2014年10月 1日 (水)

■1001■

『社会や家庭の闇で多発する性暴力や虐待を真正面から描く映画「月光」応援プロジェクト』(
Detail_325_detail_325_ninomiya_1小額ですが、支援してます。残り二週間ちょっとで、まだ70%ぐらいなので、「1,500円ぐらいなら、映画の前売り券を買うつもりで出してもいいな」という方は、ぜひ協力してください。

「性暴力・性虐待は問題だろうけど、それについて調べたり、本を読んだりするほど余裕がない」人にも、映画だったら意識してもらえるんじゃないか――と、ずっと思ってました。
だけど、クラウドファンディングが苦戦しているということは、「お金まで出すほどではない」「しょせんは映画」と覚めている人が、大多数ってことなんでしょうね。

性虐待がなくならないのは、ようは「子供という存在の弱さにつけこむ」社会です。大人が、苦労せずに手に入れた力を、だらしなく振り回す社会です。


僕はやっぱり、ネットの中であれこれ推測するのではなく、当事者に会わないと気がすまないから、性虐待を経験した女性に会ってきました(仮にBさんと呼びます)。
ところが、こちらが拍子抜けするぐらい、Bさんは幸せに暮らしていました。Bさんの友だちも来たので、子育ての話や家族同士で遊びに行く話で盛り上がり、むしろ家族のいない僕のほうが疎外感をおぼえてしまうほどでした。

Bさんも、過去には、父親を殺したいと思い悩んだこともあるそうです。
また、自暴自棄になり、自分の存在価値を見出せず、一度は「どん底」と言ってもいい状態にまで閉塞した、死屍累々の過去があると聞きました。

しかし、円満な家庭を築いている親類を見て、「自分もこういう温かい家庭をつくりたい」と、理想が生まれたんだそうです。実際に結婚して、子供がひとり生まれ、ふたり生まれ……そのうち、父親(や、父親の性虐待を見逃した母親)に対する憎しみは、少しずつ薄れていったようです。

Bさんの家庭では、近所の子たちも一緒にご飯を食べさせたり、お風呂に入れたりするそうです。それはいわば、幼い頃に優しくしてくれた親類の家庭の再現とも言えるでしょう。
別に言葉にしなくても、生活の一端に触れさせるだけで、ちょっと救われた気持ちになる子もいるのではないか。
……そこまで愛情のキャパシティを広げられるまで、七転八倒したみたいですけどね。詳しくは書きませんが、トラウマに苦しんだ期間のほうが、ずっと長くつづいてきたわけです。


だけど、「実際に虐待されている最中には、助けを求めることさえ出来ない」と、Bさんは言います。どんな保護施設やシステムがあったとしても、子ども自身は、その存在を知らない。

また、「性虐待の全容を知ろうとすれば、加害者に直接聞くしかない」。
ところが、「性虐待の体験を自ら話せる人たちは限られているだろうから、加害者も一定の性格傾向を持った特殊な人たちしか浮かび上がってこないのではないか」。
そう言うBさん自身、まだ父親と虐待について話すことは出来ないそうです。だったら、虐待にあった子が救われれば、まずは良しとするしかないのかな……。

だけど、加害者は何事もなかったように暮らして、被害者だけが血の出る思いで生きつづけねばならない、それは理不尽に過ぎる。

身体的虐待は外見に出やすいけど、性虐待は発見しづらいって言うでしょ。
それがイヤなんすね。被害者を黙らせるとか、黙らせることで表面だけ取り繕う世の中っていうのが。その誤魔化しを、なんかカッコいい言葉で言いくるめるヤツもいるしね。
何ら実際的な働きかけをしない、つまり「現状肯定のまま、指をくわえて傍観する」姿勢を、さまざまに粉飾して、あたかも自分が勝利したかのように宣言する連中で、ネットはあふれ返ってるでしょ。

性虐待もそう、男であること、女であることもそうなんだけど、「本人の意志と努力でどうにもならないこと」は、責めやすく責められやすい。で、責めてる側は「意志と努力」と自分とを、きれいさっぱり切り離している。
圧倒的マイナスから出発し、第三者まで元気づけてしまうBさんの生命力はまぶしいばかりだったけど、だからこそ、何もかもに全面降伏しているニヒリストたちの存在が、僕の中では際立って感じられる。

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2014年9月29日 (月)

■0929■

『スーパーフェスティバル66』にお越しの皆さま、ありがとうございました。
Cacijxgn_2今回は、初の試みとして、自分で改造した『ダンバイン』と『バイファム』の完成作品を販売してみました。
しかし、あまり目にとめてもらえないので、ダンボールの切れ端に、即興で宣伝文句を書いてみたところ、『ダンバイン』の方は、すぐ買ってもらえました。

その場で宣伝文句を考えるのは楽しく、どんどん新しいコピーを書いて貼っているうち、売れなかった商品が売れていきます。普通は、聞かれてから話すようなことを先回りして、「貴重な絶版キットなので、ここで売れなかったら、私が作っちゃうぞ!」などと書いておく。すると、何時間も動かなかった商品が売れます。

