2017年7月23日 (日)

■0723■

なんとなくレンタル屋で手にとったスペイン映画、『マーシュランド』。
Mv5bmdvjmddiztqtmgjkny00mdzhltk2zgi素晴らしかった。僕らは、つい「ストーリーがよかった」と言いがちだけど、それは言語化して文脈に置き換えないと思考できない、僕らの脳の欠陥のあらわれであるような気がする。
『マーシュランド』のストーリーを説明しろと言われても、スペインの政治的バックグラウンド(時代設定は1980年)を理解していないし、主役の刑事コンビの関係、どういう事件を追って田舎町まで来たのか、なかなか分からない。
にもかかわらず、映画が終わるころには「正義とは何か?」「罪悪感とは……」など、空しい言葉が頭の上をよぎる。ハエのように。そのハエを、まずは追い払うんだ。


なぜ「面白い」と感じて、身を乗り出すようにして最後まで見てしまうのか?
最初のほうでバラバラに提示された小道具やシーンが、後半で意味を帯びてくるから。疑問を提示しておいて、忘れたころに答えを出す。それで「理解した気にさせられる」。本当には理解していなくても、「私は知ってるぞ」と優越感をいだかせてくれる。実は、映画が「面白い」とは「理解した気にさせられて、得意になる」ことに他ならないのではないか。

映画の前半で、熱で溶けかけたネガ・フィルムを刑事たちは手に入れる。
そのネガを現像すると、殺害された少女たちが映っている。間違いなく、犯行がおこなわれた場所だ。その中に一枚だけ、ハンティング・トロフィー(鹿の角の壁飾り)が飾られた部屋が映っている。漠然と記憶に残るんです、その写真は。七秒ほど、ちょっとティルト・アップして撮っているだけなんだけど。
そして後半、湿地帯の中に建っている宿を、刑事たちは訪ねる。若い刑事が鏡を見ると、鏡の中に、あのハンティング・トロフィーが映る。写真で見たものを、今度は鏡の中で見る。刑事の主観カットでバーンとアップになったら、しらけるでしょ? その大仰さを回避しつつ、既視感を惹起し、観客に「ここが犯行現場だ」と確信を抱かせるには、「ネガ」→「鏡」がぴったりでしょ、絵が反転してるんだから。


そして、「鏡」に映るのは、ハンティング・トロフィーだけではない。もうひとりの老刑事が、宿のおかみさんを締め上げているのが、鏡の中に映る。若い刑事は「おい、何をしている?」と、同僚をとがめる。
つまり、「ネガ・フィルムに映ったものは犯罪に関連あるもの」であり、同じものを若い刑事が鏡の中で目撃した以上、「鏡に映るもの」も犯罪性を帯びてしまう。この映画の中だけのルールとして。
そして、若い刑事は老刑事が乱暴を働いているのを「とんでもない行為」と受けとめねばならない。だったら、鏡の中で行為を目撃させればいい。「ネガ」→「鏡」の連想を、「鏡」→「ネガ」と逆流させればいい。

果たして、老刑事が過去に何をしていたのか、最後になって「写真」として出てきます。フィルムや鏡に映ったものは、この映画の世界では犯罪性を帯びてしまう……。
結局、僕らが映画の中で目にしているものは、印象や象徴の連なりでしかない。映画は一方向にしか進まないので、一切は記憶であり、だからこそ映画を語るときには、鑑賞者が勝手に作り上げた文脈が必要とされる。ついつい、「お話がよかった」って感想になってしまう。
だけど、「お話」と乱暴にくくる前の印象、文脈に整理する以前に自分が何を目撃したのか、それを僕は書きとめておきたい。


たとえば、車の中で老刑事が盗聴したテープを聞いている。それは被害者と犯人との会話だ。老刑事は、電話番号をメモして、若い刑事に見せる。「あの宿の番号だ」とセリフで確認する。犯人と犯行現場が明らかになる。そのシーンで、車の窓に少しずつ雨粒が当たりはじめる。
雨は次第に強くなり、2人の刑事が宿に乗り込むシーンでは、土砂降りの大雨になっている――伏線の回収だけが、ドラマではない。どんどん強くなっていく雨を使って、状況の変化をドラマチックに演出している。あまりにストレートで、それゆえに強力な演出だ。
観客にルールを手渡しておいて、どこかでルールを破るような図太さが、この映画にはある。

「これが映画の見方だ」って決めてしまうと、いずれつまらなくなる。予想以外の異物を受け止めるバッファが乏しくなる。

(C) ATIPICA FILMS (C) SACROMONTE (C) ATRESMEDIA CINE

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2017年7月22日 (土)

■0722■

アニメ業界ウォッチング第34回:カップヌードルがCMで「魔女の宅急便」をアニメ化した理由
T640_733123一部で、「あの人気アニメを剽窃・改悪している」との批判もありましたが、一本のアニメーションとしてのクオリティを評価すべきと思い、日清食品さんに取材を申し込みました。
制作現場を取材しようとすると、日清さんの管轄ではなくなってしまうようで、何度か交渉した後、宣伝の方から包括的な話を聞くことになりました。


