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メカデザイナーズサミットVOL.08 3月21日(土曜日)14:00~16:00(
Lettaariapresentfin
上記のとおり、私が司会進行を務めさせていただきます。昨年、トークイベント【模型言論プラモデガタリ】を続けていて、ちゃんと認めてくださる方がいらっしゃった。嬉しいことです。


『宇崎ちゃんは遊びたい!』のポスターを環境型セクハラだと批判した次は、『ラブライブ!サンシャイン!!』のJAなんすん(南駿農業協同組合)とのコラボが、標的になっているという()。例によってTwitterの中での罵りあいで、キャンペーン自体は上手く進んでいるようです。だって、違法行為じゃないもん。
「気持ち悪い」「けしからん」「性的搾取だ」とWEBサービスの安全圏から喚いてないで、現行法の中で訴訟を起こすなりして、正々堂々、公平に戦ってください(「欧米では違法です」って誇らしげな意見が散見されるけど、日本国内では合法なので無意味です)。
でも、そこまで本気じゃないんでしょ? SNSの中で暴言を吐いて、リスクを背負わないまま鬱憤ばらししたいだけなんでしょ? だから、「ネトウヨ」同様、「ツイフェミ」なんて呼ばれてしまうんだよ。


ただ、ちょっと引っかかったのは、みせばや総合法律事務所代表(第一東京弁護士会)の岸本学弁護士のツイート。

この類いのイラスト、男性にとっては「罠」だと思うよ。
こういうのに浸っていると、現実の女性とのコミュニケーションとれなくなる。
現実の女性はこんな表情でこんな風にスカートをはかない。
間違った幻想を持って女性に接してもキモがられる。
二次元の女性なら受け入れてくれてると思い込む。

おそらく、現実女性との十分な交際・同居経験が無いまま、二次元で代償させることを続けていると、40才を過ぎた辺りから修正がとても難しくなると思う。
そうなればそのまま50代、60代へ。
親族からも男友達からも相手にされなくなる。
ま、そいつらの人生なんて、知ったこっちゃないがね。

アニメのイラストに浸っていると、現実の女性とコミュニケーションできなくなり、親族からも男友達からも相手にされないまま、60代になるそうだけど、それで何か問題あるんですかね。交際だけでなく、同居もしないといけないの? なんで?
二次元の美少女キャラで満足して、生身の女性と一切交流がなくても、それで幸せなら誰にも文句を言われる筋合いないでしょ? ゲームや小説のイケメンたちに惚れこんでる女性は、生身の男と同居しないといけないの? 幸せなんて、人それぞれでしょ? なあ、基本的人権を尊重すべき弁護士さんよ。 

この岸本学さんも、シュナムルさんや勝部元気さんと同じく、「俺だけは女性の味方!」「だって俺はキモオタや性犯罪者を憎んでるもん!」「とにかく女性の味方です!」という免罪符にすがっている。
「男性である以上、自分も性加害しないとは限らない」「自分も不勉強だし、何か間違っているかも知れない」というリスクを背負ってこそ、「それでも僕を信じてほしい」と、初めて言えるのではないですか? 「自分だけは潔癖、絶対に加害者にならない」ことを前提にしているのは、ようはビクついてるんですよ。
「そんなこと言ったって、アンタだってチンポコと金玉のあるジャップオスじゃん」と、もし女性に言われたら、彼らはそのダメージに耐えられない。


僕が初めてエロ漫画を目撃したのは……、小学校二年のとき。少年誌に載っている漫画で、女の子キャラのおっぱいから汚いオヤジが乳絞りするという、すごい内容だった(題名は覚えてない)。
家に帰ってから、その漫画を必死に思い出して、ノートに再現した。そのノートを友達に見られてしまったとき、「俺が描いたんじゃないよ」「あんな漫画は嫌いだよ」と必死に言い訳した。友達は「恥ずかしいから、そんなこと言ってるんだよね」と、苦笑いしていた。小学二年生でも、性欲はちゃんとある。自分が何に興奮したのか隠し通したい、羞恥心もある。

中学になると、二歳年上の兄が、ベッドの下に漫画雑誌「エロトピア」を隠していた。
たまたま発見した僕は「恥ずかしい、汚らしい」「家の外に、捨ててこい!」と怒鳴った。兄は「ハイハイ、分かりましたよ」と苦笑しながら、捨てずに密かにエロトピアを隠し持っていった。再びエロトピアを発見した僕は、夢中で読みふけった。今でもセリフやコマ割りを覚えているぐらい。
ようするに、清い性欲も汚い性欲もなく、興奮した対象に向かって、何はともあれ「汚らわしい!」と言ってしまう矛盾を、男は抱え込んでいるのではないだろうか。本心ではエロ漫画に魅了され、心ゆくまで楽しみたい。そのくせ、兄弟や学友の前では、エロ漫画は不道徳な悪いものと断じる。卑怯だよね。そういう狡さを、僕らは持っている。

そもそも、セックス、性交が矛盾をはらんでいるよね。筒井康隆が書いていたけど、こんなにも神聖で、こんなにもエゲつなく汚らしい行為はない。
異性の肉体に欲望を感じねば、セックスはできない。ボーヴォワールが書いたように「裸でとっくみあう、二匹の獣」にならないと、生命は生まれない。両親がセックスして自分を生んだのだと知ったときの幻滅を、覚えているだろうか?
でも、その受け入れがたい、心が引き裂かれるような矛盾、清さと汚さを何とか飲み下すのが人間だ。自己嫌悪にさいなまれながら、それでもしぶとく生きていくのが人間だ。僕は、そう信じている。


その矛盾の中で、理想や欲望を投影できる二次元少女に惹かれたり、美しい恋愛だけを描いたゲームに救われたりすることが、どうも岸本学さんにとっては「代償」らしい。人間の欲望の複雑さを受け入れる度量がないから、「現実女性との十分な交際・同居経験」を優越感の道具にしか使えない。
シュナムルさんや勝部元気さんも似たり寄ったりで、「俺はモテる」「俺には妻子がある」ことが、幼稚な優越感の域を出ない。……まあ、その幼稚なエエカッコしいが彼らの可愛らしさでもあり、不思議な魅力でもあるんだけどね。
勝部さんが、かつて自分を「体液フェチ」とか変態アピールしていた事実()、シュナムルさんが『魔方陣グルグル』の幼女キャラ好きを露呈したとき()、とても人間性を感じた。変態だけど、性差別・性暴力は許さない。二次元キャラ好きだけど、性差別・性暴力は許さない。その方が説得力が感じられるのに。

そして、岸本学さんも、何かを隠している。
こうして過剰に他人を侮蔑して、横柄な口をきく人は「私は劣等感に苛まれています」「実は、器が小さく自信がないんです」と告白しているようなものだ。本当に満たされて、本当に自信のある人は、他人を尊重して丁寧に接するだろう。
海外在住、外資系勤務を理由に威張っている人も、ぜんぶ岸本さんと同類。劣等感を裏返した薄っぺらい優越感にもたれかかっているから、「お前は英語できるのか?」など、簡単に人を罵倒する。


それにしても、アニメやゲームが好きで、異性と交流がない人を、こうも踏みにじってよいものだろうか?

