2014年10月21日 (火)

■1021■

チャンネルNECOで、『ガッチャマン』。これは友人二人が見に行って、「もうケナす気力すら沸かない」と呆然としていた映画なんで、最初は笑いながら見ていたんだけど、ベルク・カッツェ登場のあたりから、身を乗り出すほど楽しんだ。カッツェ役は、初音映莉子という女優なのか。カッツェが、すべて持っていった。

まず、カッツェはガッチャマンになり得る適合者でありながら、そのまま死ぬことも出来たんだ019けど、あえて敵のボスになった……という背景がいい。今いち納得いかない設定だろうけど、そのほうが詩的な感じが出る。「整合性はないが、なんとなくいい」なんてシチュエーションは、小説でも映画でも、山ほどある。

しかも、かつての恋人であるコンドルのジョーの元へ現われて、ジョーをキスによって感染させて、半分ほどギャラクターの血をまぜてしまう。私についてくるか、それともガッチャマンのままでいるか、自由にしなさいって誘いをかけるわけだ。
それが物語の中盤。そういう極私的な、内面的な葛藤を、映画の真ん中に持ってくるセンスがいい。そのあとの「地球の主要都市を救う」なんてシークエンスは、歌舞伎の演目みたいなものであって、メインテーマは「カッツェを殺せるか、それとも誘惑に負けるか」なんですね。


で、敵の要塞へ突入するんだけど、もはやカッツェとジョー以外、何も見る必要はない。
二人が戦っているところへ、主人公のケンが横入りする。その攻撃で、カッツェのマスクの左目部分が外れる。同時に、ジョーのヘルメットの左目部分も割れている。ジョーは、普段は左目を髪で隠してるんだけど、ギャラクターの血に感染してからは、左目が赤くなってしまう。その赤い左目が、ヘルメットが割れて露出してしまっている。同時に、カッツェの左目も露出する――。その段取りが、まるでデザインのように綺麗な流れをつくる。
映画を見るんなら、そういう部分を面白いと思えなきゃ、損ですよ。

そこから先は、暑苦しいマスクを外して、初音映莉子が素顔で剣をふるってくれる。紫のマントをはためかせて。これが実に、目に滋養ですよ。眼福ですよ。
また、セリフがいいんだ。ジョーが、かつて恋人だったころの、思い出のペンダントをちぎって捨てると、ポツリと「ああ……そっち?」 あなたは私ではなく、ガッチャマンでいつづける方を選んだのね、という意味。そして物憂げに顔をかしげたかと思うと、自分も思い出のイヤリングを捨てるんだ。無言で。そこから、また剣で戦う。

死ぬまぎわの表情が、また絶品だった。憎むような、くやしいような目でにらんだかと思うと、ふっと表情がゆるんで、最後には寂しく微笑む。そこまで描いたら、もう十分でしょう。
それ以外のすべては客引きだと思うんだけど、それは空回りしていた(笑)。荒牧伸志さんのデザインワークは、CGにはフィットするんだけど、実写では情報量が多すぎる。白組のエフェクトは、随所で小技を効かせているんだけど、世界観を補強してはくれない。
もっとシンプルでよかった。全体的に。


それでまあ、予想はしていたんだけど、ネットでは袋叩きだね。
「みんながカスって言ってる映画は、クソミソにいじめ抜いてOKだよね」って風潮は、「自己責任」って言葉が流行りだした10年前ごろに、始まったような気がする。「みんなで叩くって決めたんだから、叩かないヤツはおかしい」と同調圧力こみの吊るし上げ。いちど悪意が決壊すると、もはや歯止めがきかない。それが今の日本人気質。

気に入らないからって、嘲笑まじりに低い点数つけてみたりさ。アニメでも、ソフトが何枚しか売れなかった、駄作決定とかさ。回避不能な「失格」のレッテルを貼りたがる。日本全体、余裕がないんだよ。それは社会構造の反映であって、みんながその趨勢に意志をもって抵抗しないと、何も改善されないんですよ。

(C) タツノコプロ / 2013 映画「ガッチャマン」製作委員会

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2014年10月19日 (日)

■1019■

ひさびさに、ムック本にがっちりと関わっている。膨大なテキストを書き終えたが、そのうち校正が来るだろう。その間にも、ショートスパンの仕事を、まんべんなく差しはさんでいく。

なんと、今ごろになって「このネタなら、単行本で出しましょう!」と熱烈なアピールがあり、資料協力を友人に打診した。すると、「ついにメジャーデビューしたバンドのインディーズ時代からの追っかけのような気分」という返信が来て、ちょっと笑ってしまった。


