■0808 雨女さんのこと■

先日、離婚のことを書いたので、正確な時期を確かめたくてこのブログを最初まで遡ってみた。2006年2月14日に離婚届が提出されたことを、三鷹のキャバクラにいる時に知ったのだった(半年ぐらい前から三鷹のマンションに部屋を借りて別居していた)。
その年の5月には、吉祥寺のキャバクラに勤務する24歳の調理師(ブログでは雨女さんと呼んでいるが、本名で勤めていた)とお好み焼き屋に行っている。近鉄近くの「まりや」という老舗だ()。
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確か、雨女さんは給食センターで働いていた。吉祥寺駅で待ち合わせると、「見て見て、新作新作~」と笑いながら現れて、仕事中に出来た小さな火傷のあとを見せてくれた。よく同伴(客と店外で会って、そのまま店へ出勤すること)して、駅で待ち合わせていた。
僕が缶ビールを飲んで待っていたら、横から「のど乾いた」と僕が飲みかけのビールを横取りして、一口飲んだりもしていたらしい(ブログを読み返して気がついた)。間接キスじゃないかと思うのだが、べつに性的な関係ではなかった。キャバクラに来る客は、みんな嬢を落としてセックスしたいんだろうと思うかも知れないが、そんなことは一度も考えなかった。

明け方のラーメン屋や焼き肉屋、吉祥寺の行ってみたい食べ物屋を開拓したり、たまには浅草へ行ったり遊覧船に乗ったり、劇団四季の『ライオン・キング』を観劇したり、8月には『ハチミツとクローバー』の映画に行ったり……と、そんなに仲良くしてたっけ?と、16年前を思い返して驚いた。今年40歳の彼女は、結婚できただろうか?
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「いま24歳なら、26歳までに彼氏ができるよ」と、よく僕は根拠もなく言っていた。「もし出来なかったら、責任とってよね」と雨女さんは必ず返した。「いい女じゃん」と誉めると、「いい男じゃん」と僕の肩をポンと叩く。
(吉祥寺の古いピザ屋に行って、机のうえにピザが落ちてしまっても「セーフセーフ」と気にしないように言ってくれたり、そういう磊落な言動も好きだった。)
「ああいう店の女はぜんぶ演技だろ、金目当てだろ?」「あんた騙されてるだけだよ」と遊んだ経験のない男は言いたがるけど、まあ、そうやってつまらない白けた人生を歩めば?としか返しようがない。場数を踏むと、「いまのは営業だよね」と分かるようになっていく。その独特の気まずいムード、嘘だと分かっているのに気がつかないフリをする息苦しさを知ってから言ってほしい。

丁寧に、だけど大胆に離婚手続きをやった直後なので、この時期の日記には、すこし寂しいほどの自由な風が吹いていて、自分のことなのに「うらやましい」などと思ってしまう。「これからは自分だけの人生だ」という、悲しいぐらい清々しい解放感……。


一度など、吉祥寺にあったメイド居酒屋に女性の編集者と雨女さんの3人で行ったことがあった。よりにもよって、仕事相手とお気に入りのキャバ嬢を会わせるのかよ、どういう意図で!?と、我ながら思う。40歳前後のころは、まだ人間に興味があったのだろう。母が死ぬ前でもあるし……。
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誕生日でもない時に、何度かプレゼントも貰っている。このクジラの形をしたスプーンは、いまだに使っている。
でも、メイド居酒屋へ行ったことでコスプレへの憧れを告白した雨女さんが、店のハロウィン・デーで安っぽいメイドの格好をして、さらに『ファイナルファンタジー』のコスプレ姿の写真を見せてくれた時、僕は覚めてしまった。「いいじゃん、君の好きなように生きなよ」と言える度量さえなかった。つまらん男だった。

そのコスプレ写真以降、雨女さんの店へは足が遠のき、僕はくだらない店で嬢の顔すら覚えていられないほど酒に溺れるようになった。雨女さんに熱心に貢いでいたとか「遊びのつもりだったのに真剣に恋してしまった」とか、そういうんでもない。別の店でも遊んでいたから、彼女に固執していたわけじゃない。だったら、そこそこの距離を保って雨女さんと仲良くしておけばよかったのに、僕にはそういう心の広さがなかった。彼女のコスプレ姿を嫌悪してしまった。


それから後は、中央線沿いのアニメ会社の人に誘われるようになり、キャバクラ遊びのパターンが変化した。
吉祥寺のガールズバーで客の男と仲良くなって、深夜に何度か待ち合わせて、今でも思い返すような楽しい遊びもした。だけど、雨女さんみたいに顔と名前を思い出せる嬢は一人もいない。相手の顔も分からぬほど泥酔しているのに閉店後にデートしようとしつこく誘ったり、見苦しい失敗を重ねるようになった。
しかし、ただ黙って向かい合っていても気まずくならない雨女さんを、しつこく追うようなことはなかった。誰のことも追ったりしなくなったし、追われもしない。昨日も今日も、ひとりで静かに過ごしている。この平穏を手に入れるのに、10年かかった。

何年かしてから知り合った女性に雨女さんのことを話したら、「その子すごく良い人だったじゃない!」と絶句された。どうしてそんな良い人と距離を置いてしまったのか……、というニュアンスだった。「いや、あの人はそういう相手じゃないよ」と誤魔化したように思う。でも、それは嘘だよ。いまこんなにも思い出しているのだから。あの豊かな、気負わない、疲れない、柔らかい関係を。

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2022年8月 6日 (土)

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昨日は夕方から打ち合わせだったので、その前に東京オペラシティアートギャラリーへ行った。
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「ライアン・ガンダー われらの時代のサイン」がメインの展覧会だが、その上のフロアで開催されていた「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展 色を想像する」、こちらの方が良かった。コンセプトが明確で、さまざまな作家の筆致を堪能する喜びがあった。


