2016年5月26日 (木)

■0526■

単行本が校了するまで、ほとんど映画を見られないのだが、レンタルで『ビッグ・フィッシュ』『俺はまだ本気出してないだけ』『はじまりのうた』。
Sub2_large『はじまりのうた』については、書いておかねばなるまい。
落ち目で、自暴自棄の暮らしをおくっている中年の音楽プロデューサーが、男にふられたばかりの才気あふれる女性シンガーソングライターを見出し、ニューヨークの街角でレコーディングして、アルバムを作りあげる。
その過程で、音楽プロデューサーは家族とよりを戻し、女性シンガーも元カレが自分の曲をステージで歌ってくれるのを見て、はればれとした顔で去っていく……と、撮り方によっては凡庸なヒューマン・ドラマに終わってしまいかねないプロットだ。

だが、監督のジョン・カーニーは、プロットを直線的にせず、とにかくラフに撮った。
冒頭シーンは、女性シンガーが友だちに引っ張り出されて、ライブハウスで自分の曲をギター一本で歌う。暗い歌詞だし、観客は白けているが、無精ひげまみれの音楽プロデューサーは、陶然とした表情でステージの前に立ち尽くしている。
……では、その日、彼の身には何が起きていたのか? 時間を巻き戻して、描写しはじめる。二日酔いで目覚め、会社では共同経営者からクビを宣告され、娘を車で学校から家まで送るが、奥さんとは別居状態だ。彼はスキットルを持ち歩き、つねに酒を飲んでいる。

車を運転しているとき、デモテープを聴きながら「これもダメ」「これも論外」と、彼は窓からどんどんCDを投げ捨てていく。これだけの描写で、彼が音楽プロデューサーであることが分かる。無駄をそぎ落としたソリッドな演出に、あふれ出るような豊かさを感じる。


さて、音楽プロデューサーは地下鉄で自殺しようとして失敗し、ライブハウスで飲んだくれる。ここで、映画は冒頭シーンへ戻る。
彼の救いがたい生活を見てきたあとだと、同じ曲がまるで違って聞こえる。というより、こういうプロットの組み方をすると、違って聞こえざるを得ないのだ。確かに、その曲は鳥肌がたつほど美しい。だけど、しかるべき構成の中で聞かせることによって、つまり人間の読解力や認識力に訴えることで、音楽プロデューサーと女性シンガーの抜きさしならない結びつきを予感させる、重要なパーツとして機能する。
「いい曲」だから「感動した」のではない。映画も音楽も、感覚だけではつくれない。

では、女性シンガーは、なぜライブハウスで歌うことになったのだろうか? 彼女の身に起きたストーリーが、またしても時間を遡って語られる。
他にも、ひとつの曲が生まれるまでのエピソードを、ちょっとだけ過去に戻って語ったりする。ラストでは、ちょっとだけ時間が先に進んで、また戻ったりする。
この映画の中で、明らかな「現在」として描かれるのは、音楽プロデューサーと女性シンガーが仲間たちを集め、ニューヨークのあちこちでレコーディングするシーケンスだけだ。その中でも、演奏中の曲が次のシーンにずれこんだりする。その自由な構成と、手持ちを主体にした実体験的なカメラ・ワークは、とても相性がいい。


物事がどのように生起するのか、ジョン・カーニーは懸命に洞察している。「思い」より先に、「事実」をどう伝えるべきなのか、慎重に考えているんだ。
「事実」を効果的に伝えられて初めて、「思い」を受けとってもらえることを、彼は知っている。
僕は、その姿勢に心打たれたし、また元気づけられもした。二日酔いで無駄につぶした日が、この慈悲深い映画にかなり救われた。



ジョン・カーニー監督は、映画監督になる前はロックバンドに属しており、そこでPVを撮っていた。
過去に戻りながら、別の角度から「現在」をくり返し描く構成は、音楽の応用なのかも知れない。


(C)2013 KILLIFISH PRODUCTIONS, INC. ALL RIGHTS RESERVED

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2016年5月25日 (水)

■0525■

モデルグラフィックス 2016年 07 月号 発売中
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●組まず語り症候群 第43夜
小さいころから、ちょくちょく見かける「塗料のセットされたプラモデル」を取り上げてみました。
「すすさん勝手に立体化計画」は、今回からファンド製フィギュアの経過写真を載せはじめました。「こんなんで大丈夫なのか」と不安に思うだろうけど、なぜか「ちゃんと落ちつくところに、落ちつくのだ」ということだけは分かる。たぶん、歳をとったからでしょう。
常に、「こういう落着のしかたをするはず」と分かってから、仕事を始めるようにしています。