僕は離婚して以降の恋愛では、かなり痛い思いをしたし、異性とは距離をおいた方が幸せだ。面倒な親戚づきあいも、母の死によって霧散した。ひとりで生きることが楽しい。それではいけないのだろうか? 対人恐怖症で、とくに女性に対して緊張しながら生きているが、そんなに恥ずかしいことなのか? 充実した仕事によって自己実現できている。いい仕事仲間に恵まれている。
確かに女性からはモテないし、無残な失恋もした。だが、その痛みや悔しさは僕だけのもの。僕は、そこから再生するしかない。他人がほじくり返していい傷ではないのだ。

たとえ無職で、異性との交流がなくても、たとえお金がなくて毎日することがなくても、もし借金まみれのヤク中であっても、僕の思ってもみなかった幸せな人生を歩いている人は、きっといる。僕はそうした他人の価値観を、邪魔しないように生きたい。

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2020年2月11日 (火)

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昨日は、半日まるまるスタジオにこもって撮影で、体調が今ひとつなのにどうなることかと思ったが、照明の熱で体が温まり、思う存分にディレクションすることが出来た。
撮影のとき、僕は意図を端的かつ明確に伝え、良い悪いのジャッジを即座に下す。カメラマンさんが「結局どうしたいの?」「いいのか悪いのか、どっちなの?」と、ストレスを感じないように。そして、素材は多めに押さえておく。後からページをつくるとき、困らないように。
常に、次の工程を考えておく。素材が足りないなら足りないで、ではレイアウトで密度を出したらどうか? コラムを入れて、読ませる記事にしてはどうだろう? そんなことも、撮影の間に考えている。

ちょっと引いた位置から見ていると、最終イメージを決めずにその場の思いつきでジャッジして、後から困るパターンが珍しくないような気がする。
「最終イメージを持つ」とは、すなわち理想があるということだ。僕の場合で言えば、「このプラモデルは素晴らしいので、みんなに知ってもらいたい」「このアニメ作品は、取材して記事にする価値がある」、そのためにはどんな形が最適なのかを考える。それは、「少しでも世の中が豊かになるように」という思いがあるからだ。その思いは、どこからともなくやってきたのではない。若い頃に深刻な挫折や無駄な苦労を味わってきたから、いま、心の底からの確信として言葉に出来るのだ。
しかし、理想を実現するどころが、スタートラインにすら立てない人が、世の中の大半なのではないかと思う。


いい素材が手に入り、時間も思うままだ。あとは一人だけの作業なので、深夜にやってもいいし、朝早くやって、昼間は遊んでいてもいい。「すみません、明日朝イチで!」「なる早で!」などというバカな仕事から距離を置いても食えるように執拗に調整を繰り返した結果、こうして「自由な自分の時間」を持てた。「とにかく寝ないで作業していれば、いずれ終わるだろう」という、濁った水槽から脱け出せたから言えるのだ。
多くの人は、締め切りギリギリに動きはじめて、結局いつものようにバタバタで時間切れになり、「また駄目でした」「もう最悪です」と常套句を繰り返す。仕事の出来ない人は「えー、今回も酷いスケジュールでして……」と切り出す。そうなってしまう原因を突き止めて、根絶しようなどとは考えない。

だが、彼らのせいだけとは言い切れない。
中学校になると、中間テストと期末テストが訪れ、その間につめこむように勉強するスタイルを、僕たちは強いられる。日本人特有の「一夜漬け」「徹夜」文化を、定期テストで刷り込まれる。一種の洗脳だ。この時期、僕たちは「ギリギリで時間がない」「だけど徹夜して頑張った」という美意識を植えつけられる。「もう諦める」「駄目だったけど次がんばる」などの、くだらない根性論、しょせん本気ではない内容空疎な「やる気」もセットで。
14~16歳ぐらいは身体能力も高く、感受性も強い。そんな時期に「どれほど重要なのか自分にもよく分からない定期テストという課題」に向けて、「死ぬ気で頑張る」「間に合わなければ諦める」姿勢を覚えこんでしまう。
そして、周囲の顔色を気にする。隣の席が試験開始ぎりぎりまで参考書を開いていたら、自分にはそんな必要はないと心では思っているのに、同じように参考書を開くポーズをとる。同調圧力に屈していく。「思っていても口に出してはいけない」と、覚えこまされる。


日本の会社は、朝9時に一斉に始業する。だから、通勤電車がすさまじい混雑になってしまう。
なぜか、昼休みも12時から一斉にとる。必然的に飲食店が行列になってしまうのに、やめようとしない。こうして、「みんな」でイライラを蓄積して、「みんな」で耐えて一生を終える。「みんな」が見かけだけ取り繕うために、自分自身には無益なことを努力目標にするのは、小学校の組体操から始まっている。あれを美しい、と心のどこかで思いつづけている。

僕は打ち合わせや取材がないかぎり、毎日好きな時間に起きる。好きな時間に仕事して、二回ぐらい仮眠する。満員電車とは無縁の暮らしだ。
「ずるい」と思っただろうか? 原稿料のみで成り立っている暮らしなので、自尊心がある。
誰しもがこんな風に、自分の得意なことだけを生かしながら、楽しく毎日を過ごせれば、社会を建設的な方向へ改善できるんじゃないかと考えている。まずは「私は私、他人は他人」、この自尊心を獲得することだろう。

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2020年2月 9日 (日)

