2017年1月20日 (金)

■0120■

レンタルで、米映画『ルーム』。
Sub2_large本来、こういう映画を「アンチクライマックス」と呼ぶのだろう。最初にショッキングな出来事が提示され、少しずつ、あるいは唐突に解決に向かっていく。
前半一時間は「何が起きるんだろう?」「これ以上、ひどい状況に陥るんだろうか?」と、ゾクゾクさせられる。しかし、ピークを迎えた後、後半一時間は、おだやかな日々が描かれる。「いくらなんでも、こんなうまく解決するものだろうか?」と疑問も感じる。
だけど、それでいいんです。泣かせのテクニックとか巧妙な伏線だとか、あれもこれも映画に期待しすぎだよ。この映画の後半は、観客が自分の来し方、自分の幼年時代はどうだっただろう……と、じっくり考えるためにある。


『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のレイトショーが、今夜で終了なので、吉祥寺オデヲンまで歩いてきた。通算4回目。客はけっこう多くて、20人ぐらい。
640「遠い昔、はるか彼方の銀河系で……」の文字が明けるや、ダン!と不吉な音楽が始まる。第一作のスター・デストロイヤーの艦影そっくりにデザインされた惑星のリングが、鋭い角度で画面を分断する。すっかり魅了され、字幕をいっさい無視して、画面を凝視した。

『ローグ・ワン』は、前半が退屈だと言われる。“父”との再会と別れが、三度も繰り返されるせいだろう。
ジンの実の父親・ゲイレンは、まずホログラフィとしてジンの前に現れて、彼女に謝罪し、同時に彼女が次にどこへ行くべきか告げる。
つづいて、ゲイレンは生身の姿でジンの前に現れ、彼女と会話するときには瀕死の重傷を負っている。どちらも、激しい攻撃の中でジンがキャシアンに手を引っ張られる形で別れるので、同じシーンが重複しているように感じてしまう。


さて、ジンはもうひとりの“父親”と再会する。ソウ・ゲレラは、彼女の育ての親だ。
彼もまたジンと再会するや詫びるので、ゲイレンのホログラフィのインパクトが薄れてしまっている(似たようなシーンが通算3度もつづいてしまう)。
2206_saw_gerrera_main_02だが、ゲレラはなかなか意味深な存在だ。彼は体のあちこちを機械化していて、たびたび呼吸器を使わないと長く話していられない。『スター・ウォーズ』で呼吸器を使う人物といえば、ダース・ベイダーだ。

そして、ダース・ベイダーと同じように、ゲレラは「私を置いていけ」とジンに告げ、自らを死にまかせる。ゲレラは過激な思想ゆえに反乱同盟から離反している。組織を裏切って、不自由な体のまま戦いつづける様は、暗黒面に堕ちたベイダーそっくりだ(死を覚悟したゲレラは、呼吸器を外す。やはり、ベイダーによく似ている)。
同時に、物語のなかばで命を落とし、主人公にはげましの声をかける「善い父親」という意味では、オビ=ワン・ケノービとの共通点も持っている。


『ローグ・ワン』は、『スター・ウォーズ』のデザインの輪郭を、丁寧に(ときに不器用に)トレースしている。旧作と同じメカニックが出てくるという意味ではない。『スター・ウォーズ』のプロット自体が、古今東西の物語の膨大な引用で成り立っているので、ひとつひとつの設定が象徴的で形式的なのだ。
「善い父親」と「悪しき父親」が共存しているのも、デザインのひとつだ。主人公に目的を告げるメッセージ、一歩まちがえば落下してしまう縦穴、ハードウェアとして人間の戦いをサポートするロボット、精神力と棒術で火器に対抗する仙人……それらの輪郭に、近代的なテクスチャを重ねて、うまくいった例が『ローグ・ワン』なのだと思う。

テクスチャが近代的であるからこそ、追加撮影されたダース・ベイダーの派手なライトセーバー戦は浮いていた。あのシーンは、商業的要請の産物だろう。
そして、テクスチャが近代的であるからこそ、1977年風のメイクをしたレイア姫は「浮いて見えて正解」なのである。1977年の時点で、『スター・ウォーズ』は十分に時代錯誤だった。その大時代的なロマンスが、ポスト9.11のテクスチャをまとった『ローグ・ワン』と直結されている――同じフィルムの上を流れている。僕は、その無作法なまでの大胆さに心打たれた。
泥と汗にまみれた近代戦が、最後の最後に、遠い昔のおとぎ話に接続して終わるから、感動するのだ。

(C)Element Pictures/Room Productions Inc/Channel Four Television Corporation 2015
(C)2016 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

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2017年1月18日 (水)

■0118■

「生活保護なめんな」の小田原市ジャンパー()、ギレン・ザビの演説を引用している頭の悪さ加減など、腹が立つよりバカバカしくて笑いが出る。
僕の仕事を「ようするに無職でしょ」と言い捨てた三鷹市も、納税課に行くと、いろいろ脅し文句が並んでいます。車のタイヤに仕掛けるストッパーも、窓口から見えるところに「納税しないと、こうやって車を差し押さえますよ」と言いたげに、でかでかと飾ってあります。

NHKも一緒ですね。「NHK」とは名乗らず、ケーブルテレビ局のフリをして受信料の督促に来る徴収員を追い返したら、今度は文書で「告訴しますよ」と、何度も何度も脅してくる。
税金でも受信料でも、脅し取ったらダメですよ。脅した側の負け。お金が欲しかったら、なぜ欲しいのか、どうして必要なのか、ちゃんと説明して説得しないとダメ。説得できないようなら、お金をとってはいけない。