アニメ『スター・ウォーズ 反乱者たち』がシーズン2に入り、かなり面白くなってきた。
Relics_of_the_old_republic_thumbシーズン1は、華やかだった共和国の時代を知らない戦後生まれの若者が、はぐれ者のジェダイ騎士に師事する、エピソード4のプロットをなぞった構成だった。ところが、シーズン2からは、旧三部作の要素だけではなく、新三部作の置きみやげを積極的に使いはじめた。クローン・トルーパーの生き残りが、エピソード2に出てきたAT-TEを住居にして、ひっそりと暮らしているストーリーから始まる。
だが、ジェダイ騎士の末裔からすれば、クローン兵は仲間を殺した敵なので、手を組みたくない。ここに「帝国軍vs反乱者」という図式とは別の、歴史的・民族的コンフリクトが生じる。そして、第3話で、クローン兵たちは初めてAT-ATを目の当たりにして、その大きさに驚く。
AT-TEは20年以上前に配備された旧式機のはずだが、作品が作られた時期が新しいため、AT-ATよりもデザイン的に洗練されてしまっている。また、小型のほうが機能的で機動性が高いように見えてしまい、当時からデザインの志向性が尖りすぎているのではないか……と、気になっていた。だが、両方を同じフレームに入れると、味方側のAT-TEは小さくて頼りなく、AT-ATは無機的で堅牢に見える。

まず、AT-TEには主人公たちが乗りあせているので、人物と絡んだショットが多い。外観をとらえるときも、真横にカメラを置いているので、そのポンコツなルックス(砲座は人がむき出しになっているし、手すりやハシゴが多い)とあいまって、身近な感じがする。
一方、AT-ATは、あおりのアングルばかりで威圧的だ。3機ともまったく同じ形をしているので、冷たい印象を与える。
僕は、このような対比や描きわけこそが「ドラマ」だと思う。人物が叫んだり感情を発露しないとドラマにならない、などと思っていると、映像作品を見ている意味がない。


ついでに書いておくと、僕はエピソード2で、ルーカスが旧作よりも「進んだ」「今風の」デザインを採用したことは、誤りではないと思う。
作品内の時代設定や整合性を気にしすぎて、控えめなデザインにしてしまうのは本末転倒といった気がする。新三部作は、単に「前日譚をつくった」などという単純な試みではなく、旧三部作のバージョンアップ版だと僕は考えている。なので、最先端のデザインや映像技術を全投入するのは当たり前。ファンの目線をびくびく気にしながら、及び腰で作られた最新作とは、そこが抜本的に違う。

本の宣伝で「絶対に泣ける!」というキャッチコピーがあったが、「知恵」や「工夫」に感動した経験のない人の言葉だろう。
だけど、みんなが「泣けるかどうか」を気にしている社会は、それだけストレスが強いということでもあるので「泣くために作品を利用するな」とは言い切れない。

(C)Disney

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2016年5月21日 (土)

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アニメ業界ウォッチング第21回:広報担当から見た10年目の「ゼーガペイン」 廣岡祐次(バンダイビジュアル)&渋谷誠(サンライズ)インタビュー!
T640_706268新作やイベントが待機中の場合、宣伝会社やメーカーさんがインタビューを提案してくるのが通例です。むしろ、僕らのような仕事は、半分以上がパブリシティといってもいいし、それで食えてしまうとも思います。
なので、いま僕から『ゼーガ』のインタビュー記事を(しかも宣伝担当の方に)お願いするのは、「おおきなお世話」だったとは思います。
ただ、「え? そうだったの?」という新しい情報も聞けました。けっこう、「これは聞いてもいいのか」「話してもいいだろうか」と、確認しながらの白熱したインタビューでした。もちろん、原稿に書けなかった情報も、いっぱいあります。


ちょっと前に耳にして、どうしても気になっていることなんだけど……。
映画は人間の感情を描くものであって、政治や歴史を描くものではないんだそうです。何よりも、気持ちが大事なんだそうです。そのように考えてる人が多いから、日本映画は絶叫するシーンが「感情の発露」の記号になって、「がんばったけど、ダメだった」「今の自分を変えなきゃ、でも変われなかった」みたいな、現状肯定型のプロットが増えたんじゃないんだろうか?