丸一日以上が経過してしまいましたが、阿佐ヶ谷ロフトAでのトークイベント『社会は如何にしてプラモの金型に彫りこまれた美少女のパンツを見つめてきたか』に来てくださった皆さん、どうもありがとうございました。心配していましたが、ほぼ店内が埋まるぐらい、満席に近いほどの入りでした。
Dfku37zuqaab2k7_1_2第一部は、司会の有田シュンさん、永山薫さん、桑田聡さん、さらに飛び入りでマックスファクトリーの高久裕輝さんが登壇してくださいました。ワンダーフェスティバルで発売されるプラキット“minimum factory 霞 C2ver.”のランナー、原型ともなったPVC商品をお題に、プラモデルとしてオッパイが成形される愉悦について語りました。
第二部は、有田さんと永山さんに加えて、田中圭一さん、山田太郎さんが登壇。テーマは一気に表現規制へ。民間企業や警察によるフィギュアへの規制から、漫画での表現自粛、声かけ写真展への批判まで話題が広がりました。


イベントが終わった直後、僕の著書『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を買ってくださった皆さんが、サインを求める小さな列をつくり(下手な字しか書けなくてかみません)、ちょっとした意見交換もできました。
お客さんと話していて印象的だったのは、「表現規制の話を聞きたくて来たけど、前半のプラモデルの話が予想外に面白かった」、逆に「フィギュアの話を目当てに来たけど、後半の表現規制の話題に興味をもった」、両サイドが、ほんのちょっとかも知れないけど、重なってくれたこと。
面白いこと、趣味のこと、エンタメって、つねに実社会から批判される可能性があって、プラモデルやフィギュアとて例外ではない。なのに、ホビー業界・模型業界の中で表現規制に関心があって行動する人が、皆無に等しい。主体的に社会に関わっていかないと、仲間内だけで閉塞した幼稚な趣味だと見なされ、市民権を得られないのではないか。
……こうして文字にしてしまうと、ミもフタもない単純な話ですけどね。ネットの中で思いついた言葉を散発させるだけでは、あまりに脆弱だと思うのですよ。

っていうのは、SNSによって自分たちの部屋が、すべて丸見えになる世界を僕らは生きていて、もう後戻りできないからです。
匿名のSNSで建設的な議論や対策を望むのは、それこそ子供じみた楽観論、無責任な甘えであって、直接対話を前提とした「場」をつくる段階に来ているのですよ。オープンかつフェアな「場」で、理性的なスタンスを保てる人が必要なんです。


今回のトーク企画は、『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を企画した栗田歴さんの「廣田さんの次の著書につながるような、社会と表現とのかかわりに言及する横断的なイベントにしたい」要望から、ゲストが決定されていきました。
Kimg0205(写真右が、栗田さん)つい最近、長女が生まれたことが、彼自身の携わるアイドル系・グラビア系の“セクシャルな”仕事を見つめなおす契機になったそうです。山田太郎さんや田中圭一さん、田中さんを紹介してくださった永山薫さんが登壇してくれることになったのは、栗田さんがイベントの方向性を決定づけたからです。
そして、写真左が、元モデルグラフィックス副編集長の高久裕輝さん。正直にいうと、高久さんこそが表現規制を絡めたイベントを嫌がって敬遠すると思っていただけに、時間をやりくりして猛烈な勢いで駆けつけてくれて、嬉しかったです。
その高久さんは、表現規制に対して活動してきた山田太郎さんを最も高く評価していました。

2人とも、僕に容赦のないダメ出しをしてきた敏腕編集者だけに、上の写真は夢のような組み合わせです。「ディレクターは2人いらない」が僕の持論で、年齢も近くて仕事に誠実で野心旺盛な2人はソリが合わないのではないかと思いましたが、僕のついていけない尖った話を仲良く交わしていたので、安心しました。
表現とか文化の強度、社会への訴求力や信頼性って、少なくともクソリプの洪水の中からは生まれてこないですよ。

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2017年7月19日 (水)

■0719■

ホビー業界インサイド第25回:タミヤ プラモデルファクトリー 新橋店から見える“模型趣味の現在形”
T640_732597この連載では、ホビーの定義を食玩や個人の手づくり作品にまで広げていますが、根本にはプラモデル、それもスケールモデルが位置しています。
なので、タミヤさんには触れておきたいと思い、店舗でのイベントに参加したおり、取材をお願いしました。


レンタルで観た映画は、インド映画『PK』と、黒澤明『野良犬』。
どちらも、頭に入らなかった……。


明日20日の20時から、阿佐ヶ谷ロフトAにて、『社会は如何にしてプラモの金型に彫りこまれた美少女のパンツを見つめてきたか』開催です(詳細→
Denatd4uqaaiz7k
少年ジャンプ連載の『ゆらぎ荘の幽奈さん』のカラー口絵について、Twitterで批判され、女優の春名風花さんが『幽奈さん』を擁護して、同性からひどい言葉を投げつけられ……というやりとりを見てきました。
世の中には、いろんな人がいるし、誰もがストレスなく楽しく生きられる社会を目指さなくては、と思いました。エロ表現を批判している人たちをボコって沈黙させれば問題解決とか、そういう話ではありません。批判するのも、自由のうちなので。