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アンの生きる現実は、空想を使わないと描写できない――。「赤毛のアン」第12話を見る【懐かしアニメ回顧録第63回】
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アニメーションは、線と色の面で描かれた絵を「現実だと思ってもらう」表現です。その「現実」の中に本物ではない「空想」が混入したとしても、やはり線と色の面で描く以外に方法はありません。『赤毛のアン』第12話は、そのアニメーションの不便さと約束事を逆手にとったエピソードなのです。
空想の中のアンは、現実には持っていない白いドレスを着ていますが、それは空想である証拠とはなりません。なぜなら、『赤毛のアン』ではアンの想像物すら、線と色の面で分け隔てなく描いてきたからです。それを知っている視聴者は、アンの想像の中に現実が織り込まれているであろうと類推して、ドキドキするわけです。原作小説は完全な会話劇なので、アニメとはまた別の種類のサスペンスを、読者は体験することになります。


インフルエンザが回復してすぐ、『お熱いのがお好き』を借りてきたら、すごく面白かった。しかし、この作品は2017年にいちど観ていた()。
売れない音楽家のコンビが、女性だけの楽団にまぎれこむ。寝台列車の中で、女たちを集めた酒盛りが始まる。狭いベッドから、女たちのなまめかしい足がニョッキリと飛び出しているのを、後ろから撮っている。これは酒宴が行われていることの説明ではなく、何か言葉にしづらい、異様な状況だけが引き起こす“美しさ”なのだと思う。
その足だらけのワンカットが入ることで、独特の艶かしさがシーンに加わるのだ。

翌日、同じビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』を借りてきた。
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この作品はミュージカルとして舞台化されているぐらいだから、映画独特のメカニズムが機能しているのかと言われれば、ちょっと疑問だ。映像を使って「脚本を説明しているだけ」にも見える。
しかし、大通りをちょっと入ったところに隠微な洋館が人知れず建っていて、そこに行く宛てのない主人公が紛れ込む……というシチュエーションに、すっかり魅了された。
その館に住むのが、時に忘れられた元女優、裕福な女主人……これもいい。ゾクゾクする。母方の祖父の家は、ずっしりとした大きな屋敷で、洋間に布団を持ち込んで、祖母と一緒に毛布にくるまりながら『ハエ男の恐怖』などをモノクロテレビで見たものだった。あの時代に、映画的記憶の断片が形成されたように思う。

つまり、僕が生まれた時代、映画はすでに古い表現だった。『サンセット大通り』は1950年の映画だが、1930年代以前のサイレント映画の時代に材をとっている。1950年代、すでにサイレント映画は「過去の遺物」だったのだ。今の人からすれば、70年前の『サンセット大通り』だって時代遅れに感じるかも知れないが、当時の映画界にはトーキーよりも長いサイレント映画の歴史が、悠然と横たわっていたのだ。その歴史の長大さに気づかされるのだから、古典映画は大事に観ないといけない。
10年後の『サイコ』のメイキングを観ると、カラー以前のモノクロ映画の時代、さまざまな技術が開発されていたことが分かる。つまり、トーキーもカラーも、劇映画の仕組みを抜本的に変えたわけではない、ということ。いわんや、IMAXだの4Dだのが、映画を新しくするわけがない。


丸一週間経過したのでインフルエンザは完治したようだが、本日は喉が痛い。症状は緩やかなので、今回は単なる風邪だと分かる。

思えば、一歩も外に出ずに閉じこもって寝るしかなかったインフルエンザの日々すら、自分には内省をもたらしてくれる有意義な時間だった。自分の来し方について、じっくり考えた。大きな怪我も病気もなく、金持ちとは言えないが日々の暮らしに困らないぐらい稼げて、ストレスのたまらない仕事を選んで自己実現できているのだから、自分は恵まれている。
「普通は、フリーランスでそんな順調に暮らしてはいけない」と編集者に言われて、ハッとなった。そう、上手いこと進むように工夫はしてきたのだ。

20代、ただ若いだけで本当に金がない時期だって、妻子のいる友だちが激安の焼きそばを買っておいてくれたり、死ぬような事態にはならなかった。
先日、別の編集者と打ち合わせした後、道を歩いていて、じわじわと幸せを感じた。彼のことを、「いい加減な男なのではないか」と疑っていた自分を恥じた。「他人を信頼できる」、それが何よりの幸せなのかも知れない。

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2020年2月 3日 (月)

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インフルエンザを発症して、5日目の夜となった。
熱のある間は2~3時間しか眠れなかったのだが、昨夜はひさびさに7~8時間、ぐっすり眠ることができた。眠る前に、ちゃんと仕事をすることも出来た。
ところが起きてみると、どんより頭が重い。額に手を当てると、ヤカンのように熱くなっていた。しかし、図書館へ本を返しそびれてるし、明後日からは出かける予定なので、靴磨き屋に革靴を出しておきたい。なので、無理して少しだけ歩いてきた。


日本赤十字社の『宇崎ちゃんは遊びたい!』とのコラボレーション第二弾が始まり、第一弾を批判していた人たちが、どういうわけか今度は誉めている()。
Twitterは多くの人が匿名で遊んでいるだけなので、僕は言論の場とは思っていない。「ご飯おいしかった」「眠い」「地震だ」と好き勝手に呟き、代わりに広告を見せられているだけの人が大半だろう。ウソ話が何万リツイートもされる、そういう場だ。なので、『宇崎ちゃん』コラボへの批判に対して、真面目に怒る気にはなれない。
今回、手の平を返した人たちだって、ツイートごときで『宇崎ちゃん』を抹殺できると本気で思っていたわけではないだろう。本当に解決すべき課題は別のところにあって、毎日がつまらない、思ったように人生が進んでいない……そんなところだろう。人生がつまらない理由を、決して自分のせいにしたくないんだよ。何かの、誰かのせいにしておきたい人たちなんだよ。

例えば、「俺の生活が苦しいのは特権をもった在日外国人のせいだ」といった具合に。そう、彼らが猛烈に嫌悪しているネトウヨと社会に対するスタンスは変わらない。「在日外国人のせい」だったり「安倍政権のせい」だったり「性的コンテンツのせい」だったり、何かつかみどころのない理由を代入すればいい。殴っても殴り返してこない曖昧な存在を。
暖簾に腕押しの状態を保って、「私は頑張った」「何とか抵抗を試みた」「でも敵が大きすぎる」と解決を先延ばしにしておけば楽だ。
悪いけど、リベラルとか左翼とか呼ばれている人たちは、みんなそう。「頑張ったけど、今回はダメだった」「次回、また頑張ればいい」。そればかりでしょ? で、こうして批判されれば「差別主義者のネトウヨにヘイトスピーチされた」とか言うんでしょ? まったく物事の本質に触れていない。リスクも冒していないし、何ら本気ではない。腹が立つポイントがあるとすれば、「本気ではない」、その一点だ。
そしてTwitterの外では、日本赤十字社が、しっかり金と人を集めて、キャンペーン第二弾の準備を進めていた。バカみたいでしょ? 誰が真面目に相手に出来ますか。


