2018年10月18日 (木)

■再び広島・呉へ-2■

呉港に着くと、今回は大和ミュージアムには寄らず、灰ヶ峰の頂上へはタクシーで行くのがベストかどうか、観光プラザで確認する。やはり、素人が徒歩で登るのは無理のようだ。タクシーで片道3000~4000円ぐらいだという。
Kimg2352本当はお名前を書きたいが、たまたま駅前に停まっていた個人タクシーの運転手さんが、とても良い方だった。お父さんが海軍に勤めていて、出征して小倉の病院で亡くなったそうなので、70代後半だろうか。
灰ヶ峰の頂上へ行って、また戻ってきてほしいと言うと、いくつかルートがあるという。「長ノ木」という言葉が聞こえたので、「じゃあ、長ノ木を通るルートで」とお願いした。すずさんの嫁いだ北條家は、長ノ木の尾根にある設定だ。しかし、辰川バス停から先は民家ばかりなので、観光目的で立ち入らないよう、片渕須直監督も公言している。タクシーで通過するのが、ギリギリではないだろうか。

写真を撮る余裕はなかったが、坂道にかけて、古い立派な家がひしめいていた。段々畑も、ちょっとだけ見えた。ある程度まではバスが登ってきているが、それは県道で、頂上への道は呉市の道路なのだそうだ。


駅前から40分ぐらいだろうか、うねうねした細い道を縫うように走って、タクシーは灰ヶ峰の頂上についた。
Kimg2356運転手さんは小さな駐車場にタクシーを停めて、展望台で景色を見ながら、長いこと説明してくれた。『この世界の片隅に』のあらすじも解説してくれたので、僕は知らないふりをして聞いた。ともあれ、ここに劇中にも出てきた高射砲が据えられていたわけだ。

運転手さんからは、実にいろいろな話を聞いた。戦時中までは、軍関係者の家族ら、とても多くの人が住んでいて、広島市に負けないぐらい栄えていたという。今は7月の豪雨の影響もあって、観光客が激減して困っているそうだ。
この方を信用できると思ったのは、僕が勝手に展望台に散らばっている飲み物の空き缶やペットボトルを拾い集めていると、黙って助手席に運び、「私が捨てておきます」と笑ってくれたところ。呉駅ではなくて、辰川のバス停で降りたいというと、まだ目的地ではないのに、メーターを倒してくれた。
Kimg2370 (辰川のバス停には、別のタクシーが客待ちをしていたので、ここまでバスで来てタクシーで頂上まで上がれば、かなり安いのではないだろうか。僕の場合、呉駅~灰ヶ峰~辰川バス停までで計7650円だった。)
しかし、くれぐれも辰川バス停より先へは立ち入らないほうが良いと思う。僕は呉駅へ歩いて降りるつもりだったが、ちょっとした出来心で、9月にも行った三ツ蔵(澤原邸)まで歩いた。


辰川バス停から、電気屋と酒屋のある一本道を降りていくと、交番がある。さらに駅方面へ歩くと「万惣」というスーパーがあり、三ツ蔵はすぐそこだ。先月、近くのバス停から歩いたときは迷ったものだが、今回はすんなり行けた。
Kimg2383円太郎が海軍病院に入院したと聞いた径子お姉さんは、北條家から三ツ蔵前を通過して、線路の向こう側にある病院へ急ぐ。そのカットはオーバーラップして夜になり、径子はトボトボと歩いて帰ってくる。
つまり、あのカットには時間が圧縮されているだけでなく、距離も圧縮されている。どれぐらいの距離がワンカットに込められているのか、現地を知らないと推し量ることはできない。なので、ピンポイントに巡るのではなく、実際に径子お姉さんの通ったはずのルートを、歩いてみようというわけだ。

途中、トイレを借りに市役所に寄ったものの、30分ほどで海軍病院(現・国立病院機構 呉医療センター)に着いてしまった。しかし、辰川バス停より先に北條家があったとすると、トータルで、片道一時間ぐらい歩いたのではないだろうか。当時は路面電車が走っていたそうだから、それなら30分ぐらいだろうか。
Kimg2405駅南側のホテルに荷物を置いてから、午後は映画のラスト近くに出てくる中通や、原作ですずさんとリンさんが花見で出会う二河公園へ歩いてみた。すると、何なとなく町のスケール感が足裏から伝わってくるような気がした。

僕は『この世界の片隅に』の登場人物の心の中には、依然として踏み込むことができない。だけど、監督が世界をどう捉えたかったのか、その片鱗ぐらいは垣間見えたような気がした。
歴史と個人が交差する短い時間を、場所と場所を往来することで表現しようという卓越したアイデアに、ようやく気がつくことができたように思う。

僕は旅先では、二杯ぐらいで酔ってしまうのでハシゴ酒はできないのだが、呉には個性的でおっとりした雰囲気の居酒屋が多いような気がした。夕方になると、ぽつぽつと観光客が飲みに出てきて、ちょっと寂しい呉の町が、少しだけ賑やかになる。

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■再び広島・呉へ-1■

EX大衆 2018年11月号 発売中
51jzyd5l_sx387_bo1204203200_●アイドルアニメとしてのマクロス
全4ページのうち半分はストーリー紹介とキャラクター紹介です。
編集者から頼まれたのは、『マクロス』に至るまでのアイドル歌手を主人公にしたアニメの略史、戦争と歌を同居させる映画についてのコラム。後者については『地獄の黙示録』でプレイメイトが慰問に来るシーンについて書くつもりが、音楽による威嚇と戦意高揚という意味では、「ワルキューレの騎行」をヘリから流すシーンが向いてましたね。


ジンバブエ旅行まで二週間しかないのに、先月()につづいて、またしても広島・呉を旅してきた。朝6時の電車に乗って、広島に着いたのが11時すぎ。やっぱり、近い。
Kimg2265たまたま、『“のん”ひとり展 -女の子は牙をむく-』が広島パルコで開催されていたので、路面電車の一日乗車券を買って、すぐに八丁堀へ移動。『この世界の片隅に』関連の仕事をするにあたり、舞台となった場所を歩いてみることが目的だったのに、すでにポイントがずれてきている。


