2016年2月 6日 (土)

■0206■

明日まで神田で開催されているミニ展覧会「RWBY OFFICIAL JAPANESE FAN MEETING」()、金曜日に行ってきた。
Dsc_2518_1平日昼すぎ、路地裏のギャラリー内には男女ふくめて、6~7人ぐらいのお客さん。デザイナーっぽい、お洒落な服装の男性もいる。
ファンブックに収録されている、日本のプロ作家たちのイラストレーションが半分以上を占めるが、本で見るよりずっと良かった。

ただ、何よりも引き込まれたのは、ファンブックには未掲載のアニメ制作用のラフスケッチ、背景画などの資料を壁2面に貼ったスペース。アイデア段階のメモ書きなども読みとれる。『RWBY』のファン像が、僕にはいまひとつ掴めないのだが、こうした資料集は望まれていないのだろうか……。


こんなにも『RWBY』が魅力的なのは、一見したところ――いや、僕のように“毎晩欠かさずブルーレイを再生している”者から見ても、「未完成」だからだろう。
CGモデリングは、ローポリ丸出しだ。入念に描きこまれたテクスチャにも、やや粗が目立つ。人形劇にたとえるなら、肝心の人形の出来がいまひとつなのだ。
しかし、だからこそアクションと芝居を工夫し、キャラクターの造形の悪さをカバーしようと奮闘している。そこが愛らしい。

主役4人の少女を4色に分けるのも、日本の女児向けアニメで使い古されたフォーマットで、新鮮なアイデアとは言えない。性格の描きわけも、赤=お茶目で誠実、白=冷たく上品、黒=ミステリアス、黄色=パワフルで社交的……と、ありふれている。
その分、なぜ冷淡なのか、なぜ周囲に秘密を持っているのか、シナリオを丁寧に彫りこんでいる。結果、キャラクターたちは類型化をまぬがれ、作品はドラマを獲得した。
いわば、欠点だらけの企画を、真正面から生真面目に具現化する、その誠実さに、僕は心打たれる。惚れこんでいる。

もし、まだ『RWBY』を見ていないなら、レンタル店にもあるので、手にとってみてほしい。
日本語版独特の魅力もあるのだが、それは別の機会に触れたい。


CNN「年間6400人以上の子どもが性犯罪被害」は本当か?
この話題も、すでに三周ほどした感がある。上記記事の結びの言葉、「日本は海外からの情報や発言に弱いが、闇雲に信じるのではなくきちんと内容を確認するよう心掛けたい」。
なぜ、こんなにも海外は統計を意図的に使い分け、日本を性犯罪大国にしたがるのか? そして、なぜ日本は海外(というか欧米)の顔色をうかがって、びくびくしているのか?

戦争に負けた国は、こういう目にあわされるんだと、僕は思ってます。小~中学生の間、僕が教師から最も多く聞かされた言葉は「反省」です。
中学校の思い出として、まっさきに脳裏に浮かぶのは、教室中の机をかたずけてスペースを作り、クラス全員が正座させられている光景です。「お前たちも辛いだろうが、先生も辛い」という、担任教師の言葉です。
どんな効果があるのか考えず、みんなで「反省」し、ひとりの例外もなく「辛い」思いをする……そのいびつな戦後教育が、社会人の「寝てない」「調子わるい」「忙しい」自慢に結実したんだと思います。

「その話が性犯罪と、どう関係あるんだ?」と疑問をもたれるでしょうけど、性犯罪が表面化しづらい裏には「辛いけど我慢すべき」という暗黙の強制が、作用しているように思います。
「誰ひとり、楽をしてはいけない」「辛いときに辛いと言ってはいけない」社会で、いったい何がどう改善されると言うのでしょう? 「被害者もツライだろうけど、私たちもツライ」というマゾヒスティックな連帯感が、誰を救うというのでしょう?


図書館で借りてきた塩田明彦の『映画術』を読んでいる。
国内外の映画のワンシーンずつを実際に検証しながら、「何がどう面白いのか」具体的に腑分けしていく。
「映画館で泣けたから、優れた映画」「退屈したから、価値のない映画」など感情的な評価のまかり通る日本では、ひょっとすると、シーン単位の分析など邪道あつかいされかねないのが、恐ろしいところ。

楽しいことにも悲しいことにも、裏側に駆動しているメカニズムがある。泣くとすれば、そのメカニズムを自力で解明できない――理不尽に行き当たったときだろう。理不尽にぶつかるまでは、理由を調べ、考えなくてはならないのだ。

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2016年2月 3日 (水)

■0203■

TOHOシネマズ新宿にて、『傷物語 Ⅰ鉄血編』。いちばん狭いスクリーンだが、満席だった。
このアニメの現場に参加した方によると、もともとは3時間の映画を一挙に上映する企画だったという。それと、背景美術がテレビ・シリーズとはまったく違う……前情報は、その程度だった。
Main_large1970年代後半から、テレビアニメが総集編という形で「実写映画」のフォーマットを獲得し、それ以降、「映画的」というフレーズは、アニメを修飾する誉め言葉として使われてきた。
だが、尾石達也監督の『傷物語』は、「映画的」という決まり文句をはねのけ、「動く絵」という見世物から再出発している。キャラクターの線は、ラフ原画のように乱れるし(あれを動画としてクリンナップするのは、むしろ猛烈な手間になる)、背景の3分の1ほどは3DCGで描画されている。テレビシリーズで特徴的だった望遠レンズで撮ったような詰まった絵ではなくなり、空間は広々としている。そして、実写素材をも取り込んだ質感は、既視感を呼び起す。

