2017年12月13日 (水)

■1213■

レンタルで、クロード・シャブロルの『いとこ同士』。
Mv5by2zkn2u2ytitodnlyi00ywnilwjmmjiヌーヴェル・ヴァーグの先陣を切ったといわれる作品だが、後に続くトリュフォー、ゴダールとはずいぶんな違いがある。図書館で借りてきた『ヌーヴェルヴァーグの現在』には、「ロメール、リヴェット、シャブロル そして彼らの後継者たち…」と表紙に書かれており、トリュフォーとゴダールは含まれていない。
『いとこ同士』を見てびっくりしたのは、あまりにカッティングが明晰かつ的確で、『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』のように、カットとカットの間で芝居がダブって繰り返されたり、あるいは同一カットの中で芝居を飛ばしたり止めたり……といった奔放さがないこと。あの初々しい素人くささがない。


『いとこ同士』で印象的なのは、ジュリエット・メニエルの演じる、2人の男の間を渡り歩くヒロインだ。
Mv5bnwm1ntcyodgtodrimc00odc2ltkwz_2ヒロインは二度、妖しい登場のしかたをする。左のスチールは、二度目の登場カットだ。
もちろん、思わせぶりな女優の表情も魅力的なんだけど、扉の陰から入ってきて、無言で歩く様をカメラがPANで追っている。ゆっくりと追うので、ミステリアスな雰囲気が出る。
照明は、最初は右後ろから、つづいて左前から当てられる。PANの途中で、一瞬、彼女の顔はほぼ闇に沈む。ライティングの設計によって、余計に神秘的なイメージが増すわけだ。
彼女にうっとりと見とれる男優の顔をインサートするのも「効果的な」演出なのだが、そんな「機能的な」カットワークを蹴り飛ばしたところにヌーヴェル・ヴァーグの価値があるんじゃないのか? どうも、僕が勉強不足だったようだ。


当時、ヌーヴェル・ヴァーグを生み出した評論誌カイエ・デュ・シネマでは、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』派、フェデリコ・フェリーニの『道』派に分かれて論争があったそうだ。シャブロルは「ロッセリーニ主義者としての影は薄く、何よりもヒッチコック主義者だったようだ」と、『ヌーヴェルヴァーグの現在』には書かれている。
それを読むと、『いとこ同士』の全体を貫く「機能的な」演出にも納得がいく。あらゆるカット割りやカメラワークが劇、ドラマ、ストーリーの伝達に追従している。でも、そうした技術は観客の視界を「劇」の中に埋没させる一方であって、ヒッチコックがやり尽くしたことじゃないか。

僕は、「劇」そのものを評価することには興味がもてない。「劇」はいかにして成り立っているのか? フレームの外で、カットとカットの間で何が起きているのか? 映画の余白に、映画そのもので切り込んだのが『ピアニストを撃て』や『勝手にしやがれ』ではないだろうか。


試写で観たCGアニメ『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』()。
Ph12_2取材を申し込んで返事を待っている最中なので、あまりネガティブなことは言いたくないのだが、前売り券は「親子ペア券」のみ。上映は一週間限定という過酷な状況のようだ。『マイマイ新子と千年の魔法』が、まさに親子向けに宣伝され、3~4週間でファースト・ランを終えてしまった8年前を想起せずにおれない。
公式サイトには動画が一本もなく、日本語版吹き替えキャスト名すら記載されていない。Twitterアカウントは、決して点数が高いとはいえないレビューサイトをリンクさせてしまうし、これでは宣伝が映画を殺しにかかっているようなものだ。

『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』は、海外の二次創作を見れば分かるんだけど、実はBL好きの女性の皆さん向けでもある。孫悟空もオリジナルの悪役“混沌”も、二枚目だから。その2人がリュウアーという少年を奪い合うんだから、そりゃあ二次創作も描きたくなるでしょうよ。
そっち方面にリーチできていないのが、本当に、本当にもったいない。親子ペア券で観に行くとしたら、お母さんがときめくような映画なんですよ。もちろん、アニメからクールな中年キャラが消えてしまったとお嘆きのお兄さんたちにも。
「CGアニメだから子供向け」って……あまりに視野が狭すぎる。BL好きの皆さん、この傑作を救ってくださいと、かなり本気で願ってます。

(C)2015 October Animation Studio,HG Entertainment


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2017年12月11日 (月)

■1211■

アニメ業界ウォッチング第40回:美術監督・秋山健太郎が語る「はいからさんが通る」の美術の秘密、手描き背景の面白さ
T640_746299『輪るピングドラム』、『惡の華』でインタビューさせていただいた秋山健太郎さんに、三度目の取材をお願いしました。
『はいからさんが通る』はそろそろ上映が終わりそうですが、背景は見る価値があります。

GoodsPress 2018年 01月号 発売中
特集『傑作品 GP AWARD 2017 ベストバイ』の「プラモデル部門」で、コメントしています。
文章は編集部が書いたものですが、僕からはバンダイ「1/72 ミレニアム・ファルコン」とタミヤ「1/6 Honda CRF1000L アフリカツイン」を推しておきました。


レンタルで、『気狂いピエロ』。1965年のゴダール作品。
Mv大学時代に見たはずだが、「主人公が観客に話しかける」「ダイナマイトを頭に巻きつけて自殺する」など断片的な、どこででも言及されているシーン以外、まったく覚えていなかった。
本に書かれていたことを鵜呑みにして分かった気になる、これは初歩的なミスだ。