先月、土浦で行われた“『この世界の片隅に』ロケ地を見よう会・江波編”に参加してからどうしても行きたくなって、路面電車の終点の江波に移動。
江波だけは地図を印刷して持ってきてあったので、有名な松下商店(隣はお好み焼き屋になっている)、すずさんが何度か歩いた太田川沿いの道、映画冒頭カットの江Kimg2278波港、すずさんが水原のために「波のうざき」を描いた江波山を回る。江波山気象会館は、月曜のためお休みであった。
江波港は「たったこれだけ?」と驚くほど小さく、なんとなく、すずさんが幼年期をすごしたエリアのスケール感を把握できた。
まるで大林宣彦の尾道三部作のような古くて趣のある民家が残っているかと思ったら、真新しいマンションやピカピカの一軒屋もあり、どこか他人行儀で、それでいて人懐っこいような、やや寂しい町だった。
江波山への階段で、おじいさんが竹か何かの葉を切り落とす仕事をしていたが、僕が通るときに手を休めてくれた。「こんにちは」と挨拶すると、「こんにちは」と返してくれた。

太田川沿いには遊歩道が出来ていて、この川を北上して、すずさんが中島本町へおつかいに行ったのだなあ……とイメージしながら、路面電車で原爆ドーム近くへ向かう。


おそらく、すずさんが川をのぼって中島地区に上陸したのは、この辺りではないか……と想像した地点から、平和記念公園に入ると、すぐそこでは広島平和記念資料館の本館が工事中。東館のみ開館していた。はからずも、消滅する前の中島地区の写真や原爆被害の資料を大量に見てから、中島地区の「跡地」を歩く順番になった。
Kimg2314その経験は、自分の人生では味わったことのない不条理なものだった。
ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会さんの発行している『証言 記憶の中に生きる町』を、飽くまでも『この世界の片隅に』の資料として読んだところ、当地に住んでいて生き残った方たちのあまりにも生き生きとした思い出語りに「本当にこの町が、一瞬で無くなったのか?」と、なかなか信じられなかった。原爆などではなく、何か別の事情で町が取り壊されただけじゃないのか……。

資料館には、中島地区がたった一発の原子爆弾で消滅した映像がエンドレスで流れているので、僕は「本当に本当なのか?」「この公園が繁華街だったのか?」と、納得いくまで何度も見た。
まだ信じられない気持ちで外(そこは町じゃない、公園だ)に出てから、映画冒頭のに喧騒に満ちた町のイメージを重ね合わせながら、ところどころに建てられた復元地図のプレートを探して歩くと、「何もないこと」「静かで穏やかであること」が、かえって巨大な暴力として感じられた。
『記憶の中に生きる町』も持ってきてあったので、なるべく分かりやすい角にある場所を探してみた。


すずさんがチョコレートやキャラメルを見ていたヒコーキ堂の跡地に立ってみた。そこは本当に、日本のどこにでもありそうな平凡な公園の一角にすぎない。
Kimg2317(左の写真の場所には、つるや履物店があった。右側には三井生命広島支店の大きな建物があったそうだ……劇中で、子供たちがヨーヨーをして遊んでいたあたり。)
ここから、ふと右へ視線を移すと、「レストハウス」と呼ばれるようになった大正屋呉服店だけが、当時の形を維持している。「あっ」と声が出そうになった。地図を見ると、目の前を本町本通りが走っており、元安橋へとつながっている。

すずさんは、消滅した町並みを歩いてきて、そこは迷子になるほど賑やかだった。そして彼女は、唯一、今でも目にして触れることのできる建物に背をもたせかけた。
『記憶の中に生きる町』を歩いてきて、消えてしまった町の形見のような建物に寄り添うから、あのシーンで『悲しくてやりきれない』が流れたのではないか……。


まっすぐ歩くと、映画に何度か登場する相生橋のTの字部分に出る。しかし、すずさんの幼年時Kimg2320代には、まだTの字になっていなかった(春に『この世界の片隅に』資料展を三鷹で開催するときに知った)。
原爆ドーム(産業奨励館)を真正面から見ようとすると、このTの字部分に立つしかない。『この世界の片隅に』は、つい時系列で見てしまいがちだけど、江波から中島地区へ北上して、東へ大きく移動して呉へ移行し、やがて爆心地へ戻ってくる、地理的な広がりをもった物語だった……と考えると、僕には合点がいく。江波から呉へ移動しようとすると、川を通っても路面電車を使っても、中島本町を通過せざるを得ない。物語の中心に位置しているのが、『記憶の中に生きる町』なのだ。
冒頭で江波から中島地区へ移動して、爆心地となった相生橋ですずさんと周作が出会う流れ(『冬の記憶』)からして、物語の中と外とでは意味の重さが違うのではないか……。
原爆で消滅した町を、わざわざ(読者を)歩かせることに意味があったのではないか。この町をアニメ映画として、「生きた町」として復元することが、漫画が描かれた時点ですでに望まれていたのではないか、予定されていたのではないか……という気すらしてくる。

恥ずかしいことに、僕は「片渕須直監督はさすが凝り性だから、昔の町を徹底再現したんだなあ」程度にしか思っていなかった。
監督は、中島本町を歩くシーンを最初に完成させた。当時を体感的に知る人々が高齢で、次々と亡くなっていくからだ。その方たちに一刻も早く見せたいという感覚は、紙の上だけで資料を睨んでいては、決して得られないものだったろう。
そして、映画は「この町は原爆で一瞬にして無くなりました」とは一言も言っていない。それは観客ひとりひとりが遡るべき事実なのだろう。僕は、二年もかかってしまった。

夕方になってきたので広島城近くのホテルへ移動した。
翌朝は、前回と同じく広島港へと移動して、9時20分のフェリーに乗って、呉へと向かう。

(つづく

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2018年10月13日 (土)

■1013 一部で18禁指定されたプラモを組み立ててみた■

■GOODS PRESS(グッズプレス) 2018年 11 月号 発売中
Dpwebs9u4aifapd『ニンジャバットマン』監督の水崎淳平さん、キャラクターデザイナーの岡崎能士さんにお話をうかがいました。

アニメの取材は、「編集者に頼まれたら、やる」というスタンスに移行しつつあるので、この記事もプラモデルの特集を一緒にやってきた仲のいい編集者の頼みなので、断り切れず……という側面があります。
次号では、がっつりとプラモデルの記事をやりますよ!