その既視感は、これまで見てきた「劇映画」とは、まったく関係がない。むしろ、Tumblrで遭遇するような、前後の脈絡のない、断片的な実景写真と強く結びついている。
だから、『傷物語』は「映画的」ではない。単に「絵」、時間をもった「絵」=映像としてのみ、かろうじて形を保っている。


しかし、ここで使われている「絵」は、テレビアニメの「セル画」とも、どこか様子が違う。
Sub4_large僕は、キャラクターの色調がとても気に入ったのだが……おそらく、[pixiv]で不意に見かけるような「キャラ絵」なのだ。「動く」ために簡略化された、汎用性のある絵には見えない。ふいにネットで「ツボを押さえた、いいキャラ絵」を見かけた印象に似ていて、それはやはり「映画」を見たあとの感覚とは、ほど遠い。
「優れた作画」「枚数のかかった動画」以前に、それは「時間を含有したキャラ絵」なのだ。

少し前のブログに、アニメは映画よりも「芝居」の側面が強いと書いた。それは、ラジオドラマのように音声で物語っているからだ。セリフさえ明確なら、口が動いていなくても絵が間に合わなくても、「劇」として成立してしまうのがアニメだ。
ところが、『傷物語』終盤に登場するキャラクターたちは、明らかに日本語を話しているのに、一言も聞きとれないような効果が施されている。『傷物語』には、輪郭がない。「ここからここまで描きます」と、範囲を決めていない。不定形だ。

たまたま映画館で上映されているから「映画」と呼ばれ、線画が動くから「アニメ」と称されているにすぎない。
これは、刺激的な体験だった。僕が見たのは「アニメ映画」ではなかった。昭和40年代、まだ都心に残っていた紙芝居屋を思い出したが、もちろんそんな懐古的なエンタメでもない。
三部作を最後まで見れば、何らかの結論や満足感が得られるとは思えない。できれば、三本別々につくって、一本ごとにコンセプトを変えてほしかった。あるいは、3時間、一気に見たかった。(念のため言っておくと、第Ⅰ部は「さて、これから」という、実にきれいなタイミングで幕を閉じる。)


帰りの電車の中で、塩田明彦の『映画術』のつづきを読もうとしたが、頭に入らない。
黒澤明の『醜聞(スキャンダル)』を昨夜、レンタルで見たのだが、それについて書く気も失せた。

僕は、『化物語』放送前、西尾維新さんと尾石達也さんにインタビューしたが、もちろんそんなところに手がかりはない。
『傷物語』は、あのころとは別次元に遷移した。たぶん、尾石達也さんの頭の中で「何かが起きた」のだ。そうとしか思えない。
ともあれ、めったに味わえない緊張と開放に出くわすことが出来た。物語が途中で終わっていることなど、もちろんどうでもいい。

僕の中に新たな「尺度」ができたこと、それが嬉しい。

(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

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2016年1月31日 (日)

■0131■

アニメ業界ウォッチング第17回:5周年をむかえた「立川×アニメ」、聖地巡礼にとどまらない次の一手は? 立川観光協会・岩崎太郎インタビュー!
T640_698397『とある~』シリーズ、『ガッチャマンクラウズ』シリーズなどで、聖地巡礼の地としてファンを受け入れている立川市へ、取材に行ってきました。
アニメイトさんへの取材と同様、作品とファンをつなぐクッションのような役割をしている人たちに興味があるんですけど、読者は、もっと作品の内側に入りこんだ記事を読みたいのかも知れません。それだと先鋭化して、横へ広がっていかないのではないか……という危惧は、常にあるんですけど。次回は、アニメ監督さんへの取材です。


「ガルパン、キャラの見分けがつかない」問題 映画監督・金子修介さんのツイートにさまざまな反応(
たまに見かける、残念なネットの光景。とにかく、同質性を求めたがる。個人攻撃によって仲間を得よう、自分は多数派だと思いたがる。

僕がこの件を知ったときには、金子さんを擁護する声が多数あがっていたけど、中には「金子修介って誰?」と、よく分からないまま叩いている人もいた。自分から調べよう、歩みよろうって姿勢が、根づいてない。金子さんを、なぜか「サヨク」と呼んでいる人もいたし……。
表現規制反対のムーブメントでも、ちょっとでも反対意見が出てきたら、「誰こいつ?」から始まって、「また○○の一派か」と手近なカテゴリーに分別して、手っとり早く嘲笑しはじめる。自分から譲歩しようとか、相手と同じ地平に立って対等に話そうとかは考えないんだよね。
結果、「気持ち悪い連中にからまれた」「オタクたちにバッシングされた」という口実を、相手に与えてしまう。

