2018年8月15日 (水)

■0815■

EX大衆 9月号 16日発売
Dki1giiuwaexqqo498x640●現在進行形『ゲゲゲの鬼太郎』を見よ!
放送中の『鬼太郎』について、誰にインタビューしたいのか聞かれたので、『地球少女アルジュナ』DVDブックレットで何度も原稿をお願いした脚本家の大野木寛さんに取材させていただきました。
この仕事は『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を企画・編集してくれた編集者の依頼なので、彼が決めた文字数どおりに納品して、以降はデザインも見ないし構成もおまかせです。
僕の仕事は「ライター」から逸脱しつつあるけど、いつでも雇われライターに戻れるフットワークも、生存戦略には必要です。


レンタルで、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』。
Graduatecovre01967年、トリュフォーやゴダールのデビューから10年と経っておらず、彼らと同世代の映画といってもいい。ヌーヴェル・ヴァーグより明らかに金はかかっているが、実験精神では引けをとらない。
アップの手持ちカメラで情報をそぎ落として臨場感を出したり、カットが変わるとアクションは連続しているのに時系列の異なるシーンへ繋がっていたり、不自然なズームバックで感情表現したり、全編、突拍子のない演出で生き生きとしている。


ただ、やはり映画が新しく更新されつづけていたのは、70年代初頭のニューシネマまで。以降は、SFXやCGによって被写体が変化しただけで、ドラスティックに映画の話法が書き換えられてはいない。アジア映画は活性化したが、それは経済面の話、世界市場に進出したという話だ。映画作家自身は、それぞれの小さな戦場でゲリラ戦を展開している印象がある。
タランティーノがウォン・カーウァイにラブコールを送っていた90年代中盤、ミニシアターの全盛期、ようするにああいう同人的な時代が今もつづいている。映画は組織力や政治力を失った。日本でいうと、ATGはムーヴメントを起こすことが目的の政治活動だったと思う。


ようやく時間に余裕が出てきたので、吉祥寺オデヲンで『未来のミライ』。不入りだと聞いていたが、半分ぐらいの客席は埋まっていた。興行的には下落の一途ではなく少しずつ持ち直していると聞く。
640エンドロールを見て呆気にとられたのは、関連企業の多さだ。こんなにがんじがらめに多方面からの利害が絡んでいるのに、作品の個性を維持しつづけるのは至難の業と思える。「細田守はケモだ、ショタだ」と下卑た感想をつぶやけるのは、奇跡といってもいいほど幸せな状況であって、どこの誰がどう細田監督を守っているのか、おおいに気になる。だが、その人が誰なのかおいそれと探り当てらないのが、今の商業アニメなのかも知れない。もし取材しようとすれば、三重四重に東宝のチェックが入るだろう。

細田守はあいかわらず、どこを切っても細田守。『デジモンアドベンチャー』からずっと。観客には、好きか嫌いかの選択肢しか残っていない。好き嫌いだけで語らせてくれるのって、やっぱり甘やかされているといってもいいぐらい、幸福な状況だ。
(裏を返せば、現場や作り手の生の言葉や状況が届きづらい環境なのかも知れない。)


たったひとつの家族、4歳児の主観だけで成立した小規模な映画だ。
640_1構図はフラットなのに、階段状の住居が画面に奥行きを与えるし、成長とか退行といった抽象性を帯びたりもする。中庭が、4歳児だけに知覚可能な異空間と化すアイデアは面白いと思った。その異空間のルールが何度も改変されて、その破綻ぶりも『時をかける少女』から変わっていない。
美術が良かったのだが、美術をいくら誉めても、作品にとってプラスに働くとは思えない。作画が、キャラデが声優が……といった各論は、もはやアニメ作品の本質ではない。アニメが世の中に評価されていなかった頃は、どんなディテールも評価の対象になったが、今は違う。

絵が綺麗なのは当たり前。綺麗で、そこそこ泣けるやつ。家族とか恋愛の美しさを謳ったやつ。ひょっとすると、大作アニメにはそれしか求められていないのかも知れない。
『未来のミライ』がいいとか悪いとかっていうセコいレベルの話ではない。世の中から求められるアニメがどんどん口当たりのいい無害な映画に希釈されているとしたら、あまり明るい気持ちにはなれない。

『未来のミライ』には、僕は好感をいだいた。だけど、その好感ってやつが曲者なのだ。

(C)Rialto Pictures
(C)2018 スタジオ地図

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2018年8月12日 (日)

■0812■

ご当地でしか手に入らないプラキット、“ゴトプラ”って何だ!? プレックスのデザイナー、坂尾重紀さんに聞いてみた!【ホビー業界インサイド第38回】
T640_772569ゴトプラを開発した坂尾さんは知り合いの編集者から何ヶ月か前に知らされていて、僕から独自にコンタクトをとっていました。おかげで、情報解禁の直後に最速でインタビュー記事を掲載することができました。


プラモデルといえばガンプラと即断される中、ノンキャラクターのプラモデルを売っていくには知恵とセンスが求められます。
ゴトプラは誰でも知っている建物と漢字を組み立てキットという構造でつないだわけですが、では東京タワーは誰がいかにして広めて、大阪城をビジネス化するにはどんな環境が必要だったのか、思いを馳せずにはいられません。「売る」とは、どういうことなのか?を考えざるを得ないわけです。

