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「マイマイ新子と千年の魔法」は、積み重なった世界を“鏡”で指し示す【懐かしアニメ回顧録第61回】
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10周年記念上映で観て、気になった「鏡」について書きました。
10年も経ったことだし、「初興行時には不入りで、熱心なファンが活動したおかげで……」といった枕詞は、今後は不要と思います。10周年記念でアートブックを作ることになったときも、「当時どういうことが起きたのか記録しておきたい」という案に、僕は賛成しませんでした。他の映画と同様、純粋に作品の価値だけで生き残っていってほしいからです。


最近レンタルして観た映画は、ロバート・レッドフォード監督『ミラグロ/奇跡の地』、フランシス・コッポラ監督『タッカー』、そして市川崑監督『現金と美女と三悪人』。
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『現金と美女と~』、これが圧倒的に凄い。タランティーノの原型みたいな感じ。
このバージョンは短縮版で、原題は『熱泥地』だそうだけど、ラストに地獄のような泥火山が出てくる。もちろん、本物ではなくて特撮。その特撮の泥火山が、ひとつの見せ場になっている。主人公の男とヒロインを追ってきた男が、馬からふり落とされて、泥火山に転落する。『ターミネーター2』みたいに、片手を伸ばしたまま沈んでいく。特撮としては稚拙な部類なのだが、表現としては破天荒で力強い。

つくづく、「泣ける映画」=「優れた映画」という考え方が、いかに狭量で偏向しているか思い知らされる。泣ける要素などひとつもなくて、ショボい銃撃戦や殺し合いばかりだし、ヒロインは変にエロいしドラマはないし、ミニチュアからマットペイントから、ヘンテコな特撮シーンが満載。だけど、その天衣無縫のムチャクチャさが“熱い”んだ。
冒頭が客船の中で(セットと特撮のみ)、途中から山の中に舞台が移るんだけど、狼が遠吠えしてるカットがある。明らかに、普通の犬なんだよね。笑ってしまうけど、だけど「これは狼なんだよ、本物なんだよ!」と映画が訴えているかのようで、かえって感動する。


カット割りも出鱈目で、ラストで主人公たちを追ってきた男が馬に乗っているわけ。馬の走る足と、乗っている男の顔がカットバックするんだけど、ぜんぜん繋がってない。俳優が馬に乗っておらず、スタジオでそれっぽい演技をしているのがモロバレ。だけど、そのほうが「意図」は強烈に伝わってくる。
黒澤明なら、何としてでも俳優を馬に乗せるじゃん? あとクリストファー・ノーランだとか、やたら現物主義だよね。本物の戦闘機を飛ばすと、映画の格が上がる、みたいな即物的な価値観。

だけど、そればかりが映画じゃないんだよ。低予算ゆえの事情が露呈しているからこそ、さっきまでセットだったのにカットが変わるとロケになったりするからこそ、現場の、生身の熱気が伝わってくる。きっと、企画の段階でも撮影現場でも、思うようにいかなかったんだろう。
思うようにいかなかった映画には価値がないの? 監督のイメージを完璧に再現するのが映画なの? 「完成度の高い」映画ばかり観ていると、歳とるのが早くなるよ。


友人とDMでやりとりしていて、たまたま、シュナムルさんの話になった。
彼は、自分から『魔方陣グルグル』の幼女キャラがアカウント名の由来だと告白しておきながら()、「主食はナムル」とか「朱奈」とか、由来を曖昧にして二次ロリコン疑惑から逃れようとしているよね。でも、彼が描く小学生の娘のイラスト()って、このキャラに似てない? 写真は一枚もなくて、奥さんも娘もイラストばかり。
しかも、奥さんは学者で料理が上手くて、娘は小学生で本を読むのが好きなんでしょ? 彼の知性に対する憧れが、イラストに仮託されているように思う。奥さんや娘にこうあってほしいのに、実際は奥さんはお笑い番組見てゲラゲラ笑っているし、娘はハナクソほじってる……って話ならリアルだし、そういう作り話が出来るなら、器がでかいと思う。だけど、理想を理想のまま絵にしてしまっている未熟さが、(嫌味でもなんでもなく)シュナムルさんの魅力だと思うし、そういう意味ではファンなのかも知れない。

Twitterでアベ政権や性表現、何かしらに対する不満を温存しながら悪態をついている人は、実生活に大きな欠損を抱えている。実際にアベ政権がなくなったり、萌えポスターがなくなったら、彼らは次のターゲットを探して、自分の抱えた欠損から目をそらしつづけると思う。「世界に対して恥だ」とか「日本は遅れている」とか、曖昧とした正論らしきものにしがみつきながら。
それでいいんだよ、それが人間だもの。彼らのことは、僕は本気で憎いとは思えない。

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2019年12月 4日 (水)

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昨日は雨が小降りだったので、国立近代美術館の「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」()へ。
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(スマホを忘れていったので、画像は公式HPより)
ご覧のように、前庭にコンセプトモデルを移設してまで、象徴としての「窓」、概念としての「窓」、モチーフとしての「窓」、物理的存在としての「窓」、古今東西から自由自在に作品を引っ張ってきて、展示方法も多様。「窓」以外の共通項がまったく無い奔放さが良かった。

途中、「西京国」という、架空の国へ行くための税関もあり、そこでは歌をうたうなり踊るなりしなくてはいけない。
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まあ、ちょっと学芸員の自己満足っぽいんだけど、他の展示もかなり好き放題なので、それほど気にはならない。……気にはならなかったのだが、一日たって考えてみると、作品の発想は浅知恵かな。歌とか踊りが平和の象徴とは限らない。

