2016年8月31日 (水)

■0831■

ゼーガペイン 10th ANNIVERSARY BOX 本日発売
Crgu34uukaalieh●ブックレット構成・執筆
長らく、あちこちに『ゼーガペイン』の紹介記事、取材記事を書いてきましたが、それらはすべて「書かせてくれ」と自分から提案したものばかりでした。
公式な仕事として依頼が来たのは、このBD-BOXブックレットが初めてです。なので、人物相関図を考えるだけでも、楽しかったです。

インタビューは、下田正美監督のほか、関島眞頼さん、村井さだゆきさん、久保田雅史さん、高山カツヒコさんたち脚本家チーム。
巻末掲載の最終回レイアウトでは、下田監督と山下明彦さんに、ワンカットずつ解説していただきました。
関島さんのインタビュー中には、亡くなった桶谷顕さんのお話も聞けて、作品に生かされた思い出の写真も掲載させていただきました。


こうして一次情報を発信する立場なら、「ここから先は伏せて、別の見せ方をしましょうか」「そっちは捨てて、こっちを生かしましょう」など、建設的な話し合いができ、ストレスもありません。現場でストレートに問題解決できるので、仕事のクオリティも上がります。


ただ、ここ最近、業界の内外の人から「商業本には、アニメの批評が書けない」「書いても、版権元が勝手に直してしまうので、もう書きたくない」といった話を聞きました。
まったくその通りで、著者名を出している記事、すなわち「著作」であっても、版権元が「このような書き方をするな」「こういう解釈はするな」と、赤を入れてきます。

「権利者なんだから、当然だろう」と思いますか? あなたがツイッターやブログに「このアニメ、つまらんかった」と書いたとします。レビューサイトなどに「こことここがダメでした」と書いたとします。それをアニメ会社が「最高だった、傑作だった」と書き直したとしても、「当然だろう」と納得できますか?
Aという作品をつくった監督と、A作品を「クソだ」と書いたあなたと、対等のはずなんです。著作物に、上も下もないと、僕は思います。どのような大きな作品も小さな発言も、等しく野に放たれ、風に吹かれているのです。

僕が記事の著作者であるとか、その記事のモチーフとなったアニメの権利元のほうが発言権が大きいとか、実はそういう問題ではないのかも知れません。

「たかが個人の分際で、組織にたてつくな」と言われているように、感じるのです。
「お前はフリーランス、個人にすぎないのだから、われわれ会社員の命令を聞かねばならない」「みんなが言いたいことを我慢しているのだから、自分ひとりだけ権利を主張するな」――そう言われているように感じています。

NHKの貧困女子高生叩きも、「我慢しているみんな」が、テレビに取り上げられて「優遇されている個人」を、妬んだ結果ではないでしょうか。
生活保護受給者や性犯罪被害者に対する、「黙っていろ」「権利を主張するな」圧力も同様で、「不平不満に耐えているみんな」をエネルギー源にしています。

『マンガ論争』誌の取材をうけたとき、「行動できない個人は、行動している個人を敵と見なす」と聞きました。同じ理屈で、「実名で思ったことを自由に書いている個人」を、会社組織の中で「言いたいことも言えない」ことを理由に嫉妬し、攻撃する=記名原稿に赤を入れて、思うように書かせない……だとしたら、この問題は相当ややこしい。

なぜなら、世の中の誰もが「私は、私の名において発言する権利を擁する」と、自らの誇りを獲得する以外、解決する方法がないからです。他者への嫉妬や攻撃心、自由への憎悪は、「正義」などではなく、「自尊心の欠如」から生まれているからです。

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2016年8月29日 (月)

■0828■

ホビー業界インサイド第14回:模型を作って、世界中の人々とのコミュニケーション! “模型工房ばーちゃわーるど” 亀田誠インタビュー!
Cq64jlmvmaiea5k以前から気になっていた、世界遺産のミニチュアを作ってらっしゃる「ばーちゃわーるど」さんに取材してきました。
各国の大使館に模型を寄贈したり、とんでもない数のミニチュアを作ったりしているので、グループなのかと思ったけど、ふだんはサラリーマンをなさっている個人の方でした。奥さん・娘さんと3人暮らしです。
そして、「自分の技術はたいしたことない」と認めてらっしゃるところが、何より素晴らしいです。謙虚というより、心が大きいのです。

こういう一匹狼タイプの方は、積極的に支援していきたいです。
模型に限りませんが、「あのベテランの○○さんが作ったんだから、すごいに決まっている」といった貧しい評価軸が蔓延すると、その文化は沈滞します。


