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最近、プライムビデオに100円レンタルが増えてきたので、いろいろ見てみた。『愛を読むひと』、『ビューティフル・マインド』、『グッド・ウィルハンティング』、『Wの悲劇』など。
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2008年製作で主に1950~60年代の旧ドイツを舞台にした『愛をよむ人』と、2001年製作で1940~90年代のアメリカを舞台にした『ビューティフル・マインド』では、色調や画面の質感が違う。アメリカ・ドイツ合作の『愛をよむ人』は淡い色のグラデーションがしっとり出ているが、『ビューティフル・マインド』は80~90年代のハリウッド大作映画に顕著な、グレーのもやがかかったような硬い色調で、コントラストが低い。
この違いがどこに起因するものなのかは、分からない。前者の撮影監督は、『キリング・フィールド』などのクリス・メンゲス。イギリス人だが、社会派のアメリカ映画を多数撮っている。

それと、『愛をよむ人』は衣装のデザインというかセレクトが良かった。リアリティはないのかも知れないが、囚人服にいたるまで色のコーディネートが考えられており、趣味のいい色・柄ばかりだった。


特筆すべきは、『Wの悲劇』だ。大学時代に観て、クライマックスの天井からのカメラアングルが『サイコ』そっくりだと話題になった(確かに階段という舞台装置、ナイフを構えて刺しに来るアクションは『サイコ』そのままだ)。
全体にロングで長回しが多く、俳優の呼吸をもらさず撮ろうとしている。だが、カメラがフラフラとクレーンで移動しながら、無理矢理に俳優のアップまで迫ろうとするのが苦しい。効果的な長回しは、三田佳子の演じるベテラン女優が、薬師丸ひろ子の演じる新人女優に愛人の死の現場を見せるシーンだ。
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ホテルの部屋に、三田が薬師丸を招き入れる。天井近くにすえられたカメラが、室内に入ってくる薬師丸、ガウンを着てベッドの方へ歩いていく三田の姿を、ロングで追う。三田が電気のスイッチを入れると天井のシャンデリアが点灯し、薬師丸は三田の視線を追う。カメラが2人の見ている先へPANすると、ベッド上では男が死んでいる。
ヒッチコック的、古典サスペンス的とも言っていい朴訥なカメラワーク、感情も抑揚もない機械的なカメラの動きの中で、ショッキングなシチュエーションを際立たせる手堅い演出だ。


さて、三田佳子はスキャンダルの罪を薬師丸ひろ子にかぶせて、彼女を主役に立たせるべく計略を進める。
次のシーンでは、真実を知らない俳優やスタッフたちが客席に座って事件をどう扱うか、公演を続けるべきかどうか、相談している。そこへ、「反対よ!」と三田の声が入る。客席の俳優たちが見上げると、三田は舞台袖に立っている。後ろには、共犯にされた薬師丸がいる。
三田・薬師丸は舞台の上にいる。他の関係者は、みんな客席から彼女たちを見ている。このシーンでは、立っている位置によって事件を捏造した2人と、彼女たちに翻弄される世間とが、パッキリと別世界に別れている。世間は、ステージのうえで芝居をつづける三田と薬師丸を、ただ暗闇から見上げているだけしか出来ないのだ。
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「私も退団するわ」とワガママを言って、三田が舞台袖へ消える。薬師丸が客席の俳優やスタッフに頭を下げる。
カメラはそのまま舞台にとどまり、セットの奥から堂々と歩いてくる三田をアオリで撮る。それはもう、開幕した劇の最中なのだ。「舞台から立ち去ったはずの三田が再び舞台を歩いている」アクションだけ繋げて、彼女が優位に立ったことを「劇が上演されている」状況の変化で、鮮やかに見せている。「私も退団するわ」と三田の立ち去った舞台と、その後に衣装を着て役を演じている舞台とは、物理的には同じだが心理的な次元が違う。

――すなわち、この映画では三田と薬師丸だけが共謀して事件を捏造することによって、現実の人生とステージ上で演じられる虚構との境界を失ってしまう。その喪失を、三田佳子と薬師丸ひろ子という生身の女性が二重に演じている。
その重層的な劇の構造を見せられた後では、事件の顛末がどうなるかといった「ネタバレ」など問題にならないことは、熱心に映画を観ている方にはお分かりだろう。「ネタバレ・あらすじ・結末・解説・感想」といったまとめサイトが多いのは、生身ひとつで作品と対峙できず、「無傷で理解した気になりたい」人が多いからである。

そういえば、舞台を終えた三田が娘役の女優に難癖をつけて降板させるシーン。三田が控室に足早に歩いていくのを、カメラは関係者に混じって追っていく。そのせわしないカットの中で、三田が新しく主役に据えたい薬師丸はどこにいるのかと言うと、まだ世話係なので控室の前に無言で立っている。たまたまそこに立っていたかのように、カメラは薬師丸と廊下で待っているファンたちを重ねて撮っている(薬師丸は「その他大勢」にしか見えない)。
カメラの動きが偶然を装って、観客にしか見えない劇的な構図をすくい取っている。何を撮っているかではない、いかに撮っているかが重要なのだ。


東京都現代美術館、クリスチャン・マークレー展とユージーン・スタジオ展。
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午前11時台に着いて、まずは「二階のサンドイッチ」で軽く食事して、時間をかけて二つの展覧会を回る。
最後に、常設展を見る。価値のある時間を過ごす。自分には美術館に来るだけの時間を確保する能力があって、そのおかげで価値ある時間を過ごせている。「本当は行きたいのに」「時間さえあれば」「もっと近くで開催してくれれば」などとぼやく前に、さっさとスケジュールを決めてしまう。

余暇や遊びに関して「本当は行きたいのに…」「私だって欲しいのに…」とボヤく人は、仕事においても自分が主役だという確信を持てず、「本当はこうしたいのに」と無力感だけを蓄積していく。仕事が遅れることで成果物が世の中に出るのが遅れ、自分を肯定するチャンスを先延ばしにしてしまう。
自己肯定感の低い人は、ボヤく・グチることで現状から目をそらしたいから、似たようなレベルの人たちが集まってくる。そこはもはや仕事の場ではなく、ただの溜まり場だ。何も生み出さない。
仕事の前に時間や段取りをやりくりして、行ったことのない喫茶店へ行く。そうした小さな衝動と実現化するための計算は、仕事や人生と不可分だ。

