2014年11月20日 (木)

■1120■

友人の強い勧めで、中野ブロードウェイの「深堀隆介展」()へ。
2_isou僕の写真はボケボケで何だか分からないので、上記リンクから、公式の写真を貼っておきます。これは立体の金魚ではなく、絵です。
透明なエポキシ樹脂の上に金魚のパーツを描いては、上から樹脂の層をつくり、また金魚のパーツを描いては樹脂を流し……という工程をくり返して、三次元空間に配した二次元のパーツのみで、立体的に表現しているのです。

近くで見ても、「あれ、やっぱり立体?……いや、絵だな」と、トリップ感を味わえます。
僕がとても嬉しかったのは、エポキシ樹脂もアクリル絵の具も、そこそこ知っている素材だったからです。どちらも、魔法のマテリアルではなく、不便なところもあります。それを物ともせずに、地道な作業のみで「この世に無いもの」を作る、その姿勢に惚れました。いさぎよく、堂々としています。
「工夫次第で、ここまで行けるんだ」と、元気づけられた気持ちにもなりました。

友人が言っていたのですが、10年ほど前の作品は「今ひとつ」な出来です。10年かけて、見違えるように進歩したことが分かる展示の姿勢も、小気味いい。
12/2まで、中野ブロードウェイの小さなギャラリーで開催しています。


CSで、『MS IGLOO-1年戦争秘録- 』第二話。モビルタンク、ヒルドルブの話。
実は、松戸バンダイミュージアムでの上映時、僕は、第二話までパンフを手伝っていた。第二話は大野木寛さん脚本、絵コンテはカトキハジメさんで、群を抜いて出来がいい。
Romo_lampkin___cc___685x385ゲストのソンネン少佐の声が、『ギャラクティカ』に出てきた弁護士、ロモ・ランプキンの吹き替えの人に似ているなあ……と思ったんだけど、天田益男さんは、『ギャラクティカ』には出ていない。
それで、役名の明記されていない「その他」のキャストをしらみつぶしに調べ、ランプキンの声は、隈本吉成さんだと分かった。

隅本さんの舞台の動画を見ても、ちゃんとランプキンの声、あの「話すのも面倒なんだけど、お前とは口ぐらいきいてやるよ」といった、寂しがり屋な雰囲気がある。
同じ事務所の声優さんは出てないから、バーターで割り当てられたのではなく、「ランプキンは隈本吉成さんしかいない」と、『ギャラクティカ』の日本語版制作スタッフが決めたはずなんだよな。
そして、隈本さんはランプキン役のマーク・シェパードの声に引っぱられることなく、自分でランプキンという役柄を演出、造形している。優れた俳優さんって、本当に「話し方」そのものが「作品」なんだよね。


で、今はいろいろ仕事してます。僕の提案した企画が動いてもいるし、提案された企画は実作業に入っています。

でね、あいかわらず、ぜんぜん返事のない人は、何も考えてないね。考えてる人は、「ちょっと待って、検討させてください」と即座に返事くれて、「こことここさえクリアすれば、何とか進めます」と、具体的に言ってくれるもん。
返事のない人を、「どうなりましたか?」と突っついても、「あー、それダメになりました」「忙しくて忘れてましたー」とか、「早く言えよ!」ってことしか出てこないもの。
だから、のろい人に当たってしまった場合は、先に代案を進めておく。僕らは忙しくならないように先手先手を打ってるのに、あなたが「忙しい」を言い訳にグズってるだけよって話です。

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2014年11月16日 (日)

■1116■

朝はやく起き、たっぷりのお湯につかって、「今日はどうやって過ごそうか?」と思案する。
次の仕事のしめきりは、一週間ほど先だ。駅の北口でDVDをレンタルしてきてもいい。南口の図書館に行ってもいい。日曜日。外は穏やかに晴れている――。
ふと、ヴァンゲリスのオリジナル・ファーストアルバム『アース』に収められていた『イン・ザ・レイン 』の歌詞が、頭をよぎった。

My face in the rain
I walk all alone
It's Sunday time is slow
I'm happy that is all I know