ポップづくりの面白さを発見したので、次回も絶対に出店したいし、仲間のギムレットさんやべっちんさんの個性が出るよう、僕らのお店「Hard Pop Cafe」を積極的に変えていきたいと思いました。
そういう話をしながら、コンビニの前で打ち上げをしている時間は、ホッとします……。


『3歳から8歳まで叔父から受けた性的虐待。札幌高裁は「魂の殺人」の主張を容れ被害者の請求、大半を認める』(
とても分かりやすく解説してあるので、ぜひ読んでください。ようは、幼児期の性虐待が原因で精神障害になってしまった女性が、成人になってから加害者の叔父を告訴し、損害賠償を勝ちとったわけです。
逆を言うと、子どもの頃に「性的に虐待された」と自覚して、成人になって訴訟を起こしたとしても、「時効」があるので認められない場合がほとんどのようです(性虐待被害者が、大人になってから訴訟を起こした例は、過去にもありました)。

他のメディアでも、取り上げられています(『PTSD訴訟で被害女性が「逆転勝訴」 30年前の性的虐待の損害を認定』)。
この裁判で被害者が勝訴したことにより、過去に性虐待した、あるいはいま性虐待している大人たちは、覚悟しないといけません。


統計上も数少なく、「家族の問題だから」と切り捨てられることの多い性虐待を防ぐことは、「ウソをつかねば生きられない社会」を切り崩すことにもつながります。

ツイッターで、「エロ漫画を読んでいるヤツが親になったら、性虐待するんじゃないか」「女の赤ちゃんが生まれたからって、喜んで“お風呂に入ろう”などと言っているような親こそ、性虐待するんじゃないか」と言っている人たちがいます。
性虐待を防ぎたいのか、性犯罪を犯しそうな男を攻撃したいだけなのか、よく分かりません。自分の名前も身分も隠したまま「こういうヤツが犯罪者なんだよね」と愚痴ったところで、社会はピクリとも動かない。最前線で毎日戦っているNPO法人に寄付するなど、具体的行動は、いくらでもあるだろうに……。

男性性とか、男の性欲が憎いというのは分かるんです。世の中全体が、力づくの「男らしさ」に、厳然と支配されていると感じるから。
だけど、憎悪だけをみなぎらせて、ツイートしたので気がすみましたでは、世の中の空気が濁るだけでしょう。

あしたは、性虐待にあった知り合いの女性とひさびさに会って、話をしてみようと思います。ただ、その女性が希望しないかぎり、ブログに話の内容を書くことはありません。

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2014年9月25日 (木)

■0925■

月刊モデルグラフィックス 11月号 発売中
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●組まず語り症候群 第23夜
今回のサブタイトルは「みなさまご昭和おねがいいたします」で、アリイの「昭和の歳時記」シリーズを取り上げています。
本文では、武蔵野市役所の近くにあった模型店「ワダチヤ」について、幼稚園~高校ぐらいまでの思い出を語っています。日本全国の地元模型店が熱かったのは、やっぱりガンプラ・ブームの起きた昭和55年ごろでしょうね。新店舗がオープンしたりしましたから。

地元模型店の思い出は、それこそ民間伝承のように、日本各地に残っているのでしょう。いつか、そういう話をまとめてみたいです。
(結婚する前の準備期間、一年だけ住んでいた大森には、まだ新しい個人経営の模型店があった。同人誌に書いた小説『ハネダ模型店』は、そのお店がモデルになっている。)

フィギュア王 No.200 発売中
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こちらは、巻頭の超合金特集のインタビューを、少しお手伝いしました。
今回で200号とのことですが、100号のとき、僕は編集者とノリノリで、アニメ関係者やレゴ・モデルビルダーの直江和由さん、イラストレーターの内藤ルネさんのところへ取材に行ったものです。
あの混沌とした、ごった煮の誌面に比べると、フィギュア王もサッパリしてしまった。

今回、何年ぶりかで誌面を手伝わせてもらったけど、100号の前後三年間、フィギュア王には毎月、レギュラーで書いていた。
離婚するとき、編集者とカメラマンにアドバイスをもらったことを思い出した。編集者には、しばしば、吉祥寺で奥深いお酒を堪能させてもらった。
ただ、編集者やカメラマンは完成された大人だったので、“大人くずれ”の僕は、よく怒られた。それをうるさく感じて、ある日、すべての連載を下りてしまったのだ。

彼らは一流の服や時計、カバンや靴の良さを知りぬいており、オモチャもそれらと同列に並べられる、「大人の余裕」として十分に楽しめるのだと教えてくれた。それは言葉の上ではなく、写真の撮り方や誌面の構成、取材のしかたなど、本づくりの実践として。
どういう本づくりがダメで、どういう取材がいい取材か、みっちり叩き込まれた。もちろん、その分、厳しくもあった。その厳しさが、僕には重たくなってしまった。