オタクであることって、自分の怠惰さとか、性根の悪さを克服する戦いなんじゃないかと思っていたけど……防衛本能から生じる過剰な攻撃性が、人を「オタク」という人格パターンに落とし込んでしまうのかも知れない。アニメが好きとか、趣味・嗜好は二の次であって、まずは人格なんだろうな。
(人格は先天的に決まっているものではなく、努力次第で改善できるはず。それをあきらめたら、底なし沼にはまる。)


昨夜は、20年ぶりに再会した学生時代の知り合いと、渋谷で飲んだ。
20代の僕は、つねに焦っていて、他人への気配りに欠け、彼に対しても横暴にふるまっていた。今は利害関係もないし、彼には家族があるし、適度な距離感ができていたように思う。

最後に、新作『スター・ウォーズ』と、ディズニーが半永久的にシリーズを継続していく話になった。『スター・ウォーズ』について、彼と話すのは初めてかも知れない。
彼が言うには、「一度、『スター・ウォーズ』というコンテンツを終わらせて、リニューアルするには、今回のような作り方しかなかったのではないか」。作品として斬新なものにしたら、すぐ息切れしてしまう。それは、僕も同意見。
その反面、細部は荒っぽく、おかしなシーンの連続だった……というのも、同意見。
世間で評価の低いエピソード1~3は、24フレームのデジタル撮影を全編初導入した。今回の新シリーズは、すべてフィルム撮影に戻しているそうだ。『フォースの覚醒』はIMAXに対応するため、部分的に70mmフィルムを使っている。
ハードも重要だけど、ソフト面は、今後も簡略化されていくのだろう。今では、山のように作られたスピンオフ小説や続編コミックさえ、愛らしく思えてくる。映像作品がとぎれ、フィギュアや紙媒体、あとはせいぜいゲームで命脈を保っていたころの、『スター・ウォーズ』“冬の時代”。当時はバカにしていたけど、今後、ディズニーが量産する無数のエピソード群よりは、原典に近い場所にあるはず。

僕は、1978年に出版された『スター・ウォーズ』のノベライズを本棚から引っ張りだし、枕元に置いた。プロローグには「ホイルス星系誌」と書かれている。それは、1973年にジョージ・ルーカスが考えた『スター・ウォーズ』の仮タイトルなのだ。そんなディテールのひとつひとつが、僕の胸をしめつける。

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2016年1月27日 (水)

■0127■

ガルパンFebri 発売中
2e80ac5f08bcaa44e6c040fbd1b14e6e2「俺のガルパン愛を聞け! 」コーナーの田村尚也さん、浪江俊明さん、高久裕輝さんのインタビュー。
それと、マックスファクトリーの「figma Vehicles IV号戦車D型 本戦仕様」のレコメンドを書きました。まあ、お手伝いのさらに手伝いです。


黒澤明の演出を研究した動画“Akira Kurosawa - Composing Movement”を見てから、どうしても再見したい映画があった。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。昨日、準新作レンタルが200円の日だったので、借りてきた。昨年初夏のマスコミ試写以来である(その試写会では誓約書を書かされ、「試写会があった」事実すら口外してはならなかった)。
Jpphotosub1rev2mmfr_large試写直後の感想は、「ちょっと待てよ、年末公開の『スター・ウォーズ』って、この映画に勝たないといけないの? そりゃ無理な気がするぞ……」であった。
そんな感慨もあってか、頭の中で『フォースの覚醒』の登場人物を『怒りのデス・ロード』のキャラクターに置き換えて見ていた。砂漠の惑星から逃げのびたい少女、レイ。彼女に手をかす、謎の不良老人ハン・ソロ、悪の軍団を裏切って仲間になるフィン……次々と不具合に見舞われつつも、3人を乗せて飛びつづける老朽船ミレニアム・ファルコン号、次々と襲いかかる様々な形をした悪のスターファイター、ソロの旧友のお婆ちゃんパイロットたちが加勢し、最後にファルコンとソロが、レイとフィンを逃がすため、犠牲となって……なぜ、そういうシンプルで大胆な映画にできなかったんだ!?
(もちろん、ソロはレイに名乗らない。レイも「ボロ船の操縦の上手いジイさん」としか認識しない。観客にだけ「あれはハン・ソロだ」と分かる趣向でね。作り直そうや!)


それはさておき、『怒りのデス・ロード』の研究・解析は、さまざまな人がやった後だと思う。
二度目を見ながら思ったのは、映画という表現は「四角く切りとられたフレーム」しか使えないこと。カットの前には別のカットがあり、カットの次には別のカットがある、その制約が武器にもなるし弱点にもなる。そして、映画はいちど始まったら、時間と運命をともにしなければならない。1コマたりとも、無駄にはできないのだ。

たとえば、砂嵐の中に突っ込んだニュークスが、マックスを車に乗せたまま、自爆しようとする。カメラは運転するニュークスのバストショットから、彼の左腕の動きを追い、ティルト・ダウンする。ニュークスの左手は、ガソリン・タンクのキャップを開ける。床にドバッとガソリンが広がる。そこで、このカットは終わり。この動きのあるカットで、ニュークスが妙なことを始めたと分かる。次のカットは、驚いているマックスの正面アップ。フィックス。
いうなれば、ニュークスがガソリンを床に流すカットは「起→転」、マックスの驚きのカットは前カットの「承」。と同時に、マックスが危機を感じて次の行動を起こす「起」のカットも兼ねている。「起→転」と「起→転」がつながった場合、画面は十全に時間を使いこなし、我々は「息もつけない」体験をする。