さて、18歳未満に販売禁止なのかどうなのかよく分からないプラモデル、マックスファクトリーさんの「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」()。
43788870_319796821933738_6151905885「あんたがそこまで気にしてくれるなら」と言うことで、テストショットをいただきました。まず、裸体Ver.をザックリと素組みしてみました。
えらく情報量が多いので、組み立てたあとも飽きないです。たとえばお尻の膨らみを構成する面が、やけに多い。また、左右の肩の突き出し方が違うと、それだけで情報量が倍増します。肩から胸にかけての面の広さや方向が左右で違う!とか、無数の発見にあふれています。
同スケールのアニメ系、イラスト系のフィギュアが、どういう方向へアレンジされていたのか、再発見することにもなります。二次元的アレンジの入ったフィギュアは、ストレスなく、気持ちよく見られるように情報が整理されている。

天使もえさんのフィギュアは、誰の理想どおりにもアレンジされていないので、「お尻の横幅って、こんなにあるのか」「ウェストまわりって、こんなに平べったいの?」「ヒジって、こんな角度にひねることが出来るのか」「こうして屈むと、腰に窪みが出来るんだねえ」と、語弊を招く言い方だけど、見るに当たって“ストレス”があります。予想外の方向へ、予想外のボリュームがあったりする。
いろんな角度から見ていくと、それらのストレスが天使もえさんの「肉体の個性」なのだと分かってきて、自分の指先で組み立てたせいもあり、愛着がわいてきます。
成形色が一色なので、形が強く主張してきます。


僕は、この裸体Ver.を組み立てているあいだ、17歳ごろの気持ちになっていました。その歳で初めて異性と付き合ったせいかと思ったのですが、一晩考えてみると、違いました。
美術系の予備校で、裸婦デッサンをやっていたときの気持ちが、蘇ってきたんです。高校三年生から通いはじめたので、当時は17歳前後ですよ。油絵科には、高校二年生もいました。もちろん、男女混合のクラスで。
だけど、裸婦デッサンや、裸婦を油彩で描く授業があって、全裸の成人女性を間近にしていたのです。16歳や17歳の未成年の前に、陰部も隠さないヌードモデルが立つことがあったのです。

興奮するとか戸惑うとかより先に、正確に紙の上にデッサンしないと、講師に頭を叩かれます。たとえ全裸の女性でも、静物や石膏像と見ている側の感覚は変わらない。「裸が見られてラッキー」なんて下心さえ入りこむ隙間がない。あの、「単なるモチーフとして裸体を冷静に観察する」感覚を、「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」で体験できます。
綺麗だけど、興奮はしないです。「裸なんだから、もちろんエッチだろう」というほど、人間は単純ではないです。


そして、このキットの水着Ver.を組んでみると、「なんで布で隠してあんの?」という違和感が生じる。面白いことに、水着のモールドがあると「エロい」という視点が混入してくる。
Dscn0261_6328ようするに、「エロさ」「わいせつ性」とは、文脈が生み出すものではないでしょうか。「道徳的に見せてはいけないから隠す」、「隠されるべきものが露出している」、そうした文脈がないと、「ただの裸」はエロくなりようがないのでは……。
なので、実物を組んだあとで、ボカシの入った「1/20 天使もえ」の商品写真を見ると、ギョッとしますよ。ボカシがあると文脈が加わって、急にエロくなる。あと、顔や髪が塗装されていることも大きい。成形色一色だと、抽象性が高まるんでしょうね。

今回思い出したのは、高校生のときに (ヘアヌード解禁への流れがあった1984年ごろとはいえ)何も身に着けていない女性を前にしていたこと、それを興奮せずに観察していたことです。
もちろん後々、恋愛して付き合った子の裸を見ると、感動や失望や異次元の興奮や幸福に振り回されることになります。それは「人間関係」という文脈があるから。文脈を無視して、「裸だから」「乳首が見えているから」で隠すことは、僕には雑な感性に思えます。

「裸だからではなく、AV女優の模型だから、未成年の前に出すべきではないのだ」としたら、それは職業倫理や未成年の性意識が遡上にあがり、きわめてロー・コンテクストな問題となります。僕に、そこまでの専門性や思考能力は備わっていないので、まずはこのプラモデルがなるべく多くの人の手に渡ることを祈っています。
テストショットを組んだけれど、もちろん予約は取り消してないです。未成年にも買ってもらって、教材として役立ててほしいです。

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2018年10月 9日 (火)

■1009■

レンタルで、『ベルリン・天使の詩』。大学の頃に観て以来だから、30年ぶり。
Mv5bnjhlyzjjmdmtnja3zc00mgfhlwexntm本人役で出演しているピーター・フォークが、ブルーノ・ガンツの演じる天使に「見えないけど、いるな」と話しかけるシーンは、よく覚えていた。その会話が二度繰り返されることも、はっきり覚えていた。
何者でもない無知な大学生だった当時、どう感じていたのか……。いま観ると、体が震えるぐらい感動する、味わい深いシーンだ。ピーター・フォークは、天使の世界ではなく、人間の世界がどれほど素晴らしいか、短い言葉で語る。「指先に感じる冷たさ。気持ちいいものだよ。煙草、コーヒー。一緒にやれたら最高だ。絵を描くのも、こうして手のひらをこすり合わせるのも、素敵なことでいっぱいだ。こっちの世界に来るといい。僕は友だちだよ」。
ピーター・フォークがひとりで話している間、うしろのホットドッグ屋台の青年が、ちらちらと不審そうに見ている。その冷たい目線すら、とてつもなく贅沢で豊かなものに感じられてくる。


ピーター・フォークの言葉に魅了されたブルーノ・ガンツは、人間の世界に降りようと決意する。そこから先はカラー。一時間半ものあいだ、ずっとモノクロだったが、それは天使の見ている世界だったのだ。天使は、人間の心の声を聞くことができるが、会話はできない。その亡羊とした観念的な世界を、モノクロで描いていたのだ――と、分からせる。

