2018年7月16日 (月)

■0716■

「時をかける少女」を残酷に支配する「時の流れ」は、構図に刻みつけられている。【懐かしアニメ回顧録第44回】
Dikl3xnueaadt8a近所で見かけた奇妙な看板から席料何万円もする演劇まで、「見た」ことが等価値に体験として語られる世の中なので、「どちゃくそに泣いた」「泣きすぎて思考がストップした」とでも書いたほうが、よほど共感を呼べる。

もしかすると、映画を観た直後の泣きはらした顔だけをアップで掲載したら、PVだけは稼げるんじゃないかと思う。顔写真までは載せなくても「ぐわああああ」「泣けるううううう」と、アニメの感想を実況的にツイートしまくってる人はいた。その方が強烈に伝わるとは思うし「どんな作品なんだ?」と、気にもなる。
だけど、どうしても自分はそれはやりたくない、抵抗があるよなあ……と思うのはなぜかと言えば、発想がテロリズムなんだよね。「号泣して席を立てなかった」ことをもって、自分の体験の尊さを裏付けようって魂胆は。


歌舞伎町のキャバクラに勤める26歳の子と、テアトル新宿で 『時をかける少女』を観たのが12年前。以降、定期刊行のムックや「ニュータイプ」のWEB版に感想を書く機会があって、後者はそこそこ上手く書けたと思う。
だけど、数年ぶりに観て、今回は驚いた。まずは、脚本も作画も粗っぽい。タイムリープの発動条件や前後関係が不明確なのに、主人公のオーバーな感情表現で強引にねじ伏せて進行している。一方的に去っていった千昭を、なぜ真琴が映画の冒頭にまで戻って追いかけるのか、ちょっと動機が分からなかった。相変わらず、どうすれば真琴が自分で目指した日時にタイムリープできるのかも分からない。

だから、いつものように画面に何がどう映っているかだけに注視した。
すると、いくつかポイントが見えてくるのでメモをとって、二回目は書けそうなポイントに絞る。原稿を書きつつ、確認のために何度も同じシーンを見る。
千昭がフレーム外に歩いていって、ひとりになった真琴がアベックの乗った自転車に追い抜かれるところを何度か確認したところで、ようやく涙が出てきた。なぜかと言えば、それは上記コラムに書いたように、構図がロジカルだから。


かつての真琴と千昭そっくりに自転車に二人乗りしたアベックは、いわば真琴の消し去った未来だよね。だから、過去に向かって歩き出した真琴はハッとするんだよ。振り返ると、真琴の主観カットになって、見知らぬ男女の後ろ姿を、カメラは堂々と捉える。矮小ではなく主役のように堂々と、ほどよいサイズで。
その時、「くやしい」と思うんだよ。あんな堂々としたアベックに、自分がなれるチャンスがあったのに自分でチャンスを握りつぶしてしまったことに気がつく。くだらない嫉妬だし、あさましい感情なんだけど、だからこそ共感する。自分を無価値でくだらないと思える人ならばね。

映画にはメカニズム、機能がある。
昨夜、ひさびさにレンタルで『東京物語』を82fcb0c68c770516068cef0d0dfa673a760 観て、やっぱりジーンとしたんだけど、カメラが異様なまでに真正面から俳優をとらえるからでしょ。ひとりきりになった笠智衆と、小さな漁船が港から出ていく引きの絵を、執拗にカットバックさせているから寂しいんだろう……と、僕はこじつけでも何でもいいから第三者に検証可能な理由を探す。そう努めないと、映画だけでなくすべての体験が「くわあああ、泣けたああああ!」で終わっちゃうんですよ。あらゆる体験がSNSで注目を集める道具になってしまう。

「とにかく俺は号泣した」、だから「凄い映画だ、絶対に観てくれ」と自分の感動を盾にとった態度は脅迫、テロリズムに通じる。「この映画に感動しないヤツは劣等感性」とまで言う人がいる。
自分に共感してくれなかった、というだけの理由で人は人を殺せてしまう。それが明らかになった時代に正気を保つには、作品に誠実に向き合い、過剰な共感を期待しないことも大事ではないだろうか。

(C)1953/2011 松竹株式会社

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2018年7月14日 (土)

■0714■

11月1日(木)から11月10日(土)まで、ジンバブエに旅行することにした。
途中、北京とヨハネスブルグで丸一日も過ごさねばならず、トランスファーでスーツケースを下ろしてもらうにはどう手続きすればよかっただろう、いくらぐらい換金すれば知らない街で1日つぶせるだろう……と不安な要素がいっぱいなのだが、旅行の計画は熱中できて、達成感もある。一年に一度は行くべきだと思っている。


海外旅行といえば、この前、奥さんと子供を連れた西洋人の男性が「ラーメン屋を探してます。この近くにあると思うんだけど」と、英語で話しかけてきた。幸い、すぐそこに店があったので、「ここですよ」と案内して、笑顔で別れた。
僕は旅先では、よく道を聞くし、聞かれもする。特に女性に話しかけられることが多い。「写真を撮ってください」とか、俺みたいな一人旅の男に頼んで大丈夫かいとは思うんだけど、そうやって日本社会での「自分のキャラ設定」がキャンセルされるのが、海外旅行の楽しさだ。


先日のブログ記事()は、やっぱり奥さんと子供のいる若い編集者には理解してもらえなかった。そして、カナダで起きた無差別殺人についてドキリとする記事を見つけてしまった。

