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「雲のむこう、約束の場所」――“垂直”と“水平”が織りなす新海誠のユートピア【懐かしアニメ回顧録第57回】
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今、ほとんどの人が映画をストーリーでしか捉えられていないので、構図にテーマが組み込まれていることに気づいている人は、かなりお得な見方をしていると思う。プロによる映画評論も、質的には「ストーリー批評」の域を出ておらず、だから「ストーリーの結末」が「ネタバレ」しないように……といった閉塞状況に陥っている。
「感動した」「泣いた」なんて感想は検証しようがないけど、画面の中に垂直のものと水平のものが交差している……という話なら、第三者による再検証が可能で、そこから建設的な評価が始まるものと僕は信じている。


「NHKから国民を守る党」は話題性が高いので、ブログに書いたら何かしら反発は来るだろうな……と思ったら、ものくる(@monocuru)さんという人から書き込みがあった()。このやりとりの後、俺はTwitter上でブロックされてしまったけど、メアドとIPアドレス検索したら、数分でこの人に行き当たった。本名も教えてくれたけど、ふだん匿名の人がいきなり本名を名乗っても、何の信用にもならない。
僕の発言や活動にわずかでも説得力があるとしたら、名前・顔・職業などを継続的に明らかにしてリスクを払っているから。ものくるさんは、ブロックされる前にアカウントを見たらコスプレイヤーの撮影をしている人のようで、ようは趣味アカウントだよね。それは楽しみでやってる活動だろうから、別に責めないし追求もしないよ。だけど匿名で趣味の活動しか公開してないってことは、それだけ発言の信用度も低く見られる。まして、僕はものくるさんを初めて認識するのに、相手は挨拶も自己紹介も一切ナシだしね。

ものくるさんは「僕自身匿名であってもそういったリプはダメージになります。ましてや廣田さんは実名でリスクを負いながら意見を発信されているのですから」と理解を示した風の書き込みをしているけど、名前と収入が直結している人の立場を、そんなにも簡単に分かったフリをして、飽くまで対等に立とうとするから、さらに信用を失うんだよ。
立場の違う相手に「ハイハイ、分かってますよ」「あなたの気持ちは理解できますよ」などと浅はかにリアクションする弊害のほうが、僕はものくるさんの言う「正しい意見を黙らせようとする」ことなんかより、根が深く傷も深いと思うよ。ここで俺が「分かってもらえて嬉しいです」なんておためごかしを言ったら、そこから後はウソをつき続けるしかなくなる。(そもそも、俺の意見が必ず正しいなんて、あなたそんな簡単に言って大丈夫なの? 俺が絶対に性犯罪者ではないと証明できるんですか? ……話の流れが見えない方は、前回記事のコメント欄を読んでください。) 


N国党の話題からはズレてしまったけど、あれほど無名でキワモノだった(今でもキワモノだと僕は思ってるけど)N国党がここまで話題になっていることのメリットは、僕ら有権者のバケの皮を剥がしてくれたことだろう。だって、2012年ごろの立花孝志代表が心を病んでいたころの発言までスクショで発掘し、「精神分裂病」と責め立ててる人までいるんだよ? どこをどう掘れば、そこまでドス黒い悪意が沸いてくるんだよ?
「N国党に投票した人に罪がある」どころか、「投票した連中の住所を公開してほしい」なんて人までいる。ユーゴスラビアのように、隣人同士が殺しあうような日が来るのかも知れない。NHKの集金人が家で大声を出したり、住民にキスしたり、子供を泣かせたりすることを見逃してきた人が、そうした蛮行に我慢できなくなった被害者たちを「晒せ」と迫る。人間は本能を理性で押さえつけているので、僕は別に驚きはしないよ。NHKが存在し、いまだ圧倒的多数の支持を受けていることが、理不尽の象徴だと思っている。NHKが『ガンダム』や『プリキュア』や『このセカ』を扱うことも含めてね。
一点の曇りなく清く正しいことなんてない。どんな事でも、少しずつ汚れている。

僕はNHKに、ウソをついてドアを開けさせる集金人、「個人情報を近所にバラす」と脅してくる集金人は何なのか、と電話や手紙で何度となく質問を繰り返した。NHKは一言も答えず、ただ「法的手段に訴える」と、脅迫めいた文面の請求書を送ってくるだけだ。
もし立花さんが消えたとしても、俺はひとりでNHKと戦う。負けつづけの自分の人生を、これ以上、屈辱と劣等感で汚したくないんだ……。

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2019年8月15日 (木)

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EX大衆 2019年9月号
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●ドラゴンクエストの文化史
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』にかこつけて、我が国のハイ・ファンタジー浸透の系譜(文学・映画・ゲーム・漫画の歴史)を、年表にまとめました。『ユア・ストーリー』自体は試写で見て、編集者と意見が分かれました。彼は怒っていたけど、僕は山崎貴監督の映画ごときに腹を立てるのは時間がもったいない、という考え方。メタ・フィクション的なラストは、『ホーリー・マウンテン』をはじめ、珍しいものではない。いろんな種類の映画を見ておけば、驚くことはない。
【プラモデガタリ】で述べてきたように、映画の進歩は1980年代前後で停止しているのだと思う。だから今、80年代にヒットした映画の続編が次々と製作されていてる。90年代以降、世界の映画が抜本的な変化を迎えられなかった証拠ではないだろうか。


NHKから国民を守る党が、有権者をバカにしたマツコ・デラックスの出待ちをしたため、一気に話題をさらってしまった。無論、否定的な意見が大多数。立花孝志党首の狙いどおりと思う。
「国会議員は仕事しろ」という方、あなたの投票した議員は毎月いくら貰って、今日何をしているのだろう? 答えられないと思う。立花議員は、赤裸々にYouTubeで公開している。議員報酬、YouTubeの広告収入、誰にいくら払った、今度はこれに金を使う……など。
国会議員は議会で難しいことを言うか、あとは居眠りしているだけ……というイメージの人が多いのではないだろうか。N国党は政見放送も「ふざけている」と叩かれたが、真面目に難しいことを淡々と喋るのが政見放送だ、難解なのが政治家の仕事だという思い込みがある。どうも皆さん、政治を自分の生活と遠くに置いて、なるべく関わり合いを持ちたくないようだ。

あと、立花議員のふるまいを「狂っている」という声も多かった。
そこまで自分を正常と信じている人の多さに、僕は驚かされた。「常識からすると」「普通の感覚では」と前置きする人もいた。自分を「普通」と考える、その無責任さが恐ろしくないのだろうか。
「日本はここまで狂っているのか」と言うなら、その「日本」の中にあなた自身も含まれているだろうに、どうして高みから評論家のような欺瞞的な態度をとれるのだろう? 当事者意識不在のまま死ぬほうが、俺は恐ろしいわ。


