■0423■

昨夜はマスコミ試写で、『きみと、波にのれたら』。湯浅政明監督作品では、『夜は短し恋せよ乙女』は映画館を出て帰ってしまったぐらい苦手だった。今回は、ストレートな恋愛モノで驚かされた。
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しかし、「ストレートな恋愛モノ」と言った時点で、いくつか不安要素が浮かぶと思う。いつもの邦画のように、主人公が泣き叫ぶのではないか? 感情を優先するあまり、非論理的な行動を起こして、それをして「ドラマチック」という展開に落ち着けやしないか?
確かに、そうした不安要素を『きみと~』は懐胎している。あるいは、まるで『伝説巨神イデオン』のように壮大だった『君の名は。』 ああいう宇宙的スケールのファンタジーで、泣かせにかかるのではないか? ファンタジー要素は、実は映画の後半を占めるのだが、それがあまり「アニメっぽくない」。動画を最大限に使ってはいるのだが、どこかの町が滅びるだとか、タイムスリップしてどうこうとか、別の世界線では……といった「オタクだけがあらかじめ分かっている設定」が一切ない。それで心底、ホッとさせられた。

見ている間に、どうしても「しょせんはリア充の恋愛だよな……」と思ってしまうが、絶妙のタイミングとニュアンスで、登場人物が「リア充」と発言する。そのような、僕たちが肉眼で目にしているカップルだとかSNSで目にする生々しい恋愛観、人生観を、この映画は「アニメ絵」の中に回収することに成功している。ライトノベル調の、頭の中だけで考えた手前勝手な恋愛観ではない。クリスマス界隈のスノッブな恋愛文化を扱いつつも、きっちりと「……こういうの、ダサくねえ?」と、ツッコミが入る。成熟した映画だ。


アニメーションは、長いこと「恋愛下手」だった。恋愛に縁のない若者たちの夢想としてしか、恋愛を描いてこられなかった。
『超時空要塞マクロス』がそう、『メガゾーン23』がそうだった。二次元的妄想として展開するからこその甘美さは、僕だってよく噛んで味わってきた。それで充足するか、物足りなく感じるかは性格によるのだろう。
僕は、なるべく予定調和を破壊してほしいと願っている。「アニメなのに、こんなことやるの?」と、ビックリさせてほしい。『きみと、波にのれたら』は、その欲求に答えてくれた。いつもの、女性声優特有のキラキラした声を出す俳優は、ひとりもいない。特に、主人公の妹はひねくれた女子高生で、ヒロインに辛くあたる。単にキツい性格なのではなく、年齢相応の幼さや不安定さが、たまに顔を出す。上手い声優だなあ、誰だったかなあ……と思っていたら、ドラマ版『この世界の片隅に』の松本穂香であった。アフレコ初挑戦とは、信じられない。
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プロの(アニメ専門の)声優でないなら、アニメ映画に出て欲しくないという声を聞く。
つまり、自分の熟知したフィールドだけに、作品を閉じこめておきたい。不安定な要素に介在してほしくない。その気持ちも、分かる。僕にとっても誰にとっても、ささやかな現実逃避をかなえるためにアニメが存在するのかも知れない。だからこそ、僕はアニメには「現実に近接してほしい」と思ってしまう。生身の俳優の、たどたどしい演技が欲しい。「ここからここまでがアニメ」という幼稚な枠組みをぶっ壊してほしい。

僕が小さかったころには「テレビまんが」と呼ばれていた、どうかすると「子供向け」のルールで逃げ切ろうとするセル画の紙芝居。ひょっとすると、ようやく「テレビまんが」を卒業できたのかも知れない。アニメ映画が、表現として一本立ちできた、ということ。アニメに執着のない、今このときを生きている若者たちの映画になっている。彼らの、生の現実に隣接していている。
この映画のおかげで、僕は窒息しなくてすんだ。ちょっと遠くへ行って、ふだん見たことのない景色を見てきたような爽快感。


もう少し、具体的に『きみと、波にのれたら』の見どころを書いておいた方がいいかも知れない。
タイトルどおり海辺が舞台となるが、ロケーションがいい。特に、何度か登場することになる小さなエレベーターのある喫茶店。狭い空間を広角気味に撮って、箱庭のようなミニチュア感を出している。お洒落な舞台だけでなく、つまらない住宅街がポツンと出てきたりして、それがいい抜け穴になっている。ようは、綺麗な場所ばかりだして、「気持ちよさ」だけで満たさない姿勢がいい。
人物描写にしても同様で、スーパーマンのように何でもできる彼氏の部屋が、実は汚かったりする。それと表裏をなすように、彼のつくるコーヒーやオムライスが、とてもおいしそうに描いてある。落ち着いて丁寧に計算された、大人の映画だなあ、と思う。
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あまり良くないと思ったのは、絵に描いたような悪役を出して、彼らの悪事でピンチが訪れるところ。でも、その頃には僕は満足していたから、どうでもいい。前半で、彼氏と彼女がどんどん仲良くなるのを、アドリブっぽい歌で見せるシーンがあって、それだけでもう、「テレビまんが」でないのだと分かった。それだけで満足だった。
試写会には女性も多く来ていて、ラスト近くではみんな泣いていた。僕も鼻のあたりがキュンとなった。泣くこと自体は、ぜんぜん構わない。どんどん泣けばいい。ただ、泣いた事実をもって映画の評価に代えるのは、知的な行為ではない。――いや、そんな野暮なことは言うまい。映画館にいっぱい普通の人たちが来て、どんどん泣いて帰ってほしい。映画を生きたものにしてほしいんだ。

(C)2019「きみと、波にのれたら」製作委員会

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2019年4月18日 (木)

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先週末から観た映画は、レンタルで『リバー・ランズ・スルー・イット』、ゴダールの『軽蔑』、上映終了間際だというので、新宿のTOHOシネマズで『スパイダーマン:スパイダーバース』。
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『軽蔑』の劇中、ロッセリーニの『イタリア旅行』を上映している映画館が映る。ゴダールは『イタリア旅行』に決定的な影響を受けて作家になったので、「せめて『イタリア旅行』ぐらい観てくれないと、俺の映画は理解できないよ」と示唆しているかに見える。『軽蔑』には、『メトロポリス』のフリッツ・ラング監督も登場し、ゴダールは劇映画の形式を借りながら映画論を展開しているのだと思う。
つまり、劇映画の中には「最低でもコレとコレを踏まえておかないと、さっぱり価値が分からない」タイプの作品がある。いきなりヌーヴェル・ヴァーグを観ても、素人の撮った下手くそな自主映画にしか見えない。なのに、大多数の観客は徒手空拳の「感性」とやらで「どれほど泣けたか=感動したか」によって全映画を等級づけようとする。