このブログでも、ちょくちょく触れていたフェミ騎士のシュナムルさんが、Twitterアカウントを消したという()。
以前からシュナムルさんの嘘くさいツイートや食べ物の写真を分析し、彼の「高学歴で妻子持ち」というプロフィールはすべて嘘で、「そのような暮らしをしている弟夫婦の家に居候している低学歴の無職男ではないのか」と推測していた研究者の言葉を、僕は丸呑みにはできない。
おそらく、アカウントを消す直接のきっかけになった「妻(仮)」という女性は、シュナムルさん本人か、シュナムルさんの本当の奥さんではないかと思う。シュナムルさんの奥さんは彼の言葉によると「イギリス人の研究者」なのだそうだ。その人と結婚するにいたった会話がいかにもウケ狙いの作り話っぽかったので、そういうプロフィールの部分では必死に見栄を張って、その嘘をつき通せない事態になって慌ててアカウントを消した。それは間違いない。
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上のスクリーンショットにあるように、本当に自信のある人は、自分のことを「強者性」なんて言葉で粉飾したりしないんだよ。「私など大した人間ではないので笑ってやってください」という泰然自若とした余裕が、シュナムルさんにはまったく無かった。隙あらば威張って、他人を罵倒していた。他人の意見に対して「クソゴミ」とか書いてしまう人は、「本当は自信ないんです」と告白しているようなものだ。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、上のスクリーンショットのように、自分は嫉妬されていると思いたがる。丸裸の自分に自信がないから、理想の自己像をつくりあげて、その「もうひとりの自分」が常に尊敬を集めていないと気がすまない。他人の評価を、ものすごく気にして些細な批判も許さない。シュナムルさんは、自己愛性パーソナリティ障害のサンプルのような人だった。


以前にも書いたことがあると思うが、僕は三年間の結婚生活があまりに苦しく、最後の一年ぐらいは2ちゃんねるやmixiでネカマを演じていた。いま思うと、妻の暴言や侮辱に追いつめられており、男性の読者たちにチヤホヤされることで安息を得ていたのだと思う(独身男性板に、よく書きこんでいた)。

その代わり、自分が演じる女性の設定や言葉遣いは考えに考え、わざと漢字を打ち間違えたりした(「考えの浅いドジ」という設定にしたほうが、相手も寛大になってくれるし、何かと便利なのだ)。mixiでは二人の女性を並行して演じ、彼女たちがネット上で喧嘩している設定にしたときは、僕の正体を知らない女性のマイミクが片方のキャラクターに「大丈夫?」と、心配してメールをくれたほどだ。
表層だけ見てあっさり信じてしまう迂闊な人と、「本当に女か?」と疑いながらも、僕の虚構の日々に対して、真摯に意見を言ってくれる人もいた。
妻は関西出身で、いろいろと女性らしい趣味も持っていたので、それを参考にすることができた(今にして思うと、妻のほうが見えっぽりで高圧的で、自己愛性パーソナリティ障害の気があった)。

ただ、女性を演じることに性的な興奮は感じなかった。自分が受容されさえすれば、性別などキャンセルしたいという気持ちが強かった。
(電車男の流行っていたころだから、2005年ぐらい。まさに、離婚の前年だ。)


離婚後はリアルな恋愛関係が自分を安定させてくれるのではないかと信じて、いろいろな女性に声をかけてみた。
しかし、まったく相手にされず、「じゃあ、もう恋愛はいいや」とあきらめた頃、なぜか女性たちが近づいてきて、はっきりと恋愛感情を示してくれた。会うたびに服を褒めてくれたり、妻があれだけバカにしていたライターの仕事を高く評価してくれた。

その過程で、「俺はどう頑張っても俺でしかない」という諦めとも度胸ともつかないアイデンティティが形成されていった。
自分を粉飾するのに疲れると、本来の自分のセンスだけが残る。その短い刃を研いで、よく切れる武器にすれば良いではないか(と言うより、それ以外に何ができる?)。
僕の武器がどんなに短くて無様でも、恥じることじゃない。笑うヤツには笑わせておけ、その方が有利じゃないか……と思えるようになったのは、10年ぐらい前ではないだろうか。
母が殺され、ひとつひとつの難問に法的に対処して、親戚だの何だの人間関係に期待しなくなったころだ。その頃は「どうとでもなれ」「どうにかなるさ」という丸裸な気持ちだったのに、女性にモテた。彼女たちが、母の死について実務的なことで手伝ってくれたことさえある。愛されていたと思う。でも結局、「女性と話したくなったらガールズバーに行けばいいじゃん」という結論に達した。
(正直に「あの後、ひとりでセクキャバへ行った」と言ったら、相手の人に泣かれてしまった)

いまは再び、完全な非モテ期に入って久しいが、僕は自分で自分を、十分に魅力的な人物だと思っている。
(男女を問わず)他人にそこまで深い関係を期待してないし、興味もない。自分の仕事の邪魔さえされなければ、誰からも愛されなくても褒められなくても、へっちゃらなのだ。
こんな気持ちになるなんて、離婚直後の僕には想像もつかなかった。


ようするに、見栄をはって嘘をつきつづけている人は未熟だし、人生辛かろうね、ということ。
シュナムルさんのツイート、とくに娘が幼いのに読書家で俺の難しい話も理解してくれる……という部分は、あまりに幼稚で狭くて堅苦しい理想が込められすぎていて、白けてしまう。人間をよく知らない人の想像って、どうしても薄っぺらくなる。だから、職業や学歴で嘘をつくしかなくなる。
奥さんにしたって、「研究者のくせに、家ではバカまる出しです」とでも言った方が愛情が出るじゃない、ウソつくにしても。「料理が上手くて、ママ友からも褒められる」という理想だけで固めるから、ますます嘘っぽくなる。

そういえば、何とかして廣田の自信を揺るがしてやろうと嫌みや皮肉を言う人がいるけど、無駄なことですよ。自分に期待しなくなったから、僕は自分の魅力に気づけたのだから。僕は、ハゲて枯れたオジサンです。でも、だからこそ素晴らしい。この人生が面白いし、自分が好きだ。

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2022年8月 4日 (木)