『Gのレコンギスタ』は、技術と努力と経験と慈愛に裏づけされた安心・安定の面白さ。その分、『∀ガンダム』のように「あれ? けっこう面白いぞコレ?」という発見はないかも知れない。それは贅沢な話で、三回ぐらい続けて見返してしまうほど、充実感がある。

驚いたのは『四月は君の嘘』第2話。楽器の演奏シーンは、『耳をすませば』あたりから、Photo4 「チャンスがあればモノにしたい」テーマになっているんじゃないかな。アニメーターさんにとっては。
『マクロスF』第12話の歌唱シーンを描いた高橋祐一さんに取材したところ(放送当時)、スポッティングとリズムライン。これがないと、歌モノのシーンは描けないんだそうです。

『四月は~』のバイオリン演奏シーンもプレスコだから、アニメーターは、演奏時間の制約の中で描いたはず。だけど、その場に居合わせたかのような臨場感が出た。
それはやっぱり、作画で誇張が加わっているからだろう。実写で撮ると、「演奏の記録」にならざるを得ない。映像というのは、基本的に残像なんだ。だけど、アニメは残像をつくるんだよね、時間を遡行して。だから、記憶と結びつくいうか既視感のある作画に出会ったとき、「おお!」と驚くんじゃない?

それは「実写に、実物に近い絵になっている」という意味ではないんですよ。まったく別次元のルートを辿って、「実物を見たときの印象」を獲得しているから、すごいんです。
(そういう意味でいうと、たとえば「写実的な絵だからワイセツ」とかいう理由で18禁漫画を訴える人って、つくづく絵の見方が分かってない、勉強してないし鍛えられてないなーと思います。)


バブルの頃、小学校からの友人が就職したとき、「これでもう一生(この会社に勤める)かな」と苦笑していたものだけど、彼は結局、結婚後に他の会社に転職した。
夏に会ったときは、「何か新しいこと、今まで知らなかった分野で事業を始めてみたい」と言っていた。この社会には流動性がない。会社員になったら、会社員として死ぬしかない。そういう前提で、生活をとりまく仕組みが作られている。

「これしか選択肢がない」というのは、追い詰められた人間が、よく陥る心理状態だ。
フリーライターは「忙しい」を連発して徹夜して、好きなことを好きなように書いて、業界に知り合いがいっぱいいて、がばかば儲けてる職業……そんなイメージを粉飾したって、ダメなんだと気づいた。「ダメ」というのは、それでは外部との回路が遮断されていく一方だなって。
アイデンティティを硬直化させては、ダメなんです。平日はサラリーマンだけど、土日はボランティアをやっている……のは贅沢かも知れないけど、レイヤーを重ねた人生でないと、絶対に閉塞する。40代後半なら分かるはず。趣味を増やすとか、そういう意味ではない。

武器をいっぱい持つとしても、身軽でないと持ちきれないでしょ。脱ぎすてる勇気がないと、多層的な生き方はできないですよ。

(C)新川直司・講談社/「四月は君の嘘」製作委員会

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2014年10月16日 (木)

■1016■

起きたら、脳の状態が良好なうちに原稿を書いて、メシを食って一休みして、また夕方ごろから原稿書いて、そのまま深夜まで……という生活なので、DVDを借りに行く暇もない。

なので、録画してあった『ゴジラ対ヘドラ』を見てみた。僕が4歳だった昭和46年の公開で、300010_big_2初めてリアルタイムで見たゴジラ映画が、『ゴジヘド』。ただ、特撮映画よりはセルアニメが好き(つまり、東映まんがまつり派)だったから、ゴジラ映画は、それっきりだ。

しかしまあ、なんという醜悪な怪獣だ。巨大なオタマジャクシのような幼生体も気持ち悪いが、工場の煙突から排煙を吸うときの音も、ものすごくイヤな感じだ。ゴジラのように、水爆実験に対する怒りもないし、感情が読みとれない。
ただ移動するだけで花を枯らし、鉄を錆びさせ、人を骨にしてしまうほど毒性の高い怪獣なのだが、そもそもコイツに殺意などない。殺す気もないのに、生きているだけで殺さざるを得ないヤツが、何より怖いでしょう。


僕は、ゴジラ映画には、つい時代相を求めてしまうんだけど……確かに、僕が小学生の頃は、光化学スモッグ注意報なんて日常茶飯事だった。
ヘドラが武器にするネバネバした、何かバッチイ液体。外で遊ぶと、ああいう得体の知れない物質がズボンにへばりついていて、なかなか取れなかった。コールタールみたいな、ムカムカする匂いのする液体にも、子どもは平気で触るんだ。「スライム」みたいな、明らかに化学的にヤバそうな人工の物体が、実は僕らは大好きだった。そういうものに触ると体に良くないんだけど、しょせん毒から逃れられない世界なんだって、心の触覚で感じとっていた。