不本意の禁欲主義者――「インセル」たちの知られざる世界

僕たち(とあえて複数形で言う)が救われている(彼らのような犯罪者にならずにすんでいる)のは、アニメや漫画などの二次元娯楽で性的願望を完結させたり、プラモやミリタリーなど知識や技術の優劣が問われる世界で、そこそこの優越感を保てているからだと思う。趣味嗜好が許されていなかったら、コンプレックスにまみれた「インセル」のようになっていたのかも知れない。

エロ漫画の中には、確かに反倫理的で暴力的なものも含まれる。だが、紙の上、モニターの中で完結している。社会と説点をもたない“閉じた”娯楽は、僕らの内面を無限に解放する。部屋でひとりで眺めているものが、具体的にどんな内容であるかは、他人がとやかく言うべきではない。心の形は、ひとりひとり違う。
だからやっぱり、いかなる形の表現も作ったり見たりすることが保証されているべき。反吐が出るようなグチャグチャのエロ漫画であっても、それを見る人間の心が満たされるのであれば、「人の役に立っている」はずだ。
欲望に正も邪も、汚いも綺麗もない。


僕はFacebookで、小学校時代で同じクラスだった女子(今は誰かの妻でありお母さんでもある)が日々の暮らしについて書き綴っていて、「そうか、良かったじゃないか」と思っても、決して「いいね」ボタンは押さない。
たぶん彼女たちは、どういう理由からか結婚もせず、いまだにアニメとプラモのことばかり本に書いている中年男から「いいね」と言われても、気味が悪いだけだろうから。

あと、Facebookに誕生日は登録していない。システムが「今日は廣田さんの誕生日です!」と告知しても、誰ひとり祝ってくれないと分かっているから。
なぜこうなったのかは、分からない。12年前の離婚から、解放感に満ちた第二の人生が始まった。キャバクラやガールズバーで、毎日のように朝まで飲んだし、お店の子たちと映画や演劇、カラオケによく行ったものだった(彼女たちにとっては仕事の延長であっても、それを理解したうえで遊ぶのが楽しかった)。

プライベートでも、異性との交遊がなかったわけではない。自分から行動すると、こっぴどくフラられるのだが、向こうから好意をもってくれる女性は何人かいた。
彼女たちは7年前、母が殺されたときも精神的に支えてくれた。感謝している。
しかし、もしかすると、その時からだろう。「他人には理解不可能な領域」が、僕の心の中に生まれた。女性に抱きしめられても、満たされない。母が殺された、救えなかった。父が人殺しになってしまった。僕にも、人殺しの血が流れている。
荒っぽい言葉でいうと、それは罪悪感だ。それだけは、僕を慕ってくれる女性に分かるはずがなく……むしろ、人殺しの息子は危険だ、近づかない方がいいと思われてるんじゃないのか? だから、たとえFacebookであっても同世代の女性たちの穏やかな生活に、家庭崩壊を体験した僕が汚点を残すべきではない。……何か間違っているだろうか?


今年はライター生活20年で、信じられないぐらい仕事が楽しい。上手くいかない仕事をパージして、堅実に信頼関係を築いていった成果が出てきている。あと10年間は、このボーナスステージで楽しみたいと思っている。

もし仕事がここまで楽しくなったら、離婚と母の死から生まれた孤独と闇に飲み込まれていただろう。

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2018年7月10日 (火)

■0710■

GOODS PRESS(グッズプレス) 09 月号 発売中
Dhkp4e5v4ai_kkq『スター・ウォーズ』のハン・ソロ役声優、磯部勉さんへのインタビュー、BANDAI SPIRITSホビー事業部へハン・ソロとルークのプラモデルについての取材を担当しています。

顔面が塗装済みのハン・ソロとルークのプラモデルを「たいした技術ではない」「革新的というほどでもない」と冷たく見ている人もいますが、プラモデルを知らない人に「すごい」と思わせる力が肝心です。


まだおじさんにガチ恋してないの? バ美肉おじさんの魅力にガチ恋距離で迫る(
あまりに露悪的なイラストに引く人が多いだろうけど、オタクのパーソナリティにとって、きわめて重要な話題だと僕には思える。

いつだったか、サンリオピューロランドでキティちゃんの着ぐるみに入って子供たちの相手をしている男性がテレビに出ていて、「着ぐるみの中でかわいい仕草をしている時だけ、本当の自分に戻れた気がする」と語っていたのを思い出した。
VRアプリ「PlayAniMaker(プレイアニメーカー)」()は、キティちゃんの着ぐるみのデジタル版であって、ポリティカル・コレクトネスに配慮しろ、性的表現を排除せよ、性を商品化するな、あるいは男らしくしろ、スポーツのできないヤツらは黙っていろ、結婚も恋愛もしないキモい中年に生きる価値なしの地獄の物理現実からの解放ツールだと僕は思っている。


小学6年生のころ、女のように髪をのばしていたことは、過去に何度か語ってきた。親が髪を切ろうとすると、泣いて逃げ回った。
クラス会で、もう立派な母親になったクラスメートが「女の子みたいにきれいな子だった」と僕のことを噂していて、この歳になっても嬉しいし、「あのまま女の子に間違われたままでいたかった」と、もし人生で後悔があるとしたら、そのひとつだけだよなと、しみじみした。
そして、そのクラスメートの近くの席に座ったところ、彼女も周囲の女性も、僕とは一言も口をきいてくれなかった。仕事以外で女性と口をきくことはないし、女友達もいない。それでいいんじゃない、こんなにも仕事が面白いんだから……。


いま、「オタク」ってひとくくりに出来ないし、「オタク特有の性癖」って語りにくくなっているけど、たとえば早口すぎて会話がなりたたず、社会と折り合っていけない人は今でも多いと思う。
かつては、うまく対人関係が築けない人たちのセーフティネット的に商業アニメが機能していたのではないか……と、『装甲騎兵ボトムズ』の無口で人嫌いな主人公・キリコと自分を重ね合わせていた自分は、孤独だった学生時代を振り返る。

