2016年12月 9日 (金)

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Febri Vol.39 明日発売
Czio4c5usaezetm●Febri Art Style
今回は『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で、美術監督の川本亜夕さんにインタビューしました。
ロボット物の背景美術は、美術設定(デザイン)がメインで、あとは色を塗るだけだろう……などと思っていると、意外とアドリブで落書きや汚しを入れたりしていて、けっこう面白いのです。

僕は、下手をすると、キャラクターよりも美術を気にするところがあるのですが、どうすれば美術に興味をもってもらえるのか。『オルフェンズ』ファンの人が、果たして、この記事にたどりつくことがあるのか。


さて、僕がモデルグラフィックス誌で応援のための連載を始めたころは、載せられる話題がなくて、本当に困っていた『この世界の片隅に』。地元の吉祥寺でも、上映されることになった。先日、片渕須直監督とお会いしたときは、「『マイマイ新子と千年の魔法』だったら、そろそろ上映が終わりはじめる時期ですよね……」と、苦笑しあった。

本当は、ファンが自腹をきって作品の上映を継続させるなんて、やらないほうがいい。
それでも、「ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーが連日満席にならなければ、今度こそ本当に『マイマイ新子』は終わってしまう」と、宣伝担当が笑いもせずに電話口で言ったとき、凍りつくような気持ちがした。
僕は毎夜、違う知り合いを誘って、ラピュタ阿佐ヶ谷に通った。『マイマイ新子』を気にいってくれた友人が、また別の知り合いを誘って、次の夜に来る……同じような連鎖反応が、あちこちで起きていたのだろう。
「そんなにお客が入る映画なら、ウチでも」と、独立系の映画館が興味を示してくれた。その後、ラピュタ阿佐ヶ谷のアンコール上映は、満席になるのが当たり前になった。
そこまで来られたら、もう僕の役割は終了だ。それから後は、好きなときに、好きな映画館へ見に行ったり、2011年の震災後、福島県で上映会をやったぐらいだ。


「もう大丈夫だな」「勝手に広がっていくな」と思えるまでは、やれることをやった。
それだからこそ、『この世界の片隅に』を地上波テレビでも宣伝すべきだ、5億円では興収が足りない、20億円ぐらい稼げ……と、勝手な願い事をインターネットという短冊に書いている星目がちな人たちを見かけると、「気楽でいいね」とため息が出る。
だったら、テレビで宣伝してもらえるよう、テレビ局にメールでもすればいい。興収を伸ばしたければ、自分で宣伝すればいい。僕らは、『マイマイ新子』のチラシを自分たちでデザインして、自分たちで刷って、手分けして街頭で配った。今は、もっと賢いやり方があるかも知れないじゃん?

あのね、「なんで世の中、こんなにつまんないんだ」って思ってるでしょ? 願い事だけネットに書いて、どうにもならないと嘆いているあなた方が、つまらなくしてるんだよ。「こうすれば、きっと好転するぞ」って動き出せば、誰かがリアクションしてくれる。反発はくらうだろうけど、反発もリアクションのうちなので。


いま、『RWBY』のことをTwitterで勝手に宣伝しているけど、「あんなもののどこが良いの?」「宣伝してるヤツは、本気で好きじゃないんだろ?」とか、いろいろ言われるわけ。
で、そういう人たちは、えんえんと「アレが気にいらない」「コレをどうにかしろ」って苛立っているばかりで、自分からは何ら建設的な発言はしない。ただひたすら、己の好奇心と行動力を鈍磨させたまま、文句をたれながら無駄死にしていくんですよ。

そういう嘆き癖のついた人たちを見かけると、僕は、ますますやる気が出てしまう。

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2016年12月 6日 (火)

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レンタルで、スペイン映画『マジカル・ガール』。
2700x393日本の魔法少女アニメが出てくる……と、話題になった映画だが、それはディテールにすぎない。ディテールにすぎないのだが、フックとしてはうまく機能している。映画には、確かに「魔法少女」が登場する。しかも、2人。
ビジュアル的に視認できる魔法少女と、文芸的な、暗喩としての魔法少女。その2人が、「魔法」を行使することによって、物語を起動させる。

宝石店を襲い、金品を奪おうと決意した男が、路上から石を拾う。その石で、夜中の宝石店のショーウィンドウを割ろうというわけだ。カメラは、ショーウィンドウの内側から、フィックスで男を撮っている。さあ、いよいよ石を振り上げてガラスを割るぞ……というタイミングで、男の頭上からオレンジ色の液体がまかれて、彼がギョッとしたところで、シーンは終わる。
そのオレンジ色の液体は、誰がまいたのか? しばらく説明がない。時系列をズラしながら、関係ないように思われたプロットが、少しずつ寄り合わされていく。離れていたカットとカットが、パズルのピースのように、ぴったりとはまる。
映画のファーストシーンで、数学教師が「たとえ言語が異なろうと、2+2は4だ。絶対の真理だ」と言う。実は、そのセリフがすべてを言い切っている。どうにも引き返せない、なるようにしかならないシチュエーションを、冷淡に見せる映画。かっちりした構成に、機能的なカメラワーク……。