僕は立花議員がN国党を旗揚げする何年か前から注目していたが、それは僕自身がNHKの集金人に恫喝を受けていたからだ。
集金人とのやりとりの一部始終をカメラに収め、堂々とYouTubeにアップしているのが、立花さんだった。それまでニコニコと話していたのに、相手がウソをついた途端、ガラリと口調を変えて凄むさまはヤクザそのものなのだが、何に対してどう怒って、どうすれば納得するのか、見事にスジを通していた。ケンカのしかたが抜群に上手い。警察も呼んで証人として使うし、裁判も山ほどやって、いつも勝つとは限らない。負けたときも、正直に「負けた」と話している。
ズルをして勝ったり、負けたのに勝ったフリをしても空しいだけだと彼は知り抜いている。

そして、路上で怒鳴りあうほど犬猿の仲だった相手が、病気か事故で死んだらしいとの報を聞くと、立花さんは間違っても「ザマアミロ」などとは言わない。「また俺のこと怒鳴りにきてくれよ……」と言いながら、泣きそうになっていた。演技ではなかったが、効果を考えてアップしたのだと思う。クサい演技などたちどころにバレると、彼は知っている。だから、間違えると誤魔化さずに謝る。
そうした戦略の上手さに、僕は惚れ惚れする。


いまTwitterを見たら、「N国党は自民党の別働隊」だそうで、僕は『陰陽師』に出てきた「こちらの心の動揺は 向こうの動力源となる」という言葉を想起してしまう。今になって、みんな慌てている。一週間もすれば、落ち着くところに落ち着くだろう。
N国党を「ナチスドイツのようだ」というお決まりの比喩もあれば、「オウム真理教をこえる危険な組織」と断定しているアカウントもあった。そんなに危険なんだったら、あなた自身が警察に危険性を訴えるなり、訴訟でも告発でもすればいいでしょ? なんでそんな他人事なんだろう? 「ヤバイぞ危険だぞ」って、しょせんポーズだけなんだよね? だから、いつも負けるんだよ。いつも何かのせいにして、自己実現できないままなんだよ。

期末テストの前、「直前まで教科書やノートを見ながら焦る」芝居が中学時代、よく流行っていた。
「ヤバイぞテスト赤点だぞ」って焦ったポーズをとっていないと、教室にいられない雰囲気。言うまでもないが、たかが数分間教科書を見ていたって、テストの結果なんて変わらない。だから僕は、何も机に出さずにジッとテスト開始を待っていた。すると、「余裕だねー」と、これまたお決まりの台詞が飛んでくる。「もう諦めてます」と、僕は心にもないことを言わねばならない。
ああいう芝居じみた世界は、もうご免なんだ。仕事でも「徹夜しちゃいました」、「時間がない」、コミケ前に「原稿やれ」とかさ。「不甲斐ない自分を演じる癖」が、義務教育時代から抜けておらず、その無責任な態度が政治を空疎なものにしている。

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2019年8月11日 (日)

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■J GROUND EX No.5 発売中
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フジミ模型さんのプラモデル「1/72 陸上自衛隊 99式自走155mm榴弾砲」の開発プロセスを取材し、企画~テストショットに至るまで4ページに構成しました。もちろん、素組みのキットも塗装せず、堂々とカラーページに掲載しています。イカロス出版さんの本では、「J Wings」に続いて、プラモデルを素組みする記事を掲載しました!


最近観た映画は『大脱走』(二回目)、『ジンジャーとフレッド』、『天井桟敷の人々』、『三つ数えろ』など。
しかし、コラムを書くためにNetflixでアニメを見ていたら、かなりエグいエロ動画……というか、小汚い邦画の宣伝が流れたので、ギョッとした。タイトルは『全裸監督』。なんだ、セックスだとかのぞきだとか盗聴だとか、この汚い映画だかドラマは! どうにも気になって見はじめたが最後、Netflixオリジナルドラマ『全裸監督』()全8話のトリコ仕掛けの明け暮れとなってしまった。
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村西とおる、黒木香……80年代当時は、大学の友だちが噂していた程度で、僕はAVはもうちょっと純情路線というか、秋元ともみのように純愛的なセックスを愛好する偽善者だった。セックスと笑いを組み合わせるのが、好きじゃなかった。
『全裸監督』は村西とおると黒木香が、やや異常な境遇、でもかろうじて一般人だった状態から、ちょっとずつエロの世界、AVの世界に輝かしい人生を見い出していく過程をカットバックして描き、最後は昭和天皇崩御で幕を閉じる。

ドラマとしては、かなりドタバタ。やや盛りすぎて戯画化された部分もないではないが、80年代風俗の再現は、たとえば遠景にチラリと映る東京タワーの塗装が現在と違うとか、かつて歌舞伎町で流れていた「1時間800円!」のテレクラのエンドレス宣伝に至るまで徹底している。さまざまな看板や貼り紙にあふれた町並みは一部、CGだと思う。それぐらい金はかかっている。80年代だから、『プロジェクトA子』や『新くりいむレモン』のポスターも出てくる。

僕が泣けたのは、1話かぎりで消えてしまう借金まみれのAV女優が歩く、朝の歌舞伎町。カラスまでフレームの中にピタリと収まっている。あちこちで、どんよりと頭を垂れているキャバ嬢や酔っ払い。あの泥まみれの朝の風景を、僕は肌身におぼえている。
そう、この汚れた世界の中に、僕らは自分自身を見い出す。僕らはキレイでも高尚でもない、一皮むけば下半身の奴隷である。自分のドロドロした欲望を認めたとき、僕らはこの温かく湿った世界に受け入れられ、果てしなく肯定される。


このドラマは、意図的に飯を食べるシーンを多く挿入している。ライバルのAVメーカーの社長も、いつも厚切りのステーキを食べている。
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やがて黒木香としてデビューする女子大生が訪ねてきた時、村西は「とにかく、みんなと一緒にメシを食べろ。腹ごしらえだ」と、輪の中に彼女を導く。それだけでジーンとしてしまう。
そのまま、黒木は村西に抱きとめられ、生まれて初めて解放される。すさまじいセックスが展開されるが、その背後で、村西のスタッフたちは無言で照明やカメラを手にする。彼らにとっては、生のセックスと創作は渾然一体、分けられないものになっているのだ。

また、黒木の母親役の小雪と村西役の山田孝之が顔をあわせたとき、そこには怪獣映画でゴジラとキングギドラが相まみえたかのような、強烈な熱気が立ち込める。このドラマには、役者と役者が作品を飲み込んでしまうような瞬間が、あちこちにある。それは本能と本能の対決と言っても過言ではない。
あれだけのクソみたいな自主規制で作品から抹消されたピエール瀧が、レンタルビデオ屋の店長を生き生きと演じているのも痛快だ。このドラマにはコカインではなくシャブが出てくるが全くお構いなし、まあとにかく、そんな空虚な地上波テレビ的な常識だの倫理だの踏み越えた向こうに広がる真実の戦場、真実の楽園を追い求めるドラマなのだ。
これは芸術家たちのドラマだ。死んだように人の命令だけ聞いてるテレビ屋たち、プライドばかり気にしている正義ヅラの俳優たちはすっこんでろ、そういう世界だ。