あの頃の、勉強も体育もできずに公然と嘲笑されていた自分に接ぎ木して、オタク趣味や内向性をお金を稼げるぐらいの“芸”にアレンジできたから、今こうして幸せでいられる。
だけど、たとえば演劇を観にいって左右を見知らぬ人たち……夫や妻や子供のいるまっとうな社会人たちに挟まれると、ついに家庭を築けなかった自分の正体がありありと思い出されて、ものすごい量の汗が吹き出てくる。服を買うときも、床屋に行くときもそう。
医者は対人恐怖症だと診断したが、症状としてはパニック発作に近い。根幹のところでボタンを掛け違えていると、僕には分かっている。あわてて精神安定剤を口に放り込む。


結局、この肉体が邪魔なんだ。この歳で「笑顔がいい」と言われるようになったけど、トータル的に根本的に、自分の肉体が好きじゃない。美しくないから。
で、美しくなるため、自分の体を好きになるために「鍛えなくてはならない」「努力せねばならない」としたら、実はそういう問題でもないのだ、とお答えするしかない。男である時点で、まずイヤなんだ。さりとて、性転換したいという次元の話でもない。もっと観念的な話だ。

漫画『攻殻機動隊2』に、マッチョなオヤジの義体の中から小柄な少女が出てくるシーンがあったが、僕はマッチョなオヤジではなくて、小柄な少女になりたい。いまの肉体に足し算しても引き算しても無意味なんだ。
少女の美しさを心からうらやみながら、それと同時に自らがうらやむ少女でありたい……と言えば、いくらか正確だろうか。


いま、自分にしか出来ない仕事がどんどん増えてきて、本当に充実している。
だけど、もう何年もプライベートで異性と話したことがない、旅先で道をたずねられるか、スーパーのレジのおばちゃんに「いらっしゃいませ」と言われるぐらい……と告白したら、みんな引くんじゃない? 女性と話して何が面白いのか、どうしてあんなにモテたかったのか、もう僕には分からなくなってる。性別なんて面倒だなと、つくづく思う。

僕の仕事の多くは、50年分の苦しみや痛みから生まれた理想を、他人の口に入れられるよう、甘口に加工調整したものだ。
だけどもしテクノロジーが自己嫌悪を「なかったこと」にしてくれるのであれば、僕はそっちに賭ける。バーチャルYouTuberは「少女に憧れながら、少女の姿のまま永遠に生きる」不死テクノロジーの、原始の姿なのだという気がしている。

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2018年7月 4日 (水)

■0704■

レンタルで、アカデミー賞・視覚効果賞受賞作『エクス・マキナ』。
640『ハン・ソロ』で、CGのドロイドが人間のエキストラやスーツメイションのキャラクターたちを解放するのには、脚本に込められた以上の意図が生じているのではないかと思った。『エクス・マキナ』では、頭や胴体に内部メカをむき出しにしたアンドロイドが反乱を起こして、やがて人間そっくりに擬態する。人間そっくりになるとは、CGの加工に依存せず俳優の肉体のみで演じきれるということ。
「俳優」という存在自体が、まず「役」を仮構する存在なのだ。生身だから本物かというと、プロットレベルでは「偽物(完璧なアンドロイド)を演じるために、どうしても生身の俳優が必要」という倒錯した状況になっている。


この映画では、ガラスや鏡、さらに監視カメラで撮影された映像が多用されている。鏡に映った像は「本物」なのだろうか。監視カメラに映った出来事は「事実」として扱われるが、俳優のひとりはアンドロイドを演じているため、CGで加工されている。では、監視カメラの映像は「偽物」なのか? CGで加工されていても「事実」と解釈するよう、僕らの脳はルールを敷き直しているはずだ。
「CGだからすべて偽物」などという素朴な世界を、僕らはとっくに卒業しているはずだ。

『エクス・マキナ』では、鏡とガラスに覆われた研究施設の周囲を、滝の流れる豊かな自然が覆っている。時折、それら自然の風景が「これこそが本物だ」と言わんばかりに挿入される。しかし、実際には不要な人工物を後処理で消しているのではないか、と疑わずにいられない。
そもそも、まったく後処理なしの映像などあり得るのだろうか? 最低でもカラコレ(色調補正)は行なうし、一秒間に24枚の絵を見せられているだけで「動いている」と見なすのは脳の誤認と言えないだろうか。
僕らは、映画を見るときには必ず「ここからここまでは事実と認識しよう」と線引きしているはずだ。本作のアンドロイドのように、身体の各部が透けて未来的なメカニックが露出している存在は「人間ではない」のだが、透けた部分を隠して「人間そっくり」に見えていてもルール上は依然として「人間ではない」。俳優が服を着て演じているのに、僕らはかたくなに「人間ではない」と認識しつづける。それが劇映画の面白さであり、罠でもある。


この映画は、雑踏の中に立つ人間そっくりのアンドロイドの姿を撮って終わる。雑踏はガラスに映っており、アンドロイドはガラスの向こうに立っているかに見える。逆かも知れない。いずれにしても、このカットでは「見た目は同じに見えるが、実はまったく違う次元に属している」ことをワンカットで構造的に伝えればいいので、どちらかが鏡像ならば役割は果たしている。

黒澤明やオーソン・ウェルズなら、異なる考えを持った人物を黒がりに配置したり、ひとりだけ後ろを向かせたりするだろう。僕は物語性・文学性を図像で表現する劇映画の古典的なテクニックが好きだ。
だが、図像だけでは語りきれないレイヤーが時おり、裸眼に映ることがある。『エクス・マキナ』のように、あからさまなCGキャラクターは「リアリティがない」のだろうか? では、劇映画とはリアリティを競い合う表現なのだろうか?