清浄な野山が美しいとか、澄んだ空気が恋しいだとか、そういう価値観は後付けにすぎない。大人たちは、汚染した世界に平気で僕らを生んだんだって、小学校に上がる頃には納得していた。『ゴジラ対ヘドラ』を見たせいかも知れない。原爆のことを知っても、「しょせん、先に生まれた人たちが、そういう世界にしちゃったんだろ? だったら、せめて楽しまないと」って、覚めた気持ちだった。

そもそも、「救われたい」なんて思ってないの。だから、幻滅も絶望もなかった。
ずーっと、「どうにもならない」っていう諦観の中に生きてきた。たまたま、歩いて来た道に、ちょっとずつ曲がり角があって、アミダクジをたどるようにして、今ここにこうしている。「ちょっとはマシな世界にしてやるぞ」って思えるのも、いくつか曲がり角があったから。


昨日、法務委員会で遠山清彦議員が、児童ポルノ法について質問しているのを見たんだけれど()。
天童荒太の小説から「幼い頃に性的虐待を受けた子たち」を例に出しておいて、児童ポルノ法と「若干関連する」なんて言っている。若干じゃなくて、全面的に関連してないといけないのに、いつも本気じゃないから、言葉の端にボロが出てしまう。

誰もが、何か汚らわしいもの、見たくもない忌まわしいものを「児童ポルノ」って呼び捨てている。そういう雑な神経と、児ポ法改正に熱心だった議員たちの心根は変わらない。彼らの頭の中に根絶すべき「ポルノ」はあっても、救いたい「児童」はいない。
頭がスカスカだから、遠山議員はジュニアアイドルのDVDを取り締まれ、なんて見当違いの方角へボールを投げている。「ポルノ」なんて言葉を使っていると、家に閉じ込められた児童の救済ではなく、目に見えやすい「風紀取り締まり」に話が流れていってしまう。流されていっても、心に締まりがないから、「こういう社会にすべきだ」って理想もないから、気がつかない。アイツラには分からないんだ。

僕は、幻滅も絶望も体験しないで、平坦に生きてきた。だけど、「児童」をダシに「ポルノ」を取り締まりたいと言い出すほど愚鈍ではない。そんな自分たちにって楽チンで甘っちょろい、手ぬるいことを、さも難しそうに言うほど厚顔ではない。
ああいう偉い人たちが本気で怒ったところ、子供の頃から、一度も見たことない。大人が世界をマシにしてくれるなんて、小学校の頃から、まったく、一ミリも期待してなかった。だけど、僕はマシにしたい。「アイツラのようにはならない」って、子供の頃に思ったからだよ。

1971 TM&(C) Toho Co.,Ltd.

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2014年10月12日 (日)

■1012■

Febri Vol.25 17日発売予定
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●『残響のテロル』全話解説、コラム、木村誠プロデューサーインタビュー

渡辺信一郎監督の最新作『残響のテロル』、「面白いですよ」と編集長に売りこんで、記事を書かせていただきました。
アニメ記事を書くときの超法規的最強カードである“メーカーチェック”によって、最終話の解説は、私に無断で直されてましたね。
記名記事の場合、明らかな事実誤認以外は、直す必要ないんですけど……。

『テロル』は、渡辺監督の『BABY BLUE』のビタースウィートな路線でありながら、「原発事故後の日本」を無理やりにでもテレビアニメに刻み込もうと悪戦苦闘した痕跡があって、僕は好きなんです。
みんながダンマリを決め込んでいるテーマに切り込む挑戦心は、失敗しようが何だろうが、誰かが認めないと。


『Gのレコンギスタ』は、あいかわらず面白いです。第3話は、映画館で見たときは、もう涙が出るほど楽しかったので、テレビで見ても大喜びです。
やっぱり、10年後、20年後も生きる作品だと思うので、僕みたいなオジサンが救われても意味がないんだけど、『Gレコ』のおかげで鬱屈せずにすんでいます。

