたのが、後にサンライズの社長となる内田健二さん。内田さんの誘いで、僕はサンライズに籍を置くことになりますが、山田さんからはゲームの企画から声優から何から、ありとあらゆる仕事を振られました。怒鳴りあいのケンカもしたし、「お前、そんなに怒るなよお……」と、泣き笑いされこともあります。

山田さんが『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』の執筆依頼をしてきた時、僕は「他の細かい仕事がなくなるのではないか」とビビって断ってしまった。それ以来ですから、4年ぶりに連絡をとりました。


山田さんとのひさしぶりの会話は僕の秘密として胸にしまっておきますが、彼は「GO」という人間なんです。いまのアニメ業界は、「NO」とストップをかける人たちで溢れかえっています。

山田さんは映画は大好きだけど、アニメに執着はしない人です。そういう人がアニメ会社のプロデューサーとして、日本映画として企画したことが『ガンヘッド』のアイデンティティであり、また失敗の原因でもあったと思います。公表された山田さんの発言の中で、『ガンヘッド』を「挑戦的で危険な企画」と呼んでいたと思うけど、僕が『ガンヘッド』に強烈に引き寄せられるのはそこなんです。『ガンヘッド』をストップさせる理由なら、誰にでも思いつきます。どんな作品であれ、誰が監督であれ、企画を実現させてしまった事実は何よりも硬くて強い。
だから、「脚本がよくない」とか「演出が映像が」「CGでやれば」ってグチグチ言っている人たちは、まるで本質をついてない。作品が興行的に失敗したのは、僕がイベントで「キネマ旬報」を引用したとおり、明らかです。だけど、僕には、その敗れざますら愛らしい。失敗したことも含めて、敬意を表します。撮影はされたもののお蔵入りになる商業映画なんて、山ほどあります。「上映された、チケットを売った」という事実は、想像を絶する煩雑な手続きの結果なんです。

映画を試写室で見て面白かった、つまんなかった、ネタバレになる……とか無責任で気楽なことを書いている評論家たちは「企画が実現して、上映されたこと」なんて評価しないと思います。だから、いまの映画評論はダメなんです。だから、僕がイベントをやらないといけないんですよ。人を動かして、みんなの主体性で、会場を熱気に満たさないと。誰かが何かやるのを待ってちゃダメなんですよ。


もうひとつ言うと、今は自分の「好き」を疑わない人たちばかり。『機動戦士ガンダム』40周年で、はっきり分かった気がする。満たされすぎだね。
いい歳をして合体ロボットを考えたり、オモチャにして売ったりするのは、ぶっちゃけどうなんだ?と大人が真剣に悩んだ結果が『ガンダム』であって、最終話のタイトルが「脱出」なのに、いまや誰も「脱出」する気はないんだな……と、呆然としてます。別に、大人に向けてオモチャをつくったわけじゃないよ。
宇宙世紀の設定が、モビルスーツの全高が……といった枝葉だけが40年も愛好されて、『ガンダム』という破壊と逃避の“アクション”が受け継がれていない。富野由悠季さんが「お前ら、こんなレベルで満足してんの?」と苛立っていた理由が、いまの僕になら分かる気がする。富野さんは「真剣に焦った大人」であって、神でも御大でもねーよ。だけど、映画評論家ですら「『ガンダム』偉大だー」「タランティーノが、ギレルモがー」って愛好家レベルでしょ? 何かひとつ打ち壊せよ、突破しろよって思います。

富野さんが60歳になっても70歳になっても勉強をやめなかったのって、こういうことだったんだと気がついた。他の大人たちは、60歳にもなったら勉強をやめてしまうわけ。
いま、「好き」って感情だけで一生をやりすごしてしまえる時代だから、どうかすると30代でもう満ち足りている人がいる。本当に解かなくてはならない問題は、己の嗜好なんかとは別のところにあるんだよ。

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2019年4月23日 (火)