天使の見ている世界は、何も特殊なSFXは使わず、他の俳優がブルーノ・ガンツの存在を無視することで描写される。お芝居だけで「天使がいる」「人間には見えていない」ことを表現している。演技だけで完結しているので、そのアイデアは映画の原理とは無関係だ。
Mv5botc0ntewnzyyof5bml5banbnxkftztyしかし、面白いことに、俳優として役を演じているピーター・フォーク、サーカスで天使の羽をつけて曲芸を見せるソルヴェーグ・ドマルタン。この2人だけが、天使の存在を感じている。「天使役の俳優がいるけど、見えないフリをしているウソの世界」がまず先行していて、その世界でさらにウソを演じている俳優や踊り子たちだけが、天使の存在を信じている。
入れ子構造にすることで、やや苦し紛れな作劇の強度が、内側から保たれている。


とはいえ、90分もの間、これといって筋のないモノクロの散文詩を見せられるのは、やや退屈ではある。映像がカラーになって、ブルーノ・ガンツが初めて「色」を目にして、「時間」を感じるあたりから、目が離せなくなる。ジャケットの格子柄、空き地に置かれた鉄パイプ、コーヒーショップの屋根、ありとあらゆるものが、息を呑むほど美しい。
撮影監督のアンリ・アルカンは、『ローマの休日』など、モノクロ時代の巨匠だ。

かつて、モノクロ・サイレントの世界は映画だけの聖域だった。カラー化・トーキー化によって、その聖域は崩されてしまった。ヴィム・ヴェンダースは、そのことに自覚的だったと思う。同世代の作家としては、初期のジム・ジャームッシュが好んでモノクロ映画を撮っていた。
1930年代後半、アカデミー賞はモノクロ部門とカラー部門に分かれ、1967年からモノクロ部門は消滅する。その頃のアメリカでは、すでにニュー・シネマの時代が到来していた。ネオレアリズモもヌーヴェル・ヴァーグも、過去のものだ。

『ベルリン・天使の詩』は、規律正しく、詩的な言葉に満たされた天使界を描くため、モノクロ・フィルムに文学的な役割を与えた。そこに画期性がある。
そして、カラーで撮られた人間界は、荒々しく混沌とした色彩に溢れている。ヴェンダースは、懐古趣味でモノクロ・フィルムを使ったわけではない。そこが嬉しかった。

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2018年10月 6日 (土)

■1006■

『ニルスのふしぎな旅』グラフィック展 本日開催
Dorztpdxcaej6x8_2本日から28日(日)まで、三鷹コラルで開催されています。春に開催した『この世界の片隅に』資料展と同じく、ディレクションを担当しています。

このパネル展の企画は、一年前の『魔法の天使クリィミーマミ』ビジュアル展でお付き合いの出来たぴえろさんからの私への持ち込み。私から三鷹コラル商店会さんに話して、実現しました。だいたい4ヶ月ぐらいかかっています。
『ニルス』の各話演出として参加した押井守さんのインタビューも行っていますが、これは『逆転イッパツマン』のムック本で、押井さんのインタビューを僕が担当していた縁です。そのとき、プロダクション・アイジーの窓口になってくれた方に、「ひょっとして『ニルス』のことでインタビューできませんか?」とお話しして、押井さんのお時間をいただきました。
実績と信頼がないと、こんなこと個人でやれないですよ。

もっと言うと、パネル制作のデザイン会社さんから見積もり書を出してもらって三鷹コラルさんに提出して、期日を決めて打ち合わせをして、ぴえろさんにデザインを監修してもらって……などが続き、絵を選んだり文章を書いたりは、全体の二割ぐらい。八割は、関係各所との調整です。


昨日の『1005 全年齢向けプラモが「18禁」として排除された話』()、このブログにしてはかなりのアクセス数があり、その間もフィギュア・メーカーや出版社の人たちから、さまざまな情報をもらいました。
股間にボカシを入れたのはメーカー側の手落ち、「さあ、18禁にゾーニングしてくれと言わんばかりではないか」と指摘されましたが、実はボカシが入るまでに二転三転あったとも聞きました。僕がいちばん最初に聞いた話は「股間には何もないので、ボカシは入れない」だったし、ランナーは何も隠さず展示してあったんです。
(メーカー側には、しっかり意思統一してほしかったですけどね)

その辺りの話は、映画『ぼくのエリ 200歳の少女』で、股間にボカシが入れられた顛末に似ています()。『ぼくのエリ』の時は配給会社がボカシを入れた犯人のように責められていたけど、実は「ボカシを入れないかぎり審査しない」と映倫が恫喝を行っていたのです。


さて、「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」が通販サイトで18禁製品にされた件、どんなリアクションがあるのかな?と、Twitterを検索してみました。
やっぱり、「AVが18禁である以上、AV女優のプラモデルも18禁であるべき」「裸なんだから、18禁に決まっている」との意見が多いように受け取りました。
「18禁」って、便利な言葉だと思いましたよ。みんな未成年のことなんて考えてなくて、「ゴミ箱」みたいな感覚で使っている。厄介なものは「18禁」というゴミ箱に放り込んで、そこから先は感知しない。

もうひとつ、僕のブログの文章や主張が「キモい」と笑いあっている人たちを発見しました。
「間違っている」ではなく「気持ち悪い」と言ってしまえば、そこから先の思考を放棄できるし、反論を封じられる。自分が言われてみて、初めて分かりました。
ライトノベルの表紙でも萌えキャラでも「気持ち悪い」で機先を制すれば、言ったもの勝ちで話にならなくなる。「18禁」「気持ち悪い」で、どんな議論も停止できる気がしてきます。

「裸なんて18禁」と言っている人は、「萌え絵なんて気持ち悪い」と言っている人と傾向が似てますね。自分からは、主体的に働きかけようとしない。だけど、自分の要求だけは通したい。