(C)Universal Pictures

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2018年7月 1日 (日)

■0701■

「リップスティックのプラモデル」は、誰がどんな理由で開発したのか? リサイクル事業の“日本環境設計”が、その秘密を知っていた!【ホビー業界インサイド第36回】(
T640_766655一体どういう経緯で開発された商品なのか気になって、取材をお願いしたところ、かなり意外な顛末を聞けました。
プラモデルの話題は、つい「このように作ろう」「こんな風に楽しもう」とエンドユーザー側で閉じてしまいがちです。それは他の人にまかせて、プラモデルが社会とどう折り合いをつけて居場所をつくっているのかを、僕は取材していきたいと思います。


金曜日は『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の初日、吉祥寺オデヲンにて、旧友と。
ミレニアム・ファルコンの外装がどう変化していくのかを期待して観にいったのだが、単に無理な飛行をしてボロボロに壊れるというだけで、アッと驚く変化はなかった。しかし、メカニックのコンセプトは優雅で品があって、冷たさすら感じさせるほど洗練されており、それも劇映画の思想の示し方だろうと感じ入った。
2334_l337_main_2もうひとつ、旧三部作の根底に流れている自由への希求、解放と反乱が、そこかしこに見受けられた。
特にドロイド解放運動家のL3-37の存在は、存在自体がパロディであり風刺であり(“彼女”の上腕はR2-D2と同じパーツだ)、シリーズの裏側に見え隠れしていたドロイドに対する不当な扱い(たとえば酒場の主人はドロイドを入店させないし、C-3POは設計者から途中で放棄されて記憶を消去され、一度はバラバラに解体されてしまった)を炙り出していて、興味深かった。


以前に、ジャージャー・ビンクスを無声映画時代の「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回しから離れて、純粋な身体の運動を映像としてとらえ続けていたいという欲望」と絡めて語ったことがあった()。
Phoebewallerbridge1354098L3-37はジャージャーと同様、CGモデルによる置き換えを前提に演じられたキャラクターだ(左の画像引用元は)。別にスーツメイションでも構わなかったはずなのに、どうしてCGキャラにしたのだろう? チューバッカと差別化する意図が大きかったと思うが、作り手の意図など超えたところで、CGで描写されたキャラクターやメカニックは、劇映画ジャンルで独特の地位を占めつつあるのではないだろうか。

劇中、「ドロイド・プロレス」で人間たちに戦わされている箱のようなドロイドたち。あれはスーツメイションだったと思う。
彼らを「ドロイドとしての誇りを持ちなさい」と啓蒙するL3は、CGキャラなのである。そして彼女は、奴隷として人間を管理していたドロイドの制御ボルト(このガジェットを文芸レベルで扱ったのは本作が初ではないか)を外して、ドロイドと人間の両方を解放する。人間の俳優とスーツメイション、あるいは単なるパペットのドロイドを解放するのがCGキャラ……ここには、「物語」とも「テーマ」とも違う、別のドラマが生じているように、僕には見える。

L3は「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回し」から映画を解放する、「純粋な身体の運動」そのものなのではないだろうか? 彼女の(解放)運動を純粋に視覚化するために、ひょっとすると生身の身体は邪魔なのかも知れない。


似たことが、CG製のミレニアム・ファルコン、いや物理的に模型として作られたミニチュア全般にも言えるような気がする。それは観客を騙す目的の“作り物”が劇映画の中でどんな役割を果たしてきたか、という遠大な話になってしまうので、ここでは避けよう。

「面白かったか」「感動したか」だけで映画の価値が決められるのは、SNS時代では仕方のないことだ。だけど僕は、網膜に映っているのに「見えていない」ものとして処理されているレイヤーの話をするのが好きだ。

(C)Disney
TM & (C)Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved

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2018年6月28日 (木)

■0628 コップの底にこびりついて、洗っても落ちないカビのような感情■

毎日のようにスタジオに通い、若い編集者たちとゲラゲラ笑いながらプラモデルの写真を撮っている。ふらふらになって帰宅して、今日はアニメ会社へ行ってキャラクター・デザイナーさんにインタビュー、明日はまた別の模型雑誌でプラモデルの撮影……こんな風に、楽しいことをずっと毎日つづけながらお金を稼げないかなあ、と夢みた理想が、気がついたら実現されている。
個人的に、「こんなことを考えているのだが、どうしたら形になるだろう?」と相談されることも多くなった。信用されている、と実感できる。期待に応えられるだけの人脈もあるし、なければつくるだけの交渉力もある。

今週はどこへ行っても、サッカーの話題をふられた。彼らが楽しそうに話しているぶんには、にこにこ笑って聞いていられる。「サッカーどころかスポーツ全般が苦手なので、俺の前では話さないでくれ」などとは微塵も思わない。そう思わなくてすむように、人生の舵とりをしてきたつもりだった。


私がW杯日本代表を応援しない超個人的でチンケな理由について

“チームが負けた場合は、たかが体育の授業にもかかわらず「お前は死ねやカスが」などと全力で罵倒してガンを飛ばし、敗戦に至ったお詫びとして購買のパンやジュースを買わせようとするやつが出てくる。彼らはさらに、たかが球蹴りや球投げの能力にもとづく人物評価を、普段の班決めだの社会科のグループワークだのの日常生活にも持ち込み、しばしば私にマウンティングや威嚇を加えてくる――。”