ベストな生き方を知るということは、「恥を知る」ことでもある。自分の最高の部分と、最低の部分を知ることになる。それは辛いといえば辛いことなんだ。なぜなら、ほどほどのところで妥協すると、「いま自分はダメなことをしているな」と、身に染みて分かるからだ。
よくない仕事、よくない人への接し方をすると、「いま、自分は理想から遠ざかっている」と体で分かってしまう。「もっと優れたやり方を、僕は知っているはずなのに」って。

たいていの場合、「ダメなことをしている自分」に鈍感でいることによって、日々をいい加減に過ごしている。
だけど、フィギュア王に書いていた三年間は「常に一流を目指し、そこに届かなかったものは妥協の産物である」と意識しながら暮らしていた。しんどいけれど、その分、充実していたはずなんだ。

一生に一度でいい、一流の酒を味わっておいたほうがいい。無理してでも。その味を知った後、スーパーの安酒を飲むとしたら、安酒しか知らずに安酒を飲んでいる人たちとは、世界観が変わっているはずなんだ。

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2014年9月23日 (火)

■0923■

28日に開催される『スーパーフェスティバル66』()に、参加します。
Sufes66_chara_4ブース名はD-20「Hard Pop Cafe」です。
例によって、ギムレットさんとべっちんさんの二人と、中古オモチャや中古プラモデルを売ります。今回は、ちょっと新しい試みとして、自分で改造したプラモデル完成品も販売してみます。

他には、ギムレットさんは新作レゴ、べっちんさんは完成途中フィギュアを展示するようです。


いつもお世話になっている、虹乃ユウキさんの『二次元規制問題の備忘録』。
僕も協力した(というか、やや強引にコラムを書いた)「アニメ・漫画・ゲームの悪影響ばかりが語られるのは不公平なので、アニメ・漫画・ゲームに救われた人の事例を集めてみた。」という記事が、すごい反響みたいです()。

『トゥルーラブストーリー2』の話を出したけど、いまの時代だと、恋愛シミュレーションゲームの女性観も、「女をバカにしている」「差別している」「ミソジニーが」「セクシズムが」と叩かれそうな気がする。
それぐらい、神経症的な時代になってしまった。


たとえば、「強姦罪に問われた27歳男性に逆転無罪」()という記事があります。
たったこれだけの情報で、「強姦を見逃すかの?」「いや待て、法律ではこういう解釈があり」「そもそも、未成年の性的自己決定権は」と、ツイッターが蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
挙句、裁判長の名前をあげて、「こいつの名前、よく覚えておきましょう」でしょ?

だけど、その裁判長と対面する勇気も方法も、誰も持ち合わせていない。
GMOメディアが、フィギュアを児童ポルノと呼んで削除したときと、まるで変わらないと思った。誰も、より多くの情報を得るための実際的行動をとろうとしない。事件をダシに推測と憶測を重ね、自説をまくしたてているだけ。

だから、せめて判決文を見ることが出来ないかと考えましたよ、僕は。
無罪判決を出したのは東京高裁だから、東京高裁に電話しました。すると、ツイッターで「裁判所に電話するなんて、筋違い」と言われてしまう。確かにそうかも知れないけど、ただ問い合わせただけでしょ。今後どういう段取りになるのか、丁寧に教えてくれましたよ。僕の揚げ足をとってるヒマがあったら、あなたが正しいと思うことをやりなさいよ。

ジャンルを問わず、みんなこうなんだなとガッカリした。ネットの中だけで話を転がすのは、僕には向いてないです。小さくてもいいから、ネットの外で何かしないと気がすまない。


別に僕は、判決をひっくり返したいわけじゃないんです。
こういうニュースが出てきて、「どうも腑に落ちないな」と思ったら、知るための行動を起こしてほしい。「性虐待記録物」署名の後、児童保護団体を回っただけで、「エロ漫画を肯定するために、そこまでやるかよ」と笑われたけど、知るためには誰かに「聞く」しかないでしょ。

あのね、大人たちが何か起きるたび、社会にアクセスせずにネットの中で話を転がしているだけだと知ったら、子供たちは絶望すると思うのね。
この事件の中学生が、今どうしたいのか、僕は知らないよ。これで終わらせたいと思っているのかも知れない。でも、それすら僕らは「知らない」わけだよね? 行動の指針を決めるためにも、まずは生の情報を、手探りでつかまないと。

みんな、ネットの中だけでエネルギーを燃焼しすぎ。誰もかれもが歩きスマホしてるようじゃ、世の中が良くなるわけがない。

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2014年9月20日 (土)

■0920■

『幸せへのキセキ』と同時に、友人に薦められた『きっと、うまくいく』。
Main_largeこの映画には、圧倒された。この映画一本さえあれば、他に何もいらないって人もいるだろう。単館系といえども、大ヒットしたのも納得がいく。
3時間ちかくあるが、開始30分ごろに出てくるミュージカル・シーンに心をつかまれた。「心はとても臆病だから、困難が近づいてきたら、“うまくいく”と言い聞かせるんだ。困難をやりすごす勇気が生まれる」。
たったそれだけのことで、ありとあらゆる困難を突破していく力技のストーリーに、得体の知れない説得力が加わる。勇気が出る。