映画に限らない。「難しいことはよく知らないけど、とにかく私の感情だけは絶対に正しい」と確信するポスト・トゥルースの傾向が、僕は怖い。大震災……というより、原発事故以降、事実を無視して感情を最優先する態度が、社会の根底に大きく横たわっているような気がする。


「正しさ」は、もはや知識でも文脈でもなければ、観察や議論の中にすら存在していない。個々の「感情」がすべてだ。原発事故のとき、福島で子供が亡くなったというガセネタが流れた。「だから逃げろと言っただろうが!」と、Twitterで激怒している人が大勢いた。なんだか、「そのニュースを待ってたんだ!」と、嬉々としているように見えた。原発事故で子供が死ねば、自分の怒りに正当性が加わるからだろう。
同じころ、「放射性物質は地面に溜まるそうだけど、犬を散歩させても大丈夫なんだろうか?」というツイートがあった。即座に「関東では、飼い犬が血のオシッコを流しながら死んだそうだ」と答えている人がいたので、「どこに出ていたニュースですか?」と聞いたら、何も答えずにツイートを削除してしまった。ようするに、「放射能は危険だ」「関東から逃げろ」と言いたいがために、空想の犬を空想の中で殺す。彼らにとっては、原発事故も放射能被害も子供や動物の命も、怒ったり嘆いたりするための娯楽ネタなんだな……と、呆れもしたし慄然ともした。

僕は、自分のマンションのベランダの汚泥を測定してもらったり、汚染の基準値を超えてしまった食品会社の対応を、電話やメールで追いかけたりした。
汚染米を出荷したため、営業停止になった米屋に行ってみたこともある。子供用の可愛い三輪車が置いてあるのを見て、なんだか怒る気持ちが薄らいでしまった。
自分の足と目で本当のことに触れていかないと、怒ることは出来ない。なぜ怒るかといえば、それは間違いを正して改善したいからだ。ところが、事態の改善などどうでもよく、怒ることや泣くことの気持ちよさに流れさている人たちが、思ったよりも多いことが分かってきた。


ルパンの愛車「フィアット」公式が感謝のツイート

このニュースも、同じことだ。FIAT JAPANが、『ルパン三世』の原作者、モンキー・パンチさんの死に便乗したツイートを行った。
ちょっと詳しい人なら知っていると思うが、フィアットをルパンの愛車に設定したのはピンチヒッターとして演出に加わった宮崎駿さんたちによる勝手な選択だ。僕は原作漫画は少ししか読んでいないが、宮崎さんのエッセイ集『出発点』にアニメ版『ルパン』の愛車をベンツSSKからフィアット500に変更した個人的動機が、克明に書いてある。1996年の本だ。
しかし、ツイートに群がって「ルパン大好きです!」「フィアットもいい車です!」と感情を吐露したいだけの人たちは、事実なんぞ知ったこっちゃないのだ。FIAT JAPANに問い合わせようかと思ったが、彼らは愚民たちを「フィアット、いい車です!」と躍らせたいのだから、遺族にはもちろん、版権元にも承諾を得て、あえて事実に反するツイートを行った。開き直っただけだろう。でなければ、トムス・エンタテインメントあたりが止めているはずだ。

何年か前からささやかれるようになったという、『機動戦士ガンダム』劇中の拡大解釈()もそうでしょ? 「富野監督、凄いです!」って言いたいだけ。
さらに、『ガンダム』オープニングの太陽の光を「スペースコロニー落下の爆発」と捉えた人がいた。「解釈は多様であっていいはず」といった苦しまぎれな言い訳を目にして、苦笑してしまった。反骨精神の塊だった『ガンダム』も、年寄りが酔っ払って歌う懐メロになったのだ。大衆に浸透して俗化して、役割を終えたのだ。こう書くと「また廣田がガンダムの悪口を書いてる」と言われるだろうが、無理して持ち上げるほうが、よっぽど作品を貶めているのではないだろうか?
知り合いの編集者が、かなり本気で「ガンダム世界をテーマにした老人ホームをつくれば、20年後には大儲けできる」と語っていたけど、なかなか良い勘をしている。イヤな発想だけど、商売としては正しい。


「映像作品の解釈は多様でいいはず、人それぞれ」という無責任な言い訳を鏡に映すと、「ネタバレ厳禁」になるのではないだろうか。
「映像作品には、それを事前に知ってしまうと価値の失われる弱点がある。それはおそらく、ラストシーンであろう。よって、ラストシーンを先に知った自分にはアドバンテージがあり、まだ知らない人に教えるのはマナー違反だ」……怠惰でいながらにして優越感を得ようとすると、こういう発想になる。
来週の『ガンヘッド』のイベント()のために、30年前のキネマ旬報を買い集めているが、当時の映画雑誌にはラストシーンまであらすじが書いてあり、公開前のシナリオが丸ごと掲載されていたりした。僕らは、この30年の間、進化できたのだろうか? なぜ、こうまで「怒った」「泣いた」を優先させるようになってしまったのだろう?

© Courtesy of Rialto Pictures.

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2019年4月14日 (日)

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宇宙世紀的な設定やスペックに頼らない、明快な“ロボット活劇”としての「∀ガンダム」【懐かしアニメ回顧録第53回】

模型雑誌を見ていても「ガンダムの特集」となると、いきなりモビルスーツの形式番号や生産拠点、開発経緯の話になってしまうんですね。『∀ガンダム』は、宇宙世紀のタコツボから縁を切った作品であり、では代わりに何を見せ場にするの?と言ったら、このコラムで解説したような「作画枚数に頼らず、リピートや止め絵をカメラワークを主体に見せる」効率的な戦闘シーンだったのかも知れません。
放送当時、僕はまさしく「コレン、ガンダムと叫ぶ」から『∀』にハマったのですが、その理由は、敵・味方のロボ戦をオーソドックスに見せてくれたからじゃないのか?と思うのです。

ようするに「バカにも分かるように、明快にロボットの戦いを見せられる」、それだけが宇宙世紀モノで当時展開していた『第08MS小隊』、前年にOVAを再編集した映画まで公開された人気作『ガンダムW』にはない、『∀』だけの武器だったのです。でも、棍棒みたいな原始的な武器だったと思います。
その後、キャラクター・ビジネスとしてガンダムを返り咲かせたのは『ガンダムSEED』であり、『ガンダムUC』であったことは言うまでもありません。


上記のコラム記事からは、意図的に「ディアナ・カウンター」という名詞を省きました。ムーンレィスの中に、さらにディアナ・カウンターがある。分かりづらい。地球連邦軍の中にティターンズがあって、エゥーゴもあって、同じロボットを使っている。「ベスパのイエロージャケット」が敵組織の名前かと思ったら、ザンスカール帝国でしょ? この組織の入れ子構造、富野由悠季監督の悪い癖です。その悪い癖を「トミノらしい味わい」と感じてしまう僕たちも、本気で頭を冷やすべき頃合いではないでしょうか。