「18禁と決められたからには、18禁でいいだろう」と、完全に思考放棄している人もいました。
だけど、AV女優の裸だから表現規制だとか、メーカー側の表現の自由が……とか、そんな大げさな話ではないんです。

僕がライターになりたての頃、「バカバカしい」という言葉を原稿に書いてはならないと怒られたことがありました。理由を聞くと「バカは悪い言葉、人を罵倒する言葉だから」とのことで、文脈は無視。「バカ正直」という言葉をカットされたこともありました。
くだらない話のようだけど、表現規制って日常に忍び込んでいるから、誰にとっても大事な話題のはず。別に、エロ表現とヘイトスピーチだけが表現規制の対象ではないです。
だけど、いちいち筋を通していたら面倒。「決まりは決まりだろ」で意志も思考も放棄したほうが楽。物事に異議をとなえる人は「パヨク」で片付けてしまえばいいし、世の中の良くないシステムは「アベ政権」のせいにしておけば、自分は無力なままで鬱憤だけは晴れる。

「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」にボカシが入ったり、18禁に追いやられたことは、「面倒だから、誰か適当に処理してくれ」という怠惰な社会の、ほんの末端で起きた象徴的な出来事です。
だって、本気で「18歳未満に売ったらダメ、買わせてもダメ」と主張するなら、18禁製品に区分される前に予約した未成年の販売分は、キャンセルしないとダメですよね? だけど、Amazonもユーザーも、そんな面倒なことしないでしょ?  

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2018年10月 5日 (金)

■1005 全年齢向けプラモが「18禁」として排除された話■

先日の全日本模型ホビーショーで、初めてランナーが展示されたプラモデル「PLAMAX Naked Angel 1/20 天使もえ」()。僕は、業者招待日の9/28に拝見しました。
B3a9dbfac835a8605c3bdcb1bf0910e9当日は、オールヌードの組み立て見本の乳首はシールで隠してあったけど、ランナー状態には、特に目かくしはなし。
上記リンク先に明記されているように「裸体verは性器をあからさまに描写するものでなく、法律及び条例などに反したり、それらの適用を受けるものではありません」。メーカーの法務部とよく相談して問題なしと判断されたので、全年齢向けに発売すると、会場で担当者から聞きました。

9/28の午後から予約受け付けが開始されたので、帰宅してからAmazonで予約しました。そPhotoの時点でもう、「ベストセラー」のアイコンが貼られていて、「えっ、そんなに売れてんの?」とランキングを調べたところ、「プラモデル・模型 の 売れ筋ランキング」で第一位でした(左の画像は9/30時点のもの)。
おそらく、プラモデル購買者以外の天使もえさんのファンが買っているため、数字が跳ねたのでしょう。普段は買わない人たちがプラモデルを買う、それだけで大いに意義ある製品になったんじゃないか…と評価させるを得ないですね。

ところが、10/1、この製品はランキングから姿を消しました。「このページでは、アダルト商品および18歳未満の方には不適切な表現内容が含まれる商品を取り扱っています。 18歳未満の方のアクセスは固くお断りします」と、年齢確認のページが出るようになりました。
18禁製品はランキングに入れてもらえないらしく、「ベストセラー」のアイコンも外されてしまいました。


最初から18禁製品として開発・販売されているなら、別にいいんです。
だけど、ガンプラさえ追い抜いて第一位だったプラモデルが、いきなりランキングから抹消されたのには何か理由があるはず。Amazonに「どうして18禁製品に変えられてしまったのか」と、問い合わせメールを送りました。

「ご注文をお調べしましたところ、推測として、それぞれポーズの異なる、水着verと裸体verの2体セットとなります。また、当サイトで、Amazon.co.jpで販売する商品の判断基準は、常に変動しております」

これが最初の回答。では、「この製品(PLAMAX 天使もえ)に限っての判断基準とは何か?」、二度目の問い合わせメールを送りました。

「当サイトにて販売しております商品の、アダルト・非アダルト等の判断基準につきましては、申し訳ございませんが詳細を公開しておりません」

なぜ客が注文した製品の判断基準を、客が知ることが出来ないのか? 「もしかすると、外部の団体なり企業なりの圧力があって基準を変更したのではないか? もし答えられないなら、その圧力に屈したことになるのではないか?」 いささか大人気なく詰め寄ってみました。下が、最後の回答です。

「『外部の団体や企業からの“18禁製品にしろ”との圧力でもあった』との件につきましては、Amazon.co.jp利用規約に乗っ取りご案内をさせていただいておりますため、『答えられない』となります。『外部からの圧力に屈した』と捉えるかどうかは、お客様の判断にお任せいたします」


萌えイラストですら、匿名個人のクレームで簡単に撤去できる時代なので、何らかの申し出があったのかも知れません。第一位を裸のフィギュアに選ばれてくやしい大企業が裏から手を回した……と考えると面白くはあるのですが、Amazonが勝手に気をきかせただけではないか。ようするに、判断基準に厳格な理由なんてないんだと思います。
ともあれ、ランキング第一位だったプラモデルが、ランキングから抹消された。プラモデル村の一角で起きた小さな事件でした。
(僕はAmazonの予約を取り消して、18禁区分していないあみあみで予約しなおしました)

プラモデルの世界はロボットと萌えフィギュアが上位を占めてればいいのであって、AV女優のプラモデルなんて「特殊」なものはプラモデルの世界から追い出してしまおう的な幼稚な価値観を感じて、多様性のない貧しいムラ社会だなあ……と、僕は落胆しました。
メーカーの意向も法律も無視して、勝手に18禁製品に指定しているのは電撃ホビーウェブ、ヨドバシドットコムなど、たくさんあります。彼らにポリシーというほどのものはなくて、「AV女優で裸なんだから、18禁で“当然”だよね」「どっかからクレームが来たら面倒だよね」程度の、空虚な脊髄反射だと思います。
この件をTwitterにアップしたところ、「未成年がこのプラモを購入する→本物の天使もえについてもっと知りたいと思い始める→AV女優なので、18禁の媒体しか存在しない→ルールを破ってしまう幇助となる商品である」との憶測が、リプライされてきました。
でも、天使もえさんって全年齢向けのトークショーに出演してます()。AMATSUKA名義で音楽活動もなさっていて、音楽系のイベントでステージに立ってます()。

18歳未満にとって、AV女優って「存在してはいけないもの」なんですかね? 僕は中学の頃から、ポルノ女優である美保純さんを知っていたし、彼女が日清やきそばUFOのコマーシャルや『男はつらいよ』シリーズに出演しているのを、テレビで見てました。
高校生ぐらいになると、AV女優の黒木香さんが、バラエティ番組によく出演するようになりました。あれは違法だったのですか? 