おそらく、俳優たちの過剰なまでの表現力にも、その理由がある。主演のアーミル・カーンは44歳だというのに、どうしてもこの映画に出たくて、大学生に見えるよう努力したという。
ミュージカル・シーンが、力強い。振り付けのアイデアは泥臭いのだが、それがかえってエネルギッシュだ。
しかも、セットを大量に作り、まったく金を惜しまない。その豪胆さも気持ちいい。とにかく、やることすべてに確信がある。自信がある。何も怖れてない。

「いい物語は、常にすべてのついての物語である」――ひさびさに、この言葉を思い出した。


もうひとつ、「成績や順位など気にせず、本当に身になることを学ぼう」というテーマがいい。主人公は、ありもしない言葉を黒板に書いて、「この意味を調べてみて」と、他の学生たちに出題する。だが、誰もが自分がビリになるまいとするだけで、その言葉に意味があるのかどうかは問題にしようとしない。
「学校なんて、制服さえあれば入れるんだよ」。主人公は、幼い頃から制服を着て学校に忍びこみ、どんどん知識を吸収していった。「制服を着ているからには、生徒に違いない」という浅はかな思い込みを逆転利用し、どんどん本質を学んでいく。

この映画がヒットする日本は、そうそう捨てたものではないかも知れない。
僕らを苦しめているのは、この映画で何度も何度も指摘される、本質から遠くかけ離れた表層なのだ。誰もがおかしいと感じていながら、言葉に出して「おかしい」と言えない空気なのだ。
だが、義務教育で順位をつけられ、抑圧されて育ったから、他人の批判だけが上手くなる。いやらしく他人のミスを探し、欠点をあげつらい、際限のない努力を迫る。まるで本質に近づけない努力を。

しばしば僕を絶望させるのは、形骸だけの社会、それを指摘できず改善もせず、個人に多大な抑圧を加える人々の心だ。


「児童ポルノ」という言葉を改め、「児童の性虐待記録物」と呼ぶべきだと主張するのは、まさしく形骸化した社会の構造を打ち壊したいと思うがゆえだ。
性虐待の過酷な実態には目を向けず、もし知ったとしても、「難しい問題なんだ」「そう簡単に無くせないんだ」と解決を遠ざけ、責任を放棄し、そのくせ他人の心の中をのぞいて、「悪いのは、お前の性欲だ」とあざ笑う構造だけは強化・維持していく。
僕に何度も浴びせられた「どうせ、エロ漫画を読みたいだけなんだろ?」という嘲笑が、まさしく本質と向き合わない、だが他人を貶めたい、卑しい社会の一断面だ。

言葉を変えるだけで、何が問題なのか見えてくる場合がある。
だが、僕らは問題解決を学ぶことなく、むしろ問題を糊塗する方法だけを叩き込まれてきたから、羊のように黙り込む大人になった。表層を維持するための奴隷になった。

みんな、分かっていると思う。「本当は、自分はウソをついている」と。ウソをつかないと弾きだされる社会に、加担してきたと。
今からでも引き返せる。まだ、脈はあると僕は思っている。「行動」なんて大仰なことではなく、日々の生き方、言動を少し変えるだけで、誠実な社会を取り戻せる。やってごらん。

(C)Vinod Chopra Films Pvt Ltd 2009. All rights reserved

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2014年9月18日 (木)

■0918■

11日に行ったニコ生配信【エロ漫画規制は是か非か?公開生討論】の全発言を、虹乃ユウキさんの率いるチームが、文字起こししてくれました。

『二次元規制の備忘録』より
前編→
後編→


それでまあ、「エロ漫画規制に賛成の人も読んでくれるといいなあ」と期待していたのですが、「ここに出ている反対派の連中も、性犯罪者だ」と読みとれるツイートがありまして。

その人は、僕らのように名前も顔も出してないし、飽くまで「犯罪者呼ばわり」って程度だから、僕からは反論しませんけど、余裕がないんでしょうね。日本人、みんなイライラしてると思いますもん。

ツイッターで見かけるエロ表現規制派と反対派の小ぜりあいも、「互いに無視しあうよりはマシなのかもな」と思えるようになりました。
だけど、規制を訴える人って一方的な上に、ほとんど公開討論のような場所に出てこないんです。しかも、エロ表現やポルノが犯罪を促進している、あるいはエロ漫画それ自体をけしからんと言っているわりに、具体的な行動をしない。出版社や漫画家にクレームつけるぐらい、すればいいのに。
その怠惰さが、僕は嫌いなんです。嫌いだし、「しょせん自信がないんだな、その程度かよ」と笑ってもいます。