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昨夜はマスコミ試写で、『きみと、波にのれたら』。湯浅政明監督作品では、『夜は短し恋せよ乙女』は映画館を出て帰ってしまったぐらい苦手だった。今回は、ストレートな恋愛モノで驚かされた。
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しかし、「ストレートな恋愛モノ」と言った時点で、いくつか不安要素が浮かぶと思う。いつもの邦画のように、主人公が泣き叫ぶのではないか? 感情を優先するあまり、非論理的な行動を起こして、それをして「ドラマチック」という展開に落ち着けやしないか?
確かに、そうした不安要素を『きみと~』は懐胎している。あるいは、まるで『伝説巨神イデオン』のように壮大だった『君の名は。』 ああいう宇宙的スケールのファンタジーで、泣かせにかかるのではないか? ファンタジー要素は、実は映画の後半を占めるのだが、それがあまり「アニメっぽくない」。動画を最大限に使ってはいるのだが、どこかの町が滅びるだとか、タイムスリップしてどうこうとか、別の世界線では……といった「オタクだけがあらかじめ分かっている設定」が一切ない。それで心底、ホッとさせられた。

見ている間に、どうしても「しょせんはリア充の恋愛だよな……」と思ってしまうが、絶妙のタイミングとニュアンスで、登場人物が「リア充」と発言する。そのような、僕たちが肉眼で目にしているカップルだとかSNSで目にする生々しい恋愛観、人生観を、この映画は「アニメ絵」の中に回収することに成功している。ライトノベル調の、頭の中だけで考えた手前勝手な恋愛観ではない。クリスマス界隈のスノッブな恋愛文化を扱いつつも、きっちりと「……こういうの、ダサくねえ?」と、ツッコミが入る。成熟した映画だ。


アニメーションは、長いこと「恋愛下手」だった。恋愛に縁のない若者たちの夢想としてしか、恋愛を描いてこられなかった。
『超時空要塞マクロス』がそう、『メガゾーン23』がそうだった。二次元的妄想として展開するからこその甘美さは、僕だってよく噛んで味わってきた。それで充足するか、物足りなく感じるかは性格によるのだろう。
僕は、なるべく予定調和を破壊してほしいと願っている。「アニメなのに、こんなことやるの?」と、ビックリさせてほしい。『きみと、波にのれたら』は、その欲求に答えてくれた。いつもの、女性声優特有のキラキラした声を出す俳優は、ひとりもいない。特に、主人公の妹はひねくれた女子高生で、ヒロインに辛くあたる。単にキツい性格なのではなく、年齢相応の幼さや不安定さが、たまに顔を出す。上手い声優だなあ、誰だったかなあ……と思っていたら、ドラマ版『この世界の片隅に』の松本穂香であった。アフレコ初挑戦とは、信じられない。
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プロの(アニメ専門の)声優でないなら、アニメ映画に出て欲しくないという声を聞く。
つまり、自分の熟知したフィールドだけに、作品を閉じこめておきたい。不安定な要素に介在してほしくない。その気持ちも、分かる。僕にとっても誰にとっても、ささやかな現実逃避をかなえるためにアニメが存在するのかも知れない。だからこそ、僕はアニメには「現実に近接してほしい」と思ってしまう。生身の俳優の、たどたどしい演技が欲しい。「ここからここまでがアニメ」という幼稚な枠組みをぶっ壊してほしい。

僕が小さかったころには「テレビまんが」と呼ばれていた、どうかすると「子供向け」のルールで逃げ切ろうとするセル画の紙芝居。ひょっとすると、ようやく「テレビまんが」を卒業できたのかも知れない。アニメ映画が、表現として一本立ちできた、ということ。アニメに執着のない、今このときを生きている若者たちの映画になっている。彼らの、生の現実に隣接していている。
この映画のおかげで、僕は窒息しなくてすんだ。ちょっと遠くへ行って、ふだん見たことのない景色を見てきたような爽快感。


