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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.3 本日発売
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『聖戦士ダンバイン』巻頭特集、40ページを構成・執筆しました。
今回は玩具にも触れたいと思い、そのページは盟友・五十嵐浩司さんに依頼しました。前回の『伝説巨神イデオン』よりもキットの数が少ないので、『ダンバイン』の放送とプラモデル発売前後の映画やテレビの年表、美少女フィギュアやパロディ文化がプラモデルにどう関与しているか、少しずつ触れています。
ただ、掘れば掘るほど、アニメとプラモデルの間には複雑で有機的な関連性が見い出せるので、別冊となったとき(この企画はもともと、一冊の本として提案したものです)、大幅にテキスト量を増やして実証したいと思います(ムックのカラーページでは、どうしても写真メインになってしまうので)。

あと、ほんの小さな、ありふれた番宣ビジュアルなどでも、許可が必要かどうか問い合わせて返事がないと「不許可」と判断されて、ちょっとした絵が掲載できなくなり、不自然なページになってしまう。これを何とかするには、僕が直接交渉するしかない。
版権ビジネス、版権文化は、権利元が何もせずにサボっていた(実質、OKした)としても、確実にマイナスの方向へ向かいます。確実に、権利を許諾される我々の体力がそがれ仕事を邪魔され、世の中がつまらなくなります。先達たちの創出したビッグタイトルの権利だけで食いつないでいる会社は、よく考えてほしいです。


いよいよボケてきたのか、以前に借りたDVDを間違えてレンタルしてきてしまう。ヒッチコックの『知りすぎていた男』、ミュージカル映画『シカゴ』。どちらも、ここ2~3年の間に見たはず。
あと、『ミッドナイトエクスプレス』も、既視感の多い映画だった。明らかに見ているはずなんだ……。ラストで警察署長をうっかり殺してしまうシーンは、ドラマ『ギャラクティカ』でそのままトレースされていた。それ以外にも、他の映画や漫画に、大量にオマージュやトレースが見つかる。
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あと、『ターミネーター:ニューフェイト』を借りてきて観たが、歳をとった旧作のキャラクターを無理に絡ませては殺し、プロット自体は旧作の焼き直し……という『スター・ウォーズ』と同じ幣に陥っている。ウェブ配信で見直したばかりの『ターミネーター2』がとても丁寧な映画だっただけに(ここに魅力をメモ書きしておいた→)、失望は大きい。


ウェブ配信といえば、大林宣彦自身によるセルフ・リメイク『同級生-さらなら、あなた-』が良かった。
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舞台は長野県の山の中に移ったが、ちゃんと尾道風の、古い日本家屋を使っている。
考えてみれば、1982年版の『転校生』は、40代半ばの大林宣彦監督が、小津安二郎の世界を若者たちに教えてくれていたのだ。モデルグラフィックス誌で、あさのまさひこ氏が「『転校生』によって、生まれて初めて“邦画”というものにインパクトを受けた」という意味のことを書いていて、おおいに首肯したものだった。
その価値を精査するには、ATGという会社に言及せざるを得ず、「オタク文化」と一括りに扱われていた昭和のサブ・カルチャーを丁寧に腑分けする必要があるだろう(アニメ作品のプラモデルだって、ATGや邦画史と無縁ではない)。

そして、大林監督が70代に近づいて撮った2007年版『転校生』は、あまりにも寂しい冬枯れの景色とあいまって、おおいに死を感じさせる映画になっていた。
そこは好悪が分かれるだろうが、『その日のまえに』『野のなななのか』など70代に入ってからの大林作品は生と死が二重写しになったような世界観を特徴としており、ミュージカル風に歌がセリフのように使われ、その独特の叙情性が魅力だ。

我慢できずに、『廃市』をレンタルしてきた(ネットで借りると高いので、100円で借りられる実体店舗にも、まだアドバンテージがある)。


さて、ブログのコメント欄を完全承認制……実質、閉鎖することにした。
前回のブログで、あまりにも意味不明かつ高飛車なコメントが書き込まれていて、今度こそイヤになった。

“突然のコメント失礼します。Twitterで見かけて拝読し、何とも言えない心持ちになりました。

「脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している」

架空の銃弾にいくら撃たれようと、死ぬはずなどない。死ぬ人などいない。博覧強記のライターの方とお見受けしますが、ダイ・ハードよろしく、これまで受けた幾多の衝撃にも耐えられたのだから、これからも耐えられる。そうお考えですか。

作品に殺されかかった人間は、絶望の淵で「元の自分には戻れない、戻るべきではない」と呻きこそすれ、「戻れなくてもいい」とは口が裂けても言えないものです。生き残った人間は、自分が奇跡的に助かっただけであることをよくよく自覚しているはずですから。”

……? ? 分かるコレ? 具体的に何かあったんだろうけど、カッコよく抽象的に書いているので、何が何だかサッパリ。
具体的に書かないのは、反論を封じるためだろうな。そして、自分はお前なんかよりスゴイ貴重な体験をしたので、お前のブログが気に入らない……ってことなんだろうな。そして、自分は逃げ隠れしているくせに、僕がライターであることは盾に取る。匿名野郎の常套手段。「連載読んでるんですけど」「過去に署名した者ですけど」で、アドバンテージをとろうとする。こういう卑怯者が、いちばん嫌い。
何の実績も提示できない臆病者のくせに、「実はお前なんかより凄いんだけどね」という態度で挑んでくる人、SNSにはウヨウヨしている。
(以前にコメントしてきた@monocuruこと天野真将も同じ。あらかじめ「俺は廣田より上」という立場で、「以前からブログを読んでいた」だのバイアスをかけてくる卑怯者。)

互いに気をつかいながらも排他的な日本社会では、自尊心の形成が難しいとは思う。だからこそ、俺は努力するし工夫する。努力も工夫もしなかった、サボりつづけた負け犬に、対等以上の口をきかれたくないんですよ。悔しければ、ここまで来てみろって話です。

(C)1978 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
(C) 2007「転校生」製作委員会

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2020年3月25日 (水)

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30年ぶりに『ミツバチのささやき』を観た翌日、あるアニメ会社のプロデューサーから薦められていたアニメ映画『海獣の子供』をレンタルしてきた。強烈な2本を続けて観てしまって、クラクラしている。
この2本はそれぞれ、「映画はなぜ映画なのか」「アニメはなぜアニメなのか」と自問しているかに見える。どんな人間も、幼い頃からの習慣と偏見なしには生きられない。映画を観ることも(テレビを見るなどして)幼い頃から習慣化していて、構図とカットによって「誰が主人公か」「主人公が何をするのか」読解するよう習慣づけられているから、映画を楽しむことができるわけだ。ようするに、たった一種類の「映画の観方」だけを、偏向的に学習してしまっている。

だけど、ほとんどの時間、自分が「習慣によって作品を見ている」「一種類の映画の観方しかしていない」とは意識できていない。それが、罠なのだと思う。
惰性にも等しい習慣によって映画を偏見していることを、解除する必要がある。映画への偏見を解除する方法はたったひとつ、たくさん映画を観ることだ。