図書館で『ヌーヴェルヴァーグの現在』を借りてきて斜め読みしてみたら、“映画の二つ目の真実は「記録」である”という言葉に行き当たった。
「記録」を手がかりにしつつ、またゴダールがドキュメンタリー映画を撮っていたことを念頭に置くと、彼は劇映画ではなく「劇映画が撮影されている状態」を記録していたのかも知れない。ゴダールの作品は「シュールな劇映画」と理解されがちだが、劇映画をつくっていく過程を記録しようとした結果、シュールに見えてしまうだけではないのか。


それまでの映画は、スタジオの中に擬似的な現実をつくり、カットを割ることで時間を再構成して「劇」を成り立たせていた。今のハリウッド映画も、CGを使いながら「劇」に説得力を持たせようとしている。映画批評は、すなわち「劇」への評価になりかわってしまった。

だが、ゴダールはスタジオを抜け出し、街の中で「劇を演じている現実」を記録しようとしたんだ。そのため、カットを割ることをほとんどしない。人々は、撮りやすいように壁を背にしてカメラのほうを向いて会話する。殺人シーンが多く出てくるが、なんと手で突き飛ばされただけでパタリと倒れて死んでしまう。
登場人物の死を伝えるだけなら、それで十分なはずだ。特殊メイクをほどこしてシーンに技巧をこらし、あの手この手で「リアリティ」を与えて観客を騙すより、よほど誠実かも知れない。映画は作り物であっても、「映画を作ること」は赤裸々な現実なのだ。

なのに、若い僕たちは「感性」とやらでゴダールを好きだとか嫌いだとか言い合っているだけだった。「感動した」「号泣した」「心が温かくなった」式の映画批評も、作品と誠実に向き合っているとは言いがたい。
映画が、いかに巧みに「嘘」を構築しているか。そこに目を向けねばならない。嘘そのものではなく「構築」「構造」を評価せねばならないのだ。


NHKから、受信料の督促状が届いた。「受信料制度についての理解促進活動」→「文書・電話・訪問などによるお支払いのお願い」→「裁判所を通じた法的手続きの実施」と刷られている。
僕は文書と無礼きわまる訪問は受けたが、最初の「受信料制度についての理解促進活動」、これを受けた記憶はまったくない。理解できれば、僕は喜んで受信料を払う。集金請負業者からは「ここで個人情報をバラしてもいいんですか?」とマンションの廊下で怒鳴られ、ドアを開けないでいたら電話がかかってきて、無言のまま切られた。
さすがにNHKにクレームを入れたが、一言のお詫びもない。お詫びがないまま、「裁判所を通じた法的手続きの実施」をちらつかせる、その脅迫的態度には抵抗せざるを得ない。

払いたくないというより、脅迫に屈したくないだけだ。

(C)1965 - SNC

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2017年12月 7日 (木)

■1207■

〈物語〉Febri  発売中
Dp9c1pnumaa_wb3●Febri Art Style
本誌と同じように、美術監督へのインタビュー+美術ボードで記事を構成しています。
今回は、〈物語〉シリーズのほとんどの美術を担当された飯島寿治さんへの取材で、『偽物語』の放送直前以来、5年ぶりのインタビューとなりました。美術ボードは本誌より多く、計6ページ掲載しています。


昨日は、来月公開のCGアニメ映画『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』の試写会へ。
Photoこの映画、ネットでPVを見てから国内公開を心待ちにしていた。2017年公開予定と聞いたきり新たな情報が出てこないまま、今年4月のオーストラリア行きの機内で原語バージョンを観ることができた。
単純明快なプロットに、どこか屈折した、生きることに飽いたようなニヒルな中年ヒーロー。崖だらけの地形を縦横に生かした、乗り物酔いしかねないほど自由闊達、融通無碍なアクションにつぐアクション、アクション、アクション! 3D映画は嫌いだが、これは3Dで見てみたい。試写室の小さなスクリーンでは、ぜんぜん物足りない。
タイトルから『西遊記』のアニメ化だと勘違いする人が多そうだが、孫悟空と猪八戒のキャラクターだけを拝借した、オリジナル・ストーリーである。天竺まで行く旅ではない。

誤解されるのを覚悟で言うなら、『ルパン三世』が『ドラゴンボール』の世界で大暴れするような感じ。殴られるたび、何十メートルも飛んでいって地面にめり込むとか、かめはめ波みたいなビームを撃って、よけると岩が砕け散るとか、どこかで見たような演出センスが気持ちいい。あと30分ほどアクションを足して、2時間の映画にしても良かったのに。
口を開けば不満ばかり出てくる疲弊気味の孫悟空を、咲野俊介さんが魅力たっぷりに演じている。来月13日公開、お忘れなく。


帰宅してから、『LOGAN/ローガン』。
Logan_2017_highonfilmsスチールの雰囲気から、勝手に『都会のアリス』のヒーロー版だろうと推測していたのだが、とんでもない。奇声を発しながら大人の男に飛びかかり、両手の爪でめった刺しにする少女の暴力はショッキングだが、そうしないと生き残って来られなかった不遇な立場の表明ともなっている(本作は、映倫審査でR15指定)。
舞台は、テキサス州のメキシコ国境からノースダコタ州のカナダ国境まで。人身売買され、ミュータントに改造されたヒスパニック系の少年少女たちが国境を越えていく。驚いたことに、まだ12歳のヒロインは、スペイン語で話す。改造されたのはアメリカ国民ではなく、メキシコ出身の子たちばかりなのだ。この凄惨なまでにリアルな設定。