もう少し、具体的に『きみと、波にのれたら』の見どころを書いておいた方がいいかも知れない。
タイトルどおり海辺が舞台となるが、ロケーションがいい。特に、何度か登場することになる小さなエレベーターのある喫茶店。狭い空間を広角気味に撮って、箱庭のようなミニチュア感を出している。お洒落な舞台だけでなく、つまらない住宅街がポツンと出てきたりして、それがいい抜け穴になっている。ようは、綺麗な場所ばかりだして、「気持ちよさ」だけで満たさない姿勢がいい。
人物描写にしても同様で、スーパーマンのように何でもできる彼氏の部屋が、実は汚かったりする。それと表裏をなすように、彼のつくるコーヒーやオムライスが、とてもおいしそうに描いてある。落ち着いて丁寧に計算された、大人の映画だなあ、と思う。
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あまり良くないと思ったのは、絵に描いたような悪役を出して、彼らの悪事でピンチが訪れるところ。でも、その頃には僕は満足していたから、どうでもいい。前半で、彼氏と彼女がどんどん仲良くなるのを、アドリブっぽい歌で見せるシーンがあって、それだけでもう、「テレビまんが」でないのだと分かった。それだけで満足だった。
試写会には女性も多く来ていて、ラスト近くではみんな泣いていた。僕も鼻のあたりがキュンとなった。泣くこと自体は、ぜんぜん構わない。どんどん泣けばいい。ただ、泣いた事実をもって映画の評価に代えるのは、知的な行為ではない。――いや、そんな野暮なことは言うまい。映画館にいっぱい普通の人たちが来て、どんどん泣いて帰ってほしい。映画を生きたものにしてほしいんだ。

(C)2019「きみと、波にのれたら」製作委員会

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2019年4月18日 (木)

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先週末から観た映画は、レンタルで『リバー・ランズ・スルー・イット』、ゴダールの『軽蔑』、上映終了間際だというので、新宿のTOHOシネマズで『スパイダーマン:スパイダーバース』。
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『軽蔑』の劇中、ロッセリーニの『イタリア旅行』を上映している映画館が映る。ゴダールは『イタリア旅行』に決定的な影響を受けて作家になったので、「せめて『イタリア旅行』ぐらい観てくれないと、俺の映画は理解できないよ」と示唆しているかに見える。『軽蔑』には、『メトロポリス』のフリッツ・ラング監督も登場し、ゴダールは劇映画の形式を借りながら映画論を展開しているのだと思う。
つまり、劇映画の中には「最低でもコレとコレを踏まえておかないと、さっぱり価値が分からない」タイプの作品がある。いきなりヌーヴェル・ヴァーグを観ても、素人の撮った下手くそな自主映画にしか見えない。なのに、大多数の観客は徒手空拳の「感性」とやらで「どれほど泣けたか=感動したか」によって全映画を等級づけようとする。

映画に限らない。「難しいことはよく知らないけど、とにかく私の感情だけは絶対に正しい」と確信するポスト・トゥルースの傾向が、僕は怖い。大震災……というより、原発事故以降、事実を無視して感情を最優先する態度が、社会の根底に大きく横たわっているような気がする。


「正しさ」は、もはや知識でも文脈でもなければ、観察や議論の中にすら存在していない。個々の「感情」がすべてだ。原発事故のとき、福島で子供が亡くなったというガセネタが流れた。「だから逃げろと言っただろうが!」と、Twitterで激怒している人が大勢いた。なんだか、「そのニュースを待ってたんだ!」と、嬉々としているように見えた。原発事故で子供が死ねば、自分の怒りに正当性が加わるからだろう。
同じころ、「放射性物質は地面に溜まるそうだけど、犬を散歩させても大丈夫なんだろうか?」というツイートがあった。即座に「関東では、飼い犬が血のオシッコを流しながら死んだそうだ」と答えている人がいたので、「どこに出ていたニュースですか?」と聞いたら、何も答えずにツイートを削除してしまった。ようするに、「放射能は危険だ」「関東から逃げろ」と言いたいがために、空想の犬を空想の中で殺す。彼らにとっては、原発事故も放射能被害も子供や動物の命も、怒ったり嘆いたりするための娯楽ネタなんだな……と、呆れもしたし慄然ともした。

