2019年1月18日 (金)

■0118■

原田眞人監督作で、とりこぼしていた映画を観なくては……と、『伝染歌』と『関ヶ原』を借りてきた。『伝染歌』は、去年見たばかりだ。うっかりしていた。
640_1『関ヶ原』は、かなりヒットして賞も貰っているのだが、あいかわらず誰がどこで何をしているのか、さっぱり分からないところが原田映画だなーと思う。これは、ケナしているわけではない。アイドル主演のお手軽ホラー映画のはずの『伝染歌』だって、「こういう映画だよ」とパッと説明できない、猛烈な複雑さと混沌に満ちていて、そこが不思議な魅力なんだよね……。
で、そんな奇ッ怪な映画ばかり撮っている原田監督の思惑とはまったく別のレイヤーで、日本映画界の偉い人たちが利権こみで今年の日アカ賞は誰にやろうか、なんて不毛な会話をかわしてる光景を想像してしまう。いや、想像ですよ想像。


でも、『関ヶ原』を観て良かった、やっぱり原田監督は良い!と思えるところもあって、それは原作の『関が原』で創造された架空の女性キャラクター、初芽の登場するシーンなんだよね。
640このスチールになっているシーンも、大勢の兵たちが通りを突き進んで行く中、パッと初芽だけが立ち止まって振り返る。それまで通りを進んでいたカメラが、彼女と同時にピタッと止まる。彼女の心に寄り添う。きれいなカットだよ。
映画を観るんなら、カメラの動きを楽しまないと意味ないよ。

そして何より、映画が始まって30分ぐらいのシーンが素晴らしかった。夜の廃屋の近くで、初芽は赤耳という老忍者に襲われるが、一撃で返り討ちにする。
赤耳がドカーンと廃屋につっこんで、初芽は「ドンガメ」「(お前の名など)知らんわ」と短く切り返しながら、廃屋とは別の方角へ歩き出す。すると、カメラは2人の真上から俯瞰でシーンをとらえる。赤耳は初芽の行く手をはばむかのように回り込みながら歩くけど、初芽は赤耳の動きを見透かして、ちょっと引き返したりする。
この2人の動きを地面に置いたカメラで撮ると、2人の姿が前後に互い違いに入れ替わるように見えて……「ああ、この2人は会話しながら互いに警戒しあってるな」と分かるわけ。人物の動きと、それを真上から撮るカメラ、真横から撮るカメラとで、2人の不穏な関係が分かる。
映画って、そういうもんなの。カメラの動きで、たとえば“不信感”とか“疑惑”を感じさせる、そういうものなんだ。


まだ、続きがある。初芽は自信満々にまっすぐに歩いて、赤耳が彼女を追う格好になる。カメラは、2人の後を追う。初芽の歩く先には、焚き火が燃えている。
すると、焚き火のまわりに初芽の仲間の忍者たちが、左から右から、ヒラリヒラリと集まってくる。どうして「仲間」だと分かるのか? それは「炎」に集まってくるから。だって、初芽は焚き火の「炎」に向かってまっすぐ歩いていくわけだから、同じ「炎」に集う者たちは、彼女と同じ志向の人間だって理解できるでしょ? “図像”なんですよ、映画って。

で、忍者たちは、それぞれに情報交換する。初芽は有能なので、堂々と切り返すんだけど、仲間のひとりが「どうなんだよ、蛇白?」と声をかけると、初芽がハッと振り返る絵が入る。見ているこちらも、初芽が黙ったから何事かと思うわけだ。
すると、草むらから白い蛇を手のうえでもてあそびながら、真っ黒な服の女が出てくる。
そして、初芽の周囲をゆっくり歩いて回りながら、話す。蛇を手でかわいがりながら。彼女は「忍びは、みんな殺されるよ」と不吉なことを言いながら、「炎」から離れていく。

仲間の集まってきた「炎」から、白蛇だけが離れていくわけだから、その構図だけで、彼女が仲間じゃないって分かるじゃない? 映画って、そういうもんです。
そして、炎の近くにとどまったまま、白蛇を無言で見送る初芽のバスト・ショット。さらに、アップで寄る。初芽の心情を想像させながら、次のシーンへ。まったく見事なものだと思う。
その前後2時間ぐらいは、あまりにも描写が難解すぎて、理解を放棄してしまうけど(笑)、このワンシーンだけで原田節は満喫できるよ。初芽を主人公に撮ってほしかった。


16日(水)は、あるアニメの試写会へ行った後、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『マイマイ新子と千年の魔法』を観に行った。平日昼間、10人ぐらいのお客さんでは監督も映画も可哀相……と思いきや、なんと席はほとんど埋まっていた。
50231539_2052849794808924_627631097新子のおばあちゃん役の世弥きくよさんも客席にいて、ロビーは和やかなムードに満ちて、本当に温かかった。木曜以降も、平日昼間にしては盛況だと聞く。「じゃあ、もう大丈夫だな」と安堵するこの感覚、2009~2010年にかけてのラピュタ阿佐ヶ谷の状況そのままだ。

もちろん、観客と監督がわいわいするのが好きじゃない人もいるだろうから、ひとりの帰路で映画の余韻を味わってもいい。
『RWBY』の試写会のとき、僕はひと気のない道を選んで、泣きながら帰ったからね。感想を人に聞かれるのさえ、苦痛だった。

もう何十回映画館で見たか数えるのも放棄した『マイマイ新子と千年の魔法』だけど、やっぱり大胆で、謎めいていて、観るたびに「どういう意味だろう?」と腕組みしてしまう。ミスリードが仕掛けてあるんだけど、別にミスしても大丈夫というか……いつも迷うんだけど、「迷ってもいいよ」と許してもらえるというか……。