シド・ミードさんに(まったく新しいアニメ企画ではなく)ガンダムをデザインさせてしまったことにも、疑問があります。
プラモデル化するにはセールスポイントに乏しいし、手描き作画にも向いていない。最後に蝶の羽を生やすのであれば、安田朗さんの柔らかいキャラクターに肌合いのマッチした、シンプルなロボットにすべきだったと、今でも思っています。
小林亜星、西城秀樹、谷村新司……この主題歌チームも、どの世代に訴求力があったのか、僕にはサッパリです。どうも、ビックリさせる方向がバラバラで、商業作品としてのルックスが整わないまま、作品の文学性ばかり評価されてきたのが『∀』の不運ではないだろうか?
そこで今回は、ロボット(モビルスーツという造語もこの作品では上手く機能していない)の戦闘シーンだけに視点を絞って、コラムを書いてみたのです。


現時点の感想を言うと、『∀ガンダム』は誉められすぎで、僕も持ち上げすぎてきたと思っています。
Twitterでは「いいっすよね!」「僕も大好きです!」「懐かしいです!」「泣きました!」で、それ以上に話が進まない。「好きなものを批評する」ことに、僕らは慣れていない。ガンダム・ビジネスにはさほど貢献していない『∀』を「大好き」と言う自分に、酔ってしまっていないか、ちょっと点検してみた方が良さそうです。なぜパーフェクト・グレードで∀が出ないのか? ミードさんのデザインしたターンXやバンディットだけ、まったくの別ブランド、最高級の特別仕様でプラモデルを出せないのか? あちこちに突破口はあったのに突破できなかったのは、何故なのか? 

――こういうこと書くと、「バンダイや富野さんやガンダムの悪口を書いている廣田には、もう仕事を回すな」って言われかねない。そういう幼稚な力関係によって、また輪が閉じてしまうんですよ。課題を抱えた作品が「文句なしの傑作」なんて薄っぺらいレッテルを貼られて、僕らは考えるチャンスを奪われていく。「大好きです」「懐かしいです」と連呼するだけのバカになっていく。富野監督がそんな状況を望んでるんですかね? 僕らにはもっと考える力があり、その力は富野さんが与えてくれたんじゃなかったんですか?


ある仕事で、どうしても『仮面ライダージオウ』を見なくてはならなくなって、その尖ったセンスに腰を抜かしたんです。

「今の小学生って、こんな『マトリックス』を極彩色に染めたようなカッとんだ映像を毎週見てるの?」って。デザインだけではなく、CGや音響(声優の使い方も素晴らしい)も含めた変身シーンが、もうデジタル歌舞伎って感じ。『アベンジャーズ』が、クラシック映画に見えてしまう。
『ジオウ』の変身パターンを一気に見て、「これって『Gのレコンギスタ』のG-セルフ七変化でやれないのかな?」って、ちょっと空しいことを考えてしまって。今からでも、富野さんに進言したら?とさえ思いました。アニメのロボットが特撮ヒーローに勝つには、どうしたらいいんだろう?

あと、東映ヒーローって俳優たちの写真やインタビューを集めたムックまで出てるじゃないですか。お父さん・お母さんは、俳優たちにメロメロなわけで、全方位コンテンツですよね。これがキャラクター・ビジネスの最前線か! そうすると、声優をアイドル化して舞台にあげちゃった方が、ビジネスとしては正しいよね……と、得心がいく。「好き」と「正しい」は別なんですよ。少なくとも僕は、自分の「好き」を疑ってもいい歳です。そして、「好き」の逆は「嫌い」ではありません。もっと上の次元があるんですよ。

(C)2018 石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映

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2019年4月13日 (土)

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レンタルでクリント・イーストウッド監督の『パーフェクト・ワールド』。1993年、大学を出て数年、映画を一日に何本も観まくっていた時期、すっかり観た気になっていた。初見のはずだ。
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ラスト近く、銃を外して脱走犯(ケビン・コスナー)との交渉に向かった警察署長(クリント・イーストウッド)の後ろ姿が映る。彼が腰につけている空のホルスターが、チラリと見える。同じカットで、ローラ・ダーンの演じる秘書が歩いているのだが、彼女は手にサングラスを持っている。一瞬、それが銃に見える。
おりしも、脱走犯が銃を持っているかどうか、登場人物たちが懸念しているシーンの直後だ。銃に関するセリフが頭に残っている状態で、空になったホルスターとサングラスを見せられると、サングラスが銃に見えてしまう……これは単なる錯覚で、演出効果ではない。しかし、意図していない偶然も含めたところで、僕は映画を語りたい。それほどの時間が、人生に残されているかどうかは別として。


いつものように、印象に残った演出の話をしよう。
刑務所を脱獄したケビン・コスナーは、一緒に脱獄した相棒が押し入った家の子供を人質にして、逃避行する。冒頭20分ほどで引き込まれるのは、子供が助手席に座っているだけで「何も出来ない」からだ。座っているだけで何も出来ない人物が登場すると、観客はジッとスクリーンを見つめているだけの自分を、その人物に憑依させることで映画に没入できる。

人質にされた子供は逃げ出して、性根の悪い相棒は、畑の中へと子供を追いかける。ケビン・コスナーの演じる善良な主人公は買い物をしているので、子供を助けにいけない。
「早く子供を助けないと、悪い相棒に捕まえられてしまうじゃないか!」と焦りはじめたところで、主観カメラとなる。カメラは、畑に隠れている子供へ手持ちでグーッと寄っていく。それは相棒と主人公、どっちの視点なのだろうか? どっちが先に子供を見つけたのだろう?
情報を瞬間的に遮断することで、観客に謎をかけ、軽度のストレスを与える。ヒッチコック的とも呼ぶべき、オーソドックスなサスペンス演出だ。しかし、最近の映画ではこうした手堅い演出を、滅多に見かけない。映画に興味を繋ぎとめるための、シンプルで力強い武器だと思うのだが……。 


演出ではないが、心をつかまれたセリフがある。
逃避行をつづける主人公と子供は、すっかり擬似親子となって、洋品店で服を買う。店員の女性たちは、どういうわけか満面の笑みで彼らを迎える。「どうして、そんなに愛想がいいんだ?」と主人公が聞くと、店内では笑顔コンテストがあって、いい笑顔をしているとボーナスが出るという。主人公は、その女性店員にチップをやる。
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ところが警察のパトカーが追尾してきていて、店の周囲で派手なカーバトルとなってしまう。主人公を脱獄犯と知った女性店員たちは、大声で口汚く彼を非難する。彼は車を爆走させながら、「オイ、笑顔はどうした?」と皮肉を言う。この粋なセリフには、血が沸騰した。