あいちトリエンナーレで、これが正しい表現だ、いや表現の自由にも限度があるなど、政治家たちも交えてくだらない論争が展開されている。
お前ら、芸術をなんか頭の上にふわふわと漂う高尚な抽象的な理想だとでも思ってるだろう? 自分の股間に聞いてみろ。もっとゲスいもの、俗悪で低俗で恥ずかしくみっともなく、他人に見られたくないもの、だけど自分は見たいもの、そのエゲつない欲望が「芸術」に最も近いように、今の僕には思える。
なので、文化人や政治家の言葉は右であれ左であれ、少しも僕の胸に響かない。表現の自由もへったくれも、人間は見たければ見てしまう、そういう救いがたい生き物だ。

『全裸監督』は、村西とおるがビニ本の世界に目覚めるシーケンスから輝きはじめる。熱烈に女優をディレクションする村西、オナニーしながら「ああ、イクイク、行きましょう!」と、彼の参謀になる男が言う。「作りたいものを作るんです!」
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この一言に、深夜の僕は震えるほど感動した。もう怖いものなんてない、そう信じられた。

日本は、本当に貧しくなった。経済的に、そして精神的に。攻撃をおそれて、過剰防衛するようになった。あらゆる表現が、自主規制状態に甘んじている。当たり障りのないノスタルジー、薄甘いヒューマニズム、笑って泣ける健全なドラマがエンターテイメントだと勘違いされている。
しかつめらしい、真面目ぶった臆病者の日本を裏側から力づくでブチ抜くような作品が出て来たことを、僕は心から祝福する。そして捨て身のセックスシーンの数々に、遠慮会釈なく勃起させていただいた。この国は、まだまだやれるはずだ。

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2019年8月 4日 (日)

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“「自分のことを最高に嫌って憎んでいる人間」が国家権力を握ったとしてもそれでもなお最低限守られるべき権利ことを「人権」と言うのです。”
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僕のイベント (上の画像は友人のべっちん氏が撮ってくれたもの)に関連して、先日の新婦人の会・国分寺支部さんから寄せられたツイート“「招待を騙ったお呼び出し」をして、行けば写真撮って、実際邪魔してもいないのに「これがノコノコイベント妨害にやってきたおばちゃんたちです」って晒す計画の釣りなんじゃないか”()……もう一度、ゆっくり反芻してみたけど、やっぱり婦人の会は妄想を動員してまで「抑圧され、傷ついているのは私たちの方」という構図をつくり上げ、僕を抑圧者に仕立て上げたい、その方が有利だし気分もいいって本能的に察知してるよねえ……。

そして、新日本婦人の会は8/1にコメントを発表していた。
“戦車掲載の絵本『はたらくくるま』増刷中止、「自衛隊展示中止」への嫌がらせと攻撃について” 

“兵庫県本部のツイートには、改憲と排外主義の極右勢力からのコメントがSNSを通して大量に送りつけられ”……いやだから、そうやって批判相手の属性を自分勝手に決めつけるから、ただの批判が歪んだ政治色を帯びて対立が激化してしまうんだと思うよ?
“顔写真の無断撮影などの事態が続いています。”……そうなの? 誰がどこで撮影したんだろうか。それで、僕も「写真を撮って~晒す計画」などと疑われてしまったのだろうか?

とにかく、自分への批判相手を一種類だと決めつけるのは、たとえばネトウヨの人たちが異なる意見をすべて「反日勢力」「在日」「特ア」と括ってラクをしているのと同じになってしまいますよ?
他にも悪手じゃないかと感ずるところ、事実無根ではないかと疑わしいところもあるんだけど、批判したら一発で僕も「改憲と排外主義の極右勢力」に組み込まれてしまうのだろう。そこが怖い。僕の中には左翼的な部分と右翼的な部分が、矛盾しながら混在していると思う。しかし、彼女らを批判した途端、「極右勢力」などと思想的に都合よく均されてしまう……。それを僕は、何よりの抑圧と感じている。きっと僕は、「極右勢力」と認定されないために、思ってもないことを口にして中立であることを強調するか、安易なネトウヨ的言動に染まるか、選択を強いられることになろう。単なるレッテル貼りのせいで。 


別に、共産党の関連団体でも安倍政権打倒でも、なんでもいい。世の中、なるべく色んな考えが共存すべきと思うから。ただ、「私にそのような印象を持つな」「私のことは、このように思え」と相手に命ずるのは、社会的に未熟な証拠だ。
(……というか、なぜ新日本婦人の会に危険さを感じるのかというと、自分たちへの反対意見をすべて攻撃と受け取る、病的なまでの潔癖さだよね。彼女たちは「自衛隊を解体しよう」と、長期的・具体的・合理的な方策を立てているわけではない。書籍や催事に自衛隊を見つけたら、即殲滅。サーチ&デストロイ。目の前から消し去って満足、という姿勢が怖い。「まだまだ自分たちも未熟かも知れない」「間違っているかも知れない」といった冷静さ、「原則はあるにはあるが、まあ今回は例外としましょう」といった余裕がない。冗談が通じない。僕の心証だけど、いつも頭に血がのぼっているネトウヨと変わらない。極右と極左は、イコールなんだろう。
潔癖で神経質で、頑迷固陋ゆえに生きづらいタイプの人たちが互助会のように集まって、おそらくは「ちょっと待ってください」と異論をはさむ人を排除してきたんではないか……という気がする。)


僕はイベントやったり商業本を出している以上、多少のリスクを抱いている。来月出る『親子で楽しむ かんたんプラモデル』()には、戦車や戦艦のプラモデルもいっぱい掲載されているので、増刷中止になると著者は赤字のままなので、困るわけです。
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悪いけどね、自分から発信せずに流れてくる情報をいいの悪いのツイートするだけの人は、気が楽でしょうよ。
僕は、本が増刷されねば赤字で、生活がかかってるんです。

それと、戦車や戦闘機や戦艦のスケールモデル全般が今後、批判のターゲットにされる可能性も十分にありえますよね? その時、模型業界はどう対応する? 僕の中に「兵器に幼稚なフェティシズムを感じること」に対する疑念も、ないではない。そういう意味では、実は新日本婦人の会の人たちの異常なまでの潔癖さ、兵器への嫌悪感は参考になるはずだ。
そのように考えねば、僕の人生は焼け野原になってしまう。

「あいちトリエンナーレ2019」についても触れたかったが、次の機会にしよう。

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2019年8月 3日 (土)

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【模型言論プラモデガタリ】第7回、「キャラクター化する自衛隊!」は、大盛況のうちに無事終了した。お客さんの数はいつもの半分程度だったが、その分、客席とのやりとりが緊密で、まさかと思うような濃い情報が飛び交って、熱いトークになった。
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この写真は、第2部から登壇していただいた編集者の吉祥寺怪人さんが、舞台袖から撮ったもの。
フジミ模型の井上聡常務の自衛隊車両への取材ぶりに、元自衛官のかざりさんが「ヘンタイ…」と呟くなど、ゲスト同士の親密さも良かった。かざりさんは賑やかしのアイドルってわけではなく、受け答えが柔軟で嘘がなく、芯のしっかりした女性だった。フェミニンな黒いブラウスで来場して、観客のために迷彩Tシャツに着替えたプロ意識もいい。とにかく、みっちりと充実した時間だった。