きわめてニヒリスティックな映画だ。しかし、構成もカメラも、とてもよく計算されている。こういう映画は、好みとは関係なく、観ておいたほうが良い。
あと、衣装がいい。豪華というわけではなく、たとえヨレヨレの服でも、とても品のいい衣装を選んでいるので、そこも良かった。


昨夜は、『RWBY』のメインスタッフ(Kerry Shawcrossさん、Gray G. Haddockさん、Miles Lunaさん)を招いてのウェルカム・パーティ。実は今日、3人にインタビューすることになった。
なので、挨拶ぐらいすべきだと言われたのだが、すみません、途中で帰りました。日本の関係者の皆さんが原作スタッフと接するパーティなので、それに徹していただいたほうがいい。
それと、ひとつ文句がある。あれだけ大勢の「関係者」がいるのに、なぜ初日舞台挨拶の取材に来たのが、僕とアキバ総研の担当者、たった2人だけだったのだろう? 昨夜のパーティに来た人の一割でもいいから、応援にきてほしかった。
もし、パーティに来た人、ひとりと話すたびに、『RWBY』の観客がひとりずつ増えていくのだとしたら、僕は全員と話すよう、努力したと思う。とにかく、もっと『RWBY』にヒットしてほしい。僕は、興味を持ってくれそうな友だちに、公式動画のURLを教えて、見てもらえるようメールしている。

いつも思うことだけど、酒の席で、なあなあで知り合った相手のご機嫌をとりつつ、「今度、おもしろいことしましょうよ」なんて空虚な会話に加わる気は、僕にはさらさらありません。
昨夜のパーティに来た人たちの中には、キャラクター名すら知らない人がいた。悪いけど、会社に言われて、お仕事として来たんでしょ? そういう人と名刺交換して、なにか作品にプラスになること、ありますか?

僕は、日本語版声優の4人の方たちから、愛情のこもった素晴らしいお話を聞けたので、それを原稿にしました。本当は、もうこれ以上、『RWBY』のインタビューは載せられない。だけど、作品のためなら、無理をしましょう。僕のキャリアは、そのために積み上げてきたんですよ。「俺様は、○○監督にインタビューした、偉いライターです」といばるためじゃありません。
作品に、ちょっとでも貢献する。そのために、雑誌やウェブに記事を書いてきたんですよ。記事を売りこめる、取材を持ちかけられる、依頼してもらえるようにしてきたのは、作品のためでしょ?


『ゼーガペイン』もそう、『マイマイ新子と千年の魔法』もそうです。作品の質がいいのに、ヒットに恵まれない作品には、かならず理由があって、どこかでボタンをかけ違えています。
それを嘆いても仕方ないから、1ページでも、一文字でも多く、作品のことを書く。良さを伝える。書かせてもらえるよう、交渉する。そのための、僕の命でしょう。
それが、50歳にもなって、いまだアニメを好きでいつづけることの意味ですよ。

この世界に不満があるなら、不満を感じなくてすむように改善する。具体策を考える。
「良くしよう」としなければ、良くなりません。みんなが「良くしよう」と真剣に考えたら、この世界は豊かになると、僕は信じています。

Una producción de Aquí y Allí Films, España. Todos los derechos reservados ©

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2016年12月 4日 (日)

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昨日は『RWBY VOLUME3』上映初日、新宿ピカデリーにて舞台挨拶。なんと、取材に来たのは僕ら「アキバ総研」チームのみ。せっかく最前列を空けてあったのに、もったいない。
320そして、二度の舞台挨拶後、4人の主演声優さんにインタビュー。日笠陽子さんには、『惡の華』メイキングブックで取材したことはあったが、もともと声優さんの取材を避けてきた僕にとって、他の方たちは初対面。しかしまあ、4人の皆さん、あまりにも役を深く読みこんでらしたので、びっくり仰天した。あと、音響監督さんの役割も、はじめて声優さんの口から聞けた。
日本のアフレコは、世界にも類を見ない特殊技能。しかし、よい役との出会いこそが、その能力を育むのだと思う。『RWBY』には林原めぐみさんも出演したし、この作品が、一種のステイタスを築きつつあると思う。

そして、楽屋(スクリーン1のプラチナクラブカフェ。『ゼーガペインADP』のオールナイトでも控え室に使われていた)に、来日中のKerry Shawcross(監督/脚本)さん、Gray G.Haddock(共同監督/スーパーバイジングプロデューサー)さん、Miles Luna(共同監督/脚本)さんがいた。明日の夜、ウェルカム・パーティに呼ばれているのだが、何か話せるだろうか……。