メジャー会社のアクション映画は日本語吹き替えで見るようにしている。ヒロインのスペイン語はさすがに原語のままかと思ったら、なんと12歳の子役が吹き替えしていた()。
640_1『Xメン』シリーズの第一作が公開された17年前は、友人で映画監督だった須賀大観が、推薦の言葉を新聞広告に載せたりしていた。ヒーロー物にここまでのリアリティを持たせられるのかと感心したものだったが、現実感を出そうとしすぎると、こうまで過酷になってしまうのか。

ヒーローたちは「映画の登場人物」ではなく、その後の運命や若いころの体験を根掘り葉掘り暴かれる「キャラクター」として消費されるようになってしまった。『スター・ウォーズ』に新シリーズが予定され、テレビシリーズまで企画されるのは「キャラクター」の保有数が多いからだろう。物語上の要請ではない。
ヒーローだけじゃない、『ダンケルク』に登場した飛行機だって、「キャラクター」扱いされて、映画本編とは切り離されて評価された。


NHK受信料の合憲判決が、ネットを騒がせている。
僕が夜中にテレビをつけっぱなしにして寝るのは、YouTubeで雨や波の音を聴くため。地震速報や天気予報は、スマホから得られる。
テレビの役割、情報の質は激変した。利権を得つづけたい人たちが、鈍感なふりをしているだけ。

(C)2015 October Animation Studio, HG Entertainment
(C)2017 Twentieth Century Fox Film Corporation

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2017年12月 4日 (月)

■1204■

ゴダールが、1958年に公開されたベスト・フィルムとして選んだ『悲しみよこんにちは』。レンタルで。
14606787_sx540_現在のシーンをモノクロ、回想される海辺の別荘のシーンをテクニカラーで撮影している。色、特に登場人物たちの衣装が美しくて、画面に釘づけになってしまった。淡い色のシャツやドレスばかりなんだけど、ふわっとした中間色を使っている。

主演のジーン・セバーグは真っ赤な水着をまとって鮮烈に登場して以降、ほぼ全シーン、違う衣装で登場する。
回想シーンの明るい衣装に比べて、悲劇が起きたあとの現在のシーン(モノクロ撮影)で、セバーグは真っ黒なドレスを着ていることに気づかされる。そのしっとりした黒の落ち着き具合が、また美しい。

カメラの動きも、素晴らしいものだった。人物の動きをなめらかに追って、常にベストな構図を維持している。俳優の動きとカメラの動きが、エロティックなほど濃密にシンクロしている。
特に、ジーン・セバーグが自ら仕組んだトラップに父親が引っかかり、彼が浮気をしている現場を目撃するシーン。ロングで2人の人物を撮っているだけの単調な構図のはずなのだが、カメラの動きが妖しいほどに優雅で、あまりにも品のいい撮影テクニックに陶酔させられた。


もっと詳しく解説したいんだけど、『悲しみよこんにちは』の面白さを裏づけているのは、この映画を見て感激したゴダールが、翌年に『勝手にしやがれ』を撮ったってこと!

『勝手にしやがれ』はプリ・プロダクション段階だったそうだけど、ジーン・セバーグに出演依頼したのは『悲しみよこんにちは』で魅了されたから。
だけど、『悲しみよこんにちは』はテクニカラーでシネマスコープ。その仕様だけで、超大作です。とても贅沢な企画。カメラの動きが良いということはドリーやクレーンなどの機材を現場に持ち込んで、リハーサルを繰り返すゆとりがあったということ。
それなのに、ゴダールは優雅なカメラワークと丁寧なカッティングを目の当たりにしながら、どうして『勝手にしやがれ』のような「思いつきでカメラを回す」「ワンショットの中でカットを割ってしまう」なんて荒技を、平然とやれのだろうか!?

自らの絶賛した映画を自らぶっ壊すような、愚弄してションベンを引っかけるようなデタラメな映画を、わざわざ同じ女優を主演にして撮っている!
その無神経さ・図々しさと背中合わせの勇気と大胆さに、ひたすら敬服するよね。カッコいいのかバカなのか、よく分からない。


皆さん、映画を観て感激したり人生が変わったり、いろいろあると思いますが……、断言してもいい。『悲しみよこんにちは』を観たゴダールが『勝手にしやがれ』を撮らなかったら、映画は今のようにバラエティ豊かになっていなかったはず!
ゴダールは批評家だったから、映画を批評することって、こんなに破天荒な歴史的発明を生むんだって証明できたと思う。少なくとも、18歳ごろから無作為に映画を観てきて、『勝手にしやがれ』→『悲しみよこんにちは』のコンボほど興奮したことってないなあ……。

やっぱり、映画ってモンタージュ理論の確立された無声映画時代に一度、そしてトーキーになって黒澤明やヒッチコックが活躍した50年代に一度、少なくとも二度は完成を迎えているんだよ。撮影所の中で、プロたちの手によって。
厳格なロジックと潤沢なバジェットに支えられたプロの映画をぶっ壊して、素人に開放したのがヌーヴェル・ヴァーグでしょう! クロード・シャブロルやエリック・ロメールもジャック・リベットも見ないといかんよなあ……今さらだけど。
若いころは50年代の映画を無視して、いきなりロメールだけ観ていたからね。

「○○監督の新作が」とか、「□□シリーズの続編が、リブートが」って話題より、1960年前後にどんな破壊と創造がもたらされたのか、そっちの方がケタ違いにエキサイティングだね。今の僕にとってはね。
(C)1958, renewed 1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.