展示物のキャプションに、学芸員の個性や自説が出すぎてしまっている。こんな好き勝手な解釈を書くんなら記名でやるべきじゃないかと思うんだが、それも美術館の個性なのかな。学芸員の意図が見えないほうが、カッコいいとは思う。


映画でもそうなんだけど、「作品を見る」こととは、時間を止めて、自分を幽霊のように透明な認識装置にしたい願望と、表裏一体なのだろう。少なくとも、僕は作品を見ている間だけは肉体を捨てていられる。理想どおりではないこの肉体を、邪魔とも感じている。

映画といえば、黒澤明の『素晴らしき日曜日』。これも大学の授業で観たはずなのだが、すっかり忘れていた。
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ひとつだけ素晴らしいカットがあった。
沼崎勲と中北千枝子のカップルが、ささやかな楽しみを求めてさまよう。電車に乗って移動するシーンで、カメラは並んで座る沼崎と中北をティルト・アップで、足元から撮る。楽しくてソワソワしている中北が、足をパタパタと動かしている。そのまま楽しそうな二人の全身を下から撮って、カメラは二人の頭上へ。すると、そこではつり革が並んで、ゆらゆら揺れていた。
そのつり革の動きは、言うまでもなく二人の急くような期待、喜びを表現している。そのカットが見られたのだから、まあ良いじゃないかと思う。


1月28日(火)「対人恐怖症歴30年の独身中年男は、海外旅行でどんな目にあった?」
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こんなトークイベント、開催します。旅好きな方は、どうぞ。
写真をまじえた旅行記……ということになるんだろうけど、僕の場合、対人恐怖(というかパニック発作に近い)が海外旅行している間はほぼ治ってしまう……という点が売りで、おそらく「生き方」の話になるんだろう。 

でも、この「生き方」をテーマにする、言語化するってのが面倒を呼ぶのかも知れないな。
なんだか、僕の周りには上手く生きられてない人たちが、集まってきやすい気がしている。ネットでの僕の言動に意義をとなえてくる人は、勝手に僕を美化したり、いい加減な感情移入をしていると思う。俺は、俺のために生きている。誰かの期待にこたえるためじゃない。
この半年の間に、二人ぐらいの見知らぬ人に「あなたはあなたの人生を生きてください」とお願いせざるを得なかった。俺のことなんか気にせず生きてほしい。

僕は毎日、好きな時間に起きて、ほとんど一人で誰とも話さずに過ごしている。その贅沢な時間は、自分で手に入れた。友だちとワイワイやるだけが人生の成功じゃないよ。

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2019年11月30日 (土)

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PLUMの「1/80 中央線」は、昭和~平成の記憶を刺激するプラモデル【ホビー業界インサイド第53回】
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こういう良いネタは、ホビーショーで見て記憶して、自力で取材交渉します。
プレスリリースを待っているようでは、生き生きした記事は書けません。


さて、劇場版『Gのレコンギスタ Ⅰ』「行け!コア・ファイター」である。初日第1回を観るべく、モデルグラフィックス誌の撮影の帰り、調布のホテルに投宿し、朝7時に宿を出てモーニングを食べてからシアタス調布へ向かったのは、通勤ラッシュを避けたいがためである(家から調布へは、バスで30分)。
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――まあ、とにかく驚いた。
途中までは、やっぱりフレームに入る被写体が多すぎ、あちこち説明過多だったり説明不足だったりして、ゴチャゴチャしているのはテレビ版と変わりがない印象(宇宙海賊なのに、地球上の島に基地があるとか……)。モノローグも、ちょっと追加しすぎ。
だけど、タイトルが「行け!コア・ファイター」でしょ? テレビでは段取りっぽかったコア・ファイターの合体シーン。ベルリが活躍するのを、アイーダがサポートしなくてはならない。だけどアイーダは、恋人を殺したベルリの顔を立てるなんてイヤなわけ。この感情描写が、テレビでは希薄だった。劇場版では、アイーダが操舵手のステアに寄り添う芝居に、ほんのちょっと台詞が付加されていた。他にも、いくつか追加があったかも知れないが、アイーダの複雑な心情を、しつこいぐらい丁寧に追っている。

戦闘後、いやいやベルリの活躍を手伝ったのに、ドニエル艦長に促されて(テレビではあっさりしていた台詞が、いささかコクのあるものになっている)、アイーダはベルリにお礼を言わないといけない。ひとりで苦しむシーンが追加されている。
その後、無理を押してベルリにお礼を言う。見ている側は、アイーダの苦しさがピークに達していると分かる。そこへ、クリム・ニックがひらりと飛び込んできて、ベルリに関係ない話をする。見ている側は、クリムをめちゃくちゃ邪魔に感じる。というか、クリムが話している間に、アイーダがフレームから消えているじゃないか。こんなストレスのある流れでいいの?
と、カメラがPANすると(途中で視界を遮るようにモビルスーツが入るのが効果的)、アイーダは狭いエレベータに乗っていた。エレベータで、死んだカーヒルに泣いて謝っている。カメラが引くと、泣いているアイーダの前に、大きく整備兵が入ってきて、大声で何か実務的なことを喚きながら仕事している。すると、アイーダの孤立感がいっそう引き立つ。

……と、コア・ファイター合体の前後から、アイーダの感情描写に徹していて凄いなあと思ってテレビ版を確認したら、大きな流れは、ほとんどテレビのまま! ちょっとした順番の変更やインサートのみで、機能的に情感をかもし出している。
だから、「再編集」の目的が、要約や矛盾点の解消や効率化ではなくて、既存カットに新しい意味を与えて、文芸性を高めることにシフトチェンジしている。やはり只者ではない、富野由悠季。