ただ、僕は開演前、めずらしく不安定な精神状態だった。
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自衛隊の戦車や装甲車を掲載した絵本『はじめてのはたらくくるま』に抗議して、増刷中止に追い込んだ新日本婦人の会、この団体の兵庫県本部が大丸須磨店というデパートでの自衛隊展示イベントに中止を申し入れたそうで、 阿佐ヶ谷ロフトAにも支部だか本部だかが乗り込んでくるんではないか? だったら宣伝に使ってやれ……と、「圧力かけないでくださいね」と、しつこくツイートしてみたのである。
「ドリンクを一杯おごるから、自衛隊への偏見はやめてください」とか。別に俺のツイートは削除してないから、検索して探してみて。

で、新日本婦人の会・国分寺支部から「ドリンク一杯で考えを変えるわけがない」「便乗して宣伝しないように」と返信が来て、まあそりゃあ怒られるよね。
「子供の来る大丸須磨店のお祭と、同好の趣味のイベントとは別」だそうで、ごもっとも。別に抗議も何もしないそうなので、「貴団体のお考えが分かって、よかったです」と、俺はそういう場合は礼儀は尽くすんですよ。
もし仮に、婦人の会の方たちが来場したら、もちろん約束どおりドリンクをおごって、何か文句があるなら時間をつくって話を聞くつもりではあったわけです。誰に対しても、俺はそうしてきましたよ。フィギュアを児童ポルノ呼ばわりしたGMOメディア、中学生球児たちの集団セクハラ事件のリトルシニア野球協会、あとJR東日本に痴漢防止のための防犯カメラ設置要請だとか、愛宕警察署だとか、原発事故後に基準値をこえる汚染米を販売した米屋など、ひとりで抗議に行ってきたですよ。俺は反体制的な、うざったいサヨク的な人間なのですよ。
だけど、先方も叩けば痛い生身の人間だから、お立場を考慮し、お気持ちは十分に伺う。相手も同じ人間だと思って、接してきたつもりですよ。


しかし、新日本婦人の会、20万人もの巨大組織、彼女たちの一存で本や催しが脅かされる社会環境は、少なくとも「平和」とは言いがたいわけですよね。
にもかかわらず、彼女たちのHP(本部やら支部やらが無数にあるので全容は把握しづらいけど)を読むと、必ず「平和」って書いてある。「憲法改悪反対」とか「憲法9条を守ろう」とか「子供たちのために」だとかさ。その茫洋とした主張のために、災害救助などで人々に尽くしてくれる自衛隊を悪者にしていいのだろうか?
だから僕は、「個人や企業が恐縮・萎縮するような事態は、自由や平和とは程遠い」と書いたし、「あなた方の独善ぶりには、体が震えるほどの嫌悪を感じます」と東京都本部に宛ててツイートしたら()、あっさりブロックですよ。民間企業に抗議はするくせして、外野からの批判には耳を貸さない人たちなんですよ。

かてて加えて、イベントが終わったタイミングで、国分寺支部が怒りの返信をツイートしてきた()。
“「招待を騙ったお呼び出し」をして、行けば写真撮って、実際邪魔してもいないのに「これがノコノコイベント妨害にやってきたおばちゃんたちです」って晒す計画の釣りなんじゃないか”……で、脅かされていたのは私たちですって。つくづく自分に甘い、厚顔な人たちだよねえ……。
そもそも俺は、女性の写真を撮って晒したりなんかしないよ。そうやって会ってもいない相手を「最悪の敵」と認定するから、戦争が起きるんですよ。

で、俺はイベントを邪魔されたわけではないので、「今日も暑いですねー」とか何とか、関係ない返信で交わしたんです。そこでケンカにしない。
でもね……。「この男は写真を撮って晒すような危険な相手だ、私たちが被害者だ」って、その空想ロジックを進めると、冤罪が起きかねないですよ? 表現規制反対の活動をしていた数年前も、ほとんどやりとりのない女性から「どうせ何を話しても平行線ですから」とブロックされ、後から「あの男こそ性犯罪者だ」ってツイートされたことがあって、あの時の不安感に近い。彼女たちは、とにかくまずは手近に敵をつくって、なんというか、「怒りの欲求」を満たす。「怒る」って気持ちいいんだよ。簡単に正義を手に出来るから。
いわば僕は、彼女たちの「怒る」という娯楽のネタにされたわけですね。「私たちの写真を撮って晒す計画」を立てた、ゲスいクズ男としてのイメージを付与されて。


“アベを許さない人たちって本気なのかどうなのかわかんないんだよ。アベ許グッズまとってチンドン屋したり、安倍の写真にチョビ髭の落書きしたり、なんか…楽しんでるようにしか見えないんだよな…。”
僕の好きなアカウント、「春は馬車に乗って」さんのツイート。新婦人の会の人たちも、憲法9条のTシャツ着た写真をアップしてるけど、そのTシャツは具体的にどういう効果があるの? そのTシャツで安倍政権の改憲を阻止できるんですか? アンタラ、遊びで平和憲法とか言ってるの? 遊びで絵本やイベンなどの商業活動を圧迫してるわけ?
反原発デモに参加していたころ、ズラリと並んだ機動隊員の胸に黄色い花をさしているお婆さんがいて、「アンタ何やってんの?」と首をひねった。いやいや、僕らは原発をどうにか停めたいはずでしょ? タイベックを着て廃炉作業に従事するぐらい本気じゃないの? その小さな黄色い花が、どう原発と関係あるの?
いつもそうなんですよ。コンビニから18禁本が消えて、なんでツイッターで勝利宣言してるの? あなた方、青少年への悪影響を論拠にしてなかったっけ? 18禁本の流通が減って、性犯罪が減ったんですか? 調べてすらいないでしょ? 

だから、婦人の会の人たちは安倍政権と戦ってるゴッコ、改憲阻止ゴッコ、9条を守るゴッコを楽しんでいる。権力と戦うゴッコとして出版や催しに数で圧力をかけて気持ちよくなって「私たちが正しかったー!」と勝利宣言する、そういう娯楽グループなんだよ。
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上の写真は、陸上自衛隊・小平駐屯地の納涼祭にて、装甲機動車に子供を乗せて記念写真を撮るサービス。お母さんたちが子供を連れて、行列ができるほど大人気なの。絵本をいくら重版中止にしても、まったく意味ないでしょ? だって、一般の親子連れが、本物の自衛隊車両に触れてるんだもの。
あなた方、日本の右傾化、軍国化を許さないんじゃないの? なんで、あちこちで行われている駐屯地祭を中止にしないの? ようは本気じゃないんでしょ? かわいいTシャツ作って「平和憲法を守ってます!」って政治ゴッコがやりたいだけだよね。

……それでも俺は、20万人もいる新婦人の会の人たちが何を考えているのか、理解したい。犯罪者のように扱われはしたけど、どうしてそこまで敵が必要なのか、分かりたい。ネトウヨみたいな人たちも、彼らの嫌う在日外国人もカウンター界隈も、それぞれの価値観で、心安らかに楽しく過ごせるのが良い世の中でしょ? もう、あなたも僕も、さんざん苦しんできた。もう敵は必要ないはずだ、違いますか?