『ミツバチのささやき』は、日本公開の1985年、確かレンタルビデオで観たと思う。その頃はミニシアター・ブームで、映画の分析・評論のムックが大量に出ていた。
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上のカットを見てほしい。
リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』そっくりでしょう? 1931年の『フランケンシュタイン』が根本に位置する『ミツバチのささやき』で、こういう構図を無視はできない。『ミツバチのささやき』は劇映画だが、その物語世界には『フランケンシュタイン』というモノクロ映画が存在している。
『フランケンシュタイン』を見ている村人たちの顔を、ドキュメンタリーのようにアップで撮っていく。そのアップで撮られた俳優たちだけが『ミツバチのささやき』では「本物の人間」だと、僕たちは了解する。『フランケンシュタイン』も確かに画面に映ったけど、あれはただの映画、ウソだと認識する。

姉のイサベルは妹のアナに「映画はぜんぶ作り物だから、あの怪物も、怪物に殺された女の子も、本当は生きている」と告げる。
その後、イサベルの悲鳴が聞こえ、アナが駆けつけると、イサベルは倒れたまま動かない。アナは「ウソなんでしょ?」と疑いながら、一度は部屋から出て、イサベルが本当に死んでいるのかどうかを確かめる。
だけど、倒れているイサベルが死んだフリをしているのか、本当に死んでしまったのか、僕たちには絶対に区別がつかない。だって、イサベルが言うとおり「映画はぜんぶ作り物」なんだから!


イサベルが「死んだフリ」をするシーンで、僕たちは『ミツバチのささやき』という映画もやはり、「ぜんぶ作り物」なのだと認識を改めざるを得ない。
映画のラスト近く、アナは本物の(と同時に作り物の)フランケンシュタインと会う。その構図は、アナが映画で観た 『フランケンシュタイン』とまったく同じ構図である。
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アナが観た『フランケンシュタイン』の構図の中に、アナ自身が位置している。それはアナの体験と言えるだろうか? 単に、アナが怪物の幻覚を見ているシーンだとしたら、構図を同じにする意味とは何なのか? 僕たちは何を目撃したのだろう? 新しい視点を獲得しないと、『ミツバチのささやき』について何ひとつ語れない。少女が現実と空想の間をさまよう映画だとか、そんな宛がいぶちの解釈でいたら、人生が無駄に終わる。


『海獣の子供』についても、「いったい僕は何を見ているのだろう?」と、『ミツバチのささやき』に近い感触を得た。
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まず、動きの密度がただごとではない。いろいろな色と形の魚たちが、画面いっぱいに様々な速度でウワァーッと、一斉にうごめいている。それを見つめる少女の瞳は、まつ毛が執拗に描きこまれ、瞳の中には七色の魚群が映りこんでいる。
冒頭の1~2カットで、あっさりと人間の動体視力を超えるような密度。アニメを見ているとき特有の慣れ親しんだ感覚、だらしないほどの予定調和的リラックス感が、フッと途切れることがある。


日常シーンの、ちょっとした歩きや動きが、「いつものアニメ」と違う。情報量が多い。何かにぶつかりそうになるのを、思わず腰を低くして避けようとする。自分の意志で走っているに、怪我した足が追いつかなくなっていき、転んでしまう。
それらはすべて、主人公の少女自身にとっては、不随意な、意図しない動きだ。しかし、アニメーションは線と面で人間を描いているわけだから、画面外の何者か、つまりアニメーターの意図が強力に作用しないと、不随意の動きなど描けないのだ。これは、構造的な矛盾だ。
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僕たちはキャラクターの「意図せぬ動き」と、アニメーターの「意図した動き」を同時に見るしかない。「意図せぬ動き」も「意図した動き」も、アニメの中ではイコールだからだ。『ミツバチのささやき』で、「死んだフリ」も「実際に死んだこと」も、劇映画では完全に同じ表現になると気づかされたことに近い。
映画では、死は描けない。本当は死んでいないけど、死んだことにしてくれ、という約束しか出来ない。その約束は、無意識の下へしまいこまれて、僕たちを鈍感にする。

アニメでは、「本当は見てのとおり線と色の面でしかないけど、人間だと思ってくれ」、そういう約束事を、僕たちはさせられていた。だが、見えているものだけが全てではなく、画面外に膨大な意図、意志があると気づかされてしまう。『海獣の子供』後半、暗黒物質を例に出して、人間にはほとんど何も見えていない……というセリフが出てきたではないか。
だが、セリフで説明するまでもない。日常の芝居のそこここに、絵で世界を成り立たせようとする矛盾、矛盾から生じる底知れぬ神秘が見え隠れしている。意図のこめられた描写、描線に息をのむ。それが感動というものだ。感情移入して泣くことを、感動だと思っているだろう?

リアルな動きだから「実写に迫る」とか「実写を超えた」だとか、習慣化された借り物の感想になど目をくれている暇はないのだ。


つまり僕は予定調和ではない、脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している。
たとえ、その作品を見る前の自分に戻れなくてもいい。衝撃を受けたい。そのためには、作品に対しては両腕をダラリと垂らしたノーガード状態で接しなければならない。

(C)2005 Video Mercury Films S.A.
(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

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2020年3月23日 (月)

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「ドロヘドロ」の現場スタッフが語る“3DCGアニメ表現の現在とこれから”【アニメ業界ウォッチング第64回】
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この取材は、僕がたまたまNetflixで『ドロヘドロ』を見て、MAPPAさんに問い合わせフォームから、直接取材を申し込んで実現したものです。
間に宣伝会社をはさむことなく、MAPPAの広報の方と取材方針を決めて、気持ちよく記事が完成させることが出来ました。
ところが、場面カットを使うために製作委員会各社の許可が必要で、その許可を得る段階で、さらに原稿が直されて、ひとつのエピソードが丸ごとカットされてしまいました。

直接インタビューしたスタッフの方が、技術的な言葉について修正を入れてくれるのは、かえって有り難いんです。
だけど、現場から離れれば離れるほど、誰がどういう意図で原稿に手を入れたのか分からなくなる。誰の責任なのか、分からなくなってしまう。アニメ業界に限った話ではないと思いますが、名前は出さないし責任も負わないけど「俺にも権利がある」って人が、最終的なクオリティに影響を与えてしまう。
他人に言うことを聞かせたり、他人をコントロールすることで仕事をした気になっている。そして、版権元に指示されると、フリーランスは次の仕事が無くならないよう萎縮して、唯々諾々と手塩にかけた原稿を修正してしまう。

そんな風に、誰もが仕事相手の顔色をうかがい、不快にさせないように失礼がないように、関係がギクシャクしないように、勝手に先回りして自粛してしまう。今も赤字が入って送り返されてきた原稿を見ているけど……、申し訳ないですけど、ビビりすぎ。
こうしてみんな、勇気を失っていく。自尊心を犠牲にして、安寧な力関係に屈服していく。


“事務局からパブリックコメントの内容を口外しないよう通知があり、「情報が漏洩した場合、委員全員の連帯責任となる」旨の書類に署名するよう指示された”(
香川県のゲーム規制条例の記事より。

ゲームの良し悪し以前に、日本中の大人、みんなこういうノリでしょ? 「口外するな」「連帯責任」ばかりで、自分がダメージをくらっても誠意を貫こうという大人がいない。そのことの方が、子供に有害だよ!