ああ、僕の高校時代そのままじゃん。
バスケットやバレーボールが出来ないと、ただ廊下を歩いたり弁当を食べたりしているだけでも「おいおい、変なのがいるぞ!」と大声で指さされ、女子たちが笑い転げていた。

それは昔の話だって?
今だってそうだよ。コンビニでコピーをとろうとして待っていたら、コピー機でチケットか何かをプリントしている若い男がいた。僕をチラッと見ると、壁にもたれて、すました顔でスマホを取り出した。「ああ、コイツは待たせておいても大丈夫なやつだ」「殴り合っても勝てるヘナチョコだからな」って、そういう目をする。大学で「テメエごときが俺と対等の口きくな!」と僕を怒鳴りつけた男がいて、彼もまったく同じ目をしていた。こういうのって、動物的な優劣に近い。

実は、スポーツは関係ない。団体競技などの閉鎖的な組織だと陰湿さが露呈しやすいだけの話であって、軽蔑と嘲りの塊みたいな人が、たまにいる。「廣田さん、もうオッサンだし禿げてるじゃん。これから彼女なんて出来ないだろうし、一人でどうすんの?」とか、酒に酔ってもないのに言えてしまう人、いるんだよ。
「ざまあみろ、俺の勝ちだぜ」って、勝手に他人を蔑む人。スポーツだけじゃなくて、趣味の世界にもいるよ。優越感で他人を圧迫する人。


なんてこった、と呆然とする。
ごくわずかな得意な部分をこつこつ伸ばしてここまで来たのに、ヒョイと足を出して転ばされて、「ああ、自分には不得意なことがいっぱいあったんだっけ」と思い起こされてしまう。
「人生の大切な時期を、強い同性や多くの異性から嘲笑されて過ごした、それが俺だ」「俺の人生って、やっぱり失敗作なんじゃないのか? もっと早く終わらせておくべきだったんじゃないか?」

コップの底にこびりついて、洗っても落ちないカビのような感情。
ブログにこうして独り言を書くでしょ? 「被害妄想なんだよ」「卑屈なんだよ」「いい歳して、いつまでも学生時代のことをネチネチと」と言われますよ、Twitterとかで。だから、そのあなた方の肥大した優越感が、他人の傷に触れることがあるんだよって話。無神経だから分からないだけだよ、バカだのカスだのネットに書いてられる人たちは。


ちょっと話題をかえよう。

Twitterで「母が亡くなって何年も経つのにNHKから督促状が止まらない」と話題 → マジなのかNHKに問い合わせてみた結果

学生時代にスポーツができなかったことを「いつまでもウジウジと悩むな」と高圧的に説教する人って、おそらくNHKに関しても「受信料ぐらい払えや、決まりだろ」って言いそうだよね。単に、自分が強者の側に立ちたいだけだから。

原発事故のとき、本当に露骨だった。「放射能なんて安全だよ、なに怖がってんだよ、無知どもが」「何が反原発だよ、電気使わないのかよ?」「そんなに嫌なら日本から出てけよ」って、ようするに何も問題にしたくない、現状維持したいから問題提起する人が煙たいってだけだよね? 
原発も日大アメフト部も、警官の性犯罪がうやむやに揉み消されるのもNHKが恫喝めいた取り立てを続けられるのも、体育の時間に苦しんだ人たちを黙らせるのも、根っこは同じという気がする。自分の優越感や正当性をキープするため、強い側につきたい人たちが、とても多いんだよ。「いま騒いでる連中ってバカだよね、クズだよね」と暴言を吐いて他者を蔑んだ方が手っ取り早い。

コンプレックスの中から這い上がって、理想的な人生を手に入れるなんて、彼らには想像も及ばないだろうな。

関連■0523 「支配されたくない、だから支配しない」■(

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2018年6月23日 (土)

■0623■

月刊モデルグラフィックス 8月号 25日発売
●組まず語り症候群68回
ICM製のT型フォードと女性整備士3体のセットを取り上げています。来月から担当者が変わるので、またちょっと別の方向へ向かいそうな感じです。

月刊ホビージャパン 8月号 25日発売
A14x3svxcl_2●マックスファクトリー1/20ガウォーク
巻頭特集にあわせて、企画担当者にインタビュー。現場に真っ白なテストショットしかなかったので、あえて素組みの同スケールのミンメイを立たせて、グラフィカルな写真でページ構成しました。

●『ひそねとまそたん』16ページ特集
作品解説、キャラクター解説、各話解説、各メーカーの動向、合わせて4ページを手伝いました。
他のページは、岐阜基地への取材、実際のF-15パイロットへのインタビューなど、作品への興味をしっかりと誌面に根づかせた堅実な企画ばかりで、最終回直前に見るには、うってつけの内容です。

いつでも誰かが誰かの代わりをしている――「カウボーイビバップ」の熟成された作劇【懐かしアニメ回顧録第43回】
いつもは構図や演出のことを書いてますが、今回はシナリオに寄った部分です。
「お話」は感性に頼った、情緒的なものだと思われているでしょうが、シナリオは計算の塊です。シナリオの入門書を手にとってみてください。徹頭徹尾、ロジックです。僕の不得意分野です。
だから、この『ビバップ』の記事も、今ひとつ腑に落ちないと思います。フェイが銃を抜くのとスパイクが銃を抜くのは、ほぼ同時刻です。それまでの情報の蓄積、何を伝えて何を隠しているか、もっと厳密に測るべきです。何となくカッコイイ、ではなくて。