「政治や歴史は堅苦しいから描かなくていい、もっと感情や気持ちを描くべき」という考えは、僕らの生活が政治や歴史の一部である事実に無自覚・無頓着すぎるし、何より、負け犬の発想だと思います。
別に革命をおこして現政権を打倒しろとかいう話ではなく、僕らが義務教育で最初にやられたのが「自尊心の剥奪」だからです。大人が正解を隠して、30人か40人の同年齢の子たちにヨーイドンで探させる……というアレです。学校の教室が発生させるのは、コンプレックスとアパシーです。


コンプレックスとアパシーにまみれた負け犬のままだから、「感情描写=大声で叫ぶ、泣く、笑うオンリー」といった不感症に罹患してしまうのではないでしょうか。
不感症は言葉に不自由しないから、何を見ても「まっとうなエンターテイメント!」「これぞ王道娯楽!」「原点回帰!」しか、口にしなくなってしまう。
さもなくば、「映画の見方には正解がある」「それを見つけられた俺の勝ち」「見つけられなかったら負け」……映画にかぎらず、コンプレックスの強い人ほど、「答え」があると信じたがる。

その「どこかに正解があるに決まってる」という世界の把握のしかたと、マンガの実写映画化で「そっくりさん俳優」を見つけてきて「似ている!」と評価したがるのは、通底してるんだろうな。
何かを誉めるときに「合格」という言い方があるけど、僕は好きじゃないです。


「セクハラ」と批判 「ちょうどいい感じの美人な人事担当者」会社説明会が中止に
「美しすぎず、ちょうどいい感じの美人」と、自社の社員をセールストークに使っただけで「セクハラ」「性差別」なら、もう文明は滅びますね。
映画に「美人女優」が出演していたら、もう上映中止でいいんじゃない? 

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2016年5月18日 (水)

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EX大衆 6月号 発売中
Ex_taishu
●新作映画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN Ⅲ 暁の蜂起』徹底ガイド
5ページもあるので、担当編集と松竹の会議室で試写を見て、帰りに構成を決めます。取材は、池田秀一さんのインタビューがとれました。

池田さんのインタビューの翌日が、稲城長沼駅前でのイベントで、池田さんに「明日、いらっしゃるんですか?」とにこやかに聞かれてしまったので、仕事とは関係なく、行ってきました。
稲城長沼といえば、大河原邦男さんの取材が去年は多かったので、何度か足を運びました。ああいう方たちが、ファンの顔色など気にすることなく悠々と、泰然自若としてらっしゃる様子には、なんだか常世の春を眺めているような、おおらかな、落ち着いた気分になれます。


ここ数日、ほぼ家にこもったまま、単行本の原稿を書いている。
一昨日は風邪だったらしく、いつもは5時間しか寝られないのに、10時間も寝た。その日に予定されていた編集者との打ち合わせをキャンセルしてもらい、46ページ分のラフを書くことになり、それはいまだ書き終えていない。
ラフを切り終えたら、二人分のインタビューを原稿にまとめて、そろそろ結論を書かねばならない。そして、来週は表紙の撮影である。

だが、46ページ分のラフについては「年表になるように」という厳しいオーダーが編集から出ており、「『夢次元ハンターファンドラ』と『天空の城ラピュタ』と『アリオン』、公開年が早いのはどれだ?」といった検索をしている。これらは、ツクダホビーがキットを発売していた。
そこへ、『やるっきゃ騎士』『幻夢戦記レダ』などをキット化していた、日東科学がからんでくる。メーカーが入り混じるのは美しくないので、先にバンダイ、イマイ、ツクダ……という感じに、ブロック単位で並べていくしかない。僕は、ただ並べるだけなので、デザイナーさんが楽しんで工夫してくれることを期待している(編集とデザイナーさんの打ち合わせは明日。僕は、明日には原稿に戻らなくてはならない)。


わりと、ネットで見かけることが多い光景だが、誰かがオススメの映像作品を見つけてきたり、冴えた問題提起をしたりすると、頭ごなしに叱りつける人がいる。
うまい言い方が見つからないが……、僕らは、他人と自分の優劣のつけ方が下手だ。同い年の子どもを30~40人も、丸一日、同じ教室に閉じこめておけば、実力で優位に立てなかった子は、揚げ足とりをおぼえるしかなくなる。
自分の成功を、他人の失敗で代用するようになる。自他の区別が、つかなくなる。