僕は、自分のマンションのベランダの汚泥を測定してもらったり、汚染の基準値を超えてしまった食品会社の対応を、電話やメールで追いかけたりした。
汚染米を出荷したため、営業停止になった米屋に行ってみたこともある。子供用の可愛い三輪車が置いてあるのを見て、なんだか怒る気持ちが薄らいでしまった。
自分の足と目で本当のことに触れていかないと、怒ることは出来ない。なぜ怒るかといえば、それは間違いを正して改善したいからだ。ところが、事態の改善などどうでもよく、怒ることや泣くことの気持ちよさに流れさている人たちが、思ったよりも多いことが分かってきた。


ルパンの愛車「フィアット」公式が感謝のツイート

このニュースも、同じことだ。FIAT JAPANが、『ルパン三世』の原作者、モンキー・パンチさんの死に便乗したツイートを行った。
ちょっと詳しい人なら知っていると思うが、フィアットをルパンの愛車に設定したのはピンチヒッターとして演出に加わった宮崎駿さんたちによる勝手な選択だ。僕は原作漫画は少ししか読んでいないが、宮崎さんのエッセイ集『出発点』にアニメ版『ルパン』の愛車をベンツSSKからフィアット500に変更した個人的動機が、克明に書いてある。1996年の本だ。
しかし、ツイートに群がって「ルパン大好きです!」「フィアットもいい車です!」と感情を吐露したいだけの人たちは、事実なんぞ知ったこっちゃないのだ。FIAT JAPANに問い合わせようかと思ったが、彼らは愚民たちを「フィアット、いい車です!」と躍らせたいのだから、遺族にはもちろん、版権元にも承諾を得て、あえて事実に反するツイートを行った。開き直っただけだろう。でなければ、トムス・エンタテインメントあたりが止めているはずだ。

何年か前からささやかれるようになったという、『機動戦士ガンダム』劇中の拡大解釈()もそうでしょ? 「富野監督、凄いです!」って言いたいだけ。
さらに、『ガンダム』オープニングの太陽の光を「スペースコロニー落下の爆発」と捉えた人がいた。「解釈は多様であっていいはず」といった苦しまぎれな言い訳を目にして、苦笑してしまった。反骨精神の塊だった『ガンダム』も、年寄りが酔っ払って歌う懐メロになったのだ。大衆に浸透して俗化して、役割を終えたのだ。こう書くと「また廣田がガンダムの悪口を書いてる」と言われるだろうが、無理して持ち上げるほうが、よっぽど作品を貶めているのではないだろうか?
知り合いの編集者が、かなり本気で「ガンダム世界をテーマにした老人ホームをつくれば、20年後には大儲けできる」と語っていたけど、なかなか良い勘をしている。イヤな発想だけど、商売としては正しい。


「映像作品の解釈は多様でいいはず、人それぞれ」という無責任な言い訳を鏡に映すと、「ネタバレ厳禁」になるのではないだろうか。
「映像作品には、それを事前に知ってしまうと価値の失われる弱点がある。それはおそらく、ラストシーンであろう。よって、ラストシーンを先に知った自分にはアドバンテージがあり、まだ知らない人に教えるのはマナー違反だ」……怠惰でいながらにして優越感を得ようとすると、こういう発想になる。
来週の『ガンヘッド』のイベント()のために、30年前のキネマ旬報を買い集めているが、当時の映画雑誌にはラストシーンまであらすじが書いてあり、公開前のシナリオが丸ごと掲載されていたりした。僕らは、この30年の間、進化できたのだろうか? なぜ、こうまで「怒った」「泣いた」を優先させるようになってしまったのだろう?

© Courtesy of Rialto Pictures.

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2019年4月14日 (日)

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宇宙世紀的な設定やスペックに頼らない、明快な“ロボット活劇”としての「∀ガンダム」【懐かしアニメ回顧録第53回】

模型雑誌を見ていても「ガンダムの特集」となると、いきなりモビルスーツの形式番号や生産拠点、開発経緯の話になってしまうんですね。『∀ガンダム』は、宇宙世紀のタコツボから縁を切った作品であり、では代わりに何を見せ場にするの?と言ったら、このコラムで解説したような「作画枚数に頼らず、リピートや止め絵をカメラワークを主体に見せる」効率的な戦闘シーンだったのかも知れません。
放送当時、僕はまさしく「コレン、ガンダムと叫ぶ」から『∀』にハマったのですが、その理由は、敵・味方のロボ戦をオーソドックスに見せてくれたからじゃないのか?と思うのです。