それ以前に、僕らはどういう世界に生かされてきたのだろう?と、ふと立ち止まってしまう。
たとえば、学級会で話しあって、児童たちが決まりをつくったとする。だけど先生が気に入らないと、せっかくの話し合いの結果がナシにされてしまう。小学校のころ、何度かあった。
中学校のころ、教室内で財布か何かがなくなった。誰が盗ったのか分からない。どういうわけか、クラス全員が居残りさせられて、固い床に正座させられた。そのとき、教師が何と言ったか。「みんな、つらいか? 先生だって、つらいんだぞ!」 ウソつけよ。お前は正座なんてしてないだろうが。
さんざん、大人、権威者がウソをついてきた。子供はバカじゃないから、「先生の言ってること、おかしいぞ」って思うよね。だけど、教師ってのは存在自体が権力だから。殴られたし、「バカ」「キチガイ」「死ね」とか、教師から普通に言われていたよね?
だけど親への影響力も絶大だから、逆らえない。

まだ10歳にもならないころから、大人の理不尽な強制力が融通無碍に作用する空間に閉じこめられて、話し合いの結果も、誰かの犯した罪も、すべてひとりの大人が軽さと重さを決めて、そんな環境で無力感を植えつけられないわけないでしょ?
夏休みだって、午前中いっぱいかけても処理できない量の宿題が出される。そんなブラックな労働を課せられたのに、大人になってから「夏休みの宿題を、8月31日に片づけるタイプ(笑)」とか、自嘲的なギャグにしてしまう。「教師や学校を責めても勝てないから、自分が不甲斐ない」という、当たり障りのない落としどころに安住してしまう。

大人になってからの様々な諍い、批判や論争の根底に、「権力に逆らっても無駄」という諦めがある。


だから、日本人は妬みっぽい。「ズルして儲けてるヤツがいる」って話にだけ、やけに敏感。とにかく、権力には逆らわず、現状維持。現状に不満を感じたら、「誰かがズルしてる」と疑いだす。在日外国人が、パヨクがネトウヨが、クソフェミが……って、ようは「誰かがズルしてる」「それで私が損してる」幼稚な陰謀論でしかないでしょ? 自分の努力を、自尊心を取りもどす努力を放棄してますよね?
自尊心を損なわれたまま大人になったくせに「私は一人前だ」なんて思い込んでいるから、過剰に他人に対して威圧的になるんですよ。マウンティングしないと不安なんですよ。

僕はこのブログで、「この人は誰と戦ってるんだろう?」と笑われてきたけど、戦うべき相手を直視できない臆病者は、嘲笑・冷笑に逃避するんですよ。
表現規制とか、表現の自由以前に、「自分に自信がないから、他人に嫉妬しやすく攻撃的になる」性癖を克服しなければ、人の世に未来はない。

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2017年7月15日 (土)

■0715■

EX大衆 8月号 15日発売
81ckvuznd2l●俺たちの『BOYS BE…』再検証
90年代初頭に流行った漫画『BOYS BE…』のミニ特集、後半の前田尋之さんと山本寛監督のインタビューを構成しました。聞き手は、『私の優しくない先輩』の大ファンだという担当編集です。

『BOYS BE…』に関連して、前田尋之さんには恋愛シミュレーション・ゲームと、ラブコメ漫画について。
山本監督にはアニメの中での恋愛シーンや美少女キャラの描かれ方、消費のされ方についてうかがいました。


レンタルで、ヒッチコック監督の『めまい』。『北北西に進路をとれ』の前年の作品で、やはりサスペンスとラブロマンスに溢れた、とても贅沢な作品。時がたつのを忘れるぐらい、没入した。
Vertigo_3映画の前半と後半が、鏡を合わせたように対照する、不思議な構成。
前半ではジェームズ・ステュアートの演じる元刑事のスコティが、キム・ノヴァク演じる謎めいた人妻・マデリンを尾行するよう、友人に頼まれる。マデリンは精神を病んでおり、スコティは果敢にも彼女の命を助ける。

二人は恋に落ちるが、情緒不安定なマデリンは自殺してしまう。やがて、彼女とそっくりなジュディという女性がスコティの前に現れると、今度はスコティが偏執的な愛情をジュディに注ぎはじめる。
その結果、ジュディは死んだはずのマデリンと髪も服も、まったく同じ容貌となり、映画の舞台もマデリンの死の現場へ近づいていく。時間が逆転していくかのような酩酊感を支えているは、厳格なまでに計算された衣装デザインであり、メイクであり、美術であり、そして、そっくり同じ場所でまったく同じように繰り返されるカメラワークである。