最近、DVDレンタルで観た映画は、ゴダールの『パッション』とイタリア映画『もうひとつの世界』。後者はぐっすり眠ってしまい、3割ほどしか覚えていない。
『パッション』は過去にも見た記憶があるが、今回は面白く見ることが出来た。
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ビデオ映画撮影の舞台裏と、工場をめぐる社長と労組のいさかいがカットバックするが、ハリウッド的な明快なストーリーやテーマはない。構図やカットに、文芸的な意味が込められているわけでもない(というより、意味など読みとれない……だがしかし、どのカットも美しい。その美しさは劇的効果がピタリと決まったときの美しさとは違う)。

推測にすぎないが、ゴダールは劇映画を使って劇映画批評を行っているかに見える。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』では、映画であることがバレるような演出をわざと入れて、劇映画が作り物であることを暴き立てた。
『パッション』はそこまで露悪的で分かりやすくはないものの、映画そのものによる映画批評が、さらに高度化したように見える。
少なくとも僕は、普段、どれだけハリウッド的に馴致された、定型的かつ限定的な映画ばかり見ているか実感させられた。
『コンタクト』のセリフ、「なぜ英語ではないのかね?」「英語を母国語としている民族は、全世界の3割にすぎません」というアレ。あの状態に、僕らは浸りすぎている。


新型コロナウィルスの猛威で、欧州が大変なことになっている。それゆえか、アジア人に対する差別は後をたたないようだ。欧米人には、もともと手を洗う習慣がない、彼らは意外と不潔だとも聞く。
それを言うなら、こんな事態になっても尚、公衆トイレで手を洗わない日本人男性の多いこと多いこと……。小便をした生臭い手で、鏡の前でうっとりと髪をなでつけていたかと思うと、そのまま出て行ってしまう。そもそも、男子トイレの床は、わざとこぼした小便でいつでもベタベタに濡れている。

幼年期にうけた抑圧は、一生を呪縛するのかも知れない。親に怒られそうな悪いことを、こっそりやってしまう癖は、一生抜けないのかも知れない。
間違いを認めて引き返せる準備を、いつでもしておかねばならない。しかし、そこまでの勇気がある人は、とても少ない。多くの人は、頑迷固陋な偏屈な大人になるしかなく、早々と自滅していく。

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2020年3月17日 (火)

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「xxxHOLiC」は構図によって、秩序と混沌、神秘と通俗を描き分ける【懐かしアニメ回顧録第64回】
アニメや映画を「構図の使い方」という視点から評価している人は、とても少ない。もし構図やカッティングを“分かる”人がいたら、それはチャンスです。その審美眼は、お金になります。

EX大衆 2020年4月号 発売中
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●俺たちが好きなガンプラ
6ページ記事です。シャア専用ザクを素組みする記事は自分でラフを書いたけど、あとのページは文字ばかりになってしまいました。
模型誌に蹴られた企画が元になってはいるけど、もう少しグラフィカルに構成したかった。最終ページでは、山田卓司さんのコメントをいただきました。


最近、レンタルで見た映画は『マルホランド・ドライブ』20年ぶりに再見、『LION/ライオン 〜25年目のただいま』、『風とライオン』。

最初に『マルホランド・ドライブ』を見たとき、まだ30代だった。当時は漠然と、これが最先端の映画と感じていた。
いや、いま見ても次々と変な人物が出てくるし、異常なシチュエーションが相次ぐし、何より美女がエロいことをしてくれるので、まったく飽きない。だけどそれは、テレビドラマ的な面白さであって、「映画が機能している」わけじゃないのだと分かる。
ネタバレネタバレ言われるようになったのは、謎解きが主流のテレビドラマが流行ってから。謎解きがメインであって、劇的葛藤がない。

それに比べて、『風とライオン』はどうだろう?
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上の、剣をスラリと抜くカット。カメラが右にPANして、これから首を落とされる部下たち4人をナメてから、ショーン・コネリーの右手の動きをとらえる。シュルッと剣を抜くと、その抜いた動きにカメラが追従して、やや左に戻る。
全編、人物のアクションにカメラが追従していく。それが、この映画の思想なんだ。人物の生命活動がまずあって、カメラは人物たちに振りまわれされる。だから、すごくエネルギッシュだ。人物とカメラの関係が、劇的必然として機能している。
『マルホランド・ドライブ』には、見世物的な娯楽性がある。だけど、それは映画でなくて連続テレビドラマでいいじゃない?と思ってしまう。


アニメ作品の取材は、本当に減らせるだけ減らしているつもり。取材先と信用関係が築けそうな場合なら、こちらも前向きになれる。
ところが、僕の書いた原稿に修正が入り、一回目は技術的な知識についての追記だったので、もちろん納得した。本日、なぜかさらなる直しが入り、面白いエピソードが切られていた。おそらく、「こんなこと書いたら関係者に失礼だ」って程度のことで、何か強い意志があったわけではないだろうと思う。
アニメ作品は、「身内のスタッフに悪いから」レベルのことで、よく直しが入る。模型雑誌だって、いつも書いてもらっているモデラーさんが気を悪くするから程度の、ムラ社会みたいなルールで、こちらが意志を曲げさせられる。だから、発展しない。自分たちで相互監視して首を絞めて、「売れない、売れない」と嘆いている。
僕みたいな個人にだったら、いくら我慢をさせても平気なのは、リスクが低いから。恥を知らないんだよ。

そして、組織の内側から僕の記事に難癖をつておいて、「廣田が問題を起こした」と何年でも言いつづける。その担当者はサラリーマンだから、名前を隠したまま組織に守られている。
どういうことか、分かるだろうか? 個人の尊厳を踏みにじる社会が、活気づくわけがないでしょ? 
景気が悪くなってから、ずーっとみんな守りに入っている。
組織に隠れられる人は組織に甘えて、リスクを冒さない。2004年にイラク人質事件が起きたとき、「自己責任」という言葉が流行った。誰もが少しずつ自尊心を減らし、権威に頼りはじめた。自分だけは仲間ハズレになるまいと、他人に過剰に気をつかい、結果的にギスギスした社会になった(漫画やアニメのキャラクターをめぐる表現規制論争も、住みづらい世の中の端的な例だろう)。

どうして昔のアニメが元気いっぱいで、破天荒で、怖いもの知らずだったか、考えてみたことがあるだろうか?
いつの間にか、他ならぬアニメファン自身が「この表現はアウト」「セーフ」と判定するようになってしまった。肝心なことは「ネタバレ」で口にするのが禁忌になってしまった。
そんな停滞の中で希望を捨てないためには、具体的に企画を立てて行動して、本質的な仕事を実現させるぐらいしかないでしょ? 虚無的になっている暇なんて、僕にはないんだよ。

© 1975 - Warner Bros. All rights reserved.