今回はプレックスの営業さんが記事露出のタイミングを図ったおかげで、記事は普段より読んでもらえています。
一方で、僕が特集を担当したホビージャパンエクストラは書店においておらず(僕も地元では一度も見てません)、ビジネスチャンスを逃しています。卑近な例でいうと、そういうことです。
ガンプラ以外のプラモデルがガンプラほど売れてないのは何故なのか、真面目に考えてる人は少ないのでチャンスだとも言えます。僕にできるのは本をつくることなので、山ほど企画はあるしアイデアは尽きないし、いくつか実準備に入っていますよ。


ようやく、ひさびさに映画をレンタル。トム・ハンクス主演だから、それなりに見ごたえあるのでは?と、知識ゼロで借りてきた『王様のためのホログラム』。
640妻に別れられたサラリーマンが、サウジアラビアの砂漠に仕事で飛ばされる。環境は苛酷だが、彼は美しい女医と知り合い、ストレスを脱していく。例によって、文学レベルのストーリーは僕には把握できなかったし、ストーリーが映画の面白さを左右するとは思えない。

会社のリムジンを下ろされたトム・ハンクスが、呆然と砂漠に立ち尽くす。『北北西に進路をとれ』の飛行機に襲われるシーンのような不条理さが感じられる。砂漠にカメラをすえた瞬間、映画は地平線に支配される。構図が制約をうけることに、反発するか従うか。
そういう話が好きなのに、映画好きを名乗る人から構図の話を聞いたためしがない。


砂漠に立ち尽くすトム・ハンクスの背後に、古びたショベルカーが見える。カットが切り替わると、トム・ハンクスは振り返って、「やあ」と挨拶する。誰に挨拶したのだろう? カメラは、ショベルカーに少し寄る。そこには、ショベルカーの錆の色と同じぐらい汚れた作業服を着た男が座っていたのである。
最初のカットで、僕らは作業服の男を見落としていた。だが、主人公は気がついていた。3カット目で、僕らはようやく監督の目論見に気がつく。この3カットの間で、情報が増えたわけではない。実は、1カット目と3カット目は同じ構図だ。
最初のカットを装飾するように、トム・ハンクスの演技、作業服の男に寄ったカットが足されていく。「実は、ショベルカーに男が座っていたのだ」という情報を、別の角度から説明しているにすぎない。

文語的に言うなら、それは「ショベルカーが働く必要もないぐらい、運転手が暇そうに休んでいるぐらい閑散とした職場を表現している」ことになる。映画レビューや映画評論は、いつも文語的な結論ばかり口にする。
だが、分解しなければ映画ならではの機能を解読することなど出来ない。カットを重ねることで、他人行儀だった映画は、僕らの認識と寄り合わされていく。その過程はエキサイティングだし、機能的に洗練された映画は本当に美しいと、僕は心から酔いしれる。その瞬間を、僕は待ちわびている。ストーリーがどう落着するかなど、本当にどうでもいいことだ。

(C)2016 HOLOGRAM FOR THE KING LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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2018年8月10日 (金)

■0810■

ドワンゴ、Appleに忖度して自主検閲 その1

以前にFacebookが“児童ポルノ”として削除した「ナパーム弾の少女」が、ドワンゴ運営のブロマガでも削除されたという話題。
「ドワンゴが無知」「Appleがクソ」でもなければ、「さすがに全裸はマズイ」でもなければ、「二次元ならセーフ」という話でもない。いつも「性的表現」の話題に転んでしまうけど、それこそ目くらましに引っかかっていると、僕は思う。

僕はインタビューして、記事をチェックしてもらって、許可が下りたら掲載させてもらう仕事をしている。アニメ作品のクリエーターや玩具会社、模型会社の企画や開発の方がざっくばらんに話してくださっても、窓口でバッサバッサと切られます。ちょこっと赤字が入るだけの場合もあれば、まったく直しゼロの場合もあります。
話したご本人の記憶違いとか「ちょっと調子に乗って話しすぎた」という部分は、もちろん修正に応じます。僕の仕事は報道ではなくて、広報なので。世の中を楽しくするため、読んだ人たちに「ふーん、興味深いな」と思ってもらいたいから、この仕事をしているわけで。

だけど、年に1~2回だけど、記事が半分ぐらいズタズタにカットされて、もう誰が誰に向かって何を言ってるのか分からない文章に徹底修正されて返ってくることがある。多分、営業窓口が関連会社に気をつかった結果だと思うんだけど、それ以上に思い当たる理由がある。それは「他人の書いた文章を修正するのは楽しい」から。
相手の言いたいことを禁じたり封じたりするのは、楽しいんですよ。僕だって、修正を頼まれたら「アレもダメ、コレもカット」と気持ちがよくなってしまう。表現規制って、個人個人が本能的に持っているコントロール欲が発露した結果だと思う。


興味のある映画のタイトルを検索するでしょ? かならず「この映画は良かったですか? 悪かったですか?」と表示されるよね。なぜなら、僕らは点数をつけて失格にしたり、「今回はまあ合格にしてやろう、だけど95点だ」と意地悪な採点をするのが大好きなゲス野郎だからです。
スキあらば、他人に罰を与えたい。どうですか、心当たりないですか? 「相手もつらいだろうから、お互いに気遣いながら進めていこう」と思えているときは、心が上手くコントロールできている。だけど、うっかり荒れてくると、誰かを懲らしめたくなるし、いまの世の中、懲罰システムだけは高度に発達している。Twitterの過去ログを通報するだけで、ハリウッドの映画監督をクビにできる時代だよ?