取材があいつぎ、まったく映画を見れていないのだけど……。

新潟の小学校 担任、原発避難児を「菌」 いじめ相談後に発言

これが、日本なんだと思います。もし原発事故がなくて、児童が原発被災者でなくとも、この教師は、別の子供を蔑んでいたはずです。教師ってのは、そういう職業です。
小中学校の9年の間に、大人から自尊心を奪われたら、とりもどすのに何十年もかかります。で、自尊心が欠損したまま、社会で「男は男らしく」「女子力が落ちた」だの言われるから、蔑みの対象となる他人、弱者を探しはじめる。
痴漢をした男性が「自分が男であることを確かめたかった」と言い訳するのは、社会や教育に自尊心を奪われたのに、「男」であることを強要されている証拠だろうと思う。

他人を侮蔑したい人って、侮蔑するのが最優先目標なんですよ。
例えば「あいつは生活保護を受けているから叩こう!」と言っている人は、相手が仕事を見つけて生活保護を受けなくなっても「そんなのは仕事のうちに入らん!」と、叩きつづける。その、叩きたい衝動は「自尊心の欠損」にあるので、止めることができない。
ヘイトスピーチも性犯罪も、「相手を侮蔑することで、己の劣等感をうやむやにして、かりそめの全能感にひたる」ことが目的なんだと思います。


なので、ヘイトスピーチの中身や性犯罪の中身を、いくら細かく定義して罰しようとしても、根本的解決にならない。傷を見えなくしても、中身は化膿したままなので。
暴言や失言で炎上したあと、「誤解をまねく表現だった」「真意が伝わらなかった」「不適切だった」など、どうとでも受けとれる曖昧な理由で発言を削除し、差別意識や薄汚い優越感だけは温存される、あの空虚な図式と似ている。

子供の敵は、大人。味方だと思っていた子供も、いつの間にか成長して、どんどん敵になっていく。

(C)Rooster Teeth Productions, LLC.

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2016年11月28日 (月)

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アニメ業界ウォッチング第27回:プロデューサーという職業の抱える理想とジレンマ 松尾亮一郎インタビュー
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『この世界の片隅に』の制作プロデューサー、松尾亮一郎さんに取材しました。
『マイマイ新子と千年の魔法』で7年前に知り合いましたが、これまでの仕事歴や、仕事にたいする考え方をまとめて聞いたのは、今回が初になります。


レンタルで、友人から薦められた『最後の恋のはじめ方』と、『スリング・ブレイド』。
Mv5bmtq5mzg2odyxov5bml5banbnxkftztg殺人歴のある精神病患者を主人公にした  『スリング・ブレイド』は、なんとも言えない後味が残る映画だった。
アクション映画のようなタイトルだが、閑散としたアメリカ南部の町が舞台の静かなドラマ。
まず、閉鎖的な町の雰囲気に魅了される。主人公が仲良くなる少年が「ひとりになりたい時に来る」という沼にも、他人の深層意識をのぞきこむような、隠微な魅力がある。


それと、構図に絵心を感じる。ドラマを予感させる知的な構図で、必要以上にカットを割らない。
ファーストカットは病院の中で、患者たちが窓のほうを無言で見ている。ひとりの男が、椅子をひきずりながら、主人公の近くまで歩いていく。窓際で外を見ている主人公のアップ。隣に、男が座る。ロングからアップまで、ワンカットで撮っている。この静謐としたシーンの印象強さが、ラストカットで反復される。反復される理由は、映画を見てほしい。

途中、叙情的な音楽が多用されたり、善良なキャラクターが多く登場しすぎて、「精神病患者=純粋でいい人」風の甘ったるいドラマかと白けそうになるが、見終わったあとは、ちょっとイヤな気持ちになる。そのイヤさ加減が、ずっしりと心地よい。

冒頭、田舎町のしけたファストフード店の店員を、ジム・ジャームッシュが演じている。心憎いほど、気だるい、いい雰囲気を出している。どの役も、おもしろい俳優を連れてきているので、それだけでも得した気分になれた。


来年4月のオーストラリア旅行に向けて、ちょっとずつ準備をしている。
航空会社は格安な分、荷物の運搬費や機内食を有料にすることで、儲けを出そうとしている。6~7時間の飛行なら、食事は空港ですませたほうが絶対にいい。座席指定のために電話すると、さっそく800円の手数料をとられた。往復で1,600円だ。

11月の旅行では、飛行機の中で緊張して発汗してしまうのではないか……と、怖れた。
旅行直前まで、近所を歩いていても対人緊張のあまり腰痛になったり、夜中に不安感がこみあげてきて、体が緊張して足がつりそうになったりした。最悪の状態だった。
ところが、いざ空港についてしまうと、未知の場所へ旅立つ高揚感のため、緊張も不安も、ほとんど起きなかった。むしろ、日本に帰ってきてからのほうが、社会に対して圧迫感や不自由をおぼえる。日本には、嫉妬や近親憎悪が、うずまいている。誰もが誰かを責めたがっているというか……。