(C)2017 「関ヶ原」製作委員会

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2019年1月14日 (月)

■0114■

「ボトムズ」「ダンバイン」「SDガンダム」……バンダイの“ガシャプラ”シリーズが受け継ぐプラモデル本来の楽しさとは?【ホビー業界インサイド第43回】
T640_795183先日、阿佐ヶ谷ロフトのイベントでガシャプラのテストショットをお見せできたのは、こうした取材活動の結果なのでした。
はじめからご縁があったわけでも、コネがあったわけでもなく、こちらからインタビューさせて欲しいとお願いして、「まあコイツなら信用してもいいかな」と思っていただけたのでしょう。


昨夜は、ラピュタ阿佐ヶ谷にて『マイマイ新子と千年の魔法』のアンコール上映。
Kimg282910年前と同じく、夜のチケットを買うために、朝から並ぶ。午前10時前にラピュタに着くと、『マイマイ新子』に資料協力として参加して、以降は普通のファンでいらっしゃるⅠさんが声をかけてくださった。
上映後に再会したⅠさんが「ちょっと飲んでいきましょうよ」と言うので、夜の阿佐ヶ谷の街に引き返したら、「あれ~、どうしたの?」とスタジオへ帰る途中の片渕須直監督に出くわしたりして、そういえば舞台挨拶で司会の山本和宏さんが「あるライターの方が署名を始めまして……」と口にした途端、監督が僕の方を見て「ははは!」と笑ったので、つくづく緩い、ストレスのない夜だった。

山本さんには『この世界の片隅に』のイベントでもちょくちょくお会いしているので、「今日は、山本さんにとっての十年でもありますよ」と、上映前のロビーで肩を叩いた。
「新子も貴伊子も、歳をとらないんですねえ(だから今見ても新鮮なんだ)」と言ったのは、誰だっただろう? とにかく、にぎやかな夜だった。


先日も書いたように、僕は映画館でアニメを観るとき、緊張して猛烈に発汗してしまう。『新子』のときは、なぜか発汗した記憶がない。
特に昨夜は、落ち着いた心境で見られた。
多々良権周防介が初めて登場するカットで、ついさっきまで新子の空想だったはずなのに、すでにもう一本のストーリーが新たに並走していることに気がついて「えっ、これはカッコいい演出だ!」と驚くのは、試写室で見て以来、何十回見ても変わらない。
8558_photo2「千年前」と言いながら、常に「現在」とカットバックさせて、どちらが未来とも過去とも決めつけず、ラストカットはなんと「現代」のふたりから、「過去」のふたりに草笛が受け継がれるところで終わる。「過去」を過ぎ去ったもの、終わったものとして描いていない。
いわば、とこしえの未来だけが躍動しつづけている。死を乗り越えるのではなく、死を巨大な生命の中へと包含してしまう。

貴伊子が諾子の姿となって千年前の世界へ行くのは、かなり突拍子もないアイデアだ。
029_size8_2しかし、ひとつの巨大な「生命」が貴伊子の姿で現れたり、諾子の姿となって現れたりしているにすぎないのではないか? だから、絶望する必要がないのではないだろうか?
新子が夜道で金魚を見つけた直後、なぜか貴伊子が「私、見つけたよ」と言う。ようするに、僕たちみんなが「生命」という媒質によって繋がっていて、互いに同じものであって、それはもちろん死によって分断できる性質のものではない、と。

晴美さんは死んでしまったけど、原爆から生き残った子が北條家の一員となって終わる『この世界の片隅に』のラストは、ひづるという個体が死んでも、赤い金魚が見つかる『マイマイ新子』にそっくり。それはきっと、2人の作家の信じている世界観が似ているということなのだろう。


じゃあ、どうして同じセルアニメ、同じく女子同士の友情を描いた『リズと青い鳥』はしんどいのか?という、先日の話に戻る。
やっぱり、「目を小さくして頭身を高くしましたよ、これなら見られるでしょ?」と言わんばかりのキャラクターデザインが“結界”なんだと思う。その結界の内部に入れれば気持ちいいんだろうけど、僕は弾かれてしまった。単に、好悪の問題なのかも知れない。
「もともとは目の大きなアニメ特有のキャラなんだけど、あえて目を小さくする」試みは、いうなれば、社会にコンセンサスを求めている。そのキャラクターデザインの想定する「社会」は、本当は萌えキャラなんて容認してくれない頑固な大人たちの世界なんだよね? だからコンセンサスを求める必要があるんだよね? 

好感度なんて気にしないで、ひたすら表現欲に徹した映画なら、こちらも我を忘れて見入ることが出来る。『若おかみは小学生!』だって目はでっかいんだけど、表現として受け取れたからね。

(C)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

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2019年1月12日 (土)

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レンタルで、『リズと青い鳥』。これは苦手だった。なぜ自分がアニメにこだわっているのか、どうして実写に比べてアニメを観るのが楽なのか、問いかけられているような気がして、しんどかった。
640テレビシリーズの『響け!ユーフォニアム』とはキャラクターの頭身や瞳の大きさを変えているのは野心的でいいのだが、結局、声優のハキハキした喋りかたによって台無しにされている気がした。
かといって、実写映画やドラマの俳優を使ってリアリティを狙うのも、こうしたアニメ映画の目論見からは外れている気がする。無菌室のように、内面化された清浄な世界だけを見ていたい、虫のいい願望を満たすのもセルアニメの大切な役割だろう。それこそ、僕のような対人恐怖や「場」のかもし出す気まずさに耐えられずパニックを起こす欠陥人間を癒すために、救うために二次元美少女たちの楽園があるはずで。
でも、本当の楽園ならば頭身を高くして目を小さく描くような“他人のそぶり”を見せないで欲しかった。キラキラの瞳や、ムチムチした太ももを捨てないまま、「映画」を見せてほしかった。