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80年代ロボアニメで「主人公メカの量産タイプ」といえば、「特装機兵ドルバック」のキャリバー(グンゼ産業)しかないよね!?【80年代B級アニメプラモ博物誌第24回】
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いつもの連載、旧キットの素組みレビューです。コメント欄で、ちょっと怒られてしまった……次回から、ちょっと気をつけます。


先日の猛暑日、ある監督さんの取材に出かけた。乗り換えに手間どって、汗だくでスタジオにたどり着いた。
先についていた編集者は、もちろんマスク。だけで、僕はぜえぜえ言うほど息を切らしていたので、マスクせずに雑談していた。会議室で監督を迎えるときは、使い古したマスクを便宜的に着用。それはマナーではないかと思った。
しかし、監督さんは「あっ、マスクしないとね」と、名刺の受け渡しの挨拶の時のみマスクをつけて、インタビュー中はマスクを外してらした。こちらが写真を撮る都合もあった。

取材後、また38度の猛暑の中を駅まで歩くときは、僕はマスクを外した。編集者はマスクしてたと思う。
ただし、電車に乗る時は僕もマスクをつけた。ずっとマスクをしている編集者が、僕のせいで「あいつらノーマスクで話してるぞ」と周囲から白い目で見られるのは、さすがに可哀そう。そこまで、僕は頑固に我を通そうとは思わない。ケースバイケース、柔軟でいいじゃないか。


その前日、国立新美術館へ行った。
Twitterで検索すると、「ノーマスクの客がいた」「美術館側は注意すらしない」と文句が書かれていた。なら、マスクしなくても大丈夫だ。
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ルートヴィヒ美術館展、どうしても見たかったわけじゃないが、ひさびさにアートに触れる解放感を味わった。
やはり僕は、抽象画に心打たれる。カール・オットー・ゲッツ、ウィレム・デ・クーニングの絵を、監視員の人に不審がられるほど、何度も見た。


(以下、経緯を知らない人からすると妄想のように読めてしまうかも知れないが……)
母を刺殺した父は、もともと高圧的な人物だった。
ただ、問題の本質を直視する勇気がない。飼っている犬のふとももに大きな腫瘍が出来たときも、「あれはオデキだ」と言って譲らない。手術して切り離さないといけないほど大きな腫瘍なのに、口先で事態を軽く見せようとする。
もっと昔、僕が中学か高校のころ、やはり犬が具合が悪くなってしまったので、一駅離れた病院へ連れていこうと提案した。父親は大げさに目をむいて、「誰がどうやって連れていく?」と信じられないように言った。 自信がない人って、どうやれば実現できるかを考える前に、「不可抗力には逆らえない」ってポーズをとりたがる。ただ勇気がないだけなのに、被害者であるかのように振る舞う。

決定的だったのは、兄(長らく精神病院に入院しており先々月、アパートの外で死んでいたと警察から連絡をうけた)が父の机から現金を盗みはじめた時だ。
僕は、兄が父の寝室から出てくるのをはっきりと見た。その直後に現金がなくなっていたのだから、兄が盗ったと考えるのが合理的だろう。しかし父は、「盗む瞬間を見たのか?」「証拠がないだろう?」と、決して兄を追求しようとしない。自分の息子が窃盗を働いたと認める勇気がないのだ。
僕が適当に「本人が盗んだことを覚えてないのかもな」と出まかせを言ったら、「な? な、そうだろう?」と耳当たりのいい、都合のいい、解決方法を模索しなくていい意見には飛びつく。結果、兄は80万円もの借金をつくり、(本人に返させればいいものを)父はその全額を返してしまった。取り立て屋が実家周辺をうろつくようになり、引っ越しせざるを得なくなったという。(そうした愚策のあおりを受け続けたのが母であった)

本当に解決しなければいけない問題を直視せず、的外れなところで余計な苦労をする。無意味なことで汗を流して、努力している気分だけを表面的に味わう。やがて、取り返しがつかないほど問題が巨大化して、人生を台無しにしてしまう。
大学時代に片思いしていた女性が「違和感のあることを続けていると、いつかとんでもない結果になっちゃうのよ!」と言った。ゾーッとして、僕はその人をあきらめる気持ちになれた。


とりとめない話を思い出してしまうのだが、20代半ばに交際していた女性には、2歳の子供がいた。
それは、何人もの女性と同時に付き合うモテモテ男に騙されて、孕んだ子供であった。結納の日、その男が別の女を連れてきて、婚約がご破算になったのだという。彼女は添加物が大嫌いで、子供に使う石鹸、シャンプー、食品や調味料、すべて無添加専門店で高いものを購入していた。
それは、子供の健康のためでもあろうが、自分を騙した男のような「悪いもの」「外部」を遠ざける護符のようなものに、僕には見えた。普通のスーパーで売っている洗剤を、彼女は「毒」と吐き捨てるように言っていた。

今のコロナ対策パニックにも、同じものを感じる。

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2022年7月31日 (日)

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こんな時代だから、若い子たちががんばれるアニメにしたかった! 劇場版『Gのレコンギスタ』完結に向けて、富野由悠季監督の言葉を聞く【アニメ業界ウォッチング第90回】
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富野さんにはもう何度インタビューしているか分からないけど、だからこそ、ナアナアにならないように気をつけたいと思った。
このインタビューの時は機嫌がよくて、僕が『G-レコⅣ』のここが良かったと褒めるたび、「うんうん、あそこはね……」と反応がスムースだったので、だからこそ緊張感を記事に出さないといけない。実際には中盤にあった『キングゲイナー』のやりとりを、記事の最初に持ってきたのは、「つかみ」でもあるけど、ちょっとピリッとした空気を出したかったからです。

こんな感じに、インタビュアーは聞くだけでなくて、持ち帰った素材を構成して演出しています。
だから、自分が可愛いインタビュアーは、さもインタビューイと仲がよい感じに、自分が頭のいい感じに構成します。僕は、「このインタビュアーはバカじゃないの?」「コイツわかってないな」と思われた方が、記事としてはメリハリがつくと思います。嘘をつかずに優れた記事を書いたほうが読む人が喜んでくれて、もっと大きな視点で自分を肯定できる。