しかし、わけても気に入ったのは、ベルリにお礼を言わねばならないアイーダが、Gセルフに宇宙用パックを取り付けているのを見て、「ああ、そういうこと……」と力なく呟くカット。つまり、自分の感傷とは関係なく、他のスタッフはベルリを認めているし必要としているし、事態は勝手に進んでいるのだという意味が加わっている。
確認のためテレビ版を見て、びっくり仰天。宇宙用パックの絵は、何ひとつ変わっていないのだ。ただし、パックを見るのはベルリであり、彼は「あれ、僕が使うんだ!」とはしゃいでいる。

アイーダの嘆息とベルリの稚気は、同時に存在しうる。映画版では、アイーダにスポットを当てた。映画というか、フィルムの編集というのは、そういうことが出来てしまう。同じカットを残したまま、それを見ている別のキャラクターのカットを繋いで、意味を変えることが出来る。メカの背中に語らせることだって出来る。だてに、ロボット物の再編集ばかりやってきた監督ではないのだ。
なので、本質的な意味で「映画」のメカニズムを理解したければ、『G-レコ』は見逃せない。


ひさびさに、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』。これがDVDで観られるのだから、レンタル屋ももう少し頑張れる。
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普段は映像の色合いなんてことは気にとめないが、この作品の絵画的な美しさには息をのんだ。「絵画的」とは、ピタリと静止した画面のことではない。むしろ、急速にズームしたりPANしたり、画面は非常によく動く。砂浜で、風にはためく天幕の淡い色調……などが、絵画を思わせるのだ。
映画の前半で、カメラはダーク・ボガードの演じる老音楽家の目の役割を果たす。彼が魅了される美少年の姿を追って、カメラはしきりにPANする。切り返しで、少年を陶然と見つめている老音楽家。背景がボケていると、何となく彼を身近に感じる。一方で、美少年を追うカメラは背景までピントが合っており、どこかよそよそしい。ふたつのレンズが、見つめる者と見つめられる者とを隔てている。

映画の後半では、2人は同じフレームの中に収まることが増えていく。まるで老音楽家が、少年の属する彼岸の世界に近づいていくように感じられる。
なぜそう感じられるかといえば、「少年がピアノを弾いているのを老音楽家が見ている」シーンで、老音楽家が立ち上がってホテルの執事と話しはじめる。会話が終わって老音楽家がピアノの方へ歩き、カメラは彼を追う。しかし、そこには少年はいない。ピアノの音だけは鳴っている。少年は、本当は実在しないのかも知れない。


そのピアノの音をきっかけに、老音楽家の若いころの回想シーンが始まる。
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この売春宿の回想シーンでは、少年が弾いていた「エリーゼのために」を、若い売春婦が弾いている。シーンの最初で、老音楽家は太った女と並んで座っている。壁には鏡があり、反対側の壁に扉があって、誰が出入りしているのか見える。つまり、老音楽家の見ている風景が同一フレームの中に収まっている。ピアノの音は、鏡に映った隣室から聞こえているのだ。
老音楽家は、若い女に促されるようにして、隣室へと入る。すると、その隣室の壁にも、やはり鏡がある。時間経過があって、若い女は下着姿でベッドに寝ている。その姿は、鏡の中のものであった。
鏡の中の部屋に入ったり、性行為の相手が鏡の中にいたりするせいで、このシーンは老音楽家の深層心理に潜入していくかのようだ。そして、「エリーゼのために」が少年と売春宿を繋いでいるということは、老音楽家はやはり少年にセクシャルな欲望を持っているのではないだろうか?


セクシャルな欲望といえば、舞台となるベニスにはコレラが流行りはじめ、町のあちこちに白い消毒液がまかれる。
考えすぎだと言われても構わないが、僕にはこれが精液のメタファーに感じられる。
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老音楽家は消毒液の匂いに耐えられず、何人かに「この匂いはなんだ?」「何が起きているんだ?」と聞いて回るが、誰も本当のことを答えてくれない。ようやく、ホテルの執事がこっそりとコレラが流行っていることを打ち明けてくれる。
老音楽家は、ただちに少年の母親に家族を連れてベニスを立ち去るよう、警告する。その場に現れた少年の髪に、老音楽家は震える手で触れる……のだが、そのシーンは髪に触れるところで終わり、ホテルの執事がコレラの件を話し終えたシーンへ戻る。つまり、本当は老音楽家は家族に警告しておらず、少年に触れてもいないのではないか。
美への羨望、過去、疫病。この三要素が、象徴的な映像でシャッフルされるので、とても受け止めきれない。死が隣り合わせている表現は、生きている者には手に負えない気がする。

(C)創通・サンライズ
(C) 1971 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.

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2019年11月26日 (火)

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敵味方のロボット・デザインの差異を無効化する「ブレンパワード」の革新的なメカ描写、君は気がついているか?【懐かしアニメ回顧録第60回】
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『ブレンパワード』は、シリーズ中盤で新主役メカ、ネリーブレンが登場します。ネリーブレンは、ヒメブレンと同じベージュ色だったものが、搭乗者ネリーの死とユウの引き継ぎによって、ユウのパーソナルカラーである青に染まっていくのが、ひとつのドラマとなっています。
当初のネリーブレンのベージュ色は、「ネリーはヒメと似ている」というユウの心証を裏づけるカラーリングです。なので、『ブレンパワード』においては、ロボットの色について無神経では許されない気がするのです。そういう意味で、第1話の評価はやや辛口にならざるを得ない。せめて、ユウのグランチャーを青(寒色系)にしてはいけなかったのか……。

一発で敵味方を区別できるという意味で、改めてザクの一つ目は(『宇宙空母ギャラクティカ』がヒントかも知れないが)、素晴らしい伝達力を持つデザインだったと感心します。対するガンダムが赤青黄色のオモチャ色だったのも、もちろん正解です。
また、『イデオン』の敵メカがすべて非人間型であったことは、同じフレームに入れた瞬間、シルエットだけで敵味方の判別がつく優れたアイデアでした。『ダンバイン』の一本角、『エルガイム』の純白のカラーリング、いずれも見事なアイコンでした。