シナリオでは誰と誰が出てきて、舞台はどことどこで……と、物語の概略が見積書のように網羅されます。
ようするに、文字を読めば分かるような「物語」が一度、シナリオで完成するわけです。いったん完成したところから、カメラで撮る行為を「また新たに」始めないといけないのです。それだと戯曲と何も変わらないので、だいたい何を話すかだけ決めて、アドリブでカメラを回す監督が伝統的にいます。ジョン・カサヴェテスがそうだし、ヌーヴェル・ヴァーグやネオレアリズモ、彼らの発明を無意識に継承している作家は、今日でも数えきれないほどいます。

僕は、この2018年にアニメーションを題材に、シナリオの論理や演出効果などの分析をやることの空虚さを感じています。社会の中でのフィクションの位置づけが劇的に変わってしまったのに、1996年の『エヴァ』ブームの頃のような、テレビアニメの再評価、再整理、映像作品として価値を測り直す行為を、なんとなく惰性で20年も引きずっている感覚が、僕の中にはあります。
ホビージャパン誌で「各話解説」なんてものを書きましたが、わざとBOOKがどうとか、音響効果がどうとか、カメラの画角が、背景の筆のタッチが……と、文学的な評価をしないように努めました。セリフやシーンから、テーマやメッセージを読み解く試み自体が、あまりにクラシカルで無意味だから。


いや、本当は無意味ではなくて、「どうして泣けるのか」を上手に説明して、「それで俺はあんなに感動したのか!」とネット上で納得することには意味、価値がある。レビューなり評論なりの中身ではなく、手っ取り早く「そうだったのか、やっぱり神アニメだな!」と盛り上がること自体に価値がある。
「映画を一緒に行った友だちが引くほど、声を出して泣いた」「3度、いや4度、号泣した」「泣きすぎて席を立てなかった」とSNSに書くことに、おそらく価値があるんです。バカにしているのではなく、「こんなに凄い体験をした」「猛烈に感情が揺さぶられた」と不特定多数の他人に宣言することが、強く求められている。

僕がヒッチコック映画や黒澤映画の構図の完成度、カメラワークの必然性に言及するのは、考古学のようなものだし、もう死んでしまった研究家たちがたどった道です。だから、誰も共感しない。
最速で最新の映画を観にいって、誰よりも激しく感動を表現すること。「くわー泣いたー!」と、どのタイミングでツイートすれば「いいね」を押してもらえるか、そのノウハウを教える講座があったら、意外と面白いんじゃないかと、割と本気で思ってます。


ロジックでもなく、考古学的な演出解析でもなく、「このうえなく激しい体験」として映像作品が望まれているのだとしたら、4DXだのMX4Dだのも分かるんですよ。再現性に乏しい、期間限定の上映形式だから。

80年代、ぴあを抱えて名画座通いをしていた僕のような世代は、ぎりぎりクラシカルな映画評論に楽しみを見出せます。映画評論的なアニメ評論を読んでみたい、書いてみたいとも思います。だけど、それは20年前にも頑張ればやれたことだろうし、20年前は豊富に読めたような気もします。
あの時代に豊かな評論を読めた人たちは、「あれと似たようなものを書けばそれっぽくなるはずだ」と思い込んでしまっている。僕は書きたいから書いているけど、時代に響かないですよね。それを自覚しないと、仕事としては無益なことを重ねてしまいます。

僕はアニメ媒体からは剥離しつつあって、本当に信頼しあえる人たちと、やや変わった環境に仕事の場を固めつつあるから、それで気がつけたのかも知れません。

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2018年6月19日 (火)

■0619■

4Dアニメ屏風「トキノ交差」によって、四宮義俊監督は何を“乗り越えよう”としているのか?【アニメ業界ウォッチング第46回】
T640_764048渋谷スクランブル交差点の四面モニターでしか完成映像を見ることのできない、インスタレーションのような短編アニメ『トキノ交差』の四宮監督にインタビューさせていただきました。
この一本が、すごい完成度というわけではないです。また、四宮さんに突出した才能があるとは、今は言い切れないと思います。YouTubeにアップされた動画を見て、イマイチだと感じる人がほとんどではないでしょうか?
でも、「ちゃんと渋谷駅前の交差点で見たか?」と反論できるところが、この試みの面白さです。「渋谷駅前でしか見られないなら、こうすべきではなかったのか」とは、誰にも言えないはずです。予定調和より、答えの見えないことの方が、ずっと面白いです。

Jウイング 8月号 21日発売予定
616uuqxpnql●変態飛翔生体 大図解
『ひそねとまそたん』記事、第2回です。今回は、第一回のようなドラマチックな出来事()は起きていませんが、やはり僕にとっては異種体験だったし、完成した記事は航空雑誌のページとしては正常なのか知れないけど、アニメの記事としてはタガが外れています。
僕が出したアイデアを編集長が10倍の濃度にして投げ返してきて、僕が手元にあるアニメ用資料の中から情報を付け加えて、また専門知識で投げ返されて……の繰り返しで生まれた2ページです。

今回は、キャラクターの絵は一枚もないです。その代わり、多分どこにも載っていないであろう設定画が掲載されています。


タミヤ模型の田宮俊作会長が「功労賞」を受けたとのことで、昨日、文化庁メディア芸術祭35524082_1743833632377210_274174896 の受賞作品展に行ってきました。
16日土曜日に俊作会長の講演があったのですが、予約こそしたものの、どうしても外せない打ち合わせが入ってしまい、行けませんでした。ですが、聞きに行った方たちは何とも微妙な感想を持っているようです。