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2019年7月31日 (水)

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可動美少女フィギュアの世界で“オリジナルキャラ”はどう勝負する? りゅんりゅん亭・遠那かんし氏、インタビュー!【ホビー業界インサイド第49回】
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以前から気になっていたりゅんりゅん亭さんに、取材させていただきました。プロ原型師としても活躍されている方で、その話のほうが共感することが多かったです。
ちょうど日曜日がワンフェスでしたが、僕はあの混沌とした空間が苦手なのだと、あらためて思い知りました。しかし、あの猥雑さに魂を置いている人たちもいます。同じフィギュア好きでも、いろいろな人がいます。最近は「オタクだったら、当然こう思うだろ?」「みんなこう行動するだろ?」みたいな一面化を、オタクたち自身が行っている場面が多いような気がします。


今夜は、トークイベント【模型言論プラモデガタリ】第7回()。
テーマがフィクションの中の自衛隊なので、元自衛官のタレントかざりさん、自衛隊車両のプラモデル化に積極的なフジミ模型さん、ミリタリーモデルに詳しい吉祥寺怪人さんをお招きした。モデルグラフィックス編集部も物販を行う、賑やかな場になると思う。
さて、自衛隊の雰囲気を知っておこうと、陸上自衛隊・小平駐屯地の納涼祭に初めて訪れたりした矢先、ふたつのニュースが目に入った。

●幼児向け「はたらくくるま」図鑑に戦車 不適切との指摘

●自衛隊車両の展示中止が物議 中止要請の市民団体を市議が批判

出版社やデパートに抗議したのは、いずれも「新日本婦人の会」という団体で、ウィキペディアによると会員は20万人もの大組織で、僕の家の近くにも支部がある。Twitterアカウントも支部ごとに存在し、なるべく全てフォローして主張を読もうと試みたのだが、「嫌悪を感ずる」と書いたところ、東京本部からブロックされてしまった。国分寺支部は、「圧力などかけていない」旨のツイートが来たので、丁寧に返信しておいた。
何しろ、子供向けの本に自衛隊車両がNGなら、来月刊行される僕の著書も確実にターゲットにされる。そして相手は20万人、小さなデパートへの抗議には10人で押しかけたと聞く(本人たちが具体的にどのような行動をとり、どんな要求を行ったのか明かさないので噂話を信じるしかない)。
彼女たちは戦争反対、憲法9条を守れと主張しているが、数で圧力をかけて言うことを聞かせる、そうした力まかせの交渉は好戦的とは言えないだろうか。少なくとも、僕は脅威を感じる。相手を怖れされ、萎縮させて言うことを聞かせるのであれば、それは言葉の軍事力化、言論の武力化であり、平和的解決とは程遠い。


新日本婦人の会は共産党系の組織だと仄聞したが、そこはあまり関係ない。
彼女たちも、「私たちの敵はアベ政権支持者、つまりネトウヨ、つまりキモオタ男性であり性犯罪予備軍」と短絡したがるだろう。僕も自衛隊のイベントを開催するぐらいだから「極右」扱いされていると思う。その、「ありもしない対立」「いもしない敵」を想定する考え方こそが、戦争を生む図式ではないだろうか。

ご存知の方もいると思うが、僕は2011年以降、反原発デモに多数参加してきた。官邸前行動とかいう反政府デモにも毎週通い、主催者にカンパし、デモを応援しに来てくれる共産党の候補者に投票してきた。
途中から、官邸前や永田町近辺に集まる、デモをやるという形式だけが継承され、主張する内容が反原発からどんどん変わっていって、いつの間にか「戦争する国、絶対反対」と叫ばされていた頃から、足が遠のいていった。

つまり、僕は新日本婦人の会のような反体制的な行動に、割と多く関わってきた人間だ。
しかし、今は彼女たちからネトウヨの一種のように扱われている。確かに僕は、自衛隊には愛着がある。一方で、判で押したようなネトウヨの言動(嫌韓だとか反中のような幼稚な言動、ヘイト発言)を嫌悪してもいる。それぐらいの矛盾をはらんだ、振り幅のある状態が人間なのだ、と僕は信じている。どちらかに振り切ると、そこで人間性は死ぬ。全日本婦人の会の各支部がときどきリツイートしているのは、共産党の議員の退屈な問題提起ばかりで、ヘッダー画像は必ずデモの写真。20万人もいるのに、そのパターン化が恐ろしい。


ここ2~3日、どちらかというと反体制的な個人のツイートに目を通してきた。
「差別主義者は肥溜めに落ちろ」と筆書きされた画像を、ある女性は愛用していた。差別主義者であれ性犯罪者であれキモヲタであれ何であれ、彼女は力まかせに誰かを殴りたいのだ。それぐらい、憎悪と憤怒にまみれた暴力的なツイートばかりだった。戦争反対、9条守れの人が、もはやひとりで戦争をしているような状態だった。
彼女は『風の谷のナウシカ』の僕の解釈が気に入らない、ただそれだけの理由で怒っていた。僕を敵扱いしていた。怒りをぶつけられる敵がいないと、自我を保てないほど人生が辛いのだろう。それぐらい、酷い目に遭ったのではないか。

でなければ、そこまで他人を憎悪したり、嘲笑したりはできない。
Twitterで唐突に、気に入らない相手を「お前」呼ばわりする人、どんなに頭脳明晰でも「このクソバカは」と他人蔑視をデフォルトにしている人は、間違いなく過去に癒しがたい傷を負っている。なので、反射的に怒り返してはいけない。その場で気がすんでも、毒は消えずに濃度を増す。
仮に僕がネトウヨだとして、反対してくる人がいたとしても、「このブサヨが」「どうせパヨクなんだろ?」「また共産党か」とパターン化した言動をとったら、それはもう自分ではない。
「必ず我が願いかなえたしとか 必ず調伏せむなどと力(りき)こめるのは かえって危険なのだ」「可でもなく不可でもなければ たとえ周囲でどのような事象が起ろうとも 我が身は風のように自由でいられる」――岡野玲子『陰陽師』より

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2019年7月24日 (水)

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モデルグラフィックス 2019年 09 月号 明日発売
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●組まず語り症候群 第81夜
今回のお題は、バンダイ製のデス・スターⅡのキットです。
また、新刊『親子で楽しむ かんたんプラモデル』()の情報も掲載。


最近観た映画は、ジョン・カサヴェテス監督の『こわれゆく女』。
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しかし、僕のつたない感想なんかより、こちらのレビューが勉強になる。⇒ジョン・カサヴェテス「こわれゆく女」の往復運動(
俳優の動きを、カメラがどうフレームに収めるか? そこにこそ、映画のテーマが込められている。映画を「ストーリー」としか思っていない人には、カメラの動きなど見えていない。「ストーリー」以前に、俳優とカメラをどう関係させるかという「構造」がある。上のレビューを読んで、僕はようやく仲間に出会えた気がしている。