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2022年1月 2日 (日)

■0102■

大晦日に『ロープ』、元旦に『間違えられた男』を視聴。ヒッチコック作品は、プライムビデオに豊富にある。
『ロープ』は30年前、大学の講義で観た。その時は舞台劇と変わらないという印象をもったが、全編ワンカットという試みを自嘲するかのような大仰でコミカルな演技は、『ハリーの災難』に近いと感じた。ヒッチコックの冷笑的な側面が強く出ている。
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『間違えられた男』は、例えば上のカット。無実の主人公を冷酷に追いつめていく刑事二人。左側に立っている一人は活発に動き回ってアレコレと喋るが、右の一人はジッと座ったまま主人公を睨んでいる。いわば、饒舌と沈黙の両面から主人公を圧迫しているわけだ。こういう機能的な演出が好き。
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このショットもいい。保険会社の事務員たちが、主人公を強盗犯人だと早合点する。書類に視線を落としたままヒソヒソ話をしているので、必然的に顔をこちらに向けた3人が、ギュッと詰め合ってフレームに収まる。視野の狭い、主観的な印象になる。向き合って話していたら、こんな異様な感じは出ない。

前半では主人公が検察に追い詰められていき、後半では妻が精神的におかしくなる。まるで、2本の映画を一括りにしたような構成も意外性がある。主人公は真犯人の突然な登場によって、不合理な形で救われる。『鳥』が特にそうだが、ヒッチコックの映画には理に落ちない唐突なことが起きる。
この映画は1956年のもので、成熟した完成度だ。だが、完成された劇映画をヌーヴェル・ヴァーグが鮮やかに破壊する。そのタイミングが無作法で劇的だと、いつも思う。


年末は、ウォーターフロントで夕飲みしようと決めていた。
なので、12月30日は渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ザ・フィンランドデザイン展」を鑑賞してから、新橋へ移動。ゆりかもめで芝浦ふ頭まで行って、ひさびさにレインボーブリッジを歩いて渡った。
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お台場海浜公園まで歩けば、15時30分ぐらいには台場のレストランに着く……のだが、かつて見たことがないぐらい混雑している。おまけに、いつも行くレストランはテラス席が封鎖中。その他の店と同じく、ぎっしりと行列が出来ている。
それと、外国人観光客が多い。別に外国人でも日本人でも同じことなのだが、6~7人ぐらいでぞろぞろ歩いているのが嫌な感じ。群れると、似たレベルの人たちが集まってきてしまう。その澱んだ空気が、生理的にダメだ。

夕飲みはあきらめて、東京テレポート駅まで歩く。このまま家まで帰るのはバカバカしいが……と思いながら電車に乗り、ふと思いついた。天王洲アイル駅で降りれば、WHAT MUSEUMの帰りに寄ったカフェに行ける。
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こういう時の僕は、すばらしい機転を発揮する。16時を回って日の沈みかけた、ちょうどいい時間帯に滑り込めた。ただし、寒いのでビールは一本だけ。奥の高級レストランには風よけがあり、外国人のカップルが雑談している。
後から、ひとりだけカフェから出てきてテラス席に座った人がいたが、それ以外は閑散としている。対照的に、暖かい店内は混みあっている。
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ほぼ、視界の360度が夕陽に染まっていく。この天国感というか、映画『バニラ・スカイ』のような超絶感をいつも求めている。 
ひとりでなら、いつどこで何をしてもいい。読書、喫茶、美術、映画、飲酒、何だって思うがままだ。

人が群れている、ということは考えずに習慣で行動する人たちが滞留しているというだけのことだろう。向上心のない無気力な人たちが集まってくるのだから、その場の空気は澱む。澱んだ空気を避けていれば、必然的に自分だけの場所が出来ていく。

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2021年12月29日 (水)

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ツクダホビー製のプラモデル「1/20メーヴェ」を組み立ててナウシカを乗せれば、風の谷の未来テクノロジーを理解できる!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第17回
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ツクダホビー製のキットを素組みして、組み立て過程をレポートしました。

新作アニメ作品を制作中の梅津泰臣が語る「これまで」と「これから」【アニメ業界ウォッチング第85回】
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何の宣伝でもないし、組織のしがらみがあるわけでもなく、純粋に梅津さんに直接連絡をとって成立したインタビューです。

月刊モデルグラフィックス 2022年2月号
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10年近くつづいた『組まず語り症候群』は、今回で最終回。初期のころには、いくつか理不尽な目にもあいました(原稿を外部の人に見せられてしまったり……)。その理不尽さを避けて、自分のペースで仕事を進める(人任せにしないで自分一人で進められるところは独自判断で進めておく)ことを学んだ10年だった気がします。だけど、そのマイペースぶりが、組織だのみの人にはカチンとくるんだろうと思います。
他に、MODEROID開発メンバーへのインタビューも担当しています。僕は原稿が早いので、こういう単発仕事が向いているでしょうね。

戦車プラモのスケールでなぜ「建機・農機」? 変わり種「1/35振動ローラ車」が物語る歴史
まだあった、なんとなく月に一度のペースで書いているプラモ記事です。模型メーカーさんとのやりとりも、基本的には一人でやっています。


サブスクに頼りっぱなしでは映画に対する欲が枯渇するような気がして、面倒だけど駅の向こう側のTSUTAYAまで足を延ばしてDVDをレンタルしてきた。韓国映画『嘆きのピエタ』とヒッチコック監督の『めまい』。
『めまい』は4年前にも観た。当時もジェームズ・スチュアートの高所恐怖症とキム・ノヴァクの二重人格的なふるまいとの関連がよく分からなかったのだが、そんなことはどうでもいい。