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2020年3月10日 (火)

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レンタルDVDで、イングマール・ベルイマン監督の『夏の遊び』、1971年のソ連映画『道中の点検』。どちらもモノクロ映画だ。
『夏の遊び』は、なんと1951年の作品。すばらしく洗練されている。
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年齢に限界を感じはじめたバレリーナが、溌剌とした少女のような若い頃の恋愛を回想する。

夏の間、彼女は湖畔の小さな小屋に暮らしている。小屋の奥のベッドで、目覚まし時計に起こされる彼女を、カメラはフィックスで撮っている。彼女はいったんは目覚まし時計をうるさそうに引き出しに放り込むが、パッと起きて、鼻歌を口ずさみながら着替える。窓を開いて、洗面器で歯磨きする。カメラはフィックスのまま、ベッドから起きて手前に歩いてきて、バストショットになるぐらい近くまで彼女が来るのを、ゆるいPANだけで撮りつづける。

カメラが、被写体の動きに追従する。すると、女優の身体から発する生命感が、何の装飾もなく、むき出しになる。カメラワークとは、つまり装飾であり文法であり、ちょっとPANするだけでも意味を帯びてしまうのだ。その効果をこのカットではキャンセルして、生き生きと動く被写体が主導権を握っているのだ。


舞台上のダンスの閉幕と同時に、映画も終わるラストシーンも鮮やかだった。
ダンスの幕が閉じると映画も終わってしまうわけだから、そこにはもはや映画独自のドラマは存在しない。ただし、主人公のバレリーナは、舞台袖で見守っている恋人に軽くキスをしてから舞台に戻る。その後に、バレエが最後まで終わると、彼女の人生がいかに充実しているか、何の作為もなく語り切れてしまう。

何も、構図やカッティッングだけが、映画の武器ではないのだ。シナリオ的な構成によって、シーンに特別な意味を与えることができる。(ただし、その作劇は演劇でも可能なところが悩ましい。映画の原理とは関係ないのかな、とも思う)


さて、『道中の点検』。これは、異様な映画であった。
ドイツに占領されたロシアの雪原地帯を舞台にした戦争映画。モノクロなので、背景は真っ白。軍服が淡いグレーで、あちこちに浮かぶ。
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パルチザンたちの抵抗を描いているが、ショートエピソードのパッチワークで、何か大きなストーリーがあるわけではない。

もっとも鮮烈だったのは、捕虜になったロシア兵たちが、船で移送されるシーン。
船の舳先が映る。つづいて、レコードと蓄音機のアップ。ロシア語の民謡のような曲が聞こえている。蓄音機からPANすると、タバコを持った手が映る。さらに、カメラはティルトUPして、タバコを持っている男の顔を撮る。それは上半身裸の、若いドイツ兵である。
次のカットは、画面を真正面から見ている数人のロシア兵たち。無表情だ。
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(上のスチールでは斜めを向いているが、実際にはカメラの正面を向いている。)
次のカットで、カメラはロングに引く。何十人ものロシア兵が、微動だにせず、無言で音楽を聴いている。カメラは、そのままズームバックしていく。さらに、何百人かのロシア兵が、画面に入る。
そして、画面左右に船の縁と、川がフレームに入る。「これは、捕虜を乗せた巨大な輸送船なのだ」と分かる。船のあちこちにドイツ兵が立っていることから、彼らが捕虜であることも分かる。

朴訥な構図、機械的なカメラの動きが、この状況がいかに過酷なものであるかを、端的に伝えている。映画でしか語りえない、しかし決して物語ではない「状況」のみを、最大限の効果で表現している。
僕が求めているのは、つねにそうした、映画の根源的な、単一の「機能」だ。
富野監督に「今さらそんなことを……」と呆れられるのも、無理はないのかも知れない。


来月のコロンビア旅行は、中止した。同国が、日本人に対して行動制限措置をとっていること(もし熱があったら、観光などできない)、同国でも感染者が出てしまったこと。
僕がコロンビアの人だったら、アジア人旅行客はウィルスをバラまきに来たようにしか見えないので、いまいましく思うに違いない。


宇崎ちゃんポスターを批判されて『献血のためには必要だ!』と怒っていた連中は献血に行ったのか?行ってない?ああ、やっぱりおっぱいを好きなように公共の場で鑑賞したかっただけだったか。うん知ってた

自分の行為を、ただそれだけで完結させることが出来ず、自慢するか誰かを罵倒するか、いずれにしか使えない人。まあ、一種のパーソナリティ障害だろう(パーソナリティ障害でないにしても、そう言われても仕方がないぐらい、醜い失言をしていると思う)。

そして、「イライラするから、高みから誰かを叩きたいなー」と思ったとき、「二次元キャラの好きなオタク」が、少なくともSNSではターゲットとして格好なのだと思う。実社会では萌えキャラが町おこしとして成功している例が多いので、SNSの中での難癖は、基本的に相手にしなくていいとは思う。
そんなことより、もっと重要な話題がある。

女性の「着ぐるみ」着る男性 性に悩んだ先で得た「社会との接点」

僕のトークイベントにも、着ぐるみを作っている男性が見えたことがあった。
「オタク」とは単にアニメやゲーム、漫画ファンのことを指すのではなく、「自分の性とうまく付き合えない」「男性として、あるいは女性としての自信がない」=「結果的に、実社会で上手に立ち回れない」「重圧ともいえるぐらいのコンプレックスを抱えている」人のことなのかも知れない。

性表現に無頓着なオタクっているんだろうか? 実社会で自分の性や身体に自信がない分、二次元の美少女・美少年に自己投影したり、熱烈な愛情を注いだりするのではないだろうか? オタク・コンテンツが美少女・美少年をセールスポイントにするのには、社会的・心理的な必然があるのだと思う。そのデリケートな部分は、僕は断固として守っていきたい。
これから生まれてくる、社会と上手く付き合えない子供たちのためにも。

(C)1951 AB Svensk Filmindustri

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2020年3月 4日 (水)

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1/700スケールのプラモデルが、いま面白い! ピットロードの提案するミニチュア模型の楽しみ【ホビー業界インサイド第56回】
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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』版大和のプラモデルが、Amazonのレビューで「ついにこういうものを売り出してしまいましたか…。制作委員会監修?軍港があったため、呉は空襲の災禍に見回れたにではなかったのでしょうか。軍都広島は原爆で人類史上まれに見る大虐殺を経験したのでは。所詮、『男たちのYAMATO』よろしく、ノスタルジーだけの感傷だけの映画でしょうか。こういうことだけはしてほしくなかった。」(
……と書かれてしまった、ピットロードさん。だけど僕は、ちゃんと御社製品のクオリティを指先で実感してますので、今回も取材させていただきました。
こんな地味な記事、誰も読まないだろうと思っていたら、2日間もアクセスランキング第一位でした。