セリフを少なめにして、被写界深度を浅めで、髪の揺れや指の仕草を撮れば、「繊細な芝居」と誉めてもらえるだろう、そこさえ誉めておけば「映画っぽい」と受け取ってもらえるだろう……という見えすいた予定調和が感じられて、しんどかった。「その予定調和の連環に、自分も組み込まれているのではないか?」と、焦るからだ。
実写映画ではなくセルアニメを借りてきた自分の魂胆が、どこかの段階で読まれてしまっている気がする。子供のころから親しんでいるセルアニメを生活に組み入れないと、現実に耐えられないんだろうと思う。本当は「アニメは実写映画と違って、イヤなものや汚いもの、予測不可能なものが出てこないから楽だ」と安らいだ気持ちになりたい、憩いたいはずなんだよね。
アニメで息抜きしたい自分を、心のどこかで嫌悪しているから「しんどい」ことになる。受け入れて、認めてしまえばいいんだろうけど、心の奥底で拒絶している。

内向的な人ほど、自分のオナニーのネタを公では嫌悪する(女子高生フェチの人は、制服姿のポスターを街で見かけただけで怒り出す)けれど、それに近い心理じゃないだろうか。
僕は、映画館でアニメを観るとき、滂沱たる汗をかいて緊張してしまう。隣の席の人に、「どうしていい歳してアニメ見てるんですか? そんなに現実が生きづらいんですか?」と問い詰められているような感じ。


思わず、『惡の華』の第1話を見返してしまったけど、やっぱり安堵する。
『惡の華』はキャラクターの歩き方ひとつとっても、実写の人物をトレースしているので、だらしがない。現実の汚さを、逃げずに抽出してくれる。きれいな、かわいい女の子という設定であっても、意外とガニ股で歩いていたりする。幻滅するんだけど、そこまで認めたうえで「かわいい女の子」として描いているから、そこから先は絶望しなくてすむわけ。正直であることは、何よりも強い。
見たくもない掃きだめに目を向けねば、むき出しの美しさは見つからない。

ここまで書くと、『響け!ユーフォニアム』も『リズの青い鳥』もいいじゃん、綺麗で可愛くて何が悪いって気持ちになれる。現実とも妄想とも、あらゆるものと僕は和解したい。 

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

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2019年1月 9日 (水)

■0109■

レンタル店の準新作コーナーで見つけた、キャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』。
Mv5bmja4ndu5mjcyof5bml5banbnxkftztg60代後半のビグロー監督が、まだこんな手に汗にぎる緊張感に満ちた映画を撮りつづけていることに驚愕した。しかも、白人優位社会を根底から揺るがすような危険なモチーフだ。挑戦的だと思う。
戦車が出動し、戦場のような修羅場と化した1967年のデトロイト……いくらセットの建造費用があったって、CGで自由自在に画面をいじれたって、こんな撮り方はできない。つくづく、映画にとってストーリーは二の次だ。うかうかしていると、カメラがブレブレになって、何を撮っているのか分からなくなってしまうだろう。

最初の十数分は、ひたすら暴動が激化していく様子を、群集の中から撮っている。思いつきで撮ったかのような、激しいカメラワークもある。
ところが、あるモーテルで決定的な事件が発生するあたりから、画面に入る要素は限られてきて、カメラは銃撃音の直後に穴の開いた天井へサッと寄ったり、意図のある動きをしはじめる。そこからラストシーンまで、すっかり画面に没入した。
つまり、冒頭の暴動を撮ったシーンで観客の生理が調整され、本編に没頭できるよう仕組んである。その視覚的構成力こそが「映画」、という気がする。(3Dメガネがなければ臨場感が出せない、感じられないでは困ってしまうのだ)


贅沢な2時間を過ごしたが、しかし、日常生活に影響を残すタイプの映画ではない。
Filmstill06201712ストーリーは二の次だと言ったが、ラスト数十分は法廷劇となり、暴行を働いた警官たちにどんな判決が下されるかが気になってしまう。
(ウィル・ポールターは憎まれ役に徹することのできる良い俳優だった)

現場で、カメラマンや監督がどんな仕事をして、その成果物(フィルム)を編集作業でどう並べなおすかが、映画の品位を決定するのだと思う。
最初の『スター・ウォーズ』だって、トラブルの続出した現場で貧しいフッテージしか得られず、編集者を2人投入して、何とか見られるものにしたのであって、あの映画のチャームポイントはその過程にしかない。思い通りに撮れなかったとしても、編集で何とかする。そのプロセスにこそ、映画の生命が宿るんだと思う。映画評論家は、そんなこと一言も言わない。テーマがストーリーが、ネタバレが……と、そんな一生を送りたいのか? こんな膨大な、潤沢な作品たちを前にして?
僕は大学で映画を学びはしたが、プロになれずに挫折して良かったと思っている。こうして、映画について考える体勢、身構えが得られたのだから。

映画を観て「すげえ感動しました! めっちゃ泣きました!」なんてのは、「腹が立ったから相手を殴ってやった」と、レベルが変わらない。
ようするに、個人を守る武器が「泣いた」「腹たった」「憎い」といった情動しかない。酷い、危険な時代だと思う。