ただ、先日のトークイベントでも語ったように、僕は、僕と考えの違う人たち、僕のことを憎い人たちも含めて、誰もが幸せに暮らせるのが良い社会だと思っている。誰かが一方的に損をする社会は間違っている。
性表現に厳しい人の中には、過去に不愉快な、凄惨な体験をした人も少なくないだろう。そうした、傷ついた人たちが心穏やかに暮らせるにはどうしたらいいのか。それこそ、右も左も思想の差をこえて考えるべきだろう。
どちらか一方に立ってはいけない。揺れつづけるんだ。


コロナは大変なことだけど、報道が一辺倒になって、な・に・か・を隠すために使われてしまっている。コロナを報道するのは国民のためになるという大義名分で。意味わからん人は、わからないままでいいです。

この人も、実生活がいろいろ大変らしいので、何もかも現政権のせいにして曖昧にしたい気持ちは分かる。しかし、死者360人、感染者1万7千人という惨事を、安倍政権やメディアを批判するダシに使うとは、ここまで来るとバカも罪悪である。
日々の鬱憤なしに、ここまで他人を憎めないよなあ……。シュナムルさんとかも、憎悪の坩堝みたいな人だもんね。

ようするに死ぬまで野党でいたい、永遠に責任を引き受けたくない負け犬たちに溜まる場所が必要なのだろう。それがTwitterだったり人権団体だったり、かつては宗教だったりしたのだろう。しかし負けつづけることを前提にする、本気で勝ちに行かないのは、つくづく卑怯な生き方だと思う。

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2020年2月 2日 (日)

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夜になると、また強烈な頭痛が戻ってきて、明け方にかけては吐き気までこみ上げてきた。吐き気は、ひょっとして頭痛薬の飲みすぎで胃が荒れているせいかも知れない。したがって、またも横になったまま、各種配信で朝まで映画を見続けていた。

『アウトブレイク』の能天気な展開には苦笑するしかなかったが、90年代にリアルタイムで見ていた映画を再見すると心が落ち着く。
『ジュラシックパーク』初期三作も見直してみた。すると、一作目は(まだCG技術が限定的であったせいか)、恐竜と人間の直接な関わりは避けて、ジープを介在させるなど、間接的な描写が目立つ。「恐竜とモノ」「モノと人間」の図式が、映画のスタイルになっている。
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一作目に対して、同じスティーブン・スピルバーグ監督による二作目は、もっと質感に迫った神経質な映画になっている。質感というのは、CGのことではない。雨とか泥とか、皮膚感覚的な描写を効果的に演出に活用している。人物の乗った車のガラス窓が、体重によって少しずつ割れていく……なんていうシーンが象徴的だ。
こういった違いは、ストーリーだのネタバレだの言っていては決して気づくことはできない。


『コンタクト』も再見した。好きな映画だ。いつも思うが、宇宙へジョディ・フォスターを転送する巨大マシーンは、もっとそれっぽいものを考えてほしかった。あのマシーンが登場して以降は、どんどんリアリティが薄まっていく。
いちばん好きなのは、異星人からの電波を受信した直後、電波望遠鏡のまわりが様々な価値観の人々でごった返す祝祭的なシーン。
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つづいて『メッセージ』も再見したが、『コンタクト』を意識しすぎているように感じた。僕と同世代のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の次回作は『デューン』だが、『ブレードランナー2049』といい、80年代回顧映画の旗手のようになってきていないだろうか? そうした企画は最近の『スター・ウォーズ』のように、「過去に思い入れのある観客を怒らせてはいけない」という理由で、保守的な作品しか残さない。
そして監督たちは、すさまじいストレスによって疲弊していく。


丸2日間、家にこもって寝ていて、今朝は喉がすっかり腫れあがっていた。唾液を飲みこむのも、苦しいぐらい。でも筋肉や骨の痛み、倦怠感は後退していたので、いちばん近いスーパーとコンビニまで買い物に出てみた。もちろん、しっかりマスクをして。

以前から気になっていたことだが、スーパーでもコンビニでも、会計時に、お客さんに確認する事項が多すぎる。「ポイントカードお持ちじゃないですか?」「袋はふたつにお分けしますか?」「お箸はつけますか?」等など。
想像するに、これはサービスというより、「どうして会計前にポイントカード持ってるって確認してくれないの?」と、単に自分が不注意なだけなのにクレームをつける客が多いからではないだろうか。

これは僕に近い業界だけの話かも知れないが、出版社やメーカー、店舗などに「様」をつけまくるSNSでの風潮も気になっている。
主体はクライアントであり、受注者である自分から「様」をつけて力関係を明らかにしておきたい……といった、先んじてマウンティングに屈したような卑屈さを感じてしまう。仕事でやりとりがあるなら、発注者も受注者も対等のはず。
レジの人も、客がポイントカードを持っていないからといって、「失礼しました」などと謝る必要はない。どちらが上でも下でもない。対等だよ。
みんなで、自縄自縛の窒息状況をつくるのはやめよう。


新型コロナウイルスをめぐる言論を見ていると、「中国人に対するヘイトだ」という言い方が散見される。
「ヘイト」って、ようするに「傷ついた」「不快だ」レベルのお気持ちに名前をつけたに過ぎないのではないだろうか。「気持ち」なんてものは、誰でも持っている。だからこそ、互いに少しずつ我慢したり、譲り合ったりしながら、少しずつ理解と調和を獲得していくべきだろう。

先日のトークイベントでも話したことだが、目の前で「廣田さん、ハゲですよね」と言う人は結構いる。僕はそれに対して「ハゲに対するヘイトはやめろ」とか「ハゲを差別するな」とか、いちいち主張しない。ハゲなんて僕の本質ではないんだから、誠実な仕事ぶりを示して信頼を獲得すればいい。

JURASSIC PARK - Film TM & (C) 1993 Universal Studios and Amblin Entertainment, Inc. All Rights Reserved.
(C)1997 Warner Bros Pictures All Right Reversed

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2020年2月 1日 (土)

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本当はどこが凄いのか? オリジナルロボットシリーズ「30 MINUTES MISSIONS」に込められた工夫のあれこれ【ホビー業界インサイド第55回】
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以前から気になっていたシリーズだったので、取材させていただきました。