何が面白いのかっていうと、この作品に出てくる人たちは、「暮らしている」んです。
もし、『Gレコ』が「ジブリっぽい」としたら、「暮らし」を描いているからです。
第3話は、第2話で夜間戦闘をやった後から、ほぼリアルタイムでつづいているので、キャラクターたちは眠いわけです。だから、朝だけど、みんな眠りこんでしまう。寝ないなら、朝ごはんを食べる。それは「リアル」なんじゃなくて、寝たり食べたりするシーンがあった方が、「疑問なく、安心して次を見られる」って程度の意味です。
そして、主人公が朝ごはんを食べるシーンがあるから、ラストで大便するというギャグが成立する。

内面ばかり、頭で考えた空虚な理想ばかりの深夜アニメの中で、「眠い」「お腹すいた」「トイレ行きたい」という、僕らを縛る生理を持ち込んで、ちゃんと笑いに転化している。
「暮らし」を描くことは、コミュニケーション手段として、何より強力でしょ? 誰にでも伝わると、僕は思う。


『口論の客を暴行後、席に戻ってラーメン完食した元ラガーマンの素顔とは…』(
親類の会社に雇ってもらって悠々と一人暮らし、高校時代はラグビー部だった苦労知らずの男が、ラーメン屋で客を蹴り殺してしまった。僕は「蹴り殺される側」だから、このニュースを聞き流せるほどの度胸はないです。

動物的な強さ/弱さの差だけで、殺す/殺される側に分けられてしまう。
体育の時間に屈辱を味わったものとしては、「殺されてたまるか」って、くやしいと思わなきゃダメですよ。それぐらいの元気は出てくるね、『Gレコ』を見ていると。

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2014年10月10日 (金)

■1010■

8日に生放送した『月光』プロジェクトの監督、小澤雅人さんへのインタビュー番組、15日までタイムシフト視聴できます()。
Bandicam_20141010_173109625クラウドファンディングの目標金額に達したこともあり、この日が初対面だった小澤監督もリラックスして、じっくり話してくださったと思います。有川潤プロデューサーは、画面の外から配信を見守り、ときおりコメントを打ってくれました。

「性被害の問題って講演会等でもヒドイ話という非日常の面を推すことが多いので、日常へと助け戻すプロセスも重要に思えます」「問題の本質を避けて綺麗な場所からいけないことだよねって議論しがち」……など、視聴者の皆さんのコメントも充実していたので、翌日、コメントをコピーして、小澤監督と有川プロデューサーに渡しておきました。

そして、“社会や家庭の闇で多発する性暴力や虐待を真正面から描く映画「月光」応援プロジェクト”は、目標金額をこえても、まだ資金が集まっています()。
「今からでも支援したい」という方は、あと一週間を切りましたので、よろしくお願いします。


この生放送の日は月蝕で、とても素敵な夜でした。
ただ、配信場所に向かう途中、ノートPCを肩にかけて歩いていたので、駅のホームでフラついてしまったんです。すると、ガッシリした体格の男性が背後からドンとつきとばして、そのまま、僕を追いこしていきました。他の人にも当たって歩いているのかというと、ぶつかったのは僕だけなんです。

だから、男性同士でも、僕みたいにヒョロッとしたヤツは、しょっちゅうぶつかられたり、「どけよ」と言われます。ケンカになっても勝てそうな相手にだけ、横柄な態度をとる。それが人間というものです。


その話と通底するような気がするのが、図書館で借りてきた『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』というルポルタージュ。2007年の発行。

ネットカフェやハンバーガーショップに寝泊りしながら、日雇い派遣として底辺の生活を強いられている若者の中には、家族からの壮絶な虐待に耐えてつづけた若者もいます。幼稚園のころに性虐待を受けて、家出した18歳の少女もいます。
強い立場の人間が、何ら恥じることなく、弱者を叩きのめす。ウソをついて利用し、カネで釣って切りすてる。むき出しの冷酷さが、この社会の骨組みになってしまっている。残忍でなければ生き残れないかのような強迫観念は、ネットでの罵りあいを見ると、(この本の発行された)7年前より強くなったような気さえします。

路上生活者を食いものにするようなNPO法人のことも、生活保護受給者に対する福祉事務所のずる賢さも、赤裸々に書かれています。
そして、同じ派遣労働者同士のあいだで嫌がらせがある。弱者同士が、共食いのようなことをしている。


僕も、若いころは肉体労働のアルバイトをいくつかやりました。当然のことだけど、「コイツは体が弱いな」と判明したとたん、急に冷淡に扱われる。女性ですら、僕に聞こえるように「どうせ無理なんじゃない?」と言います。人間って、しょせんは動物なんだなと思いました。