オタク関連の記事や書籍で、もっとも多いリアクションは「○○が載ってない」「□□について言及してないとは、片手落ち」といった、即物的な粗さがしだそうだ。僕の本も非難にさらされるだろうから、なるべく多くの資料を載せるように……と、注意されている。
理屈で勝てない、実力で勝てない人は、テロに走るしかない。匿名で、いきなりブチ切れたメンションを送るしかなくなる。

だが、僕たちは知っている。愛の反対は無関心なので、本当に勝とうと思ったら、自分だけの楽しみを見つけて、他の誰かの愉悦など無視してしまえばいいのだ、ということを。

早く夏が終わって、航空料金の高いシーズンがすぎて、原稿料を手に、日本を出ていくことを楽しみにしている。

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2016年5月15日 (日)

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ホビー業界インサイド第11回:超合金から食玩まで、オモチャに捧げた半世紀! トイ・デザイナー、野中剛インタビュー!
T640_705794これまで、「超合金Walker」などの取材で同席させていただいてきた野中さんに、初の単独インタビューをお願いできました。
僕は野中さんの作ってこられた超合金やヒーロー玩具が好きだから、取材したわけではありません。
「モチーフが好きだから、そのモチーフを作った人に取材する」ような、単純なことではダメだと思います。少なくとも、野中さんに対しては、それではダメだと思いました。

僕は、野中さんが好きなモチーフをどう仕事に落とし込んで、どこまで趣味性と拮抗させて、「好き」「欲しい」という気持ちを昇華しているかに興味があります。
また、彼の貪欲な、傲慢と受けとられかねないほどのバイタリティにも、惹かれます。
「好きなアニメや特撮が同じだから」という理由で仲がいいより、「好きなものは重ならないけど、精神性に惹かれる」ほうが、得るものは豊かだと、僕は信じています。


僕と野中さんが初めて顔をあわせたのは、実は30年前です。
株式会社ウェーブの依頼で、僕は『聖戦士ダンバイン』のライネックのソフビ・キットの原型を作っていました。結果からいうと、あまりに出来がイマイチなため、ベテランのモデラーさんに引き継いだのですが、大学からの帰り、毎日、ウェーブさんに寄って、原型をいじっていました。
そこへ、「彼がライネックのパッケージ・イラストを描いてくれる野中君」と、ウェーブの社長に紹介されたのでした。

僕はプロモデラーとしては挫折、敗走することになりますが、野中さんは20歳ごろの仕事を貫いているわけです。そうすると、自分の穴だらけの人生を振りかえる契機にもなります。
野中さんは超合金魂というブランドを成功させて、そのとき、僕はまだライターですらなくて、映画監督になる夢をあきらめかけながら、地味なアルバイトを転々としていました。
あの孤独なような、だけど夢だけは捨てきれず、今よりは人と会って話すことの多かった日々を、今なら「そんなに悪くなかったんじゃないかな」と思えます。何も手に入らなかったけど、いっぱい本を読んで、いっぱい映画を見て……もしかすると、今より充実していたかも知れない。


で、同じころ、野中さんはバンダイ社内で企画を成功させていたわけです。
すると、50歳になった今、ある程度の満足感は得られているんじゃないか……。50歳って、「もう、これでいいか」って思えてしまう年齢なのかも知れない。それと、「残りの人生で、これぐらいはやれるな」と、自分の力量、度量も見えてくる。「これを自分の残り人生にプラスオンしたいから、ここは軽くしておきたい」という判断もできるわけです。

いま、昼夜をとわず単行本を書いているけど、「文体の美しさは枯れてしまったけど、取材の方向や厚みは、間違ってなかったぞ」と手ごたえを感じています。これは、50歳を前にした、しかも人生が思いどおりに行かなかった僕にしか書けない、片想いのラブレターのような本なので、書いても書いても、決して満たされることはない。
資料的に正確なのかというと、そこまで客観的な本ではない。資料だったら、誰か他の人が整理したほうがいい。