映画をつまらないと感じるとき、たいてい我々は「起→結」のみで完結したカットの、単調なつらなりを見せられている。(たとえば、人物の会話シーンで、単なるフィックスの切り返しを見せられている。)
『怒りのデス・ロード』がアッという間に終わってしまうのは、「起→転」のカットで、大半が構成されているからだ。


『怒りのデス・ロード』で最も秀逸なシーン(カットの連なり)は、マックスがフュリオサたちに砦へ帰るよう、提案するところだ。バイクを走らせるマックスのバスト。マックスのバイクがフュリオサたちのバイクを追い抜かしていくロング。停車するマックスのバイク、奥にフュリオサたちのバイク(フルショット)。三つのカットが、起・承・転を構成している(転のカットで、マックスはバイクの向きを変えている)。

その後、フュリオサ側からの切り返し、地図のアップなどが入るが、マックスの提案に、皆がリアクションするカットが見事だ。フュリオサがバストサイズで中心にいて、奥に他のメンバーがいる。メンバーたちは「頭がおかしい」と口々に反発し、バイクを降り、手前に歩いてくる。だが、フュリオサだけは動かない。彼女だけが、マックスの提案を真に受けているからだ。
このカットが繰り返されるたび、メンバーたちはマックスの提案に乗り気になっていく(同時に、フュリオサのように動きが少なくなっていく……すなわち、意志が統一されていく)。
最後に、フュリオサは真後ろを振り返る。反対側にカメラをすえた“ドンデン”と呼ばれるカットだ。フュリオサの視線の先にはニュークスがいて、彼は「希望はあるぜ」と、マックスの提案に太鼓判を押す。そのためのドンデンだ。マックスとニュークスが、フュリオサたちを挟んで位置していたことが、シーンの終わり近くに分かる。なんという、美しい構成だろう。

映画には、時間と空間しか道具がない。しかし、カットワークというチャンスが与えられているのだ。(そして、我々が映画を「面白い」と感じるとき、カットは時間と空間をくまなく使いこなしているのである。)

(C)2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

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2016年1月26日 (火)

■0126■

月刊モデルグラフィックス 3月号 発売中
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組まず語り症候群 第39夜
今月は、『バットマン』と『サイボーグ009』のプラモデルを取り上げて、ヒーローの模型について語っています。
『バットマン』は担当氏、『009』は、僕がたまたま入手したものですので、なかなか珍品だと思います。

それで、このグダグダな連載も、次回からコーナーがひとつ増えます。そのコーナーがメインになって、「組まず語り」がオマケ化する懸念もありますが、まあ、そうなってもいいのかな……程度の気持ちでいます。お楽しみに!


レンタルで、『ヘンゼル&グレーテル』。日本では劇場公開されず、DVDのみの発売。一部に、熱狂的ファンがいるらしい。
71wyszofwl_sl1000_魔女を焼き殺したのち、成長したヘンゼルとグレーテルの兄妹が、魔女専門の賞金稼ぎとなって活躍する、アクション映画。
子ども向けではないので、さまざまな武器で魔女を倒すシーンはブラック・ジョーク的に残虐に描かれている。ヘンゼルが、子ども時代に食べさせられた魔女のお菓子のせいで糖尿病になっていたり、細々とした設定は面白い。

おそらく、映画は「アイデア」を具現化するのに最も適したツールなのだろう。
全6部作の『スター・ウォーズ』は、作家の頭の中に渦巻いていたアイデアのマグマに、「映画」という形式的・具体的な制限を与えた。「映画」が存在しなければ、『スター・ウォーズ』というアイデアのブイヤベースは、他人の目に見える形にはならなかったに違いない。

前回は、黒澤明の演出の機能性について触れたが、映画という不可解なメディアの役割は、なにも「作品」として鑑賞されることだけではない。
あえて「芸術」という言葉を用いるなら、「娯楽」と「芸術」が不可分な時代があった。いや、今だって「娯楽」と「芸術」は不可分なのだ。その証拠は、誰かが探して、誰かが書きとめていかねばならない。


日本語吹き替え版『RWBY』を見たとき、あまりの出来のよさに、音響演出の打越領一さんにインタビューを申し込んだ()。
昨日は『ブブキ・ブランキ』の取材だったんだけど、それはやはり「絵」の取材であって、ポスターカラーで描かれた絵が、いかにして空間を獲得していくか……そういう話であった。

僕は、日本のテレビアニメは、漠然と「映画よりも人形劇に近い」と思っていた。
Bbkbrnk『RWBY』も『ブブキ・ブランキ』も、声優たちが視聴者に対してではなく、作中人物に向かって語りかけている。「そんなの当たり前だろ」と反論されそうだが、果たしてそうだうか(おそらくは、恋愛シミュレーションなどのゲーム文化が、「ユーザーに語りかける」役職を声優に与えたのだろう)。
実写映画では、俳優が聞き取れないぐらいボソボソ話しても、ニュアンスは伝わる。ニュアンスさえ伝わればいいのだ。
アニメが映画よりも「劇」なのは、一字一句、すべて聞かせる必要があるからだ。すべからく、声優はハキハキと喋らなくてはならない。だが、視聴者に好感度を与える必要まではない。憎まれ役には、いやらしい卑屈な話し方をしてほしい。それでも、僕らはちゃんと魅力を感じる。『RWBY』でも『ブブキ・ブランキ』でも、視聴者に向かって媚びたような話し方をするキャラクターはいない。