明日の阿佐ヶ谷ロフトAのイベント()、当初は数枚しか前売り券が売れてないというので大いに不安だったが、満席とは言わないまでも、予想をこえる数の大勢のお客さんが来られるという。小規模なサイン会を予定していたが、パニックにならないよう留意せねばならない。

もともと、秋山徹郎さんとは別件で仕事していて、このイベントは思いつきで誘ったに過ぎない。必ず来てくれるゲストとしては、キャラクター玩具の専門家・五十嵐浩司さんしかいない。そこまでは身内と言える範囲だし、何も冒険していない。
「きっと無理だろう」と思いながら、湖川友謙さんに一迅社さん経由で連絡をとったあたりから、風向きが変わって、テーマも絞り込まれてきた。
幸いにも、まだ発売されていない『聖戦士ダンバイン』の新製品のテストショットまでお貸しいただけた。メーカーさんのご好意ではあるが、人との関係を大事にしておいて良かった。


これまでの40年間、アニメ作品に登場するロボットをプラモデル化する際は、「アニメの設定画に忠実に再現」という曖昧な尺度に準拠するか、立体化に適したアレンジを施す実務的対応しかなされて来なかった。
その曖昧と実務の間にメスを入れるには、アニメ現場への取材経験が豊富な人間でなければ無理だ。模型メーカーの社員や、塗装や工作の上手いプロモデラーでもないくせに……と、ほとんどの人が疑っていると思う。まあ、そういうもんだろう。そうやってプラモデル業界は成り立っているのだから、異物を歓迎するわけがない。

でも、どこにも属してない、プラモが上手いとか下手というフィールドを避けている個人に、どこまで出来るか、僕は試したい。とりあえず、組織に属していない僕個人の私的イベントで数十人を動員できると証明できて、第二回も決まっている。ロフトさんは、第三回をやりたいと言っている。
ひとまず、それで成功なんじゃない?と思っている。誰かを騙して、無理やり何とかしたわけじゃなくて、何人かの方たちから信頼してもらえてるんだから、それで良くない?って。

何かをやるには、監獄に人を入れて監視したいタイプと、監獄から脱出したいタイプがいるそうで、僕は圧倒的に後者だ。

(C)2017 - Annapurna Pictures

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2019年1月 7日 (月)

■0107■

レンタルで、フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』、ベルトリッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』。毎日映画を観るのは、きっとそれなりに寂しいからなのだろう。
00013『オーケストラ・リハーサル』は、寺院のロケセットのみで撮ったワン・シチュエーション物。だけど、演奏シーンのある映画はプレ・スコアリングを使わなくてはならないので、仕込みがとても大変。
そうでなくとも、たとえばあるカットで電灯がユラユラと揺れたら、次のカットで別の人物を撮っていても、電灯の影が揺れていないといけない。それはやっぱり、スタッフが仕込まないと成立しない。
フェリーニの映画は単純な切り替えしなんてなくて、ワンカットに3~4人ぐらいの俳優がいて、それぞれ勝手なことをやる。ポンとカットが切り替わっても、彼らのおしゃべりがまだ続いている。その声は現場で収録して、編集で自然に繋がないといけない。
たくさんの要素を併走させながら、にぎやかな劇空間を再構成している。だから、劇映画ではあるけど、ドキュメンタリー的な撮り方だよね。


『ラストタンゴ・イン・パリ』は、1990年前後にベルトリッチが流行っていて、その時に観た記憶があったんだけど、1972年の映画と知って、驚いた。
24587_001アメリカではまだまだニューシネマの時代だったはずで、主演のマーロン・ブランドは、『ラストタンゴ~』と同年に『ゴッドファーザー』に出演しているのだから、驚異的だ。
最初の30分ぐらいは、ヴィットリオ・ストラーロの素晴らしいカメラに魅了される。


男と女がアパートで暮らしはじめる。
女が台所で調理していて、台所はガラスの向こうにある。したがって、女はガラスごしのシルエットしか見えない。男はガラスの手前から「水道の蛇口を止めろ」と怒鳴っている。女は、言うことを聞かない。
そこで男は台所に――すなわち、ガラスの向こう側へ行って、女を追い出して自分で水道を止める。止めると、そのまま台所を抜けて、部屋を出て行く。直後、台所から追い出された女の顔が、大きくフレームインする。
ガラスの向こうを、仮に無意識の世界と仮定するなら、男は女の無意識に入り込んで、そこから女を追い出して、無意識の世界を捨て去ったと捉えることが出来る。そんな想像を引き起こすぐらい、不思議な模様の彫られたガラスの存在が、意味深なのだ。

『ラストタンゴ~』がどういうストーリーなのか、僕には説明できないし興味もない。映画は、構図やカメラワークや俳優の動き、小道具によって、「世界の捉え方」や「考え方」を表すものだと思っている。


押井守監督の“企画”論 縦割り構造が崩れた映像業界で、日本の映画はどう勝負すべきか

とても重要な指摘。たとえば、プラモデルなんかも70~80年代とは社会の中でのありようが変わっているはずだ。その変化を指摘すると、旧来型の商売をしている人たちの足場がグワッと崩れてしまうんだろう。
だから、何も変わっていないフリをしていた方が、細々と儲けられるのだろう。僕自身は、良いとは思っていない状況を、セコく維持することの方が恐ろしい。

その話と関連するかどうかは分からないけど、「公式」という言葉は「ネタバレ」と同じ階層に属する言葉だと気がついた。ようするに、個人が主体性を放棄している。
原発事故の頃から、状況に対する怒り方、問題提起のしかたが分からなくなり、あきらめた方が楽だと、みんな分かってしまったのかも知れない。

(C)1979 Daimo Cinematografica - RAI - Gaumont Television.
(C) 1972 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved

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2019年1月 2日 (水)

■0102■

昨日、1月1日は母の命日。もう、8年目だ。
母の命を奪った父親は、昨年、出所した。僕の居所は教えていないし、あの男がどうなろうと知ったことではない。大晦日に武蔵境駅まで歩いて、母のために花を買って、墓前に供えた。

「外国に、行きなさい」と、母はかみ締めるようにハッキリと僕に言うことがあった。幸い、毎年自分のお金で外国へ行くことが出来ている。世の中、いろいろな種類の嘘つきがいることを、母の事件で思い知ったわけだが、僕は百パーセント原稿料だけで家賃、生活費、旅行費、税金、酒代すべてまかなっている。
正直であること――それだけは、お金で買うことはできない。
お金のために、正直さを捨ててしまう人がいる。一度捨てたら、もう二度とは戻ってこない。正直さ、誠実さとは、そういうものだ。


人は人を殺しうる。誰かを救える手は、誰かを殺しうる。
「私の手は殺しなんかしません、救うだけです」なんて言うヤツは、絶対に信用しない。愚かにも賢くもなるから、人間には価値があるんだよ。私だけは無罪です、私だけは例外ですって人間は、心から軽蔑する。
良くなり得る人間は、ようするに悪くもなり得るわけ。本人が悪くならないよう、ちょっとずつ努力するしかない。ちょっとでもマシに、昨日より一ミリでもいいから、好転させるように。向上心の火を消さないように。


正月、どうやって過ごしているかというと、実家がないのでどこにも帰らず、川崎に住んでいるらしい母方の親戚にも会わず、シーンと静かなマンションで酒を飲んだり仕事をしたり、映画を観たりしている。映画は『ブギーナイツ』と『バーフバリ 伝説誕生』。
まあ、お金のかかった映画はそう大きく破綻しないけれど、『バーフバリ』のように被写体の面白さだけで騒がれる映画には、つくづく興味がない。僕は密室で2人の人物が会話しているだけなのに、嵐が吹き荒れるような演出の『普通の人々』、コーヒーカップを世界の謎を丸呑みした魔物のように撮ってしまうヒッチコックの『汚名』が好きだ。

そんなわけで、北口のTSUTAYAと南口のGEOを、行ったり来たりしている。誰とも話さなくていいし、仕事のスケジュールは自分で自由に切ればいいし、銀行口座には一人暮らしするには十分なお金が貯めてあるし、手をつけてない小説も映画もプラモデルも山ほどある。こんな平穏な日々は、なかなか手に入らないよ。


毎日新聞が、「児童ポルノ」の定義をシレッと拡大解釈して、平然と報道していた件()。
だから、「ポルノ」=「性的に興奮するもの」と呼んでいるかぎり、興奮することは悪い・汚いという話にすり替えられ続ける。よく、表現規制に反対している人を「ズリネタを守りたいだけ」と揶揄する人がいるけど、僕はそれの何が悪いの?と思う。何を見て興奮しようが自慰しようが、その人の自由だよ。他人のズリネタに口出して禁止する社会の、どこが自由だよ。

もっと言うと、僕は「マンガやアニメやゲームだけは聖域」とは捉えてなくて、「そんなに規制したければ頑張って別の法律でもつくれば?」と思っている。表現物を規制したいがために、実在する児童を保護する目的の法律(児童ポルノ規正法)をダシに使うな!ってことです。それは誠実ではない、フェアじゃない。子供を人質にとって自分の嫌悪感を正当化しようなんて、薄汚い大人の考えそうなことだ。卑劣だよ。
「子供を守るため」なんて、綺麗事を言うなよ、バレてるよ。子供を守りうる人間は、子供を傷つけうる。傷つけうる手だけが、守りうるんだ。その厳しさを受け入れられないほど、毎日新聞も萌えイラスト嫌悪の人たちも脆弱だってこと。「権力になんとかしてもらおう」ってのは、自由からもっとも遠い発想だよ? 

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2018年12月30日 (日)

■1230■

脚本家・小中千昭の体験した90年代後半のアニメ制作現場、そして「serial experiments lain」で試みたこと【アニメ業界ウォッチング第51回】
T640_793618小中さんには気持ちよく取材を受け入れていただき、読者からの反響も多い幸せな仕事でした。
アニメ関係のインタビューというと、たいていは現行作品のプロモーションになってしまい、そういう刹那的な記事なら聞き手・書き手は大勢います。「誰に何を聞きたいのか」、テーマを明確に定めようとすると、それを決められるのは自分だけだし、インタビュー相手もおのずと絞り込まれてくるし、交渉する主体は自分になります。そういう仕事だけを、自分だけが出来る仕事をしていきたいのです。


小中さんにお話をうかがったのは、西新宿に借りた小さな会議室で、その場所のムードが良かった。閉店した中華料理屋のある心寂しい通りで、外国人の学生たちがいろいろな言語で話しながら通りすぎていく。寒くて薄暗いけど、雑然としていて活気があって……まるで、90年代終わりごろの、あの時代の空気そのもの。

どう言ったらいいのか……ちょうど、年の瀬の今時分のように、空気は冷え冷えとしていたけど、アニメやゲームを語る者たちの吐く息は熱かった。不況だったし、ぎりぎり20代だった僕は収入が低くて、生活に苦労していた。家賃の滞りがちな部屋には、何もなかった。
だけど、『エヴァンゲリオン』を録画したVHSテープを友達のアパートに持っていって強引に見せるぐらい、不思議な情熱に支えられていた。80年代のアニメ文化は大人たちから与えられたものだったけど、90年代後半に出会った作品はどれも自分で選びとったものだと、かたくなに信じていた。
VHSテープを持って友達のアパートに行ったのは、夕暮れ時だった。だから、この時代は黄昏の印象が強い。でも、寂しくはなかった。プレイステーションのゲームソフトを、それこそ擦り切れるまでやりこんだ。友達と酒を飲んで、朝といわず夜といわずアニメについて議論した。