「功労賞」だから、展示スペースが狭いのは仕方ない。だけど、リアルタイムでタミヤのプラモデルを楽しんでいる僕としては、受賞理由が「プラモデルの草成期から業界を牽引してきたから」なのが腑に落ちず、箱絵やロゴマークを今さら評価する姿勢にも首をひねりました。
エポックだったことは分かりますが、51年も昔のキットがロクな説明もなく展示されていて、最新キットがスルーされていたのは「功労賞」、「長いことお疲れ様でした」という意味なのでしょうか。アニメや漫画やゲームは、最先端のものが評価されてるのに、プラモデルだけは「素朴で懐かしいもの」「昔かたぎの職人が手づくりで頑張ってるもの」、ようするに『三丁目の夕日』カテゴリーに入れられてしまう。

そのレベルにまで落とした方が、選者や編集者が楽だし、受け手も楽に理解できるんですよ。楽に理解できるということは、そこから先へは入ってきてくれない、という意味です。


メディア芸術祭を叩いても仕方ないので、もっといい媒体で、いい記事を見てもらえるように努力するしかないんです。

簡単なことが、当事者の勇気がなかったり、段取りが下手だったりして、どんどん潰れていく。潰れないまでも、連絡や報告が雑すぎて、やむなくクオリティを落とさざるを得ないことは頻繁にあります。
どんなに才能やセンスがあっても、締め切りを守れない人には仕事は振れない。すると、ごく少数の人がたくさん仕事を引き受けざるを得ない。その現実を、ありありと肌に感じているところです。

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2018年6月14日 (木)

■0613■

レンタルで、『3月のライオン 前編』と『三度目の殺人』。
640『三度目の殺人』は、ラスト近くに異様な演出があった。

福山雅治の弁護士が、殺人容疑で拘留されている役所広司と、ガラスごしに向き合っている。通常なら、左のような絵になるはずだ。
ところが、ラスト近くでは福山の顔の前にガラスがあり、そのガラス面に役所の顔が映っている。役所の顔と福山の顔が、同じ向きで重なり合っているのだ。

役所は殺人容疑で逮捕されたはずなのだが、どうやら父親から性的虐待を受けていた娘を助けるために殺したらしい。判然としない役所の犯行動機に対して、福山は「ようするに、あなたは誰かの殺意を代替して行使する、器なのですね」という意味のことを告げる。
それだけ言うと、福山はスッと体を引く。すると、重なり合っていた役所の半透明の顔だけが画面に残る。
ようするに、役所の顔は「器」としてガラス面に映っており、福山の顔が「器」である役所の顔に「入り込んでいる」のだ。「器」の概念をセリフで終わらせず、文字どおり映像化するとしたら、おそらくこの構図しかない。

全体を通じて見ると、邦画によくある無意味なドリー移動が多いのだが、このラスト近くの難解な構図には唸らされた。僕は、(物語などの)概念を図像で示すのが、映画だと思っているので。


平成ガメラを配信で探していたら、『小さき勇者たち~ガメラ~』に行き当たった。
Safe_image12年前の公開以来だ。当時も好感をいだいていたのだが、こんなにロケ撮影が多いとは思わなかった。残骸の町を少年が延々とさまよい歩く様は、まるで『ドイツ零年』か『大人は判ってくれない』だ。
引きの絵も、すごく多いし。
冗談でも何でもなく、それまでセットと書き割り、時にはミニチュアで処理されてきた劇映画の舞台を本物の街に広げ、舞台俳優ではなく素人の肉体を撮りはじめたのはネオレアリズモでありヌーヴェル・ヴァーグであり、その撮影法は模倣され拡散され希釈されて、商業映画の中に息づいてきた。

『ビリギャル』を観ていても「まるでトリュフォーだな」と苦笑いしてしまうようなカットがあった。走る自転車を車で真正面から撮りつづけたり、はしゃぐ少女たちをスローで撮ったり……。半世紀も世界中で模倣されてきたから、パクリとかオマージュとか言われなくなっただけのことだ。


そして、ガメラのエネルギー源となる赤い石を、お互いに顔を知らない子供たちが次々とリレーして送り届けるクライマックスが泣けるわけだが、最初に石を持っていた夏帆が病気のため「動けない」ことに留意すべきだろう。

僕たち観客は、映画を観ているあいだはシートに縛りつけられているため、劇中に「動けない」人物が登場すると、いつの間にか親近感をおぼえる。意識にのぼらないぐらいのレベルで。
ヒッチコックの『裏窓』が典型的だ。『ダイ・ハード』にのめりこめるのは、
目の前で民間人が殺されるのを黙って見ているしかないシーンが最初のほうにあるから。
どんな脇役でもいいから「意のままに動けない」人物が映ると、映画に対する親近感が増す。ウソだと思ったら、「動けない」人物を探してみてほしい。


僕は反権力的な、左翼がかった人間だと思うのだが、ミュージシャンが愛国ソングを歌ってもまるで気にならない。疑いなく「愛国ソングを潰そう」とする人たちのほうが怖い。

表現を守ることって、考えを守ることと同義だと思う。表現に寛容になれば、ありとあらゆる思想や嗜好を許すことに繋がるんじゃないだろうか。自由な世の中になるんじゃないだろうか。だから僕は、今の日本では「表現ぐらいしか守るべきものがない」と思っている。モラルが高くなければ、表現を守ることって不可能だと思うし。

(C)2017フジテレビジョン アミューズ ギャガ
(C)2006「小さき勇者たち〜ガメラ〜」製作委員会

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2018年6月 8日 (金)

■0608■

ニュータイプ 7月号 明日発売
Dfigjk4ucaefnoi『ひそねとまそたん』 小此木榛人役・梶裕貴さん インタビュー
ラストスパートに向かいつつある『ひそまそ』で、後半のキーパーソンとして意外な正体を明かした小此木を演じる声優、梶裕貴さんにインタビューさせていただきました。