昨日は、やや風邪気味ながらも、六本木の森美術館で開催されている『未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命――人は明日どう生きるのか』へ。
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結論から言うと、僕が美術館に求めているものが目一杯つめこまれていて、大満足。展示物が空間の中にバラバラに置かれ、どれを先に見てもOK。「こっちから見る」と視点が決まっている展示が少なく、自由度が高い。小部屋として仕切られている展示があるのも、視点がバラけて良い感じ。
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美術というよりは、研究物やコンセプトの成果物の展示なのだが、歩いて回るだけ本当に楽しかった。人体改造や人間と他の動物との異種交配など、倫理を踏み越えた見世物くささも素晴らしい。
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みんなが笑顔になっていたのは、上の展示。ひとつの部屋の壁面がすべてスクリーンになっていて、あらゆる角度から撮影された入場者全員が映る。そして、任意の客と客が線で結ばれ、「可能性アリ」「確認された」「距離をおいた」など、意味深なキーワードが表示されるのだ。
思わず、自分と結ばれた初対面の客を探してしまう。そんな、空間を共有する親近感と戸惑いが、ひとつの表現となっていた。


一方で、施設としての森美術館は、やはりあまり好きにはなれない。
今回は、Googleマップで最短と表示された六本木一丁目駅から行こうとしたが、(風邪なのに)土地勘のない曲がりくねった道を20分も歩くことは不可能である。現地でスマホを開いても「バスで移動して、さらに七分間も徒歩で移動」……などの無茶なルートしか表示されない。しかたなく、タクシーで移動した。十数分かかって、1060円。
森美術館のサイトは最寄り駅として六本木一丁目を指定してはいないので、まあ、Googleマップを信じすぎた僕がバカだった。

それにしても、エレベータに乗るたびに並ばされ、エレベータを降りてから美術館の入り口までグルッと歩かされるのはどうなのか。美術館に入ってからは……トイレがないんだよね。そこそこ広い会場なので、一箇所はトイレが欲しかった。塩田千春展といい、内容はとても良いんだよね。


実験者が「あなたの目の前でオッさんに100万円をあげますが、あなたが私に100円渡せば、あげるのをやめます」
と問いかけた際に……

上記ツイート、一瞬、何のことか分からないと思う。
これは要するに、自分と関係ない人が労せずして大金を得ることが我慢できず、自腹を切ってでも他人の幸福を阻止したい……、と望む日本人が多いということ。「ずるい」ってやつです。
生活保護制度に「不正需給が多い」「在日外国人が受給している」などと難癖をつけるのも、「ずるい」で説明がつく。他人の邪魔をしても自分の不遇な生活はまったく改善されないというのに、「他人がどう暮らして何を消費するか」に口出しする権利だけは欲しいわけだ。萌えイラストを広報に使うのは性の商品化と、わざわざ海外から口出ししてくるうるさい連中も、萌えキャラで癒されているオタクたちを「ずるい」と妬んでいるのかも知れない。
他人の幸福が許せない、邪魔したいってことは、あなた自身は幸福じゃないんだよね? 自分が幸福になる努力(というか選択)を、なぜしない?

なんちゅうか……「自分から始める」以外、何もないと思う。自分の得意というか、他のことよりはマシにこなせる分野を見つけて、そこを伸ばしていくしかない。得意なことを伸ばすのは、楽しい。
僕は最近、「名前は隠しているが、実は○○」「今は活動していないが、元○○」という人から「実は俺はけっこう凄い人なので、あなたは俺に一目おくべきなのだ」的に、ぞんざいな態度をとられることがある。いま何をしているのか、堂々と言えない時点で、あなたの負けだと思う。あなたにはあなたの人生があるのに、どうして他人の優位に立ったように錯覚したがるのか。□□に関しては古株です、古参ですってオジサンに多いよね。
自分が充実して楽しければ、他人から見て冴えない職業だろうと無職だろうと、関係ないじゃない? 僕は独身で年収も高くはないけど、ぞんぶんに孤独を楽しんでるよ。

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2019年11月23日 (土)

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半世紀にわたり巨大ロボットを演出しつづけた先に、何が見えるのか? 富野由悠季監督インタビュー【アニメ業界ウォッチング第60回】
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オリコンのインタビューで、クローバーが『ガンダム』の世界観を見ていなかったという富野監督を見て、かなりガッカリしていました。玩具を売るために努力してきたのは、富野さんご本人も一緒でしょう……と、【模型言論プラモデガタリ】で資料を掘り返せば掘り返すほど、確信が強まっていきました。
だったら、玩具会社がスポンサーにつかなくなった90~00年代の作品にロボットが出てくるのは何故なのか、聞いてみたくなりました。それで、サンライズのライツ事業部にコンタクトをとって、何ヶ月かかかって『Gのレコンギスタ』のパブリシティなら時間とれますよ、という話に落ち着いたのです。


レンタルで、『カッコーの巣の上で』。20代のころに見たことは見たのだが、漠然とした印象だけで分かった気になっていた。これだから、映画は怖い。
また、この映画は配信で観ようとすると750円もかかってしまう。110円で借りられるDVDレンタルのほうが、まだブがある。
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ジャック・ニコルソンの演じる主人公が、精神病棟の中で野球中継をテレビで見られるよう、看護婦長の前で多数決をとる。
ところが、婦長は強制的にミーティングを終了させてしまう。主人公は、何も映っていないテレビの前で「さあ、ピッチャー投げました」「打った、大きい!」といった具合に、野球中継が行われているかのように振舞う。患者たちが集まってきて、まるで野球中継を見ているかのように喜ぶ。何も映っていないテレビモニターに、患者たちの喜ぶ姿が映る。映っているのは、いわば民主主義の勝利の姿である。