海外を通りすぎるだけの自分は、誰の目を気にするでもなく、欲求と目的がピタリと一致していた。自己肯定感に満ちていた。趣味だし休暇なんだから、ひとりで好きなように過ごして、楽しければそれでいい。人生全体を、趣味のように考えらないものだろうか。

(C)2000 Buena Vista Home Entertainment

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2016年11月24日 (木)

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モデルグラフィックス 12月号 明日発売
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●組まず語り第49夜
今回は、SMER社の“オーセベリ船”のキットです。
こういう、無味乾燥とした地味キットから、何とかして見どころを探しあてるのが、いちばん楽しいのかも知れない。「すずさん勝手に立体化計画」も、先月終了しておいて良かった……今月も連載があったら、「あの素晴らしい映画に対して、あまりにもチャチな連載」と、怒られそう。今月から、正常運転です。


友だちに自主映画の試写会に呼ばれた翌日、第7回三鷹コミュニティシネマ映画祭()。僕は、実行委員のドカン隊長から、片渕須直監督のトークショーの聞き手に指名されていた。
片渕監督の会場到着が16時で、その時間には打ち合わせが始まる。ということは、会場で『マイマイ新子と千年の魔法』は見ることができない。なので早朝、Blu-Rayで見ておいた。会場では、『アリーテ姫』のみ、35mmフィルムで見ることができた。

今までのトークショーは、自分で企画したり、いつも話している仲間と盛り上がって、ワンフェスやマチアソビで計画性もなく話してきたものばかり。今回は、ボランティアのスタッフの方たちがお茶を淹れてくださったり、ゲスト待遇なので、戸惑う。徒歩数分のところにある会場で、僕も客として行ったことはあるけど、まさかスタッフの皆さんが、こうまでしっかりしているとは思わず、何だか恥ずかしい気持ちになった。

片渕監督と一緒に、『マイマイ新子と千年の魔法』の岩瀬智彦プロデューサー、『この世界の片隅に』でも宣伝を担当している山本和弘さんも見えられて、時間が7年前に巻き戻ったような感覚になる。


トークの内容は、先月、実行委員会の方たちと綿密に話して決めてあったが、前夜、ドカン隊長から「声優のたちばなことねさんがお客さんとして来るので、飛び入り参加してもらいましょう」とメールがきて、とにかく40分以内に話を進めるのが、精一杯であった。
終盤ちかく、片渕監督が「『この世界の片隅に』のクラウドファンティングの原型は、『マイマイ新子』の署名活動がベースにある」とおっしゃって、面食らった。もちろん、その場では笑顔で返したが、自分から署名活動の話だけは、決してすまいと思っていた。

七年前の自分の未熟さ、粗暴さが想起されて、悲鳴が出そうになるからだ。
むしろ、劇場に直接交渉したり、貯金を切り崩してポスターを刷ったり、映画上映に携わったことのほうが実りある活動だったと思っている。僕だけではなく、全国で自主的に活動された方たちが『マイマイ新子』を延命させた(そういえば当時、浜松で劇場に働きかけた方が会場に見えられて、7年たって、初めてお会いできたのであった)。
劇場やイベントでの上映が増えつづけて、もう自分では追いきれなくなったし、追うのもやめた。いま、『この世界の片隅に』を誉めるさいの枕詞のように、『マイマイ新子』の名前が挙がる。DVDがレンタル店に並んだことも大きいのだろうが、どこの誰が見ているのか分からないぐらい、広く拡散する状態を望んでいた。いつまでも、熱烈なファンのみが中核にいる状態は、僕は好きではない。
これからも永遠に増えつづけるであろう、世界中の鑑賞者全員が、映画に命の薪をくべつづける。


どんな貧しい興行状態で上映された無名の映画でも、未来永劫、誰にでも鑑賞するチャンスが与えられている――その即応可能なアイドリング状態こそが、文化なのだと思う。
特定の映画タイトルを挙げて、ことあるたびに「歴史に残るクソ映画」などと決めつけている人を見ると、「何も分かってねえな」と苦笑してしまう。「クソ映画」なる評価は、いつでも誰かによって覆される可能性がある。その可能性を考慮しない、他人の秘めた未知の評価軸を尊重しない人間は、文化に見離されている。「好き/嫌い」「快/不快」といった曖昧な、動物的感覚の中で一生を終えるのだと思う。

ちょっとでも自分の気にいらない感想に出会うと、「本当は見ていないんだろう」と検証をはじめる人がいるが、それは自分を牢屋にとじこめることだ。
☆5点評価、百点満点評価など、分かりやすく目に見えやすい評価に固着すればするほど、自分の身動きがとれなくなっていく。
映画は、無限に解放されている。風のように自由でなければ、未知なる映画と出会うことはできない。変化の可能性に自分を泳がせておかねば、自らの価値観や美意識は、決してアップデートされない。