この映画には、泣かせどころがいくつかある。たいてい、沈痛な面持ちの人物が、座ったまま語るようなシーンだ(座ったまま語る……これも感情移入を促す常套手段)。まあ、それらはあってもなくってもどうでもよくて、泣きたい人は勝手に泣けばいい。
僕は、つくり笑いをしてご機嫌とりをしている社会人たちを、はみ出しものの脱獄犯が乱暴に裏切って「お前ら自慢の笑顔はどうしたんだよ?」と嘲った瞬間、ただひたすら走り続けるフィルムの運動、原理が露呈したような気がして、爽快だった。映画の実体は、間欠運動を続けるフィルム……いや、運動そのものが映画じゃないか。


性犯罪について、ここ何件も無罪判決が出たことを受け、性暴力反対のデモが開催されたという。
Twitterでは「性暴力の無罪判決の撤廃を求めるデモとは、とんでもない」「いや、そんな趣旨のデモではない」と論争が続いていたようだが、主催者は当初、「無罪判決は許さない」と記していた()。批判を受けて、「不当判決は許さない」と書き換えたようだ。
そうした不誠実さは、まあ大目に見ていい。性暴力そのものへの反対や厳罰化なら賛成するし、日頃から女性が不当な立場に置かれていると感じてもいる。
ただね、俺が驚いているのは、デモに対するTwitter上での批判を、参加者がいちいち気にして、批判者に論争を挑んでいるところ。僕も反原発デモには何度も参加したし、政策批判の官邸前行動なんかにも通っていた。いろんな署名をやってきた。世の中に異議申し立てをすれば、思いがけない誤解をされたり、とんでもない方角からデマは飛ばされる、レッテルは貼られる罵倒される嘲笑される……それが当たり前じゃないの? そんな覚悟すらしないでデモやってたの?

かてて加えて、参加者たちが花を配って、その場で「泣いた」そうだね。
だからね、「怒る」「泣く」ってのは気持ちいいんだよ。すぐ「怒る」人、映画を観て「ボロ泣きした」と自慢げな人、ようするに「自分の感情、生理反応に慰撫された」ってことでしょ? 「ああ、すっきりした!」ってのもデモの効果だし、それを認めればすむじゃない。
「また集まろう」「これからも続けねば」ってのは、自分たちが気持ちいいから……と、認めればいい。デモを繰り返せば「性暴力には厳罰を!」ってムードは確実に高まるだろうし、手続きを踏んで法改正していけば理想社会が実現するはずだ。デモだけでは法改正できないし、理想社会も実現しない。その冷徹な現実と向き合わねば、何も変わらないよ。「世の中を変える」って、面倒で膨大な実務の積み重ねなんだよ。

あらためて、「感情の発露」すなわち「怒った」「泣いた」を免罪符にする人たちは好きになれないなあ……と思った次第。

(c)Warner Bros. Entertainment Inc

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2019年4月 8日 (月)

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そういえば観ていなかったなあ……と、レンタルで黒澤明の『デルス・ウザーラ』。
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前作が『どですかでん』、次作が『影武者』であることを考えると、このあたりから馬脚が乱れはじめたんだろうと、納得がいく。 

ロシアの探検家チームが、先住民のデルス・ウザーラという男に出会う。デルスはスピリチュアルな考え方をしていて、たとえば「火が怒ると山火事が起きる」なんて御伽話をする。デルスは焚き火の前に座って、カメラのほうを向いている。デルスの向かい側にはロシア人たちが背中を向けて座っていて、彼の話をバカにするように笑っている。ところが、デルスの背後には、画面左右を覆いつくすように大河が流れている。この構図だけで、デルスの他愛のない発言に、古代からの壮大な時間が備わって説得力が出る。「構図で語る」、これが黒澤明の真骨頂だったと思う。
しかし、この映画で「構図で語る」ショットは、数えるほどだ。苛酷なロケだっただろうから、思ったように撮れなかったのかも知れない。


5日(金)は、「ラフ∞展」のために神田へ。
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この写真は、購入した図録を撮影したもの。撮影OKのエリアは今回の展示のために描かれた新作ばかりで、過去に描かれた正真正銘の「ラフ絵」は撮影禁止だった。言うまでもなく、それら本物の「ラフ絵」こそが見どころであって、目の前で見ないと意味がないからだ。
この展示会では線の荒さがよく分かるように、原寸の何十倍にもラフ絵を拡大している。中には、原画が紛失してカラーコピーしか残っていないものもある。その場合は、「カラーコピーこそがオリジナル」という扱いだ。スキャンしたりコピーしたら、絵画としての価値が落ちるって? アニメーションの現場では、原画はトレースされるし、動画はスキャンしたりセルに転写するのが当たり前だ。
現場の中から、アニメーターやデザイナーの引いた線の美しさを抽出しようと思ったら、それは何も小さな動画用紙である必要はない。

「紙にエンピツで描かれた原画だけが本物」なんて言い出したら、印刷して製本される画集なんてインクの染みでしかない。その盲目的なオリジナル信仰が、展覧会へ行くたびに僕を白けさせてきた。小さな原画を、何十人もが満員電車のような状況で覗きこむ……だったら画集を買うからいいよ、とため息が出てしまう。
今回の展示会は、小さなスケッチを恐れることなく、うんと大きく引き伸ばして、間近でプロの引いた線を見ることが出来る。画集では到底、不可能なサイズで。
アニメ絵、キャラ絵って簡素化されて油絵なんかに比べると情報量が乏しい=価値が低いって見なされてるだろうけど、迷ったり決意したり、はたまた修正したり……の無数の線の重なり、これは記号化できない。完成した一本の線にはない、格別のカッコよさがある。
そのカッコよさを見抜いて、ふさわしい展示のスタイルを選択した。くどくどしたキャラクターの説明やら作品解説やらがないところも、クールだった。


ガンプラと歩んだ40年、ガンダムの生みの親・富野由悠季が語る「“おもちゃ屋スポンサーは敵”という被害妄想」

強化合体メカのGアーマーの玩具のおかげで番組が延命されたことを知る人には、あちこち首をひねらざるを得ない記事。MSVは大勢の小学生が買っていたし、『めぐりあい宇宙』と『Zガンダム』の間は空白なんかじゃなくて、富野監督は新しいコンセプトを毎年考えなおして市場に投入して、クローバーは倒産するまで従来の合金玩具をアップデートしようと試行錯誤していたし、バンダイも悪戦苦闘していた。そのエキサイティングな日々は、僕がイベント()で敷衍するから良いとしても、ロボット玩具が売れるように苦心して作品づくりをしていた富野監督は、もう玩具を売らなくて良い立場になったから、こういう話が出来るんだよな……と複雑な気分。