船を盗んで沖に出るシーンで、港の管理人を騙すために「我々は精神学会の会員で、こちらは●●博士」とそれっぽく紹介し、カメラが律儀にひとりずつ映すのも良かった。そうすると、一見するとルーズな外見の個性的な患者たちが、大変なインテリに見えてくる。管理人は彼らの風格に気圧されて、無言で帰っていく。
このシーンでは、観客である僕も彼らに偏見を持っていたこと、権威主義に弱いことを教えられる。カメラが丁寧に、客観的に患者たちの顔を撮ることで、いわば観客は「我に帰る」のだ。
ああ、映画が息をしている……と、僕は深夜にひとり感嘆する。やっぱり人間は、感動するために生きているのだ。白けるためじゃない、感動するためだ。


最近のSNSは、なかなか疲れる。フェミニスト……という言葉がまったくもって相応しくない海外在住のお気持ちヤクザが「お前は英語話せるのか? 海外で働けるか? まだ実家住まいか?」と、歪んだ優越感丸出しで実直なオタクたちをメッタ刺しにしているのも、見るに耐えない。
海外で働こうが何だろうが、日本人は自尊心の形成に失敗するよう義務教育を受けてるんじゃないか?と思ってしまう。SNSで他人の失敗・失言を待ち受けて、「はい、バカ発見」「俺ならこんなバカはしない」と胸をなでおろして、自尊心の応急処置に必死なのかも知れない。

自分の身に起きたことをもっと書きたいけど、『マイマイ新子と千年の魔法』10周年記念上映の帰り、上映会のたびに飲む人から「廣田さん、武闘派だよ~」と指摘されてしまったので、ここは控えよう。おそらく、名誉毀損罪が成立するぐらいのことを僕はやられてると思うけどね、実名で仕事している身としては。
署名活動なんて始めてしまうと、「俺なら廣田のようにはしない(もっと上手くやる)」と必ず言われる。だったら僕より先に、どうして貴方が手を挙げなかったの? そういう、万年野党みたいな生き方のほうが楽なんだろうけどさ……。

© 1975 - Warner Bros. Entertainment

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2019年11月20日 (水)

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『マイマイ新子と千年の魔法』10周年記念メモリアルアートブック 明日発売
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構成・執筆を担当しました。表紙は、片渕須直監督がレイトショーが始まった頃に原画を転用して制作したイラストを中心に据えて、四隅にある木々は本編美術のBOOKと初期ティザービジュアルからレイヤーを抜き出したもので固めました。
表紙の時は、デザインをお願いした西郷久礼さんに、自分でPhotoshopで作ったビジュアルを送って、なるべくそのまま配置してもらいました。表紙だけで、絶対に自分でも欲しくなるよう、やや失礼なぐらい強気に指示を出してしまいました。

片渕監督がNGを出すようなことはなかったです。キャラクターの大きさ等に、少し意見があった程度。また、エイベックスから、何か決定的なダメ出しがあったわけでもありません。細かな誤字を最後の最後まで、よくチェックしていただきました。
最後の監督インタビューは、挙げられた参考図書も平行して読みながら、創作の初期イメージに迫るみずみずしい内容にまとめられました。このインタビューを読んだら、『マイマイ新子~』に対するイメージは、かなり変わると思います。監督が手を加えて、文章を洗練してくれたのも有り難かったです。


当初は、明日の10周年記念上映で、ファン代表として登壇するようお願いされていたのですが、それはお断りしました(笑)。それで何か盛り上がるようには思えなかったので……。
(吉祥寺バウスシアターで福田麻由子さんに花束を渡したのは、片渕監督に「俺が渡すのは変だよ、廣田さん行きなよ」と背中を押されたからです。)

確か夏ごろに、エイベックスの岩瀬智彦プロデューサー、クラップの松尾亮一郎プロデューサーとお会いして、「10周年を記念して何か作りたい」という話を聞かされたのでした。お二人とも現役で活躍中だし、思い出すのは、意外にも10年前どうしていたか……ではありません。
松尾さんからは、「10年前に何があったのか記録したい」という話も出たのですが、それはDVDのブックレットに掲載されているので、後ろを振り返るよりは、新しいファンにも喜ばれるものを。10年もったのだから、次の10年も。そういう気持ちの方が強いです。あと、この10年の間、気持ちが覚めなくて良かった。
普通に売って、普通にお客さんが増えるという状況が、何よりも作品には望ましいですから。


月曜日は、国立新美術館へ「カルティエ、時の結晶」展へ。入場料1600円もするのに、展示の仕方が凡庸で、肩透かしをくらった。
美術館は来場者がある程度、自由に順路を決められたほうがいい。来場者が受け身にならざるを得ない直線的な展示では、美術館の意味がないとさえ思ってしまう。音声ガイドを試してみたが、これも来場者の行動を画一化している要因だ。
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その代わり、以前に来館したときに目をつけていた会場近くのハンバーガーショップ“Pe’z magic”で昼食。こういう場所では、遠慮しないようになった。ここでケチったら、すべて仕事に跳ね返ってくるような気がする。部屋でコンビニ安酒を飲んでは、生涯飲酒残量がもったいない。貧しい食生活は、仕事内容を貧しくする。
今を楽しくして、その楽しい今を死の瞬間までキープすればよいのだ、と思う。今がつまらなければ、その次の瞬間もつまらない。なので、我慢しない。

レンタルしてきた映画は、岡本喜八監督『座頭市と用心棒』、韓国映画『タクシー運転手』。
後ろ髪を引かれるのは、飼い犬たちに良くしてやれなかったこと。たまに、夢に出てくる。後悔があるとすれば、犬たちのことだ。