ジェームズ・スチュアートは友人から妻(キム・ノヴァク)を監視するように依頼を受けて、レストランで初めて彼女を目撃する。
カウンターで飲んでいた彼は、ふと視線を店内へ向ける。カメラは大きく引きながらPANして、店内のいくつものテーブルを映し出す。人々が食事する中、大きく背中をあけたドレス姿のキム・ノヴァクがこちらに背を向けて座っている。
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カメラは低い位置から奥へと進み、彼女へ近づいていく。そこでロマンティックな曲がかかり、ジェームズ・スチュアートの心を代弁する。彼は一目で恋に落ちたのだ。
このカットは、ジェームズ・スチュアートの視線を追うように動くのだが、彼の主観カットではない。しかし、大勢の人々の中から彼女の背中へ迫っていくカメラワークは情動的だ。ジェームズ・スチュアートの感情をカメラで表現しようとすると、このような動きにならざるを得ないんだと思う。
この後、彼の主観カットでキム・ノヴァクが歩いてきて、戸惑いがちに目をそらすジェームズ・スチュアートとカットバックするのだが、そこはあまり感動的ではない。凡庸だ。最初のワンカットに、シンプルかつ大胆なカメラの動きにすべてが込められている。

なぜ、こんな芸術的なカメラワークが大衆映画で可能だったかというと、あたかも高所恐怖症が映画の主要テーマであるかのように装い、サスペンス色を前面に出したからではないだろうか。


仕事に追われながらも、年末の寂しい雰囲気を何とかして味わいたいともがいている。
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落ち着いた品のいい喫茶店のカウンターに腰かけていると、大きな窓から見える早稲田通りが、まるで過去の世界……思い出のなかの映像のように見える。妙な言い方だが、自分が幽霊のような、ただ彼岸から風景を楽しんでいるだけの存在になったように感じて、陶然とする。
そういう時、何かに駆り立てられて、日常の些事と直面しなくてはならない薄汚れた現実感が喪失する。喫茶店は、そうした浮遊感覚を得るために行く場所であり、「暇つぶし」とか「時間つぶし」のためではない。
電車の発車ベルが鳴ると、反射的に走り出すような生き方をしていてはいけない。

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2021年12月19日 (日)

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「未来少年コナン」の帆船バラクーダ号を2メートル越えの超大型模型で作りつづける理由:宮崎メカ模型クラブ、かのー会長インタビュー【ホビー業界インサイド第76回】
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プラ板で2メートルを超えるバラクーダ号を完全自作したかのーさん、フィギュアを制作したノウミソアキラさんに取材してきました。


神田沙也加さんが、主演をつとめるミュージカルの上演直前、ホテルから転落死した。
『マクロス ザ・ミュージカルチャー』で神田さんが突如として降板したとき、理由は「諸事情」となっていた。後に「急性胃腸炎」と改められたものの、会場にいた僕は、漠然と精神的な何かが原因ではないかと感じていた。調べみると、有名人である両親との関係が、なかなか複雑だとも聞いた。死ぬことで解放されたのかも知れない。他人の心の中だけは、分からない。

しかし、それであればミュージカルの公演を終えてからでも良かったのではないかと思う。仕事をなくしてからより、スポットの当たった中で人生を終えたかったのかも知れないが、ここまで来た人間には、芸術を楽しみにしている人々と文化に対して責任が生じているというのが、僕の考えだ。Giveする側に回った人間は、その持てる能力を存分に駆使すべきである。
ミュージカルは、ひとりの俳優が趣味でやっているわけではない。演出家から美術、照明、劇場スタッフまで数えきれない人たちが技量を投入している。また、ひとつの表現が何十年、何百年も後に価値を発揮することだってある。
神田さんには、そのスケール感を想像できなかった。余裕がなかったのだろう。

だとすれば、ゆっくり静かにgiveする側から下りて、重たい荷物を降ろす方法を模索すべきだったと思う。逃げることは悪いことじゃない。誰にも邪魔されず、ひっそり生きることのほうが豊かな人生かも知れない。「落ちぶれた」と思う人間には、思わせておけばいい。


「周囲に相談できる人がいなかったのか」というコメントを見た。「他人」なんてものに、個人の自殺願望を防ぐ力はない。「お前ら凡人に、いったい何が出来るの?」と思ってしまう。
「周囲と調和して生きるべき」という無責任な信仰が、個人を追いつめるのだ。人の命は尊い、誰もが平等、子を思わない親はいない……本当にそうか? なあ、俗物たちよ。

11年前、母が父に殺された時、「廣田さんは仕事できる状態ではない」と勝手に言いふらす編集者がいた。そのおかげで、仕事をひとつだけ奪われてしまった。警察や検察との長時間にわたる事情聴取、残された犬たちの世話、葬儀屋の手配に追われながら、僕は仕事をひとつも遅らせず、打ち合わせにも普通に出ていた。
しかし、平凡な人生観に個人を封じ込めておきたい俗人たちは「もし本当なら、仕事どころではないはず」と決めつける。少なくとも僕に関していえば、父親が母親を刺殺するという理不尽な状況が、うちに秘められていた冷徹な計画性を引き出してくれた。血まみれの現場を見せられても、では、いつどの業者に頼んで片付け、代金は誰に払わせるのか、テキパキと段取りすることが出来た。「被害者遺族」という立場も、有効に利用させてもらった。「次は何をすればいい?」と、常に頭が働いていた。自分がこれほど活動的で計画的だったとは、我ながら驚いた。
それは、母の与えてくれた能力なのである。

ところが、自分から何も生み出さない、takeする一方の俗人ほど、「強がっているだけで本当は悲しいはずだ」「何も手につかないはずだ」と個人の能力を過小評価する。無能ほど「個人は無力だ、人間は弱い」という価値観を維持したがる。そこからは何も生まれない。

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2021年12月12日 (日)