「お芝居」としての声優の技は、ほとんど語られてこなかった。声優さんご本人にインタビューしても、よほどのベテランでないかぎり、技術的な話はしてもらえない。
なにか、いい手はないかなあ……と考えはじめている。

(C)2013 Paramount Pictures Corporation and Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved. TM, (C) & Copyright (C) 2013 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.
(C)Quadrangle / BBKBRNK Partners

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2016年1月23日 (土)

■0123■

ホビー業界インサイド第7回:説明図どおりに作るだけで、プラモは楽しい! プロモデラー、松本州平インタビュー!
T640_697606中学時代に「ホビージャパン」誌で愛読させていただいた、伝説のモデラーさんに取材できました。
僕は、一生分のボキャブラリーは、中学~高校に読んでいたテキストによって、その素地ができあがると思っています。なので、当時のホビージャパン~モデルグラフィックスの記事で使われていた言い回しは、死ぬまで抜けないでしょう。
この記事で、「~でしたねえ」という語尾を多くしたのは、当時のホビージャパンを意識しました。

でも「懐かしいから」ではなく、現在のプラモデル・ブームに加速をかけたいから、キャラクター性の強い松本先生に、ご登場願ったんです。


黒澤明作品をきちんと見直そうと思い、レンタルで『わが青春に悔なし』。1946年、GHQの占領下で公開された映画だ。主演は、原節子。
20120903115604123時代背景もストーリー展開も、不勉強ゆえ、よく分からなかった。だが、前回紹介した動画“Akira Kurosawa - Composing Movement”のおかげで、十分に演出を楽しむことができた。
複数の人物が、椅子に座って話し合っているようなシーンでは、背景にコーヒーを淹れてまわる人物を入れて、動きをもたせる(その人物のリアクションによって、会話内容の深刻さが分かる。効率的だ)。
あるいは、原節子が座って思いつめている。そこへラジオ放送が流れると、原の周囲に座っていた者たちが一斉に立ち上がり、ラジオに聞き入る……が、原は座ったままだ。原のかたくなな気持ちが、“動かさない”演出で伝わってくる。

冒頭近く、川沿いの道を原節子と藤田進が、画面奥へ、楽しげに走っていく――手前には、川が流れている、カットの終わりちかく、他の学生たちの足が大きくフレーム・インして、上手から下手へ、川を渡っていく。原と藤田は下手から上手に走っているので、ちょうど逆方向の動きだ。フレームサイズも、ロングとアップ。対照的だ。それだけで、画面にリズムが生まれる。
さらに言うなら、原と藤田だけが特別な二人で、あとの学生たちは「その他大勢」である……と、この冒頭ちかくのワンカットで説明できている。機能的だ。セリフに頼ることなく、映画の全体像を示している。

果たして、役者の動く方向やサイズは、瑣末なことなのだろうか? 「細かいことはいい、ストーリーが大事だ」「映画に魂がこもっているか、愛情があるか」といった抽象的な話に、僕たちは話をそらしたがる。魂も愛情も、技術を使わねば伝えることができないというのに。


今月は、あと一件、取材がある。春には、単行本が出るという。その本の取材も、どんどん入れていかないと、執筆時間がとれない。
なので、毎年3~4月に行っている海外旅行は、秋になりそう。秋なら、単行本の印税も入っているし、ちょうどいいだろう……もし、本当に出版されるなら、の話だが。

(C)1946 Toho Co.,Ltd.

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2016年1月19日 (火)

■0119■

火曜日は、準新作が200円レンタルなので、TSUTAYAで『キングスマン』。スパイが主人公ではあるけど、『キック・アス』同様、ヒーロー物のパロディといった趣き。
Sub6_large_2冒頭にマーク・ハミルが登場する。愛嬌のある丸々とした老教授の役で、とても可愛らしかった。隠遁した元ジェダイ騎士を無理やり演じるより、こっちの方が断然、ハマリ役。
配役も含めて、思いどおりに撮れないところから、映画の個性が滲み出してくるような気がする。そういう意味では、『キングスマン』はフレーム単位まで監督がコントロールしすぎる。良くも悪くも、コントロールの行き届いた映画ほど、監督の限界が露呈しやすい。

だからこそ、黒澤明の映画演出を徹底研究した動画“Akira Kurosawa - Composing Movement”を見ると、その計算力に舌を巻く。必見。

「視覚的刺激こそが観客の心を動かす。そのために映画はある」……われわれの情動は、映画を駆動させるメカニズムによって生じる。この動画を見れば、分かるはずだ。


スキーバス転落事故で起きたソーシャルメディアの顔写真「引用」報道への批判
「公表された著作物は報道、批評、研究などの目的であれば出所を明らかにするなどのルールを守っていれば問題になりません。」
「誰もが見えるところに何らかのコンテンツを公開するということは、報道、批評、研究に引用されても仕方がないということです。なお引用は許可を得る必要がありません。」
……これらは常識の範囲なのだが、自覚している人は、そう多くないような気がする。