土曜日夕方、友人と『シン・ゴジラ』MX4Dを鑑賞。友人は二回目、僕はラッシュ試写を入れると四回目。
僕は、映画の原理は「構図とカット割り」なので、機内上映の小さなモニターで見ても、面白さは伝わるはずだと思っています。
昨年末、ある洋画大作のファンが「ちゃんと4Dで見ないと見たことにならない」「最低限、3Dで見るべき」「2D上映でしか見てないヤツは黙っていろ」と言っていました。特殊な環境でないと面白さが分からないのであれば、その映画は「原理的につまらない」ということです。

で、果たしてMX4D『シン・ゴジラ』は、面白い体験でした。
640_1アクションシーンで座席がゆれ、水しぶきが顔にかかるなんてのは、だんだん慣れてきてしまいます。群集が逃げまどうシーンで、背中からドンと衝撃が来るのは、「なるほど」と感心しました。
キャスター付きの椅子に座った人物たちが会議しているシーンで、座席がかすかに揺れる演出には、唸らされました。まるで、自分も会議に出席しているかのような気持ちにさせられます。
(誰かが机を叩けば、ちゃんと振動が伝わります。)


しかし、何よりも驚いたのは、カメラワークと座席が連動すること。手持ちカメラの揺れにあわせて座席がガタガタ動くのはもちろん、廊下を歩く人物をドリー移動で撮ったカットでは、座席がグーンと後ろに傾く。自分が台車に乗って、眼球がカメラになったかのような感覚。
後半、解析データのモニター画面を、人物が次々とのぞきこむシーンでは、自分が彼らにのぞかれているような、異常な感覚を楽しめる。

映画を見るときは、スクリーンも座席も止まっているし、我々は静止している。その関係がキャンセルされ、カメラとの一体感を、我々は獲得していく。
だから、カメラが大きく左右にPANするカット(前半の首相官邸での会議シーン)、クレーン撮影で被写体からカメラが離れていくカット(後半、矢口とカヨコが核爆弾の話をしているシーン)では、「座席が動いていないのに、客席全体が動いている」ように錯覚する。
この錯覚は、なかなか得がたい体験だった。

その代わり、あの巧みなカットワークに対する感覚が鈍るんだわ。だから、選択肢のひとつとしては、MX4Dもあり。4Dだけでは、その映画が備えた演出に、気づかない可能性がある。「座席が動いて、すごい迫力だった」という感想になってしまう。
4Dも3Dも、「次世代の映像体験」ではありません。なぜなら、平面上のカット割りと構図という原理を覆せていないからです。ちょっとした息抜き程度に見にいくのが、ちょうど良いんでしょうね。

(C)2016 TOHO CO.,LTD.

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2016年8月27日 (土)

■0827■

モデルグラフィックス 10月号 発売中
0000000032772●組まず語り症候群
連載「組まず語り」は第46回をむかえていつも通りなのですが、「すずさん立体化計画」はショッキングだったと思います。もうネットに公式情報が出回っているので書いていいと思いますが、『この世界の片隅に』が、プラモデル化されます。
モデグラ編集部に『この世界~』宣伝の方をお招きし、「プラモデルという媒体を使って、何か展開できないか」という相談をうけました。そのときは「『艦これ』仕様のパッケージとか出てるけど、まさかね」と笑ってたんですけど、後から電話で「話を聞いてくれそうなメーカーはどこですか?」と聞かれて。
だから、僕も編集部も、ちょっとは橋渡しになれて、このタイミングで声優さんも発表されて盛り上がって、嬉しいです。

新海誠Walker 発売中
Fsfigsinwalker01●田中将賀さんインタビュー
●安藤雅司さんインタビュー
●神木隆之介が旅する新海 誠の世界
(神木さんと新海監督の対談)
こんないい仕事をさせてもらえて、本当に感謝です。安藤さんとは、『千と千尋の神隠し』のムック以来、15年ぶりにお会いしました。
『シン・ゴジラWalker』の直後だったのかな。短い期間に、高密度の取材を行い、もう即座に原稿にしないといけなくて。
物語をつくる人、絵を描く人、演じる人、みなさん凄いです。その凄さを本の中に再現するのは、不可能です。不可能だけど、やるんです。クリエイターの方は、「事実」を整然と話しているわけではありません。話す相手、話すときのコンディション(誰が同席しているか等)によって変わります。その変化を踏まえて、僕の人生を触媒にするんです。
自分が、この記事の当事者だという意識が必要だし、(関係者ではなく)読者のほうをしっかり向かないと記事はつくれません。関係者の言うことをハイハイ聞いて宣伝マンに徹していれば、仕事はいっぱいくるでしょう。だけど、誰が書いてもいいような薄っぺらな記事になってしまう。