昨夜は「第7回三鷹コミュニティシネマ映画祭」の最終日だったので、イベント後、打ち上げImg_9792 パーティが催された。片渕監督はネットテレビに生出演するとのことで、サイン会を終えて、スタジオに向かった。打ち上げには、飛び入りでステージに登壇していただいた、たちばなことねさんが参加された。
帰り際、ドカン隊長が建物の出口まで送ってくれた。今はなき吉祥寺バウスシアターで『マイマイ新子』を上映していたときも、深夜に酔っ払って、ドカン隊長にタクシーに押しこめてもらったものだった。

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2016年11月22日 (火)

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昨日は、『RWBY VOLUME 3』日本語版のマスコミ試写。
今回は180分もあるので、ワーナー・ブラザースさんから案内をもらったときは「トイレ休憩をはさんでください」と、割とまじめにお願いした。だが、その必要はなかった。今回ばかりは、トイレに行っているヒマなどなかった。

軽い気持ちで試写会に行った『RWBY』に、涙するほど恋してしまい、強引に日本語演出の打越領一さんに取材を申し込んで、一年が経過した()。
『VOLUME 2』以降の日本語版は、実はすっかりあきらめていた。僕の交友範囲がせまいせいもあるだろうけど、『RWBY』を見た、面白い、ハマっているといった声は、ただの一度も聞かなかったから。では、どう面白さを伝えればいいのか、僕は言葉をもたなかった。

先月、上映・発売された『RWBY VOLUME 2』はアクションに脂がのって、ゴージャスで軽快なRwby_vol_3_soundtrack_art印象だった。今回の『VOLUME 3』は、原作・監督、そしてアクションを一手に引き受けていた創造主モンティ・オウム氏が「クリエイト・脚本」でしか、クレジットされていない。彼は昨年2月に亡くなってしまったから。

なので、「おそらく、いちばん面白いのは『VOLUME 2』であって、『VOLUME 3』は小粒な出来なのではないか」と、勝手に思い込んでいた。ところが、とんでもない。
『VOLUME 3』は、『スター・ウォーズ』でいえば『帝国の逆襲』。味方側の策はことごとく敵に利用され、仲間たちは傷つき、倒れ、ちりぢりになってしまう。ひとつひとつのアクションが今後の展開を左右するため、ずっしりと重たい。キャラクターひとりひとりが深く彫りこまれ、しかし陰鬱になることなく、逆境の中、沈黙していたキャラクターたちが、武器を手に立ちあがりはじめる。


『RWBY』の面白さは、『ジャイアント・ロボ 地球が静止する日』に通じる。
登場人物は、ほぼ全員が超能力者で、それぞれ得意技をもっている。主人公の上位には、かつて歴戦の勇士として名をはせた大人たちが位置している。今回、主人公のルビーの才能を見出したオズピン学長が、悪化していく事態のなかで、ついに武器を手にする。『ジャイアント・ロボ』でいえば、中条長官がひとりで大怪球に立ち向かうシーンだ。
絶体絶命の窮地に、いちばん戦いそうもない年長者が、あまりにも予想外かつ勇敢なスタイルで戦いに参加する……「熱い展開」ってやつです。「よくある」「お約束」と言ってもいい。だけど、この活劇が雪だるま式にスケールアップしていく高濃度な展開を、大手エンタメではまるっきり見かけなくなった。『RWBY』だけが着々と、シリーズ物の「お約束」を活用・発展させている。物語の濃度が「絵」に力をあたえ、以前とはさほど変わっていないはずのアクションが急速に重さを獲得していく……あいかわらず、「テーマ」はない。勧善懲悪だ。でも、だからこそ「展開」の強度が増す。

この面白さを、『RWBY』のファンのみが満喫しているとしたら、それはとてつもない喪失だと思う。この100倍、1000倍の予算をかけたハリウッドの超大作シリーズが出来ていないことを、四方八方からアイデアを尽くして実践しているというのに。
僕は『RWBY』のファンとしては、かなり薄いほう。だからこそ、「まったく見たことがない」人たちと、どうにかしてこの芳醇な果実を分かち合いたいと焦っている。
(C)2016 Rooster Teeth Productions, LLC.

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2016年11月21日 (月)

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レンタルで、スタニスワフ・レム原作の『コングレス未来学会議』。
Congress_main_large監督が、『戦場でワルツを』のアリ・フォルマンなので覚悟はすべきだったが、途中からアニメになったまま進行し、最後にまた実写に戻る。
アニメ・パートは「精神展開薬による幻覚」とされており、なかなかドラッギーで面白い表現。ただ、「おっ」と思わせられたのは、実写パートで主人公の子供が凧をあげているシーン。彼は、飛行場の近くで凧をあげて、その空に飛行機がフレーム・インする絶妙のタイミングを目撃しようとしている。
その「理想の映像を肉眼で見たい」欲求が、映画全体を修飾語のように包含しており、だから、アニメになっても面食らわずにすむ。

『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』のハーヴェイ・カイテルが、やせ細った老人の姿で出演し、それでも、歳に似合わぬ野太い迫力をかもし出していた。