匿名だからこそ、ネットで発散できるのは分かるんだけど……少なくとも、社会にモノを言うときは、僕は最終的に相手と対面する覚悟でいます。
それはGMOメディアがフィギュアを「児童ポルノ」と呼んだときから、ずっと。「この会社の担当者に、抗議署名を手渡すのだ」って決めて、署名を始めましたから。顔と実名を出す以外、無名の僕が信頼してもらえる方法が考えつかなかった。

ほとんどの人が、文句を言う相手に、対面しようとまでは考えてないみたい。でも、江戸時代の人間に会いに行くわけじゃないんだから、会えない理由はないはずですよ。原理的には会いにいけるはずなのに、ほとんどの人がネットの中でエネルギーを燃やし尽くしてしまっている。
そりゃあ、実社会が停滞するわけですよ。みんな、歩きながらスマホをいじって、それが自分の人生だと思ってるんだもん。

誰にも会いに行かない、直接言わないのは、権利の放棄ですよ。
僕はレキソタンがないと取材に行けないぐらいの対人恐怖症だけど、「行ってみたけど、会えなかった」くやしさと、「行くのが面倒で、ネットで吠えただけ」のくやしさは、もう根本的に違う。

ネットの中で吠えただけだと、もう、どんどん毒がたまるような気がする。あなたはスッキリするかも知れないけど、ネットはどんどん濁っていく。息がしづらくなっていく。


僕が次に社会に対して行動するとしたら、それは表現規制とは関係ないことだと思う。表現規制について行動している人は、僕が顔を知っているだけでかなりの数だし、どんどんやることも大きくなっているから、僕はけっこう安心している。
やる人は、黙っていてもやるんです。やれない人が、ネットで吠える。表現を規制する人も、黙ってやるでしょ。気がついたら、やられた後じゃないですか。

仕事でも恋愛でも、敗因は自分の臆病にあったりするのね。そういう負け方をすると、20年ぐらいたっても、歯ぎしりするぐらい、くやしい。
だけど、やるだけやってダメだった経験って、だんだん勇気に形を変えていくように、僕は思うんですよ。

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2014年9月15日 (月)

■0915■

友だちが薦めてくれた『幸せへのキセキ』を、レンタルで。
1339159563_photo有名なコラムニストだった男が、長年の仕事を辞めて、二人の子供たちのために郊外に家を買う。ところが、その家は、廃業した動物園の一部だったため、主人公は心機一転、動物園の経営に乗り出す……という壮大なホラ話だと思っていたら、なんと実話。

そして、監督は『バニラ・スカイ』『あの頃ペニー・レインと』のキャメロン・クロウじゃないか。道理で、女優を撮るのが上手いわけだ。
そうは言っても、登場人物たちはカリカチュアライズされて、おそらくリアリティはないだろうと思うよ。だけど、僕は途中から涙腺がゆるみっぱなしだった。
それは、友だちが、今の僕の精神状態を想像して、「お前、がんばれよ」って意味で薦めてくれた映画だから。それに気がついたあたりから、ひさびさに映画を見ながら泣きました。

映画が優れているから、泣くんじゃないんですよ。その映画と僕との「関係」に泣くんですよ。


僕がライターをやってこられたのは、取材対象に対して感動するからです。

例えば、ちょっと前に、岡本太郎記念館で、海洋堂の宮脇専務と平野暁臣館長の対談があったんです。
宮脇専務は万博世代で、岡本太郎の作品も大好き。だけど、平野館長はフィギュアとかガシャポンには懐疑的だったんだそうです。では、どうやって二人の間に信頼関係が生まれていったのか……というお話が、身を乗り出すほど面白い、興奮しました。
平野さんという人は今まで知らなかった方だけど、50代半ばで、こんなにエネルギッシュで正直で、全身を使って感情をあらわすことが出来るなんて、本当に素晴らしい。
そして、平野さんのむき出しの情熱に胸打たれている自分を、誇らしいとさえ思えた。

そこでね、「いやあ、面白かったな!」「熱い魂をもった人に出会えたな!」と思えるから、記事を書けるわけです。「編集部のオーダーがこうだから、こういう構成でサクッとまとめて……」とか、そんなのは後でいいんです。プロだから、そういう計算もするんだけど、まずは「面白い!」とハートに来なければダメですよ。どんなに若くても、ベテランであっても、心から「面白い!」と思えない人には、この仕事は向いてません。


また別の日、若い編集者に「僕は廣田さんのような生き方は決して出来ないけど、だからこそ、一緒に仕事がしたい」と言われた。だったら、もっと仕事をくれよって話だけど。
でも、本気の人が少ないのは事実。周囲のオーダーだけで動いて、思ってもないことを書き捨てて、「ハイ、できました」って人ばかりだから。「本当に、心から思ったことだけを書くんだ」って人は、ほとんどいない。勇気がないんですよ、みんな。

10年ぐらい仕事を見てきて、「なんか表面的なことばかり言ってるなあ」って人に、中身なんかないんです。最近、ようやく気がついたことだけど。
本人も「いつかは、本気で書くぞ」と思っているかも知れないけど、そうやって先のばしにしている時点で、すでに本気じゃないです。本気じゃないほうが仕事が回ってくるのは、日本全体が「まあまあ、ほどほどのところで上手くやってきましょうや」って臆病なシステムで動いているからです。そのシステムに適当に合わせていた方が、無難な人生を送れる。

僕は、40年生きてきた人間には責任があると思っている。その責任とは、自分より年下の人間に「大丈夫、勇気を示せば、絶対に報われるぞ」って希望を示すことです。

(C) 2012 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.