ようするに「バカにも分かるように、明快にロボットの戦いを見せられる」、それだけが宇宙世紀モノで当時展開していた『第08MS小隊』、前年にOVAを再編集した映画まで公開された人気作『ガンダムW』にはない、『∀』だけの武器だったのです。でも、棍棒みたいな原始的な武器だったと思います。
その後、キャラクター・ビジネスとしてガンダムを返り咲かせたのは『ガンダムSEED』であり、『ガンダムUC』であったことは言うまでもありません。


上記のコラム記事からは、意図的に「ディアナ・カウンター」という名詞を省きました。ムーンレィスの中に、さらにディアナ・カウンターがある。分かりづらい。地球連邦軍の中にティターンズがあって、エゥーゴもあって、同じロボットを使っている。「ベスパのイエロージャケット」が敵組織の名前かと思ったら、ザンスカール帝国でしょ? この組織の入れ子構造、富野由悠季監督の悪い癖です。その悪い癖を「トミノらしい味わい」と感じてしまう僕たちも、本気で頭を冷やすべき頃合いではないでしょうか。

シド・ミードさんに(まったく新しいアニメ企画ではなく)ガンダムをデザインさせてしまったことにも、疑問があります。
プラモデル化するにはセールスポイントに乏しいし、手描き作画にも向いていない。最後に蝶の羽を生やすのであれば、安田朗さんの柔らかいキャラクターに肌合いのマッチした、シンプルなロボットにすべきだったと、今でも思っています。
小林亜星、西城秀樹、谷村新司……この主題歌チームも、どの世代に訴求力があったのか、僕にはサッパリです。どうも、ビックリさせる方向がバラバラで、商業作品としてのルックスが整わないまま、作品の文学性ばかり評価されてきたのが『∀』の不運ではないだろうか?
そこで今回は、ロボット(モビルスーツという造語もこの作品では上手く機能していない)の戦闘シーンだけに視点を絞って、コラムを書いてみたのです。


現時点の感想を言うと、『∀ガンダム』は誉められすぎで、僕も持ち上げすぎてきたと思っています。
Twitterでは「いいっすよね!」「僕も大好きです!」「懐かしいです!」「泣きました!」で、それ以上に話が進まない。「好きなものを批評する」ことに、僕らは慣れていない。ガンダム・ビジネスにはさほど貢献していない『∀』を「大好き」と言う自分に、酔ってしまっていないか、ちょっと点検してみた方が良さそうです。なぜパーフェクト・グレードで∀が出ないのか? ミードさんのデザインしたターンXやバンディットだけ、まったくの別ブランド、最高級の特別仕様でプラモデルを出せないのか? あちこちに突破口はあったのに突破できなかったのは、何故なのか? 

――こういうこと書くと、「バンダイや富野さんやガンダムの悪口を書いている廣田には、もう仕事を回すな」って言われかねない。そういう幼稚な力関係によって、また輪が閉じてしまうんですよ。課題を抱えた作品が「文句なしの傑作」なんて薄っぺらいレッテルを貼られて、僕らは考えるチャンスを奪われていく。「大好きです」「懐かしいです」と連呼するだけのバカになっていく。富野監督がそんな状況を望んでるんですかね? 僕らにはもっと考える力があり、その力は富野さんが与えてくれたんじゃなかったんですか?


ある仕事で、どうしても『仮面ライダージオウ』を見なくてはならなくなって、その尖ったセンスに腰を抜かしたんです。

「今の小学生って、こんな『マトリックス』を極彩色に染めたようなカッとんだ映像を毎週見てるの?」って。デザインだけではなく、CGや音響(声優の使い方も素晴らしい)も含めた変身シーンが、もうデジタル歌舞伎って感じ。『アベンジャーズ』が、クラシック映画に見えてしまう。
『ジオウ』の変身パターンを一気に見て、「これって『Gのレコンギスタ』のG-セルフ七変化でやれないのかな?」って、ちょっと空しいことを考えてしまって。今からでも、富野さんに進言したら?とさえ思いました。アニメのロボットが特撮ヒーローに勝つには、どうしたらいいんだろう?