本棚の隅に山をつくっていた、古い雑誌の整理をした。
僕がライターになった当初の、1998~1999年の「週刊SPA!」、書いた記憶のほとんどない「日経キャラクターズ!」の『ガンダムSEED』の取材記事、「シネコンウォーカー」の宮崎吾郎さんへのインタビュー記事などが出てきた。
「週刊SPA!」は、毎週水曜になると担当編集から「ピーンチ。廣田くん、ピーンチ」と電話がかかってきて、僕は即座に取材ネタを探して、アポとりから素材集めから、ひとりでやることが多かった。最速では、電話を受けてから6時間後に、原稿と写真を編集部に送ったこともある。
ひとりで仕事するのが好きだった。90年代後半の、ひんやりと冷たい東京の空気は、今でも忘れられないし、嫌いではなかった。

浜松町駅下車、東京湾にちかい通りに、「週刊SPA!」を発行している扶桑社はある。
ある日、編集者は僕を呼んで、高級なエスニック料理をおごってくれた。「しかし、お前さん、今のままでは生活が成り立ちますまい」。
それから、彼は多くの仕事を回してくれるようになった。98年の秋ごろ、僕は31歳だった。


夜になって、TSUTAYAで借りてきた『アイアンマン2』を見た。
ここのところ、仕事の都合で、アメコミ映画ばかり見ている。

トニー・スタークは大金持ちだが、その心は平穏ではない。胸に埋め込んだ動力炉のせいT0008293 で、身体が侵食されつづけている。
自暴自棄になった彼は酔っぱらい、ゴージャスなパーティを開き、そうかと思うと、Tシャツとスニーカーでオフィスに現われ、引きこもって研究に没頭することもある。

スタークを演じたロバート・ダウニー・Jr.は、当時45歳だった。
彼自身、華やかな経歴を薬物中毒で台なしにしてきた経歴を持つ(新しい動力炉を埋め込んだときの「口の中に金属とココナツの味がする」という感想は、彼のドラッグ体験が下敷きになっているようだ)。
その、いわば役者と役柄の起死回生が渾然となったとき、決して悲壮にならない。どこか、投げやりなほどの多幸感に満ちている。
膨大なビジュアルエフェクトを隅から隅まで堪能し、まだ一時間ある、あと30分もある……とゾクゾクしている。こんな満ち足りた娯楽を、たった108円で味わえる。しかも、続編も借りてきてある。今夜みても、明日の夜に見てもいい。
とてもちっぽけなようだが、これはこれで贅沢な時間。あの31歳の秋から、どうやってここまでたどり着いたのだろう、と思いをめぐらす。

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2014年11月14日 (金)

■1114■

EX大衆 12月号 明日発売
Photo
●大人のための超合金再入門ガイド
3ページのカラー記事です。今年40周年をむかえた超合金のセレクションと解説、バンダイの寺野彰さんにインタビューを行いました。
最初の超合金が出たとき、僕は7歳だったので、リアルタイムで『マジンガーZ』の超合金に触れた世代は、みんな40代ですね。
来年、『スター・ウォーズ』の新作が公開されますが、1978年の日本初公開を実体験したのは、30代後半以降じゃないでしょうか。

人口ピラミッドを見ていると、数年後には、僕より少し下の世代が突出して増えてきます。だから、40代向けのコンテンツばかり増えていくのは、ビジネスとして正しくはある。
昨夜、ある子供向けアニメの監督さんにインタビューしたんだけれど……その人は「子どもに向きあう」ことが、いわば宿命づけられている。
僕は、15歳までに出会う作品や趣味によって、人生が決まると思っている。それはビジネスのみで考えてはいけないと思う。質で勝負しないといけない。10代の人たちに向けてコンテンツを提供する人たちは、責任重大になっていく。それはメディア業界の大人だけでなく、あらゆる商売・職種、子供の目線を受けとめながら、それぞれ、しっかり仕事しないといけないんだってこと。


『さよならだけが人生だ 五社英雄という生き方』が、三鷹駅前図書館にあったので、借りてきた。著者は、五社監督のひとり娘である五社巴。

驚いたことに、五社を最初に襲った災難は、妻のつくった二億円もの借金であった。その後、妻は失踪。残された父と娘は実家を失い、それぞれアパートとマンションに移り住む。
ところが、大学生だった娘はバスにはねられ、大怪我を負ってしまう。九死に一生を得た娘が退院した翌日、五社は短銃不法所持容疑で逮捕される。
罰金刑で釈放されたものの、25年も勤続したフジテレビからは解雇されてしまい、50歳にして路頭に迷う(借金をつくった前妻と別れ、再婚できたことが、唯一の救いだろうか)。