だから、本を読んだり、絵を描いてみたり、肉体以外の文化面を強化しようと努めたんだろうと思います。体を使おうとしても、動物的に無理だと分かっていたから。
だけど、仮に文化面で勝ったとしても、動物的に強い人にはかなわない。そもそも、「コイツなら勝てそう」という野生のカンみたいなものが育っていない。すると、誰にでも謝っておこうとか、逆らわないようにしようとか、心理面まで弱くなってしまう。人間って、不公平に出来ているんです。

社会は強い人間に都合よく発達してきてしまった。僕は精神的に図太いところがあるから、その図太さで得している部分もある。その分、どこかで誰かが損しているんだろう。
どこかで帳尻を合わせて、みんなで幸せにならなくてはいけない。そのために社会があるはずなのに、今はそうなっていない。そして、僕たちは現状を建設的に作りかえるような方法を、学んでこなかった。「やれやれ、ひどい世の中だったなあ」と、あきらめながら餓死していくのは、僕はゴメンです。だから、最低限の抵抗はするのです。

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2014年10月 7日 (火)

■1007■

月刊 創 11月号 本日発売
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●漫画・アニメの現場、“規制される側の本音”とは
漫画家の海野螢さん、アニメ監督の入江泰浩さんに取材して、「常に規制対象にされているメディアの現場」の声を聞きました。
特に、表現規制についてアニメ業界の人が話すことは珍しいので、初めて聞く話も出てくると思います。

入江監督と知り合ったきっかけは、「児童性虐待記録物」署名に賛同してくださったこと。取材のときも、署名について少し話しました。
海野さんは、ある人からの紹介だったのですが、インタビュー後に単行本がアマゾンで取り扱い中止になってしまい、その一件を盛り込んだりしたので、充実した記事になっていると思います。

今月号の「創」には、連載直前に突然中止となった『あいこのまーちゃん』のやまもとありささん、「コミックゼノン」誌の堀江信彦さんのインタビューもあり、全16ページの表現規制ミニ特集となっています。


珍しく、アニメの話でも書きましょうか。
富野由悠季監督の『Gのレコンギスタ』が、深夜枠で放送開始されました。僕は放送第一回スペシャルを通しで4~5回は見ていると思うけど、その後で深夜アニメを見ると、まったく別のメディアのように感じられる。おそらく、「(深夜)アニメは、こうでなくてはならない」という決まりが、いつの間にか熟成されて、現場に浸透しちゃってるんじゃないかな……。

制作ってのは、ようはシステムなので、システムを変えないと、作品も変わらない。押井守監督の言う「個性的な作品は、個性的な現場からしか生まれない」は、そういう意味だと思う。
システムが同じだと、ロボット物も学園モノも、同じような質感になってしまう。「最近のアニメは、どれを見ても同じ」に感じるとしたら、受け手の感覚が鈍磨しているだけではないと思う。システムが強化されると、個性はひっこむ。


じゃあ、『Gのレコンギスタ』は何が違うのかというと、夾雑物が、ノイズが多い。
Story_large02まず、撮影時に主線を途切れさせることで、映像にノイズを発生させている。線がランダムに途切れていると、止まった絵でも「ピタッ」と静止しているようには見えない。線が途切れているってのは、つまりは絵の情報量が増しているということだから。

デジタル化される前のアニメを見ていると、けっこう予想外の情報が混入している。
「セルに付着した埃」なんてのが代表格だけど、色パカはあるし、透過光のミスもある。セルの厚みが映ってしまっている場合もある。デジタル化により、そうしたノイズは淘汰されていった。すべてがクリーンに研ぎ澄まされていった。
だけど、今はCGを使ったとしても、「手描きに見えるようなCG」が「上手い」ってことになっているでしょ。その揺り戻しは、レトロ趣味ではないと思うんだよ。

反面、作画は、各話作監のうえに総作監がいて、とにかく絵柄の統一を図ろうとする。完璧なシステムのようだけど、人間が描いているから、長いシリーズだとキャラ表から絵が違ってきてしまう(なので、作監修正のコピーを作画スタッフに配る)。
ところが、『Gのレコンギスタ』は、第一話からして、絵がキャラ表と違う(笑)。それは劇場パンフ用に、吉田健一さんにインタビューして聞いたことだから、そこからしてシステムが崩れてきてはいるんだよ。
(コンテに書かれた芝居に、キャラ表が対応できない……だから、予想外の躍動感が生まれているのではないか?)
僕にとって、それが深夜アニメが起きているってことは、とても痛快。


もっと書きたいんだけど、明日夜はニコ生をやります()。
映画『月光』のプロジェクトが、めでたく成立したので、小澤雅人監督に今後の意気込みを聞きたいと思います。

(C)創通・サンライズ・MBS

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2014年10月 4日 (土)