AV女優は人目に触れてはいけない、一部人権を制限されねばならないのでしょうか? 隠さなければならない法的根拠はありますか? 「なんとなくエッチでヤバい気がする」から即物的に隠して、その理由すら聞くことができず、むしろ人権意識の低い国になっていませんか?
天使もえさんのプラモデルは、性器はモールドしてありません。なのに、どういうわけか白いボカシが入っています。一体全体、誰から何を隠しているのでしょう? 実際には何もないのに「隠す」心理の裏には、「女性器は猥褻なので社会から隔絶すべき」という頑迷固陋、旧態依然の価値観が根強くこびりついているように思えてなりません。

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2018年10月 2日 (火)

■1002■

ジンバブエへの旅立ちが一ヵ月後に迫り、仕事が山積みの中、ジーン・ハックマンとアル・パチーノ主演の『スケアクロウ』を、レンタルで。
Mv5bmtiyotaxntgwnl5bml5banbnxkftztyおそらく30歳をすぎてから観たことがあるんだと思う。アル・パチーノが刑務所でゲイに犯されそうになったり、子供を抱えて噴水に入り、変質者扱いされるシーンはよく覚えていた。
こんな異端者を描いたニューシネマなのに、なんとカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞している。この頃のアメリカ映画は、もう超大作でテレビを凌駕することをあきらめて、社会の裏側をシニカルに描いた低予算の映画が増えていく。

冒頭、2人の風来坊が何もない道で出会う。2人は馬が合わないが、タバコの火を借りるため近づくシーンで溶暗となり、軽快なメインテーマが流れはじめると、次のシーンは移動撮影で農家のトラックを追っている。荷台には、あれだけソリの合わなかった2人が、仲良く寝そべっている。「ああ、映画が始まった」と感じる。
カメラは停車したトラックを追いこして、振りかえる。ちょっと雑で前のめりなカメラの動きにさえ、人間くささを感じる。


ジーン・ハックマンは、妻に拒絶されて精神的におかしくなった親友のアル・パチーノを救うことができず、ひとりでピッツバーグ行きの切符を買おうとする。
ところが、少しだけお金が足りない。窓口の女性は後ろに並んでいる裕福そうな女性を先に通す。その間、ハックマンは靴を脱いで、カカトをはがして一枚の紙幣を取り出す。それでギリギリ、切符代に足りる。
カカトを剥がしてしまったので、ハックマンはカウンターに靴をガンガン打ち付けて、靴を直そうとする。その打ち付けている動きの途中で、バツン!と暗転して映画は終わる。

エンドタイトルが流れるのを見ながら、僕は全身が痺れたようになり、ただ呆気にとられた。貧乏なハックマンが靴でカウンターを叩く。カウンターの女性は、冷たい目で彼を見ている。ひょっとして、ハックマンは彼ら異端者を救おうとしない社会に対して怒っているんじゃないか――もちろん彼は、靴を直すためにカウンターを叩いているにすぎない。
「ひょっとして、靴でカウンターを叩くのは怒りの表現なのではないか」と思い当たるまでに、丸一日を要した。


これといって、凝った構図やカットワークが使われているわけではない。単純な切り返しだ。でも、粗野で朴訥な語り口だからこそ、俳優の芝居が生のまま投げ出される。その俳優の芝居を、カメラや編集が救うことはない。無駄に装飾することもない。
そして、演技の途中で、いきなり映画を終わらせてしまう。暴力的といっていい。賢くないし、綺麗でもない。
でも、だからこそ伝わるものがある。文学的な構図や機能的なカットワークが死に絶えたとしても、映画は死んでいなかった。

(C)1973 - Warner Bros. All rights reserved.

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2018年9月29日 (土)

■0929■

真木太郎プロデューサーが振り返る、もうひとつの「この世界の片隅に」戦記。 【アニメ業界ウォッチング第49回】
T640_779694アキバ総研では片渕須直監督に二回インタビューして、丸山正雄さん、松尾亮一郎さんと現場に近い方たちに聞いてきて、「次は真木さんだ」と担当者と話しているうち、一年以上も経過してしまいました。
『この世界の片隅に』を夢見られる企画から、現実的な事業へとシフトさせた人がいるはずで、それが真木さんだと思います。
真木さんと同じように、公開前に「いい作品になるだろうけど、お金は出せない」と、僕も言われました。背景画集やすずさんのフィギュア企画をどこか出してくれないかと、松尾プロデューサーと相談しながら営業していた頃です。
(唯一、公開前に商品化に踏み切ってくれたのがフジミ模型さんでした。それ以外は「お断りします」か、ノー・リアクションでした。)

公開後に「こんないい作品にお金を出さないなんて、バカですよね」と声をかけられましたが、公開前の「……ホントに大丈夫かな?」という冷たい空気は忘れられません。
『マイマイ新子と千年の魔法』がラピュタ阿佐ヶ谷で連日満席だった頃、ロビーで監督やプロデューサーたちと「今後どうすべきか」話したことがありました。その時のピリピリした空気感に、ちょっと近い。


最近はテレビドラマ版の『この世界の片隅に』が最終回を迎えたので、『この世界~』自体が終わったかのような雰囲気になってしまう。なぜなら、ドラマの方が観ている人の数が多いだろうから。
それはさすがに癪なので、12月公開予定の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を自分の仕事の範囲内で支援しよう、という気持ちになりました。年内実施予定の大きな企画が動いています。土浦や広島・呉に足を運ぶのは、そういう意味もあります。

ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会さんの編纂された『証言 記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町』()を読むと、またどうしても広島に行かざるを得なくなってしまいます。アバンタイトルの意味が、まったく違って見えてくるので、徒歩で中島本町を感じたくなってしまうのです。