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2017年12月 3日 (日)

■1203■

レンタルで、ゴダールの『勝手にしやがれ』。在庫の多いTSUTAYAでも、ゴダールの劇映画は3本ぐらいしか見当たらなかった。『勝手にしやがれ』は、昨年デジタル・リマスター版が公開されたせいか、新訳となっていた。
Mv5bmtuzodc1ndawn15bml5banbnxkftztc大学時代に見て以来、約30年ぶり。案の定、ラストシーンぐらいしか覚えていなかった。
1960年、ゴダール初の劇映画。トリュフォーが原案なので、急展開する無理やりなサスペンスと、甘ったるい会話と女優の美しさに頼ったロマンスは『ピアニストを撃て』(1956年)に、よく似ている。大学のころは、その辺りの文脈は飛ばして、「最低でもゴダールとトリュフォーは見ておかないと友だちに笑われる」程度の認識だったからね。

こんな素人が撮ったようなデタラメな映画が、ちゃんと吹き替えされて地上波で放映されたなんて、日本の映画文化はヌーヴェル・ヴァーグをどのように受容していたのか気になる。
僕が子供のころ、両親が新聞のテレビ欄を見ながら「今日の洋画は何?」といった会話をかわしていて、商業映画の消費のされ方自体、現在よりアバウトだった気がする。


『勝手にしやがれ』は、ジーン・セバーグのキュートさもあいまって、まんまと面白かった。
適当な長回しで撮っておきながら、あちこちでカットを切っているのため、「会話は続いているのに絵が繋がっていない」という不条理な事態に陥っている。そのカットに流れている30秒は、現実の30秒とは違う。

ゴダールは『勝手にしやがれ』の前にドキュメンタリー映画を撮っているし、乱暴に言うなら、ドキュメンタリーの手法で劇映画を撮ったのがヌーヴェル・ヴァーグと言えるかも知れない。
エキストラを使っていないから、街中のシーンでは、通行人がカメラのほうを振り返る。ドキュメンタリーなら当たり前の光景だが、劇映画でカメラの存在がバレてしまうのは致命的失敗のはず。映画の構造が露呈してしまうのを、まったく恐れずにやってしまったから、ヌーヴェル・ヴァーグは過激だし、批評的でもあった。


冒頭に「B級映画会社モノグラム・ピクチャーズに捧ぐ」の一文が映る。ゴダールが批評家以前に、強烈なシネフィルであったことが分かる。一時期のタランティーノのように、映画文化そのものを好きだったんだろうな。
ジャン=ポール・ベルモンドが、映画館の前で立ち止まる。ハンフリー・ボガートの写真が飾られていて、ベルモンドは写真と同じような顔つきをする。そのシーンは、ベルモンドの演じる主人公がボガートの顔真似をしている、それだけのシーンなのだろうか? 過去の有名な映画俳優だって、きっとこうやってカメラの前で表情をつくっていたに違いない。映画って作り物なんだよ、だから愛しいんだよとでも言いたそうに、僕は感じた。

ヌーヴェル・ヴァーグ以降、ドキュメンタリックな撮り方をする劇映画は激増するけど、批評性や映画文化への偏愛がないんだよな。主演女優への私情たっぷりの傾倒ぶりとか。『勝手にしやがれ』は60年経った今でも、まぶしいぐらいに初々しい。


12月は、仕事はそこそこ。映画も観られるしワインも飲めるし(二日酔いしないし)、いい生活ペースだ。だが、旅行で使ったお金と何よりキャバクラ代が響いているので、もっと仕事しなくては……。寂しいのが好きなので、年末年始をひとりで過ごすのは楽しみだ。

(C)Rialto Pictures/StudioCanal

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2017年11月30日 (木)

■1130■

『RWBY VOLUME 4』の初回限定Blu-Rayを買った。全196分。劇場公開版は、エピソードをひとつも削ることなく、2時間半の尺に編集していたことに気づかされ、その労力に敬服した。
T640_741179この作品は、ふたつの「物語」を内部にセットすることで、寓話的な世界観を強化してきた。ひとつは四季の女神のおとぎ話であり、もうひとつは銀色の瞳の少女の言い伝え。『VOLUME 4』では、さらに創世神話が語られる。
太古、世界には善なる神と悪なる神の兄弟がおり、兄は草や動物などの生命を創った。弟は生命を脅かすモンスターを創り、破壊を望んだ。対立していた兄弟は話し合って、判断力を備えた生命をつくることで合意した。それが人間だ。つまり、人間は判断によって善にも悪にもなる。決して、善のみから生まれた存在ではないからだ。

この創世神話は、直接にはストーリーと関与しない。しかし、いまだに決定的な評価を与えられていない『RWBY』という未熟な作品には、ふさわしいように思った。どんな権威とも無縁で、なにも保障されないまま、ただ判断力だけを頼りにヨロヨロと、しかし力強く進みつづける作品。それが『RWBY』だ。
もしかすると、ガクッと転びかねないこの作品のおぼつかない足取りを、僕は心の底から愛する。