一昨日の夕方から取材があり、取材後はそのまま飲もうという話になった。取材に向かう前から風邪っぽかったのだが、酒を飲んでいる間、すさまじい頭痛に襲われた。それは、アルコールが引き起こす鈍痛ではない。頭蓋骨を刺すような、鋭い痛みだった。
これは耐えられないと思って、3時間ほどで酒の席を離れた。コンビニで栄養ドリンクを何種類も買い込んで帰宅し、布団にもぐりこんだ。翌朝、頭痛は激しくなっており、全身の筋肉が痛み、悪寒がすごかった。これは、ただの風邪ではない。ネットで調べてみると、どうもインフルエンザのようだ。
何より、頭痛が苦しい。何年ぶりか分からないが、熱も出てきた。風邪は年に一度ぐらいひくが、熱が出ることはないのに……。うとうとすると、半睡の状態で支離滅裂な夢を見た。いや、「夢を見た」のではなく、混濁した意識の中におぼれているような感じだった。
(インフルエンザに罹患すると、小児は異常行動を示すことがあるという。その領域に近づいているような気がした。自分が狂って、コントロール不能になることが何よりも怖かった。)

マンションの向かいのコンビニに買い物に行くことさえ不可能なので、ヨドバシで固形のカロリーメイト、ゼリー飲料を多めに注文した。一人暮らしは、病気になったときが辛い。まったく心の余裕がなくなり、一気に思考がネガティブになる。


なかなか熟睡できないので、枕もとのPCで、いろいろと動画を見ていた。
『復活の日』も見たが、ウイルスの恐怖感は原作小説の念入りな描写が圧倒的だ。冷戦下に造られた生物兵器という設定だが、ウイルスに対して人間が無力なことは、新型コロナウイルスのニュースを見ていても実感する。

こまめな手洗いが最も有効な防衛策とされるが、公衆トイレでは男性の半分ぐらいが手を洗わない。
ちょっと前まで、年寄りが手を洗わないと感じていたが、いまやオシャレな若い男性が鏡の前で少し髪をなでつけただけで、まったく手を洗わずにトイレから出て行ってしまう。小便器の周辺は「どうすればこんなに汚れるのだろう?」というぐらい、床がベタベタ。新宿駅で見たことがあるが、パリッとスーツを着こなした若いサラリーマンが、自分の靴が汚れるのも構わず、便器の外へジョボジョボと小便をこぼしていた(昼間だったので、酔っ払いではない)。あれは、公共の場をこっそり自分で破壊したいという、一種の病的な心理なのだろう。つまり、「自分だけは特権的に横暴に振る舞いたい」幼稚な欲求が、公衆トイレで解放されているような気がしてならない。
ともあれ、公衆トイレの男子便所の不潔さを見るたび、僕は絶望的な気持ちになる。カッコいいとでも思っているのか、駅のホームで手で口を覆うこともなく、思い切りくしゃみをする男性もいる。こんな衛生観念では、感染を防ぐことなど出来るわけがない。


ほぼ一睡もできないまま朝を迎え、『アウトブレイク』を見ている途中で、ようやく睡眠することが出来た。目が覚めると、頭痛も悪寒も軽くなっていた。重篤化して肺炎になるようなルートは避けられたようだ。

布団の中で、新型コロナウイルスのニュースも大量に見た。
福岡市の市長が、中国発クルーズ船の寄港を拒否すべきだとの考えを示した。その発言を「ヘイトスピーチを助長する」と批判した記者がいるという。市長は実務的な観点から発言したに過ぎないのに、いきなり人権問題へ話を飛躍させてしまう、雑な思考には嫌悪をおぼえる。
そして、考えられないことだが、博多港では1月だけで4人の中国人男性が観光客として訪れておきながら、日本国内で“失踪”しているという()。これも、彼らの人権だと言うのだろうか?

オーストラリアのホテルに、わざわざ中国語で「ここで唾を吐かないでください」「タバコを吸わないでください」と注意書きが貼ってあった。最初は「大袈裟だなあ」と思ったのだが、中国人の客たちが、その注意書きの前で唾を吐き、平然とタバコを吸っていたので、唖然とした。
なるべく人種で見たくはないのだが、空港で並んでいても、堂々と横入りしてくるのは中国人。そうした下地があるので、新型ウイルスで中国人が嫌われるのは、ある程度、仕方がない。そして、欧州に行くと、日本人はたいてい中国人と区別なく扱われる。とばっちりではあるが、僕はそのリスクを受け入れるつもりでいる。それで将来的に事態が改善されるなら、安いものだ。

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2020年1月27日 (月)

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「エクスカイザー」から「ダ・ガーン」まで……谷田部勝義監督が、30年前の「勇者シリーズ」の始まりを振り返る【アニメ業界ウォッチング第62回】
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サンライズさんからいただいた、完全独占インタビューです。監督は、このインタビューのために、足をお運びくださいました。僕も、十分に下調べが出来ました。外部の宣伝会社が何社も合同で取材させるパターンが増えましたが、それでは品質の高い仕事は出来ません。

月刊モデルグラフィックス 2020年3月号
●組まず語り症候群 第87夜
●模型で読み解く『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』延長版3
『この世界~』応援企画は、今回で短期連載終了です。最後は、フィギュア造形家、ペーパークラフトの作家さんたちにご協力いただきました。


アンジェイ・ワイダ監督の遺作、『残像』をレンタルで。
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片手・片足を失った知られざる画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ教授の晩年を描いた映画。
冒頭、草原で若者たちが絵を描いている。画面右側に二人の若者がカンバスを立てて談笑しており、画面真ん中、奥からひとりの女性が歩いてくる。その女性の歩みだけが、「縦の構図」を描いている。このカットには静止と運動がある。ドラマを感じさせる。その女性は、やがて教授の弟子となる。

あるいは、教授が部屋で絵を描いていると、カンバスが真っ赤に染まる。つづいて、窓も赤く染まる。そういう演出なのだろうと思っていると、実は建物の外に赤く大きなレーニンの旗がかけられていると分かる。絶えず、フレームの中の情報が洗練された形で示されるので、緊張感が途切れない。
(劇中、教授がゴッホの『糸杉のある麦畑』をスライドに映しながら、画面が四分割されていると学生たちに説明する。ゴッホの絵を分析すれば、我々が視点を移動させながら風景を見ていることが分かるのだという。この講義だけでも、傾聴に値する。もし、こんな意識でアンジェイ・ワイダが構図を決めているとしたら、ますます襟を正してこの映画を見る必要があるだろう。)