ゴールデン街に小さな飲み屋を出そうとしたとき、東映の岡田茂社長から電話があり、『鬼龍院花子の生涯』の準備を始めるわけだが、そのくだりで泣かされた。
脚本を読んだ夏目雅子が、すっぴん、ジーンズ姿で五社のマンションをいきなり訪ね、土間に正座すると、「夏目雅子と申します」と、みずから出演を希望したというのだ。
……が、これは五社の作り話で、実際にはマネージャーや他のスタッフが同席して、夏目に決まったのだという。しかし、財産も社会的信用も失い、どん底にあった五社の心象風景は、まさに「新進女優がすっぴんで、借金から逃れるために借りたマンションまで、わざわざ足を運んでくれた」のであろう。

美しい嘘は、ついてもいいんだよ。特に、人生があまりに辛すぎるときは。


『Gのレコンギスタ』、あまりに安定した面白さなので、かえって不安にかられる。

前から気になっていたのは、モビルスーツのコクピット付近をフレームに収めたとき、BLカゲになる部分が真っ黒ではないこと。薄く、埃のかかったような処理になっている。
だが、デジタルらしい、べったりしたBLカゲも散見される。察するに、「線を途切れさせる」撮影処理時、BLカゲ部分にも影響が出て、セルに埃がかかったような、セルの厚みを感じさせるような効果が出てしまったのではないだろうか。
(『101匹わんちゃん』でゼログラフィを導入した結果、余計な線まで画面に映ってしまい、それがグラフィカルな効果を生んでいるのと似たような感じ。)


富野由悠季監督が「10歳の子どもに見せたい」と言うように、自分たちの世代だけが満足を考えていると、しょせんは閉塞する。自分より下の世代、自分と境遇の違う人たちと話さないと、世界は広がらない。
原発の再稼動を決めた町のように、自分たちのテリトリーさえ上手く循環してくれれば良いとムシのいいことを考えていると、やはり自滅しか待ってないと思う。

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2014年11月10日 (月)

■1110■

日本映画専門チャンネルで放映された『鬼龍院花子の生涯』を夜中に見ていたら、あまりに面白くて、最後まで見てしまった。
Kiryuuこの映画の公開された1982年といえば『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙』の年で、「実写の日本映画は暗い、ダサい」と嫌われていた時代だ。『蒲田行進曲』も、この年なんだよね。
「なめたらいかんぜよ!」という夏目雅子の決めゼリフは、流行語としてしか知らなかった。85年放送の『スケバン刑事Ⅱ』で、土佐弁はオタクの間にも浸透していく。
(余談だが、『スケバン刑事』は、オタクとヤンキーが共有できる数少ない番組だったのかも知れない。失速した80年代後半のアニメ文化も、アイドル歌謡に助けられていたと思う。)


『鬼龍院花子の生涯』当時、五社英雄監督は銃刀法違反容疑で逮捕、仕事もキャンセルされ、妻にも逃げられ、人生は下降線をたどっていた。かつての仕事仲間が、ドロップアウトしつつある五社監督にチャンスを与えたのだという。
3年のブランクを経て『鬼龍院花子の生涯』で第一線に復帰したとき、五社監督は53歳になっていた。この後、63歳で死ぬまでの十年間、ほぼ毎年かかさず映画を撮っていたのだから、きれいな人生だと思う。

夏目雅子が27歳の若さで没するのは、この3年後である。花子役の高杉かほりはアングラ女優で、映画出演は、この一本きりだという。

アニメに首まで漬かっていた僕にとって、『鬼龍院花子の生涯』は、知れば知るほどアウェイな映画である。
ただ、当時はスルーしていた文化が、歳を重ねて、ようやく役立つこともある。異質な文化に触れることで、自分があの時代の中でどこに立っていたのか、ようやく把握可能になる。自分の趣味嗜好の中だけで生きつづけていると、いずれは行き詰ることになる。審美眼や好奇心は、加齢とともに、しっかり衰えていく。