「幸せなんて、どう終わるかじゃない、どう始めるかだぜ」「幸せなんて、何を持ってるかじゃない、何を欲しがるかだぜ」と、はっぴいえんどは歌う。
いまどういう状態であるか、何が事実で、何を知っているかなんてどうでもいい、これから何をするかが、いつだって重要なんだ。

僕は30代の後半、40歳をすぎた途端にダメになる、ウソをつきながら開き直る大人たちを見てきた。「ああはなるまい」と決意した。
果たして周囲を見渡すと、ウソをつきながら開き直っている同年輩、年上ばかりになっていた。どんなに世の中に名前が知られている人でも、どんなに安定した暮らしを送っている人でも、平気で不義理をおかす。ウソをつく。今年に入ってから、昨日も今日も、おおいに、心の奥底から失望しながら生きている。怒りよりも、諦めのほうが残酷だ。
でも一方で、好きなことだけを全身でやっている正直な人たちも確かにいて、彼らが僕を絶望させない。彼らは何が欲しいか、何が必要か、体の奥で知っている。

人間は、堕落するようにできている。怠惰に、不勉強になると、人間性まで汚れてしまう。そのメカニズムだけは鉄壁だ。
だから、抵抗するのだ。誰も見ていなくても、無人島に暮らしていても、自分に恥ずかしくない自分を目指すのだ。

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2016年8月24日 (水)

■0824■

アニメ業界ウォッチング第24回:今年75歳、やぶれかぶれのアニメ人生! 丸山正雄インタビュー!
T640_710790最初は、『この世界の片隅に』の支援のつもりで、インタビューをお願いしました。
しかし、お話を聞いているうちに大きなうねりが生じて、すっかり丸山さんのペースに乗せられ、意外性に富んだ記事になりました。
飄々としているようで、とてつもないオーラをもった方です。普通に、惰性で生きていたら、こんな魅力的な75歳にはならないでしょう。


『傷物語II 熱血篇』。月曜に予約したのだが、台風がすごいので断念(ネット予約は天変地異が起きてもキャンセル不可能)。やむなく、台風の去った火曜に再予約して、最前列で見てきた。
640トータル3,000円も払ってしまったわけだが、その価値はあった。2Dアニメの手法を借りているだけで、ヌーヴェルヴァーグに近い。ATGの映画や、ピーター・グリーナウェイのような実験精神に富んだ奇作。
それでいて、おっぱいが揺れるとか、パンティを脱ぐとか、下世話なシーンを忘れず入れて、余裕を持たせている。すさまじい暴力描写があるので、PG12指定。

雨の降っているシーンで、実写かと思うようなフォトリアルな、シズル感の強い水の表現がある。それはリアリティを志向したのではなく、他のカットとの違和感を狙っている。
人物同士が、向きあって会話している。だが、セリフの中で感情が高まると、いきなり走りながら叫んでいるような絵が入る。もちろん、カットはつながらない。つながらなくていいのだ、他の映画では絶対にやらない表現が見られるのだから。
「アニメだから、これでいいんだよね」「こういう表現をすれば、アニメとして整合性がとれるよね」といった約束事を、片っ端から破壊して、「美しければ何でもいい」衝動だけで出来たような映画。暴力描写すら、美しいんだ。

夜のシーンが多いんだけど、しっとりとした背景の美しさに陶然となる。ラスト近く、阿良々木と羽川が会話するシーンは、夕暮れの寂しい原っぱで、雑草が風に揺れている。その雑草は3DCGだと思うんだけど、おそらくトータルバランスなんて無視してるんだけど、とても綺麗。
孤高であることって、それだけで美しい。価値がある。「詩は歴史に対して垂直に立っている」という稲垣足穂の言葉があるけど、この映画にも当てはまる。孤独で、気高い映画。

(追記:70年代以降のテレビ出身のアニメ映画って、「映画」という媒体に対するコンプレックスが多かれ少なかれ、あったと思う。そのコンプレックスが、エネルギー源にもなっていた。しかし『傷物語』には、実写映画すら取り込む、利用するような不敵さを感じる。)


男性フェミニストが東京五輪PR映像のJKが性的であるとして炎上→ブログから制服JK好きを告白した部分を削除
森岡正博さんの『感じない男』と同じだね。森岡さんもたまに、「俺を興奮させる表現は、すべて禁じてくれ」と受けとれるような、素っ頓狂な発言をしている。
児童ポルノ規制法は、「一般男性が性的に興奮するもの」だけを規制しているので、被写体の児童の内心を無視して、大人が大人を罰する法律に堕してしまっている。「性的に興奮すること=汚いこと、悪いこと」。大人だったら、成熟した大人の女性にのみ、魅力を感じなさい。興奮しなさい……心の動き、情動をコントロールしたがっている人たちがいる。