何かムシャクシャしたら、性的な表現を探して、匿名で通報すれば、半分ぐらいは削除や自粛に追い込められる。政治的な表現は難易度が高いけど、性的な表現なら相手は萎縮する。
たかだかアニメ、しょせんはフィギュアと当事者がちょっとでも思っているなら、チャンスじゃないですか。勝手に相手は後ろめたさを感じて、自粛してくれる。その主体性の希薄さ、他者への不寛容さが表現規制の正体であって、別に法改正などするまでもないのです。実は、「表現」の問題ですらない。ひとりひとりの懲罰感情が、野放しになってるだけです。
そのゲスな懲罰感情が世の中にあらわれるとき、「性的表現」だと経路が短絡的で、そこそこ倫理的なので人目につきやすい。そういうことだと思います。


「世の中には、自分で考えたくない、自分で決めたくない、人に決めてもらって、押し付けられたりやらされた形にして文句つける方が楽でいい、そういう生き方の人が思っている以上に多いんだなと最近わかってきた。」(

仕事が詰まっているので、吉祥寺の映画館にすら行けない、DVDも平成ガメラシリーズを借りてきて寝る前に見る程度、ぜんぜん余裕ないので、こういう時はネガティブな気持ちに偏りがちです。

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2018年8月 5日 (日)

■0805■

“HJextra vol.10最高でした…個人的にお酒に合う模型誌No.1はぶっちぎりでエクストラさんですわ…。色鮮やかなランナーの写真や、組み立てられたままのプラモデルの写真が、アルコールがじんわり口の中に広がる感じで、自分の中に染み渡ってく感じが、そう、上質なおつまみみたいなんですよ…(酔ってる”(
“どうしてもプラモデル、「綺麗に作る!表面処理!塗装!塗装!」みたいな感じでして、もちろんそれが楽しいんですけど時々肩が凝っちゃうこともあって…でもHJ ex vol.10を読みながらお酒飲むことで、そういう考え方からひと時解放されて、スゴーーくリラックスできたんですよねぇ〜”(

ホビージャパンエクストラの発売から一週間近くが経過して、近所の書店に見かけないの71xqvovbdsl でガッカリしていたのだが、巻末の「模型酒場」に『フレームアームズ・ガール』の声優さんが登場している効果で、そっち方面のアニメファン、模型ファンに売れているようだ。
僕がノリノリでプラモの写真を撮ってもらっているとき、担当編集の伊藤さんは「(撮影のための)居酒屋を予約してます」と苦笑しながらスマホをいじっていた。
でも、後半を撮影特集にして密度をあげたのも彼だし、表紙の『Dr.スランプ アラレちゃん』のプラキットの写真が集英社からNGをくらったとき、モデルの美環さんを起用したのも彼で、やっぱりプロの編集者の直感に救われていると思う。
美環さんのTwitterのフォロワーは2万6千人だ。単純に、美環さんを表紙にしただけで、彼らがターゲットに入ってくる。そういう計算が編集部にあったから、「無塗装・素組みのプラモデルのグラビア」を50ページもやらせてもらえたのだと思う。


『Dr.スランプ アラレちゃん』の表紙は厳密にいうと、編集部が東映アニメーションから「難しいと思います」と返答され(僕は必要ないと思っていたのだが、これまた伊藤さんが機転をきかせて東映アニメーション作品についてだけは許諾が必要か確認していた)、僕は納得がいかずに集英社の版権管理部門に電話した。
結果はご覧のとおりだが、BANDAI SPIRITS ホビー事業部が自社製品についてどう対処していたのかは聞いていない。僕の勇み足で企画担当者をぬかよろごひさせてしまったので、お詫びのメールをしたら、きちっと返事があった。本が出てから、ホビー事業部さんから僕個人に連絡はない。


版権元との交渉事あれこれは、地元の商業ビル「三鷹コラル」での展示でも経験している。9月にも、ちょっと意外なアニメーションのパネル展示がある。
制作会社さんは、キャラデや美術監督のご遺族から「まさか」と思うような貴重な画稿を借りてきて、丁寧にスキャンしてくださった。(C)は一社だけなので版権上の煩雑さはなく、あとは僕が演出を担当した監督のところにインタビューに行って、デザイン会社にどのくらいの大きさのパネルを何枚つくれるか相談して……と、実務がつづく。

インタビューの中身も大事だし、自分で原稿を起こして関係者のチェックに出さねばならないが、実は監督のインタビューがとれた時点で仕事の9割は終わっている。書くのは最後の最後なので、もう僕の仕事は「ライター」ではない。
三鷹コラルの書店さんに企画意図を説明して、物販をやりやすい状況をつくるなんて仕事もあるし、もっと言うと、パネル展全体の見積もり書も僕が書いている。テキストを書くより前に、「場所を成り立たせる」ための雑事があって、それがいちいち面白い。


逆に、旧来型のインタビューだけやって、原稿だけやりとりする仕事の方が、滞りやすい。原稿チェックでひっかかると、そこで終わりだ。
「Jウイング」誌の『ひそねとまそたん』の記事は、編集長と企画の方向性だけ話し合って決めて、僕の原稿がOKでもNGでもなく、デザインしながら要素を足したり引いたりしている。あまりに好き勝手に進めているせいか、版権元からのリテイクはほとんどない。大胆なことをやればやるほど、リテイクは減っていく。