2001~2002年頃、ゲーム会社に入社すると、誰もがそれぞれの視聴環境で見られるアニメを見て、どんな内容でどこが面白いのか熱心に布教していた。いや、「誰もが」は大げさで、作品を好きな人間は語る言葉も熱かったので、よく覚えているのだろう。
その頃になるとDVDを所有するのが当たり前になっていて、家ではまだダイアルアップ接続だったと思う。ネットカフェに泊まって、朝イチで会社に来ている若者がとにかく好きなアニメにはぞっこん惚れこむタイプで……あの時代のことは、本当に語りきれない。これから、ゆっくり語っていこう。
そう、渋谷の裏通りを輸入オモチャを求めて行ったり来たりして、道端で買ったばかりのフィギュアを交換したりしたのも、あの頃だった。「ストリート」って言葉の賞味期限は、まだ切れていなかったのだ。

忘れないうちに書き記しておくが、僕は一年の中で年の瀬がいちばん好きだ。静かで寂しいけど、局所的に賑やか……という状況が好き。大晦日が永遠に繰り返されないかなあ、と夢想してしまう。


レンタルで『白い家の少女』と『普通の人々』。ヒッチコック風のサスペンスである前者は、あまりにガタガタのカメラワーク、しょっちゅうPANとズームを繰り返すだらしのなさに唖然とさせられたが、『普通の人々』、これは開幕1~2分で素晴らしさが分かる。
Mv5bmtmznjm3ndm2nf5bml5banbnxkftztc時系列が前後するし、あらすじを説明するのは困難だが、画面に引き寄せられる。それは構図に狙いがあり、カメラの動きが機能的で、編集で意味を膨らませているから。「ストーリー」こそが映画の本質だと思っている人たちはネタバレという言葉に執着するが、僕は映画は構図でありカメラワークであり編集であり……、すなわち語り口だと確信している。
無論、言葉と言葉がすれ違い、衝突し、なんとかその場をとりつくろおうとする人々の演技も迫真だ。会話の中に、即興の歌をまぜこむのもいい。よく計算された舞台劇を見ているかのよう。


いくつか、好きなシーンを挙げておこう。
主人公の少年が、ガールフレンドと喫茶店で待ち合わせる。だが、ガールフレンドは多忙なので、会話もそこそこに切り上げて、席を立つ。彼女は店の出口まで歩いたところで振り返り、少年に「ねえ!」と呼びかける。その瞬間、店内に座っていた見知らぬ人々が「えっ?」と一斉に彼女を見る。彼女はたじろぎながらも、「元気出して!」と少年に声をかける。

もうひとつは、主人公の母親が父親とデパートで待ち合わせるシーン。
彼女はエスカレーターに乗っているが、反対側のエスカレーターから友人に声をかけられて、大声で会話する。その場に乗り合わせた人々が一瞬、「何だ?」という顔で2人を見る。母親はエスカレーターに運ばれたまま、会話をつづける。
これらのシーンの持つ、「人込み」という状況が強いる必然と、それに抗うような言葉の意志。それをワンカットで過不足なく収める構図のセンス、容赦のない編集の知性。

それこそ、浴びるようにして2時間を楽しんだ。テーマがどうとかじゃない、工夫をこらした演出が次から次へと興味をつなぎ、思いがけない飛躍と省略を見せてくれるからだ。ただの2時間じゃない、何年分もの心の動きが凝縮された特別な2時間だった。
5355008ordinarypeople1537463255(ことに不思議なのは、少年のガールフレンドの運命だ。彼女は少年と気まずいデートをした後、自殺したと告げられる。ところが映画のラスト近く、少年はガールフレンドに謝りに行って、彼女はとびきりの笑顔でそれを受け入れる……こうしたプロットの不可解さが、映画に無限の奥行きを与えている。)

(C)1980 - Paramount Pictures. All rights reserved.

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2018年12月26日 (水)

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“アイレベル”の高低で人間関係がわかる、「RD 潜脳調査室」の機能的構図【懐かしアニメ回顧録第49回】
T640_792978アキバ総研の連載も、早くも50回目直前です。バックナンバーを読むと、「ちょっと考えすぎではないか」「深読みしすぎではないか」と感じるところもあります。作品を二回ほど見返すと、だいたい三つぐらいポイントが見えてくるので、どれか一つに絞らないと、原稿が散漫になります。
だけど、この連載が毎月あるおかげで、わざわざ読んでくれた人に見返りのある内容にしなくては……と、姿勢を正せるわけです。日々の倦怠にまかせていたら、もうアニメなど見なくなっていただろうし、構図やカットワークに注意が向かわなくなっていたかも知れません。
あちこちに、「仕事」「人に見せるもの」という枷を嵌めていかないと、僕の人生も生活も、バラバラにほどけてしまうような気がします。「人に会う機会」をなくしたら、身なりが汚くだらしくなくなっていくようなもので、審美眼にも垢が溜まるものだと思います。