こういう性癖はいけない、こういう表現は性的搾取だ……などの表層の話に明け暮れるほど、性犯罪被害者への視線がボヤけていく。社会の根底は、ドロドロと澱んだままだと思うのですよ。
女学生の制服が性的アイコンだと騒ぐ人は、池谷孝司さんのルポルタージュ『スクールセクハラ』でも読んで、己の浅はかさを思い知ってほしい。

(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

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2016年8月20日 (土)

■0820■

【懐かしアニメ回顧録第21回】「人物が何に触れていたのか」気にするとわかる、「ほしのこえ」の距離感
アキバ総研の連載です。
『ほしのこえ』の冒頭、ヒロインの美加子は、携帯電話と階段の手すり、ドアノブにしか触れていません。しかし回想シーンでは、彼女はボーイフレンドの昇の肩に触れているのです。

僕は、それが「ドラマ」だと思います。どのセリフより雄弁に、美加子が何を失ったか、物語っていると思います。
「物語」がセリフのみによって理解できるなら、それは映像作品である必要はないはずです。……が、声優の語りで「聞かせる」タイプの作品があるから、日本のアニメはいびつで面白いんです。


公開前から「見なくちゃなあ」と思いつづけていた『魔女っこ姉妹のヨヨとネネ』。すみません、今ごろレンタルで見ました。
Yoyomagicまず、作画がすごいです。「そこまでやらなくても……」という地味派手な動きを、随所で見せてくれます。
で、幼児のようなヨヨとおっとりしたお姉さん風のネネが主人公なんだろうと思っていると、実は14歳ぐらいの姿に成長したヨヨが、ほとんど出ずっぱりで活躍します。
ちょっとした事故で人間界に来てしまい、幼稚園児から14歳ぐらいに急成長したヨヨは、服が小さくなってしまう。スカートの裾がヘソの上に来て、ノースリーブの袖もビリビリに破れたようになる。さらに、靴も小さいから、脱ぎ捨ててハダシで走りはじめる。このヨヨの姿が、とってもキュート。
ヨヨ本人は「服が小さすぎる」と、魔法で歳相応の服装をまとうんだけど、ちょっとした拍子に(魔法が弱って)、ビリビリになった服に戻ってしまう! この演出は、エッチです。『キューティーハニー』に匹敵する。

本当はビリビリになっておへそが見えているような格好なのに、それを魔法で隠している、その構造がいい。隠しているのに、(本人の意志とは関係なく)うっかり露呈してしまう、その演出がいい。
僕は「いつヨヨが、もとのビリビリの衣装に戻るのか」ドキドキしながら100分間を楽しめたし、その楽しみ方を間違っているとも思わない。


もう一本、レンタルで『ロック・ユー!』。
235845view005冒頭、クイーンの「We Will Rock You」にあわせて、民衆が手を叩いている。では、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のような、カッとんだ歴史物なのかというと、そこまでは突き抜けていない。

だが、重たい鎧をまとい、木製の槍で突きあう騎馬試合のシーンは声が出るほどの迫力だ。打突力だけで相手を殺すことさえ可能な速度で突っ込むため、槍は粉々に砕けとぶ。
そのシーンは景気がよくて、何度見ても壮快だ。槍試合のシーンのためだけに見つづける気になれる。

撮影用の槍はバルサで作り、中にはパスタを詰め込んで、派手に破片が散るように工夫してあるという。音楽でいえば、僕はサビの部分を誉めているにすぎない。しかし、どこかひとつでも原理的な快楽と発見があれば、十分に嬉しい。

(C)物語環境開発/徳間書店・魔女っこ姉妹のヨヨとネネ製作委員会
SonyPictures/Photofest/ゲッティイメージズ

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2016年8月17日 (水)

■0817■

水曜納品予定の原稿を、日曜に終わらせてしまった。
時間ができたので、パスポートの申請と、マイナンバー・カードの受け取りに行ってきた。
この3日間でレンタルして見た映画は、『花よりもなほ』『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』『終戦のエンペラー』『ピープルVSジョージ・ルーカス』、後もう一本、日本映画専門チャンネルで『三大怪獣 地球最大の決戦』。