そして実は、『ひそまそ』でなくとも、アニメでなくとも、そのページは成り立つ。誰に何を提案するかがキモであって、一文字ぐらいどう直されようが気にする必要はない。

ライター仕事だけ請け負っていると、ちょっとしたリテイクが致命的なダメージになる。ライターだけやって、依頼が来るのを待っているだけの人はストレスがたまるし、大変だろうと思う。
ストレスを減らそうと努めた結果、今のように企画ごと提案するスタイルにたどり着けた。アイデアは無限にあるし、場所がなければつくればいい(三鷹コラルがそれに近いが、路上で見せる手だってある)。見せるための場所をつくること自体、仕事になる。それに気がつけて、本当に良かった。

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2018年7月27日 (金)

■0727■

モデルグラフィックス 9月号 発売中
Mg180911●『ひそねとまそたん』ミニ特集
全8ページのうち、作例ページをのぞく青木俊直さんインタビューを含む7ページを構成・執筆しました。
青木さんのインタビューに合わせて、作例がフィギュアになることは先に決まっていたので、残りのページで『ひそまそ』を初めて知る人にインパクトを与えられるよう、工夫しました。

●組まず語り症候群 第69回

今回は、シャーペンとパソコンのプラモデルです。担当者が変わると、こんな簡単な連載でも、不思議なことにページの雰囲気も変わります。

ホビージャパン エクストラ 2018 Summer
 31日発売
71xqvovbdsl●プラモデルってこんなに簡単で楽しい! BANDAI SPIRITS ホビー事業部のキャラクター・プラモデルたち
取り上げているキャラクター・プラモデルは『Dr.スランプ アラレちゃん』、『ドラえもん』、『ワンピース』、『ドラゴンボール』、『ポケットモンスター』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』、『スター・ウォーズ』、『仮面ライダー』、『ポチッと発明ピカちんキット』、『パシフィック・リム:アップライジング』、ラストにこの夏の新製品いろいろです。
『ワンピース』と『Dr.スランプ』と『ドラえもん』の企画者お2人の対談、『スター・ウォーズ』開発チームへのインタビューもあります。


この特集はホビージャパン編集部に企画書を提出したところから、ネタ出し、バンダイさんへの取材、20時間におよぶ模型撮影のディレクション、ページにどう写真を配置するかのラフ書き、本文やキャッチコピーやキャプションの執筆、ときには版権元さんへの問い合わせまで、50ページをひとりで担当しました。
もちろん、担当編集さんが台割りを決めて、版権元とバンダイさんへの連絡と確認など、締めるところは締めています。カメラマンさん、デザイナーさんのアイデアも入っています。バンダイさんから「このプラモデルを取り上げてほしい」という要望もありました。

「塗装は一切しない」「シールすら基本的に貼らない」、工具は「安くて入手しやすい最低限のものだけ」、ひたすら手ぶらで「簡単に作れる」ことだけをアピールした企画が、関係者全員に「許された」一点だけでも、僕は希望を持っています。


なぜかというと、塗装も接着もしなくてすむように進化してきたガンプラですら、知らない人や昔作っただけの人は「塗らないとダメなんですよね」と誤解しているからです。
アラレちゃんやドラゴンボールのプラモデルが出ていることさえ、今ひとつ世間に伝わってない。イベントで素組みしたプラモデルを売っていると、「塗装しないとこうならないんでしょ?」と聞かれます。「作りたいんだけど、ニッパーを持ってない」という友だちもいます。
そういう人たちはプラモデルを作らなくていい、関係ないんでしょうか? そういう人たちにこそ、誰でもカラフルな完成品を手に出来るバンダイのプラモデルをアピールすべきではありませんか?

ホビージャパン本誌ではなく、エクストラであれば、他の趣味の雑誌に混じって置いてもらえるチャンスがあるんです。表紙も、編集と営業が何度も話して、絞り込んで決めています。


僕も高校時代は「塗装・改造は当たり前」で、色すら塗らない友だちを軽蔑すらしていました。あるいは、プラモデルはランナー状態がいちばん面白いのだと前提した連載を始めてからも、「プラモについては俺がよく知っている」「俺のほうがレベルの高い思考をしている」、意識高い系モデラーと競争しているような気持ちになり、それはそれで、また疲れるのです。
とにかく、優劣がある世界、誰かが誰かに勝ったり負けたり、教えたり従ったり……という世界から距離を置きたくてしかたがない。

でも、素組みでOKのはずのガンプラですら、「ちょっと上を目指そう」とマーカーによる部分塗装が推奨されたりするのが、模型メディアの常識でした。僕は別に、上は目指したくないのです。横に広げたいのです。
だから、模型雑誌でない媒体に、「こんなプラモがあるんですよ」と宣伝して歩いて、いくつかは記事になってますよ。上下も優劣もない、誰もが気軽に楽しく過ごせる世界が理想なので。


『ワンピース』のプライズ・フィギュアって、喫茶店や美容院なんかに飾ってあるぐらい、超メジャーな立体物です。そういう人たちに「プラモデルもあるのか、ひとつだけ買ってみよう」と思ってもらいたい。
そして、そのまま二度とプラモデルを買わなくてもいいとも思います。なるべく多様な人たちが、ちょっとずつプラモデルに触れては去っていく。そのほうが世の中、豊かになると思います。「素組みじゃダメだ、塗装して上達しよう」って世界は、もう十分に構築されています。濃い人たちに濃いものを投下するシステムは、完備しています。
なので、もっとフワーッと風の吹き抜ける場所がほしい。そう思っているから、プラモデルとアニメについては、いくつもの企画を持っています。「横に広げる」と考えた途端、無限にアイデアが出てきたし、相談する相手も増えたんです。
だから今、企画を考えてどんどん売りこむことが楽しくて仕方ないです。