なので、インタビュアーがしっかり主体性を持っていないと、単に「著名人やクリエイターと会って話せた自分が可愛い」自慰行為のようなだらしない記事になってしまう。あるいは、「だってインタビューイがそう話したんだから、そのまま書くしかなかった」という他責的な仕事になってしまう(社会の半分ぐらいの人は、そういう仕事のしかたをしていると思います)。
「主体性がある」というのは、自分の主張をくどくど書くことではなく、必然性のある構成を考えること。偉そうに粉飾しないで、読者さんにとって分かりやすい記事にすること。それがインタビュアーの主張ですよ。


最近観た映画は、『最強のふたり』、『愛は霧のかなたに』、『それでも夜は明ける』。どれも二回目。
特に『それでも夜は明ける』は、ひとつひとつのシークエンスはよく覚えていたのだが、今回はその端正な撮り方に唸らされた。
たとえば、主人公が白人の労働監督官を殴って、縛り首にされかけるシーン。まず、木にかけられたロープが画面を斜めに切りさくように位置している。次に、この構図。
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主人公はつま先で必死に立ってないと首がしまってしまうので、じりじりと苦しそうに動きつづけている。このカットは、やけに長いな……と思っていたら、後ろの小屋から同じ黒人の奴隷たちが出てくる。彼らが苦しんでいる主人公を助けるのかと言うと、主人公を無視して仕事にとりかかるだけ。ただ静かな、いつもの風景なのである。
まさか、このまま見殺しなのかと思っていると、この構図のまま画面左側から女性が足早にフレームインしてきて、主人公に水を飲ませる。水を飲むところで、ようやくアップになる。

……が、構図はより痛烈になる。苦しむ主人公の肩越しに、親子で楽しそうに遊んでいる黒人たちが見えるのだ。
この長い時間は、主人公の吊るされていた時間でもあるが、黒人たちが奴隷として苦しんでいた歴史的な長さでもある。なので、構図も「奴隷が苦しむことが日常である」比喩的な意味をまとう。
奴隷の才能に理解のある白人の家主が馬でかけつけ、ようやく主人公を吊るしているロープを切る……バタッと地面に倒れた主人公は映さず、アクションカットで屋敷の床で倒れている絵につなげている。ここで安堵した主人公のアップでなく、前シーンから続く構図なのは「状況は何も変わっていない」ことを表わしている。単なるシーン転換のテクニックとは言い切れない。

こうした発見に満ちた啓発的な映画は、実は20本に一本ぐらいしかない。
しかし、上に書いたことは僕にとって新しい発見ではない。優れた映画は、すべてこれぐらいの演出効果を持っているからだ。なので、どうすれば驚くべき映画と出会えるだろうか、それとも劇映画が僕の人生に果たす役割は終わったのかも……と考えている。


また、19世紀の奴隷制度を描いた『それでも夜は明ける』に惹きつけられるのは、強者が理不尽な暴力で弱者をもてあそぶ、いつの世にも通底する真理を描いているからだろう。
僕は色が生白くて不格好で、おどおどしているいじめられっ子の癖に、40年ぐらいかけて自己実現できた。でも、だから妬まれる。仕事上で脅されたことも、数知れない。それを不公平だ被害者だと嘆くぐらいなら、僕は対策を考える。母が父に殺されるという異常な状況でさえ、僕は感情ではなく実務で切り抜けることが出来た。一週間後の自分の心を平穏にするため、今日は何をすべきか考える。
多数派のなかで安穏と生きてきた人は、戦略を立てられない。草食動物には、狩りをすることは出来ない。残酷なようだが、それが理不尽に嘲笑されてきた僕の答えである。

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2022年7月24日 (日)

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フィギュア2体と宇宙船1機のセットで、税別2,600円! ハセガワの発売する「ダーティペア」のプラモデル、開発の裏側【ホビー業界インサイド第82回】
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ぴあMOOKや乗りものニュースなど、あちこちでお世話になっているハセガワさんの発売前のキット、取材させていただきました。


おととい、「僕は今は楽しく暮らしているけど、本来はいじめられっ子で……」という話を書いた。
その翌日、決定的なことが起きた。何軒か、徒歩圏内に行きつけの喫茶店がある。いつも、わりと常連客と店員たちが集まって雑談している店があって、そこへ入って本を読むことにした。
この暑さだし、もちろんマスクなんてしない。店内に入っても、店員に「トーストとホットコーヒー」と言うだけなので、マスクはしない。僕は、唾を飛ばしあう雑談に加わるわけじゃない。ひとりで本を読むだけだ。

ところが、僕より少し前に入店して雑談していたおじさんが、聞こえよがしに「こんなに感染者が増えてるのに、マスク外してるバカが増えたからよお」と、店員に大声で話しはじめた。こういう時、僕は聞こえないふりを徹底する。僕に向かって言っているのではなく、店員との世間話なのだから、反論する必要もない。
「今だって、コロナで人が死んでるんだぜ? いまマスク外しているのは、よっぽどのバカだよなあ!」と、おじさんは「バカ」に力をこめて話しつづけた。無視。運ばれてきたコーヒーを飲みながら、あまり気にせず読書していた。
若い店員のお兄さんはマスクについては言及せず、「まだまだ感染者が増えそうですもんねえ」と話を合わせていた。

それ以外におじさんが口にしていたのは、「疲れた」「医者の顔なんて見たくもねえよ」「この半年ぐらい、面白いことなんか何ひとつねえよ」といった中身のない愚痴ばかりだった。「医者」というのは、おじさんは杖をついて片足を引きずっている高齢者だったから、どこか悪いのだろう。
他の常連客(みんな70代だろう)は、「それでウンコがさあ」「ションベンがよお」……ここまで品のない店だったかな? 