当時、すでに海外映画に出演していたボンドガール、若林映子の美しさに陶然とする。
75890565cb5cbd7734a71ba92d7a6255_l登場シーンは『幻魔大戦』、夏木陽介との別れのシーンは『ローマの休日』。金星人の意識体に憑依されていた若林が、なぜか夏木に助けられた記憶だけは覚えている。まだ何か言いたりなさそうな、切なそうな表情に、胸がキュンとなった。
中年になると、そういう場面の深みが分かってくるから嬉しい。若林の神々しい演技力、超然とした美しさのため、ラストで一気に映画の格があがってしまう。女優は、映画を救うのだ。

星由里子の、おきゃんな芝居や髪型もかわいらしい。ザ・ピーナッツの歌も聞けるし、女優的には充実した一本。


『シン・ゴジラ』は、15日夜に行われた発声可能上映が、ひとつのピークだったのか、それともまだまだ盛り上がるのか……。先週末の興収では第2位に落ちたが、ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』を抜いた。
(余談ですが、ギャレス監督なら『モンスターズ/地球外生命体』が面白い。続編の『モンスターズ/新種襲来』はギャレス監督でないので、間違えないようにレンタルして見てください。)

評論では、黒嵜想さんのものがダントツに面白かった。
【シン・ゴジラ評】ゴジラは沈黙する。
リミテッド・アニメとしての『新世紀エヴァンゲリオン』のたどった閉塞と、今回のゴジラが急に止まったり、最後に固められたりするプロットとを、製作コストからの視点も交えながら、エキサイティングに比較している。
こういう(いい意味で)ペダンチックな評論を読むのはひさしぶり……というか、作品の行間をファンが過剰な熱量で埋めていく盛り上がり方は、それこそテレビの『エヴァ』以来ではないか?という気すらする。


『シン・ゴジラ』は市川美日子が人気だが、僕が彼女について熱っぽい記事を寄せたのは、何だったかな……と調べてみたら、2010年刊行の「シネマガールズ」に書いた、三木聡監督作についての記事だった。
(市川美日子は『ダメジン』のヒロインで、元モデルらしい、しっかりした肢体が印象に残る。)

6年前の記事だが、女優中心に低予算の邦画を見ていくと、どれもこれも面白かった。
2010年は、仲 里依紗が『ゼブラーマン』と『時をかける少女』で、制服姿にサヨナラした。
谷村美月は『おにいちゃんのハナビ』と『海炭市叙景』で、はまり役である「薄幸の妹」役を、演じつくしてしまった。
夏帆にいたっては、松竹お得意の動物シリーズ『きな子〜見習い警察犬の物語〜』の主演だ。『天然コケッコー』のような、作家性と足並みそろえた演技は過去のものとなった。

その翌年が、東日本大震災。邦画と距離をおくようになったのは、そのせいもあると思う。
あと、マンガやアニメの無理やりな実写化、『○○劇場版』といったテレビドラマの映画化、前編・後編といった公開形式が増えた。そりゃ、足も遠のきますよ。
……という小さな記憶も、『シン・ゴジラ』が掘り起こしてくれた。

TM &(C)1964 TOHO CO.,LTD.

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2016年8月12日 (金)

■0812■

レンタルで、三隅研次監督の『座頭市物語』。
Zatouichimonogatari_516_20080123セリフでもそのように語られるが、座頭市は鬼気のようなものを体から発散している。「気」など撮影できないので、監督はカット割を工夫するなりしないといけない。
市はヤクザの親分の家に泊まるが、その親分が子分たちの前で「しょせん、市などメクラ」と陰口をたたいている。親分は正面奥にいて、子分たちはカメラに背を向けている。安定した構図だ。
ところが「ちょっと待った」と、市の声が画面外から入った瞬間、パッとカメラがズームで引く。カットを割らずに、カメラに動きを与えている。落ち着いていた構図を不意に崩すことで、「気」を表現している。

最初のシーンでも、市から庭に咲いている梅の花に、カメラがPANする。すると、市と梅の花の間に、有機的な関係が生じる。カットを割ると、説明になってしまう気がする。
アップからアップへ、ピンポイントのPANは、天知茂演じる浪人が、市に決闘を申しいれるシーンでも使われている。市のアップから、ゆったりとしたPANが始まり、見守るヤクザたちの姿を遠くにとらえ、やがて、市と向き合っている浪人のアップまで辿りつく。
その長いPANが、決闘の場の空気を熟成していく。市と浪人の間に、切っても切れない粘つくような関係が生まれてしまったことを、カメラの動きで語らせている。