実は、今回の『VOLUME 4』から、使用ソフトがMayaに変わったのだという。
もう、あのペラペラな紙細工のような愛くるしいローポリのキャラクターではない。執拗なまでに影のつけられた、不自然なまでに精緻なキャラクターになってしまった。だが、あいかわらず長い髪は板のようだし、ルビーはしっかりとペンを握ることができない。手足のバランスのおかしなキャラクターもいる。ようするに、モデリングが良くない。だからこそ、モーションキャプチャを駆使した芝居にゾッとするほどの生々しさ、人間くささを感じる。声優たちの磨きぬかれた演技が、よりいっそう輝く。

キャラクターのモデリングの出来だけで、すべてが決まるわけではない。見てくれなど、実はどうでもいい。演技のつけ方次第で、善にも悪にもなる。芝居が下手なら、見るに耐えない作品になるだろう。だが、そうはなっていない。スタッフやキャストの注意深さがキャラクターに血を通わせ、作品を生きたものにしている。


片腕を失ったヤン・シャオロンが、父から義手を与えられる。だが、心理的なダメージを克服できない彼女は、義手をつけないまま部屋にこもりがちだ。
114747_2ある朝、父が花壇に水をやっている。家のドアが開くと、ヤンが立っている。彼女はひさびさに朝陽を見たので、まぶしそうに右手を頭の上にかざしている。右手、それは彼女が失ったほうの腕だ。義手を使って、彼女は朝陽をさえぎっている。
たったこれだけの演出で、どうすればヤンの復活を効果的に観客に伝えられるか、スタッフが工夫した形跡がうかがえる。左手(無傷なほうの腕)を頭のうえにかざしたのでは義手を強調できないし、夕陽では物事の終わりを暗示することになりかねない。
些細な演出だが、ひとつひとつ判断力が働いている。はじめから悪いものなどない。生まれながらに優れた作品などない。選ぶことで、良くも悪くもなるのだ。

ぜんぶの演出が上手くいっているわけではない。やや冗長な会話もある。だが、それもこれも含めて、よい方向へ向かう努力は、『RWBY』の全編から伝わってくる。
この作品を見ている間ずっと、「あなたの判断次第で、これから先は悪くもなるし良くもなるんだよ」と、励まされている気持ちになる。

(C) 2017 Rooster Teeth Productions, LLC

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2017年11月29日 (水)

■1129■

レンタルで、米映画『ヒップスター』。
640ゴダールの難解なドキュメンタリーを見たあとだと、普通の劇映画がこんなにも分かりやすくなるのか。定期的に、ゴダールを見たほうが良いのではないか。
『ヒップスター』は、母親を亡くしてからスランプに陥っている若手ミュージシャンが、友人とケンカしたり美人ぞろいの妹たちに慰められたりする、かなりとりとめのない内容だ。映画の「内側」に入り込むと、こんなにも温かな家族愛に恵まれた主人公が「僕は孤独だ」と涙を流しても共感できるものではない。
ただ、共感を排して映画の「外側」を見るならば、片時も目を離せないほどの吸引力がある。同じサイズで同じ人物のショットを繋いで時間をコントロールしたり、着替えるシーンならボタンやネクタイのアップを重ねたり、テンポの付け方が上手い。
(しかし、工夫を凝らせば凝らすほど、カメラアングルもへったくれもないゴダールの『あたりまえの映画』の破壊的な表現力を思い出してしまう。)


主人公はアーティストを自称する友人の個展を、酔ってメチャクチャにしてしまう。そのとき、ストローを例えにして「こんなストローみたいな他愛のないものを何時間も撮影して、そこに意味があると思い込むバカどものお遊び」と、友人の作品を揶揄する。
妹たちに連れられて主人公が個展の会場をあとにするとき、彼の体から、ストローの袋が地面に落ちる。カメラは、クシャクシャのストローの袋がしなっていくのを、じっくりとクローズアップで捉える。どうだろう、そのショットは「ストローみたいな他愛のないもの」は主人公自身だと言い放っていないだろうか? それとも、単にシーン転換のテンポをつけるためにストローの袋をアップで撮ったのだろうか?

そのように、視覚的な事象のみを疑って見ることから、映画の実質が浮かび上がってくるように思う。主人公の生き方に共感した、彼の生き方をこう思った、監督の人生観は……などと、映画の「内側」にとどまることは、僕には出来ない。

先日のキャバクラ談義について、「そんな店で寂しさをまぎらわしているのか、惨めな男だ」と引いてしまった人も多いだろう。反論というわけでもないのだが、キャバクラの話をするたび「そういう店には上司に連れられて行ったことがありますが、女の子に対してこちらが逆に気をつかってしまって、リラックスできないんですよね」と言い訳する男、必ずいる。たいてい、仕事の話をしても趣味の話をしても、つまらないんだよ。そういう偽善ぶった言い訳をする男って。
「こちらが逆に気をつかってしまう」って、具体的にどういうことなんだろうか。嬢に酒をついであげる(自腹でドリンクをオーダーしてあげる)のはもちろん、嬢が一円でも儲かるように指名してあげるんだよね、「そういうお店で」「気をつかう」ってそういうことだよね?
まさか、言葉のうえだけで、態度だけで「なんとなく紳士的に接してあげた」なんて自己満足はしてませんよね? 気なんてつかわなくていいから、金を使ってから紳士ぶってね、と言いたい。