■1004■

友人から薦められた映画三本目、『世界にひとつのプレイバック』。
Subsub2_large心療内科から退院してきたばかりの男と、夫に先立たれて精神的に不安定な女性との、ぎこちない恋愛映画……のように見えて、家族を描いた映画でもある。
主人公の父親は、博打で儲けて、レストランの開業資金を貯めている。ゲンかつぎのため、主人公にユニフォームを着せて隣に座らせ、フットボールの試合をテレビで見るのが常……のはずが、息子がヒロインと過ごす時間が増えてしまい、大損してしまう。

ヒロイン役は、ジェニファー・ローレンス。彼女が、「息子が変な女と一緒にいるせいで、ツキが離れた」と嘆いている父親に向かって、「彼と私が一緒にいる時のほうが、実は試合に勝っている」とデータを示し、タンカを切るシーンがいい。
このヒロイン、なかなか策士なんです。こうやって、人を傷つけないウソをつきながら、図太く生きたいな……と思わせてくれる。そんな彼女が最後の最後に、たったひとつだけミスを犯す。それがまた、美しくてね。

博打に明け暮れているダメ親父は、ロバート・デ・ニーロ。登場人物がひとりひとり、自己都合最優先で生きていて、それを隠さず描いているのがいい。綺麗ごとにしてないから、人生が2ラウンド目に入った人々の疲労感とか、切ないまでの悪あがきに共感できる。
完成された、幸せな家庭というのは、基本的に出てこない。枯れた井戸の底に残った、一滴の水を味わうような映画だった。


『幸せへのキセキ』『きっと、うまくいく』『世界にひとつのプレイバック』、友人から薦められた三本を消化できた。
もうひとりの友人から薦められた『ワールドウォーV』、タイトルで損をしているが、知的でエキサイティングな映画だった。

彼らは二人とも家族を持っているが、最近それぞれ、生活に変化があった。
僕はひとりなので、20代後半ごろと、あまり人生観が変わっていない。三年の結婚生活と一度の離婚では、何も変わらなかった。とりたてて幸せでも不幸でもない、真空のような三年間だった。


『社会や家庭の闇で多発する性暴力や虐待を真正面から描く映画「月光」応援プロジェクト』()、あれから急に勢いが出て、現在90%です。
監督が苦労している様子だったので、メールでコンタクトをとり、ニコニコ生放送で応援番組を予定していますが()、水曜日までに目標達成するかも知れない。

とは言え、油断禁物なので、「少しなら出資してもいいな」と思った方は、ぜひ支援をお願いします。

(C)2012 SLPTWC Films, LLC. All Rights Reserved.

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2014年10月 1日 (水)

■1001■

『社会や家庭の闇で多発する性暴力や虐待を真正面から描く映画「月光」応援プロジェクト』(
Detail_325_detail_325_ninomiya_1小額ですが、支援してます。残り二週間ちょっとで、まだ70%ぐらいなので、「1,500円ぐらいなら、映画の前売り券を買うつもりで出してもいいな」という方は、ぜひ協力してください。

「性暴力・性虐待は問題だろうけど、それについて調べたり、本を読んだりするほど余裕がない」人にも、映画だったら意識してもらえるんじゃないか――と、ずっと思ってました。
だけど、クラウドファンディングが苦戦しているということは、「お金まで出すほどではない」「しょせんは映画」と覚めている人が、大多数ってことなんでしょうね。

性虐待がなくならないのは、ようは「子供という存在の弱さにつけこむ」社会です。大人が、苦労せずに手に入れた力を、だらしなく振り回す社会です。


僕はやっぱり、ネットの中であれこれ推測するのではなく、当事者に会わないと気がすまないから、性虐待を経験した女性に会ってきました(仮にBさんと呼びます)。
ところが、こちらが拍子抜けするぐらい、Bさんは幸せに暮らしていました。Bさんの友だちも来たので、子育ての話や家族同士で遊びに行く話で盛り上がり、むしろ家族のいない僕のほうが疎外感をおぼえてしまうほどでした。

Bさんも、過去には、父親を殺したいと思い悩んだこともあるそうです。
また、自暴自棄になり、自分の存在価値を見出せず、一度は「どん底」と言ってもいい状態にまで閉塞した、死屍累々の過去があると聞きました。

しかし、円満な家庭を築いている親類を見て、「自分もこういう温かい家庭をつくりたい」と、理想が生まれたんだそうです。実際に結婚して、子供がひとり生まれ、ふたり生まれ……そのうち、父親(や、父親の性虐待を見逃した母親)に対する憎しみは、少しずつ薄れていったようです。