僕は、ディテールに執着しているわけではない。
緊張するシーンでの、唐突なカメラの動きこそが『座頭市物語』の見どころだと思うから、書きとめている。
借りてきたDVDは傷がついているのか、ラスト近くの市の長いセリフが切れていた。だが、そのセリフはあまりに市の心情を説明しすぎていて、ぜんぶ聞く必要はないと思った。観客を安心させるためのセリフであって、それはこの映画の本質ではない。
(※PCのプレイヤーではすべて聞くことができたが、やはり冗長なセリフであった。)


映画評論というと、ハリウッドにおいてすら、もっぱら物語について語られる。あとはせいぜい、役者の演技ぐらい。カットワークやカメラワークが創造的だ、という話は誰もしない。
目に見えないもの、耳で聞こえないものを表現する工夫は、あらゆる場所で試みられている。その工夫をとらえよう、言語化しようという意欲を感じることは、本当にまれだ。

それなのに、ネタバレという言葉だけが乱用されている。映画の「ネタ」は、カメラワークにあるかも知れない。しかし、「ネタバレ」とは「物語の結末」の言いかえでしかない。


市の顔から梅の花へカメラがPANし、目の見えない市が「おっ、梅の花が咲いていますね」と微笑む。彼が、臭覚によって世界を把握していることが分かる。
そのシーンは、僕たちがどのような方法で世界に直面しているのか、どうやって現実を構成して解釈しているのか、その秘密に触れていると思う。そして、そのような経路をたどって世界の秘密に触れることは、映画にしかできない。貴重なカメラワークを見落としてしまうのは、あまりにもったいないので、ここに書きとめておきました。

(C)KADOKAWA CORPORATION 2016

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2016年8月10日 (水)

■0810■

Febri Vol.36 本日発売
61cl4u6yzyl_sx350_bo1204203200_●Febri Art Style
『夕やけだん団』、 美術監督・今野明美さんのインタビューと背景美術を構成しました。
編集部からは、話題になった深夜アニメを薦められたのですが、それなら他の人がやればよいので、僕自身が「面白い」「美術がよい」と確信した『夕やけだん団』を推させていただきました。

●アニメファンのための夏の課題図書 Febriライター陣オススメの、アニメをより深く理解するための良書9選!
落合陽一さんの『魔法の世紀』を推薦しました。
あまりにも皆さん、「テーマが」「ストーリーが」と言いすぎると感じているので、映像作品は原理ではなく文脈でしか感動できない時代になって久しいですね……という話をしています。その部分は丸々、落合さんの本から引用しています。
ではなぜ、いまだにアニメを見て驚いたり感動したりするのか。アニメを駆動させている原理には、まだまだ未発見な部分があるのではないか。僕らは原理に鈍感になっているがゆえに、「テーマが」「ストーリーが」と誤魔化してやいないか、といった話を書いています。

この号では、ライターの多根清史さんが『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』の書評を、書いてくださったそうです。
もうひとつ、評論家のさやわかさんも「ダ・ヴィンチ」9月号()に書評を書いてくださいました。模型関係の外部へ、じわじわ広がってきました。

●週刊 東京ウォーカー+ No.20) 配信中
P002_b000000000006313_00_coverコラム「ネタバレ御免! 極私的シン・ゴジラの愉しみ方」の第一回を書きました。

ピーター・ウィアー監督『いまを生きる』のラストシーンが、どうしても『シン・ゴジラ』のディテールの魅力を説明するのに欠かせないように思えたので、そこから話をはじめています。
『いまを生きる』のラストは、「恩師を見送るため、ルールを無視して机の上に立つ生徒たち」という感動的なシーン。しかし実は、立っている生徒はクラスの半分だけ。のこり半分の生徒は、背中を向けて座ったままです。
その「現実なんてこんなもんさ」という覚めた視点と「事実に対する謙虚さ」が、『シン・ゴジラ』を貫く幹であるような気がしたのです。


さて、その『シンゴジラ』。IMAXでの上映が本日で終わってしまうので、昨日、原稿を早めに納品して、朝から見てきました。
ラッシュ試写は編集者と、通常上映は友だち2人と見たので、ピンで見るのは今回が初。隣の席では、ごく温厚そうなオジサンと娘さんがポップコーンを食べていた。
ネットで、さんざん深い考察や批判意見を読んできたので、落ち着いて見ることができた。「人間ドラマが欠落している」という意見も、まあ分からなくはないんだ。「福島第一がこんな状態なのに、ラストが楽観的すぎないか」という苛立ちも、そう言いたい気持ちは分かった。
だけど、僕からすれば、『シン・ゴジラ』は実験映画だよ。
「映画中盤で大敗北して、そこから坂をのぼるようにしてクライマックスで逆転する」のは、脚本のテクニック。娯楽映画として、最低限の体裁は守られている。その王道パターンを「断片的ディテールの積み重ねのみで見せる」構造が、異常なんです。
海外で賞をとりまくっている是枝裕和監督でも、カットワークに関してはフェティッシュな執着をもつ原田眞人監督でも、ヒットさせるための保険はかけているはずです。『シン・ゴジラ』は、観客の理解度のみを信頼し、肉声で語りかけてくる。

僕が『シン・ゴジラ』を「怖い」と感じる理由は、「ほら、すごく面白いでしょ?」と突きつけてくる、根拠なき確信の強さなんです。

(C)2016 TOHO CO.,LTD.