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2019年11月16日 (土)

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EX大衆 2019年12月号 発売中
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●“いま考えるべき『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ”
秋葉原の大規模ダンスオフに参加した経験のある御坂しのぐさんのインタビューを含む、作品のディテール分析からオタクの社会的自認などに言及した3ページ記事です。

『ハルヒ』は、放送当時は人に薦められて(「アニメージュオリジナル」周辺では話題にのぼりがちだった)、数話見た程度。今回、第二期分を頭から見て、その批評性に魅了されてしまった。ただ、この記事は作品に対する評価だけでなく、初放送の2006年ごろの岡田斗司夫さんの発言、1981年の「アニメ新世紀宣言」にまで遡り、オタクがいかにして公的な場で自己主張を行ったのかをレポートしています。


時間が出来たので、恵比寿の東京都写真美術館へ。「イメージの洞窟. 意識の源を探る」展。
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800円ならこんなものなのかも知れないが、40分ぐらいで見終わってしまう。地下の「写真新世紀2019」は無料なので、これもついでに見て回る。
「イメージの洞窟」展は、文字通りの洞窟の写真からスタートするのだが、部屋の真ん中にプリントした紙でかこった物理的な洞窟が出来ている。その幕の内側に入ると、画の濃淡で光を通したり通さなかったり、外からでは感知できない情報に触れられる。
それが“展示"なのだと思う。先日の「富野由悠季の世界」が、いかに四角四面で面白くなかったか、ここに答えがある。写真はプリントするかモニターに映すしかないわけだが、それで終わりではない。壁にどう配置するか、壁をどう捉えるか、そこから新しい表現が始まるのだ。


「俺のBakery&Cafe 恵比寿」で玉子サンドを食べてから、秋らしい日差しで彩られた恵比寿を、東から西にかけて歩く。
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うっかりビールなど飲まないほうが、むしろ贅沢に思える。平日昼間をこうして好きなように過ごせるのだから、いい仕事をやれている。これだけ好きに過ごして貯金もあれば、半年後の予定も決まっているのだから。

恵比寿にはモンスタージャパンやミスタークラフトがあったので、高校時代から30代まで、よく足を運んだ。三鷹から恵比寿までは、山手線に乗り換えないと来られないので、ちょっとだけ不安になる。その不安感が、おそらく心地よかった。
ガーデンプレイスでは、クリスマスの飾りつけが進んでいた。


SNSをやっていると、たまに面食らうことがある。年齢が上というだけで説教モードになる人は、まだ分かりやすい。
面倒な相手は、元○○。僕に対してだったら、元ライターなので、実はあなたより身分は上なのだと明かしてくる人。どうして今、そんな凄い貴方がライターで食えてないのか、そこを聞きたい。ほぼ間違いなく、その本人が問題を起こして業界にいられなくなったか、営業努力を怠って仕事が減っていったか、どちらかだ。そしてほぼ間違いなく、本人は周囲のせいにする。
同じぐらい面倒なのは、名前を隠しているが実は○○。名前は違うけど、あなたと同じぐらい凄いライターで、あなたより稼いでいるのだ、どうだ驚いたかという人。一応、「すごいですね!」「負けました!」と挨拶することにしている。ぜんぶ嘘なので、ハナっから相手にしないこと。

その「嘘」というのは、だって証明のしようがないよね、そんな適当なHNでは?という意味。
HNならHN、ペンネームならペンネームで統一されていれば、そこに信頼が生まれる。僕が実名でしか書かないのは、常にリスクを背負っていたいからだ。リスクを冒さねば、信頼は得られない。「匿名で身分は明かせません、でも実は凄いんです、偉いんです」、そんなぬるま湯から相手を信用させたがる、その甘っちょろさを、僕は警戒するし馬鹿にもする。
「自分の現在やっている仕事はコレです!」と堂々と振舞える相手とだけ、仕事をしたい。


最近見た映画は、ドイツ映画『善き人のためのソナタ』。最初から最後まで食い入るように見たが、万人向けの映画だろう。

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2019年11月13日 (水)

■1113■

月曜から泊りがけで、兵庫県立美術館の「富野由悠季の世界」展へ。
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「富野作品・制作資料展」と思って見に行ったほうが、戸惑わずにすむだろう。「資料展」でなければ、安彦良和氏の原画やレイアウト、安田朗氏の油彩画(キービジュアル)が展示されている理由が分からない。セル画も美術ボードも、富野さんの仕事ではない。商業アニメは複数のプロの手で作られるものであり、演出家の仕事は絵コンテや企画書、修正指示だけではない。口頭でのやりとり等、形に残らない部分が、かなりの範囲を占めるのではないだろうか。
あと、話に尾ひれがついた「おまんこ舐めたい」発言も含めて、富野さんは自己言及によって自分の世界をつくっているように思う。先日、2~3年ぶりに富野さんにインタビューしたが、露悪的なパフォーマンスで自分を糊塗したり鼓舞したりすることも、作家性なのではないだろうか。

ようするに、この展覧会は富野さんの企画意図や演出意図を額面どおりに受けとりすぎ、「一本残らず傑作」という予定調和から作品を並べただけであった。例えば、「女」とか「空間」とか「科学」などのテーマで大きく切ってくれたら、作家の世界が立体的に見えたのではないだろうか。
生真面目すぎるのが気になった。恥ずかしいところ、みっともないところも含めて富野由悠季という作家だと思うので。