あと、東映ヒーローって俳優たちの写真やインタビューを集めたムックまで出てるじゃないですか。お父さん・お母さんは、俳優たちにメロメロなわけで、全方位コンテンツですよね。これがキャラクター・ビジネスの最前線か! そうすると、声優をアイドル化して舞台にあげちゃった方が、ビジネスとしては正しいよね……と、得心がいく。「好き」と「正しい」は別なんですよ。少なくとも僕は、自分の「好き」を疑ってもいい歳です。そして、「好き」の逆は「嫌い」ではありません。もっと上の次元があるんですよ。

(C)2018 石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映

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2019年4月13日 (土)

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レンタルでクリント・イーストウッド監督の『パーフェクト・ワールド』。1993年、大学を出て数年、映画を一日に何本も観まくっていた時期、すっかり観た気になっていた。初見のはずだ。
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ラスト近く、銃を外して脱走犯(ケビン・コスナー)との交渉に向かった警察署長(クリント・イーストウッド)の後ろ姿が映る。彼が腰につけている空のホルスターが、チラリと見える。同じカットで、ローラ・ダーンの演じる秘書が歩いているのだが、彼女は手にサングラスを持っている。一瞬、それが銃に見える。
おりしも、脱走犯が銃を持っているかどうか、登場人物たちが懸念しているシーンの直後だ。銃に関するセリフが頭に残っている状態で、空になったホルスターとサングラスを見せられると、サングラスが銃に見えてしまう……これは単なる錯覚で、演出効果ではない。しかし、意図していない偶然も含めたところで、僕は映画を語りたい。それほどの時間が、人生に残されているかどうかは別として。


いつものように、印象に残った演出の話をしよう。
刑務所を脱獄したケビン・コスナーは、一緒に脱獄した相棒が押し入った家の子供を人質にして、逃避行する。冒頭20分ほどで引き込まれるのは、子供が助手席に座っているだけで「何も出来ない」からだ。座っているだけで何も出来ない人物が登場すると、観客はジッとスクリーンを見つめているだけの自分を、その人物に憑依させることで映画に没入できる。

人質にされた子供は逃げ出して、性根の悪い相棒は、畑の中へと子供を追いかける。ケビン・コスナーの演じる善良な主人公は買い物をしているので、子供を助けにいけない。
「早く子供を助けないと、悪い相棒に捕まえられてしまうじゃないか!」と焦りはじめたところで、主観カメラとなる。カメラは、畑に隠れている子供へ手持ちでグーッと寄っていく。それは相棒と主人公、どっちの視点なのだろうか? どっちが先に子供を見つけたのだろう?
情報を瞬間的に遮断することで、観客に謎をかけ、軽度のストレスを与える。ヒッチコック的とも呼ぶべき、オーソドックスなサスペンス演出だ。しかし、最近の映画ではこうした手堅い演出を、滅多に見かけない。映画に興味を繋ぎとめるための、シンプルで力強い武器だと思うのだが……。 


演出ではないが、心をつかまれたセリフがある。
逃避行をつづける主人公と子供は、すっかり擬似親子となって、洋品店で服を買う。店員の女性たちは、どういうわけか満面の笑みで彼らを迎える。「どうして、そんなに愛想がいいんだ?」と主人公が聞くと、店内では笑顔コンテストがあって、いい笑顔をしているとボーナスが出るという。主人公は、その女性店員にチップをやる。
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ところが警察のパトカーが追尾してきていて、店の周囲で派手なカーバトルとなってしまう。主人公を脱獄犯と知った女性店員たちは、大声で口汚く彼を非難する。彼は車を爆走させながら、「オイ、笑顔はどうした?」と皮肉を言う。この粋なセリフには、血が沸騰した。