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2016年8月 6日 (土)

■0806■

GOODS PRESS 2016年 09 月号 本日発売
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おすすめの工具やキットの紹介、越智信善さんによる「成形色を生かしたスミ入れだけの仕上げ法」など、企画から提案させていただき、模型誌ではできないような記事で構成されるよう、知恵をしぼりました。

僕のところへ話があった時点では、「業界でマイスターと呼ばれるような偉い人にプラモづくりの教えをこう」、よくある企画でした。
「それでは、既存のハウトゥ本と変わらない」「読者とプラモデルとの出会いを楽しいものにしたい」「“上達”することにこだわらない、ゆるやかな特集にしたい」と、二時間ほど話すと、担当編集さんも同意してくださいました。
その夜、僕は越智さんとMAX渡辺さん、松本州平さんに打診して、参加をお願いしました。この方たちなら、プラモづくりのハードルを無闇に高くすることはないはずです。

それでも、ちょっとすると、「偉い人から教えてもらう」路線に戻りがちなので、担当編集さんを、元モデルグラフィックス副編集長の高久裕輝さんに引き合わせました。
高久さんなら、ミリタリーモデルや実車に詳しいうえ、業界の裏事情にも通じているし、なにより誌面構成の経験が豊富です。彼に特集のひとつひとつを吟味してもらい、忌憚のない意見を述べてもらい、再度、慎重に軌道修正をはかったのです。

それで、僕は僕の担当ページだけに専念していたのですが、デザインが上がってくると、なぜか膨大にテキストが書き足されています。しかも、根本的に間違った記述が多く見受けられ、そのままでは、とても書店に並べられる状態ではありません。
他の仕事をとめて、必死に赤を入れ、間違いをつぶしていきます。ちゃんと直っていて、他のページが構想どおりに出来ているなら、なかなか新鮮な誌面になっているはずなのですが……祈るような気持ちです。


そんなこんなで、7月の予定はギッシリで。僕の脳内スケジュールでは、パンツ本()発売後、仕事は激減するはずだったのですが、まったく逆でした。
パンツ本は、Amazonでのレビューが濃くて、コメント欄でのやりとりまであって、本当にありがたく読ませていただいてます。
次はどんな本を出そうか、編集者と飲みながら話しました。もうメチャクチャな話が出てきて腹をかかえて笑ったんですけど、「もうちょいパンツ本が売れてくれないと」「もうちょっと伸びるはずなのに」……とのことです。

双葉社の偉い人は、パンツ本を「石川啄木みたいだ」と評したそうです。


今日も、『シン・ゴジラ』の話。
シンゴジラ最高に素晴らしいが、しかしフクイチ原発は…
きわめて真摯に書かれた批判意見とは思います。だけど、以下の箇所が気になりました。

「フクイチに自衛隊を特攻させれば

(チェルノブイリにはソ連政府が兵士に特攻させています)

福島の土地は助かったかもしれない。でもやらなかった。」(引用)

『シン・ゴジラ』劇中、自衛隊員は犠牲になりはしたけど、自爆攻撃のような「特攻」は一度もしていません。
なので、福島第一原発に「特攻させる」具体的な意味が分からないのですが、あの状況で自衛隊が何をどう努力すれば、「福島の土地は助かった」のでしょうね。
むしろ、死を実感しながら努力していたのは、原発作業員の方たちだったのではないでしょうか。「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」などと仮定してしまう神経、あまりに雑すぎて、かえって怖いです。

「実際の日本政府はどうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?