レンタルで、クリント・イーストウッド監督、主演の『ガントレット』。1977年というと、『スター・ウォーズ』公開の年だ。
1977_the_gauntlet_3081069k全編、からからに乾いた荒野が舞台。時おり、嵐のような銃撃シーンが挿入され、ヘリが墜落したりもするが、折れる鉄塔や橋が作り物だとバレている。つくりの荒さも含めて、水分が抜け切った映画。
冒頭、クリント・イーストウッドの演じる刑事が明け方のバーから出てくる。彼が車を停めてドアを開くと、足元にウィスキーの瓶が落ちて割れる。刑事はアルコール依存気味で、上司から「もし殺されても誰も気にとめない」という理由でワナに陥れられてしまう。
彼自身は、自分が優秀だから特別な仕事を与えられたと思い込んでいるのが、よけいに痛々しい。

ソンドラ・ロックの演じる娼婦が、刑事の目を覚まさせていく。
砂漠で野宿することになり、娼婦は刑事がワナにはめられ、無用者であるがゆえに殺されかけていることを指摘する。娼婦の言葉を聞いて、刑事はジッと考えこむ。考えこんだまま、動かない。カメラはフィックスで、刑事の顔をアップでとらえている。
しかし、これは夜のシーンであり、娼婦は寝てしまった。どうやってシーン転換させるのだろう? なんと、カメラが刑事の顔をアップでとらえたまま、オーバーラップして朝のシーンになるのだ。刑事は微動だにせず、数時間も考えこんでいたわけだ。
それほど、娼婦の指摘は刑事にとってショッキングだったのだと分かる。
このシーン、どうやって撮影したのだろう? カメラを動かさず、俳優の座る位置を決めて朝を待ったのだろうか? ともあれ、俳優を止めたまま時間経過だけをオーバーラップで表現する大胆な演出で、刑事の沈思黙考ぶりをシャープに描ききっている。好きな演出だ。


もうちょっと分かりやすいシーンも挙げておこう。
Mv5bztzizje1ntqtote3nc00nwuylwiymju刑事は娼婦を隣の州まで護送して、裁判に出席させねばならない。だが、娼婦に証言されては警察署の上司が女を買って暴行していた事実が発覚してしまう。証拠隠滅のため、行く先々で警官隊が待ち構えている。
つまり、この映画は権力の腐敗ぶりをモチーフに、主人公の正義を証明しなくてはならない。どこかで、警察官の汚さを描き、反権力のポジションを固めなくては終われないはずだ。

それが、八方ふさがりになった刑事が、パトカーを奪うシーンだ。パトカーに乗っていた警官は刑事に銃をつきつけられたまま、州境へと車を走らせる。娼婦は後部座席に座っている。警官は彼女に、「金をとって男と寝る気分はどうだ?」など、下世話な質問を浴びせる。
娼婦は、「あなたたち警官と同じようなものよ」と言って、警察官が裏でどれほど不正をしているか舌鋒鋭く暴きたてていく。最初は「詳しいな」と苦笑していた警官だが、「まだ夢精しているの?」とおちょくられて、ブチ切れてしまう。
2人の会話を聞いていた刑事は、無言で娼婦のほうを睨む。その口元にはやがて、苦みばしった笑みが浮かぶ。それは共感のような、賞賛のような、不思議な微笑である。

いつも書いていることだが、映画の中で自分から動けず、ジッと事態を静観している人物にこそ、観客は感情移入してしまう。
このシーンで、クリント・イーストウッドは銃を警官につきつけているだけで、自らは何もしていない。娼婦と警官の会話を聞いているだけの“観客”なのである。彼は観客の「スッキリした」「スカッとした」「よくぞ言ってくれた」という気持ちを代弁するために、苦い笑いを浮かべるわけだ。
こういうドライな、辛らつなシーン、最近の娯楽映画・大衆映画では滅多にお目にかかれない。1970年代のアメリカ映画に特有の苦味……という気がする。

(C) Warner Bros. Entertainment Inc.

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2018年12月23日 (日)

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モデルグラフィックス 2019年 02 月号 25日発売予定
Du6ol_uyaenvvu■「組まず語り症候群」第74夜
今回は、松村しのぶさん原型のレジン製ガメラ飛行形態です。
来年は平成ガメラ完結20周年。1995年は『ガメラ』シリーズと『エヴァ』がスタートして、マスターグレードでガンダムが模型化された年です。次世代ゲーム機が各社から発売され、『ウルトラマン』『仮面ライダー』もテレビに復帰して、オタクでいるかぎり決して飽きることのない黄金の日々が10年近くも続いたように思います。

■『ひそまそ』実写化計画
おそらく今回が最終回なので、当初から予定していた品田冬樹さんをお招きしました。タイトルは「品田冬樹とB-CLUB文化」。
模型や立体物が、どれほどアイドルや映像文化と親和性が高いか、あらためて振り返っていただきました。


昨日22日は、『この世界の片隅に』のロケ地を見よう会のため、土浦へ。
48358646_2016202668473637_123921083朝から土浦セントラルシネマズで『この世界の片隅に』を観る都合もあって、前回(9月9日)と同じく、駅前の東横インに宿をとった。前回は駅前のコンビニでおにぎりを買って夕食をすませてしまったが、今回は駅の西側で飲み屋を探してみた。
やはり店舗は乏しいのだが、チェーン系の居酒屋で牡蠣フライと刺身、バルで赤ワインとチーズを味わった。旅先では、ほんの2~3杯で十分に酔えてしまう。

こうして、東京以外に用事のあるときは小奇麗なホテルを泊まり歩いて、喫茶店で時間をつぶしていると、意外と能率よく仕事を進めることも出来るのだが、やはり分不相応な贅沢なのだろう。
土浦から上野までグリーン車に乗車すると、たった二両なのに車内販売があったり、後ろのほうでハイボールを飲みながら話す中年カップルの会話が滋味深かったり、とても楽しかったのだが。ひとり旅が好きだ。