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2018年7月21日 (土)

■0721■

J Wings 2018年9月号 発売中
Dii_yyluwaa7_ox『ひそねとまそたん』変態飛翔生体 大図解 その2
構成・執筆しました。といっても、僕と編集長がブレインストーミングして「こういうネタでいきましょう」と決めた後、いつも編集長が詳細なデータをどっさり用意してくれて、僕はその文学性の高いデータを誌面に収まるよう、まとめ直しているだけなんです。
各OTFの変形途中図も掲載されています。次号、とりあえずJウイングさんの『ひそまそ』連載は最終回となります

「カウボーイビバップ」から20年、山根公利が語るメカニックデザインの醍醐味【アニメ業界ウォッチング第47回】
T640_768624山根さんと最後にお会いしたのは、10年前だったと思います。『ビバップ』のスタッフのどなたかにインタビューできないか、最初はサンライズさんに相談していましたが、結局は直接、山根さんに取材をお願いしました。

このコーナーは、いつもコンパクトにまとめて、電車の移動中にスマホで読みきれるよう、意識してまとめています。
しかし、山根さんはサービス精神の旺盛な方で、くすりと笑わせるサブの話やデザインについても「もう一言!」と突っ込んだ部分があったのです。それらを入れると4ページになってしまい、ページの切れ目も中途半端なものになるため、かなり悩みました。
本音を言うと、話が横道にそれても過剰な表現になってでも、入れるべきでした。なので、型にはまらず、このコーナーもインタビューイの個性で変化していくことになるでしょう。


しかし、10年前か……。離婚したばかりで、毎月、ボリュームのある創造的な仕事を「フィギュア王」から回してもらい、一方では「グレートメカニック」の編集部と意見が食い違いはじめ、ほどなくしてハブられた頃だ。
ケンカっぱやかったし飽きっぽかったし、だけど収入は良かったので、夜の街で遊びほうけていた。心地いい状況になると、なるべく早くそれを投げ捨てたくなる痛々しい人生だった。自信過剰なくせに、自己嫌悪に悩んでもいた。
山根さんにお会いして、なんとなくあの頃の気持ちに引き戻されて、ついつい大言壮語してしまい、おおいに反省している。山根さんが10年間キープしてこられた人脈に、どうこう口出しできる資格は僕にはない。

僕だけにしか出来ない仕事が見つかったのは、本当にこの1~2年のことだ。
今さら、人間関係を切ってはつなぎ、つないでは切って……という状況ではない。信頼しあえる数少ない仲間たちと、悔いのない仕事をしていきたい。
いま、僕と一緒に仕事をできている人たちは、「大丈夫な人たち」。失敗があってもカバーしあえる人たちが残ってくれた。去るべき人は去ったんだなあ、と実感している。


仕事上の信頼こそ、数少ない仲間たちから得られたものの、僕は愛されるような、思わず手を差し伸ばしたくなるような、そんな可愛い人間ではないのだと自覚もしている。
「誰かに抱きとめてほしい」と思えるような凄惨な体験もまた、僕の人生に起きはしたが、社会的手続きによって、ひとつひとつ完了していった。
仕事をのぞけば、僕は毎日ひとりで過ごしている。明日の夜はひとりでアトラクションを観にいくので、パニック発作が起きないか心配している。知らない人に両脇に座られると、滂沱たる汗が吹き出てくるので……。


熱中症で亡くなる中学生が出てしまい、一挙に教師や学校のあり方に非難の目が集まっている。
それに対して「子供を甘やかすな」という人たちがいる。一方で、子供が校舎のまわりを80周走ったのであれば、それを命じた教師は100周走れ!と「正義の」怒りを叫ぶ人たちがいる。気に食わない連中に罰を与えて苦しめよ、という声が実効力をもてば、どこの誰もが人権を奪われ得る最悪のディストピアが完成してしまう。
いや、社会の一部はもう、「とにかく罰せよ、苦しめよ」の厳罰化へ走り出している。僕のちょっとしたミスが、あなたの暴言ツイートがテロの標的になる。テロといっても、包丁一本、車一台のテロ、あるいはWi-Fi経由のネットリンチだから怖ろしい。

子供たちには、暑さからも教師の支配からも「逃げろ」と言いたい。
僕はひと夏の間、屈辱的な水泳の授業をサボりとおした。体育の教師は僕を呼び出して「イヤなことから逃げ続けていると、とんでもないことになるぞ」と言った。しかし、今の僕は好きなアニメとプラモのことを、好きなように書ける仕事についている。

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2018年7月16日 (月)

■0716■

「時をかける少女」を残酷に支配する「時の流れ」は、構図に刻みつけられている。【懐かしアニメ回顧録第44回】
Dikl3xnueaadt8a近所で見かけた奇妙な看板から席料何万円もする演劇まで、「見た」ことが等価値に体験として語られる世の中なので、「どちゃくそに泣いた」「泣きすぎて思考がストップした」とでも書いたほうが、よほど共感を呼べる。

もしかすると、映画を観た直後の泣きはらした顔だけをアップで掲載したら、PVだけは稼げるんじゃないかと思う。顔写真までは載せなくても「ぐわああああ」「泣けるううううう」と、アニメの感想を実況的にツイートしまくってる人はいた。その方が強烈に伝わるとは思うし「どんな作品なんだ?」と、気にもなる。
だけど、どうしても自分はそれはやりたくない、抵抗があるよなあ……と思うのはなぜかと言えば、発想がテロリズムなんだよね。「号泣して席を立てなかった」ことをもって、自分の体験の尊さを裏付けようって魂胆は。