ただ、明らかに「いつもの仕事」とは違う、異次元のようなモードに入っている。第一章の熱量がものすごいんだけど、数日前に書いたはずなのに「どうやって書いたんだっけ?」と、他人が書いたような感じ。コントロールはできていない。でも、だからこそ異様な混沌に満ちた本になると思う。
信じられないけど、来月発売です。告知とか宣伝とか、いつからやるんだろう。分かったら、このブログで発表します。

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2016年5月12日 (木)

■0512■

レンタルで、『ファミリー・ツリー』。いやなことがあったときは、レンタル店の「ドラマ」と書かれたコーナーに立ち寄り、3本ほどストックされた人気作を選ぶにかぎる。
341350_01_04_02ハワイに暮らす弁護士の妻が、事故で植物状態になってしまう。やがて、弁護士は事故にあう前の妻が、浮気していたことを知り、娘たちのたすけを借りて、浮気相手を探しはじめる。
寝たきりの妻の描き方に、悲劇的要素はうすい。そんな簡単なところで泣かせるような映画ではない。彼女の死にぎわも、あっさりしている。映画の物語的ボディは、先祖代々ゆずりうけてきた広大な土地を売るべきかどうか……である。だが、売ってしまうと、妻の浮気相手が儲かる仕組みになっている。そのあたりの設定は、ちょっと分かりづらい。だが、分からなくてもいいような映画だ。ゆったりした景色や音楽、長女役のシェイリーン・ウッドリーの小粋な演技を楽しむ。人間の世界を嫌いにならない。心を、広くする。そのための映画だ。

そんな気分になりたいときは、映画の演出も脚色も、脳の中から追い出してしまっていい。
映画だからって、必ず「鑑賞」「批評」しなければいけないのかというと、自分の精神状態によって、映画の「あり方」「役割」を変えられるようでないと苦しいんじゃないかな。


“女子大生と航空機に” 批判相次ぎ中止 HIS(
「セクハラではないか」だそうで、ツイッターを検索しても「中止して当たり前」といった論調が目立つ。だけど、ちょっとだけ、一手間かけてタイアップしていた「東大美女図鑑」のサイトを検索してみれば、「東大女性と東京大学のイメージアップを図るために、東大文科一二類26組のクラスメイトを中心とした男女7名によって、2013年3月24日に活動を開始」()と分かる。本人たちが「美女」を自認しており、雑誌の編集も本人たちが行っている。だったら、彼女たちをセクハラする主体は誰なんだろう?

「美人の女子大生と一緒に、機内ですごせますよ」と言ったら、ひょっとしたら、触ってくるような男が出てくるかも知れない。それなら、「触った」事実をこそ罰するべきでしょう。
東大の女子学生たちが、自らのイメージアップのために活動しているのに、彼女たちの側には立たず、存在しもしない加害者の目線で「セクハラ」認定、HISを利用しない人が「不快」表明。そんな暴力的な感覚で物事が潰されていく世界を、僕は恐ろしいと感じる。

「これからセクハラが起きるかも知れないから、女子大生の主体性は潰してもいい」人たちは、実際に起きてしまった性犯罪に、どれだけ興味を持ってくれているんだろうか。
冷徹な事実より、茫洋とした「快」「不快」を重視する人たちが、理不尽なまでの権力を発揮しつつある。(「男だったら、横に若い女性が座って嬉しいはずだ」って決めつけも、軽度のセクハラと思うけどね……女性を苦手な男性もいるので。そして、HISの企画は、男性限定サービスではなかったみたいだね。)

(c)2011 Twentieth Century Fox

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2016年5月 8日 (日)

■0508■

何しろ、来月中旬、単行本を出すことになっているので、朝から晩まで原稿を書いている。書きたいことは半年以上もたまっているし、十分に取材もして、テープ起こしも上がってきているので、悩むことなく書けている。


単行本といえば、図書館では常に、何かしらの本を借りている。タダで借りられるし、つまみ読みするのに、図書館は便利だ。ネットで予約したり取り寄せもできるので、書店よりも重宝する。だが、お目当ての本を手にとってみると、意外と版型が大きくて、持ち歩くのに不便だったりもする。
気に入った本は、常に持ち歩いてパラパラと読み返したい……かといって、文庫になるまで待てないし、文庫では存在感がない。悩んだ結果、Kindle端末を買った。5千円かそこらで買える。