最近、レンタルで観た映画は『ひまわり』と『イヴの総て』。
『ひまわり』は大学の友人から勧められ、『イヴの総て』は母の好きだった映画で、両方とも20代のころに観た。
当時は、「なるほど、よく出来たプロットだな」と思った程度だった。いま観ても、『イヴの総て』は、やはりよく出来た演劇でしかなくて、映画としてのアイデンティティは欠けていると思う。

『自転車泥棒』から22年後にデ・シーカの撮った『ひまわり』には、いくつか良いシーンがあった。
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ソフィア・ローレンの演じる主人公は、夫を探してソ連へ行く。夫は戦場で記憶喪失になって、ソ連のどこかで別人として暮らしているのではないか……と、彼女は疑っている。
探し当てた家には、見知らぬ若い女がいる。彼女とは何も言葉を交わしていないが、主人公はベッドに枕がふたつ並べられているのを見て、すべてを悟る。
上のカットで、主人公は何も言わない。ただし、画面外から夫と暮らしているであろう見知らぬ女が、子供をしかっている声が入る。子供は洗面器で手を洗わされているので、水の流れる音が聞こえている。主人公は何も言わないが、画面外の音が彼女の孤独を語っているのだ。
画面外は、生活臭のある喧騒に満ちている。しかし、画面内にたった一人で立ち尽くす主人公は、それらの日常の外に追い出されている。画面内にいる者こそが、画面外の「世界」から疎外されている――黒澤明も、しばしば、このような演出を使っていたような気がする。

カット内に何を入れて、何をカットの外に置くか。情報のよりわけによって、シーンの持つ意味はまるで変わってくる。
フレームに収められている被写体が、常に「選ばれている」とは限らない。「取り残されている」だけかも知れないのだ。


一ヶ月後に南米コロンビアへ旅行の予定なのだが、欧州やオーストラリアではアジア人差別が激化していると聞く。現地に住んでいる人たちのツイートを読むと、今に始まったことではないという。
とは言え、日本国内もトイレットペーパーの買い占め、電車内でのケンカなど、さして民度は変わらない。なぜか僕は「差別をなくそう」とは言えない。差別をしてしまうのが人間だから、風通しのいい社会にできれば、差別など目立たなくなっていくだろう(差別した本人が痛い目を見るだろう)と考えている。
人間が愚かなのに、いきなり差別感情という患部だけをキレイに除去できるほど、甘いものではないはずだ。

たとえば、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク 」を名乗る「のりこえねっとTV」が、以下のような番組を配信するようだ()。
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確かに、中年男性は若い女性から見たら気持ちが悪いだろう。僕も、頭が禿げているし50代だし、キモくて申し訳ないと思いながら生きている。
あと、中年男性が不審な行動をとったり、無知で無神経なくせに社会で威張っているのは、同性の僕から見ても不愉快だ。
だから、『シリーズ キモいおじさん』という番組を企画する気持ちは分かるし、どんな内容なのか楽しみにしている。配信をやめろとか謝罪しろとか、一切思わない。仁藤夢乃さんの活動すべてに賛成ではないが、著書を読んで、共感するところもある。

……というか、悪いけど真面目に反論する気になれない。僕の敵はこんな低次元にはいないと、いつも思ってしまう。

上のように、人間は誰でも差別する。誰でもが、誰かを加害しうるのだ。白人だから差別しないとか、女性だから差別しないなんてことはない。誰でもが、時と場合によっては加害する側に回る。だから、人間は怖い。だから、その人間の度し難さを前提に、本質的な意味で「誰もが幸せに暮らせる社会」を目指さなくてはならないのだ。
「確かにおじさんはキモいけど、俺だけは例外ですよ」「差別はいけませんよ」などという次元では、本質に触れられない。人間は差別するし誰もが偏見を持っている。その汚れきった自分勝手な我々が共存するには、忌避や嫌悪をこらえて和解の道を探すよりないのだ。


JAなんすんのポスター騒動以降、『ラブライブ!サンシャイン!!』を、Twitterで「児童ポルノ」呼ばわりしている人がいる。
僕が「ネタバレ」という言葉を嫌いな理由が、ちょっと分かった。「児童ポルノ」も「ネタバレ」も、「それが何であるかは具体的に言えないが、とにかく忌避せねばならない」、本質を欠いた代名詞にすぎないからだ。「児童ポルノ」と言われたら、誰もが個人の乏しい経験や想像の中から、「自分にとっての最も醜悪なもの」を漠然と想定して話をするしかない。
その無責任さを、「ネタバレ」という言葉にも感じる。「なぜネタバレを避けねばならないのか、その理由を話したらネタバレになる」消極性、主体性の欠如。そうした虚無的な態度が、社会を、人心を枯れさせる。

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2020年2月29日 (土)

■0228■

モデルグラフィックス 2020年 04月号 発売中
●組まず語り症候群 第88回
今月の連載では、ピットロードの「1/700 世界の現用戦闘機セット」を取り上げました。

ところで、同社の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』コラボの戦艦大和のプラモデルが、「反戦映画なのに、こんなコラボ商品はけしからん」と怒られているのをTwitterで見かけた。
兵器のプラモデルを組み立てるのは、戦争賛美につながるという短絡ではあるが、その短絡に気づかぬフリをしているのが現在の模型業界でもあると思う。「兵器のプラモデルは戦争賛美だ」に返す説得力ある言葉を、模型業界は持っていない。どっちを向いても、視野狭窄のミリタリーマニアばかりというのも、事実ではないだろうか。

では、大和の建造に関わった人たちも罪人なのか?という問いかけを、『この世界の片隅に』はしていると思う。戦争中に恋愛していた人たちは、そんなにも無残で惨めなのか? そこまで戦時中のことを酷く言えるほど、お前たちには罪がないのか? 
そのように責めたうえで、わざと許すような人の悪さが、少なくとも原作からは感じられた。映画では、その部分がフワッと緩くなりすぎたように思う。


大学のころに授業で観て、ぐっすり眠ってしまった『怒りの葡萄』を借りてきた。
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20歳になるかならないかの若造の感性なんて、少しも当てにならないと良く分かった。50歳をすぎた今なら、この映画の磨きぬかれた完成度が、よく分かる。「若いころに観て寝てしまったから、あの映画とは感性が合わない」などと、寝ぼけたことは言っていられない。

主人公がラスト近くで、母親に別れを言う。その内容は小説で読めばいいような観念的な言葉ばかりだ。
しかし、次のカットで、彼は真一文字に画面を横切る壮大な地平線を、ひとりで歩いていく。そのシンプルなカットは、彼の孤独を表現しているのではない。彼に、たくさんの出会いが待っていることを予感させる。彼のセリフが陳腐であればあるほど、続くカットは雄弁になる。
(驚くべきことに、80年前の映画だ。その間、映画は何をしていた?)