とはいえ、僕は最初に予定されていたインタビュアーの代役でしかなくて、どういうページになるのか聞かされていませんし、いわゆる著者校もありませんでした。
梶裕貴さんのファンの方が楽しみにしてらっしゃるので、それで良いのかな……と納得しています。


谷口悟朗監督がアニメ雑誌に触れたインタビューが、ちょっと話題になっているようです()。
僕はもう、アニメ専門の媒体からは距離を置いていて、「アキバ総研」の連載は自分で興味のある作品や人にだけ、直接コンタクトをとるようにしている。インタビュー原稿は事前チェックはしていただくけれど、僕の名前が入る以上、最終的なテキストは僕が決定して、アップしてもらう段取りを組んだ。

というのは、アニメ作品について取材して、監督や声優さんご本人が「ちょっとこの発言は誤解を招きやすいので……」と修正を求めてくるのは分かりますよ? 赤だけでなく、青や緑、黄色で4重ぐらいに訂正が入って、全部つなげると日本語にならない場合さえあるんです。関連各社が、あれこれいじりすぎて。
たいていの編集者は、そのズタボロになったテキストを、そのまま使ってしまう。「文:廣田恵介」と出てしまうのに(笑)。
それに、読者さんに「アニメのインタビュー記事なんて、こんなに雑なものか」と思ってもらいたくないから、僕は最終的に文章を割ったりまとめたりするんです。「えっ、○○監督に修正していただいた文章をさらに直すんですか?」と編集者には青い顔をされるんだけど、当たり前でしょ、こっちだってプロなんだから。


僕は『機動戦士ガンダム』20周年記念のLD-BOX発売告知ページで、初めてライターの仕事をした。今年で、ちょうど20年目だ。
Dscn9007_5448『地球少女アルジュナ』のDVDブックレット制作を頼まれ、『創聖のアクエリオン』ではCDドラマの脚本まで書かせていただいた河森正治監督の『マクロスF』が放送されたのが、2008年。
前二作で仲良くさせていただいたので、『マクロスF』のメイキング記事は「アニメーションノート」と「アニメージュオリジナル」で、本当に好き勝手に伸び伸びとやらせていただいた。今でも誇らしく思っているし、読者からの反響もしっかり伝わってきた。

その時は、プロデューサーや監督と、ときには電話で口論するぐらい、じっくりと内容を煮詰めることができた。他の作品でも、夜中の3時にアニメーターから電話がかかってきて記事の修正を依頼されたりもしたけど、それはそれで納得して修正することが出来た。
それ以降、クリエーター以外の、広報とか宣伝とかの担当者が、無断で記事を書きなおしてしまうことが少しずつ増えていった。まったく違う文章のまま「文:廣田恵介」として出版されてしまったことを悔しいというか、とても理不尽に感じて。


一番ひどい時期には、広報担当者の「これって、ちゃんと自分で調べましたか? ウィキペディアをコピペして楽してないでしょうね?」という小言がゲラに書いてあって、そこまでいくと、権利者という立場を利用したパワハラだよね……。
文字だけの著書で絵を使ってなくても、作品タイトルを使っただけで版権担当者が電話してくるなんて話を聞いたことがある。権利者意識が、肥大しすぎている。

僕が最後に仕事した編集部は、メーカーや制作会社の過干渉を前提に、びくびくしながら作品を選んでいた。巻頭で○○という作品をやることになったので、廣田さんのページでも○○を取り上げてほしい、とか。そうせざるを得ないのは、僕が□□という別作品を提案しても、□□の広報窓口からずーっと返事が来なかったりするから。
仕方なく○○で行きましょうと決めても、1週間たっても2週間たっても、頼んだ素材が届かない。夜中どころか、朝までえんえんと待ちつづけている。

そんな猛烈なストレスを抱えながら、編集者はひとつも文句を言わない。「もう、僕が直接話しますよ」と言っても、なぜか先方の担当者名を教えてくれない。
あなたは誰のために、何を守っているの? どこの誰にこの記事を見せたいの? メーカーや制作会社から怒られまい、と我慢しているだけじゃないの? もはや、僕の意図したページからかけ離れた内容に変えられてしまったし、もういいよ、こんな屈辱に耐えてまでアニメの記事をつくる理由はないよ……ってことなんです。もう、主体性がガリガリと削り取られていくから。


いま、三鷹コラルという商業ビルで『この世界の片隅に』資料展をやっているけど、こっちはDscn8600 ストレスが皆無に等しい。昨年の『魔法の天使クリィミーマミ』ビジュアル展も、版権窓口の方、商品担当の方とひとつひとつ確認しながら、丁寧な仕事をすることができた。
もちろん最初は、こんな場所でのアニメのパネル展なんて影も形もなかったんだけど、地元に認知されてきて、仕事として回りつつあるんです。それで分かったんです。仕事って待つものじゃなくて、自分でつくるものだって。

あと、「Jウィング」の『ひそまそ』記事()みたいに、まったく別ジャンルにアニメの記事を持ってくるとか、横に広げる仕事なら、良くも悪くも、かつての僕のノウハウが生かせる。別の業種の人たちは、まったく新しい常識でアニメに切り込んでくれるから、すごく新鮮だし。
狭い業界の理不尽な決まりごとの中で、周囲の顔色うかがわう必要、本当にありますかね? 自分にとって楽しいことだけ、誠心誠意、やっていこう。濁った水を飲み干せなんて、誰からも強要される覚えはないからね。

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