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いつもは銀行が混んでいると「まあ、空いてる時でいいや」と踵を返すのだが、先日は3~4人程度だったので、ふと並んでみた。後ろを振り返ると、自分のあとに10人以上も行列ができて、「この人たちより自分は先に用事をすませられる」という、一種の優越感があった。
実際に用事をすませなくても、「他人より優遇されている」ことだけで原始的な快感が生じるのではないだろうか。だとしたら、行列に並ぶことは最も低コストな娯楽なのかも知れない。並んでいる間は受動に徹して、何ら主体的に考えずスマホでも見ていればいい。だけど、自分が他人に優越しているという、低レベルな満足感だけは労せずして得られる。

手っ取り早く得られる快感には警戒せねばならない。低レベルな満足は、人生の質を落とす。たいがいの人は浅いところで満足して「まあ、人生こんなもんだろう」と簡単に理解しようとする。


先日、静岡県に取材に行ったとき、ひさひざに知らない街で、居酒屋を求めて歩いた。
すると、すっかり勘が鈍っていることに気がついた。駅前の閑散とした商店街からそれて、まったく知らない道に迷い出たのはいい。しかし、ホテルから40分も歩いてきたので「もう、ここでいいや」と、すぐそこにあった小さな居酒屋へ飛び込んでしまった。
女将さんはしばらく僕が入店してきたのに気がつかず、気がついてからも「誰、この人?」という感じで、呆気にとられていた。確か、席に座っていた夫婦が「ほら」と、応対するように促したように思う。
狭い店内には、その夫婦と子供たちが座敷にいて、ようするに一家で店を占有して夕食をとっており、「本日のおすすめ」のメニューすらカウンターに置きっぱなしだった。とりあえずビールを頼んだものの、注文が通っておらず、5分ぐらいしてからようやく出てきた。お通しは、ただのカレーだった。それには手をつけず、ようやく出てきたビールを飲みほして、すぐに店を出た。

居酒屋を占有していた家族にとっては、僕だけが異物だったのだろう。こんなことで腹を立てるなんて、ケチなことはしない。
40分も歩いているうちに「この店は候補」「さっきの店がダメそうなら、次の候補はここ」と何店か見つくろってあったので、商店街の真ん中あたりにある寿司と刺身の店に入った。
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40代ぐらいの旦那さんは、誰もいない広い店内の真ん中に座っており、僕が入ってくると「いらっしゃいませ!」と弾かれたように立ち上がった。髪はボサボサだし、ジーンズは汚れている。だけど、彼のキビキビした動作と元気のいい返事に、すっかり好感をもった。
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腰が曲がって、足をひきずった90歳ぐらいの老母が刺身を持ってくるのには驚いたが、おそらく本人が「店に立たせてくれ」と我がままを言っているのではないか、と想像した。
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よく見ると店内には生活用品が置かれており、決して清潔ではない。旦那さんの誠実な物腰だけが、つげ義春『リアリズムの宿』のような貧しさから、この店をかろうじて救っているようにも見えた。調理は丁寧で、二皿で十分に満足した。
ビール大瓶を何とか飲み干そうとしていたころ、若い男性の二人連れが入店して、海鮮丼を注文していた。また、電話で団体客が予約を入れているようなやりとりも聞こえた。何だかホッとしたような気持ちで、店をあとにした。

まだ19時ぐらいだったが、すっかり酔ってしまった。
駅に近くなると、こんなシャッター商店街にも、チェーン店の居酒屋がひしめき合っている。何も迷わず、全国どこでも同じ味の酒が出てくる……その安心は、死んだ価値観である。だが、一歩間違えば赤貧のリアリティを目撃せねばならない地方の個人店舗の現実から目をそらしたいニーズも、分からないではない。


15年前に別れた妻と結婚する前、大森に住んでいたことがある。
平和島の競艇場に映画館が出来たので二人で行ってみると、巨大なショッピングモールの中だった。大勢の家族連れが来ていて、「ドンキもあるし、ファミレスもあるし……」と満足そうにつぶやく男性の声が聞こえた。それはやはり、未知を恐れる価値観だ。
僕は「寂しい」という状態が好きだ。海のそばで飲む、喫茶店で読書する。誰に教えられたわけでもない、僕が一人で熟成した価値観だし、これからも自分を未知にさらして生きていきたい。

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2021年12月 4日 (土)

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なぜ「漁船」をプラモデルに…? 実在するマグロ漁船を“イカ釣り漁船”に変えちゃうロマン
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『乗りものニュース』さんで、新しくプラモデルの記事を書きはじめました。今後も、不定期に書きます。

これぞ変形ギミックの宝石箱! 「機動戦士Zガンダム」の1/300サイコガンダムを組み立てて、無限のアイデアの本流に溺れよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第16回
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こちらも、好評連載中です。転売屋の奪い合う最新製品ではない、余白に位置しているような不人気ガンプラは面白い。


このブログサービス「ココログ」は数年前にリニューアルされて、右クリックが使えない不便な仕様になってしまった。気軽に書けないので、更新が億劫になってしまう。サービスを改悪しているのだから、人が離れて当然だろう。
逆に、流行るSNSサービスは不快感やストレスが溜まりにくいよう、アプリに触るのが楽しみで仕方なくなるよう、生理に訴える巧妙な仕掛けがしてある。赤い小さな点がアイコンについていると、どうしても気になる。白い下地の中にひとつのボタンだけ黒いと、それを白にしたくなる。まるでオセロゲームのように。「広く受け入れられる」のは、自分では何も工夫しないバカを効率的に引っかけるシステムばかりというわけだ。

一方で、自分で考えて、自分で工夫せねばならないサービスは廃れる。逆を言うなら、あまり人の寄りつかないフィールドなら、人と比べられることも競わされることもない。みんなが集まるような場所では、みんなと同じ価値観の中で勝ち残ろうと焦ることになる。


僕がファーストフード系を忌避するのは、貧乏だった時代を思い出してしまうからでもあるが、どんな底辺でも客として受け入れるルーズさが嫌いなのだろう。コーヒー一杯で、何時間も居座るようなケチで怠惰な雰囲気の中に身を置いていると、確実にダメージをくらう。
僕自身、お金が溜まってきても工夫を知らなかったときは、せっかく女性と二人なのにマクドナルドで始発電車を待ったりしていた。今よりお金はあったはずだが、心の余裕、精神的なゆとりを知らなかった。手短で、手っ取り早い場所で済ませてしまうのは、心が貧乏なのだ。