Wi-Fiの繋がりやすい駅前で、無料で一冊、ダウンロードできた。
Featureintrojp_tth_端末も片手で持てるぐらいのサイズで持ち運びに便利だし、スマホのように多機能ではないので、気も散らない。ほっておくと、勝手に画面が壁紙になっておとなしくなってくれるところもいい。デザインに主張がなく、スタンドアローンな感じがして落ち着いている。
ところが、本の中のある部分に点線が引いてあり、「○人がハイライト」と注記されていた。僕にとってはどうでもいい箇所なのだが、他人が線を引いたと、いちいち表示される。これでは、赤線の引かれた古本と同じではないだろうか。

「○人がハイライト」は、端末の設定メニューで消すことができる。
だが、その表示で気持ちがさめた。Kindleで本をダウンロードしても、単にデータをシェアしているだけであって、本を所有していることの代わりにはならないわけだ。ネットが常時接続になって十数年、ニュースや短い読み物をサッと読む機会は増えた。特定の人の長い旅行記をブックマークしておいて、半年も一年もかけて、つまみ読みしたりもする。

その、ネットをうろつくのと同じ気分で「読書」はできない。本を読む、買うことの本質は、文字列を所有することではないのだ。寺山修司のエッセイや映画に、「巨大で重くて、読むのに体力が必要な本」が、しばしば登場する。読解して、新しい情報を頭に入れることだけが本を読むことの本質なのだろうか?

おそらく、手を使わずに、本を空中に浮かせたまま読んだり、体力をいっさい使わずにページをめくり、読んだあと、いつでも空中から取り出せるぐらいインターフェースが発達したとき、本は別の何かに取って代わられるのだろう。


何がどう……とは書かないが、またしても単に「やる気のない人」が、他人の計画をつぶして、「やる気」に水をさして平然としている。ゼロから石を積み上げた経験のないボンボンは、怖がって石を避けるついでに、人に石を押しつけて逃げ出す。
やる気がないなら、「気が進まない」と、一言いってくれれば追わないし、こっちはこっちで対策を考えるのに、わざわざ人を不愉快にさせて、去っていく。

今日は、母の日。墓前にそえなるカーネーションを買いに、混雑する花屋へ向かった。
こういうにぎやかな祭日には、「人を嫌いになりたくないな……」と、いつも思う。

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2016年5月 5日 (木)

■0505■

レンタルで、『カリフォルニア・ダウン』。
Sa04044r_large地震災害を、宇宙人の侵略程度にとらえた映画。確実に助かるのは、救難隊員の主人公と、その家族、娘に優しくしてくれた兄弟だけ。主人公と敵対していた男は、天罰のように事故死する。

この映画では「巨大地震から逃れられるのか」という主系的葛藤と、「バラバラになりかけていた家族が仲直りできるのか」という観客が感情移入しやすい傍系的葛藤とが併走する。
主食と副食のように、その両輪さえ機能していれば、たいていの映画は脱線することなく完走する。が、そのロジックは、映画の内部でしか機能しない。「なるほど、このプロットなら納得いくな」と映画の内部に没入する自分と、「そんなバカな」と映画の外部に留まりつづける自分とがいる。「ご都合主義」は、映画の合理性から生じる。いい加減に作っているからご都合主義に陥るのではなく、破綻をまぬがれようと文法を駆使した結果、「映画の外」に立ちつづけている視点から、作り手の都合を見抜かれてしまうのだ。


映画の文法は、もう何度かピークを超えてしまっている。「二時間の映画だったら、一時間こえたあたりで、決定的な何かが起きる」、この法則を習ったのは、20年以上前のことだ。90分の映画なら、45分あたりで何かが起きて、物語の方向性が変わったり、決まったりする。ためしに時間をはかりながら、見てほしい。たいてい、そういう構造になっている。

物語のロジックが定型化しているとしたら、あとは映像しか楽しむべきところはないのだろうか。『カリフォルニア・ダウン』は災害パニック映画なので、スタントとCGの合わせ技が見どころだ。津波が襲ってきたと思ったら、小型ボートでサーフィンのように爽快に乗り切ってしまうシーンなど、笑って許せてしまう完成度だ。
不謹慎な言い方をするなら、「アメリカ同時多発テロのニュース映像の、バージョンアップ版をえんえんと見ていたい」欲求をかなえてくれる映画だ。「悲惨なこと」「許されないこと」を楽しむ、それがフィクションに与えられた特権だと思う。