歌舞伎町のキャバクラに勤める26歳の子と、テアトル新宿で 『時をかける少女』を観たのが12年前。以降、定期刊行のムックや「ニュータイプ」のWEB版に感想を書く機会があって、後者はそこそこ上手く書けたと思う。
だけど、数年ぶりに観て、今回は驚いた。まずは、脚本も作画も粗っぽい。タイムリープの発動条件や前後関係が不明確なのに、主人公のオーバーな感情表現で強引にねじ伏せて進行している。一方的に去っていった千昭を、なぜ真琴が映画の冒頭にまで戻って追いかけるのか、ちょっと動機が分からなかった。相変わらず、どうすれば真琴が自分で目指した日時にタイムリープできるのかも分からない。

だから、いつものように画面に何がどう映っているかだけに注視した。
すると、いくつかポイントが見えてくるのでメモをとって、二回目は書けそうなポイントに絞る。原稿を書きつつ、確認のために何度も同じシーンを見る。
千昭がフレーム外に歩いていって、ひとりになった真琴がアベックの乗った自転車に追い抜かれるところを何度か確認したところで、ようやく涙が出てきた。なぜかと言えば、それは上記コラムに書いたように、構図がロジカルだから。


かつての真琴と千昭そっくりに自転車に二人乗りしたアベックは、いわば真琴の消し去った未来だよね。だから、過去に向かって歩き出した真琴はハッとするんだよ。振り返ると、真琴の主観カットになって、見知らぬ男女の後ろ姿を、カメラは堂々と捉える。矮小ではなく主役のように堂々と、ほどよいサイズで。
その時、「くやしい」と思うんだよ。あんな堂々としたアベックに、自分がなれるチャンスがあったのに自分でチャンスを握りつぶしてしまったことに気がつく。くだらない嫉妬だし、あさましい感情なんだけど、だからこそ共感する。自分を無価値でくだらないと思える人ならばね。

映画にはメカニズム、機能がある。
昨夜、ひさびさにレンタルで『東京物語』を82fcb0c68c770516068cef0d0dfa673a760 観て、やっぱりジーンとしたんだけど、カメラが異様なまでに真正面から俳優をとらえるからでしょ。ひとりきりになった笠智衆と、小さな漁船が港から出ていく引きの絵を、執拗にカットバックさせているから寂しいんだろう……と、僕はこじつけでも何でもいいから第三者に検証可能な理由を探す。そう努めないと、映画だけでなくすべての体験が「くわあああ、泣けたああああ!」で終わっちゃうんですよ。あらゆる体験がSNSで注目を集める道具になってしまう。

「とにかく俺は号泣した」、だから「凄い映画だ、絶対に観てくれ」と自分の感動を盾にとった態度は脅迫、テロリズムに通じる。「この映画に感動しないヤツは劣等感性」とまで言う人がいる。
自分に共感してくれなかった、というだけの理由で人は人を殺せてしまう。それが明らかになった時代に正気を保つには、作品に誠実に向き合い、過剰な共感を期待しないことも大事ではないだろうか。

(C)1953/2011 松竹株式会社

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2018年7月14日 (土)

■0714■

11月1日(木)から11月10日(土)まで、ジンバブエに旅行することにした。
途中、北京とヨハネスブルグで丸一日も過ごさねばならず、トランスファーでスーツケースを下ろしてもらうにはどう手続きすればよかっただろう、いくらぐらい換金すれば知らない街で1日つぶせるだろう……と不安な要素がいっぱいなのだが、旅行の計画は熱中できて、達成感もある。一年に一度は行くべきだと思っている。


海外旅行といえば、この前、奥さんと子供を連れた西洋人の男性が「ラーメン屋を探してます。この近くにあると思うんだけど」と、英語で話しかけてきた。幸い、すぐそこに店があったので、「ここですよ」と案内して、笑顔で別れた。
僕は旅先では、よく道を聞くし、聞かれもする。特に女性に話しかけられることが多い。「写真を撮ってください」とか、俺みたいな一人旅の男に頼んで大丈夫かいとは思うんだけど、そうやって日本社会での「自分のキャラ設定」がキャンセルされるのが、海外旅行の楽しさだ。


先日のブログ記事()は、やっぱり奥さんと子供のいる若い編集者には理解してもらえなかった。そして、カナダで起きた無差別殺人についてドキリとする記事を見つけてしまった。

不本意の禁欲主義者――「インセル」たちの知られざる世界

僕たち(とあえて複数形で言う)が救われている(彼らのような犯罪者にならずにすんでいる)のは、アニメや漫画などの二次元娯楽で性的願望を完結させたり、プラモやミリタリーなど知識や技術の優劣が問われる世界で、そこそこの優越感を保てているからだと思う。趣味嗜好が許されていなかったら、コンプレックスにまみれた「インセル」のようになっていたのかも知れない。

エロ漫画の中には、確かに反倫理的で暴力的なものも含まれる。だが、紙の上、モニターの中で完結している。社会と説点をもたない“閉じた”娯楽は、僕らの内面を無限に解放する。部屋でひとりで眺めているものが、具体的にどんな内容であるかは、他人がとやかく言うべきではない。心の形は、ひとりひとり違う。
だからやっぱり、いかなる形の表現も作ったり見たりすることが保証されているべき。反吐が出るようなグチャグチャのエロ漫画であっても、それを見る人間の心が満たされるのであれば、「人の役に立っている」はずだ。
欲望に正も邪も、汚いも綺麗もない。