駅の立ち食いそば屋でも、寒い冬道を歩いてきて、閑散とした店内で早朝や深夜にすすったら、やはり最高に美味いのだろう。
ところが、平日お昼に混みあった立ち食いそば屋は、老人と主婦でいっぱいである。他に行き場がない、だけど何かに焦っているような人たち。どんよりと空気が濁っている。「アイデアがない」「理想がない」……その余裕のなさが、人を貧乏にする。

先日、駅の構内で立ったまま、透明パックに入ったコロッケを割り箸で食べている人がいた。人の流れの激しい変な場所で、立ったままコロッケ。服装からして季節外れで、明らかに変人なんだけど、あれは美味そうだった。
その人にしか分からない価値を独自に見出した人は、それだけで心が豊かなのだ。


井の頭公園の某店の隅っこにある窓際の席は、いつも空いている。
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ビール500円、ソーセージ盛り550円。業務用なのかスーパーで買ってきて置いてあるのか、ものの2~3分で温められて出てくるのだが、適当なキャベツとゴボウサラダの付け合わせが、実は美味い。ソーセージの配置もきれいだ。
14時半ごろでも、店内はまあまあ埋まっている。夫婦や家族連れが多いのだが、大声で話していても、どこか落ち着きがある。「ああ、美味しかった」など、話題が明るくて余裕がある。焦っていて不機嫌な人など、誰もいない。客が店をつくっていく。


歩きスマホをしている人がどうしてバカに見えるかというと、「人にぶつからないよう注意してアプリを触る」ことで、不要なタスクを増やしているからだろう。アプリに集中したければ、「通行人を避ける」なんていう無駄で面倒なカロリーを減らすため、安全な場所に立ち止まればいい。
その「快適さを求める」ひと手間を、「面倒だからサボる」のであれば、遊び以外のこともすべて効率が悪くて無駄の多い人生なのだろうと想像してしまうのだ。「荷物の多い人は貧乏」、これも同じ理屈だ。荷物が多ければ、その分、管理せねばならないタスクが増える。結果、手間に追われて時間が削られ、焦りつづけることになる。

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2021年11月20日 (土)

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6つの美術館が連携して実現した「富野由悠季の世界」展の道のりを、学芸員・山口洋三が振り返る【アニメ業界ウォッチング第84回】
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ようやく、美術業界の人にインタビューできました。と言っても、誰かが場をセッティングしてくれたわけではなく、僕が展覧会の事務局に直接お願いして実現しました。
最近読んだ書籍『美術館の不都合な真実』もそうでしたが、美術の世界の人は思い切ったことを物怖じせず、バシッと言い切るので気持ちがいいです。だから、どの美術館もおおむね展示センスが高いんだと思います。「上の許可が必要なので」と無駄な遠慮をしてビクビクしている業界は、広がりがないです。

アオシマが「1/43 機動警察パトレイバー イングラム」のプラモデルを、自社ブランド「ACKS」で発売する理由【ホビー業界インサイド第75回】
こちらも、アオシマさんとぶっちゃけ話をしながら交渉した結果、「では、イングラムの新キットでいきましょう」と話がまとまりました。いくら待っててもダメです、どんどん自分で進めないと。


都会の行き場のない少女たちを保護する活動をしてきた仁藤夢乃さんが、「温泉むすめ」というご当地キャラクターを攻撃しはじめた()。美少女キャラを見て「ひどい」なら、個人の感想として好きに言えばいいが、「性差別・性搾取」などと言いはじめたので、ひさびさにこの手のツイートに反論してしまった(リンクを貼ったまとめに掲載されている)。

その後、仁藤さんは活動の拠点であるカフェに怪しい男が現れて()、身に覚えのない料理が勝手に配達されてきたなどと騒ぎ始めた()。これらの異常な被害体験を読んでいて、「電波によって攻撃を受けている」「悪い組織が社会で暗躍している」と言い出す統合失調症の女性を思い出してしまった。
検索していると、とても腑に落ちる解説があったので、以下にツイートを引用させていただく。

“(仁藤さんの事ではなく一般論だと予め断っておきますが)以前、「こだわり・プライド・被害者意識」は統合失調症の前駆症状だと前に読んだことがある。
健全な想念は適度に揺らいであちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その「可動域の狭さ」が「妄想」の特徴とのこと。”

“「被害者意識」の危険性は「弱者である私」に居着くこと。
強大な何かによって自分は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしさ」が阻害されているという定形に自分を当てはめて、「被害者」をアイデンティティーに組み込んだ人間は、その説明に呪縛されて「居着く」ことになる。”

“もし自分が行動を起こして自由を回復し、「自分らしさ」を実現したとしたら、”強大な何か”はそれほど強大でなかったことになるから、前件に背馳する。
ゆえに一度このIDを採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力が水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大で→”

以下、もう少し続くので、興味のある人はリンク先から読んでいただきたい。この一連のツイートを読んで、あれこれ思い当たることがあった。


統合失調症まで行かずとも、人生がうまくいっておらず苦しんでいる人は、「強大なる何か」に阻まれて「自己回復」できないと思い込みがちである。
左翼の人が生活の些細なことまで現政権による画策だと訴えたり、「若い人さえ選挙に来てくれれば……」と挫折の美学に安住しようとするのもそうだし、思ったような仕事につけない人が「試験に受かりさえすれば」「資格さえとれれば」「だけど勉強する時間がないから仕方ない」と目標を先送りするのも、自分の不甲斐なさを「強大なる何か」のせいにしている例と言えるだろう。

いま精神病院に入院している僕の兄は、父方の祖母に嫌われていた理由を「俺は母方の血をついだ顔をしているから、嫌われてる」と、自分の性格の悪さを「血筋」「顔」の問題にすり替えていた。
「顔つきが母と父のどちらに似ているか」なんて、本人が似ていると思えば似ているし、他人が似てないと思えば似てないわけだ。主観でどうとでも言えることを自明の理として、強固に譲らない。