後味の悪い映画だが、最初の10分で、非常に冴えた演出を堪能できる。
刑事だったスコティは犯人を追いかけるうちに高い建物の屋根から落ちそうになり、高所恐怖症になってしまう。恐怖症を克服しようと、彼は小さな脚立を一段ずつ登る。
高いところへ登っているから、スコティの顔は煽りで撮られている。だが、煽りで撮っているのは、そんな即物的な理由からだろうか? スコティは脚立を二段目まで上がっても平気なので、自信に満ちている。
ところが、三段目まで登った彼は、焦りの表情を浮かべる。そのカットは煽りではない。俯瞰のアングルで撮られているのだ。二段目より高い三段目まで登ったのに、なぜ煽りで撮らないのか? 「煽り」「俯瞰」といったカメラアングルが、心理描写を兼ねているからだ(俯瞰で撮られた人物は、矮小に見える)。
果たして、三段目まで登って不安な表情になったスコティが真下を見ると、そこには建物の屋根から見た街路が広がっている……そう、彼が現職時代に落ちそうになった、あの建物からの眺めだ。

こういう知的な演出を見せられると、「これは最後まで観るに値する映画だ」と確信できるわけです。
そして、メイキングにはテクニカラー、ビスタヴィジョンで撮られたこの映画のネガ修復の過程も出てきます。「ここまで修復しておけば、あと200年は大丈夫」だそうで、こういうプロフェッショナルたちの仕事は、素直にリスペクトします。


「絶対に他人に見せるな死ぬぞとか国家に脅されて無理やり送りつけられ死ぬほど取扱の面倒なマイナンバーの使いみちがその辺のコンサートのチケット転売防止とかホントにばかみてーだな」(

またしても友人のツイートですが……。フリーランスの人なら、もう覚えてないぐらい、あちこちにマイナンバーをコピーして教えちゃいましたよね? しかも「これが貴方のマイナンバーであることを証明する書類もコピーして郵送しろ」なんて、もう制度の根幹をゆるがす、無限大級にアホな事態に陥っている。
だけど、「お上の決めたことに反発するのは、政治的言動である」とでも思っているのか、だんまりを決めこんだお利口さんが多いよね。結局、大きなものに立ち向かえるかどうか、嫌なことを嫌と言えるかどうかは、性格の問題です。

弱いからこそ、勇気が必要なんだ。勇気がなければ、人生は楽しめない。

(C) 1958 Alfred J. Hitchcock Productions, Inc & Paramount Pictures Corporation. All Rights Reserved.

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2017年7月13日 (木)

■0713■

ダイアクロンワールドガイド 15日発売
10470430a●奥出信行さんインタビュー構成
元タカラ社長の奥出信行さんのインタビューのみ、構成しました。聞き手は五十嵐浩司さんです。

プラモデル関連の取材は増えてきたのですが、玩具関連は「フィギュア王」にレギュラーで書いていたとき以来です。
この三ヶ月は途切れなく取材が続いていて、いつ何が発売されるのか、だんだん把握できなくなってきました。
明日も明後日も、取材です。


トークイベント『社会は如何にしてプラモの金型に彫りこまれた美少女のパンツを見つめてきたか』()の開催まで、一週間となりました。
・田中圭一さん(漫画家)
・永山薫さん(漫画評論家)
・山田太郎さん(前参議院議員)
・桑田聡さん(月刊モデルグラフィックス編集部)
・有田シュンさん(『アウトサイダー・プラモデル・アート 青島文化教材社の異常な想像力』著者)
これだけのメンツが揃う機会は、今後ないと思います。チケット予約をおすすめましす。

で、このイベントの告知ツイートには、リプライを無視しないスタンスでいたんです。
だけど、ちょっと受け答えしたら、「クソフェミ」「ブサヨ」が表現規制しているといった内容の返信が来たので、やむなくブロックさせていただきました。以前、その手の汚いネットスラングを山のように駆使した不毛な議論を前に、うんざりしたことを思い出しました。
自分と対立する意見をもった相手を、呼び方によって汚らしく見せてバイアスをかけようなんて、ガキの喧嘩ですか。「規制派」「規制反対派」という、対立を招く呼び分けも好きじゃない。後者が「表現の自由戦士」と揶揄されるのも、分かるような気がしますね。


“差別意識、つーのは社会的な通念や倫理観の外側にあるんじゃなくて、予め内包されている。そう思えば「差別は良くない。ま、自分は大丈夫だがな」とは言えない。”(
友人のべっちん氏のツイートだけど、その通りだと思う。みんな、自分を疑うことを知らない。

僕は、田中圭一先生が原案の『コップのカドでグリ美ちゃん』の販売自粛をコンビニとゲーセンに求めたけど、20日のイベントでは田中先生の言いぶんもお聞きしたい。「あいつは敵だから距離をおく」「出入り禁止だ」とか、そういうことは考えません。
「なぜ、廣田は自粛を求めたりしたんだ」とご本人から責められるのであれば、その場で考えましょう。過ちであれば、認めましょう。だって、僕の中に「嫌いな表現を規制したい」欲望がないとは言い切れないでしょ?
そういうスタンスだから、「規制派」とは戦って、「反規制派」と共闘する勢力争いごっこに参加するつもりはないです。嫌いな人の意見の中にも、「くやしいけど、この点については正しいな」と思うこともあります。是々非々でいいじゃないですか。


だって、表現・言論の自由を維持するには、自分の嫌いな相手の自由も尊重せねばなりませんよね。どちらか一方の意見が封殺され、相手の発言の場が奪われるようなら、それは自由な状態とは言えませんよね?