おかげさまで、あちこちで「廣田さんは、プラモデルの記事、がんばってますね」と言っても42689803_1899286676831904_557801391 らえるようになりました。全日本模型ホビーショーのチケットをいただいたので、昨日の業者招待日に行ってきました。

ロボットアニメの製品化は、80年代だけでなく90年代の作品にまで広がりつつあります。当時小学生~中学生だった団塊ジュニア世代がボリュームゾーンを形成しているからです。
また、タミヤMMは中年向けのレトロ路線を継続しているように見えますが、本気で若い世代をお客にしたいのであれば、「頑張って塗装しろ、塗装しなくては作ったことにならない」70年代の価値観から脱却する必要があると思います。艦船模型やカーモデルは、それが出来ています。ズベズダやモンモデルがスナップフィットの戦車を出してはいますが、メジャーではないですよね。


昨日のホビーショーでようやくランナー実物を見られたのは、マックスファクトリーさんのPLAMAX Naked Angel 1/20『天使もえ』。
42686427_1899328483494390_1677407_3水着とオールヌードのAV女優のプラモデル・キットで、展示はともかく、メーカーの画像では、何もモールドされておらずツルツルの股間に、思わせぶりなボカシが入っています。『ぼくのエリ 200歳の少女』のひどい修正(「ないものを規制することによって、問題があることにしてしまう」)を想起してしまいます。一部の情報サイトでは、なぜか18歳以上向けに設定されています。一体、誰から何を隠したいんでしょうね?
幸い、製品の予約状況は好調なようですが、プラモデル業界・フィギュア業界は表現規制への認識が甘い(というかまったくの無防備)ので、リベラルな方たちが「女性をモノ化している」と抗議したら、一体どうなってしまうことか……。

だって、「新潮45」が話題になっているから手に入れようと思ったら、休刊でプレミア価格がついていて中身を確かめられない、息苦しい世の中ですよ?
「新潮45」を読みたい、と言っただけで「お前も差別主義者か?」と恫喝されかねない。自由とは程遠い、ひでえ世の中になっちゃいましたね。

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2018年9月25日 (火)

■0925 タミヤMMとガンプラのこと■

月刊モデルグラフィックス 11月号 本日発売
663●ひそまそ実写化計画
『ひそねとまそたん』を実写化するとしたら?という妄想に基づいて、いろいろな分野の方に取材する企画。今回は、元自衛官のタレント・かざりさんにインタビューいたしました。
かざりさんが星野絵瑠のコスプレをしている写真をTwitterで見て、編集部の返事を待っている間、どんどん交渉を進めて、マネージャーさんに取材の約束をとりつけました。
こういう取材は、条件が揃うのを待っていてもダメです。出来ることからどんどん進めて、出来た結果でベストを尽くすんです。

●組まず語り症候群 第71夜

今回はバンダイ製の「The特撮Collection 1/350 冷凍怪獣ペギラ」です。

月刊ホビージャパン 11月号 本日発売
616_2 ●タミヤMMが作りたい!
巻頭特集にて、「塗らずに素組みで成形色を楽しむ。」計4ページを構成・執筆しました。
これは、私が企画・構成した「ホビージャパンエクストラ」のページを見た編集者からの提案で、1/35スーパーシャーマンとアーチャーを塗装せずに、組み立て作業だけを徹底的に楽しむ企画になっています。

スタジオで組み立てながら撮影するので、完成ページをイメージしながら即断即決して、カメラマンさんに指示を出す必要があります。

塗装した瞬間から、プラモデルは「上手い/下手」の評価軸に組み込まれてしまうと思います。本人が気にしなくても、他人に見せたら「上手い/下手」の評価を下されてしまうでしょう。
最初から誰とも競わず、誰とも勝負しないフィールドで、孤独にプラモデルを楽しんでもいいはずです。少なくとも、僕はここ2年ほど毎日プラモデルを塗装しないで組み立ててきて、パーツ構成の発見があったり、あるいはメーカーの個性や姿勢や癖を理解したりして、楽しく過ごしています。別に色を塗らなくても、十分に面白いのがプラモデルという製品です。
「プラモデルなんて作ったことない」「色を塗らないとダメなんだろう」と思い込んでいる、模型誌なんて読まない人にも、気軽な楽しみ方を伝えたい(本当は伝えなくても、自然と浸透している状態が望ましい)。


『地獄の黙示録』公開の1980年ごろ、プラ板細工やパテの使い方を教えてくれた友人は、今ではまったくプラモデルを作っていません。たまに「今のタミヤのプラモデルは凄いよ」と目の前で買ってきたものを見せても、「工具がない」と言います。

『ガールズ&パンツァー』のヒットで、戦車プラモの人口は増えたと聞きます。だけど、工具や塗料がハードルになっていると思います。キットの内容以前の話です。
ガルパンのヒットを好機と捉えて商品開発したのは、プラッツさんだけではないでしょうか。極端に言うと、工具や塗料を自主的に買わない人は、お客さんと見なされていなかったのではないか。そうこうするうち、ガルパンの作品展開は「細く長く」のスパンに入ってしまいました。


先日、タミヤMM50周年を祝う会に出席したのですが、話す相手がいないので、早めに帰ってきました。ようは、内輪の集まりです。
ガンプラ50周年は再来年ですが、バンダイやサンライズがイベントを仕掛けるだけでなく、ムックがいっぱい出て一般誌が特集するだろうと思います。「ガンプラ50周年を祝う会に来てください」と街中で募集したら、10人ぐらいすぐ集まるんじゃないでしょうか。
今はガンプラを作っていなくても、思い出話で盛り上がる。というか、ガンプラの集まりではなく、同窓会でも「昔みんなガンプラ作ってたよねえ」と話題にできる。これはメディアとして強いです。

バンダイさんが「工具も塗料もいらない」商品形態を作り上げてキープしている努力は、大変なものです。1990年前後から成形段階での色分けをスタートさせ、塗装という概念を追い出してしまった。反面、どうしても塗りたい人のためにガンダムマーカーを出しつづける。上から下まで、右から左まで全方位、全世界に発信している。
40年前のキットが定価で売られているので、懐かしアイテムとしても機能している。このメディア力は、本当にバカにできません。驚異的です。