さて、コーヒーは来たが、飲み終わってもトーストが運ばれてこない。こんなことは初めてだ。注文を聞き忘れていたのだろう。
まあいいかと思い、席を立って会計をすまそうとすると、店員の青年が「えっ?」という顔をした。カウンターの奥から、女主人も「いま、トースト焼けますよ?」と言う。だって、もう15分ぐらい経過してるよ?
青年は「コーヒー、もう一杯いかがですか」「サービスしますよ」と、引き止めようとする。僕は決まりが悪くなり、「今日はちょっと時間がないので」と、変な断り方をしてしまった。「でしたら、お代は結構ですので……」「また、おいでになってください」と、青年とご主人は口々に言った。僕は財布から取り出した500円硬貨をしまうしかなかった。何か抗議したかったのではない、本当にトーストの注文を聞きそびれたのだろうと思ったのだ。

でも、形としては、僕が「マスクしてないバカ」と、ほとんど真横で怒鳴るように言われたから、不愉快になって逃げ出したみたいだ。店側からすれば、客と一緒になってマスクしてない客を追い出す形になってしまった。
僕はお代を払いたい、店は受けとらない。その押し問答の間、口の悪いおじさんは黙ったままだった。チラリとおじさんを見ると、コーヒーを飲んでいるはずなのに、しっかりとマスクをしていた。


僕は、このどんよりした気分を吹き飛ばしたくて、暑い中がんばってもう一軒の喫茶店まで歩いて、ひとり静かに読書を続けた。
客は僕ひとりだけだったが、ベビーカーの赤ちゃんを連れた夫婦が来た。何か言われるのではないかと身構えたが、静かに雑談している夫婦のうち、ご主人はマスクをずらして顎にかけていた。

図書館で本も借りたので、気分転換は出来た。
ふと駅前を見渡してみると、とくに女性で、マスクをしていない素顔の人が多く歩いていた。「マスク外しているのはバカ」おじさんは、その光景を見て、何か焦ったのだろう。
おじさんは二度も「疲れた」「医者の顔など見たくない」と言っていた。「自殺するとしたら」という話までしていた。つまり、もともと人生が退屈で不満がたまっている。そういう人は、論点をすり替える。「学歴のせいだ」「出身地のせいだ」「持病のせいだ」「コロナのせいだ」と、外に原因をつくりたがる。ツイフェミなら、本当は自分の嫉妬や憎しみがイライラの原因なのに、「性的な広告のせい」「萌え絵のせい」にして、自分の心の問題を直視しない。

また、人生が楽しくない、上手く行っていない人は、とにかく頑迷固陋で融通がきかない。柔軟性がない。賢い人はこだわらないが、バカは執着する。何もかも枯渇した“終わった”人は、自分をも不幸にする理不尽なルールにこだわる。おじさんは「緊急事態宣言を出すべきだ」とも言っていた。「だって俺は、こんなにも我慢してるんだから」……その奴隷根性が、最後のアイデンティティになってしまうのだ。


さらに気をつけなければいけないことは、僕がヒョロッとしていて反撃してきそうもないから、あれだけ近距離で「マスクしてないバカ」と言えたのだ……ということ。攻撃してくる人は外見を見て相手を決めているんだなと、改めて思った。僕は、いじめやすい外見をしている。それを実感させられた。
いきなり体形を変えることは出来ないのだから、せめて背筋を伸ばして、胸を張って歩かないといけない。またマスク警察が来たら、練習の意味で、ちょっと言い返してみようかと思う。マスク警察ではない、普通のマスク愛好家とは、争いたくない。自由を奪う人間には抵抗する。


最近観た映画は片山慎三監督『さがす』、『そこにいた男』、クロエ・ジャオ監督『ノマドランド』、『エターナルズ』。

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2022年7月22日 (金)

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富野由悠季のアクション演出――「OVERMAN キングゲイナー」に見る単純さと複雑さのバランス【懐かしアニメ回顧録第92回】(
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単純明快なカメラの動きと、あいまいで混沌とした台詞のかけあいとを第一話から選び出しました。
『キングゲイナー』は居住環境の圧迫という問題、ひとりひとりが役割をこなすべきとする組織論、そして何だか要領を得ない台詞という意味では、富野成分がたっぷりです。他にも、牢獄でのパンと水のやりとりにはネオ・レアリズモを想起させるリアリティがあります。


横浜、山下公園へ仕事の都合もあってガンダム像を観にいった。
前日、ホテルに泊まったので久々に夕飲みしようと赤レンガ倉庫へ出かけていった。
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汗だくになって目当てのレストランに着くと、強烈な西日。なので一杯で退散したのだが、帰りにトイレに寄ってみてギョッとした。その日は、誰でも着るようなTシャツとワイシャツを組み合わせていたせいだろうか、鏡の中の自分の大きすぎる頭、バランスの悪い体形、間の抜けた顔つきがみすぼらしく見えて仕方がなかった。同じテラス席が、リア充の男女で賑わっていた影響もあるだろう。
いつもの、一人で飄々としている僕ではない。みじめな気持ちで猛暑の中をとぼとぼ歩き、中華街で居酒屋やバルを物色するうち、またいつもの自信が戻ってきた。僕は僕でしかない、この逆境をパラダイスに変えるセンスが僕にはある。

しかし、僕はあらためて、生物的な出来損ないなのだと実感させられた。
喫茶店で注文するだけでも「ハイ?」と聞き返されるほど、発音ができない。歌も下手だったので、合唱の練習では隣の男に「オンチさん」と呼ばれて、からかわれ続けた。体育も苦手で勉強もできなかったので、「少なくともアイツよりはマシ」という格好のターゲットとなり、いつも誰かしらの劣等感を糊塗するネタとして使われていた。

でも、その試練があったからこそ、自分の豆電球ほどの能力を活用して、積極的に工夫を重ねて、今のように毎日を楽しく過ごせているのだ。僕の人生は発明とは言えないまでも、一種の開発であることは間違いない。
たとえば、僕なんかと違って体形も顔も良くて、女性にも普通にモテるような人が「廣田さんはズルい」という意味のことを言う。つまり、大多数の人は自分の欠点と正面から向き合う勇気など持ち合わせておらず、まして欠点を克服した人間の存在など許せないんだろう。だから、何とか足をすくって元のいじめられっ子の居場所へ戻してやろうと陰湿な嫌がらせをしてくる人がいる(40歳になっても50歳になっても!)。
でも、僕のような出来損ないを目のカタキにしている、ちっぽけな貴方の完敗だよね……という乾いた感想しか出てこない。
それぐらい、独自なものがない、平均的すぎて克服すべき欠落がないことは静かな呪いとなる。