相手に「クソフェミ」や「ブサヨ」、あるいは「BBA」などのあだ名をつけて人格を無視することは、互いに公平に意見を戦わせることのできない窮屈で不自由なディストピアへの第一歩です。
女性が男性を嘲りたいときに使う「金玉」「チンコ」も同様です。どうしてみんなして互いに根絶やしにするような殺伐とした状況を好むのか、僕にはさっぱり分かりません。
だから、どんな結論が出るのか予想できないトークイベントを開催したいと思うのです。

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2017年7月11日 (火)

■0711■

【懐かしアニメ回顧録第32回】“乗り物”から読み解く「魔女の宅急便」の面白さ
T640_73219630年近く前、片思いしていた年上の女性から「一緒に行きましょう」と誘われて観にいった映画です。
当時のジブリ作品はどんどん興行収入が下落しており、『魔女の宅急便』は起死回生の一本でした(配給が東宝ではなく東映である点も、興行筋からも期待されなかったことが伺えます)。

劇中、車に数人で乗り込んで遊びに行く『アメリカン・グラフィティ』的なリア充シーンが、何度か出てきます。そのオールディーズ的な、あるいはバブル景気的な価値観が、童話的世界に生まれたキキの強敵であるような気がしました。それでこのコラムでは「自動車こそが、キキにとっては社会の象徴なのではないか」と、仮説を立てたのです。

すると、クライマックスの「ホウキで自動車を追い抜かす」シーンに、別の意味が加わって見えるのです。


せっかくなので、昨日観て来た『メアリと魔女の花』について。平日昼間、吉祥寺オデヲンは、三割ぐらいの入り。
640「ジブリ作品のパッチワーク」「特に『魔女の宅急便』のパクり」といった批判を目にしたのだが、ようはジブリ的なキャラクターデザイン、色づかい、少女と少年、ネコ、醜悪な魔女といったルックスのみをみんな問題にしているんだと思う。
実際には、ジブリ作品に直接類似したシーンや演出は見当たらない。宮崎駿作品の魅力だった生活のディテールへ偏愛も、メカニックへのフェティシズムも感じられない。絵柄をガラッと変えたら「ジブリ・オマージュ満載」なんて言われなかった気がするし、それだけアニメにとっては絵柄の占めるイメージが大きいんだろう。
いきなりテーマだのストーリーだの感情移入だのメッセージだの、映画の「内面」について語りはじめるより、表層のみに着目して何が悪い?と、僕は思う。


『夜明け告げるルーのうた』のとき、僕はアニメ映画というより、アニメ表現としての純度が高いという意味のことを書いた()。
『魔女の宅急便』は「劇映画」ならぬ「劇アニメ」として完成度が高かったけど、『メアリと魔女の花』は、「劇」「芝居」の枠組みが弱いような気がして、しかも、それをわざとやってるんじゃないのか?という疑念をいだいた。少なくとも米林宏昌監督、ウェルメイドなエンターテイメントには関心が薄いのではないだろうか。(過去の二作も異色作だったし)

宮崎駿風のルックスだけ漂わせておいて、「空を飛ぶ」ことへの信仰心もない、エコロジーもなければ人間の業もない、労働する女性の美しさも描かない。
ひょっとして、宮崎アニメへの返歌、宮崎アニメへの批評になってないか? だとすれば、米林監督は、次回作こそジブリ的なルックスを脱ぎ捨てると思うんですけど……うがちすぎだろうか? 独立第一作は安牌をとったんだろうし、「安牌とって何が悪い? だって皆さん、こういう絵柄が好きでしょ?」と言われているような気がした。


ところで、妹のキャラがドンピシャで好みだった『聲の形』()。
妹を目当てにもう一度見たら、けっこういいじゃん、これ。静かな音楽と入野自由の声のマッチングがいい。何より、セリフがいい。アニメっぽくない。つまり、「出てくる女の子がみんなキラキラしているので、女の子を目当てに観るアイドル物だ」って割り切ると、それ以外の部分が際立って見える。
聴覚障害者の女の子が可愛くて何が悪い、手話で会話するのはかっこいいぞと思えたしね。

(C)「メアリと魔女の花」製作委員会

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2017年7月 8日 (土)