学生たちが、教授の部屋に集まってくる。教授は、「芸術も恋愛も、自分の力で勝負するしかない」といった話をする。
すると、冒頭の女学生の顔がアップになる。彼女は何か言いたそうだ。再び、教授の顔へとカメラは戻る。学生たちは談笑しながら、部屋を出て行く。女学生だけが教授のそばに来て、やはり何か言いたげに、しかし「失礼します」とだけ言って出て行く。カメラは、彼女の動きに合わせてPANする。それは、教授の主観カットなのだ。
教授に恋愛感情をもつ女学生だけを動かし、彼女だけをカメラが追う。それだけで、何の台詞もなくても、ドラマが生じる。もちろん、前後にピタリと静止した、落ち着いたロングの絵が必要だ。構図、被写体の動き、カメラの動きのみで、冷静に感情を描き出していく。それが、映画の機能だ。

確かに俳優の表情も素晴らしいのだが、それは演劇に属する部分で、映画の原理とは遠いところにある。台詞も同様。ロッセリーニの『戦火のかなた』もDVDを買って観たのだが、あまりの台詞の多さに唖然とさせられた。

唯一、黒人のMPがイタリアの貧民窟の惨状に言葉を失い、ジープで走り去るシーンが良かった。
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だが、彼が無言で立ち去る直前には、泥棒の容疑をかけられた少年が「パパもママも爆弾で死んだよ。ドカン、ドカン」と擬音を発する饒舌さが欠かせない。


先週月曜日は、Bunkamura ザ・ミュージアムの「永遠のソール・ライター」展へ。平面(写真)を平面(壁)に並べただけの展示。壁の三面に、時間差でランダムに写真が映される展示のみ良かった。今はスマホという平面が主流の時代なのだから、お金をとる美術館は平面に頼っている場合ではないと思う。
私のトークイベントは、ついに明日火曜日、28日開催()。

(C)2016 Akson Studio Sp. z o.o, Telewizja Polska S.A, EC 1 - Lodz Miasto Kultury, Narodowy Instytut Audiowizualny, Festiwal Filmowy Camerimage- Fundacja Tumult All Rights Reserved.
(C)1946 - MGM

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2020年1月19日 (日)

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1月28日(火)「対人恐怖症歴30年の独身中年男は、海外旅行でどんな目にあった?」(
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28日夜、「高円寺pundit'」にて開催です。
予約受け付け中なので、ぜひ多くの方に「対人恐怖症で電車に乗るにも難儀するオジサンが、海外旅行に行って大丈夫なのか?」、貴重な話を聞きにきていただきたい。リア充の貧乏旅行自慢とは違う、独特の感覚と距離感、これは他では絶対に聞けません。


『母をたずねて三千里』のショックから、少し最近のアニメも観てみよう、という気になった。
スタジオポノックの『小さな英雄-カニとタマゴと透明人間- 』、これはレンタル店でDVDを借りてきた。冒頭の「ポノック! ポノック!」と連呼する主題歌からして、作品に一貫したコンセプトがないのを誤魔化すため、ブランド名だけで盛り上げようという無理を感じて、とても苦しかった。
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百瀬義行監督の『サムライエッグ』からは、日常的リアリズムが感じられた。
ただ、全般的にコンセプトが固まる前に「今はコレが流行りなんですよ!」あるいは「流行りなんて関係なく、コレが描きたいんですよ!」と、内輪で盛り上がり、出資者も「元ジブリのスタッフなら、おそらく間違いないのでは……」と黙ってしまったのではないだろうか。そうやって「自分を騙す」ことが、仕事ではいちばん怖い。


次に、ウェブ配信で『メイドインアビス』TV版と『ドロヘドロ』第1話。
MAPPA制作の『ドロヘドロ』は、まず声優二人の掛け合いがいい。アバンの会話が、まずOKだった。体重を感じさせるアクションも、堂に入っている。そこから始まるOPは、武闘派のヒロインが中華料理を作りながらハイになっていくアシッド系の映像で、センス抜群。林祐一郎監督の名前は、ちょっと覚えておきたい。
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萌えボイスではなく腹から声が出ていて、男言葉で話すヒロインが、とにかく魅力的(主人公にビールを投げ渡すとき、ちょっとウインクしたりする。そのダサい芝居も作風にマッチしている)。手描きの、ザリザリした荒っぽい動きが、3DCGキャラの普及しすぎた現在、むしろ新鮮である。(昨夜、第2話を観て、ようやく3DCGだと分かった……部分的に手描きということらしい)


曲者は、『メイドインアビス』。テレビ版は、10話まででやめていた。美術監督さんに取材したぐらいだから、2017年の放送当時は原作漫画も読みながら、そこそこ熱心に見ていたはず。(ということは、三年前から、ちょっずつアニメの取材を減らしていったんだな。)
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今回あらためてテレビ版のラストを観たが、10話から13話は圧巻だった。主人公のリコは、猛獣の毒によって左手が膨れ上がり、目や口から血を流しながら、相棒のレグに腕を切ってくれるよう頼む。二人を助けたナナチは、かつて人間の女の子だったグロテスクな生物と暮らしている。
子供たちが、大人によって人体実験されていた過去が明らかになるが、これはヘンリー・ダーガーだな……と、確信した。
ダーガーは重厚な架空戦記をバックボーンに、同時に子供たちが大人によって無慈悲に惨殺され、全裸で内臓を撒き散らして死ぬ様子を挿絵にしていた。それは明らかにダーガーの性的嗜好の顕現であり、『メイドインアビス』も同じだと思う。ラストに登場するナナチは“ケモナー”であり、主役のリコとレグは“ぷに”とか“ショタ”と呼んで間違いないと思う。

作り手が、オタク的な性嗜好をセールスポイントにして作品を売るのは、別に構わない。80年代のOVAなんて、全部そうだった。
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だけど、ターゲットにされたオタク的な輪の内側に属する人たちが、『メイドインアビス』に普遍性があると思うなら、それは間違いではないだろうか。この作品で起きる悲劇は、『母をたずねて三千里』のように、実社会の仕組みによって、やむなく生み出されてしまうものではなく、異世界の設定によるものでしかない。悲劇のための悲劇、陶酔するための残酷を「そういう世界設定なので」で作れてしまう。
つまり、作り手の嗜好で無限に残酷な描写が出来てしまう。そこは、自覚しておく必要があるだろう。「好き」と「優れている」とは、別のことだと意識しておいた方がいい(「号泣した」を作品の評価軸にすると、好き嫌いだけで生きていくことになる)。