コロナ陽性者が大量に発生したそうで、またまた記録更新だという。
「コロナが終わってほしくない人たちの内側を想像してみた。」()この漫画には悪意がこもっているけど、よく人間観察ができている。

「みんなが平等に不幸であるべき」と愚直に思い込んでいる人が、とても多い。だから、子供たちをも巻き込んで我慢を強いて、ありもしない平等をつくりだそうと努める。「自分はコロナのせいでつまらない思いに耐えているだけで、本当は幸せなんだ」と思いたい。人生の残酷さを直視できない。自分には致命的な欠点があると認められず、何かの、誰かのせいにして目を背けていたい――。人間の心の動きとして、それは理解できる。
僕の場合は目を背けられないぐらい、欠点が多かった。困難が多すぎた。だから、自分で解決策を探さねばならなかった。それが結果としては、大きなメリットになった。適当に誤魔化して、自分を騙しても、ウソをついていることが意識されて、もっと苦しくなる。だから、正直になるしかない。自分に正直になれば、他人からの不当な扱いには抵抗しようという気概も出てくる。それが勇気になる。


しかし、どんな理不尽なことを強要されても「決まりですから」とあきらめている人が多い。満員電車、サービス残業……。
僕は絶対にイヤだ。30歳を過ぎるころまで、肉体的にキツい無意味に忙しいバイトをして、その徒労感を「意味のある仕事をした」実感と勘違いしていた。絶対に違う。自分の得意なこと、やっていて楽しいことが、社会にとっても価値のある仕事となるのだ。逆を言うと、納得できない楽しくない仕事を貴方がすればするほど、社会には「我慢して嫌々やったクソ仕事」が垂れ流される結果となる。分かるだろうか?

自分にとって楽しいことを見つけて、その楽しさを世の中に広めよう。それが結果として、お金となって帰ってきて、僕はもっと楽しい体験をする。もっと楽しい仕事が出来る。いろんな話が来ている。こうした良いサイクルを作ったり、作れないまでも乗っかってほしい。コロナのせいになんかする気は、なくなるだろう。それぐらい、人生は無限に楽しくできるぞ。僕が証明している。

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2022年7月14日 (木)

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雨の中、森美術館へ行ってきた。
六本木は非マスク率が高いと、Twitterでビビっている人がいたぐらいなので、マスクしなくても入れるだろうと高を括っていたら、入場券すら買わせてくれなかった。係のお兄さんからは「そういう決まりなので」という以上の理由が出てこなかったので、「じゃあ帰ります」とその場を辞して、もともと行くつもりだった21_21 Design Sightへ向かった。
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こちらもマスクと言われたのだが、「僕は誰とも話さないし、飛沫感染させようがないでしょ?」と粘ったら、「でしたら胸にシールを貼って、口にハンカチを当てていてください」で解決。
その後、六本木で打ち合わせがあったので、もう何日か前に使ったまま放置してあった汚いマスクをして行ったのだが、先方も使い込んだケバ立ったマスクをちょいちょい外して、あごマスクで話してらした。「そうか、普段は外してらっしゃるんだな」と分かる。……もう、ケースバイケースでよくない? 

僕はテニスにもスポーツにも興味ないけど、つい昨日のウィンブルドンのニュース写真()。
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リンク先には動画もあるけど、観客の何人がマスクしている?


ただ、僕は世の中を変えたいなどと思ってはいなくて、マスクしない人は白眼視されるし、集団から疎外されていくと思う。僕の人生は今までずっとそうだったから、あまり変わらない。社会にも他人にも、そこまで期待していない。
嫌われたくないお店には、とりあえずマスクして入店しておく。この前、コロナの感染拡大をとても気にしている友人と会ったから、彼の前ではマスクをしていた。マスク一枚で、彼の培ってきた人生観を疎外しようとまでは思わない。彼が何を愛そうが何を憎もうが、僕と会っている間だけはそれを尊重する。
彼に「ワクチン打たない人?」と聞かれたけど、二回目までは打った。今後も、海外へ行くのに証明書が必要であれば打つかも知れない。ワクチンやコロナ騒動、元総理の暗殺まですべて陰謀論にしたがる人たちと一括りにされてしまうけど……、それも仕方ないんじゃない? 誤解させとけば? どうせ一生関わらない赤の他人ばかりだよ。

いつも書いているように、自分固有の価値観なんて持っている人は、社会の二割ぐらいだと思う。その二割の人たちが必死に頑張って、(たとえ報われなくても)創造性のある仕事をする。あとの八割はだらしなく享受して文句を言うだけの側なんだと、僕には分かる。何でもいいからとりあえず行列する人。発車メロディーが鳴ってからダッシュする人。自分で考えないのは、楽だもん。チェーン系の喫茶店や居酒屋に入ると、即座にあきらめモードに入ってしまって、独特の脳汁が出ているのが分かる。「疲れた、めんどくせ」「みんなと一緒でいいや」、この堕落の快感はもの凄い。
その時、「ちょっと待てよ? そもそもお前は“みんな”の側だったか? “みんな”から笑われ、軽んじられてきたのは、どこの誰だったかな?」と、魂の底から声がするんだ。その救われない運命のせいで、逆に救われているよ。


もう10年以上も前のことだけど、ネットでニュースを見ていたら、ほぼすべてのコメント欄に「あれ? こいつも在日だったの?」と、気に入らない政治家や芸能人みんなを「在日」扱いしている人がいた。当時は、在特会が流行っていたからだろうけど、今はなんだろう?
ともあれ、「在日」でも「ノーマスク」でも、差別と疎外と分断と抑圧を正当化できれば、何でもいいんだと思う。本当は自分が不甲斐ないだけなのに、「いまコロナですから」と言い訳していたい。自分の責任でさえなければ「コロナ」でも「時代」でも「社会」でも、何でも代入して話をそらしたい。うまく行かないのは、気分がさえないのは「コロナだから」「マスクしてない人のせい」「コロナさえ収まれば」……何もかも、他責的に先延ばしできる。
だから、そういう意味で「コロナ」はなくならない。他の何かとして残っていくんだろう。