成功してませんよね。いまだに汚染水を流し続けています。」(引用)

だけど、現地で対策を練られる状態にはなっているんです。福島第一のためだけに、新型のロボットを開発し、研究者の方たちが交代で操作し、格納容器内の状態を探る様子がテレビで放送されました。なぜ交代するかというと、被曝を少しでも低減させるためです。
いま、福島第一原発にはコンビニがあり、ジュースの自動販売機も設置されているそうです。一日に7千人も働いています。だから安全だと言いたいのではなく、危険な場所で毎日、今も淡々と働いている人たちがいることを、忘れてはいけないと思うのです。
「福島の土地が助かった」「フクイチの凍結に成功していない」と大雑把にくくるぐらいなら、いま現場で、あきらめずに努力しているのは誰か、知っておくべきではないでしょうか。その誰かにも、日常があるんですよ。

「ある夢から覚めた瞬間、また別の夢へと眠りこんでしまう」という寺山修司の言葉を、ふと思い出した。『シン・ゴジラ』は、現実を対置させねば決して語れない、重たすぎる虚構なのだ。
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2016年8月 4日 (木)

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レンタルで、『しあわせの隠れ場所』。
335925_01_01_02この邦題にひるんではいけない。冒頭、淡々とアメリカン・フットボールのルールが解説され、「おや?」と思わせる。たとえ「ヒューマン」「感動ドラマ」の棚にあろうが、アカデミー作品賞ノミネート作はあなどれない。知性を感じさせるオープニングだ(原題の“The Blind Side”は、フットボール用語)。
薬物依存の母親から引き離され、行くあてのない黒人の青年が、サンドラ・ブロック演じる白人女性の好意で、裕福な家庭にひきとられる。最初は遠慮していた青年だが、家庭のありがたみを知り、フットボールの才能を開花させていく。
家族全員、あまりに善人ぞろいでウソっぽくなりそうなところだが、当時45歳だったサンドラ・ブロックの毅然とした演技に説得されてしまう。だいたい僕は、成人女性がキビキビと立ち回り、どんどん自己実現させていく映画が好きだ。『コンタクト』とか『エリン・ブロコビッチ』とか。

それにしても、出来すぎた美談でしょう、いくら何でも?……と、疑問がピークに達したあたりで、実は善人ぞろいの一家がミシシッピー大学出身で、同大学に寄付もしていたことが明かされる。母校に、有能なフットボール選手を入学させるため、すべて計算づくで薄幸の青年を引きとった可能性がある……やけに生々しい設定だなと思ったら、ラストで実話であると知らされる。
青年は「僕は、自分の意志でミシシッピー大学を選んだんだ」と胸をはるが、家族への疑念が晴れたわけではないので、ちょっとモヤモヤしたものが残る。だけど、これは元気に動き回るサンドラ・ブロックを見て楽しむ映画なので、細かいことは気にしない。


『シン・ゴジラ』は、公開から数日のあいだに、とんでもない話題作になってしまった。興収は、もちろん第一位でスタート。
いちばん驚かされたのは、戸田真琴さんのブログの感想()。人に、こんなことまで考えさせる、書かせるとは、とんでもない映画というか体験だと、あらためて感じ入る。もちろん、戸田さんの文章力は素晴らしい。澄んでいる。

この前は、寺山修司と並べて書いたけど、『シン・ゴジラ』は実験映画に近い。
もっと社会を戯画化して、噛み砕いて分かりやすくする方法はある。それをやらずに、ゼロから積み上げている。約束ごとに逃げてないから、その分、見ている側は不安になる。その不安、知っている「映画」ではない未知のものと向き合ってしまった体験を、みんな「面白い」としか表現できないし、そもそも「面白い」とは怖いこと、不安になることと結びついていたような気がしてくる。

で、自分の中で似た体験を探すと、18歳のときにぶっ続けで見た、寺山修司の映画なんだよねえ……。
寺山も『シン・ゴジラ』も、終わってくれない映画。もう、見る前には引き返せない。


批判的な意見で目立つのは、「もっと人間描写を入れろ」かな。ようは、よくある普通の映画にしてくれと言っている。
だけど、主人公の家族だとか恋人だとか、過去のつらい体験だとかを赤裸々に描けって要求は、マスコミが犯罪被害者の身の上を根ほり葉ほり聞き出す下劣さを思い起こさせる。家族を人質にとるような、下卑た態度ではないだろうか。

プロとして現場に立って働いている人に向かって、「しょせん、お前だって普通の人間だろ? 家に帰れば、いろいろしがらみがあるんだろ、どうせ?」と、足元をすくおうとしているような。
単に、他人に対する敬意が足りないんですよ。日本映画って、それをやってきたんだよ。「冷静に見えるこの男にも、実は愛する人を失ったつらい過去が!」って、貶めてきたのだよ。「しょせん、こんなもん映画じゃん」と、自らを卑下してきたようにさえ思う。

しかし、風穴は開いた。「まだまだ、やれる」ことを証明してしまった。
あなたは、自分の仕事に対して、どこまで誠意をもって臨めますか。そう問われている気がする。

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