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2014年9月12日 (金)

■0912■

レンタルで、『LIFE!』を借りて見る。
Sub2_vv235_large公開中は興味がわかなかったのだが、あるサラリーマンのブログに「どうしても見なければならない気持ちがわきおこり、日曜の夕方に、ひとりで見に行った。翌日、仕事をかんばろうという気持ちになれた」という紹介のされ方をしていて、そのことを、やはりサラリーマンの友人に話したら「分かる!」との返事であった。
僕は倦怠するほど長くサラリーマン生活を経験したわけではないけど、映画を見ることで、自分と異なる人生観を垣間見ることができるのは、楽しいものだ。
(もっとも、僕の友人のほうは『ライフ・オブ・パイ』のVFXチームが参加しているから……という理由で見たのだそうだ。僕は、友人から薦められた映画は、ほぼ例外なく見る。)

地味なサラリーマンが、自分の仕事をつきつめた果てに、地球を半周するほどの冒険的な人生を経験する。それまでの彼には空想癖があり、その空想シーンがVFXで再現されているわけだ。
ただ、旅立った後に、彼が現実に経験しているはずの世界旅行も、時間経過や実現性を無視した空想的なものとして描かれている。不思議なもので、『ライフ・オブ・パイ』の冒険のほうが「確かに、このような事実があったのだ」という印象を残す。僕らが日々接している現実に対する謙虚さが、映像の裏側に透いて見えるようなら、そこにはリアリティが息づいている。

例えば、どんな優れた小説でも、その本質はインクの染みである。
映画となると、さらに機械や機能がむき出しになる。映画はメカニックに過ぎない。そこに文学の香りが立ち込めるのはなぜなのか、考えつづける価値がある。


昨夜は、ニコ生の【エロ漫画規制は是か非か? 公開生討論】をご覧いただき、ありがとうございしまた。プレミアム会員なら、まだ見られると思います。

予想以上に、議論が脱線を重ねてしまい、コメント欄には「早く話もどせよ」「反対派も発言しろよ」「その話は、もういいんだよ」「ちゃんとコメント欄も見ろよ」「こんな議論、延長しても無駄だろ」……現場では、一人三役ぐらいやっていた気がしますが、キャパオーバーでした。ごめんなさい。

これでもう、準備の必要な大きな活動は終えて、あとはメールやハガキで出来ることだけやろうと思っているんですけどね……。それだったら、もっと上手く終わらせたかった。
ちなみに、僕が「消える」と言っているのは、別に「悪口を言われて、疲れた」などの精神的な理由ではありません。ネットから消えるのが早いのか、この世から消えるのが早いのか。意外と、ずるずる何年間も、ブログを書きつづけていたりするのか。それは、まだ分かりません。


母の遺骨は、屋久島に住む友達のご両親が作ってくれた、華やかな箱の中に収められている。母の弟さんは「姉は、いちばん安心できる場所にいるのですね」と言ってくださった。
さて、それもそろそろ、井の頭公園あたりに埋めるべきなのかしら……と、考えはじめている。

あの事件で、僕が本当に後悔しているのは、母を守れなかったこと。
母を父から引き離して、何とか事態を収束させようとしていたなら、僕は10歳分ぐらいは歳をとっていただろう。そして、今も苦労していただろうと思う。
だが、僕は事件を防げなかった。そこから先の人生を、僕は「付け足し」「オマケ」のように感じている。そのオマケが長いのか短いのか、今はまだ分からない。


(いつも紹介しそびれてしまう「Takaの旅行記」()。中学教師の方が、世界中を旅して回っているのだが、「○○を見るために来た」と言いながら、急に予定を変えたり、バスを乗り間違えたり、アバウトな性格が出ていて楽しい。いまどき、ブログではなくHPという点もよい。)

(C)2013 Twentieth Century Fox Film Corporation All Rights Reserved.