フェミニストの人たちが「性的消費」など証明不可能な理由に執着するのは、「自分で自分の感情を制御できない」という本質的な問題から逃げるためではないだろうか。そして、イライラしている本人が「性搾取のせいだ」と言い張るなら、それは第三者には立証不可能なので、批判する人たちを「彼らは性搾取に加担している加害者だ」「私はさらに性搾取されて、苦しい」と被害者の構図に収まることも出来る。
なので、自分の怒りや憎しみを正当化してくれる「性搾取」(「性加害」「性的消費」その他、どうとでも定義できる「強大なる何か」)を手放したくないのだろう。


以前にも書いたかも知れないが、20代のころ、引っ越しのアルバイトをした。
ものすごく重たい荷物を運ぶので、腕力のない僕は現場では役立たずだった。タンスなどの大きな荷物を持ち上げようとした時、同じ現場にいた女性がかたわらで見たまま、「無理じゃないの?」と言った。無理だと思うなら、ちょっとでも手を貸してくれよ……と今では思うのだが、その時は「女性スタッフは軽いものを運ぶだけでOK」と、暗黙のうちに決まっていた。
だけど、それを「性差別」などと騒ぐつもりは、僕はない。ちょっと理不尽ではないかとは思うが、女性と男性では得意分野が違う。むしろ解決すべき問題は、「重いものを持つだけの腕力もないくせに、引っ越しのアルバイトをした自分の迂闊さ」なのである。
僕が「男だから差別された」んじゃない、その現場で役立たずだったのだから、バカにされて当然なのだ。

むしろ、最初は敬語で話していた男性スタッフが「こいつは重いものを持てない」と分かったとたん、タメ口になったこと。あれは不愉快だった。だけど、そもそもの問題は不甲斐ない自分なのだし、世の中は理不尽さに満ちている。
人生が苦しいのは、その場その場で具体的な問題が生じているからであって、「男だから」「女だから」でもなければ、「学歴」や「国籍」などの「強大なる何か」のせいではない。面倒だろうが、ひとつひとつ解決していく地道さ、狡猾さ、そして勇気が必要なのだ。

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2021年11月12日 (金)

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ここのところ暖かいので、平日昼間でも、つい外で飲んでしまう。
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井の頭公園の小さな休憩所「松月」の特等席(ふたつの座席が窓のほうを向いているので、二人で来た客でも滅多に座らない)が空いていたので、こんなにいい陽気なら、一番搾りを一本飲んで帰るしかない。
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このスーパーのお惣菜コーナーそのままのチープ感のあるツマミ類に、かえって温かみを感じてしまう。
店内に音楽は流れておらず、客がいなくなると、公園を出入りする人たちの話し声と風の音ぐらいしか聞こえなくなる。
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十分に世界の美しさを感じて悠然とした気持ちになっても、「さてもう一本頼もうか」と長居させない雰囲気が、この店にはある。清潔感、店の広さ、そして客筋がそうさせるのだろう。


ところが「松月」の後、三鷹まで歩いていつもテラス席で飲むカフェで、うっかり続きをやってしまった。グラスビールを頼んで、テラスに座ってしまったのだ。
後ろの席では、車椅子の老人が50歳ぐらいの女性を相手に、何か古い唱歌をうたっていた。ついには、スマホで音楽を流しはじめた。マナー違反だと思うが、僕が不審に感じたのは女性の対応だ。
老人に話を合わせて、「その曲は好き」「ああ、あの暗い歌ね」と盛んに相槌を打っているのだが、どうも他人行儀だ。父娘という雰囲気ではない。老人から何かプレゼントされると知って、「やったー」「一生大事にするね」などと喜ぶのだが、どうも本気に聞こえない。そう、キャバ嬢が客に話を合わせている感じに、よく似ていた。この二人、どういう関係なのだろう?
席を立つときに女性の顔を見たら、相手も不審そうにこちらを見ていた。

その二人の関係も怪しいのだが、隣席の女性の醸す倦怠感が、とにかく強烈だった。
この店はセルフサービス式なので、いちど席を占有したら、飲み物がなくなっても何時間でも座っていられる。彼女の机のうえのプラスチックのコップは、とっくに空だった。氷も、すべて溶けていた。
他に何もない机のうえで、タバコを吸いながらスマホを見ているのだが、その様子が楽しそうなら、別に気にはならなかったと思う。彼女は、とにかく退屈そうなのだ。ただ座って、ひたすら時間を潰しているに過ぎないのであった(スマホやタバコのように、誰もがやっていることしか思いつかない……だとしたら、誰かと似たような人生にしかならない)。
彼女が立ち上がる時、「やっぱりな」と思ったことがある。荷物が多いのだ。貧乏な人は、三つも四つも袋を持ち歩いていることが多いと聞いたことがある。

いつもテラス席の道に面した席にしか座らないので気にもしなかったが、この手のセルフサービス式の店は、コップが空なのにテーブルに突っ伏して何もしていない人が、ちらほら居る。やっぱり、この手の店には近寄らないようにしたい。貧乏……というか、不幸のオーラが漂っている。


「荷物が多い」、それと「靴が汚い」。これも、貧乏の特徴と聞く。
確かに、大勢で靴を脱がねばならなくなった時、靴がボロいと恥ずかしい。綺麗な女性でも、靴が汚れているとガッカリする。
街で、「おっ、お洒落だな」と思う男性は、靴が綺麗。高い靴でなくても、スッキリしている。この季節になっても裸足でサンダルを履いている、靴のカカトを踏んだまま歩いている、靴ヒモが外れているのに直そうとしない人は、人生において何か重要なことをほったらかしにしているのではないか……と思えてならない。