『怒りの葡萄』は、言葉に尽くしがたい。
気に入ったシーンをあげれば、旅の途中でカフェに寄った一家が、パンを安く売ってもらおうとするところ。
カフェの女は「パンは15セントなので、10セントでは売れない」と、ケチなことを言う。だが、主人公の父は「老人に水で湿らせたパンを食べさせなくてはならない」と説明する。店の主人は、10セントでパンを売る。
さて、父親が店から出て行こうとするとき、2人の子供たちがアメを見ている。女は、「アメは1セントよ。2本で」と言う。その次のカットで、店の常連客が、無言で顔を見合わせる。その無言のカットで、女が子供たちのために、アメを安く売っているのだと分かる。

その後、客たちが「アメは一本5セントだろう?」と説明して、女に多めに金を渡してねぎらう芝居が続くが、そこは蛇足なのかも知れない。この優しい、幸福感のあるシーンが持続してくれるなら、少しでも長い方がいいような気もする。

映画はただ見ているだけで、どんどん目の前を流れていってしまう。指の間を、砂がこぼれていくように。それが勿体ない、と思わせる。こうして感想を記さないまま、流砂のように時間が無駄になっていくのが怖い。どんどん記憶が薄れて、言葉が枯れていく。
まるで、滝のように流れ落ちるのが時間というものだ……と実感しなおすために映画という表現形式があるかのような、奇妙な感覚。


新型コロナウィルスで、なぜかトイレットペーパーが売り切れている。
コンビニの前で、12ロール入れのトイレットペーパーを四個、さらにティッシュペーパーを自転車のカゴに詰め込んでいる女性がいた。

そういう人たちは、今までの人生も、すべて他人の価値観のまま、主体性なく生きてきたのだと思う。
はっきりと形のある自我、心の底から自尊心を構築できている人は、ごくわずかだ。僕もあなたも、子供のころの生育環境、たまたま出会ってしまった大人たちに影響を受けずには育ってこられなかった。その間に、あらゆる種類の偏見を覚えた。「自分は決して間違っていない」などとは、口が裂けても言えない。常に間違っているかも知れない、そう認めることが勇気だ。勇気のある人は、社会には本当に少ない。

もし間違いを認めながら、少しでも正しい道を選ぼうとしている人に出会えたなら、それは財産だ。勇気がないくせに決定権だけ持たされた可哀想な連中に、無理して自分を合わせる必要はない。ほとんどの人間が、濁りきった泥沼に浸かったまま一生を終える。たった一人でもいいじゃないか、創造的な人生を歩め。

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2020年2月23日 (日)

■0223■

劇場版『Gのレコンギスタ』は、なぜ“わかりやすい”のか? 富野由悠季総監督に聞いてみた!【アニメ業界ウォッチング第63回】
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今回のインタビューは、最終的には実りの多い、内容の豊かな記事に仕上げられました。

ただ、いくつか問題点も感じました。『G-レコ』一作目のインタビューは、僕がしつこくサンライズさんに交渉して、取材日に時間をとってもらいました(その日は富野監督の単独取材が3件入っていました)。今回の二作目は、外注の宣伝会社が試写に呼んでくれて、「富野監督の取材も出来ますよ」と、声をかけてくれました。
アニメの場合、放送時や公開時にのみ関わる外部の宣伝会社が、インタビューをすべて仕切るパターンが増えました。ところが彼らにまかせておくと、他社との合同取材にされてしまって、「一社につき質問時間は15分」とか、機械的に決められてしまうんです。そんなんで、独創的な価値あるインタビューになりますか? 今回は、それだけは嫌でした。「富野監督の単独インタビューなら、ぜひお願いします」と、念を押しました。
案の定、僕のインタビューの後は、富野監督と荒木哲郎監督の対談(外部の宣伝会社から提案があった企画)で、二社合同取材でした。悪いけど、そんな状況で出来た記事は他媒体にも載るわけで、まったく面白くなりません。


なので、今回は「どうしても富野監督の単独インタビュー」とお願いして、良かったです。
ただ、富野監督は10分も遅刻してきたうえに、最初からムッとしてるんです(笑)。僕が何を聞いても、「(あなたの声が小さくて)聞こえない」「ぜんぜん違う」「間違ってる」って、そっぽを向いて答えるんです。まず、同席したバンダイナムコアーツの担当者たちに、富野監督はすごく文句があったらしい。完成したインタビュー記事でも、ポスターについて怒っている箇所が残ってるでしょ? とにかく、関係者が売り方について、ぜんぜん分かっていない。
それが理由で、富野監督が激怒しているのは、非常に理解はできます。だけど、僕もインタビューするプロなので、取材中は怒鳴らないでほしかった。「富野監督がそんな態度なら、今日は取材になりません」と、席を立とうかと思ったぐらい。だんだん、機嫌がよくなっていって、最後は満面の笑みになってくれました。僕の質問も、監督がムッとするほど的外れではなかったはずです。
頭ごなしに「リアリズムのことを勘違いしている」と言われましたが、僕はネオレアリズモ映画の代表作はすべて見ています。インタビュアーを、あまりにもバカにしすぎですよ。カットのことだって、僕は16ミリ・フィルムの編集経験があるので、分かっているつもりです。でなければ、カットワークについての質問などできません。

……まあ、「こっちはいつでも席を立つぞ」って態度になれたので、緊張感のあるインタビューになって良かったんですけどね。
ただ、富野監督も大人げないと思いました。バンナムの宣伝担当が、どれほど酷いにしても、僕には関係がないでしょう。


それと、僕がインタビューを記事にまとめた後のこと。
赤・青・ピンク・黄色で修正を入れられてしまって、いちど消した文字が復活していたりして、どこをどう直していいのか分からない。
これは富野監督本人だけでなく、関連各社の担当が順番に修正を入れるからです。そうやって手分けしてバラバラに修正するから、どこの誰に責任があるのか、分からなくなる。アニメの取材って、いつもそうなる。今回はマシな方だったけど、もう僕の書いた文章が半分ぐらい直されて、何が趣旨の記事なのか分からなくなってしまう場合もある(そういう場合、僕の名前は消してもらいます。記事内容に責任が持てませんので)。

日本のコンテンツの生産能力が劣化して、創造性が枯渇するのって、こういう主体性のないシステムのせいなんですよ。
僕の取材記事は、自分から立案して、自分で交渉して、たとえインタビューがメタメタであっても、立案したのは自分なんだから、ちゃんと面白く読める記事に仕上げられるんです。
だけど、関連会社が多すぎると、もう僕の企画意図から外れて、誰に責任があるのか、読者さんに何を伝えたいのか、まったく分からない原稿にされてしまう。アニメの場合、そんなのばかりですよ。宣伝を、アニメのことをまるで知らない代理店に丸投げするからですよ。

だから、何だか知らない広告代理店が仕切りはじめたら、僕は取材を取りやめます。ひどい原稿にされるのが分かっているから。それぐらい、アニメの広報って粗雑になっている。富野監督が激怒するのも、よく分かります。