さて、タミヤMMはガンプラ発売前に隆盛を誇ったシリーズです。僕が小学生のころ、1970年代中盤には誕生会のプレゼントに最低一個はタミヤMMが入っていました(70年代後半にかけて、それがスーパーカーに変わっていきます)。
また、祖父や父親が頼んでもないのにタミヤMMを買ってきたり、親戚の叔父さんが74式戦車を買ってきて「俺も塗装してみたいから、道具を貸して」と頼まれたりしました。もちろん彼らは、模型雑誌も何も見ていません。オモチャ屋の店頭で、なんとなくタミヤMMを手に取っていたのだと思います。それはそれで、凄いことです。

その当時は、タミヤさんのメディア力がアニメ・ロボットのプラモデルを凌駕していたのでしょう。ガンプラ・ブームが沈静化した後、今度は完成品トイの巨大ブームが1990年代後半から世界を覆い尽くします。ガンプラがMGブランドを開始してステップアップしたのも、1995年のこと。
残念ながら、スケールモデルだけが取り残された形だと思います。この時に塗装済みでもスナップフィットでも何でもいいから、70年代とは別路線のスケールモデルを出していたら、現在の勢力図は塗り変わっていたと、僕は思います。
戦車プラモを食玩にアップデートして一般流通させたのはタカラトミーさんであり、海洋堂さんでしたよね。老舗のプラモメーカーではなかった。


さて、ガンプラ・ブームと完成品トイ・ブームを経て、スケールモデルの現在を見ると、やはり「塗装してなんぼ」の敷居の高い世界だけが、孤島のようにポツンと残れされています。
「ニッパーを持ってない」人は、お客ではない。お客になってもらうには、お客にコストを払ってもらう。こんな客まかせの商材って、他にあるのかなあと腕組みしてしまいます。
模型誌だけに閉じこもらず、一般誌でもプラモデルの記事を増やしていこう。いま企画も取り上げてもらっているし、実際に取材もしてもいます。まだまだ、やれることはいっぱいありますよ。

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2018年9月16日 (日)

■0916■

「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の主人公は、なぜロケットの座席に座ったままなのか?【懐かしアニメ回顧録第46回】
Dngredrvyaa5hegこの連載には、いつも悩みます。カットワークや構図のことを書ける機会が少ないので、なるべく演出の話をしたい。だけど、それでは読んでもらえない。なので、最後には誰もが「やっぱり良い作品、優れた作品だよな」と共感できるような、どうとでも解釈できる曖昧な結論を持ってくるしかない。
でも、主人公のシロツグが戦場で椅子に座っているだけなのは、特筆すべきと思います。戦闘機で初めて飛ぶときも、操縦は後席のパイロットが行い、シロツグは座ったまま。だから、「主人公が何もしてない」ように見える。
シロツグが主体的にやったアクションといえば、リイクニを押し倒したこと。あと、暗殺者を刺殺したこと。ようするに、道徳的に悪いことだけしている。そこから、この作品の倫理観が垣間見えるような気がします。


仕事の関係で観ておかねばならなくなり、『地獄の黙示録』(特別完全版)。
9848view0021980年代にテレビ放送で見て、その後は撮影の舞台裏を映画化したドキュメンタリー、『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』公開時にレンタルで観たので、1991年か。27年ぶりの『地獄の黙示録』は、若いときよりもずっと衝撃的だった。
僕は、劇映画の様式は1950年代に完成してしまい、あとは様式を壊す時代に入ったと思っている。70年代以降は、フレームの中の被写体をどう珍奇にするかしか、映画の進む道がなくなったのではないか……。

『地獄の黙示録』も、その説を裏づける。次から次へと、見たことのない戦場の様子が映しだされ、それだけで興味をつないでいく。冒頭は極端なクローズアップとオーバーラップが続くが、キルゴア中佐の登場する河からの上陸シーンで呆気にとられた。
Mv5bnzfkotfjn2etzjiwyy00mmflltk1odeカメラは長い時間かけて横移動しながら、河から戦場へ侵入してくるボートを追う。着陸する何機ものヘリコプター、小屋を押しつぶして上陸する装甲車、もうもうたる煙……。
フレームの中を、それはそれはギッシリと珍奇な被写体が埋めつくしているのだが、それをなめらかな横移動で撮るセンスがいい。


有名な「ワルキューレの騎行」を流した攻撃シーンも、ヘリからの主観カメラを主体に、たえずカメラが動きつづけている。地上からの視点では、PANでヘリを追う。
Mv5bnjgznwi4ywitnmrlms00nmy1lwe1zweフレーム内で起きていることは暴力だが、カメラの動きは優雅。そこが狂っているのだと思う。もしカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した理由が“芸術性”ならば、被写体と動きとのギャップに、それが宿っているんだろう。被写体そのものは通俗的なので、撮り方によっては凡百のアクション映画になっただろう。
撮影は、80~90年代にかけて大作を続々と撮ったヴィットリオ・ストラーロ。


だけど、『地獄の黙示録』はオタク向けというか、内にこもった映画だと思う。
兵器や美女を「本当はこうじゃなかったんだろうな」「面白く描いてるんだから面白がってもいいよな」と、無責任に観ていられる。同じ戦争を描いていても、『カティンの森』や『サラエボの花』のように社会に向けて告発する映画ではない。
『地獄の黙示録』を観ている間だけは、映画のために映画を観るだけのシネフィルや素人評論家でいても許される。「芸術として評価される余地」とは、すなわち「ビール片手に笑いながら見られる領域」という気がする。ゾンビ映画を笑って見るのは当たり前なので、それとはちょっと違う……賢しらぶっている自分を楽しむというか。

先日、広島と呉を歩いて『この世界の片隅に』、ひいてはフィクションへの認識が変わったように思う。歩くことで、頭の中の地図が出来上がっていって、自分の限界を少し壊すことが出来た。

(C)Zoetrope Studios

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