何年か前、明け方に近いキャバクラで、猛烈な勢いで嬢を怒鳴りつけている客がいた。「やばいよ、警察呼んだら?」と店の者に言ったのだが、驚いたことに、嬢も同じぐらい、耳をつんざくような大声で客を怒鳴り返していた。さんざん怒鳴ったあとは、ケロリとしている。
僕が店を出ると、その男が外で待っていた。殴られるのかと思ったら、「どうも迷惑かけました」とのことであった。彼はきっちり金を払ったわけで、ようは合法的に異性と怒鳴りあう場としてキャバクラを利用しているのであろう。
多様な、いびつな異性との関係を「そういう店」が許容している面もあるだろうし、その手の商売は不潔だ、倫理的に許せないという意見も分かる。

しかし、貴方ひとりがいくら清廉潔白であろうと、まっすぐな義憤だけで世の中は美しくならない。清潔な世の中に居場所がない者も、実はけっこう多いのです。

(C)2012 Uncle Freddy Productions LLC

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2017年11月27日 (月)

■1127■

1968年、ゴダールがジガ・ヴェルトフ集団名義で監督した 『あたりまえの映画』。こんな実験作品が、GEOでレンタルできるとは凄い。
224862jpgc_215_290_xf_jpgq_xxxyxx五月革命に参加した学生や労働者が、草むらで話している。その合間に、モノクロで撮影された革命の様子がインサートされるのだが、普通のドキュメンタリー映画ではないので、どこで何が起きているのかは、いっさい説明されない。
学生たちの会話も断片的・局所的で、まったく普遍性がない。なので、「フランスにも大変な時期があって、その渦中の人々はこんな難しい話をしていたのか」程度のことしか分からない。

しかし、無駄な経験ではなかった。少なくとも、ゴダールの劇映画を見るには、彼が完全に政治色に染まっていたころの映画を知っておくべきではないのか……そうでないと、「面白いと保障された映画しか見ない」消極的態度に陥ってしまう気がする。
分からないから価値がない、のではない。むしろ、どこの誰にでも分かるような映画に嫌気がさしたから、ゴダールは商業映画から逃避したはずであって、そのことは誰かが覚えているべきだし、その時期の彼の映画は、いつでも誰かに見られていなくてはならない。


土曜日は、連載をいくつか持っているアキバ総研のイベントに出演した。
友人が見に来てくれたので、帰りは彼と一緒に帰り、そこそこ飲んでしまった。22時ごろから、ガールズバー、キャバクラと夜中3時まで渡り歩いたのだから、まったく話にならない。
23795581_1514225555338020_198364061飲み足りないなら家で飲めば安くてすむし、そもそも先に帰った友人に失礼だろうという自責の念もある。かかる金額もケタ違いで、うっかりするとオーストラリアまでの往復航空券が買えてしまう。
そんな思いが重なって、最後にガールズバーに行ったのは、一年前。アルゼンチンから帰国したその夜だったはずだ。

一夜で数万円も使うのであれば、プラモデルか旅行に使ったほうが建設的だ……と、素面のときは思っている。しかし、普段は安っぽい理性やまがいものの倫理でブレーキを踏んでいるにすぎない。まあ、やはり俺はたいした人間ではないのだと実感した次の日は、丸一日どうにもならない。
二日酔いをなだめすかしながら、原稿はとりあえず、一本は終わらせて納品したのだけれど。


キャバクラに行けば、お金のつづくかぎりは「男」扱いされて、話し相手になってもらえる。
仕事の話をするたびに「すごーい!」というアレ。アレはもう、僕の歳になると通用しない。あるいは、テレビで歌舞伎町かどこかのナンバーワン・キャバ嬢が「客の99%はセックス目当てに来る」と断言していて、そりゃあ貴女にそういう客しか着かないってだけだよと苦笑したものだった。今は「すごーい!」もセックスもいらない。チャンスもロマンスも、もう30年前に味わいつくしたよ。
ただただ、しんみりと「どうして、僕はこういうお店に来ちゃったんだろうね?」「どうして、私はこういうお店で働くようになっちゃったんだろうね?」とため息をついて、力なく笑いあいたい。

「こんなはずじゃあなかった」って、僕はどっかで思ってるんだ。
「なんで? 雑誌に記事とか書いてて、海外旅行に行けて、すごいじゃん!」なんて言われて自尊心を満たせる時期も、何年も前に過ぎて。
「他のお客さんに呼ばれちゃったから、ちょっと行ってくるね」と、嬢が自分のグラスのうえに、そっと名刺を置いて立ち上がる。あの眺めが好きで。「お待たせ」と戻ってきてくれたときは、本当に嬉しいし。19歳かそこらのとき、来るかどうかも分からない彼女が、ちゃんと約束の場所に来てくれて……、あのときのホッとした慰めの、いわば残り香なんだろうな。
セックスできるかどうかより、「約束を守ってもらえた」ことの方が嬉しかった。そのささやかな喜びの記憶を脳の隅っこが勝手にバックアップしていて、アルコールが入ると再起動するようになっているのかも知れない。


本当は、泣きたいんだ。寂しい、とでも思いたいんだ。しかし、泣いたり寂しがるまでの道筋が分からなくなってしまった。「どうすれば本気で寂しいと思えるのか」、それを思い出したいんじゃない?
繰り返しになるけど、嬢が席を立つ。「あとで戻ってくるからね」と告げて、本当に戻ってきてくれる――ほんのそれだけのことが、僕にとっては喜びで。その喜びはしょせん金で買ったものであり、クレジットカードの伝票を見てゾッとして、すごい勢いで我に返っていく瞬間が恐ろしく、その落差が最大の問題であり、病たる由縁でもある(同世代の健全な男たちの話題は、仕事か子供の話が普通だからなあ……)。