たとえば、バンダイ周辺で最新の『仮面ライダー』を売ろうとしている人たちは、こんな気楽な発言はできない。僕が取材したかぎりでは、彼らは緊張感をもって、しかも楽しみながら仕事をしている。マンネリは、彼らの敵だから。
キャラクター・ビジネスの最前線はライダーやプリキュアであって、ロボット・キャラクターに対してリアルだ何だと言っているのは、40代以上の「大人」だけ。今の子供たちは、空想キャラクターともっと別の関わり方をしている。そのニーズを探ってキャラクター・ビジネスの戦列に参加するのは、並大抵の努力ではできない。玩具を売るのはもう富野監督の役割じゃないので、彼にキャラクター・ビジネスの話を聞いても、昔話しか出てこない。

僕はもう、気をつかいながら富野監督に話を合わせるような歳でも立場でもないです。ガンダム40周年だからって、それはビジネスとして関わっている人たちが「おめでとう」なら分かる。いちばん昔話を嫌って「現状にカウンターを打て!」 それが僕の知っている富野監督だった。
『G-レコ』を10歳の子供に観てほしいなら、そういうビジネス・スキームを組んでもらいたい。それが本当の戦いであって、信者のようなインタビュアー(僕だってその一人だった)を前に自慢話している富野監督はカッコ悪い。『G-レコ』の劇場版は、僕個人の趣味としては楽しみ。だけど、マーケティングも戦略もない空想のキャラクター・ビジネス論からは、もはや学ぶべきものはない。うんと甘く言うと、ようやく富野さんは純粋な映像作家になれたのかも知れない。
富野監督の死に物狂いの戦いが始まるのは『ガンダム』以降だと思うので、僕は「おめでとう」なんて気持ちになれない。

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2019年4月 4日 (木)

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“水中ニーソ”でお馴染みの古賀学が歩んできた「平面でないと成り立たない模型」の最新形【ホビー業界インサイド第45回】
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古賀学さんからは、メッセンジャーでいろいろとお話を聞かせていただいていて、この日が初対面でした。数日後に僕のイベント【模型言論プラモデガタリ】に登壇していただいたにも関わらず、まったく発言の機会を与えられず、あまりに申し訳なくて、まだ謝罪にいたっていません。

だけど、この日の取材はエキサイティングでした。
アーティストを名乗る方にインタビューしたのは初めてでしたが、アーティストの発言に価値があるとしたら、僕らのような俗世に生きる人間に新しい視点を与えてくれることでしょう。古賀さんの発言は、たとえば映画を見るときに活用できます。模型、プラモデルについて考えるときも役立ててほしいと思っています。
今回、「ホビー業界インサイド」のコーナーに出ていただきましたが、「超絶テクニックをもったスーパーモデラーの話でないと、模型趣味の役に立たない」と考えている人が大多数だと思います。模型雑誌の根底にも、そうしたロジックが働いています。しかし、そんな平面的な思考では、十年もたたずに袋小路に陥るでしょう。古賀さんのように、模型の構造を念頭において、なおかつ即物的にプラモデルを組み立てるのではない、別のフィールドで別のやり方で実践している人から学ばずして、どんな未来があるというのでしょう?


富野由悠季監督は、たびたび「超一流のものを見ておけ」と発言なさってきました。それは、超一流のアニメを見ておけって意味ではありません。美術品、工芸品の凄く高価なもの、別ジャンルで最高レベルの価値を与えられるものを見ておかないと、程度の低い仕事をすることになるぞって意味です。
それが怖いから、僕は海外へ行ったら、なるべく美術館を見るようにしています。すると、古賀さんのおっしゃるように「作品の横に書いてあるのは題名、制作年、材料」だけかもなあ、と気がつけます。権威のあるものを、批判的に見ることも必要です。
あるいは、アニメ関係の美術展はどうでしょう? 「しょせんアニメなんだから、こんな程度で十分だろ? みんな限定グッズが欲しいだけだろ?」って態度が透けて見える場合が多いように思います。それを見抜いて「もっとレベルの高い次元に引っ張り上げてやろう」と思えるようになるためには、やっぱり「超一流のものを見ておく」、それ以外の方法はないように、今の僕には思えます。

あるいは模型の展示だとか、模型雑誌の見せ方はどうでしょう? 「プラモデルはアートじゃない、(しょせん)趣味だから」と言い訳していては、他の趣味に負けてしまうのではないでしょうか。「楽しめればいい」「人それぞれ」「作る喜びを」……僕には、すべて空しく聞こえます。そういう空疎で耳障りのいい言葉の裏に、「塗装や工作の上手な人が一番偉い」という厳格なテクニカル・カーストが存在していることを、みんな知っているはずだからです。
嘘偽りなく「人それぞれ」の状態をつくるのは、生半可ではありません。多様性多様性といいながらトランス・ジェンダーが放逐され、欧米は人権意識が高いと心酔しながら彼らがアジア人蔑視のCMをつくっている状況を見れば、明らかなことですね。


でも、プラモデルは(望ましい形ではないにしても)メディアに露出する機会も増えてきましたし、業界の外に目を転じれば、チャンスは山ほど転がっています。
僕は「下手」の世界で苦しんできた人間なので、「上手い/下手」で格差が生まれる世界とは距離を置きたいです(上手い人はリスペクトしますし、喧嘩をしたいわけではないので)。「下手」の立場から、状況を良くしていきたいのです。6月にプラモデルの本が出ますが、「私は下手だ」というコンプレックスそのものを無効化するような内容になります。

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2019年3月29日 (金)

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レンタルで、ダルデンヌ兄弟の『サンドラの週末』、タイ映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』。
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ダルデンヌ兄弟の映画は、あいかわらず主人公の背中にカメラが密着して、執拗に彼らの身の上に起きることだけを記録しようと努める。
主人公のサンドラが、自分が不当に解雇されないよう、職場の仲間を説得して回る。少し希望が見えてきたところで、彼女は車の中で夫の手を握る。カメラは助手席に座っているサンドラの横顔を映し、次に、彼女が夫に伸ばした左腕を追って、左にPANする。すると、夫はサンドラの手をしっかりと握っている。再び、カメラはサンドラの顔へPANする。彼女はすっかり安心した表情になっている。
カメラがPANして、戻る。PANすることで、サンドラの気持ちの動きが分かる。カメラの動きに、彼女の気持ちを汲み取ろうとする意志を感じる。ドキュメンタリー・タッチだが、ハプニング的に撮っているわけではない。意志のある、計算された撮り方だ。

それでも、『サンドラの週末』には、これまで見てきたダルデンヌ監督作品のような、ワンカットの中で生じる、取り返しのつかない悲劇的展開が欠落していた。そのため、ダルデンヌ監督作にしては、後味さわやかだ。