悩んでいても仕方ないので、安いうちにオーストラリア・ケアンズ行きの航空券を買った。日本からの直通便、往復で6万円ちょっと。楽だし、安い。来年4月。

そのことを友だちにメールしたら、「オーストラリアへ行くなら、このサイトを見ておけ! これを知らないばかりに、家族行きのオーストラリア旅行がフイになったんだぞ!」と返事がきて、リンクが貼ってあった。
オーストラリアへ旅行する場合、ETASという簡易ビザを申請しておかねばならない。短期間の観光でも、必ず。この前のアルゼンチン行きで、僕が知らなかったESTA(電子渡航認証システム)に匹敵する罠が、しかけられていたのだ。

航空会社からも連絡が来ていたので、オーストラリア大使館ホームページで、ETASを申請しておいた。
印象としては、ESTAより面倒(旅行記に書いたように、ESTAの申請はデルタ航空の社員が代行してくれたのを、後ろから見ているだけだったんだけど、明らかに記入事項が多い)。
だけど、分からない英語はドラッグして検索するか、翻訳サイトで訳せば解読可能。本当に、便利な時代に海外旅行を始めたものだ。


そのオーストラリアのケアンズだが、友だちは正月に家族旅行するとのこと。
そうだよな……治安はいいし、高山列車やロープウェイ、日本語ガイド付きツアーはあるし……なんか、俺には向いてない、賑やかな場所なのかも。俺は「ハゲ、ヒゲ、メガネの中年アジア人」として旅行に行きたいのであって、旅先で日本人観光客に会うのは、まったく嬉しくない。「廣田恵介」であることを、やめるために行くので。

旅行の計画は、5ヶ月かけて練るとして、早くもプエルト・イグアスの街が恋しくなってきた。
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この、せっかく世界遺産の巨大な滝があるのに、町全体が観光にもたれかかってなくて、あまり器用でない感じ。夕方になると、物売りの子供、ジャグリングで小銭をかせぐ若者たちが路上にポツポツと現れる、うらぶれた雰囲気。ウド編かと思ったよ(イグアスの滝を遊覧ボートで遡行すると、クメン編)。
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中央広場でやっていた、この謎ダンスとかさ……撮った当時は、汗だくでバス・ターミナルを探していたので、たいして気にもとめなかった。一応、いくつか学校もあって、生活用品を売る地味な小売店もあって。だけど、退屈そうに路上に座りこんでいる親子が何組もいたりして、一体どういう暮らしをしてるんだろう?と、想像が向かう。
あの倦怠感が、じわりと味わいに転化していく。こうして、旅行で見たなんでもない風景が内在化されるというか、自分の血肉、いや贅肉として、僕の体重に加算されていくんだろうな。

(C)2013 Bridgit Folman Film Gang, Pandora Film, Entre Chien et Loup, Paul Thiltges Distributions, Opus Film, ARP

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2016年11月19日 (土)

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旅行から帰って見た映画は、ジャン=ピエール・ジュネ監督『ロング・エンゲージメント』、ロバート・ゼメキス監督『ザ・ウォーク』。
Thewalk1024x585後者は、ワールド・トレード・センターの間を綱渡りした大道芸人、フィリップ・プティのプロジェクトの、仲間集めから計画遂行までを淡々と記録した異色作。どれぐらい異色かというと、『ウィークエンダー』の再現ドラマかと思うほど。プロジェクトの準備をして、成功したところでバスンと終わる。ちょっとキスシーンがあるだけで、余計な人間ドラマは皆無といっていい。
まずは、そのソリッドな構成にしびれる。フィリップ・プティ役のジョゼフ・ゴードン=レヴィットが、画面に向かって終始、「俺はこのとき、こんな気持ちだったよ」と解説を入れる、ミもフタもない演出もいい。膨大なナレーションは、映画から物語を駆逐し、「綱渡り」の表現そのものだけを残そうと積極的になる。

事実、ついに地上417メートルで第一歩を踏み出すシーンでは、周囲の風景が消えてしまう。CGで作っているのだから当たり前のようだけど、1910~20年代のサイレント映画に逆行していくような面白さがある。映画が、大道芸と深く結びついていた時代へ。まるで、ハロルド・ロイドの映画みたいだよ。
『ザ・ウォーク』は、映画を見世物小屋の中へ、おごそかに返還しようとする。すべからく、映画を包囲していた物語性や文芸性は、霧のように消え失せていく。ただ、「高層ビルの間を綱渡りするハラハラドキドキ」だけが残される……とても爽快だ。


機内上映で見た映画は、『ファインディング・ドリー』『ゴーストバスターズ』(2016年版)『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』など。日本語吹き替えや英語のみ、あるいは音声なしで……10本近く見たはずなのに、忘れてしまった。