上記記事の本質は、次の一文につきる。
「今回のスキーバス事故でも、容姿についてタイトルに出したまとめサイトもあり、拡散されています。顔を見てみたいという読者の欲望から、目をそらしては議論は進みません。」
「事故死した被害者の顔ぐらい、見る権利あるよね」とか思ってません? では、あなたが死んだあと、あなたの容姿について、あれこれ言ってもOKですか? それはイヤだとか言うんだろうね? そんな自分を卑怯とも姑息とも思わないんでしょ? それぐらい、日本人の権利意識は低いと思う。権利・尊厳について、議論してより良いものに高めていこうって意志も、まるで感じない。この社会には、向上心が欠落している。 

僕の提出した【実在児童への性暴力写真に関する請願書】()が、要所要所で無視されているのも、無理からぬ話に思えてくる。 「犯罪にあった児童の権利擁護」という観点から“児童ポルノ”法をとらえる人が、絶望的に少ないからだ。


上記記事と並んで、「お受験ポルノにご用心」というコラムがあった()。
著者はフードポルノを「広告、インフォマーシャル、調理実演、その他の視覚メディアでの、調理や食事における魅惑的で豪勢な視覚表現」と、解釈している。

さらに著者は、コラムをこう結んでいる。
「性的なポルノやフードポルノ、キャリアポルノが現実とちがうことを自覚するのと同じ程度には、お受験ポルノが現実とはちがうことも自覚しておくべきかと思う。」……著者は無自覚なようだが、 「ポルノ」という言葉は、容易に「現実とちがうこと」に結びついてしまう。「児童ポルノ」と呼んでいるかぎり、犯罪過程で撮られた画像は「現実とはちがう」「視覚表現」へと、曲解される。曲解されるたび、性犯罪にあって無理やり写真をとられた児童の尊厳は、何度も何度も忘却される。
他でもない、性犯罪撲滅をうたう人たちが、真っ先に忘れる。無視をする。調べない、考えない。この社会は、いくらでも無知に、無慈悲になれるのだ。

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation

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2016年1月18日 (月)

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秋元康プロデュース……と聞くと、まっさきにアニメ『ICE』を想起してしまうのだが、その『ICE』と同年公開の原田眞人監督作『伝染歌』を、レンタルしてきた。
146984_1原田監督は、『おニャン子・ザ・ムービー 危機イッパツ!』でも秋元氏とコラボしていたよなあ……と、冒頭のアイドル映画パートを見ていて、思い出した。女子高生を主役にした原田作品といえば、『バウンス ko GALS』なんかもあったよね。あのギャング映画風のハードボイルドな味わいも、ちょっと入っている。
『伝染歌』は、直線的に理解することを妨げる要素で、いっぱいだ。アイドル映画のシークェンス、ホラー映画のシークェンス、自殺社会について饒舌な社会派映画のシークェンス、すべてバラバラに撮影し、思いつくままに前後を入れ替えてつないだかのような、水平に広がった映画。


絶妙に面白いのは、松田龍平の演じる雑誌記者が、自殺願望をよびさます“伝染歌”に呪われてしまった女子高生たちを、自分の実家にかくまうパート。松田の実家は、山奥にある豪奢な旅館で、彼は大広間にお札を張って、悪霊の侵入をふせごうとする。女子高生たちを“エンマさま”と呼ばれる霊能力者に会わせて、彼女たちの自殺を防ぐため、寝ずの番をする。
驚くべきことに、このパートでは“伝染歌”の設定は、ほとんど忘却されている。そのかわり、松田は“餓鬼”を恐れはじめる。(餓鬼は「最下等の幽霊」らしい。もはや、歌い手の呪いがこめられた“伝染歌”とは、何の関連もないのである。)
そして、CGで描かれた数匹の“餓鬼”が現れるのだが、彼らは普通のオバチャンである“エンマさま”に、カップ麺の汁をかけられて退散する。“餓鬼”たちの質感はCG丸出しだが、“エンマさま”に会うまでのプロセスは、セリフのひとつひとつが念入りで、奇妙なリアリティがある。それと同時に、松田龍平の真剣すぎる演技が、笑いを誘う(彼だけは、空中分解した支離滅裂な映画に出演している自覚は、あったと思うんだよな……)。


回想シーンで、大島優子演じる少女の家に、ヤクザたちが乗り込んでくる。ヤクザの一人が、少女の父親の書いた原稿をわしづかみにして、怒鳴る。「俺の大好きな大好きな、スティーブン・キング先生のパクりじゃねえか、この野郎!」……一応、シリアスなシーンのはずなんだけど、「ヤクザがスティーブン・キングのファンだった」という無意味なギャグが挿入される。
原田監督は同年、『魍魎の匣』も撮っているので、『伝染歌』はどうでも良かったんだろうな……。だけど、『伝染歌』のほうが面白いんだよ。「企画」というホワイトボードに、整然と「脚本」が書かれたのに、原田監督がゴシゴシと素手で消しちゃったような破壊力がある。