学芸員たちはバカではないので、フレームの概念や演出の効果は、よく把握している。解説文を読めば、それは分かる。
ただ、絵コンテの横に完成画像のキャプチャや完成映像をエンドレスで流すことで、絵コンテという仕事の本質が見えるのかというと、それほど単純なものではあるまい。セルアニメは、薄いセルやレイヤーを重ねて厚みのない映像をつくるわけだが、出来上がった映像から、深みや奥行きを視聴者は知覚する。その映像のメカニズムを前提にしたら、二次元資料の羅列には終わらなかったはずだ。
『Gのレコンギスタ』のメガファウナの航路図は複雑で、「Febri」にカラー見開きで構成したとき、デザイナーが悲鳴をあげた。しかし、今回の展示では、刻々と変化する『G-レコ』の勢力図を富野さんが色つきでメモしていたことが分かった。ああいう図を投げっぱなしにしないで、立体として構成しなおすことは出来なかったのだろうか。

乱暴な言い方をすると、この展示会は「紙が並べてあるだけ」だ。
紙といっても、高荷義之氏や安田朗氏の原画は別格だ。額をくっつけて、じっくりとテクスチャーを観察してきた。また、見慣れたはずの大河原邦男氏の設定画にも、ありありと鉛筆の筆圧を感じることが出来る――が、それは作品個々の制作資料であって、演出家・富野由悠季の仕事ではない。
ここ数年はアニメ関係の○○展が増えたが、展示のしやすさが増加の理由ではないだろうか。紙を並べれば、形になってしまうのだ。


偉そうに批判してみたが、実は国立近代美術館の高畑勲展には、行っていない。こちらは模型が展示してあったり、高畑監督の言葉があちこちに散りばめられていたり、“立体的な”展示方法が試みられていたようだ。
僕はアニメの展覧会ばかり行っていてはバカになってしまう気がして、特に国立新美術館には、暇を見つけては通うようにしている。その代わり、シド・ミード展にも高畑展にも行かなかった。だったら、都内の知らない美術館に行ってみたい。その欲望のほうが上回った。

ボルタンスキー展に行って、古着の匂いや2メートル程度までしか届かないささやき声も“展示”し得るのだと知った。
だったら、富野ゼリフのあれこれを、うるさいぐらい会場に響かせたっていいじゃないか。結果、「富野のアニメって、やっぱり難解だ」という感想を持ち帰ることになっても、「あれもこれも傑作でしたね。さて、最後に『G-レコ』を宣伝しておきます」などという予定調和よりはいい。そういう生ぬるいファン心理や幼稚っぽい「大人の事情」からの脱却が、思春期に『ガンダム』や『イデオン』を見てしまった者のテーマではないだろうか。

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2019年11月 5日 (火)

■1105■

レンタルで、フランス映画『真夜中のピアニスト』。
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不動産ブローカーの青年が、荒れた生活の合い間合い間に、ピアノのレッスンに通う。
普段の乱れた暴力的な生活は、手持ちカメラで撮られている。終始、青年の周囲2メートルぐらいにカメラが近接しているので、画面内の情報が少なく、すさまじいストレスを感じる。ところが、中国人女性の家にレッスンに通うシーンだけは、上のスチールのように安定した構図で、カメラも固定だ。
2種類のカメラワークが、青年の心理状態にシンクロしている。こう書くと単純なようだけど、僕はそのコンセプトだけで映画になっている、映画として成立していると感心する。青年がなぜピアニストを目指しているのか、正直よく分からない。だが、そうした脚本上の些事はどうでもいい。


中国人教師の家は、つねに窓から陽の光がそそぎこみ、柔らかい絵づくりだ。
レッスンの後、お茶を飲むシーンが二箇所ある。ひとつめは、フランス語の話せない女教師に、青年が物の名前を教える。最後に「これは、マッチだ」と、マッチを示して、煙草に火をつける。ところが、その部屋は禁煙だと前のシーンで女教師は注意したはず。なので、青年はマッチをすった後、怒られたであろう。
ようするに、マッチをすったところでシーンがバツンと切れている。何か言い切る前に次のシーンへ行く。
ふたつめのシーンで、青年と女教師は無言でお茶を飲んでいる。青年は満足そうな笑みを浮かべている。それだけで、2人の関係がどれほど良好なのか分かる。なぜなら、青年は他のシーンでは何かしら怒鳴ったり、イライラしているからだ。そういう映画だから、無言のシーンが引き立つわけだ。

やはり、構造によってしか、映画は感情を喚起しえない。少なくとも、ワンカットなりワンシーンなりが単独で突出した表現力を持つことはあり得ず、他の要素との関係によって、初めてテーマなりメッセージなりが立ち上がってくるのだと思う。
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映画の後半、青年はいつものように、マンションから不法滞在している住民を叩き出す仕事に出かける。住民たちは、中国人教師と同じように、白人ではない。青年は彼らに手を出さず、黙って仲間たちの暴力的な振る舞いを凝視している。カメラはじっくりと、無言の青年の顔を撮っている。冒頭シーンでは、不法滞在している住民たちに対して、青年も暴力を振るっていた。しかし、中国人教師と懇意になった後は、暴力を振るわずジッとしている。
前後の比較によって、青年の心境が変化したであろうこと、また人種間の軋轢といったテーマが、うっすらと浮かび上がってくる。いきなり青年の顔をアップにしても無意味で、ふたつのシーンの比較の中でこそ、表情が意味を帯びてくるのだ。