この映画には、泣かせどころがいくつかある。たいてい、沈痛な面持ちの人物が、座ったまま語るようなシーンだ(座ったまま語る……これも感情移入を促す常套手段)。まあ、それらはあってもなくってもどうでもよくて、泣きたい人は勝手に泣けばいい。
僕は、つくり笑いをしてご機嫌とりをしている社会人たちを、はみ出しものの脱獄犯が乱暴に裏切って「お前ら自慢の笑顔はどうしたんだよ?」と嘲った瞬間、ただひたすら走り続けるフィルムの運動、原理が露呈したような気がして、爽快だった。映画の実体は、間欠運動を続けるフィルム……いや、運動そのものが映画じゃないか。


性犯罪について、ここ何件も無罪判決が出たことを受け、性暴力反対のデモが開催されたという。
Twitterでは「性暴力の無罪判決の撤廃を求めるデモとは、とんでもない」「いや、そんな趣旨のデモではない」と論争が続いていたようだが、主催者は当初、「無罪判決は許さない」と記していた()。批判を受けて、「不当判決は許さない」と書き換えたようだ。
そうした不誠実さは、まあ大目に見ていい。性暴力そのものへの反対や厳罰化なら賛成するし、日頃から女性が不当な立場に置かれていると感じてもいる。
ただね、俺が驚いているのは、デモに対するTwitter上での批判を、参加者がいちいち気にして、批判者に論争を挑んでいるところ。僕も反原発デモには何度も参加したし、政策批判の官邸前行動なんかにも通っていた。いろんな署名をやってきた。世の中に異議申し立てをすれば、思いがけない誤解をされたり、とんでもない方角からデマは飛ばされる、レッテルは貼られる罵倒される嘲笑される……それが当たり前じゃないの? そんな覚悟すらしないでデモやってたの?

かてて加えて、参加者たちが花を配って、その場で「泣いた」そうだね。
だからね、「怒る」「泣く」ってのは気持ちいいんだよ。すぐ「怒る」人、映画を観て「ボロ泣きした」と自慢げな人、ようするに「自分の感情、生理反応に慰撫された」ってことでしょ? 「ああ、すっきりした!」ってのもデモの効果だし、それを認めればすむじゃない。
「また集まろう」「これからも続けねば」ってのは、自分たちが気持ちいいから……と、認めればいい。デモを繰り返せば「性暴力には厳罰を!」ってムードは確実に高まるだろうし、手続きを踏んで法改正していけば理想社会が実現するはずだ。デモだけでは法改正できないし、理想社会も実現しない。その冷徹な現実と向き合わねば、何も変わらないよ。「世の中を変える」って、面倒で膨大な実務の積み重ねなんだよ。

あらためて、「感情の発露」すなわち「怒った」「泣いた」を免罪符にする人たちは好きになれないなあ……と思った次第。

(c)Warner Bros. Entertainment Inc

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2019年4月 8日 (月)

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そういえば観ていなかったなあ……と、レンタルで黒澤明の『デルス・ウザーラ』。
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前作が『どですかでん』、次作が『影武者』であることを考えると、このあたりから馬脚が乱れはじめたんだろうと、納得がいく。 

ロシアの探検家チームが、先住民のデルス・ウザーラという男に出会う。デルスはスピリチュアルな考え方をしていて、たとえば「火が怒ると山火事が起きる」なんて御伽話をする。デルスは焚き火の前に座って、カメラのほうを向いている。デルスの向かい側にはロシア人たちが背中を向けて座っていて、彼の話をバカにするように笑っている。ところが、デルスの背後には、画面左右を覆いつくすように大河が流れている。この構図だけで、デルスの他愛のない発言に、古代からの壮大な時間が備わって説得力が出る。「構図で語る」、これが黒澤明の真骨頂だったと思う。
しかし、この映画で「構図で語る」ショットは、数えるほどだ。苛酷なロケだっただろうから、思ったように撮れなかったのかも知れない。