Bさんの家庭では、近所の子たちも一緒にご飯を食べさせたり、お風呂に入れたりするそうです。それはいわば、幼い頃に優しくしてくれた親類の家庭の再現とも言えるでしょう。
別に言葉にしなくても、生活の一端に触れさせるだけで、ちょっと救われた気持ちになる子もいるのではないか。
……そこまで愛情のキャパシティを広げられるまで、七転八倒したみたいですけどね。詳しくは書きませんが、トラウマに苦しんだ期間のほうが、ずっと長くつづいてきたわけです。


だけど、「実際に虐待されている最中には、助けを求めることさえ出来ない」と、Bさんは言います。どんな保護施設やシステムがあったとしても、子ども自身は、その存在を知らない。

また、「性虐待の全容を知ろうとすれば、加害者に直接聞くしかない」。
ところが、「性虐待の体験を自ら話せる人たちは限られているだろうから、加害者も一定の性格傾向を持った特殊な人たちしか浮かび上がってこないのではないか」。
そう言うBさん自身、まだ父親と虐待について話すことは出来ないそうです。だったら、虐待にあった子が救われれば、まずは良しとするしかないのかな……。

だけど、加害者は何事もなかったように暮らして、被害者だけが血の出る思いで生きつづけねばならない、それは理不尽に過ぎる。

身体的虐待は外見に出やすいけど、性虐待は発見しづらいって言うでしょ。
それがイヤなんすね。被害者を黙らせるとか、黙らせることで表面だけ取り繕う世の中っていうのが。その誤魔化しを、なんかカッコいい言葉で言いくるめるヤツもいるしね。
何ら実際的な働きかけをしない、つまり「現状肯定のまま、指をくわえて傍観する」姿勢を、さまざまに粉飾して、あたかも自分が勝利したかのように宣言する連中で、ネットはあふれ返ってるでしょ。

性虐待もそう、男であること、女であることもそうなんだけど、「本人の意志と努力でどうにもならないこと」は、責めやすく責められやすい。で、責めてる側は「意志と努力」と自分とを、きれいさっぱり切り離している。
圧倒的マイナスから出発し、第三者まで元気づけてしまうBさんの生命力はまぶしいばかりだったけど、だからこそ、何もかもに全面降伏しているニヒリストたちの存在が、僕の中では際立って感じられる。

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2014年9月29日 (月)

■0929■

『スーパーフェスティバル66』にお越しの皆さま、ありがとうございました。
Cacijxgn_2今回は、初の試みとして、自分で改造した『ダンバイン』と『バイファム』の完成作品を販売してみました。
しかし、あまり目にとめてもらえないので、ダンボールの切れ端に、即興で宣伝文句を書いてみたところ、『ダンバイン』の方は、すぐ買ってもらえました。

その場で宣伝文句を考えるのは楽しく、どんどん新しいコピーを書いて貼っているうち、売れなかった商品が売れていきます。普通は、聞かれてから話すようなことを先回りして、「貴重な絶版キットなので、ここで売れなかったら、私が作っちゃうぞ!」などと書いておく。すると、何時間も動かなかった商品が売れます。

ポップづくりの面白さを発見したので、次回も絶対に出店したいし、仲間のギムレットさんやべっちんさんの個性が出るよう、僕らのお店「Hard Pop Cafe」を積極的に変えていきたいと思いました。
そういう話をしながら、コンビニの前で打ち上げをしている時間は、ホッとします……。


『3歳から8歳まで叔父から受けた性的虐待。札幌高裁は「魂の殺人」の主張を容れ被害者の請求、大半を認める』(
とても分かりやすく解説してあるので、ぜひ読んでください。ようは、幼児期の性虐待が原因で精神障害になってしまった女性が、成人になってから加害者の叔父を告訴し、損害賠償を勝ちとったわけです。
逆を言うと、子どもの頃に「性的に虐待された」と自覚して、成人になって訴訟を起こしたとしても、「時効」があるので認められない場合がほとんどのようです(性虐待被害者が、大人になってから訴訟を起こした例は、過去にもありました)。

他のメディアでも、取り上げられています(『PTSD訴訟で被害女性が「逆転勝訴」 30年前の性的虐待の損害を認定』)。
この裁判で被害者が勝訴したことにより、過去に性虐待した、あるいはいま性虐待している大人たちは、覚悟しないといけません。