日本人は他の国のアジア人に比べて自己肯定感が低く、だから海外でも声が小さいんだと英語の先生が言っていた。その分、いじめが大好きなんだろう。世の中、いじめられる側といじめる側しかいないと、よく思う。「みんな平等」という幼稚で無責任な幻想が、数え切れないぐらい沢山の悲劇を生んでいる。
命は平等ではない。人は理不尽に、あっさり死ぬ。その死に、意味なんかない。だから、「今のうちに面白い体験を沢山しておこう」と考えるけどな。立ち止まっていられない。


最近観た映画は、大島渚『東京戦争戦後秘話』、ジム・ジャームッシュ『ゴースト・ドッグ』、『The Client』、『サード』、『ジョゼと虎と魚たち』(アニメ)、『岬の兄妹』。
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心身障害者を飾らずに描いた『岬の兄妹』が、ぶっちぎりで凄い。人も社会も信じていない。「うわ、ガイジかよ」「きめえ」などの台詞も、当然ある。でも、露悪趣味とはちょっと違う。もっと悪趣味かも知れない。
ここまで人間不信だと、誰も意図しない美しさが、否応なく生じてしまう。そして、そこに美しさを見出そう(意味を読みとろう)としている白々しい自分との戦いも生じる。そんな浅いところで理解した気になって大丈夫か?と、立ち止まってしまうのだ。

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2022年7月 1日 (金)

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アメリカ発CGアニメのスピンオフを、日本アニメの文法でつくる! 「RWBY 氷雪帝国」のストーリーを創出した虚淵玄(ニトロプラス)×冲方丁の仕事術【アニメ業界ウォッチング第89回】
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他でもない大好きな『RWBY』なので、バンダイナムコピクチャーズさんに連絡して、取材が実現しました。


6/23~24にかけて、神戸市と福岡市へ二泊三日の旅行。美術館の方たちと打合せするのがメインだったが、鉄人28号やνガンダムの立像を見学して、最終日は一人で福岡アジア美術館と福岡県立美術館、福岡城・鴻臚館を見学。フラッと一人で昼飲みしたりして、まあまあ楽しかった。
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ひとつ、どうしても記しておきたいことは、帰りの飛行機(行きは新幹線だった)。窓際の席で、しかも隣が女性だったので、離陸時は叫びそうなほど緊張した。離陸してから、飛行機が激しく揺れたのも怖かった。逃げるように精神安定剤を飲み(薬の入った財布を手元に置いておいて良かった)、文庫本二冊に集中した。
しかし、離陸直前、席から立ち上がって「やっぱり降ります!」と逃げ出しそうなほどの圧迫感だった。海外旅行のときは、必ず通路側を予約している。窓側だけと閉塞感が怖い。あと、女性という存在が怖い。離婚後に女性に好かれていた時期も、この恐怖症は治まらなかった(その女性たちと一緒にいても、まるで緊張はしないのだが、別の場面では凄まじい緊張感に苦しんでいた)。

いつも行っている喫茶店でも、思いがけず混んでいて隣が女性だと、滝のような汗をかいてしまう。このパニック発作のような症状、本でも一度も見たことがない。広場恐怖症に近いのだろう。


その飛行機は、Peach Aviationであった。詳しく知らなかったのだが、一昨年、機内でマスク強要をめぐるトラブルがあったためか、とても冷たく「今すぐ着用してください」と搭乗口で言われた。機内では先述のようなパニック状態だったので、ずっと顎まで降ろしていた。
ほかには、福岡県立美術館がマスクにうるさい。アジア美術館は「マスクできません」という札を下げておけばオーケー、鴻臚館は「マスクがないなら、じゃあ話さないでください」。私ひとりしか客がいないのに(笑)。でもまあ、Peachや県立美術館の冷徹な態度に比べれば、柔軟性があって可愛らしい対応だった。

東京に帰ってきてから、すさまじい猛暑のため、ほとんど家にいる。取材で出かけるとき、大きなビルだと受付でマスクするよう指示されるが、それ以外の場所では完全に自由だ。仕事相手がマスクしている場合がほとんどだが、いつの間にか相手も外していることが多い。
せめて午前中の涼しい時間を選んで喫茶店へ行こうと外へ出てみると、まだ8割ぐらいの人が汗をかきながらマスクしていて、呆れながらも「まあ、こんなもんだろうな」とも思う。常々、満員電車とかサービス残業などの理不尽で過酷な状況に、なぜみんな耐えているのか不思議に思っていたが、学校という場所が忍耐強い労働力を量産する工場だと思えば、今のマスク社会になっても何の不思議もない(学校が、何か創造的なアイデアを学ぶ場だと勘違いしている人が多い)。

気温が36度もあるのにひたすら耐えてマスクしている大人は、「嫌だけどみんなに合わせる」という道を選択したか、もっと恐ろしいのは無意識に苦痛の多い道を選んでしまっているかだろう。
「マスクを続ける自由もある」などという屈折した言い方が出てくるのは、「自分の意志をもって自由になっている奴らが妬ましい」「奴らではなく俺らが自由という形にしてほしい」という歪んだ平等感のあらわれだろう。負けた人間は、形にこだわる。


一人を得させるぐらいなら、みんなで損をしたほうがマシ。それが、日本社会だと思う。
先述したように、僕はパニック発作を抱えている。だけど、嫌なことは徹底して避けている。どこにも就職していないが、いつも十分なお金を稼げて、いつでも好きな時間に寝ている。毎日、好きなものを食べている。好きな場所へも行っている。嫌なら帰るだけだ。
でも、今のマスク社会になって、どうやら8割ぐらいの人が理不尽な我慢をしているらしいと分かってきた。「そんなわけがない」と思ったら、あなたは残り2割の側だろう。カッコよくてお洒落な人たちが猛暑の中、マスクをして歩いていると、「なんだ、彼らは8割の側だったのか」と不思議な気持ちになる。

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2022年6月18日 (土)