サイズのあっていないヨレヨレの服を着ている人は、どこかで何かを投げやりにしている感じがして、それが嫌悪感を引き起こすのだと思う。
仕事においても、大事なことを聞いていなかったり、必要なことを先延ばしにしているのではないか……と疑われてならない。「貧乏」とは、「余裕がなくて大事な何かを犠牲にしている状態」を指すのだと思う。
(大学時代、女性とデートする約束をして、まったく自分に向いていない日払いの肉体労働系のアルバイトをして、買ったばかりの靴に穴を開けてしまったことがあった。仕事の条件をよく聞いていなかったので、お金も貰えなかった。若いがゆえに経験が乏しく、選択肢がない。結果として、自分が何をどうしたいのか見極められない。人生でいちばん大事なものが見つからない、その絶望は深い)


自分で靴を磨くと、どこがどう汚れているのか分かるようになる。道具を手入れして次の靴磨きに備えようと、計画性も身につく。
靴クリームを刷毛で塗るのではなく、液体にスポンジが付いたような安易な手入れ用品を使っていると、精神がダウンしていく。その余裕のなさ、創造性の欠落、手抜き、楽……は、確実に人生を浸食する。だから、身の回りの小さなことから始めるしかないのだ。

「楽」をしていると、しかるべき対価しか得られない。
ファストフードやスマホの怖さは「楽」と、手抜きした結果がもたらす貧しい満足だ。みんなの行列している店に並んでも、みんなに染まるだけで何も新しい価値は生まれない。
スマホ歩きもそうだが、発車メロディーが鳴ってから走って電車に乗る。そういう余裕のなさを、まずは直したほうがいい。


とは言え、やっぱりホームレスになるしかないのか?と、覚悟が固まりつつある。先日は、吉祥寺までテントを見に行った。10万円あれば、そこそこ良い寝袋とテントが買えるのではないだろうか。

気をつけて調べてみると、すでにテントと寝袋で生活している人たちがいる。月に2万円でテント暮らししていても住民票が得られるとか、人生の新しい形ではないだろうか。特筆すべきは、彼ら能動的なホームレスはよく調べて、よく考えているのだ。
駄目な人というのは探求せず、その辺にすぐ簡単な答えがあると思っている。そういう人が40歳ぐらいになると、自分には何も蓄積されていないことに気がついて、さらに近道を探しはじめる。

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2021年11月 5日 (金)

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タカラ製1/100「巨神ゴーグ」を組み立てて、“甲冑ロボ”の極意を学ぼう【80年代B級アニメプラモ博物誌】第15回
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ただ旧キットを素組みするだけの連載ですが、なんと、記事のいちばん下に、当時の設計担当者の方のコメントが投稿されていました。
「懐かしいです。ウインガルもゴーグのキットもタカラ時代に担当して設計&商品化しました。 当時の記憶がよみがえりました。」


まず、10月28日(木)はアーティゾン美術館『M式「海の幸」』展へ。
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明治時代の画家、青木繫の絵画「海の幸」を、現代芸術家の森村泰昌がまずテキストで批評し(壁に絵の論評が書かれているのだ)、そして自らコスプレで「海の幸」を再現することによって、新しい文脈を与える。
最終章は映像作品で、青木繫の仮装をした森村が、青木の生涯や彼の生きた時代を関西弁で振り返る(それによって、森村が創作意図がより明確になっていく)。意図を言葉にしてしまうと元も子もないのだが、その誠実な語り口には胸を打たれた。


その後、隅田川まで歩いて、川沿いのカフェで一杯。
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ちょっと物足りないので、とりあえず清澄白河駅まで歩き、バスに乗って勝どき駅へ行くか、歩いて木場公園へ行こうか迷う。どうしても隅田川沿いで飲みたくて、地下鉄で蔵前へ向かい、テラス席のあるレストランまで歩いた。
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ハッピーアワーなので、ビール500円。2杯飲んで、ポテトを頼んでも1400円ですんだ。


11月2日(火)は、寺田倉庫のWHAT MUSEUMへ。バンクシー展は混んでいるので、Obayashi Collection展だけ見ることにした。客は、僕ひとり。
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全3部構成になっていて、二階には数十点の現代美術作品が集めてあった。ジョン・チェンバレンの、鉄板を折り曲げてまるめた作品に、すっかり心奪われた。
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ダン・フレイヴィンの蛍光灯を使った作品は、たしか京都で見たと思うのだが、思わず「アッ」と声が出てしまった。いつの間にか、記憶に残っていたらしい。


せっかく天王洲運河に来たので、川沿いのレストランを目指す。
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お値段の高いレストランは混雑気味で、その手前にあるカフェで比較的安いビールを飲んだ。まだ15時ぐらい。すっかり、川飲みの癖がついてしまった(毎日、ポカポカと暖かいし……)。お値段を考えないと、ちょっと生活が心配になるぐらいの金額が、ゴッソリと出ていってしまう。


ホームレス……というか、テント暮らしをしながらシェア・オフィスで仕事している人のブログを読んでいて、アートとして移動可能な家を作った坂口恭平さんのことを知った。

ただちに坂口さんの『独立国家のつくりかた』を読んだのだが、工夫しながら独自の生活を営むホームレスたちに取材しながら、「学校社会」ではなく自由で創造的な「放課後社会」に生きてきた自分を発見していく前半はエキサイティングだった。考えてみれば、誰ひとり自分の意思で日本に生まれたわけではなく、誰ひとり日本国と契約した人はいない。いつの間にか、漠然とした「決まり」として、税金を払わされているのに過ぎない。35年ローンで家を買って、家のために35年も働きつづける。
しかし、『独立国家のつくりかた』の後半では「やはりお金は必要」と論調が変化し、著者が躁鬱病であることを告白したあたりから、威勢のいいスローガンが、空虚に感じられてくる。
つまり、前半で「お金なんて重要じゃない」「お金がなくても生きていける」が、躁状態の言わせた軽挙妄動だと分かってしまう。この失望は大きい。ロジックで「お金がなくても生きていける」と証明してほしかった。社会に所属しない、完全な自由……それは夢ではないと思いたい。