つづいて、『バッド・ジーニアス』の話をしよう。
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最初のカットで、主人公の天才少女が、取調室のようなところに座っている。合わせ鏡になっていて、彼女の顔がいくつも画面の奥まで連なっている。サスペンスではよくある演出かも知れないが、この先に仕掛けられた綿密なトリックを予感させる、効果的な選択だと思った。
つづくカットで、ビニール袋に入れられた証拠物が、机の上に乗せられる。それは、水に濡れたスマートフォンである。湿気でビニール袋の内側が曇り、生き物のようにプクッと膨らむ。
最初のカットは抽象的な図像だが、次のカットはシズル感があって、生理に訴えてくる。まずは、この表現の幅だけで期待を抱かせるし、2時間ちょっとの上映時間はその期待を裏切らない。後半では映画に没頭して、時間がたつのも忘れるほどだった。


優れた演出は、数え切れないぐらいある。
冒頭、主人公の有能さを見い出して、カンニング行為に誘う別の女子生徒が現れる。まずは、彼女が駆け寄ってくる足元のアップを撮る。主人公の天才少女は生徒証の写真を撮っているので、椅子に腰かけている。女子生徒は積極的に「メガネを外したほうが可愛いよ」と、手を伸ばす。そのとき、かすかに天才少女の片足がズズッと後ろに下がる。気圧されて、ひるんだように片足が下がるカットを、抜いて撮っている。これで、2人の力関係が把握できる。
わずかなアクションを逃さず撮ることで、人間関係や物語展開といった有機的な部分を説明する。セリフではなく、画面内の情報を足したり引いたりすることで伝える。それが映画なのだと、僕は信じている。
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主人公の少女は国境をまたいだ大規模なカンニング計画を成功させるため、かつて自分のカンニングを告発した有能な男子生徒を仲間に入れる。少女と男子生徒とは、頭のよさも立場も、互角である……と分かるのは、2人を映すとき、それこそ合わせ鏡のようにシンメトリーの構図に収めているからだ。少女が画面左を向いて7:3の割合で撮られているとしたら、男子生徒のほうは画面右を向いて7:3といった具合に。
力関係を図像で示す演出は、黒澤明が得意だった。いや、そもそも後半の手に汗にぎるサスペンスだって、ヒッチコックの模倣といっていい。つまり、この映画は古典の話術を精密にトレースして、自分の手足のように使っているのだ。

僕がいつも不思議に思うのは、2018年の映画より2019年の映画のほうが進化している、アップデートされているという前提で、映画の話題が進んでしまうこと。モノクロ映画からカラーへ、サイレントからトーキーへ、常に進化には反発が伴った。そして、ちょっと調べれば分かることだが、サイレント時代に劇映画の演出は、ほぼ出揃ってしまっている。そして、モノクロ映画時代に、劇映画の様式は完成され、今はその模倣が繰り返されている。
完成された様式の中に、ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグが切り開いた即興的な撮り方が、必要に応じて援用されている……という状態が半世紀ほど維持されている。それは、決して悪いことではないはずだ。悪いことがあるとすれば、CGIや3Dや4DXによって、映画が「進化している」と勘違いすることだ。

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2019年3月25日 (月)

■0325■

月刊モデルグラフィックス 2019年5月号
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●組まず語り症候群 第77夜
今月は、タミヤのシルバーメッキ特別仕様のランチアストラトスターボです。
あと、『ひそねとまそたん』のVF-1バルキリー仕様は、僕が『ひそまそ』担当として呼ばれたとき、真っ先に提案したものです。当初は各社からのプラモデル発売直前にバルキリー仕様のまそたんを掲載して、プラモの作例をもって華々しく連載を終えるよう計画していました。ところが、プラモデルの発売が未定になってしまったので、僕は「バルキリーまそたんは作るの大変だし、もういいんじゃない?」と言っていました。今月、しっかり掲載されています。

●「絵」を「現実」と誤認させる「東のエデン」の入れ子構造【懐かしアニメ回顧録第52回】
『東のエデン』を見て、「どうしてアニメーションの中の写真やモニターなどの“絵”が“現実”として認識されるのだろう?」などと考えるのは、一万人にひとりぐらいでしょう。だけど、僕はその「気づいてしまった少数派」のために書くんです。「このセリフに感動した!」「このキャラが好きだ!」って話は、他に書く人がいっぱいいる。あと、現場にインタビューしたとしても「特殊な処理を施した」ぐらいの答えしか返ってこないと思います。
ということは、作品を観る側が勉強して、好奇心をもって、主体的に、自分勝手でも何でもいいから解釈していくしかない。主体性のある人は少ないですから、「俺の自己解釈」を書ける人は、それだけで有利です。こうして、毎月お金になっています。「勝手なこと書きやがって」って人は一円も稼げてないわけですから、言わせておけばいいんです。


昨夜は【模型言論プラモデガタリ】第3回、平成ガメラシリーズ完結20周年をフィギュアで祝う会でした。
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なんと、楽屋に撮影監督の高間賢治さんが現れたので、金子修介監督、螢雪次朗さん、栩野幸知さんと並んでいただいて記念撮影です。
高間さんの著書「撮影監督って何だ?」は、「マスターズオブライト」と並ぶ学生時代の必読書……というより、大学を出て同級生との間で話題になっていました。僕は日芸を出て、映画監督にもプロデューサーにもなれずに挫折したけど、それ以外に漫画家になりたくて挫折、ガレージキット原型師としても食っていけず……など数々の挫折経験を、フリーライターという曖昧な職業が、ひとつ残らず吸収してくれています。何ひとつ恨みや妬みにならず、創ることの大変さを知っているから、クリエイターさんに対しては無限のリスペクトを抱けます。

今回のイベントでは、80年代邦画の話をしましたけど、それだって、僕の挫折が生んだ強みのひとつですね。ATGやロッポニカやアルゴ・ピクチャーズの話が出来て、プラモやアニメの話と両立させられる人は、少なくとも職業の中でやってる人はいないですよね。
トークの中でも「若松プロ」なんて言葉がふつうに交わされるので、客席に「こういうレベルの会話で大丈夫ですか?」と聞いてしまったぐらい(笑)。ひょっとしたら、「80年代邦画」って、えらい金脈なのかも知れない。人口ピラミッドを見ても、客層は厚いと思うし、関係者も存命中だし。
(来場者の感想を聞いても、前半の80年代映画パートが面白かったそうだし……)


それとは別に、イベントの主催としては非常に苦しかったです。古賀学さんには飲み放題ということで許していただいたけど、他の出演者へのギャラを合わせると、数万円の支出になってしまいます。プラモデガタリで廣田が小銭を稼いでるぞ……と思われたとしたら、それは逆です。

秋山徹郎さんが株式会社MICの社員として毎回参加してますけど、MICがスポンサーになっているわけではないです。資料のスキャンをお願いしている程度。僕が各方面に交渉して、個人主催だから版権元にも大目に見てほしいとお願いしたり……そして、今回のように来場者が少なくて赤字になった場合は、貯金を切り崩すしかない。サラリーマンのように、会社のお金で……ってわけにはいかないです。