■0708■

レンタルで、『聲の形』。劇場では観てなかったのです、ごめんなさい。
640_2だいぶ昔、あるアニメ監督から「アニメで貧困は描けない」と聞かされた。長いこと考えて「鉛筆で描いて、セルにトレスして、セルに色を塗って、何枚かの原画にさらに動画を何枚も足して……と、貧しさとか足りなさとは逆の工程を経るからですか?」と聞いたら、「イエス」との返事だった。
似た理由で、イジメも聴覚障害もアニメには向いてないテーマな気がするので、聴覚障害のヒロインが可愛らしいのはまだしも、他のキャラクターもみんなキラキラした瞳をしていてスタイルもよくて、意地悪な性格だった娘も実はいい子で……と、手持ちのカードすべてが快楽原則に回収されてしまうのは、仕方のないことだと思った。
640_1「障害をモチーフにしながら、キラキラした夢見心地の青春ファンタジーにするな」と批判するのは酷であって、実社会には可愛かろうが可愛くなかろうが、若かろうが年寄りだろうが、身近に聴覚障害者がいるのだ……と想像するのが、大人の誠実。「こんなのあり得ない」とフィクションに責任転嫁してはいけない。

いい歳になったら、「現実は過酷」であることは大前提。少年期・青年期にどれほど軽々しく美化されたフィクションを刷り込まれても、ちゃんと実社会でつまずくから、大丈夫。


さて、映画の主題とは無関係な話をすると、ヒロインの妹。姉貴の彼氏のフリをして主人公を翻弄する、この毒舌な妹に、僕は骨抜きにされてしまった。
フィクションにおいて、一人称が「オレ」「ボク」の少女には、基本的に逆らえない。『11人いる!』のフロル、『三つ目が通る』の和登さん、『銀河漂流バイファム』のシャロン。男勝りで自信満々で、ショートヘアでボーイッシュで……というキャラクターに弱い。
実写映画では数少ないような気がするが、『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』に登場する、サッカーの得意な美少年に見えて、実は少女であることを隠して生きているヒロイン、サガ。性差の境界をさまよいつつ、女であることにあらがうキャラクターが好き。

それは、お前の二次元キャバクラ的ファンタジーであって、ボーイッシュな女の子が一方的に「好み」なだけだろう?と言われたら、もちろん否定しない。
融通無碍に、際限なく理想化して描けるから、アニメやマンガは作者と読者の内面が投影されやすい。通俗エンタメとしての度合いが強ければ強いほど、キャラクターはアイドル化を求められ、万人に好まれるよう、美しく描かれる。「美しく理想化して描く」こと自体が、自己完結的に表現としての強度を有してしまう……だから、「聴覚障害の少女が、なぜか格別に可愛らしい」のは、マンガ表現・アニメ表現の宿命とも思うわけ。

ムック本『劇場アニメの新時代』の安藤雅司さんのインタビューを読んでもらいたいんだけど、「ごく普通の女の子」を描くことすら、アニメでは非常に困難なんだよ。
「そんなもの困難と思わない、どんどん可愛く描いてやれ」というだらしのない姿勢では、表現として程度が低くなりかねない。


自己嫌悪ってのは、猛毒だから……自分だけが生ぬるく甘ったるく気持ちいい状態に、なるべく疑いの目を向けていたい。外部から批判の声があることは、好ましい状態なんじゃないだろうか。
マンガは社会性を獲得できたのに、アニメはよく知られないままに叩かれがちな気がする。叩かれることより「よく知られていない」、多様な角度から見てもらえていないことのほうが危険だと思う。
「アニメなのに実写よりリアルだ」なんて、いまだにそんなくだらない誉められ方しかしてもらえないのは、何故なんだろう? たまに考えてしまう。

(C)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会

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2017年7月 7日 (金)

■0707■

月刊GoodsPress 2017年8月・9月合併号 発売中
Decpwduiaas2l6■GP FRONTLINE
バンダイから発売予定の1/72ミレニアム・ファルコンの紹介記事を書きました。
この時はバンダイに質問状を投げただけで、テストショットも何も手元にありませんでした。だけど、第一作『スター・ウォーズ』のスクリプトに当たって、ちゃんとハン・ソロのセリフを引用しました。有名なキャラクターから興味を持たせるほうが、一般誌では有効な気がしたので。

反面、今月下旬発売のモデルグラフィックス誌では、キットの開発スタッフにがっちりインタビューしてきたので、コアなところを記事にしています。


レンタルでアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』と、ベルイマンの『処女の泉』。どっちも学生時代に観ているはずなんだけど、今のほうが良さが分かる……なぜだろう? 特に、『処女の泉』の一部の隙もない構図、カットワークに目が釘付けになった。
11023_002日本でもアメリカでも、長い間、削除されたままだったというレイプ・シーン。左の画像のように、人物の後ろに木が倒れていて、画面に絶えず木の枝が入り込む。この画像では、仲良く昼食をとっているので、手前に障害物が入ることはない。ところが、男たちに行く手をはばまれた娘が、木をのりこえて逃げようとするため、その後のほとんどのカットでは、木の枝が斜めに画面を分断している。
セリフはひとつもない。印象だけでしか映画はつくれないんだと分かる。見たそばから、映画は過ぎ去っていくから。

もうひとつ、強烈なカット。娘が犯されているのを目撃した養女が、石をつかんで走ってくる。彼女は男たちを止めようとして、“カメラに向かって”猛然と走ってくる。つまり、映画を、娘が犯されているのを凝視している我々に向かって怒っているわけです。
そのカットが入るだけで、見てはならないものを見ている感じ、罪悪感が増幅する。優れた映画は、観客を共犯者にする。