ジーナ・ローランズが、3人の子供を抱える、情緒不安定な主婦を演じている。
最初は感情表現がユニーク、ちょっとオーバーな仕草の面白い女性だ……程度にしか思わない。ジーナが明らかにおかしな人、という演じ方をしていないところが凄いし、怖い。
たとえば、3人の子供たちが学校からバスで帰宅してくる。ジーナは道路に立って、飛び跳ねて喜ぶ。それを望遠で撮っている。バスが映っていないと、道路で奇声を発しているように見える。バスが到着して、降りてきた子供たちとジーナを、カメラが同じフレームに捉える。子供たちがジーナに駆け寄るので、見ているこちらは「別に異常な母親ではないのだな」と、ホッとさせられる。そうした際どい体験の連続が、この映画である。
それほどまでに、カサヴェテスの撮り方には作為がない。黒澤明やヒッチコックのような、ありありとした高度な意図が、カサヴェテスの即興のような撮り方からは感じられない。


あまりに様式的に完成しすぎたヒッチコックの構図やカッティングを研究していたトリュフォーは、『ピアニストを撃て』のような支離滅裂、まるで素人のようなデタラメな映画を撮った。この事実を覚えておくだけで、事物への理解は飛躍的に高まるはずだ。
先週、若い編集者と飲みながら、映画を特集する企画について意見交換した。彼は、ヒッチコックを愛好していた監督は、すべからくヒッチコックそっくりの映画を撮るものと前提して話していた。そこに、ここ数年の映画をめぐる言論の逼塞がある。
『スター・ウォーズ』で育った監督は、みんな『スター・ウォーズ』を撮るのが夢……その短絡に、クリエイター自身が埋没しているのが、僕には怖い。

かつて『トップガン』がヒットしたから、また同じ俳優で『トップガン』を撮れば、同じ観客が来て同じようにヒットする……それはもう、自由な表現ではない。


参議院選挙では、完全にキワモノとして受けを狙った「NHKから国民を守る党」が一議席を獲得して、NHKの集金人から恫喝を繰り返されていた僕としては、痛快極まりない。
しかし、「選挙や政治は真面目にやるべき」という人の多さには驚かされた。「若者は選挙に行きましょう」と居丈高に呼びかける人は、たいてい「真面目にやるべき」派。
はじめて政治に興味が出て、N国党に投票したとツイートする若者に「次からは、自分の頭で考えてね」「次からは、れいわ新撰組か共産党に入れましょうね」と呼びかける人たちが結構な数いた。個人の自由な思考と選択をナチュラルに奪う罪なき庶民のほうが、僕には現政権より、よほど恐ろしい。

人は、誰かを従わせて、誰かの意志をくじけさせて、自分の思い通りにしたがるもの。
それを忘れてはならない。僕だって貴方だって、誰だって抑圧者になり得る。アベ政権だけが抑圧者だと言いたいだろうが、山本太郎だってN国党の立花孝志代表だって、みんな抑圧者になり得る。そう、表現の自由を守るはずの山田太郎さんだって、僕の発言を遮って自説を述べつづけたことがある。
自分の信じる政治家だけは例外……と考えることが、全体主義の始まりだ。僕も貴方も、無知で傲慢な愚民なのだ。


来週、毎月開催しているイベントで「自衛隊」をテーマにするけど ()、もうハッキリと嫌悪を示す人がいて、驚いている。兵器が目の前からなくなれば、戦争も起きないと信じている人たちがいる。欧州であれ南米であれ僕が旅してきた国、すべてに軍隊があった。スウェーデンの戦争博物館は、戦車や戦闘機のプラモデルを大量に並べて販売していた。
僕の支持するN国党の代表、党員、ちょっとずつ兵器好きだったり靖国神社に参拝していたりして「えっ……?」とは思うのだが、そういうものだと思って、噛んで含めるしかない。曇りのない宝石など、この世にないのだ。誰もが少しずつ汚れているから、誰もがバカで愚かだから、だから助け合うのだ。

痛ましい事件がおきるたび、犯人(ではなく容疑者なのだが)は「死刑では足りないから、生かしながら苦しめろ」と主張する人たちがいる。誰もが抑圧者になる得る。人は人を殺し得る、犯し得る。その事実を、まずは受け入れねばならない。

(C)1974 Faces International Films,Inc.

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2019年7月21日 (日)

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GEOでレンタルしてきた『わが谷は緑なりき』。大学の授業でウトウトしながら見たはずだが、それは『怒りの葡萄』であった。
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しかし、いずれの作品も『駅馬車』のジョン・フォード監督作である。1941年にして、非常に高度な撮影だ。幾重にも重なった煙は、実際には黒や灰色ではなく、モノクロフィルムで映えるような色を選んだのではないだろうか(赤をモノクロで撮ると血には見えないと『サイコ』のメイキングで言っていた)。逆光の中、雨だけがシャープに撮れているのは、照明効果のおかげなのだろうか?
僕はやはり、モノクロ映画時代に映画という表現形式が、技術的に完成したと認識せざるを得ない。ここ2~3年の、僕の新しい発見だ。


終盤近く、「あっ」と声が出そうになったシーンがある。
舞台である炭鉱町で事故が起きる。主人公の少年は、大人たちと一緒に地下の坑道へ降りて、父の姿を探す(坑道のセットも、素晴らしくよく出来ている)。しかし、大怪我をした父は息絶えてしまう。
カットが変わると、女たちが男たちの帰りを待っている。エレベーターの滑車が回り、男たちが坑道から上がってくる。一段目のエレベーターには疲弊した男たちがガックリと肩を落として、座り込んでいる。エレベーターのメカニカルなディテール。まるで絵画のように、ピタリと静止した男たち。
続いて、エレベーターの二段目がフレームにINする。そこには、父の亡骸を抱いた少年が座っている。彼の兄が、両手を広げて二人を見下ろしている。やはり、彼らは微動だにしない。ただ下から上へ移動するだけのエレベーターの単調な動きが、本来なら動いて感情表現するはずの人間たちの凝固したポーズを、異様に浮かび上がらせる。その方が、理不尽な悲しみの大きさが伝わってくるのだ。

こんな高度な演出が、今の映画にあるのだろうか? 時が一方向に進むと思ったら大間違いで、僕には40~50年代の映画のほうが刺激的だ。


本日は、参議院選挙日。
山田太郎さんも立候補しておられるので、昨日はたくさんのツイートが回ってきた。2014年、GMOメディアのブログにフィギュアを載せていた方たちが「児童ポルノを掲載している」として強制削除された件で、僕は抗議署名を集めた()。その際、国会議員だった山田太郎さんの秘書さん(AFEE:エンターテイメント表現の自由の会の坂井崇俊代表)から連絡があり、「一緒に抗議に行きましょう」と打診された。国会議員が一企業に抗議に行くと威圧感があるので、個人と同行したほうが都合がいいとの理由だった。僕は電話でアポをとるのが苦手なので、渡りに船と坂井さんにお願いした。
なので、僕と山田さん、坂井さんが一緒にGMOメディアに抗議に行ったのは間違いない。しかし、僕はこの日まで山田さんとも坂井さんとも会ったことがなく、署名は誰にも相談せず、ひとりで集めた。