次回()は河森正治さんにダメモトでお願いしたら出演OKだったので、サンライズさんにも話を通して、それほど心配するほどでもない。
だけど、5月以降は不透明です。4社……というか、4人の方に一度は断られています。そんな状況で無理に進めて、傷口が広がらないのか? そもそも自分が楽しいのかどうか。何しろ仕事ではないので、「もういいや」って辞めちゃってもいいのです。「やるからには毎月やらないと意味がない」と言ってくれたのが、秋山さんなんです。だけど、人が集まらない、今回より少ないかも知れない……と分かりきっている状況で、自分は楽しくなるんだろうか? 自分が楽しくないのに「楽しいイベントですよ」と、人を集めるわけにはいかない。
ここで正直さを失ったら、すべてが崩れてしまうのです。木曜日に取材を請けるので、それまでに原稿を書きながら各方面に連絡して、結論を出さないとなあ……。

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2019年3月21日 (木)

■0320■

J Wings (ジェイウイング) 2019年5月号 発売中
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●「素組みだからよくわかる! プラモで学ぶ最新鋭機F-35B」後編
構成・執筆ですが、編集部からフィードバックされたアイデアも、かなりの割合で入っています。この記事は、プラモの素組みだけが好きな素人と、ほとんどプラモに触れたことのない航空機の専門家が同じキットを組み立てているから、面白いのです。そのコンセプトにたどりつくまでに、半年ほど話し合いを重ねました。
読者からの反響も結構あるそうなので、今後も模型誌以外のところで、どんどん素組みプラモの面白さをプレゼンしていきたいですし、丸一冊、素組みだけの本も制作中です。


『この世界の片隅に』を特集したモデルグラフィックス誌も、ふだん模型誌など買わない人たちが手にとってくれて、今後二度と手にとらないにしても、その機会をつくれただけで、僕としては満足なんです。
あちこちで「まるでアニメ雑誌」と言われましたが、アニメージュやニュータイプに、撮出しデータを解析した記事など載ってないと思います。僕がニュータイプで最後にやった仕事は声優さんへのインタビュー記事で、誌面は版権イラストだけでした。
「模型ファンが模型誌を買う」「アニメファンがアニメ雑誌を買う」、その閉じたサイクルの中では、僕に新たに提案できることはありません。いつも買わない人に買ってもらうとか、いつも載らない雑誌にプラモやアニメの記事を載せたいんです。

Jウイングさんは、「半分は常連の読者に買ってもらい、もう半分は新規の読者に買ってもらう」ことに常に目指しているそうで、だから僕の話を聞いてもらえたのです。優秀な編集者は数少ないですから、彼らと議論を重ねられるだけでも、とても勉強になります。


僕がアニメ関係者へのインタビュー連載を打ち切った翌日、どこから情報が伝わったのか、大手ビデオメーカーのYさんから「来週、時間ありませんか? ちょっと話があります」と、連絡がきた。
同社を訪ねると、呼ばれたのは僕だけでなく、いろんな媒体のライターとか編集者に声をかけたようで、新作アニメのティザーやトレーラーを延々と流すだけのくだらない上映会が始まった。
チラシや番宣DVDの束が回ってきて「気になる作品はどれですか? 自由に持ち帰ってください」なんて書いてある。
「こんな事で人に時間とらせるから、ダメなんだよ」とため息をついて席を立つと、十年近く前、ある作品でご一緒した広報担当のKさんが追いかけてきて、「廣田さん、ハチマキがケープ・カナベラル宇宙港へ向かうバスに乗りたくありませんか?」と言った。
『プラネテス』の主人公、ハチマキが木星行きのロケットに乗るシーンでは、未来には似つかわしくない田舎の乗り合いバスが出てくる。そのバスのオンボロさが、宇宙へ旅立つ夢やロマンをかき立ているわけで、アニメ版では架空のカントリーミュージックが使われていて、その演出には感心させられたものだった。「ただ、日本語歌詞なのが残念でしたよね」と、Kさんと盛り上がってしまった。
「ようするに、こうやって僕が音楽という側面から作品に感心を持ったり、何か問題提起したいと思う、そのこと自体が“企画”であり、“記事”でしょう? いきなりアニメの宣伝だけ見せられて、さあ取材しろってやり方で、何が生まれるんですか?」と熱弁していると、宣伝課長のGさんがやって来た。

……というのが、今朝がた見た夢です。もっとディテールが豊かで、具体的な作品名もどんどん出てきました。
『プラネテス』の原作には「ケープ・カナベラル宇宙港」なるものは登場しなかったと思いますし、アニメ版でカントリーミュージックを使っていた事実もありません。だけど、僕はクリエイターが魂をこめて、工夫を凝らした演出を見逃したくありませんし、書きとめて伝えたいという欲求もあるのです。
毎月開催している【模型言論プラモデガタリ】()は完全にインデペンデントで、アニメの番組論や作品論もやれる空間になっていますから、別に仕事でなくても集まった何十人かの人たちに伝えられれば、それでいいように思います。後日使いまわせるよう、録音もしています。


「仕事がない」という話を、同業に近い人から聞きます。僕はレギュラーの仕事以外に、「ガンダム最新作で何か出来ないか」といった相談も入ってきますし、一週間ぐらいで形にして編集部に預けられるので、そこそこ重宝がられているのかも知れません。そういう急ぎの仕事にはこだわりがないので、サバサバ割り切るようにしています。
だけど、歳をとって何より良かったのは、別に人に認められなくてもいいや、有名でなくてもいいや……と思えるようになった、諦めがついたことです。その諦めのおかげで、とても仕事がやりやすくなりました。代わりに、絶対にストレスが生じないよう、原稿を書いていてウンザリしそうな仕事は、躊躇なく回避する。そんなことをやらなくても食っていけるよう、バランスをとれるようになったのは、ここ数年のことです。

最近、アニメ作品は宣伝会社に丸投げで、最新情報といえば声優のキャスティングと主題歌アーティストばかり……というパターンが多いため、実りある仕事をするのは困難と思います。せっかくスタッフさんのインタビューを提案しても、他媒体との合同取材にされてしまう。作品も可哀相なら、そんな取材に食いつかねばならない媒体さんもいい記事を書けないし、取材されるスタッフさんも気の毒です。
本当の貧しさとは、アイデアも好奇心も理想も枯渇して、右から左への土木作業になっている状況です。「これは酷いな」と気づけたなら、その貧しさから脱出するチャンスをつかんだも同然です。もしかすると、あなたの仕事は、メディアに記事を書くことではないのかも知れない。一万人の客に届けられなくても、選りすぐりの十人に届けられればお互いに幸せ……という場合だってあります。選りすぐれたお客にしか見えない風景が、必ずあるんです。ほんの十メートルずつ、ちょっとずつちょっとずつ理想が高くなっていく。緩やかに、磨かれていく。それって最高じゃないですか。