僕はFacebookで、小学校時代で同じクラスだった女子(今は誰かの妻でありお母さんでもある)が日々の暮らしについて書き綴っていて、「そうか、良かったじゃないか」と思っても、決して「いいね」ボタンは押さない。
たぶん彼女たちは、どういう理由からか結婚もせず、いまだにアニメとプラモのことばかり本に書いている中年男から「いいね」と言われても、気味が悪いだけだろうから。

あと、Facebookに誕生日は登録していない。システムが「今日は廣田さんの誕生日です!」と告知しても、誰ひとり祝ってくれないと分かっているから。
なぜこうなったのかは、分からない。12年前の離婚から、解放感に満ちた第二の人生が始まった。キャバクラやガールズバーで、毎日のように朝まで飲んだし、お店の子たちと映画や演劇、カラオケによく行ったものだった(彼女たちにとっては仕事の延長であっても、それを理解したうえで遊ぶのが楽しかった)。

プライベートでも、異性との交遊がなかったわけではない。自分から行動すると、こっぴどくフラられるのだが、向こうから好意をもってくれる女性は何人かいた。
彼女たちは7年前、母が殺されたときも精神的に支えてくれた。感謝している。
しかし、もしかすると、その時からだろう。「他人には理解不可能な領域」が、僕の心の中に生まれた。女性に抱きしめられても、満たされない。母が殺された、救えなかった。父が人殺しになってしまった。僕にも、人殺しの血が流れている。
荒っぽい言葉でいうと、それは罪悪感だ。それだけは、僕を慕ってくれる女性に分かるはずがなく……むしろ、人殺しの息子は危険だ、近づかない方がいいと思われてるんじゃないのか? だから、たとえFacebookであっても同世代の女性たちの穏やかな生活に、家庭崩壊を体験した僕が汚点を残すべきではない。……何か間違っているだろうか?


今年はライター生活20年で、信じられないぐらい仕事が楽しい。上手くいかない仕事をパージして、堅実に信頼関係を築いていった成果が出てきている。あと10年間は、このボーナスステージで楽しみたいと思っている。

もし仕事がここまで楽しくなったら、離婚と母の死から生まれた孤独と闇に飲み込まれていただろう。

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2018年7月10日 (火)

■0710■

GOODS PRESS(グッズプレス) 09 月号 発売中
Dhkp4e5v4ai_kkq『スター・ウォーズ』のハン・ソロ役声優、磯部勉さんへのインタビュー、BANDAI SPIRITSホビー事業部へハン・ソロとルークのプラモデルについての取材を担当しています。

顔面が塗装済みのハン・ソロとルークのプラモデルを「たいした技術ではない」「革新的というほどでもない」と冷たく見ている人もいますが、プラモデルを知らない人に「すごい」と思わせる力が肝心です。


まだおじさんにガチ恋してないの? バ美肉おじさんの魅力にガチ恋距離で迫る(
あまりに露悪的なイラストに引く人が多いだろうけど、オタクのパーソナリティにとって、きわめて重要な話題だと僕には思える。

いつだったか、サンリオピューロランドでキティちゃんの着ぐるみに入って子供たちの相手をしている男性がテレビに出ていて、「着ぐるみの中でかわいい仕草をしている時だけ、本当の自分に戻れた気がする」と語っていたのを思い出した。
VRアプリ「PlayAniMaker(プレイアニメーカー)」()は、キティちゃんの着ぐるみのデジタル版であって、ポリティカル・コレクトネスに配慮しろ、性的表現を排除せよ、性を商品化するな、あるいは男らしくしろ、スポーツのできないヤツらは黙っていろ、結婚も恋愛もしないキモい中年に生きる価値なしの地獄の物理現実からの解放ツールだと僕は思っている。


小学6年生のころ、女のように髪をのばしていたことは、過去に何度か語ってきた。親が髪を切ろうとすると、泣いて逃げ回った。
クラス会で、もう立派な母親になったクラスメートが「女の子みたいにきれいな子だった」と僕のことを噂していて、この歳になっても嬉しいし、「あのまま女の子に間違われたままでいたかった」と、もし人生で後悔があるとしたら、そのひとつだけだよなと、しみじみした。
そして、そのクラスメートの近くの席に座ったところ、彼女も周囲の女性も、僕とは一言も口をきいてくれなかった。仕事以外で女性と口をきくことはないし、女友達もいない。それでいいんじゃない、こんなにも仕事が面白いんだから……。


いま、「オタク」ってひとくくりに出来ないし、「オタク特有の性癖」って語りにくくなっているけど、たとえば早口すぎて会話がなりたたず、社会と折り合っていけない人は今でも多いと思う。
かつては、うまく対人関係が築けない人たちのセーフティネット的に商業アニメが機能していたのではないか……と、『装甲騎兵ボトムズ』の無口で人嫌いな主人公・キリコと自分を重ね合わせていた自分は、孤独だった学生時代を振り返る。