昨日、山田さんの支援者の方が署名を「提出抗議してくれたのが山田太郎氏」として、記事のリンクを貼ってツイートしてらした。
しかも、削除されたフィギュアは「児童ポルノ」ではなく「猥褻物」にされたと書かれており、一千以上もRTされただけでなく、「Amazonでアダルト物とされていたフィギュアが一般向けに訂正されたのも山田さんの功績だったのか」といった意味の、明らかな事実誤認の返信までつけられていた。
さすがにこれは看過できないので、訂正のツイートを僕から行った。当時撮られた写真も、AFEEのアカウントに残っていた。その写真で署名簿を手渡しているのは坂井さんであって、僕はいちばん後ろで手を添えている程度だ(画像引用元)。
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繰り返すが、僕はこの日まで山田さんとも坂井さんとも会ったことがなく、署名は誰にも相談せず、ひとりで集めた。というか、僕はいつでもそうしている。


上の画像がネット配信で流れたとき、「その後ろにいる人は何なの?」と、視聴者からコメントされた。
「あれっ、そうなっちゃうのか」と思ったよ。僕は無名のライター、もう一方は国会議員。山田さんが僕をないがしろにしたことは多分ないけど、周囲からは「あれは山田さんの功績」として定着してしまう。意図的に、「山田さん当選のため、この無名ライターには我慢してもらおう」と支援者の人たちが考えるのも無理はない。まあ、大変無礼な話ではあるが。
だけど、この抗議署名で僕を評価してくれた人たちは「フィギュア趣味の当事者である個人が声をあげたことが大きい」と言ってくださった。その「名もない個人が声を上げた」という部分は、政治文脈では邪魔なんだと思う(念のため言うと、山田さんご自身が僕を邪魔と思っているわけではない……と思うが、支援者が都合よく解釈してしまうことは今回、非常によく分かった)。

当該ツイートは削除され、ご本人は「事実を書いただけだが、選挙日になったので削除した」といったツイートしてらしたが、そのツイートも今では無くなっている。
「表現規制反対」というと、いつも同じメンバーが顔を揃える。僕もイベントで皆さんに出演していただいたし、僕のほうがゲストやインタビューで呼ばれることもあった。しかし、新しい人、それこそ「無名の個人」がいつまでも出てこないことに、閉塞感をおぼえる。
一極集中させず、個人それぞれが自分の趣味や仕事の領域で、自尊心のために戦う……それが、僕の理想だ。普段から大声で「表現規制に反対します」なんて言わなくても、自分の領域が侵犯されたら、勇気と誇りをもって戦う。そのために頑健な自尊心を育むことが何より大事なはずで、政治家に「何とかしてください」では世界は変わらない。
なので僕は、徒手空拳でどこまで何がやれるのか、試してみたい。今回のように、自分の行動を「なかったこと」にされないためにも。

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2019年7月15日 (月)

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「イデオン」のメカニック・デザイナー、樋口雄一さんが教える“敵をつくらず生きる自由放埓な創作人生”【アニメ業界ウォッチング第56回】
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毎月開催している【模型言論プラモデガタリ】のゲストとしてお呼びして、その前に個展に挨拶に行って……と、三度しかお会いしていないのに、樋口さんの磊落な性格のおかげで、気安く海外旅行の話などもできました。


『ぼくらの七日間戦争』を見た翌日、戦車と廃墟と立てこもりなら『うる星やつら2 ビューテイフル・ドリーマー』だろう、と思ってAmazonプライムでレンタルした。高校時代に「フィルムコミックを読みながらドラマ編LPを聴く」という変な視聴体験をして、大学に入ってから1回、卒業してから1回見ていると思う。
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「ロマンアルバム イノセンス押井守の世界」によれば、この映画は、前作『うる星やつら オンリー・ユー』を「ただのテレビのでかいもの」と反省した押井守監督が、映画らしさを求めてリベンジした作品のはずだ。
「テレビのでかいもの」という表現にはピンとくるものがある。定番のギャグや観客が見慣れているシチュエーションをくまなく入れて、涙あり笑いありに仕立てれば、たいていの観客は満足してしまう。
90分なり2時間なりの長さのアニメならば、すなわち映画と呼べるのだろうか? 押井監督の言う「映画」とは「実写映画」のことではないのか? 「押井守の世界」で、押井監督は『オンリー・ユー』と併映の『ションベン・ライダー』(相米慎二監督)を比較にあげて、「こんな映画をつくっていいのかというぐらい、勝手な映画」「やりたい放題やっていて、話がさっぱり分からないんだけど、映画として何か妙に面白い」と言っている。


なぜ、『ビューティフル・ドリーマー』は映画に見えるのだろうか?
即答できる人は少ないと思う。その人の中に、暫定的であれ、映画の定義が固まっている必要があるから。さらにと言うと、「映画」と「アニメ映画」の違いとは、単に「本物の俳優を撮っている」「絵で描いてある」程度のものなのだろうか?

『ビューティフル・ドリーマー』 を見ていて、まず気がつくのはOFFゼリフの多さだ。画面外からのセリフが、かなり多い。
わけても印象的なのは、友引町が廃墟となった直後、コンビニで食糧をかき集めるシーンから始まる、メガネのモノローグだ。サクラ、面堂、あたるのモノローグもある。OFFゼリフといえば、前半で温泉マークとサクラさんが会話するシーンで、カメラが2人から外れてPANし、黒闇に会話だけが聞こえるカットがある。

ことテレビアニメにおいては、絵とセリフ、音声が一致していることが多い。画面内で爆発が起きると、修飾するようにドカーンと音が入る。そうではなく、キャラクターの顔のアップにドカーンと音が入り、振り向くと煙の上がっているカットが入る……これだけで、映像の意味は膨らむ。つまり、絵の情報、音の情報をズラすだけで、その瞬間の意味は多層化する。
(押井監督も好きなゴダールの映画は、画面外から抽象的なモノローグが乱入することが多い。)


もうひとつは、長回し。これは「多い」とまでは言えないけど、諸星家での食事シーンは特筆すべきだろう。
あのカットで、食卓を囲んだキャラクターたちはみんな別々の動きをしていて、ちょくちょくセリフが入る。ロングで、全員が同じフレームに収まっている。
このカットは、OFFゼリフなんかより、かなり「映画っぽさ」の核心に触れていると思う。食事を描くには、手と口をリピートで動かせば食べているように見える。このカットでもリピートは使われているが、キャラクターが勝手に話したり独自の芝居をするところは送り描き、すなわち頭から順番に描かねばならない。