来年日本で公開予定の『Monkey King: Hero is Back』(西遊記 ヒーロー・イズ・バック)を、字幕ナシながら、すべて見られた。機内の小さな画面で見ても、「おーっ」とため息が出てしまう。
期待以上にすごいクオリティだったので、帰国してから海外版ブルーレイを買おうと思ったら、なんとDVDしか発売されていない。


時差ボケでもないのだろうが、夜中に目が覚めたり、午前中にフラリと眠ってしまったりしながら、次の旅行のことを考えている。「この辺りへ飛んでみようか?」と思いはじめた矢先、航空券が数万円で売られていて、焦る。値上がりしないうちに、入手してしまうべきなのか……。

僕は、旅行しているときの自分なら肯定できる。いつも、「何時までにここへ向かわねばならない」と、ミッションが決まっているから。遅れそうなら焦るし、余裕があるなら、ジュースかビールを飲んで、ぼんやりしている(それでも、次の行動はつねに決まっている)。
ミッションに追われているから、対人緊張しているヒマなどない。全身運動である水泳をしている間、うつ状態から脱せられるという話に、ちょっと似ている。

「我にかえる」という瞬間が、ほとんどない。なので、船に乗りたいと思ったら、「乗りたい!」「なんとかして乗る手段はないのか!」と、貪欲になる。「恥ずかしい」「みっともない」などと、自分を振り返ることがない。
確かに、「このお店は入りづらい」とか「こんな物を買ったらバカと思われるのでは」と躊躇するし、「うまく話が通じなかったら、どうしようか」と思案はする。でもね、日本の暮らしの中にいると、そうした戸惑いが何十倍ものダメージとして心に残る。ストレスも対人緊張も、環境が生み出しているんだ。

20代のころ、友だちが噛みしめるように呟いた。「人生が点ではなく、線になってしまうのが怖いのよ……」。「怖い」ではなく「つまらない」だったかも知れないが、あの言葉は真理をついていた。
(C)2016 Sony Pictures Entertainment (Japan) Inc. All rights reserved.

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2016年11月16日 (水)

■1116■

EX大衆 12月号 発売中
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●機動戦士ガンダム THE ORIGIN モビルスーツ・ヒストリー
記事の構成・執筆と、主題歌の森口博子さんにインタビューしました。
森口さんは同い年ですが、おおらかでキラキラしていて、本当に素敵だった。『ゼーガペインADP』の仕事でも、新居昭乃さんにインタビューできたのが嬉しかった。試写会で再会できて、なおさら嬉しかった。
やっぱり、同世代以上でステージに立っているような女性に、ドキドキします。

あと、今度の『THE ORIGIN』は月面でのモビルスーツ戦が傑出した出来ばえなので、いままで敬遠していた人も見てほしいですね。宇宙を飛ばず、月面の6分の1重力下で重々しい戦闘をしているので。


昨夜は、横浜STスポットにて、劇団ロロの『すれちがう、渡り廊下の距離って』。こんな小さな小屋での演劇は、本当に久々だ。
Web登場人物は、わずか4人。そのうちひとりが、映画『転校生』の話をする。男女がいれかわる、アレである。『転校生』のアイデアが、大きな伏線になっている。登場人物のひとりは映画の撮影をするために待ち合わせしているが、友だちは現れない。代わりに、通りかかった女生徒が「私が映画に出てあげる」と、代役を申しでる。
もうひとつは、男同士のストーリーだ。片方が、ケンカした彼女にメッセージを託す。その彼女は、舞台には登場しない。メッセージをあずかった男が戻ってきて、彼女の言葉をそのまま反復する。
つまり、舞台の外側に不在の男と女がいて、それぞれ実在の女と男が、性別を逆転しながら代役を演じる。演劇の中に、さらに劇を懐胎させる多層構造になっている。劇中劇より、もっとプリミティブな試みだ。

明らかにその場にいない人物を、その場にいる役者が演じる。「演じられている」とは、すなわち「存在しない」ことの証。存在しないからこそ、演じることによって「仮に存在させる」しかないのだ――その演劇の原理を強調すると、演劇それ自体が空疎化される。というより、演劇が内側から瓦解し、意味を失ってしまうのである。とてもエキサイティングな作品のはずなのだが、大量の笑えないギャグが、せっかくの試みを台無しにしている。
こういう小スケールの演劇は、観客と一緒に笑えればOKという雰囲気があり、僕はそれが苦手だ。だけど、もっと演劇に行く頻度を高めようは思っている。


『この世界の片隅に』、立川シネマシティにて。関係者試写では細部が未完成だったそうなので、これでようやく本物を目にしたことになる。
640六割ぐらいの入りの客席では、大きないびきが聞こえ、それでも最後には拍手が起きた。
そして、この映画の真骨頂は、やはり悲劇が起きてからの後半なのだと確信した。僕は、原作に出てくる原爆の被災者は出さないですませるのではないか? 出すとしても表現を控えめにする(シルエットにするとか)のではないか?と、勝手に思っていた。そうではなかった。