あの頃の、勉強も体育もできずに公然と嘲笑されていた自分に接ぎ木して、オタク趣味や内向性をお金を稼げるぐらいの“芸”にアレンジできたから、今こうして幸せでいられる。
だけど、たとえば演劇を観にいって左右を見知らぬ人たち……夫や妻や子供のいるまっとうな社会人たちに挟まれると、ついに家庭を築けなかった自分の正体がありありと思い出されて、ものすごい量の汗が吹き出てくる。服を買うときも、床屋に行くときもそう。
医者は対人恐怖症だと診断したが、症状としてはパニック発作に近い。根幹のところでボタンを掛け違えていると、僕には分かっている。あわてて精神安定剤を口に放り込む。


結局、この肉体が邪魔なんだ。この歳で「笑顔がいい」と言われるようになったけど、トータル的に根本的に、自分の肉体が好きじゃない。美しくないから。
で、美しくなるため、自分の体を好きになるために「鍛えなくてはならない」「努力せねばならない」としたら、実はそういう問題でもないのだ、とお答えするしかない。男である時点で、まずイヤなんだ。さりとて、性転換したいという次元の話でもない。もっと観念的な話だ。

漫画『攻殻機動隊2』に、マッチョなオヤジの義体の中から小柄な少女が出てくるシーンがあったが、僕はマッチョなオヤジではなくて、小柄な少女になりたい。いまの肉体に足し算しても引き算しても無意味なんだ。
少女の美しさを心からうらやみながら、それと同時に自らがうらやむ少女でありたい……と言えば、いくらか正確だろうか。


いま、自分にしか出来ない仕事がどんどん増えてきて、本当に充実している。
だけど、もう何年もプライベートで異性と話したことがない、旅先で道をたずねられるか、スーパーのレジのおばちゃんに「いらっしゃいませ」と言われるぐらい……と告白したら、みんな引くんじゃない? 女性と話して何が面白いのか、どうしてあんなにモテたかったのか、もう僕には分からなくなってる。性別なんて面倒だなと、つくづく思う。

僕の仕事の多くは、50年分の苦しみや痛みから生まれた理想を、他人の口に入れられるよう、甘口に加工調整したものだ。
だけどもしテクノロジーが自己嫌悪を「なかったこと」にしてくれるのであれば、僕はそっちに賭ける。バーチャルYouTuberは「少女に憧れながら、少女の姿のまま永遠に生きる」不死テクノロジーの、原始の姿なのだという気がしている。

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2018年7月 4日 (水)

■0704■

レンタルで、アカデミー賞・視覚効果賞受賞作『エクス・マキナ』。
640『ハン・ソロ』で、CGのドロイドが人間のエキストラやスーツメイションのキャラクターたちを解放するのには、脚本に込められた以上の意図が生じているのではないかと思った。『エクス・マキナ』では、頭や胴体に内部メカをむき出しにしたアンドロイドが反乱を起こして、やがて人間そっくりに擬態する。人間そっくりになるとは、CGの加工に依存せず俳優の肉体のみで演じきれるということ。
「俳優」という存在自体が、まず「役」を仮構する存在なのだ。生身だから本物かというと、プロットレベルでは「偽物(完璧なアンドロイド)を演じるために、どうしても生身の俳優が必要」という倒錯した状況になっている。


この映画では、ガラスや鏡、さらに監視カメラで撮影された映像が多用されている。鏡に映った像は「本物」なのだろうか。監視カメラに映った出来事は「事実」として扱われるが、俳優のひとりはアンドロイドを演じているため、CGで加工されている。では、監視カメラの映像は「偽物」なのか? CGで加工されていても「事実」と解釈するよう、僕らの脳はルールを敷き直しているはずだ。
「CGだからすべて偽物」などという素朴な世界を、僕らはとっくに卒業しているはずだ。

『エクス・マキナ』では、鏡とガラスに覆われた研究施設の周囲を、滝の流れる豊かな自然が覆っている。時折、それら自然の風景が「これこそが本物だ」と言わんばかりに挿入される。しかし、実際には不要な人工物を後処理で消しているのではないか、と疑わずにいられない。
そもそも、まったく後処理なしの映像などあり得るのだろうか? 最低でもカラコレ(色調補正)は行なうし、一秒間に24枚の絵を見せられているだけで「動いている」と見なすのは脳の誤認と言えないだろうか。
僕らは、映画を見るときには必ず「ここからここまでは事実と認識しよう」と線引きしているはずだ。本作のアンドロイドのように、身体の各部が透けて未来的なメカニックが露出している存在は「人間ではない」のだが、透けた部分を隠して「人間そっくり」に見えていてもルール上は依然として「人間ではない」。俳優が服を着て演じているのに、僕らはかたくなに「人間ではない」と認識しつづける。それが劇映画の面白さであり、罠でもある。


この映画は、雑踏の中に立つ人間そっくりのアンドロイドの姿を撮って終わる。雑踏はガラスに映っており、アンドロイドはガラスの向こうに立っているかに見える。逆かも知れない。いずれにしても、このカットでは「見た目は同じに見えるが、実はまったく違う次元に属している」ことをワンカットで構造的に伝えればいいので、どちらかが鏡像ならば役割は果たしている。

黒澤明やオーソン・ウェルズなら、異なる考えを持った人物を黒がりに配置したり、ひとりだけ後ろを向かせたりするだろう。僕は物語性・文学性を図像で表現する劇映画の古典的なテクニックが好きだ。
だが、図像だけでは語りきれないレイヤーが時おり、裸眼に映ることがある。『エクス・マキナ』のように、あからさまなCGキャラクターは「リアリティがない」のだろうか? では、劇映画とはリアリティを競い合う表現なのだろうか?

(C)Universal Pictures

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