「すごーい!」よりも、落ち着いていて、ちょっと疲れた微笑を見せてくれる嬢が好きで、先日はそういう人が着いてくれた。そのような、「今日はラッキーだな」というギャンブル性がまたよろしくないのだなあ……。明日は取材だし、帰ったら原稿もあるし、頑張ろう。
貯金に余裕ができれば、来年はアフリカに旅行したいと考えている。

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2017年11月23日 (木)

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月刊モデルグラフィックス18年1月号 25日発売
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●組まず語り症候群・第61回
今回は、日東科学の「キジムナー」です。当時は店頭で見かけなかった80年代のキットで、確かスーパーフェスティバルで買いました。
パッケージから説明書にいたるまで、びっしりと遊びを盛り込みすぎて、最高にウザいキットになっています。そのウザさをキャプションに細かく書きましたので、ぜひ読んでください。


月刊ホビージャパン18年1月号
 25日発売
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●造形と成形の幸せな調和
バンダイのフィギュアライズ・バストを最新作である初音ミクから初期のキットまで振り返っています。この記事のために、家に組み立て済みのものがあるフィギュアライズ・バストを、すべて新たに買いなおしました。
歴史的に無視できないだろうと思って、初めてシステムインジェクションで色分けを行なった1/144 ドラグナー1型も買いました。
また、フィギュアライズ・バストの企画を担当してらっしゃる三宅のぞみさん()にインタビューし、過去に手がけたキットも入手して紹介しました。「企画者」という視点から、プラモデル商品を照らし出してみたかったのです。


レンタルで、仏映画『南へ行けば』と1969年の米映画『真夜中のカーボーイ』。
Mv5bmjg1ngiwotytnmqync00ngnklwjimdg『真夜中のカーボーイ』は学生時代に見たはずなのだが、すっかり忘れているので見ることにした。
社会の底辺から夢を見る男たちを描いた、あまりに哀切な映画だった。フレッド・ニールの『うわさの男』が、冒頭とラスト近くに流れる。小学生のころ、テレビCMで使われていた曲だ。この曲を聞くと、日曜日の気分になる。

ダスティン・ホフマンの演じる“ネズ公”とあだ名された男が、相棒のジョー(ジョン・ヴォイト)を金持ち女のところに送り込み、フロリダで豪遊する夢を見る。お金持ちの婦人たちを周りに集めて博打をしたり、料理をつくったりする夢だ。それらのシーンは、路上に立っている“ネズ公”のアップとカットバックする。
この映画では、未来に起きることがしばしば「現在」に割りこんでくる。あるいは、回想シーンに「現在」の人物がまぎれ込んでいたりする。
ゲイの老人にホテルに連れ込まれたジョーが、病気の“ネズ公”をフロリダに連れていくため、金を奪おうとするシーンもそうだ。老人を殴るジョー、ネズ公をアパートから引っ張り出してバスに乗せるジョー。ふたつのシーンがカットバックする。後者はジョーの空想のように見えるが、そのまま実際にバスに乗り込むシーンと直結する。
「ネズ公をフロリダに連れていきたい」空想が、「現在」へと追いつくわけだ。それはジョーの焦りでもあり、強烈すぎる願望でもある。


ネズ公は、バスの中で息絶える。死んだ彼を振り返ってジロジロと見るバスの乗客たちは、女性ばかり。どうも見覚えのある人たちだと思ったら、ネズ公の空想シーンに出てきたお金持ちの婦人たちに似ている。
唐突に、老婦人がネズ公を無視して化粧しているアップが入る。彼女たちは、ネズ公の夢想とも現実とも関係のない世界に生きている……果たして、そうなのか? 映画はそもそも、無関係に撮影されたフィルムとフィルムを繋いで、因果関係を生じさせる表現だ。
過去と現在と未来、空想と現実をシャッフルすることで、点在している出来事が力強く一本に寄り合わされていく。

僕たちが映画から「感動的なストーリー」を読解するのは、バラバラに撮られた絵を頭の中で繋ぎ合わせるからだ。バラバラの絵から物語を理解するのは、ようするに慣れである。
慣れているからこそ、疑ってみたり、構造を分析することも必要じゃないかと思うんだが、「とにかく良かった」「理由もなく泣けた」が、映画に対する最大の賛辞になってしまった。
冷徹な理性に感嘆したり、人間の残酷さや無理解や不寛容を発見することにだって意味はあるだろうに、激しく心を揺さぶられて「号泣する」ことだけが至上価値になってしまった。

(C)1969 - MGM

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2017年11月22日 (水)

■1122■

昨夜は、新宿ピカデリーでのイベント上映「マイマイ新子と8年目の魔法」へ。
Dscn6970_4079_4『マイマイ新子と千年の魔法』本編の上映後、福田麻由子さんと片渕須直監督の舞台挨拶は楽しかった。監督が9年目、さらに10年目を念押ししてしてくれたのが、とても頼もしかった。
8年前の僕は、新宿ピカデリーで昼間の舞台挨拶を見てから、夕方に友人と待ち合わせて、その日二度目の上映を観たのであった。
(左の画像は、入場者プレゼントのアートカード復刻版で、当時よりサイズが大きいうえに、監督やスタッフの苦肉の自主制作ではなく、ちゃんと大判で印刷されている。8年前のアートカードは、マッドハウス内のプリンターを使った手作りだったのです)。