■0618■

頭のデカい悪役ロボは好きですか? 「機甲戦記ドラグナー」の1/144ゲバイ(バンダイ)なら、頭デカいよ!【80年代B級アニメプラモ博物誌第23回】
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いつもの素組みレビューです。


木曜日、どちらかというと仕事上の都合により、市民優待枠でジブリ美術館へ行ってきた。10年ぶりぐらいだろう。
僕は外を歩くときはマスクをしないのだが、入り口で「マスクはお持ちですか?」と呼び止められた。なぜマスクを着けねばならないのか聞いてみると、ややキレ気味に「皆さんにお願いしてますからっ!」とのことであった。
子供たちが遊べる猫バスのコーナーでも、全員がマスクをさせられていた。すっかり気持ちが覚めて、目当ての企画展だけ早足に見て、30分ぐらいで帰って来た。Twitterで調べてみるとジブリ美術館のマスク強制は悪名高く、3歳以上は必ず着用なのだという。
メールで「科学的、医療的な根拠は?」と問い合わせてみたが、返事はない。

コロナが流行る何年も前の話である。SNSで「風邪が治ってきたので、ちょっと近所までお買物」と書いた人に対して、「ムッ! 風邪は治りかけが肝心ですぞ」「気を緩めないように!」など、上から𠮟りつける人が結構いた。ようは、コロナ騒動の本質ってそれでしょ? 病気をダシにして他人に言うことを聞かせたい、上に立ちたい、自由を制限したい。仲間外れをつくりたい。でも、そういう空虚な上下関係や圧力によって、社会が維持されてることも間違いないと思う。
「コロナ」の部分に、いろいろなものを代入して、憎悪と排除を正当化してきたんだろう。


小学校5~6年生のとき、担任教師が「先生は仕事があるので、次の一時間は好きなことしていいぞ」と言った。
驚いたことに、40人ぐらいの生徒は僕以外全員、ドッジボールをするために校庭へ駆け出して行った。僕は教室に残り、一人で『ミクロマン』のイラストをコツコツと描いていた。
たぶん、本気でドッジボールをやりたかったのは数人だったと思う。あとの何十人かは空気を読んで、仲間外れにならないために参加したに過ぎないだろう。それが社会なんだと思う。みんな、そこまで本気で考えていない。みんなが「いい」と言う映画を見に行って、なんとなく「いい」気持ちに染まっている。そのまま平凡に歳とって、なんか不都合ある?という話だ。

僕はドッジボールどころか、体育や運動が致命的にできなかったため、自分で楽しみを探すしかなかった。小学校高学年で『ミクロマン』なんて買っていたので、「まだそんなオモチャ買ってるの?」「幼稚だね」と言われた。そう言っていた彼が中学生になり大学生になり、他人に合わせながら自分を殺して、少しでも得するために四苦八苦していたのを、僕は知っている。自分独自の楽しみや生きがいや価値観を見つけられず、周囲に合わせるのに終始している人のほうが、実は社会の圧倒的多数なのだ。
「地域の仲間」とかさ。「同じ学校の出身」とかさ。何も見つけられなかった人が最後に頼るのが、「組織」「決まり」なんだ。それは不思議なことではない。バカは理不尽な決まりが好き。決まりにさえ従っていれば、どんなバカにも生存権が与えられる。
決まりに従えないバカは、自分の居場所を自分で作るしかない。僕という人間は、その記録なのだ。

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2022年6月14日 (火)

■0614■

ホビージャパン ヴィンテージ Vol.7
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先月末、ようやく発売となったムックです。巻頭特集の構成と執筆を担当。

未来バイクが巨大ロボの腕になる! だけど片腕だけ? 「魔境伝説アクロバンチ」のバンチャー・アロー(アオシマ)を変形させてみた!【80年代B級アニメプラモ博物誌第22回】

アキバ総研に書いている素組みコラムです。

「積んどくモデラー」の楽しみ方 プラモ買っても作らない派がグッとくるポイントとは

乗りものニュースに書いているコラムです。


先月末に世田谷美術館と五島美術館をハシゴし、今月は横須賀中央に前泊してバスで横須賀美術館へ行った。
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その間、あちこちで夕飲みしているのだが、やはり飲みすぎると酔うことが目的化してしまい、つい家でも安いワインを飲み続けてしまう。すると、その日に払ったコスト(お金だけでなく、自分の足で探した情報の価値や恵まれた天候)は台無しになってしまう。


最近観た映画は『ブルーサンダー』、『未来警察』、『アシュラ』、『さらば愛しき人よ』。
原田眞人が1987年に撮った『さらば~』は、80年代の軽佻浮薄な気分やファッション、当時の業界人のカメオ出演に感傷的な気分にさせられ、なおかつ原田得意のひねった癖に彩られた悪役たちが楽しい。『ガンヘッド』を経由して『タフ』シリーズへ至るアクションの系譜が、明らかにこの映画から始まっている。

日本映画も面白いなと思いはじめたので、なんとなく「女性向けのポルノだろう」との偏見から遠ざけていた『娼年』を気まぐれに観てみた。
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そして、その成熟した人間観に、すっかり感心させられた。映画が終わるころには、冒頭に登場した軽薄な女子大学まで、身の詰まった彼女だけが生きてきた唯一無二の性を背負っているように見えてくる。ひとりひとりの女優が、恥も照れも年齢も武器にしながら、その人だけの喜びを表現していた。

ネオンサインに彩られた夜の街はCGのように人工的に美しく撮影され、昼間働いている人々が歩く横断歩道は穏やかなグレーに沈んでいる。表層的に生きるしかない凡人たちを軽蔑しているわけではない。グレーの世界には、グレーの世界なりの穏やかな落ち着いた美しさがある。凡人たちだって、言葉に出来ないだけで彼ら固有の生と性を生きているはずなのだ……そんな厳粛な距離感が、映像の質感から伝わってくる。
映像なんて綺麗に撮れれば何でもいいんだろうと、ずっと思ってきた。『娼年』の映像には、倫理と世界観がある。ひさびさに、誠実な表現を見た気がする。

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