この映画で、すずは原爆には遭わない。僕たちは原爆どころか、戦争を体験していない。そこに罪悪感が生じる。すずの生活を「普通の暮らし」と言えば言うほど、僕は後ろめたい気持ちになる。
すずは絵を描く自由を、世界にアクセスする資格を、一時的に失った。だが、同じように右手を失った母親から、晴美そっくりの子を引き継ぐことで、彼女は罪悪感から逃れたのだと思う。そして、僕らには罪悪感を背負わせたまま、映画は幕を閉じる。「まだ、あなたはツケを払っていない」と言われたような宙吊りの気持ちのまま、席を立たねばならない。僕も拍手したけど、拍手ですら、なんだか安っぽい免罪符のように感じてしまう。
「よかった」ですまそうとしている自分を、いやしいと思う。「よかった」でなければ「よくなかった」「悪かった」ではないことは、この映画を見た人なら分かると思う。

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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2016年11月14日 (月)

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ホビー業界インサイド第17回:羊毛フェルトで作る“異素材”美少女フィギュアの魅力 土方クロネ・インタビュー
T640_715209_3土方クロネさんの作品を初めて拝見したのは、Twitterだったと思います。羊毛フェルトという素材から「人形」にカテゴリー分けされがちなところを、あえて「フィギュア」の文脈からとらえると、かえって「フィギュア」の概念が拡大するような面白さがあります。

【懐かしアニメ回顧録第24回】「アリーテ姫」の提示する、「線と色」で構成された魔法の価値
例によって、「画面に何が映っているか」を整理するところから始めています。
「自分が何を見たのか」を検証することなく、いきなりテーマやストーリーといった抽象概念から話を始めることは、僕には怖くてできません。


『この世界の片隅に』を見にいった方たちの感想が、たくさんTwitterにアップされていて、ようやく「なるほど」と思える、実感のこもった声が聞こえてきた。

やっぱり、「泣けて泣けて」「ひとりでも多くの人に」という綺麗ごとでは、何も伝わらない。「普通の暮らし」を描いているから感動する……も、小市民ぶりを武器にした言い回しに引いてしまう人がいるのではないか、と危惧していた。
「泣けはしなかった」「金かえせ」「苦手なシーンがあった」という人がいて、ようやく映画がひとりひとり別々の価値観をもった人間の手に渡ったんだな……と、実感できた。
実際、凄惨なシーンあれば、グロテスクな表現もある。それを「ほのぼのした日常」でくるんでしまうところに、この作品の胆力、ちょっとした意地の悪さも潜んでいる。シュールな表現もあって、その難解さも含めて「面白い」「興味深い」と感じているので、おいそれと「感動した」とは言えない。

ともあれ、プロデューサーさん、宣伝担当の方に語った「興行収入のベスト10には入ってほしい」という、僕の勝手な希望は叶えられた。


「ネタバレ」って言葉が意地汚いのって、「ポリティカル・コレクトネスに配慮しました」に通じる、「本音を隠して良識を貫きました」風のウソくさい品行方正さを感じるからだな。「ネタバレになるから書かない」ではなく、(映画の価値を減じると判断したのであれば)最初から黙って、何も書かなければいいんじゃないの? 

逆に、どうしても書きたいと思ったら、素直に書けばいいのであって、映画の価値をスポイルするような「ネタ」を自分はにぎっていて、それを「バラ」さないでおいてやるよ、あるいは「バラ」してしまったから気をつけろよ(ようするに、俺様は他人の楽しみを台無しにし、映画から見る価値を奪い去るだけの力を有しているんだよ)……なんてゲスなこと、よく言えたものだ。

『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のラストシーンなんて、主人公とヒロインが眠っている横でラジオが鳴っているだけだから、何がどうなったと明確に言えない。だけど、「ラストは、2人がラジオを聴きながら眠っている」と書いたら、ネタバレになるの?
よくよく調べると、ラジオから流れるサッカーの試合には、歴史的意味があるんだそうです。それを知っても、特に何がどう変わるわけではない。あるいは、その意味を映画にからめて、ラストの見え方がガラリと変わる日が来るのかも知れない。
それよりも、僕は少年のふりをしていたヒロインが、最後にスカートを履いてしまったのが勿体ないというか惜しくてね。だからといって、それを言葉で聞かされても、「ふーん」としか思えない。最後にスカートを履くんだよな……と分かっていても、ヒロインの魅力は損なわれないし。
映画に「ネタ」があるとしても、それは人によって違うんですよ、という話です。


友人と飲んでいて、「次の『スター・ウォーズ』には、ゲイのキャラクターが登場するのかな?」という話になった。確か、オーランドの銃乱射事件にからめて、署名活動も行われていたよね。『スター・ウォーズ』は、いまやポリ・コレのゴミ箱だよ。

どうしてもゲイを出したければ出せばいいし、ゲイを出して面白くなるなら出せばいいだけの話で、「ゲイを出させねば中立とは言えない」と考えた瞬間、作品は灰色になる。

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