さて、もう何十回目の鑑賞になるのか数えることすらしていないが、まだまだ、見落としていることが沢山あった。
気になったのは、全体にアップテンポなこの映画の中で、貴伊子の家に初めて新子が訪ねていくシーンの「長さ」である。このシーンだけ、ゆったりと静謐な時間が流れている。
貴伊子が階段を上がりきったころ、新子は「階段なんて家の近所にもないよ」と、まだ階下にいる。同い年の2人の子供の時間が、明らかにズレている。貴伊子のもっている時間と新子のもっている時間は、そう簡単に重ならない。「同じ場所にいるのだから同じ時間を感じているに違いない」というほど、人間も映画も単純ではない。


決定的なのは、貴伊子の自室のシーンだ。幼児の姿のまま時を止めた西洋人形、編みかけの裁縫道具、読みさしの本……すべてが静止している。

新子の視線を追うと、貴伊子の勉強机の上に、彼女が赤ん坊だったころの肖像画が飾られている。カメラは新子の主観カットからオーバーラップし、そのまま肖像画からパン・ダウンして、現在の貴伊子をとらえる。横顔の貴伊子は沈黙している。代わりに、コチ…コチ…と、時計が秒を刻む音が流れている。
赤ん坊の貴伊子から現在の貴伊子へ、ワンカットで8年か9年の時の流れを追っているのだが、冷たい時計の音は、客観的な時間の経過のみを伝える。
リーン、リーンと時計が時報を知らせる。その時報を合図にして、静止していた貴伊子は「牛乳、飲もうか」と席を立つ。おそらく、いつもこの時間になると、彼女は牛乳を飲むように習慣づけられているのだろう。それは、貴伊子を外部から支配する時間だ。

一階のガス冷蔵庫を前に、新子は自分の家の氷式冷蔵庫の話をする。カットバックで、氷0254_001 を切る職人の姿が、短く2カット入る。その勝手気ままな回想カットが、新子の所持している時間の自由さを象徴している。
間髪をいれずに新子は、「テレビを見たことがあるか」と、貴伊子にたずねる。
ところが、新子のペースは直後のカットで崩される。なぜなら、広角気味に捉えられた広い食堂で、新子はバタバタと奥へ走っていくが、すでに貴伊子は机の後ろに位置しており、牛乳をコップに注いでいるからだ。新子はコップに手を伸ばすが、届かない。
新子はセリフも動作も明らかに「速い」のだが、口数の少ない貴伊子がことごとく先回りをしている。階段のシーンから、ずっとだ。


つづくカットは、貴伊子がオルゴールの蓋を開けるアップだ。オルゴールから流れる音楽もまた、時計の音と同じように、時間を無慈悲に均質化する。
0263_3_00051色鉛筆と香水を戸棚にしまおうと歩く貴伊子を、新子は立ち止まったまま、目で追っている。新子はもはや、貴伊子に話しかけるタイミングすらつかめなくっている。新子はその場に止まっているが、貴伊子は歩く。しかし、貴伊子を支配しているのは時計の音やオルゴールの曲といった、機械が生成する客観的な外部の時間だ。

つづいて、新子は麦畑の向こうに見える自分の家を、貴伊子に案内する。「それから、あれが家のおじいちゃん」「あれが家のおばあちゃん」と、視点がめまぐるしく変わる。
大きく広がる空間の中を「こっちを見て」「次はこっちを見て」と視覚的に誘導するのが、新子の持っている世界観だ。時計やオルゴールなど、外部から告知される縦軸の時間に支配されていない。横の広がりがある。
時間が縦ではなく、千年前まで横に広がっている。それがこの作品の個性であり、難解さでもある。


もうひとつ。三田尻駅についたばかりの貴伊子は、タクシーに揺られて田舎道を行く。
すっかり見落としていたのだが、貴伊子の乗ったタクシーが追い越していく自転車。その自転車に乗った警官は、タツヨシの父ではないだろうか。貴伊子は、ちらっとタツヨシの父を見る。
タツヨシの父は劇中、具体的な描写が無いまま自死してしまう。その事件が新子たちの希望を打ちくだいて、彼女たちに最大の困難を与える。新子はもちろん、実の息子すら置いてきぼりにして「先へ行ってしまう」タツヨシの父を、冒頭近くで貴伊子は「追いこしている」のである。

タクシーのシーンは、(新子ではなく)貴伊子が「最大の困難」を克服する伏線になってはいないだろうか。
0972_4_00128千年前の世界を特権的に体験したのは、新子ではなく貴伊子だった。その貴伊子は、ラスト近くの夜の道で、新子を自分の足で「追いこしている」。
同じ距離を違う速度で移動するのだから、やはり2人は同じ時間を共有してはいないのだろう。しかし、それぞれの個体が異なる時間を体感していようと、それでも構わないじゃないか。そうした大らかな、すべてを許容する巨大な時の流れ(映画の中で何度も繰り返される「明日」)に抱かれているからこそ、この映画で描かれる肉親や友人との別れは、ちっとも悲しくない。雄大な「明日」が、ありとありゆる出来事を肯定してくれているからだ。

(C)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

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