僕は、五社英雄の過ごした最後の十年に興味がわいた。
五社は1985年に、自分のプロダクションを設立する。墜落寸前の極道監督を、好景気が救ったことは間違いないだろう。
そして、景気後退が始まると、あっさり逝ってしまった。鮮やかな死に際だと思う。こういう面白さは、五社の映画の質とは、いささかも関係ない。だから、映画に点数はつけられない。

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2014年11月 9日 (日)

■1109■

レンタルで、『モンスターズ/地球外生命体』。
339767_01_01_02_26年前に、地球外生命体を乗せた探査船が墜落し、メキシコを中心にモンスターが繁殖してしまう。危険地域周辺には米軍が戦車を駐留させ、上空には戦闘機が飛び交い、定期的に空爆が実施されている。

付近の住民には、化学兵器用のマスクが配られ、テレビでは、子供向けにマスクの着用を促すCMが流れている。
主人公は、モンスターと彼らに脅える現地の人々を撮影する、いわば戦場カメラマンのような男。彼は、金持ちの令嬢をメキシコからアメリカに逃がすために同行する。
主人公のセリフにもあるように、これはアメリカという母国を「塀の外側から見た」映画だ。社会的な視点がある。


低予算であるがゆえに、ディテールの描写には手抜かりがない。
001_l_large前半、主人公とヒロインが繰り出す夜の街の喧騒。オールロケの効果が存分に発揮されている。街の随所に、米軍の空爆に反対する落書きがある。危険地域であることを警告する錆びた看板、犠牲となった人々を弔う墓地、干からびた魚の死骸……。
それらの風景が、半永久的に局地戦をくり返すしかなくなった世界の現状を、雄弁に語る。本当の「今」は鳥瞰できない。歴史の断片に触れることでしか、「今」を感じるすべはない。

映画のラスト近くで、確信した。これは、ウェルズの『宇宙戦争』だ。原作の『宇宙戦争』は、全体を概観する描写は一切なく、ひとりの男の手記として書かれている。全体像を見渡すことの出来ない焦燥感が、そっくりなのだ。
意識してみれば、タコのようなモンスターが数本の長い足で直立して歩く姿は、『宇宙戦争』の火星人と三脚のウォーマシンに直結する。


そして、この映画は人生の岸辺にたどり着いた男女の物語である。
主軸は、モンスターを倒せるか否か、生き残れるかどうかではない。世界の運命に関与できない生身の男女が、いわば、世界の傍らに呆然と立ち尽くす。メキシコの国境をこえるまで、彼らは帰属している日常から切り離されている。その寂寥感が、映画全体を心地よく覆っている。
卑近な、手近なところにテーマを収斂させない粘り強さがある。何より、そこに感心させられた。

旅情を誘う映画でもある。映画を見ながら、透明人間になれたら、タダで飛行機に乗りながら、死ぬまで世界中を転々とできるのになあ……と、おかしなことを考えていた。

(C)Vertigo Slate 2010

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2014年11月 7日 (金)

■1107■

ヤマトメカニクス2199: 宇宙戦艦ヤマト2199モデリングアーカイヴス 本日発売
231497
●出渕裕総監督インタビュー
インタビューそのものは、「モデルグラフィックス」本誌に載ったものの再録です。が、インタビュー時の写真が、すべてカラーに刷新されています。ちゃんと、ゼンマイ走行のヤマトの写真もカラーで掲載されました。わざわざ、写真を探してもらった甲斐があったというもの。

作例の写真も、本誌掲載時より増えています。パラパラっとめくるだけで、「これは見たことないな」と分かるぐらい、増えています。作り下ろしの作例もあります。
単なる寄せ集めではなく、「別冊」本来のスペックに達した本だと思います。


アニメの話でもしましょうか。『四月は君の嘘』、第五話は作画で変化球を投げてきたなあ……と思ったら、作監・演出が小島崇史さん。原画のクレジットも、小島崇史さんのみ。ようは、一人原画ってことですね。納得。(演出は、絵コンテの石浜真史さんと連名。)

この公式サイトにあった絵が、まさにそうなんだけど。
Photo3影を細かく塗りわけずに、ベタ塗りで仕上げると、ちょっとシャフトっぽい。線は減らさず、立体感だけ相殺してグラフィカルに処理するというか。細田守さんの作品で影がないのとは、意図が違う。