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2014年9月 8日 (月)

■0908■

前回の日記は、少しだけ愚痴るつもりが長くなってしまい、意外な反響の大きさに戸惑っています。
読んでくださった人の分だけ、「児童への性虐待」への関心が広がるといいな、と思いました。僕ひとりが騒いでも意味がありません。「性虐待などできないように、大人たちの意識を高める」以外、道はないと思います。

少しでも興味をもっていただけたら、『沈黙をやぶって―子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言 心を癒す教本(ヒーリングマニュアル)』()が、古本で一円で買えますので、読んでみてください。
出版当時、18歳だという高校生の手記もあれば、驚いたことに終戦直後の話も出てきます(つまり、証言者は70歳すぎのお婆さんです。性虐待が何十年も、死ぬまで心に影響を及ぼすことが分かります)。
「子どもに性虐待を行うのは、父親や教師が多い」と聞いたときは驚いたものですが、この本は、通り魔の犯罪にも触れているので、ある種の公平性が保たれていると思います。

森田ゆりさんの本は一般向けですが、もっと専門的な本を読むべきです……と、僕はTwitterを通じてアドバイスされました。
よくよく聞くと、その方も、幼い頃に性虐待を受けたのだそうです。
僕は、そういう方を晒しものにしたくありません。しかし、もし僕が黙ってネットから消えてしまったとしても、皆さんは「性虐待を受けて、今もつらい思いをしている男女が、すぐ隣にいるかも知れない」と意識してほしい(そのためにも、本を読んだり、人の話を聞いたり、考えるための「根拠」が必要です。「性虐待と言ったって、しょせんこの程度のものだろう」と頭だけで考えている人が、まだまだ多いと感じます)。

もし、僕が黙り込んだり、急に消え去ったりしたとしても、「性虐待」という理不尽で不可解な暴力について、話しつづけてほしい。常に話題にのぼっていることが、「性虐待」を抑止するものと信じます。


なぜ、ここまで熱心に訴えるのか、さぞかし不気味に思われていると思います。
もともと、僕は美少女フィギュアなどの創作物が、「児童ポルノ」と呼ばれて規制されている実態を知り、「その呼び方は、あまりにも不自然ではないか」と気がつきました。
それ以前に、法学者の園田寿教授が“やはり「児童ポルノ」という名称が誤解と議論の混乱を生んで、よろしくない。たとえば、「児童性的虐待記録物」といったような名称に改めるべきである”とおっしゃっていた()のを思い出して、そのような趣旨の署名活動を始めたわけです。

署名当初は、漫画やアニメなどの表現物を「児童ポルノ規制法」の研究に加える……という案が優勢でしたから、署名の意図は「表現物は児童性虐待記録物ではないので、それぞれ分けて考えよう」という趣旨にしました。
しかし、児童ポルノ法から、表現物の研究事項が外れたこともあり、「性虐待そのものを止めれば、おのずと性虐待記録物は生まれなくなるではないか」と、考えがシフトしました。
それから、書店で手に入る本を読んだり、児童保護活動をしている団体を回って、性虐待の実態を知るようになりました。


まだ、ぜんぜん読んでいる本の種類も少ないです。また、NPO法人へは「どうせ、こういう団体も漫画やアニメを目の敵にしているんだろう?」という偏見が、当初はありました。
しかし、「子どもへの性虐待」の不気味さ・不可解さは、本を読めば読むほど、話を聞けば聞くほど、心に染みこんでいきました。
ある女性は、「性欲が動機ではなく、子どもへの支配欲が性虐待を引き起こすのではないか」と言います。だから、社会的身分の高い男が、加害者に多いのではないか?と……。

それだけではありません。変質者による犯罪が少なくないのは、ご存知のとおりです。しかし、ニュースになるのは、通り魔的な凶悪犯罪ばかりです。
いま、平和なはずの家庭の中でひそかに行われている性虐待は、決してニュースになりません。「加害者の強いる沈黙」「被害者が守る沈黙」「社会が培養する沈黙」、性虐待を覆い隠す『沈黙の共謀』という言葉があるそうです(1978年、サンドラ・バトラー)。

僕が黙れば、あなたが黙れば、それは陰気で卑怯な『沈黙の共謀』に手を貸すことになる。それだけは、間違いありません。
日本人は、「まあまあ」と肩を叩いて、沈黙を強いるのが得意です。しかし、こんな理不尽な、「社会的・肉体的強者が弱者をなぶりものにしている」実態を知って、僕は黙っていられません。こうして公に書くことによって、どんな陰口を叩かれようとも。


本当は、まだ、こうして悠々とブログを書いていられるうちに、映画を見た感想を書き残しておきたい。
だけど、憂鬱ですね。楽しくないです。まだ仕事のあるうちに仕事に没頭して、少しでも文化に貢献したい。
まだいっぱい映画を見たいし、いろんな国へ旅行もしたい。あと一回ぐらい、真面目な恋愛もしたかった。

国会議員と、漫画・アニメファンたちによる公開討論は、11日の20時から配信です()。
この手の議論は、いったんピリオドを打つべきです。児童への性虐待を含む性暴力を止めるにはどうしたらいいのか、そろそろ社会全体で考えましょう。どう偏見をもたれようが、今夜の僕には、それしか言えません。

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2014年9月 6日 (土)

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先日、アメリカでの長期勤務から帰国したクリエイターさん(アニメ業界の方ではありません)へのインタビュー後。編集者が「いま一番、オススメのアニメ」として、『Gのレコンギスタ』を薦めていたので、すっかり嬉しくなってしまった。
Photo ただ、『G-レコ』は、僕らファースト・ガンダム世代のオジサンたちは、それぞれの立場から「支える」作品であって、僕らがメイン消費者になってしまうのは、結果的に(作品にとっても僕らにとっても)幸福ではないだろうと思っています。