統計上も数少なく、「家族の問題だから」と切り捨てられることの多い性虐待を防ぐことは、「ウソをつかねば生きられない社会」を切り崩すことにもつながります。

ツイッターで、「エロ漫画を読んでいるヤツが親になったら、性虐待するんじゃないか」「女の赤ちゃんが生まれたからって、喜んで“お風呂に入ろう”などと言っているような親こそ、性虐待するんじゃないか」と言っている人たちがいます。
性虐待を防ぎたいのか、性犯罪を犯しそうな男を攻撃したいだけなのか、よく分かりません。自分の名前も身分も隠したまま「こういうヤツが犯罪者なんだよね」と愚痴ったところで、社会はピクリとも動かない。最前線で毎日戦っているNPO法人に寄付するなど、具体的行動は、いくらでもあるだろうに……。

男性性とか、男の性欲が憎いというのは分かるんです。世の中全体が、力づくの「男らしさ」に、厳然と支配されていると感じるから。
だけど、憎悪だけをみなぎらせて、ツイートしたので気がすみましたでは、世の中の空気が濁るだけでしょう。

あしたは、性虐待にあった知り合いの女性とひさびさに会って、話をしてみようと思います。ただ、その女性が希望しないかぎり、ブログに話の内容を書くことはありません。

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2014年9月25日 (木)

■0925■

月刊モデルグラフィックス 11月号 発売中
Mg
●組まず語り症候群 第23夜
今回のサブタイトルは「みなさまご昭和おねがいいたします」で、アリイの「昭和の歳時記」シリーズを取り上げています。
本文では、武蔵野市役所の近くにあった模型店「ワダチヤ」について、幼稚園~高校ぐらいまでの思い出を語っています。日本全国の地元模型店が熱かったのは、やっぱりガンプラ・ブームの起きた昭和55年ごろでしょうね。新店舗がオープンしたりしましたから。

地元模型店の思い出は、それこそ民間伝承のように、日本各地に残っているのでしょう。いつか、そういう話をまとめてみたいです。
(結婚する前の準備期間、一年だけ住んでいた大森には、まだ新しい個人経営の模型店があった。同人誌に書いた小説『ハネダ模型店』は、そのお店がモデルになっている。)

フィギュア王 No.200 発売中
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こちらは、巻頭の超合金特集のインタビューを、少しお手伝いしました。
今回で200号とのことですが、100号のとき、僕は編集者とノリノリで、アニメ関係者やレゴ・モデルビルダーの直江和由さん、イラストレーターの内藤ルネさんのところへ取材に行ったものです。
あの混沌とした、ごった煮の誌面に比べると、フィギュア王もサッパリしてしまった。

今回、何年ぶりかで誌面を手伝わせてもらったけど、100号の前後三年間、フィギュア王には毎月、レギュラーで書いていた。
離婚するとき、編集者とカメラマンにアドバイスをもらったことを思い出した。編集者には、しばしば、吉祥寺で奥深いお酒を堪能させてもらった。
ただ、編集者やカメラマンは完成された大人だったので、“大人くずれ”の僕は、よく怒られた。それをうるさく感じて、ある日、すべての連載を下りてしまったのだ。

彼らは一流の服や時計、カバンや靴の良さを知りぬいており、オモチャもそれらと同列に並べられる、「大人の余裕」として十分に楽しめるのだと教えてくれた。それは言葉の上ではなく、写真の撮り方や誌面の構成、取材のしかたなど、本づくりの実践として。
どういう本づくりがダメで、どういう取材がいい取材か、みっちり叩き込まれた。もちろん、その分、厳しくもあった。その厳しさが、僕には重たくなってしまった。


ベストな生き方を知るということは、「恥を知る」ことでもある。自分の最高の部分と、最低の部分を知ることになる。それは辛いといえば辛いことなんだ。なぜなら、ほどほどのところで妥協すると、「いま自分はダメなことをしているな」と、身に染みて分かるからだ。
よくない仕事、よくない人への接し方をすると、「いま、自分は理想から遠ざかっている」と体で分かってしまう。「もっと優れたやり方を、僕は知っているはずなのに」って。

たいていの場合、「ダメなことをしている自分」に鈍感でいることによって、日々をいい加減に過ごしている。
だけど、フィギュア王に書いていた三年間は「常に一流を目指し、そこに届かなかったものは妥協の産物である」と意識しながら暮らしていた。しんどいけれど、その分、充実していたはずなんだ。

一生に一度でいい、一流の酒を味わっておいたほうがいい。無理してでも。その味を知った後、スーパーの安酒を飲むとしたら、安酒しか知らずに安酒を飲んでいる人たちとは、世界観が変わっているはずなんだ。

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