しかも、アクションカットでも、丁寧に影を塗り分けた絵と、影なしの絵を繋いでしまう。ワンカットずつの充実感を重視して、つながりは気にしない。ラストの橋から飛び降りるアクションが、そうなっていた。カット間に飛躍があった方が、ダイナミックに見える。
それと、冒頭の回想シーンでも橋から飛び降りるアクションには影がなかったので、演出上の整合性はとれている。そういう意図をこめているのか、あるいはスケジュールの都合や実務的な理由があるのか、いずれにしても、シリーズの中に一人原画の回を混ぜる試みは面白い。

『輪るピングドラム』で一人原画をこなした武内宣之さんにインタビューしたことがあったけど、やっぱり特殊な回だからこそ、一人にぜんぶ描かせるというリスキーな試みが許されるらしい。
それを誰がどうジャッジして、シリーズを通しての制作体制の中で、どう消化しているのかは興味をそそるよね。


「個性的な作品は、個性的な現場からしか生まれない」は押井守さんの言葉だけど、それは奇人変人が集まれば個性的になるという意味ではなく、制作体制、システムが特殊であれば、すべからく特殊な成果物が得られるのであって。

どんな仕事でも同じじゃないかな。「誰と誰が組むか」だけではなく、納期や予算に余裕がなければ、それなりの方策を考えるだろう。最前線で、何とか納品しなくてはならない人間たちが主役なんですよ。責任を負った人が主役。どんな仕事でも。

(C)新川直司・講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

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2014年11月 4日 (火)

■1104■

数日ほどかけて、ガンプラなどのパーツを組み合わせ、ロボットを作りました()。
3280256image1かつて模型誌で盛んだった、模型+脳内設定が暴走した体裁の「フォト・ストーリー」形式の小説……は、現在では廃れてしまい、どれこれも版権問題をクリアにした「公式外伝」ばかりになってしまいました。

前回のスーパーフェスティバルで、「フォト・ストーリー」文化を復興させられないだろうか?と雑談したことがキッカケで、まずは模型だけ作成。来年一月のスーパーフェスティバルで、模型の写真+小説を掲載したペーパーを販売するつもりです。


前回、自分のライター人生を振り返ってみましたが、その続きです。

僕は生活費のすべてをライター業で稼いできたので、「ライターであることだけが、俺の存在証明」と化してしまいました。自分の仕事にプライドを持つのは間違っていないでしょうけど、「ライターで食えてないヤツは、一人前とは言えない」と減点法で同業者を見てしまうのが、僕の悪いところです。
過去のイベントでも、「今の若いライターは、一度雑誌に名前が載れば満足してしまう」「ライターを続けていく戦略も根性もない」と、批判していたはずです。

ただ、ここ最近は「ちょっと書いただけで、すぐ満足する」ことを批判的には考えなくなりました。
なぜなら、「ひとつの仕事だけを長くつづける」スタイル自体、僕らの世代の勝手な押しつけだと気がついたからです。バブル期に大学を卒業した僕らは、かろうじて「大企業に就職できたら、一生安泰」と信じられた世代です。
あれから20年の間に、終身雇用の絶対性が崩れ、ワーキング・プアやネットカフェ難民という言葉が生まれました。
その状況を鑑みると、「一度雑誌に書いたから、ずっと書きつづける」ことには、何のメリットもない。むしろ、さっさと満足して、新しい経験を積んだほうがいい。柔軟性のある働き方をしないと、生きていくことさえ難しい。

「いまの若いヤツらは、冒険しない」「言われたことはキチッとやるが、自分の枠から出ようとしない」と、僕らは好き勝手な不満を並べてきました。
バイトで手軽に稼げて、朝まで遊び歩いても何とか暮らしていけて、「ギョーカイに入れればオシャレ、モテる」「有名人とお近づきになれれば、おいしい話にありつける」と刷り込まれてきた僕らは、いまの若い人たちが抱えるリスクに想像がおよばない。少なくとも、僕は無神経でした。


話がライターからずれてしまいましたが、つまりはそういうことです。
僕はアニメのことを中心に執筆してきましたが、「趣味のことなら、なおさら仕事、食いぶちにしたくない」……そういうスタンスも、今なら理解できます。「商業誌に書いて一人前、職業にして一人前」という考え方は、終身雇用を神聖視するのと同じぐらい古いし、狭い。