僕は子供のできないまま生涯を終えそうなので、「ファースト・ガンダムを見ていた年ごろの自分(13歳)」を、勝手に『G-レコ』の視聴者だと決めつけているんだけど(笑)、その世代の子たちは、ネットゲームやLINEが楽しみなんでしょうか。
『G-レコ』のプラモデルにしても、もっと簡単に組み立てられるものが出ないものだろうか……と、オモチャ好きの編集者と話したりしています(彼は既婚者だけど、子供はいません)。

MBSでは10/2から、TBSでは10/3から放送開始です。
いずれも深夜なので、小学校高学年~中学生ぐらいの子供のいるお父さんは、録画して見せてあげてください……と、勝手な願望を書いておきます。
つまり、僕の次の次の世代のために残しておきたい(そのために具体的に何ができるのか?)と、そういう意味で発奮させてくれるアニメ作品、それが『Gのレコンギスタ』です。


来週、国会議員と一般国民が【エロ漫画規制は是か非か?】について配信をやりますけど()、表現規制以外の話題は、なかなかTwitterで触れづらくなってしまった。
「児童ポルノではなく、ちゃんと児童性虐待記録物と呼ぶべき」という主張が、「あの人はエロ漫画を保護したいだけ」と矮小化され、何をどう言っても「しょせん、自分の欲望を肯定したいだけ」と解釈する人があらわれるから。つまり、「実社会の性虐待を隠れ蓑に、過激なエロ漫画を許容している男」と、表現規制に興味のない普通の人たちまでが言い出すようになってしまった。

そればかりか、僕が(性虐待を含む)被虐待児童の保護活動をしているNPO法人に接触しているのも「実は、エロ漫画擁護が目的」などと書かれてしまい、まあようするに「児童を助けたいなんて崇高な目的で行動するオタクなど、いてたまるものか」「しょせん、オタクは自分の性欲のためにしか動かない」と、人を見下げることで安心したいのだろうね。
と同時に、「性虐待記録物に注意を向けさせることで、実はエロ漫画や低年齢アイドル、あるいは痴漢や女子高生ビジネスを見逃そうとしている」と勘ぐられても無理がないほど、盛んに活動しているように見えるらしいので、「そうまで疑うなら、いっそ何もかもやめちゃうか」と、あきらめはじめてもいる。
(「本物の痴漢が、痴漢冤罪の危機感を訴えているとき、廣田の行動動機が分かった」と勝ち誇ったようなツイートも見かけてしまい……反論する気力さえわかないよ。そうまで、人を貶めたいか……)


なので、Twitterで親や近親者から性虐待にあった人の体験や意見を読んでも、もはや無視するしかなくなってしまった。僕が性虐待についてRTすると「エロ漫画擁護のためのポーズ」と受け取られてしまうから。「エロ漫画好きのオタクが、性虐待サバイバーの人たちをダシに使っている」ように見えるなら、それこそ誰も救われない。せっかく性虐待防止に興味をもったオタクの人たちも、偏見で見られてしまうだろう。
それと、やっぱり、僕のように未婚の中年男が性虐待に興味を持つこと自体、気味悪がられるのね。フリーライターなんて職業も、怪しげだし。

だったらもう、世間で行われているであろう性虐待については口をつぐみ、性虐待サバイバーの体験談を広めることはせず、「沈黙の連鎖」(それこそが性虐待を可能にしているというのに!)に手を貸すよりない。
この社会のどこかで、いまも性虐待に苦しんでいる子たちを助けたいなら、彼らを保護するNPO法人に、黙って寄付するぐらいしか手段がない。

僕のように、雑誌に書ける人間が「沈黙」することは、加害者にとっては都合のいいこと。僕は、本当は加害者にインタビューして、告発したいぐらいなの。
だけど、そういう記事を出版できたとしても、「じゃあ、エロ漫画は罪じゃないんですか」「性虐待記録物がどうのと言っているくせに、過激なジュニアアイドルは見逃すんですか」と、僕の責任範囲だけが拡大していくんじゃないか……。


「性虐待記録物」という呼び名を広げたいのは、創作物規制と実際の性虐待・性暴力を分けて論ずるためだった。ところが、創作物を「しょせんエロ漫画」と笑う人たちが、「オタクじゃなくて近親者が性虐待してるから、オタクは無罪なんだってさ~」と無責任に発言してるのを見ると、徒労感しか感じない。
近親者だろうと通りすがりのオタクだろうと、性暴力は絶対にしてはいけない。その根本的なモラルまでもが、嘲笑と野次馬根性によって歪められてしまっている。

ネットの回線を切って、生身でできることをやるしかないんでしょうね。
今月末、性虐待サバイバーの方と会います。そのことをネットに書くかどうかは、分かりません。人と人が会って話せば、わざわざネットを媒介する必要もないからね。

(C)創通・サンライズ

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