何ら独創的な価値観のない者ほど、「決まり」に頼る。組織に所属したがり、匿名性に隠れる。匿名性とは「私が決めたんじゃない」と、主体性を放棄すること。
そして、ほとんどの人には独創性も主体性も、実は必要ないのだと思う。なぜなら、社会が何も創造しない、自分のためには生きない疑問を持たない労働者を必要としているからだ。
若いころの僕は、まさに「社会に奉仕する働きアリ」だった。どれほど貧乏しようと、毎日労働に向かった。創造的じゃないし、主体的でもない。「生きるためには仕方がないんだ」という、愚鈍な思い込みだけが僕を動かしていた。

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2021年10月27日 (水)

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「このコクピットは、僕の世界だ!」――「蒼き流星SPTレイズナー」に見る主人公と主役ロボットの“分離”【懐かしアニメ回顧録第83回】
V-MAXが発動して、レイズナーの第二人格フォロンが出現するとき、コンソールが色とりどりに発光し、エイジからは色が消えます。また、レイズナーの目が黄色からピンクに変わるとき、最初は作画で光が水平にのびる様子を描いていました。
だんだん、ピンク色を多重露光で重ねるだけになっていきます。手描きではアングルに制限が出るし、いちいち描き直していては時間も手間もかかるからでしょう。だけど、多重露光も現像所で処理してもらうので、それなりにお金がかかります。結局、現場にどれぐらいリソースがあるのかで、表現は決まっていくのだと思います。そして、一番お金がかからないのが、「レイズナーにふたつの人格が隠されている」という脚本的なアイデアの部分なのです。

モデルグラフィックス 2021年 12月号
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今月の『組まず語り症候』は、童友社さんの姫路城です。
そして、コラム欄では成績表が「1」と「2」ばかりだったのに、「その場で物語をつくる」という試験にだけは受かった……という話を。


スマホをしながら歩いている人は、僕からすればポケットから小銭が落ちているのに、気がつかない人に見える。スマホアプリを開発している人は、0.1秒でも多くスマホを触ってもらえるよう高度な仕組みを考えているわけで、彼らの目には、スマホ歩きしている人たちは勝手に金を落としてくれるヤク中のように見えているのではないだろうか。
どんな綺麗な女性でも、どんなお洒落な男性でも、スマホ歩きは「ハマるように計算された機械に、そのまんまハマっている」姿をさらしているわけで、とてもだらしなく見える。写真アプリやメモ帳 マップのような基本機能にさえ、どうしても気になるような巧みな工夫が入れてある。それを見抜けない、あるいは分かっているのに止められないことが、人生の損失なのだと思う。

行列のできるお店に昼きっかりに並んで、待たされた上に窮屈な思いをしたのに、それをもって「(わざわざ並んだのだから)美味しかったに決まっている」という条件反射のような予定調和の満足を得る。時間が空いたら、「いつものスタバでいいや」と考える。まるで、発車ベルが鳴ったら反射的に電車に駆け込むように。
「みんながそうしているから」、これがバカになる大前提だろう。「誰も気がつかないような店を探して、自分だけの楽しみを見つけよう」……大部分の人は、それが面倒だから、同じ時間に行列に並ぶ。習慣に慣らされて、考えることをやめる。選んでないし、探してないんだよ。


最近観た映画は、溝口健二『お遊さま』、ヒッチコック『白い恐怖』、アリ・アスター『ミッドサマー』。
ドキュメンタリー『ヒッチコック/トリュフォー』を見たから、おそらく2度目の『白い恐怖』を見たのだと思う。しかし、そもそも『ヒッチコック/トリュフォー』自体を1年前にも見ていた。
新人と言ってもいいアリ・アスターが撮った『ミッドサマー』は、平衡感覚を失わせるような不安な作品だった。
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新興宗教のような、少数部族のような異様な集団の儀式を描いているのだが、もしかすると、この集団を美しいもの、魅力的なものと信じて撮っているのではないか……その疑惑が、不安の正体だ。
というのも、彼らがまっすぐに並んで歩くとしたら、カメラもきっちりドリー移動し始めるのだ。映画のもっている機械的メカニズムが、劇中の儀式に組み込まれてしまったように見える。反面、悪夢だとかゾンビだとかCGだとかは、よく見知った映画の文法なので、不安をやわらげる。


ここのところ天気がよく、昼間から外飲みしていた。
月曜日は有明のホテルに宿をとって、海と夕陽が見えるベストな外飲み場を、本腰をいれて探すことにした。
まず、ホテルから徒歩圏内の大型商業施設、有明ガーデン。テラス席設置のお店が数軒あるのだが、建物の内側に面してテラスが広がっているため、海が見えない。店同士が向かい合って並んでいるのも良くない。向かいの客を眺めながら、飲むことになってしまう。
よって、有明ガーデンを離れ、ゆりかもめで台場へ向かう。

いつもはデックス東京ビーチ2階の店へ行くのだが、海が見えるのはいいとして、テラス席の手前が歩道になっており、ひっきりなしに人が通り過ぎるのが難点だった。しかし、より夕陽に近いアクアシティお台場5階のレストランが、珍しく開いていた。
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色の黒いボーイの青年が、あまりにも丁寧に「ブランケットをお持ちしましょうか?」と聞いてくれるので、「ありがとうございます」と頭を下げてしまった。それぐらい曇天で、肌寒かった。しかし、絵の具を水に溶いたような曇り空も、なかなか良い酒のツマミになった。
かまり歩きなれてきた海浜公園周辺の団地を抜けて、海を渡ってホテルを目指した。すると、その近辺にはチェーン店のような居酒屋しかない。フライドチキンのような味気ない焼き鳥を食べたのだが、そういうダメなお店にかぎって値段が高めに設定されている。(その手のお店は、メニューの写真を出来合いのサンプル画像で使い回しているのも特徴。徹底的に頭を使ってない、工夫してない。)

その日はサントリー美術館の「刀剣 もののふの心」展、翌日はホテルから歩いて行けるスモールワールズTOKYOへ行った。
帰り道は国際展示場から出発するバスで、東京駅まで210円。次回はバスで来てもいいのだが、10年以上前、北海道や沖縄へ旅行するために適当に買ったカバンがかさばり、いよいよ邪魔になってきた。一泊旅行ばかりなので、そろそろコンパクトなものに買い替えよう。

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