あと、僕は「劇中キャラが歌っている」という設定の主題歌が、どうしても幼稚に感じられる。正確には、「幼児向けアニメのようなフォーマットを、あえてマニア向けにアピールしている」わけだよね。その仕組みにコロッと取り込まれるような、受け手はそんな脆弱でいいんだろうか?と思う。
「こんな可愛い絵なのに、こんな残酷な描写が!」って驚き方は、「Aに見えて実はBでした」という作り手の仕組んだコンセプトを「Aだと思っていたら、実はBなのか!」と、額面どおりに受けとっているに過ぎないのであって、「評価」ではないよね。でも、SNSの世界では、誰でも1秒でも早く答えに到達したい。立ち止まって考えないと、バカになっていく。


最後にオマケ的話題……。
定期的にTwitterに回ってくる主張、「模型業界は子供向けのプラモデルを作れ、でないと業界が滅びる」「俺たちが子どもの頃に熱中したビッグワンガムを再販すべき」、これを初めてリアルタイムで目にした。おそらく同世代であろうツイート主さんは、「クラウドファンディングで資金を集めてはどうか」と他人事のように言っているので、本気でビッグワンガムを復活させようとは考えてないわけで、したがって本気で批判する気はない。
しかし、3D-CADを駆使した現在のスケールモデルの正確さ、低年齢層に向けたバンダイのキャラクターモデルのたゆまない取り組みを、まるっと無視して「昔のほうが良かった!」と主張する僕たち世代は、毎日毎日、感覚を研ぎ澄ませていないと、すでにボケ老人の領域なのだな……と戦慄した。

いや、実は40~50代だから感覚が鈍磨していくわけではなく、ほとんどの人は向上心も目的もなく、若い頃からボーッと生きてるんだろう。調べよう、自分で確かめようという人は、滅多にいない。
何かを面白いと感じるセンスは、磨かないと錆びていく。本当の快楽、本当の幸福は、自ら追い求めないと、その存在すら感知できない。


最近観た映画は、とてもキュートな恋愛映画『パーティで女の子に話しかけるには』、『~三千里』の原点であろう『自転車泥棒』を久々に。どちらも配信で。

(C)2018 STUDIOPONOC
(C)2020 林田球・小学館/ドロヘドロ製作委員会
(C)2017 つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス製作委員会

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2020年1月14日 (火)

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年末年始に『赤毛のアン』を見たのに続き、一週間ほどかけて『母をたずねて三千里』、全52話を見た。
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過去、藤津亮太さんと対談連載をやっている頃、彼が「アメデオ」とか「フィオリーナ」とか当たり前のように比喩に使うので、その度にあわてて本編を見て確認する……という体たらくであった。全話ぶっ通しで見られる視聴環境が整って、感謝するしかない。
高畑勲さんの本を読んだら、この作品については「ネオレアリズモ」と書かれていて、『~三千里』がなければ、テレビアニメはネオレアリズモには1ミリも近づけなかったのではないかと思う。よほど重宝がられたのか、富野由悠季さんが最終回をふくむ多くの絵コンテを担当している。
「しかし」と言うべきか、「だから」と言うべきか、『ガンダム』の前に『~三千里』ありなのだ。この作品の後の高畑作品『赤毛のアン』が、ややファンタジックなデザートのような甘ったるい作風だったことも、とても納得がいく。それぐらい『~三千里』は重たく、強い必然性に支えられ、また冷徹なリアリズムに縛られてもいる。


いくつも、驚かされたシーンがある。
内気なフィオリーナがマルコに励まされ、路地で人形を躍らせると、通りすがりの人たちが喜んでくれる。フィオリーナは「まあ、嬉しい」なんて顔はしない。ただ、驚きのまま呆気にとられた表情で静止する。そのストイックな表現に、胸を打たれた。
一枚絵で静止したフィオリーナの顔。歌に合わせて踊る、命のないはずの人形。「止め」と「動き」。アニメーションという表現の機能が、むき出しになっているように感じた。
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あいるはまた、ブエノスアイレスまで来たマルコが、ペッピーノ一座と再会するシーン。マルコは疲労困憊して、公園のベンチで寝てしまう。その直前、彼は公園にいた子供たちに話しかけるのだが、子供たちは一言も発せず、マルコを怪しんだ様子で立ち去ってしまう。
つまり、マルコにとって世界は無慈悲で、彼は世界との結びつきを失ってしまう。彼が眠る前に見る公園。そのワンショットは、望遠レンズで、公園を平板にとらえている。横に並んだ木々の間を、子供たちが走っている。その向こうには道路があるのだろう、馬車が横切る。それはいわば、美しくもなければ楽しくもない、完全な無関心に封じこめられたショットだ。

僕の知っているアニメ番組は、とりあえず華やかに、楽しく、面白く脚色するものであった。
このショットは、正反対だ。マルコは世界に見放されている。話しかけた子供たちは走り去ってしまった。無味乾燥とした、味気ない絵が必要だ。大袈裟に泣かせる絵なんかではなく、何の感情も誘わないワンショット。それがリアリズムなのだと思う。絵を何枚も重ねて、さらに色を塗っていくアニメーションにとって、「無感情の絵」が、いかに難しい課題であったことか。
(そのショットの直後、ベンチで眠っているマルコの顔の近くに、小鳥がとまる。それは、フィオリーナがマルコの元へ近づいてくる予感のような演出だ。小鳥が幸せを運んでくる――その瞬間、僕の知っているアニメーションが、ポンと画面に戻ってくる)


ちょうど『~三千里』放送と時期が重なる頃なのだが、祖父の弟さんが家に泊まりに来たことがあった。
「君もこっちへ来て、漫画を見なさい」と、おじさんは僕を呼んだ。応接間のテレビには、『ドン・チャック物語』が映されていた。この番組がどれほど幼稚なものか、当時の僕にはよく分かっていた。あれは、恥ずかしい体験だった。とにかく彩度の高い色で塗り、目を大きく描いて、なるべく派手に、大袈裟に……それが、テレビアニメの常識だった。高畑勲さんは、反逆を企てたのだ。
それはテレビアニメ番組のヌーヴェル・ヴァーグであり、ヌーヴェル・ヴァーグの着火点となったネオレアリズモだった。