「ゆらぎ荘の幽奈さん」の性表現「子どもに悪影響」だと波紋(
最初に、問題視されたカラーの画像を見たとき、「過激だな、やりすぎじゃないか」とは思った。だけど、買わないと見られない漫画誌の一部だけを切りとって「ひどい」と叩くのであれば、少年ジャンプでも成人向け漫画誌でも同じだよね。恣意的に一部だけ切りとった側が、実は卑劣ですよ。フェアじゃない。

いつものことなんだけど、告発し、批判した側が反対意見や罵詈雑言をくらうと「ほら、エッチな漫画を見て育った子供たちは、こういう大人になってしまう」と論理をすりかえる。気に食わない相手を叩き、嘲笑し、優位に立つための道具に、自分の嫌いな漫画表現を転用する。人として下劣です。
「ズリネタを擁護したいだけ」という発言も、よく目にする。オナニーは恥ずかしいもの、性欲は禁忌すべきものという前提に立っている。世の中を良くしたいのではなく、「世の中はひどい、救いがたい」と嘆いているだけだし、そのひどい世の中に便乗している。混乱と対立を煽っているだけでしょ? 性別関係なく、人として共感できないですね。


小学校一年生か二年生のとき、友だちの家で、美少女キャラが乳搾りされる漫画を見た。タイトルは思い出せないけど、家に帰ってから、「こんな感じだった」と思い出しながら、ノートに描いてみた。それが人生初の二次元コンプレックス的な体験だった。そのノートを友だちに見られてしまい、「俺が描いたんじゃないよ」と白を切ったところ、「本当はあの漫画が好きなくせに、恥ずかしいから誤魔化してる」と笑われたものだった。

漫画の内容に興奮したのは確かだけど、友だちに笑われたことのほうがショックだった。
そういう子供には、将来がないんですかね? 性犯罪者予備軍に数えられるんですかね?
「性的に乱れた漫画を見ると、子供に悪い影響が出る」という人は、子供をバカにしているし、その子供が思春期をくぐりぬけて、実社会にもまれながら大人として振舞わねばならない複雑な経路を想像できない。
果たして、僕の人生は取り返しがつかないんですかね? そんな話も、20日のイベントではテーマになると思います()。

(C) 1960 AB Svensk Filmindustri

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2017年7月 5日 (水)

■0705■

レンタルで『ヘイトフルエイト』と、ルネ・クレマン監督の『居酒屋』。
Mv5bmtk4mzmyoti0nv5bml5banbnxkftztc『居酒屋』は、さぞかし退屈するだろうと思っていたのだが、見終わったあと、深いため息が出た。
主演のマリア・シェルの、幸薄そうな笑顔には、誰もが心をつかまれるんじゃないかな……こんな美しい女優が、60年も昔にいたのか。
マリア・シェルの演じるクリーニング屋の女が、夫もふくめた3人の男からもてまくり、だけど最愛の人は去ってしまって、夫は発狂してしまう。ただそれだけなんだけど、終わってほしくない、不思議な幸福感に満ちた映画だった。


「この映画は凄いのではないか」と思ったのは、所帯をもったマリア・シェルが誕生パーティを祝うシーン。鶏の丸焼きを切り分けるのを、長回しで撮ったりしている。料理が人の手から手に渡るのを、ずっとカメラで追っていく。すると、必然的にパーティに出席した人たちの顔が映る。ワインをこぼしたり、ちょっとした描写が、とても生き生きとしている。
Mv5bmtg2ntk3mtq1ov5bml5banbnxkftz_3物語のスジだけ追うのであれば、そんなカットは要らないんです。ロングで、適当に撮っても成り立つじゃん。だけど、カメラがアクティブに動く。鶏肉を頬張るマリア・シェルの顔をアップで抜いたりしている。
ただのパーティをこんな丁寧に撮って、なんて心に余裕のある、贅沢な映画なんだろうと感嘆する。

それと、終盤ちかく、マリア・シェルの旦那が発狂するシーンで、ベッドから突き出た足が震えているのを、彼の幼い娘が見ている。娘の目線の高さで撮っている。
ラストシーンで、娘は憔悴したマリア・シェルのところへ、お菓子をもっていく。そのシーンも、ずっと子供の目線の高さで撮っている。だけど、娘が店でお菓子をもらうシーンは、大人の目線の高さから、見下ろすように撮っている。
この世界には、大人の世界と子供の世界とがあって、終盤では大人の世界が背景化して、子供の世界が広がっていく。それを、カメラの視線の高さだけで表現している。
そして、娘は同い年の子供たちの中に走っていき、カメラはその場にとどまる。つまり、僕たち大人は、子供たちに捨てられたんですよ。「何をどう撮っているか」を見れば、それが分かる。それが映画だと、僕は思う。