もうひとつ、言葉も重要な要素だ。
中国人の女教師は中国語とベトナム語しかできない。青年は「言葉も通じないのか?」と、声をあらげる。しかし、彼がレッスンを投げ出そうとした時、女教師は自国語で彼を強く叱責する。字幕では一言も翻訳されないし、青年に言葉の意味が分かるわけでもない。しかし、彼は黙ってレッスンに戻る。
一方、青年は自分の父親を騙した金持ちの男に、脅しの電話をかける。その男は外国人なので、フランス語は話せない。「お前、言葉も話せないのか?」と、青年は相手をフランス語で罵倒する。
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これもやはり比較であって、言葉が通じないから感情が伝わることもあれば、通じないから憎しみが増すこともある。そして、中国人教師とマフィアのような外国人、この2人はラストシーンで同じ場所に現れる。交互に描かれてきた二つの世界が、ラストで交差する。
この映画は、何かを言い切る前にシーンを唐突に切るのだが、幕切れもやはり鮮やかであった。別に謎が明かされるわけでも何でもない。ラストで誰が死のうが死ぬまいが、どうでもいい。映画の価値は、そんなことでは変わらない。

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2019年11月 3日 (日)

■1103■

『ホテル・ニューハンプシャー』をレンタルで見たかったのだが、近くのレンタル屋には置いておらず、ネット配信でも見つからない(ジョディ・フォスター出演作なのに……)。やむなく、ヤフオクで中古DVDを購入した。送料込み、800円だった。
途中、どうもリアリティの基準が劇映画っぽくない(熊のぬいぐるみを着て生活している女性が出てくる等)、この抽象度はむしろ小説っぽいな……と思いはじめた。鑑賞後に調べてみると、ジョン・アーヴィングが原作であった。しかし、映画はどうもよく理解できなかった。
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大学のころ、ある女性を誘って『ブレードランナー』に行ったのだが、「レプリカントとか何とか、そういうのが出てくるのは映画じゃない」と言われてしまい、「じゃあ、どんなのが映画なの?」と聞き返したら、『ホテル・ニューハンプシャー』との返事だった。
当時はレンタルVHSで見たはずだが、やはりよく分からない映画で、彼女が魅力的だと言っていた男子学生に「『ホテル・ニューハンプシャー』は見た?」と聞いてみた。「見たけど、あんなもん映画じゃねえだろ」との答えだった。
しかし、彼女は素晴らしく美的センスがよく、僕はすっかり子供扱いされていた。


4年次になると、彼女は無精ひげを生やしたイイ男と連れ立って歩くようになっていた。僕は嫉妬すら感じることが出来ず、まあ彼女ほどセンスのいい人なら、ちゃんと中身のある男をつかまえるだろうな……と、納得して眺めていた。いずれにしても、僕には手の届かない世界の出来事だった。
彼女と、一晩だけの関係を結んでしまった後、友だちに「お前、あんな女とヤッたの?」と無礼千万なことを言われた。それぐらい彼女の外見はよろしくなく、また、かなりの変わり者でもあった。

なんというか、僕の決して入れてもらえない「恋愛王国」みたいなものが、はるか天界に燦然と存在していて、その王国からのおこぼれとして、たびたびセックスさせてもっているような惨めな気分が、僕の20代を支配していた。
僕はまだライターでもなかったし、漫画家かイラストレーターになりたいと言っては挫折し、今度は映画監督か映画プロデューサーだと言っては挫折し、そのツケを女性関係で補おうとしているところがあった。それでいて対人恐怖症に苦しみ、電車の隣に女性が座るだけで滂沱たる汗を流して緊張し、誰かとセックスすると、その症状はピタリと治まるのであった。
(なので、対人恐怖を克服するため、誰かと恋愛関係を維持しておかねば……と、ますます焦るわけだ。)

20代は苦しかった。熱意が空回りしてばかりいて、恋愛にも「底」があり、使い減りするものだと分かりかけていた。若いころに戻りたいなんて、微塵も思わない。女性と話すならガールズバーで十分、ひとり暮らしで誰とも会話せず、自分のペースで仕事できる毎日が楽しい。結婚生活は人権なしの牢獄だったし、恋人なんていたら、この自由さは失われるだろう。


「NHKから国民を守る党」の立花孝志党首が、今度は海老名市長選に立候補した。
選挙制度の裏をかいて、次々と候補者を準備し、しかも「外見の綺麗なお姉ちゃんは市議会議員なら必ず当選する」と、実際にキャバクラを歩いて美女をスカウトしているのだから、痛快というしかない。
選挙は真面目で堅苦しく、実現不可能な理想を掲げて悲壮に戦うものだ……という僕ら愚民の常識を、木っ端微塵に打ち壊していく。だから、自分の塗り固めてきた常識を死守したい人ほど、立花さんやN国党を嫌悪する。
申し訳ないけど、どうしてもN国党のアンチは保守的で、「人として小さい」と思ってしまう。立花さんを嫌悪してもいいが、あの大胆な発想を盗んでやるぐらいでないと、大成しない。とにかく、淡白じゃ面白くならないよ。年齢は言い訳にならない。

立花さんが選挙演説の合い間にやっている、有権者との雑談が面白いのだが、彼の人生観は「嫌いな仕事や苦しい事はせず、好きなことだけやって生きていけばいい」「楽しく明るく、自由に生きるのが一番」。その障害となるものは実力で排除していこう、それだけなので、「人生はツラさを乗り越える苦行」と定義している人は立花さんを嫌がるわけだ。

ダメな人というのは、四六時中「できない理由」を探している。「高いから買いませんでした」「遠いので行きませんでした」とかね。
僕は本をつくるのが仕事だけど、いちばん多いリアクションが「○○が載ってない」。積極的に「あれがない」「これがない」と言いたがる人は、その人の人生に何もないんだと思う。
さらに厄介なのは、あなたの本を読んだことがある、署名に協力したことがある程度の理由で「だから、あなたはこうすべき」「こう考えるべき」と、“あなたのためを思って”命令できると信じているタイプ。
そういう人たちも、何かしら挫折して生きているんだろう。俺は、自分にいちばん適した仕事を探り当て、挫折を克服したが、そんな幸運な人は少数なのかも知れない。

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