では、倒壊する無数のビルをヘリコプターで避けたり、水没したビルにボートで突っ込んだりする映像をよりリアルに楽しむには、3Dで見たりIMAXで見ればいいのだろうか。
だが、スクリーンを大きくしたり、立体視したりする試みも、映画史の中で何度となく繰り返されてきた。いまに始まったことではない。
なるべく大勢で、体験を共有せねばならない娯楽映画は、いま何度目かの壁に当たっているように見える。


地上波放送されるたび繰り返される、『天空の城ラピュタ』『コマンドー』『バトルシップ』のSNSでのお約束的な盛り上がり。そのような、映画の外縁に、ひょっとすると映画を楽しむ主体、メイン会場が移ってきているのかも知れない。
だけど、映画会社やテレビ局が「ハッシュタグつけて、ツイートしてくれ」「トレンド入りを目ざそう」とコントロールしようとした瞬間、それはもう映画の外縁ではなくなってしまう。

僕は、映画の奥深くで機能している、映画を映画たらしめるロジックを愛する。と同時に、監視衛星のように映画の外を周回しながら、映画の現在を見つめる視座を持ちたい。
僕がテレビをつけていなくても、「バルス!」というツイートで、『ラピュタ』が放送されていることが分かる。見ていなくても、伝わってくる。そのとき、「バルスだけじゃなくて、脚本や演出も、ちゃんと見るべき」と指摘するのは、野球を見て盛り上がっている観衆に「野球のルールや歴史を勉強しろ」と諭しているようなものだ。
「バルス祭」は食傷気味だが、映画のボディ(本体)が、映画の内部にあるとは限らない。映画館の客席にすらないような気がしてきている。

(C)2014 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED, WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC

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2016年5月 3日 (火)

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ホビー業界インサイド第10回:プロモデラーが出迎えるホビーショップの存在意義 「模型ファクトリー」マイスター、関田恵輔、インタビュー!
T640_705219新宿マルイアネックス(バルト9があるところ)のお店、模型ファクトリーの関田恵輔さんに、インタビューしました。
いつもイベントでにぎわっていて、プロモデラーが出入りする店舗は、現在のプラモデル・ブームの最前線であって、こういうお店が繁盛していてこそ、僕なんかが模型誌に連載をもてるのかも知れません。

【懐かしアニメ回顧録第18回】背景美術をセル画が支配していく爽快感! 「クラッシャージョウ」の60年代カートゥーン的魅力とは?
アキバ総研さんに書いたコラムです。
過去の関係者インタビューなどで触れられていることかも知れませんが、『クラッシャージョウ』は商業アニメ(テレビアニメの延長)であることに抵抗しないというか、セルアニメであることに自覚的な作品だと思います。当時の若者の、セル画へのフェティシズムを満たしてくれた、と言ってもいい。色も派手だし。

ただ、文中にも書いたように、いまは壊れたり動いたりする背景は、3DCGで作画されることが多いので、「セルで描かれた背景」は、やっぱりレトロなんです。それはもう、引き返せない(引き返す必要のない)道なので、コラムで触れる、労をねぎらう程度で、十分でしょう。


今月は、単行本の執筆に入っている。
なんと、来月中旬発売なので、一ヶ月で丸一冊を書かねばならない。原稿料が入るのは夏ぐらいなので、レギュラーの仕事も平行してやっておく必要がある。

ほかにも、独自のキャラクターを展開させようと動いてみたり、逆に周囲から提案されたりしているが、そうした動きを稼ぎに転換する方法を、まだ思いつけないでいる。
また、自分の中では新しい試みでも、周囲から見れば「いまさら、それが何の役に立つ?」と首をかしげられることが、目に見えている。
(狙いのぼんやりした小規模なビジネスやプロモーションは、いたるところに溢れている。それなりに赤字だったり、認知されていなかったりするので、すぐ分かる。)
それでもやらねば、地平に立てない。

さいわい、単行本は「いま自分が書かねば、10年たっても20年たっても、決して誰にも書けない」内容になっている。誰の真似にもなっていないし、何かのくり返しにもなっていない。
ただ、これも大きな稼ぎになるとは思えない。単行本は、得てして効率が悪い。