そんなことより、肩書きを剥ぎ取られたあとに残る、素の人間力みたいなものの方が大事なんです。
『東のエデン』の滝沢くんの職業は、新聞配達でした。だけど、彼はアメリカに行っても、英語を使わずにトラブルを解決できる。プロフェッショナルでないことが、彼の武器なんですね。

プロが独占していた職域に、プロでない人が流れ込んできたほうが、少なくともメディアは活性化すると思う。「アマチュアの柔軟な発想をプロが採用する」とか、そんな上から目線の搾取ではなく。
流動性を社会全体が獲得しないと、おそらく未来はない。


「仕事をする」意味は、社会に還元することだと、今でも信じている。
クライアントを喜ばせるためじゃない、本屋で立ち読みしている見知らぬ誰かに、ちょっとでも楽しくなってほしいから記事を書く。原稿料というのは、その見返りなのだと思う。

だけど、僕のその頑なな信念が、クソの役にも立たないシチュエーションがある。
それを認めて受け入れないと、世の中の人たちと本当には話せない、交われないのだと感じています。

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2014年11月 2日 (日)

■1102■

ここのところ、「原稿料が支払われない」という、作家の方のツイートを目にします。
僕はフリーライターとして、16年間、ほぼ切れ目なく雑誌や定期刊行物に記事を書いてきましたが、「原稿料が支払われない」ことはありませんでした。支払われない場合は、徹底的に追求し、半年かかろうが一年後かかろうが、払っていただきました。

その点、作家さんとフリーライターでは、仕事の質やフットワークが違うのかも知れません。
たまたま現在、ライター開業以来、初の大ピンチに陥っていることもあり、自分のライター生活を省みてみようと思います。


まず、僕が有利なのは、独身であること。
結婚していた三年間は、「就職すること」が結婚の条件だったので、「ライター業も平行してつづけられること」を大前提に、ゲーム会社に就職しました。
その間、月給は13万円。それより低い月もありました。会社をリストラされた月、ライター業で稼いだギャラが70万円だったので、元嫁も、思わず黙ってしまったものです。
(元嫁は専業主婦で、家計はすべて僕が持っていました。)

そのときの貯金が200万ちょっと。離婚時に、元嫁から「引っ越し代」として60万円を請求され、自分の引っ越し費用が40万円ほど、かかりました。
貯金は半分になったけど、100万円の貯金があって、毎月何本か仕事があれば、フリーライターのみで十分やっていけます。――ただ、結婚して共働きだとか、親元で暮らしている人は、条件が変わってくるでしょう。子どもがいる人は、すごく大変だと思います。

僕は三年前に、父親が母親を殺傷するという事件に遭いました。
このとき、母の火葬と父親の飼っていた犬の世話代などで、一度に40万円ほど消えました。遺産とか、そういうものは一円ももらっていません。
それでも、離婚したとき手元に残った貯金をベースに、減ったり増えたりはしたけれど、何とかやりくりして来られたのです。


ここ数年の確定申告の記録を見ると、年収は300~400万で、下降気味です。
一時期は700万円ほど稼いでましたから、半分になってしまった。だけど、支払いのタイミングを工夫して分散させれば、海外旅行も出来ます。

ただ、40代半ばにして初めて海外へ行ったのは、「これから2~3年後には行けなくなるかも」という経済的な危機感があったからで、残された人生で何を優先すべきか考えはじめた……という動機のほうが強いです。余裕があったから、ではありません。

署名活動についても、同じです。30万円、決して戻ってこないお金を注ぎこみましたが、社会に必要だと思ったから、貯金を切り崩したのです。
もちろん、高い買い物は控えるようにしました。墜落しないよう、低空飛行を維持できるだけのお金は、必ず残しておく。離婚しようが、親を殺されようが。

そうしておけば、ろうそくの炎が消える前に、別のところへ火を移せるはずなんです。
ところが今回、別の方面からから火を吹き消されてしまったから、ピンチだと言うのです。具体的に何が起きたかは、それこそ本が書けるぐらいのことだと思うので、タダで教える気にはなれません。