で、製作委員会方式だけじゃないと思うけど、「ウチが全責任を負うわけじゃないけど、だけどウチにも権利はありますので」と、いびつな権利意識だけが肥大していく。コンテンツ・ビジネスで「公式」って言葉が、やたらハバをきかせてますよね。「公式が許可したからOK」とか、「公式ガイドブック」とか、変に権威的な意味をまとってしまっている。一緒に仕事している対等の相手に、やたら「様」をつけるのも同じだと思う。
ようは、「権利元に失礼だろ?」「ちゃんと“様”をつけろよ!」と怒られたくはないわけ。だけど、「ウチにも権利があるから言わせてもらう」と主張もしたいわけ。日本社会に特有の、自尊心の形成の失敗。
自分で主張できるだけの自信は、自分でトライして、自分で失敗しながら育てるしかないんですよ。なのに会社が保有している権威に頼ろうとするから、ちんけなサラリーマンとして控えめに威張るようなことになってしまう。

日本のコンテンツが弱体化しているとしたら、しなやかで強固な自尊心を、現場の人間たちが持っていないからですよ。
冒頭の、富野監督がバンナムの担当者に怒ったのも、彼らが心からの自信を持っておらず、監督の顔色をうかがいすぎなんじゃない?と、邪推してしまう。失礼ながら。うまく行く現場って、誰もが経験に裏打ちされた自尊心から意見を言う。だから、「アンタの言うことなら聞いてみよう」と、建設的な関係を築ける。どっちが上でも下でもないですよ。自尊心をもって仕事しているという点では、対等なんですよ。自信がないから、権威に頼るんですよ。
みんな、ビビりすぎ。楽しく、中身のある仕事ができるよう、自尊心を育んでください。

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2020年2月16日 (日)

■0216■

メカデザイナーズサミットVOL.08 3月21日(土曜日)14:00~16:00(
Lettaariapresentfin
上記のとおり、私が司会進行を務めさせていただきます。昨年、トークイベント【模型言論プラモデガタリ】を続けていて、ちゃんと認めてくださる方がいらっしゃった。嬉しいことです。


『宇崎ちゃんは遊びたい!』のポスターを環境型セクハラだと批判した次は、『ラブライブ!サンシャイン!!』のJAなんすん(南駿農業協同組合)とのコラボが、標的になっているという()。例によってTwitterの中での罵りあいで、キャンペーン自体は上手く進んでいるようです。だって、違法行為じゃないもん。
「気持ち悪い」「けしからん」「性的搾取だ」とWEBサービスの安全圏から喚いてないで、現行法の中で訴訟を起こすなりして、正々堂々、公平に戦ってください(「欧米では違法です」って誇らしげな意見が散見されるけど、日本国内では合法なので無意味です)。
でも、そこまで本気じゃないんでしょ? SNSの中で暴言を吐いて、リスクを背負わないまま鬱憤ばらししたいだけなんでしょ? だから、「ネトウヨ」同様、「ツイフェミ」なんて呼ばれてしまうんだよ。


ただ、ちょっと引っかかったのは、みせばや総合法律事務所代表(第一東京弁護士会)の岸本学弁護士のツイート。

この類いのイラスト、男性にとっては「罠」だと思うよ。
こういうのに浸っていると、現実の女性とのコミュニケーションとれなくなる。
現実の女性はこんな表情でこんな風にスカートをはかない。
間違った幻想を持って女性に接してもキモがられる。
二次元の女性なら受け入れてくれてると思い込む。

おそらく、現実女性との十分な交際・同居経験が無いまま、二次元で代償させることを続けていると、40才を過ぎた辺りから修正がとても難しくなると思う。
そうなればそのまま50代、60代へ。
親族からも男友達からも相手にされなくなる。
ま、そいつらの人生なんて、知ったこっちゃないがね。

アニメのイラストに浸っていると、現実の女性とコミュニケーションできなくなり、親族からも男友達からも相手にされないまま、60代になるそうだけど、それで何か問題あるんですかね。交際だけでなく、同居もしないといけないの? なんで?
二次元の美少女キャラで満足して、生身の女性と一切交流がなくても、それで幸せなら誰にも文句を言われる筋合いないでしょ? ゲームや小説のイケメンたちに惚れこんでる女性は、生身の男と同居しないといけないの? 幸せなんて、人それぞれでしょ? なあ、基本的人権を尊重すべき弁護士さんよ。 

この岸本学さんも、シュナムルさんや勝部元気さんと同じく、「俺だけは女性の味方!」「だって俺はキモオタや性犯罪者を憎んでるもん!」「とにかく女性の味方です!」という免罪符にすがっている。
「男性である以上、自分も性加害しないとは限らない」「自分も不勉強だし、何か間違っているかも知れない」というリスクを背負ってこそ、「それでも僕を信じてほしい」と、初めて言えるのではないですか? 「自分だけは潔癖、絶対に加害者にならない」ことを前提にしているのは、ようはビクついてるんですよ。
「そんなこと言ったって、アンタだってチンポコと金玉のあるジャップオスじゃん」と、もし女性に言われたら、彼らはそのダメージに耐えられない。


僕が初めてエロ漫画を目撃したのは……、小学校二年のとき。少年誌に載っている漫画で、女の子キャラのおっぱいから汚いオヤジが乳絞りするという、すごい内容だった(題名は覚えてない)。
家に帰ってから、その漫画を必死に思い出して、ノートに再現した。そのノートを友達に見られてしまったとき、「俺が描いたんじゃないよ」「あんな漫画は嫌いだよ」と必死に言い訳した。友達は「恥ずかしいから、そんなこと言ってるんだよね」と、苦笑いしていた。小学二年生でも、性欲はちゃんとある。自分が何に興奮したのか隠し通したい、羞恥心もある。

中学になると、二歳年上の兄が、ベッドの下に漫画雑誌「エロトピア」を隠していた。
たまたま発見した僕は「恥ずかしい、汚らしい」「家の外に、捨ててこい!」と怒鳴った。兄は「ハイハイ、分かりましたよ」と苦笑しながら、捨てずに密かにエロトピアを隠し持っていった。再びエロトピアを発見した僕は、夢中で読みふけった。今でもセリフやコマ割りを覚えているぐらい。
ようするに、清い性欲も汚い性欲もなく、興奮した対象に向かって、何はともあれ「汚らわしい!」と蔑んでしまう矛盾を、男は抱え込んでいるのではないだろうか。本心ではエロ漫画に魅了され、心ゆくまで楽しみたい。そのくせ、兄弟や学友の前では、エロ漫画は不道徳な悪いものと断じる。卑怯だよね。そういう狡さを、僕らは持っている。

そもそも、セックス、性交が矛盾をはらんでいるよね。筒井康隆が書いていたけど、こんなにも神聖で、こんなにもエゲつなく汚らしい行為はない。
異性の肉体に欲望を感じねば、セックスはできない。ボーヴォワールが書いたように「裸でとっくみあう、二匹の獣」にならないと、生命は生まれない。両親がセックスして自分を生んだのだと知ったときの幻滅を、覚えているだろうか?
でも、その受け入れがたい、心が引き裂かれるような矛盾、清さと汚さを何とか飲み下すのが人間だ。自己嫌悪にさいなまれながら、それでもしぶとく生きていくのが人間だ。僕は、そう信じている。