『この世界の片隅に』、映画館で観るのはそれこそ3ヶ月ぶり。
48391252_2016194778474426_635974561映画館は自宅でDVDやウェブ配信を見るのと違い、誰かの意志で、誰かの決めた時間いっぱい、決められた場所に座っていなくてはならない。おのずと、身構えが違ってきて、見せる側の意志を汲み取ろうと集中することになる。
自分でボタンを押して、自分で時間をコントロールできる自宅のほうが、実は受動的に見ているのではないか……。

自宅で観た映画は、クリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』など。まったく見るべきところのなかった映画は、タイトルごと忘れてしまう。


そういえば、土浦で片渕監督はチェックするだけで、いま大変なのは作画の人たち……といった会話を耳にした。
それは、だいぶ事実と異なる。僕らが上手く伝えなくてはならないことだが、監督は自分で特殊効果を描いたり、撮出し素材を徹底的に揃えることで、あの独特の手触り感を生み出している。数学的な計算能力も必要だし、監督だけの持つ技能が全カットに駆使されているのだが、撮出し素材自体、なかなかお目にかかる機会が少ないとは思う。

とにかく、監督は自分でドンドン直してしまうし、ドンドン分け入って歩いていくし、雨が降っていれば傘をさせばいいし夜なら明かりを灯せばいい、というタイプの人だ。「寒いから明日にしよう」ということがなく、細かなところで沢山の我慢を重ねているに違いない。
僕が真に恐れるのは、あの行動力だ。僕のように、今日はいっぱい働いたから明日は酒だ、いや一日寝ていよう――という怠け癖がない。いつの間にか、自分の手で雑事をすませている。人生を無駄にしない。
それが出来ないと、怠け癖のために向上心を失い、性格まで捻じ曲がって堕落してしまうことがある。僕は、それが怖い。「もうオッサンだから」と自嘲するたび、どんどん高度が落ちていく。

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2018年12月18日 (火)

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筆塗りを楽しむために生まれた味わい深いプラキット「塗るプラ」を、株式会社ボークスが開発した本当の理由【ホビー業界インサイド第42回】
T640_791437ちょっと気になっていたプラモデルだったので取材をお願いしたところ、未塗装のランナー状態を見て、腰を抜かしました。「金型が壊れるんではないか?」というぐらい、モールドがシャープなのです。専業メーカーでも、こんな彫刻はなかなか出来ないと思います。

もちろん、ボークスさんとしてはキットを通じて水性塗料「ファレホ」をアピールしたいわけですが、「上手な人が上手に塗りました」の一点張りでは、やや苦しいと言わざるを得ません。
僕のような第三者が興味本位で取材するメリットは、メーカーさんとは別の視点から製品の魅力を見い出せることだと思います。そういう意味では、「モールドの有機的な表現力が凄い!」という評価になります。たった900円で、これは買いですよ。


【模型言論プラモデガタリ】(
来年1月10日に、阿佐ヶ谷ロフトAでトークショーを開催します。
Ducxlueu8aeud74一緒に登壇するのは、80年代初期に美少女フィギュアをビジネスとして開拓し、現在はフィギュア原型会社MICの経営に携わる秋山徹郎さん。第一回は、キャラクター・プラモを検証することになりますので、アニメの歴史や玩具の文化に詳しい五十嵐浩司さんがゲストです。
五十嵐さんのおかげで、とんでもなく貴重な資料が集まってきました。

版権元さんとも話して、今回は手持ちのキットや資料を使ったトークショーになりますが、ダンバインならダンバインという番組の立場がどうだったのか、オーラバトラーというキャラクターをどう売りたかったのか、アニメ・ロボットのプラモデルとして何を遊ばせたかったのか、検証します。
単に「あのシリーズは出来が悪かった」「ダンバインは好きなアニメだった」と回顧するわけではありません。物事のコンセプトを咀嚼し、デザイン的な視点から検証するので、そういう仕事に興味のある人なら、誰でも楽しめると思います。もちろん、単にアニメ好き、オモチャ好きでもいいんです。
「気楽に参加できて、勉強になる」イベントになります。


僕がモデルグラフィックス誌で連載を始めた数年前、Twitterで「作れもしないくせに……」と悪口を言われたものです。
また、他ジャンルで有名なクリエイターの方が「僕はプラモデルに色は塗れませんし、下手クソなので語る資格はありません……」と口ごもってしまうシーンに、何度か出会いました。「模型雑誌に凄い作品が載ってますよね、あんなのは無理」と言われたこともあります。

だけど、僕の友人でプラモデルは買わないし作らないのに、模型雑誌だけ眺めて楽しんだり、「今度、○○がプラモデルになるんだな」と、情報だけ集めている人もいます。
そういう人たちは、プラモデル文化と関係ないんでしょうか? 「入門」という言葉がありますが、本当に誰もが門をくぐらねば語ってはいけないのでしょうか?

「四の五の言わずに、とにかく作れ! 塗れ!」「努力して、上達してから語れ!」といった根性論の影で口を閉ざしてうつむいている人たちが、安心して座れる場を提供したいんです。
プラモデルなんて、生まれてこの方、買ったことがないって人でも歓迎します。アニメとかロボットとかよく分からん……という人で大丈夫です。「そもそも、ロボットアニメとは何か?」「何のためにロボットアニメが存在するのか?」という次元から、丁寧に語り下ろしますので。
できるかぎり毎月開催するので、「自由な言論とは何か?」ということも含めて、風とおしのいい、何の抑圧もない解放区を目指したいのです。

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