20日に開催するトークイベント『社会は如何にしてプラモの金型に彫りこまれた美少女のパンツを見つめてきたか』()は、漫画家の田中圭一先生の登壇も決定しました。

田中先生のデザインされた「コップのカドでグリ美ちゃん」は、何度か書いてきたように、僕は子供たちや家族連れのくるような場所では売るべきではないと思い、コンビニとゲームセンターからは撤去してもらうよう、メールしました。
「グリ美ちゃん」のようなフィギュアを根絶やしにされないためには、逃げ道を確保すべきだと思ったからです。「廣田はフィギュアを潰そうとしているぞ」と誤解されたとしても。
なので、送り手側の話も聞きたいよね、欠席裁判は建設的ではないよね……と、イベントを主催する編集者と話して、ダメモトで永山薫さんに相談してみたところ、田中先生と電話で話す段取りをつけてもらえたのです。

このイベントは、「いろいろな表現が、みんな一緒に生き残る」方法を考えることがテーマです。そのためには、僕が堂々と「好きだ」と宣言できるプラモデルとフィギュアを足がかりにするしかない。自分が好きなものを真っ先に差し出さなければ、誠実さを欠いてしまうからです。
自ら批判され嫌悪される覚悟と強さをもっていないと、趣味も娯楽も維持できないと思うのですよ。

(C) 1956 StudioCanal

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2017年7月 1日 (土)

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初画集発売直前! アニメーションクリエイター、湖川友謙から教わる“発見”の面白さ
T640_731110はじめてお会いしましたが、非常に話が弾みました。
これまでの経歴のお話も文字に起こしてあったのですが、やはり富野由悠季監督との出会いを冒頭に持ってきたほうが迫力が出るように思い、前半はバッサリと切りました。おかげで、記事の評判は上々です。
画集の宣伝の意味で一迅社さんから持ちかけられたインタビュー仕事でしたが、悩んだすえに請けて、良かったです。


『社会は如何にしてプラモの金型に彫りこまれた美少女のパンツを見つめてきたか』(
7/20(木)に、阿佐ヶ谷ロフトAにて、トークイベントを開催します。ゲストは、桑田聡(月刊モデルグラフィックス編集部)、永山薫(漫画評論家)、山田太郎(前参議院議員)……と、異色の取り合わせとなっています。
前半では、僕よりぜんぜん若い桑田さんと、最新の美少女プラモ事情について語りあい、後半では山田前議員を招いて、ここ数年のフィギュアに加えられた弾圧の歴史を振りかえりたいと思います。永山さんには、前半と後半をつなぐような立場からコメントしていただければ……。

やっぱり、模型メーカー主導で商品のプロモーションを意図したイベントでは、表現規制にまでは踏み込めないし、また踏み込むべきではないでしょう。
僕のイベントだから表現規制についても触れるけど、基本的には楽しいイベントにしたいと思っています。その「楽しいこと」「エンタメ」こそが、規制や自粛とつねに直面しているはずであって。


レンタルで、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』。後者は難解なドラマだったが、いずれも冒頭シーンのカット割がいい。
Ph_1『見知らぬ乗客』は、ポーターに荷物を運ばせた紳士の二人の紳士の足元が、カットバックする。ひとりは画面右から左へ、もうひとりは左から右へと歩く。その足元が交互に映ると、僕たちの脳は「二人は衝突する」と認識する。別々の場所で撮られたカットなのに。
果たして、二人の足元がひとつのカットに収まったとき、彼らの靴はぶつかり合う。そこまでのカットの積み重ねが、これから展開されるドラマ全体を象徴している。畳みかけるような演出で息もつかせねサスペンスを味わわせてくれる映画だけど、まず最初の数分で心をつかまれる。

『悪い奴ほどよく眠る』は逆に、冒頭の結婚式のシーンのみ良かった。
10010413_h_pc_l_2まず、花嫁が会場にあらわれると、画面を占領していた客たちがサーッと左右に分かれる。ここからして、黒澤明特有の「個と群」の美しさを描いたカットです。
カメラは、花嫁が歩くのをフォローするようにPANで追う。ところが、彼女が報道陣の前を通るとき、カメラはそこで止まり、花嫁はフレーム外へ歩いていく。
フレーム内に残された報道陣が、ちょっと歩き方の不自然な花嫁の足元を見て、ギョッとする。その表情を撮ったところで、カットは花嫁の足元をアップで映す。彼女は左右で高さの違う草履をはいていた―ー足が不自由なのだ。カットの最後で疑問を示して、次のカットで答えを出す。理解のテンポ感とでも言おうか、読み取る、了解することによって生じるリズム感が黒澤映画の醍醐味だと思う。
もうひとつ言うと、花嫁は不自由な足で先に歩くけど、報道陣はカメラワークによって「取り残される」。ここですでに「この女性は、映画の中で特異な地位を占めるんだよ」と宣言できている。カメラワークによって。カッコいいですね。
だけど、あとの二時間半は会話劇に終始して、しかも難解でした。
それでも、カット割や構図がセリフ以上に饒舌になることがあるので、黒澤映画は見逃せないのです。

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