いま、「本が書ける」と言いましたが、単行本だけで食べていくのは難しいと思います。
『失職女子。』が話題の大和彩さんが仰るように、印税って、思ったより入ってこない。僕の過去に出した『スーパーロボットコンプレックス』は、出版元が計画倒産したので、80万円入るはずの印税が、ゼロ円になりました(そのときも、他の原稿料で何とか食いつないだ)。

『俺の艦長』は、その半分ぐらいです。ムック本を、ほぼ自分ひとりに任せてもらえた場合も、同じぐらいの原稿料……いや、もうちょっと貰える場合もありますね。
時間と労力を考えると、単行本を書き下ろすより、ムック本を手伝ったほうが良いと思います。

「来春、三冊目の本を出さないか」という話が来ましたが、過大な期待はかけず、下請け・孫請けでもいいから、細かい仕事を進んで手伝うようにしています。「ネットの記事用にライター登録しませんか」という誘いも来たので、登録させていただきました。
フリーライターって、仕事のバリエーションが広いというか、何でも仕事にしてしまえる。映像企画の手伝いもやるし(名前は出ないけどギャラは出る)、一行のキャッチコピーでも書く。CDドラマの脚本なんて仕事も、一度だけやりました。

もし「単行本だけで勝負しろ」と言われていたら、最初の一年で潰れていたと思います。
……と言いながら、16年間、使っては足し、使っては足していた焼き鳥屋の秘伝のタレを、壺ごと持っていかれてしまったので、いま、人生観を問い直しているところなんです。

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2014年10月31日 (金)

■1031■

以前、「子ども時代に性虐待を受けた女性が、大人になってから加害者である叔父を訴えた」ニュースをリンクしたと思います。
その裁判で勝訴した原告の女性と弁護団が、「性的虐待に関する時効制度の改正 及び 被害救済制度の整備に関する要望」を求めて、署名キャンペーンを行っています()。

いま、500人をこえたところですが、僕は何千人、何万人集まってもいいと思います。
性虐待を行っておきながら、今なお、のうのうと生きている加害者たちを訴え、被害者たちに力を与える、具体的かつ実際的行動です。
ぜひ、協力をお願いします。


その反面、非常に残念な話もあります。

10月15日の内閣委員会の質疑で、松島みどり法務大臣(当時)が、創作物であるフィギュア商品について、「児童ポルノとは言いがたい年齢かなとは思うんですが、いろいろな欲情の誤った形の扇動になるというのは言い逃れることはできないだろうと思っております」と発言しました。(出来れば動画を見て欲しいですが、こちらのブログに正確な文字起こしがあります。→

法務大臣ともあろう者が、加害者も被害者もいない創作物について、「児童ポルノ」という言葉を誤用したことに、僕は怒りを感じます。
児童ポルノ禁止法の目的を知っているなら、「いかがわしいフィギュア商品を、どう思うか」と問われて、「児童ポルノ」という言葉が出てくるわけがありません。

このフィギュア商品を、他の大臣や議員は「あまりにもどぎつい表現」「あまりにもひどい」「あまり気持ちのいいものではなかった」「品のないもの」と形容しました。それらの表現を代替させるために「児童ポルノ」という言葉を使うのは、倫理に反します。

「淫猥な」「卑猥な」という意味で「まるでレイプのよう」と言われたら、強姦にあった人は腹が立つでしょう。「まるで性虐待のよう」と言われたら、実際に性虐待にあって苦しんでいる人たちは、どう思うでしょう?
その暴力性を、「児童ポルノ」という言葉は弱めてしまうのです。「度をすぎて扇情的な性表現」という俗な意味で、国務大臣から国会議員、民間レベルにまで浸透してしまっている。

これは「表現の自由」とは関係のない問題です。表現規制とも関係ありません。
「児童に対する性虐待」という過酷な現実から、「児童ポルノ」という言葉は生々しさを脱臭してしまう。児童福祉という面から性暴力・性虐待に強硬な立場をとっている方たちも、なぜか、児童ポルノという言葉には無頓着です。
そこには、「児童ポルノ」という曖昧な概念が、いかがわしい性表現(たとえばアイドルDVDやエロ漫画など)を取り締まり、世の中から一掃してくれるのではないか……という期待・願望を感じます。