その矛盾の中で、理想や欲望を投影できる二次元少女に惹かれたり、美しい恋愛だけを描いたゲームに救われたりすることが、どうも岸本学さんにとっては「代償」らしい。人間の欲望の複雑さを受け入れる度量がないから、「現実女性との十分な交際・同居経験」を優越感の道具にしか使えない。
シュナムルさんや勝部元気さんも似たり寄ったりで、「俺はモテる」「俺には妻子がある」ことが、幼稚な優越感の域を出ない。……まあ、その幼稚なエエカッコしいが彼らの可愛らしさでもあり、不思議な魅力でもあるんだけどね。
勝部さんが、かつて自分を「体液フェチ」とか変態アピールしていた事実()、シュナムルさんが『魔方陣グルグル』の幼女キャラ好きを露呈したとき()、とても人間性を感じた。変態だけど、性差別・性暴力は許さない。二次元キャラ好きだけど、性差別・性暴力は許さない。その方が説得力が感じられるのに。

そして、岸本学さんも、何かを隠している。
こうして過剰に他人を侮蔑して、横柄な口をきく人は「私は劣等感に苛まれています」「実は、器が小さく自信がないんです」と告白しているようなものだ。本当に満たされて、本当に自信のある人は、他人を尊重して丁寧に接するだろう。
海外在住、外資系勤務を理由に威張っている人も、ぜんぶ岸本さんと同類。劣等感を裏返した薄っぺらい優越感にもたれかかっているから、「お前は英語できるのか?」など、簡単に人を罵倒する。


それにしても、アニメやゲームが好きで、異性と交流がない人を、こうも踏みにじってよいものだろうか?

僕は離婚して以降の恋愛では、かなり痛い思いをしたし、異性とは距離をおいた方が幸せだ。面倒な親戚づきあいも、母の死によって霧散した。ひとりで生きることが楽しい。それではいけないのだろうか? 対人恐怖症で、とくに女性に対して緊張しながら生きているが、そんなに恥ずかしいことなのか? 充実した仕事によって自己実現できている。いい仕事仲間に恵まれている。
確かに女性からはモテないし、無残な失恋もした。だが、その痛みや悔しさは僕だけのもの。僕は、そこから再生するしかない。他人がほじくり返していい傷ではないのだ。

たとえ無職で、異性との交流がなくても、たとえお金がなくて毎日することがなくても、もし借金まみれのヤク中であっても、僕の思ってもみなかった幸せな人生を歩いている人は、きっといる。僕はそうした他人の価値観を、邪魔しないように生きたい。

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2020年2月11日 (火)

■0211■

昨日は、半日まるまるスタジオにこもって撮影で、体調が今ひとつなのにどうなることかと思ったが、照明の熱で体が温まり、思う存分にディレクションすることが出来た。
撮影のとき、僕は意図を端的かつ明確に伝え、良い悪いのジャッジを即座に下す。カメラマンさんが「結局どうしたいの?」「いいのか悪いのか、どっちなの?」と、ストレスを感じないように。そして、素材は多めに押さえておく。後からページをつくるとき、困らないように。
常に、次の工程を考えておく。素材が足りないなら足りないで、ではレイアウトで密度を出したらどうか? コラムを入れて、読ませる記事にしてはどうだろう? そんなことも、撮影の間に考えている。

ちょっと引いた位置から見ていると、最終イメージを決めずにその場の思いつきでジャッジして、後から困るパターンが珍しくないような気がする。
「最終イメージを持つ」とは、すなわち理想があるということだ。僕の場合で言えば、「このプラモデルは素晴らしいので、みんなに知ってもらいたい」「このアニメ作品は、取材して記事にする価値がある」、そのためにはどんな形が最適なのかを考える。それは、「少しでも世の中が豊かになるように」という思いがあるからだ。その思いは、どこからともなくやってきたのではない。若い頃に深刻な挫折や無駄な苦労を味わってきたから、いま、心の底からの確信として言葉に出来るのだ。
しかし、理想を実現するどころが、スタートラインにすら立てない人が、世の中の大半なのではないかと思う。


いい素材が手に入り、時間も思うままだ。あとは一人だけの作業なので、深夜にやってもいいし、朝早くやって、昼間は遊んでいてもいい。「すみません、明日朝イチで!」「なる早で!」などというバカな仕事から距離を置いても食えるように執拗に調整を繰り返した結果、こうして「自由な自分の時間」を持てた。「とにかく寝ないで作業していれば、いずれ終わるだろう」という、濁った水槽から脱け出せたから言えるのだ。
多くの人は、締め切りギリギリに動きはじめて、結局いつものようにバタバタで時間切れになり、「また駄目でした」「もう最悪です」と常套句を繰り返す。仕事の出来ない人は「えー、今回も酷いスケジュールでして……」と切り出す。そうなってしまう原因を突き止めて、根絶しようなどとは考えない。

だが、彼らのせいだけとは言い切れない。
中学校になると、中間テストと期末テストが訪れ、その間につめこむように勉強するスタイルを、僕たちは強いられる。日本人特有の「一夜漬け」「徹夜」文化を、定期テストで刷り込まれる。一種の洗脳だ。この時期、僕たちは「ギリギリで時間がない」「だけど徹夜して頑張った」という美意識を植えつけられる。「もう諦める」「駄目だったけど次がんばる」などの、くだらない根性論、しょせん本気ではない内容空疎な「やる気」もセットで。
14~16歳ぐらいは身体能力も高く、感受性も強い。そんな時期に「どれほど重要なのか自分にもよく分からない定期テストという課題」に向けて、「死ぬ気で頑張る」「間に合わなければ諦める」姿勢を覚えこんでしまう。
そして、周囲の顔色を気にする。隣の席が試験開始ぎりぎりまで参考書を開いていたら、自分にはそんな必要はないと心では思っているのに、同じように参考書を開くポーズをとる。同調圧力に屈していく。「思っていても口に出してはいけない」と、覚えこまされる。


日本の会社は、朝9時に一斉に始業する。だから、通勤電車がすさまじい混雑になってしまう。
なぜか、昼休みも12時から一斉にとる。必然的に飲食店が行列になってしまうのに、やめようとしない。こうして、「みんな」でイライラを蓄積して、「みんな」で耐えて一生を終える。「みんな」が見かけだけ取り繕うために、自分自身には無益なことを努力目標にするのは、小学校の組体操から始まっている。あれを美しい、と心のどこかで思いつづけている。

僕は打ち合わせや取材がないかぎり、毎日好きな時間に起きる。好きな時間に仕事して、二回ぐらい仮眠する。満員電車とは無縁の暮らしだ。
「ずるい」と思っただろうか? 原稿料のみで成り立っている暮らしなので、自尊心がある。
誰しもがこんな風に、自分の得意なことだけを生かしながら、楽しく毎日を過ごせれば、社会を建設的な方向へ改善できるんじゃないかと考えている。まずは「私は私、他人は他人」、この自尊心を獲得することだろう。

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