歩いたり、話したりする芝居は、セルアニメの場合、リピートが基本だ。ロトスコーピングでないかぎり、同じ動画をリピートさせて撮れば動いて見える。『ビューティフル・ドリーマー』でいえば、あたるがテレビ版第1話の鬼ごっこのシーンに戻ってしまうシーン、背景のモブが単調な同じ動きを繰り返している。リピートは省コストな技法ではあるが、セルアニメの本質ではないかと思っている。
面堂がハリアーを持ち出し、メンバーみんなで友引町の姿を目撃する衝撃的なシーンでも、あたるやラムの髪の毛はリピートで揺らめいている。同じ絵に戻っては動き、動いては戻る……つまり、僕には時間がループして見える。

「バンク・システム」を聞いたことがあると思う。ロボットの合体シーンとか汎用性の高い芝居の動画を保存しておき、別のシーンで使いまわす。
『ビューティフル・ドリーマー』 では、学園祭の準備のシーンで、同じ動画が使いまわされている。時間がループしていることを表現するのに、同じ絵を使いまわすことは理にかなっている。しかし、それはセルアニメがリピートに頼っている、という本質を種明かしすることにもなるのではないだろうか?
諸星家での食事シーンは、その本質からはみ出している。リピートの中で、キャラクターが予想外の動きをする。その「予想外」の部分が「映画的」なのかも知れない。なぜなら、実写映画は回想シーンでもないかぎり、同じコマを二度と再び使うことはないからだ。


OFFゼリフと送り描きの両方が使われたシーンがある。面堂が、しのぶを車で送る夜道のシーン。ヘッドライトに照らされた道だけが動画で描かれ、セリフは画面外から入る。このような情報の遮断も、『ビューティフル・ドリーマー』では多く使われている。冒頭、アップだけ繋いで全景をなかなか見せないのは、その典型だろう。

しかし何より、押井監督はリピートに頼らねば日常芝居すら描けないセルアニメの構造を目の前にして、送り描きでないと描けない予想不可能な時間を作り出そうとしたのではないだろうか。つまり、アニメの癖というか、「質」を壊すことでしか、アニメは「映画」になれないと考えたのではないだろうか。
「ループする時間を抜けだす」テーマは、ループする動きを破壊しようとする作画によって、何より雄弁に語られている。
「なぜ『ビューティフル・ドリーマー』 が映画的なのか」、ストーリーをいくら吟味しても、いくら作中の謎を解き明かしても、分からないと思う。何がどう見えているのか、裸眼で見なければ。

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2019年7月14日 (日)

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Amazonプライムのレンタルで『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』、『空飛ぶゆうれい船』、『ぼくらの七日間戦争』など、31日のトークイベント()が自衛隊テーマなので、自衛隊というか自衛隊車両の出てくる映画ばかり見ている。
『サンダ対ガイラ』は大学時代、ビデオを持っている知り合いに貸してもらって観た。
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ラス・タンブリンと水野久美、ふたりの大人だけを中心にドラマが展開し、自衛隊が作戦行動するシーンだけ視点がドキュメンタリックに変化する、そのクールな構成に驚いた。大人の男女2人が怪獣を追う艶っぽいドラマが、自衛隊のシーンになると突如として分断されてしまう。この映画には、ふたつの時間が流れている。

両者を結びつけるのが、(人間によく似たルックスの)善の怪獣が悪の怪獣を追う生々しい特撮シーンだ。善の怪獣サンダは、崖から転落しそうな水野久美を助けるため、足に怪我をしてしまう。そのため、クライマックスの戦いでは片足を引きずったまま無理を押して、悪の怪獣ガイラを追う。手負いの怪獣、という異様な存在は感情移入を拒む。しかし、水野久美演じる研究員はサンダを保護すべきだと訴える。観客は、彼女の立場を支持すればいいのだろうか?
肉片が飛び散っただけで、無限に細胞分裂を繰り返すモンスターには、細菌だとか公害だとか、ようするに社会から見て“バッちいもの”、“汚いもの”が投影されている。そんな汚い怪獣に愛着を示す水野久美の役柄には、やはり理解しがたい頑なさを感じて、この映画を冷たく強固なものにしている気がした。


僕を最も戦慄させたのは、人食いの怪獣ガイラが自衛隊の攻撃に追われて、自分の生まれた海へ戻ろうとして山村を駆けるロングショットだった。
ガイラの手前には、ガイラから逃げているはずの村民たちが、ガイラと同じ方向へ走っている。逃げる怪獣と、怪獣から逃げている人々が同じ方向へ走る……そのショットには、「人々を追う怪獣」「怪獣から逃げる人々」といった、分かりやすい構図に当てはめようのない絶望感があった。
村民たちもガイラも、死の恐怖から逃れようとしている点では同レベルであり、すなわち人食いの怪獣をも上回る脅威が、この世界に存在していることになる。物語、シナリオでは語りえぬ領域を、多重露光の特撮ショットが存分に描きえていた。


『ぼくらの七日間戦争』は、一種独特のリアリティを持つ映画だった。大学時代、劇場で観て以来だ。
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「リアリティ」とは、ようするに2階から転落してケロッとして立ち上がるのか、大怪我をするのか……といった、身体レベルの話にすると分かりやすい。
中学生11人が、廃工場に立てこもる。しかし、水や食料はどうする? 途中、白いタンクトップ姿の宮沢りえが美脚を披露しながら食糧補給に来るが、だからそこで料理するほどの設備があるのか? とにかく水はどう調達している? トイレはどうしているのだろう?と、いちいち気になってしまう。
映画の後半は、工場から子供たちを追い出そうと試みる教師、機動隊との攻防戦が占める。だが、子供たちはあらゆる種類のワナをしかけて大人たちに圧勝し、鉄パイプなどで出来たワナにはまった大人たちは怪我をしている様子がない。いわば、この映画には生身の身体がない。無声映画時代のコメディに立ち返ったかのように、フィルムの中にだけ存在する現実から遊離した身体だけがある。
そう考えると、子供たちがこれといった要求もなく、自分の身体だけを人質に大人を脅かす奇妙な構図にも、なんとなく納得がいく。

ところで、戦車まで投入して廃墟を要塞化して立てこもるプロットは『うる星やつら2 ビューテル・ドリーマー』にも通じるアイデアで、その原風景は安保闘争に求められると思う。『ぼくらの七日間戦争』のラストで、子供たちはなんと「次は国会議事堂だ!」と宣言する。
そういえば、子供たちが立てこもった工場も学校も、国会議事堂とシルエットが似ている。


“私たちは「ただしさ」を渇望するあまり、「ただしさ」を与えてくれる「わかりやすくシンプルで、裏表のない悪」を求めるようになった。”
僕が「ネタバレ」という便利な言葉を嫌悪し、忌避する理由が、ここに書かれている。
ようするに、たかたが映画の感想や評価ごときにコストはかけたくない、だけど共感を得たいし否定されたくない。結果、肯定でも否定でもない「ネタバレだから言えない」「ネタバレだから言うな」といった、思考の放棄にたどり着いたのだろう。

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