性表現をどこまで許すのか。それはそれで、議論を進めるべきです。と言うより、先ほど挙げたフィギュア商品の例で分かるように、性表現に関しては、議論も規制も進んでいると思います。
しかし、創作物規制に、「児童」という言葉を混入させて正当性を強化するのは、あまりにも乱暴で無神経で、場合によっては姑息ではないかと思います。


そもそも、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」は、児童への性虐待を禁ずる法律ではありません。児童ポルノとは、「児童の姿態」の記録を指しているのであって、虐待の有無は一切関係ありません。

僕は「性欲を興奮させ又は刺激するもの」(条文より)でなくとも、性虐待の記録となるものを取り締まるべきだと思います。だから、「児童ポルノ」ではなく「児童性虐待記録物」と呼ぶべきだと言うのです。
専門的に刑法に詳しい方から見れば雑だと思いますが、僕の主張は、以上です。

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2014年10月28日 (火)

■1028■

レンタルで、『フローズン・タイム』。
329299_01_04_02失恋したショックから不眠症になり、なぜか時間をストップさせる能力を身に着けてしまった画学生。彼は、眠れない時間を使って、スーパーマーケットで夜勤のアルバイトをはじめる。

タイトルにもなっている「時間を止める能力」に特に意味はなく、演出として面白く使われる程度。だけど、「夜のスーパーで働く」設定がいい。恋人にフラれたまま、毎夜、永遠のように長い8時間をやりすごす。その無味乾燥とした非生産的な滞空時間こそが、「凍結された時」であることは、言うまでもない。
スーパーの従業員みんなでフットサルの試合をやるんだけど、夜のコートでやるんだよね。それがまた、時間の流れを感じさせず、広漠とした雰囲気をかもし出す。夜って、美しい。

よく、「俺の二時間を返せ」という人がいるが、この映画のように、あらかじめ「二時間の間隙」として、人生に占位しようと試みる映画もある。
監督はファッション写真家とのことなので、撮影はきれい。恋愛映画につきものの、パーティのシーンも、ちゃんとある。人生に退屈しているときにこそ、見るに値する映画だよ。


児童ポルノ禁止法について、よい記事が二つ。

『児童ポルノ禁止法は矛盾だらけ! 子どもを性的虐待から守る目的をお忘れか?』(
『【神戸女児遺棄】容疑者が閲覧していた「児童ポルノ」の定義を考察』(

児童ポルノ禁止法は「児童の権利を擁護することを目的とする」(第一章 第一条より)。社会風紀を取り締まるのが目的の法律ではありません。
ところが、同法の児童ポルノの定義が「性欲を興奮させ又は刺激するもの」を基準としているため(第一章 第二条)、性虐待の証拠となり得る画像であっても、「児童ポルノ」にあたらない場合がある。ここで、法の目的がねじれてしまっている。

ねじれてしまっているのをいいことに、例えばコンビニで売っているエロ本を「あんなのは児童ポルノだ」と、吐きすてるように言う人がいる。
GMOメディアが、フィギュア作品を「児童ポルノ」と呼んで削除しようとしたのと同じです()。そこには被害児童が存在しない。被害児童を視界から排除し、「性欲を興奮させ又は刺激するもの」だけを攻撃したいとき、「児童ポルノ」という言葉が、手軽に、便利に使いすてられている。


つまり、法律のおかしな部分を、国民の側が精査せずに乱用してしまっている。このだらしない状態、しかも被害児童の存在をほったらかしにして暴走している状態が、僕はイヤなんです。

「被害者はさておいて、加害者を定義して罰することが最優先」なのは、児童ポルノ禁止法にかぎらず、社会の潮流になっていると僕は感じています。
誰もが余裕がない、議論する時間も場もないから、とにかく早く切って捨てたい。だから、たとえばエロ漫画を読んでいるオタクを性犯罪者にしたがる。「もう面倒だから、アイツラが悪いってことにしよう」となる。そこにはやっぱり、被害者はいないんですよ。被害者救済を具体的に考えるのが、面倒だから。

殴ったり、罵詈雑言を浴びせるだけが暴力ではない。面倒だから制度を曲解して使ったり、議論や思考を放棄すること、主体性を捨てて多勢に流されることも、暴力に繋がるんです。

(C)2005 LEFT TURN FILMS-CASHBACK FILMS

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