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2019年3月11日 (月)

■アゼルバイジャン旅行記-6■

■3/7-1 怒りの炎
とにかく、宿泊費を踏み倒そうとしたドロボウのごとく見られてしまったのでね。もう、それ以上の最悪はないだろうと覚悟できて、重度といってもいい風邪を8時間の睡眠で治して、観光に出かけることにした。
バクー郊外、路線バスで一時間のところにある「ヤナル・ダグ」を見るんだ。とにかくね、もうドンドン行くんだよ。ここでめげていては癪だから。
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まず、ホテル近くのバス停から6番バスに乗って、Avresiya Clinicというバス停まで行く。途中、バスの故障だかなんかで全員が降ろされた。通勤時間のせいか、みんなイライラして、関係者に詰め寄っていた。怒るべきときに怒ることは、とても大事だ。
直後に6番バスが来たので、みんな料金を払わずに乗り換えた。そして、Avresiya Clinicは地下鉄駅もある大きなバス停なので迷わずに降りられて、今度は147番バスを待つ。
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これがもう、ひっでえボロバス。だけど、女性に席を譲ると、遠慮なく座ってくれる。小さな子供を抱いたお母さんが多かった。
そして、このバスに30分も揺られていると、ものすごい辺鄙な場所へ行って、大きくUターンしたりするから、「ヤナル・ダグ」って原語で書いたメモを運転手に見せる。言葉はまったく通じないが「まだ降りるな、ここじゃない」と手で制してくれたり、「おう、ここだぞ」と指差してくれたり、ちゃんと意志は通じる。スマホで現在位置は確認できるし、そもそもバスの終点なので間違えるはずないんだけど、やっぱり不安なんだ。Dscn2524_6676
何もない荒野みたいなところに、何か新しい博物館のようなものが建築中で、その奥にヤナル・ダグ。天然ガスが、半世紀以上も燃えつづけている小さな丘がある。Dscn2532_6683Dscn2529_6680
「どこから来ました? 日本? ようこそ!」と、真っ赤な頬の美人さんが歓迎してくれたので、たいていのことはどうでも良くなる。そして、ヤナル・ダグの近くはとても暖かいので、しばらくジッとしていた。

帰りはタクシーかな……と思っていたら、意外にも147番のボロバスが停車していたので、迷うことなく飛び乗って、午後はどこへ行こうか思案する。

■3/7-2 ぬいぐるみ、肉、殉教者墓地
地下鉄駅のある停留所でバスを降りたら、地下通路で、また巨大ぬいぐるみを売ってるんだよ! しかも両手に抱えて、大声で宣伝している。
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スマホで調べて、「殉教者墓地」へ行こうと決める。しかし、その辺りには食べるところがないので、この活気に満ちた場所で昼食にした。小さなレストランに入ったら、ウェイトレスのお姉さんがアゼルバイジャン語でコレとコレね、あと飲み物はコーラ?と勝手に話を進めてくれる。
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肉料理ばかり食べてきたけど、これがいちばん美味かった。野菜につけ合わせたサワークリームが肉汁と溶け合って、また別の味わいになって、残った肉汁をパンで掬い取って、徹底的に食べつくした。たったの4.5マナト(300円)、至福の味。

タクシーを拾って、殉教者墓地へ。
運転手は、もちろん英語は一言も話せなかったが、「日本人か? 日本はいいよね。この俺の車も、日本製だよ」と言っていることは、ジェスチャーで分かる。途中で遠回りしてガソリン・スタンドに寄ったんだけど、「ガソリン代は俺が払うし、遠回りした分は気にしないで」と言っているのも分かった。
30マナト渡すと、「えーと、この10マナトはガソリン代ってこと?」と、多分そういう意味のことを言っていて、10マナト返そうとする。だけど、俺はあなたみたいな誠実な人に儲かってほしいんだよ。
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殉教者墓地から、カスピ海を望む……。そうか、この国へ来て一週間も経ったんだなあ。
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で、殉教者墓地へはケーブルカーで登るものと思っていたが、降りるだけでもOKであった。片道、1マナト。
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写真中央が、ケーブルカーの終点。こうして丘の下から見ると、実際に炎の燃えている殉教者墓地への入り口の上に、悪趣味なヘンテコな建物にしか見えなかったフレイム・タワーが“燃え盛っている”ように見える。
こういう見立ては東洋的だなあ……などと考えながら、ものすごい北風の中、国立美術館を目指す。

■3/7-3 アゼルバイジャン国立美術館
国立美術館では、特別展示として日本展が行われていた。
あまり時間がないので、日本展と撮影代(写真を撮りたい人が支払う)はやめておいた。入場料のみで10マナト。
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でもまあ、それで正解だ。もし写真を撮りながら見て歩いたら、一時間ではすまなかった。それぐらい、濃厚な展示だった。19~20世紀のものが多かったが、「日本か中国のものではないのか?」と誤解するぐらい、東洋的な装飾品がある。
かと思うと、盾や鎧などの武装にはものすごく緻密に彫刻が施されていて、形と装飾との調和とぶつかり合いがあった。本格的なファンタジーアニメをつくろうとしたら、こういう物を見ておかないとダメだ。しかし、客は僕ひとりしかいなかった。もったいない。

なんとか、風邪にもトラブルにも負けず、朝から夕方まで歩きとおすことが出来た。帰りは、ビールとポテトチップスを買って、タクシーで帰った。

■3/8-1 ヘイダル・アリエフ国際空港
翌日は夕方の飛行機なので、ゆっくりと過ごした。
空港のレストランに入ったら、オヤジに「これはどうだ? 美味いぞ。ビールはどうだ?」と薦められて、それはいいんだけど、カードは使えないという。ユーロ札を出したら、高額紙幣以外、ぜんぶ持っていかれた。ヘイダル・アリエフ国際空港を使う人は、3階のレストランには要注意。最後の最後、まさかの国際空港でやられてしまった。
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そして、プライオリティ・パスで入れるはずのラウンジには、いろいろ条件があって入れない。水を飲みたいのだが、自販機でユーロは使えない。キオスクもない。トイレ前の水を飲む機械は壊れたまま……など、飢餓状態で飛行機に乗るはめになった。
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アブダビ空港で、ビールを補給。それからの12時間のフライトは、割とあっという間だった。少し寝られたせいもあるけど、6時間ぐらいに感じた。
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吉祥寺駅へのリムジンバスが出るまで時間があるので、成田空港で赤ワイン。
それにしても、成田空港で働く人たちは「帰りもお気をつけて」とか「おかえりなさい」とか、仕事と関係ない気のつかい方が素晴らしいと、いつも感じる。
そして小田急バスの成田~吉祥寺間は、都内の好きな順路を経由してくれて、いつも空いている。夕方ごろにこのバスに乗ると、何だか感傷的な気分になってしまう。

(おわり)

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