『甲鉄城のカバネリ』の、質感を描きこんだアップ・ショットは松本幸子さんたち「メイクアップアニメーター」が、特効のようにタッチを描き加えているという。
008lしかも、闇雲に入れているのではなく、各話につき、数ショット程度にしぼっているようだ。今は、デジタル描画ツールで、複雑な効果を誰でも描けるようになった。そのようなイラストが、玉石混淆でネットにあふれている現在、僕らの「イラストを見る精度」も、生理的に向上しているはずで、さもなくば「メイクアップ・カットは見づらいから、アニメでは使うな」とでも反発をくらっていただろう。

こうした進歩をありがたく享受しつつ、なぜそのような表現が出てきたのか、アニメーションの外部から考えると、面白い。
で、アナログ時代のセル表現を知る世代が、地つづきで、デジタルならではの進化した表現に触れられる贅沢を、もっともっと噛みしめたほうが幸せなんじゃないか……と思う。

ただ、シナリオ論でもビジュアル面でも、「専門的な細かいこと言わずに、どこで泣けたか、感動したか」といった割り切りを、あちこちで迫られるのが、僕のような立場だ。
なので、ちょっとずつ、仕事を自分の側に寄せるというか、自分で仕事の場を作り込まねば、居場所がなくなってしまうのです。

(C)カバネリ製作委員会

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2016年4月28日 (木)

■0428■

レンタルで、『百円の恋』。
Sub05_koi_8450_large職なし、男なし、ゲーム三昧で太ってしまった安藤サクラ演じる32歳の女が、ボクシングをやっている男と出会い、その男に捨てられたことがキッカケで、プロボクサーになるため奮闘する。
言うまでもなく、ストーリーラインに合わせて、本当にボクシングの練習をして、どんどんスリムになっていく安藤サクラという女優の肉体を見る映画である。

ということは、「安藤サクラが、実際にトレーニングした」情報が、映画を見るうえでは不可欠だ。その前情報が、通奏低音のように流れているから、職も男も失った安藤が試合に向かっていくクライマックスに、生々しい緊迫感が生まれる。
ドキュメンタリックな、「情報と映像が渾然一体となった安藤の肉体」を記録した映像であって、カットワークがどうした、演出がどうしたといった作品ではない。逆に、映画をカットや演出だけで見てしまうことの危険性を、このフィルムは教えてくれる。


安藤が勤める百円ショップにかかわる脇役たちが、あまりに作り事めいていて鼻白むだろうが、「劇映画としてのトータルバランス」など、初めから期待する観客こそがバカなのだと、これまた痛切に教えてくれる作品でもある。
ボクシング・ジムのオーナーが、つねにカップヌードルをすすっているのはランニング・ジョークのつもりなのだろうが、もちろん笑えない。そもそも、カップヌードルから湯気が出ていない。数時間でまとめて撮ったことが、バレてしまっている。

だが、オーナーの横に立っているトレーナー役の松浦慎一郎。彼は、俳優でもあるが、プロのボクシング・トレーナーでもある。試合のシーンで、迫真のセリフ(おそらくは、ほとんどアドリブ)ばかり発するのは、そのためだ。
フレームの外で俳優が身につけた体験、フレームの外で鍛えられた肉体こそが主体性を発揮し、フレームの中だけでつくられたパートは、ことごとく弱々しい――そこに、劇映画の実相、構造が見え隠れする。


ようやく、岡本喜八版の『日本のいちばん長い日』を見た。
51a5a18e50947d9c0e412b3cbee9bb83300この映画の公開年に、僕は生まれた。終戦から22年目。ということは、出演者のほとんどが戦争を経験している。当時の観客も戦前、戦中生まれの人が大半だったと思う。つまり、作り手も受け手も証言者、当事者だったと言える。

喜八版では、クーデターを起こそうとした将校たちの無念の思いが、手に取るように伝わってくる。
また、阿南陸相は玉音放送と似た内容のことを、自決の場に居あわせた井田中佐らに語っている。そうすると、阿南が自決した意味にも、納得がいく。

原田眞人版には、昭和天皇の登場シーンが多く、阿南との親交も語られるが、喜八版では昭和天皇の顔は映らない。原田版は、あくまで「個人」として天皇や政治家を捉えているのであって、時代を振り返っているわけではない。
ここまで大きな決断を、もろく傷つきやすい「個人」の描写にとどめるしかなかった原田版からは、(喜八版公開からの)50年のあいだに、日本人がどう変質したのか読みとることが出来ると思う。中学や高校の社会科の教師は、玉音放送の内容なんて一度も教えてくれなかったよな……と、ふと思い出す。

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