監督(作家)が軽視すればするほど、作品は自律性を獲得していく。「企画」としての側面以上に、すったもんだの撮影やポスプロの挙句の「結果」が無様なほどに露呈し、世の中での役割を終えた僕のような人間が、そこに「価値」を見出す。誰かがゼンマイを巻いたら、止まってしまう前に、誰かが巻きなおさなければならない。さもなくば、文化は消滅する。
それに、いくら監督が投げていたとしても、原田作品に特有のドキュメンタリックなカメラワークと、セリフを言う直前でバツンとカットを切ってしまう大胆な編集は健在で、もしかすると、「脚本」という完成品を切り刻むために「演出」が存在するのではないか、映像作品と脚本とは、そもそも拮抗する関係にあるのではないか……そんな疑念が、頭をもたげてくる。

ネットで、『伝染歌』のあらすじを丁寧に書いたすえ、細かくツッコミを入れているサイトさんがあった(ポンコツ映画愛護協会)。少しだけ引用させていただくと、“何がどう分からないのか具体的に書きたいのだが、「何がどう分からないのか」が分からないぐらい、終盤の展開は支離滅裂でデタラメ なのだ。”
この映画を語ることは、まさしく、言語を絶する。言語を絶するために、映画は撮られつづけるのかも知れない。

(C)「伝染歌」フィルムパートナーズ

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2016年1月16日 (土)

■0116■

レンタルで、『クレイジー・ドライブ』。「アクション」「コメディ」とジャンル分けされていたが、どちらともつかない、不思議な映画。
Stretch_62967_25545パトリック・ウィルソン演じる、ストレッチという男が、黒いリムジンに乗って、時間までに金を届けようと必死になっている。だが、さまざまな客から、つぎつぎと奇妙な依頼をうけ、どんどん時間がなくなっていく……その一晩を描いた、シンプルな映画だ。

ストレッチの前任者は、カールという優秀な男だった。カールは、なぜか拳銃自殺してしまったのだが、ストレッチがネガティブな思考に陥ると、別人格のように彼の背後にあらわれ、「酒はどうだ?」「コカインもいいぞ」と陰気にささやき、挙句は自殺を薦めさえする。
一方で、ストレッチはピンク色の車をたびたび見かけ、それを吉兆だと思い込んでいる。ピンクの車のナンバープレートには、「運命」という文字が書かれている(ように、ストレッチには見える)。
どこか神経症的で、知的なムードに彩られた映画。「お前という人間は自立支援型か、それとも環境配慮型か?」といったセリフが、一種のギャグとして使われる。その意図や暗喩は、分からない。むしろ、「分からない」からこそ、ギャグとして機能しているのだ。


大学生のころ、夜中にリュック・ベッソンの『サブウェイ』を見た。途中から見たので、物語などは分からない。女優の美しさ、突拍子もないセリフ、ひとつひとつのシチュエーションが面白く、翌日、興奮して、友だちに話した。「その映画のタイトルは、『サブウェイ』だろうな」と指摘され、レンタル・ビデオ店で借りて、最初から見直した。

すると、意外と面白くない。「どんな物語なのか」順番を追っていくと、とたんにシーンの意味や意図が気になりはじめる。あれだけ弾けていた、ファッションやセリフや音楽が、急に色あせて見えた。
――どうも、僕の頭は、首尾一貫したものを求めていない。「途中から始まり、途中で終わる」、あるいは「長い物語の、ほんの一部だけを目撃する」。自分には、とても全容を把握できない……そんな状態が、僕は好きだ。世界と自分とは、そういう関係でありたい。「すべては知らないけど、その良さは分かっている」。そんな状態が、好ましい。
僕の、そんな嗜癖に、たまたま映画という形式が答えてくれているに過ぎない。

大学の講義で習ったのは、「脚本が出来上がったら、ラストシーンを削除する」。すると、ハッピーエンドともバッドエンドともつかない、余韻のある終わり方になるという。たまに、見た映画のラストシーンを「なかったこと」にして、そのちょっと前で終わるよう、頭の中で編集してみる。すると、ジワリと味わいが増す。


“ネットで身元隠して他人を叩いてる人は、実は「個」のつもりじゃないのかもしれない。「みんなの代表」ぐらいの気持ちなのかもしれない。”(

なるほど。確かに、匿名で個人叩きする人は、「みんなが思っていることを、俺が代表して言ってやったぞ!」「俺だけでなく、みんなで怒ろうぜ!」と呼びかけているかに見える。賛意を求めたがる。
自分の悪意や憎悪を、多数派の意見にすり替えたがるのは、ネットに限らないような気がする。「出る杭は打たれる」教育をされてきたから、誰もが多数派に属したがる。見せかけの連帯感によって、日本社会は秩序を維持している。

本当に自分にとって必要なことを為すためには、孤独に耐える勇気が必要。孤独になるのは、心から信頼できる協力者を得るのに、必須のプロセスだ。「孤独」って、ひとりで自分に都合のいい思いに耽ることではなくて、人に会っては失望し、信じたそばから裏切られる、切磋琢磨のプロセスだからね。悲しいかな、信念を貫くには、タフであらねばならんのだ。