マルコやフィオリーナ、視聴者が応援したくなるキャラクターは、もちろん可愛らしいキャラクターデザインだ。永井一郎さんの演じる、ときにはマルコの不幸な境遇を利用して金稼ぎしようと企む、しかし憎みきれないペッピーノの親父さんですら「可愛い」デザインだ。視聴者へ「この人は善人なので、応援していいですよ」と目配せしているのだ。脚本レベルで、どれだけ複雑な人物に描かれようと、絵によってキャンセルされる部分がある。
キャラクターデザイン、それに朗々と感情に訴える哀切な音楽が、このアニメの安心材料といえるだろう。だが、自分の境遇をペッピーノ一座の出し物にされたときの、マルコの無表情を忘れることができない。マルコの旅そのものを劇中劇にするアイデア自体、悪趣味と言えるものだ。フィオリーナが「私、もうやりたくない」と拒絶するので、視聴者は自分の感覚の正しさに、ホッと胸をなでおろす。

しかし、不幸をダシにしたり見世物にしたりするほど人間はしたたかでずる賢いと、何十年か生きてきた人間なら気づいてしまう。
物語の終盤、イタリア人だけが集まる食堂で、マルコのためにカンパが集められる。遠くアルゼンチンまで働きに来ている酔っ払いたちは愛国心にかられて、肩を組んで歌いだす。僕は、このシーンで涙を流したが、彼らは文字通り酔っているだけではないか、素面に返った途端、マルコにあげた金が惜しくなるのではないか? 頭の片方で、その可能性を捨てきれないでいた。そのような得体の知れない曖昧さを、この作品は喚起する。何より、そのスケール感に圧倒される。
涙など、つくづく当てにならないものだ。

そう言えば、完璧な無表情で、人間には食べられない豆をパクパクと食べる白い猿、アメデオ。
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僕はアメデオが次に何をするか楽しみで仕方なかったが、あの表情のなさ、冷たい雪の中でもマルコと一緒にいるのに、どこか別世界で生きているような不気味さが、あのマスコット・キャラクターの魅力なのだろう(マルコが腹を空かせていても、アメデオはマルコに豆を分けたりはしない。そんな擬人化された分かりやすいキャラクターではないのだ。アメデオの先読みできない行動だけは、いつでも説得力があって、信用できた)。


最近見た映画は、ゴダール『軽蔑』(二回目)、ジャームッシュ『パーマネントバケーション』、ルイ・マル『恋人たち』。
ワタリウム美術館に、フィリップ・パレーノ展を観にいった。

©NIPPON ANIMATION CO., LTD.

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2020年1月 5日 (日)

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キャラクターからメカニックまで――デザイナー・安田朗のこれまでとこれから【アニメ業界ウォッチング第61回】
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劇場版『Gのレコンギスタ』を応援する意味もこめて、以前からお願いしたかった安田朗さんにご登場いただきました。

複数の透過光が引き立てる「勇者エクスカイザー」の変形シークエンス【懐かしアニメ回顧録第62回】
90年代後半、サンライズに見学に行ったとき、ロボットの合体バンクはQAR(クイック・アクション・レコーダー)を使って、特別丁寧に作画されると説明を受けました。しかし、演出的に評価される機会は少ないと思います。


年末年始に観た映画は、『地獄に堕ちた勇者ども』、『ベニスに死す』、『ダイナマイトどんどん』、『ツィゴイネルワイゼン』、『ブルークリスマス』など。
しかし、たまたまYouTubeで『赤毛のアン』第1話を観て、どうしても続きが気になり、dアニメストアで全50話を観終えた。
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高畑勲さんの作品としては、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』と比較されてか、今ひとつ評価が高くない気がする。宮崎駿さんがレイアウトから抜けた痛手も、後半にくっきりと影響が出てしまっている。回想シーンを多用して作画の遅れを取りもどそうと焦っているのも、はっきり分かる。アンが大人っぽく成長し、マリラが涙もろくなった終盤は、最初のころの生き生きしたムードではなくなっていく。

逆に、どうして前半に魅力的かというと、空想癖のあるアンの世界観を肯定しながらも、マリラの覚めた目線を忘れずに描き、作品の中に「空想-現実」という拮抗する力が維持されていたからだろう。アンが「ああ、なんて悲劇的なのかしら!」と大袈裟に嘆いた直後、マリラの呆気にとられた驚き顔が「止め・無音」でインサートされる。そのタイミングが、くやしいぐらい面白い。
高畑さんの『映画を作りながら考えたこと』を引っ張り出して『アン』について語ったインタビューを読むと、原作を「ユーモア小説」と評していて、なるほど確かに笑える。マリラがアンの大袈裟な言動に慣れてくると、「そんなわけがないだろう」「またバカなことを言ってないで」とリアクションが手馴れたものに変化していき、そこも抜群に面白い。アンの空想とマリラの現実、どちらも対等に扱う姿勢がいい。双方の立場にたって、大真面目に描いている。羽佐間道夫さんの、いっさい感情をこめないナレーションが、作品の姿勢を体現している。


一方で、マリラがお気に入りのブローチをなくしてしまい、アンに盗みの疑いがかけられる第11~12話のサスペンスフルな展開も見事だった。
なぜなら、「空想癖のある少女を肯定的に描く(決して否定はしない)」という作品の基本姿勢を、視聴者が疑いはじめるからだ。マリラはアンがブローチを盗んだものと決めつけて、珍しく長めのモノローグが入る。いつもはアンが喋りつづけるはずなのだが、このエピソードでは逆転している。
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また、アンは自分の空想をマリラとの交渉の武器に転用する。アニメでは、彼女の非現実的な空想を本物のように1クールかけて描いてきたわけで、このエピソードでもアンの空想は本物として、セル画で描写されねばならない。視聴者も、そのいつもの段取りにコロリとやられる。セルに描かれたものはお皿であれ妖精であれ、それが空想なのか現実なのか視聴者には区別しようがない。自分の常識に照らして、「妖精が実在する世界ではないから、これは空想なのだ」と分別するしかない。このエピソードは、視聴者の常識を利用するというか、つけこむのだ。小説なら台詞だけだから、こういうミスリードは生じえない。
(いま気がついたが、現実と空想が等価に描写され、痛々しいほど拮抗する第12話は、富野由悠季さんの絵コンテであった。)

確認のため、第11話と第12話を見直してみたが、マリラ役の北原文枝さんの見事な芝居を聞くにつけ、テレビアニメは声優のものだと思う。キャラクターの印象は、半分は声優が決めている。
『アン』は綱渡りのようなスケジューリングのため、アフレコでは、演技の最初と最後をデルマで印しただけのリールが使われたという。そのような過酷な環境下で、生き生きとキャラクター像をつくりあげる。誉められたことではないのかも知れないが、それも一種の文化なのだと思う。

(c) NIPPON ANIMATION CO.,LTD.Presented by Janime.com

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