5日(金)は、「ラフ∞展」のために神田へ。
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この写真は、購入した図録を撮影したもの。撮影OKのエリアは今回の展示のために描かれた新作ばかりで、過去に描かれた正真正銘の「ラフ絵」は撮影禁止だった。言うまでもなく、それら本物の「ラフ絵」こそが見どころであって、目の前で見ないと意味がないからだ。
この展示会では線の荒さがよく分かるように、原寸の何十倍にもラフ絵を拡大している。中には、原画が紛失してカラーコピーしか残っていないものもある。その場合は、「カラーコピーこそがオリジナル」という扱いだ。スキャンしたりコピーしたら、絵画としての価値が落ちるって? アニメーションの現場では、原画はトレースされるし、動画はスキャンしたりセルに転写するのが当たり前だ。
現場の中から、アニメーターやデザイナーの引いた線の美しさを抽出しようと思ったら、それは何も小さな動画用紙である必要はない。

「紙にエンピツで描かれた原画だけが本物」なんて言い出したら、印刷して製本される画集なんてインクの染みでしかない。その盲目的なオリジナル信仰が、展覧会へ行くたびに僕を白けさせてきた。小さな原画を、何十人もが満員電車のような状況で覗きこむ……だったら画集を買うからいいよ、とため息が出てしまう。
今回の展示会は、小さなスケッチを恐れることなく、うんと大きく引き伸ばして、間近でプロの引いた線を見ることが出来る。画集では到底、不可能なサイズで。
アニメ絵、キャラ絵って簡素化されて油絵なんかに比べると情報量が乏しい=価値が低いって見なされてるだろうけど、迷ったり決意したり、はたまた修正したり……の無数の線の重なり、これは記号化できない。完成した一本の線にはない、格別のカッコよさがある。
そのカッコよさを見抜いて、ふさわしい展示のスタイルを選択した。くどくどしたキャラクターの説明やら作品解説やらがないところも、クールだった。


ガンプラと歩んだ40年、ガンダムの生みの親・富野由悠季が語る「“おもちゃ屋スポンサーは敵”という被害妄想」

強化合体メカのGアーマーの玩具のおかげで番組が延命されたことを知る人には、あちこち首をひねらざるを得ない記事。MSVは大勢の小学生が買っていたし、『めぐりあい宇宙』と『Zガンダム』の間は空白なんかじゃなくて、富野監督は新しいコンセプトを毎年考えなおして市場に投入して、クローバーは倒産するまで従来の合金玩具をアップデートしようと試行錯誤していたし、バンダイも悪戦苦闘していた。そのエキサイティングな日々は、僕がイベント()で敷衍するから良いとしても、ロボット玩具が売れるように苦心して作品づくりをしていた富野監督は、もう玩具を売らなくて良い立場になったから、こういう話が出来るんだよな……と複雑な気分。

たとえば、バンダイ周辺で最新の『仮面ライダー』を売ろうとしている人たちは、こんな気楽な発言はできない。僕が取材したかぎりでは、彼らは緊張感をもって、しかも楽しみながら仕事をしている。マンネリは、彼らの敵だから。
キャラクター・ビジネスの最前線はライダーやプリキュアであって、ロボット・キャラクターに対してリアルだ何だと言っているのは、40代以上の「大人」だけ。今の子供たちは、空想キャラクターともっと別の関わり方をしている。そのニーズを探ってキャラクター・ビジネスの戦列に参加するのは、並大抵の努力ではできない。玩具を売るのはもう富野監督の役割じゃないので、彼にキャラクター・ビジネスの話を聞いても、昔話しか出てこない。

僕はもう、気をつかいながら富野監督に話を合わせるような歳でも立場でもないです。ガンダム40周年だからって、それはビジネスとして関わっている人たちが「おめでとう」なら分かる。いちばん昔話を嫌って「現状にカウンターを打て!」 それが僕の知っている富野監督だった。
『G-レコ』を10歳の子供に観てほしいなら、そういうビジネス・スキームを組んでもらいたい。それが本当の戦いであって、信者のようなインタビュアー(僕だってその一人だった)を前に自慢話している富野監督はカッコ悪い。『G-レコ』の劇場版は、僕個人の趣味としては楽しみ。だけど、マーケティングも戦略もない空想のキャラクター・ビジネス論からは、もはや学ぶべきものはない。うんと甘く言うと、ようやく富野さんは純粋な映像作家になれたのかも知れない。
富野監督の死に物狂いの戦いが始まるのは『ガンダム』以降だと思うので、僕は「おめでとう」なんて気持ちになれない。

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