Art of the Filmの“The Sound of the Star Wars Saga”。音楽もセリフもなく、効果音のみで構成された『スター・ウォーズ』の世界。

エピソード1~3をおろそかにしない編集に、好感がもてる。

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2016年1月12日 (火)

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レンタルで、『幻の光』。是枝裕和監督の、20年前の長編デビュー作。
Maborosi_2江角マキコ、浅野忠信、内藤剛志……と、名の知られた俳優を使ってはいる。だが、彼らが出演しているとは、すぐには分からない。なぜなら、ほとんどが風景を主体にしたロングショットで、俳優の顔のわかるバストショットは、数えるほどしかないからだ。

ラストカットのひとつ前、窓から小さな港が見える。その港にへばりつくように、寂しい集落がある。そのカットの中では、何ひとつ動くものはない。完全なフィックス。内藤剛志演じる家の主が、子どもたちと遊ぶ声が、かすかに聞こえるだけだ。
そのショットには、時間のみが流れている。かすかに重たい映画全体を、その微動だにしないフィックスの絵が、どっしりと支えているように見える。

僕は、押井守監督の「映画をつきつめていくと、アクションだけが残る」という言葉が好きだ。それは「アクション映画というジャンルが残る」といった問題ではなく、「動き」だけが映画の本質である……という意味に、僕は解釈している。ある実験映像作家の「映画は、2コマあれば成立する」という言葉も、同じフィールドに属している。1コマなら写真だが、2コマならば、(たとえまったく同じ絵でも)そこからが先が映画なのだ。
そして、『幻の光』を見ていると、それらの言葉が、より錯綜して聞こえる。この映画に散見される、ピタリと静止したショットは、果たして沈滞しているのだろうか? 僕がそのショットを十秒見ていたとしたら、十秒間のあいだに「何も起きなかった」と断言できるだろうか?
そのような疑問から、実は「見る」行為が始まるような気がする。


『幻の光』で、もうひとつ。
浅野忠信が自転車を盗んできて、その自転車を江角マキコと二人で、公園で塗装しなおす。江角は「あ、おまわりさんや」と、フレームの外を見ながら言う。浅野が笑うので、それが冗談であると分かる。このとき、カットを切り替えて「おまわりさんがいない」ことを説明することも出来たはずだ。浅野がハッと視線を上げた直後、無人の公園を映せば、その2カットで「おまわりさんはいない」と、僕らは理解できる。
ところが、『幻の光』は、僕らの読解力に頼ろうとしない。おかまいなしに、江角が浅野をからかった、二人の親しさにだけカメラを向けつづける。しかし、「もしかすると、本当に、おまわりさんが通りかかったのではないか」「そのまま、おまわりさんは通りすぎてしまっただけなのではないか」という可能性は、映画に残りつづける。


映画では、誰かがフレームの外を見ながら「怪獣だ!」と叫べば、そこに怪獣がいることになる。そのような約束事を用いて、「怪獣のいる世界」を作り上げる。
この映画の前半で、浅野忠信は姿を消す。数少ないやりとりから推測すると、線路上で自殺したらしいと分かる。彼の遺体は、映画には出てこない。死ぬ瞬間の映像も出てこない。にも関わらず、僕らは「浅野の演じていた男は、死んでしまったのだ」と理解する。つまり、「彼は死んだことにしよう」と、映画と新たな約束をかわして、その先を見つづけることになる。「浅野は死んだらしいが、実は生きているのではないか」と疑問を残すようなら、そこから先を見ても、何も頭に入ってこないだろう。
江角マキコは、若い未亡人となり、赤ちゃんを連れたまま、やはり妻と死に別れた内藤剛志と再婚する。……と、簡単に書けてしまうのだが、それはセリフの断片からの推測にすぎない気がしてくる。僕らはよく「ストーリーがいい」「物語が感動的だ」と言いたがる。だが、「ストーリー」は、「映画の約束事」にしたがって、映像や音声の断片から、僕ら自身が構築したものにすぎない。たとえば、「内藤剛志が妻と死別していた」ことは、映画のラスト近く、江角が「なぜ、奥さんを死なせたの?」というセリフを発することで、初めて分かる。もし、そのセリフがカットされてしまったら、内藤の役柄は、よく分からないままだっただろう。
映画の「ストーリー」は、そこまで脆弱で曖昧。なぜなら、僕たちの読解力に頼っているからだ。にもかかわらず、映画の企画はプロットや脚本なくして始まらない。その矛盾を解き明かしていく行為こそが、映画づくりなのかも知れない(『もののけ姫』のメイキングで、宮崎駿監督が、映画の「ストーリー」を考えるのに「抽象的な図形」を使っていた姿を思い出す。)

George Lucas back to the Star Wars movies
ジョージ・ルーカスを、『スター・ウォーズ エピソード9』の監督にしよう!という趣旨の署名キャンペーンが、ブラジルから始まった。
署名したけど、今回の三部作以降も『スター・ウォーズ』シリーズは続くだろう。ルーカスフィルム買収したのは、ビジネスを半永久的に続けることが目的だったのだから。
ただ、人生の半分以上を『スター・ウォーズ』に捧げたルーカスへのラブレターにはなるんじゃない? だから、署名したんだ。

(C)TV MAN UNION,inc.

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