いま、世の中ぜんぶが暴力的になっていて、駅に行くと「痴漢は犯罪です」「駅員への暴力は犯罪です」、コンビニでは「未成年の飲酒は犯罪です」、映画館では「映画の盗撮、違法ダウンロードは犯罪です」。
なぜ禁じたいのか、誰も言葉で説明しようとしていない。一方的に、脅しているだけ。


で、「痴漢」とくれば「冤罪!」と条件反射するがごとく、「生活保護」と言われたとたん「不正受給!」と即答する人たちが、例の「生活保護なめんな」ジャンパーをかばっている。
彼らも「秋葉原で児童買春が」「秋葉原で児童ポルノが」って主張する人権活動家と同じく、「自分が不愉快なのは、違法な状態が野放しになっているせい」と考えたがる。同族だよね。
だって、数少ない実例をあげて針小棒大に「実態はもっと多い」「改善が必要」と言い張るんだもん。そう言い張ることで、自分の不愉快さが軽減されるから。「溜飲が下がった」「気がせいせいした」なんてのは、あなたが一瞬、気持ちよくなるだけですよって話。

で、人権活動家が条文を離れて「児童ポルノ」を都合よく拡大解釈するように、生活保護叩きは「在日」というモンスターを群盲評象状態で、あれこれ使いまわす。
ようするに、自分が不快なのは、「児童ポルノ」や「在日特権」のせいにしたいわけ。自分の努力不足や認識不足のせいだとは考えたくないから、手近な答えを欲しがる。
自分の発言の矛盾点を突かれた人権活動家の人が、「こうやって私を責める男たちが児童ポルノで儲けていたり、児童を買春してるんだろうな」と幼稚な合理化で自分を納得させているのを見たとき、本当に哀れに思った。他人ではなく、自分を救う活動をしたほうがいいよ……。 


生活保護やベーシックインカムの話をして、「そんなの甘えだよ」って怒るのは、僕の周囲では「望んだ仕事につけなかった」「休みもなく、安い賃金で働かされている」人たちだなあ……悪いけど、嫉妬だよね。好きな仕事をして、相応の対価を得ている人は、他人がどんな生活してようと、たいして気にしないものです。

だけど、嫉妬、劣等感を起こさせるよう、義務教育が組まれてしまっているからね。誰を責めることも出来ない。誰もが救われなければ、良い社会とは言えない。ネトウヨだろうがブサヨだろうが、誰もが幸福になるべき。
他人に奪われた自尊心であっても、取り返すのは自分しかいない。いつでも、勇気だけが最後の最強の武器だ。

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2017年1月17日 (火)

■0117■

レンタルで、『ドッグヴィル』。14年前の映画。
264204_full広大なセットの中に、白い線で「家」の境い目を図示しただけの背景。最低限だけ作られた小道具、大道具……。
パッと見のルックスは、完全に舞台劇なので「ひょっとして、演劇を撮影しただけの映画なのか?」と不安になる、しかも、人物設定から行動・心理にいたるまで、終始ナレーションで説明される。このフォーマットで3時間はつらい……。ところが、後半になると目が離せなくなり、やがて、胸をえぐられる思いをする。

演劇的なセットで、すべてを終始させることで、映画のリアリティは抽象化され、風景や質感などのフォトジェニックな要素は、ことごとく排除される。夕陽や雪などの自然現象は、必要なところだけ舞台装置を丸出しにして、具現化される。
何が起きるかというと、「演劇みたいな映画ができあがる」のではなく、「俳優と物語だけが映画に映る」。『RWBY』でもそうなんだけど、視覚的な情報量を削れば削るほど、「劇」「演技」の骨格があらわになる。見かけに騙されなくなる、というか。
『ドラクエ』にのめり込めたのは、背景もキャラも、必要最低限……いや、物足りないぐらい単純なドット絵だったからでしょ? 見た目を記号的にすればするほど、心理を詳しく説明すればするほど、目に見えないもの、言葉で説明されないものが際立ってくる。人間の脳は、「あえて隠されているもの」を想像せずにいられないように出来ているのか知れない。


こんな奇怪な映画、いったい誰が撮ったんだ?と、調べてみて納得。ラース・フォン・トリアーではないですか。と言ったそばから、『愛人/ラマン』のジャン=ジャック・アノーと間違えていた。そうではなく、異色作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の監督です。
こういう、容易な解釈を拒否する、いいとも悪いとも言えない、これといった答えのない作品を受け入れていかないと、自分の狭い自意識に囲い込まれてしまう。
見た映画すべてを「良かった」「悪かった」「傑作」「駄作」と裁定する必要など、どこにもない。バッサリと「100点中、48点」などと即断すると、いつか、何らかのキッカケで得られるであろう理解の萌芽を、自ら踏み潰してしまうことにならないか。

逆に「すごい傑作! 永遠の名作! 今年ナンバーワン!」と言い切ってしまうことも、同じように価値意識を凍結させてしまう。胸の中に「いずれ変わるかも知れない評価軸」を耐えずブレさせておくことが大切と思う。


前回、ひさびさに「秋葉原で児童買春が」「秋葉原で児童ポルノが」と騒ぎつづける人権活動家たちについて触れた。
彼女たちは、自分がかわいいんだと思う。ちょっとTwitterで難癖をつけられた程度で、「デマを書かれた」「誹謗中傷された」「ストーカーされてる」と被害者ぶる。挙句、「名誉毀損」で提訴したりする。たかがTwitterでボヤかれた程度でだよ?

僕は何度か署名活動をやって、国会に請願書も出したし、警察にも民間企業にも抗議に行ったし、国会議員を招いて公開討論会もやりました。そのたび、もういろいろ書かれるわけ。「廣田こそ性犯罪者だ」「廣田は、児童の画像をブログにアップして削除された」とか、もう初耳ですよ、そんな情報(笑)。さらに、もっと酷いことも書かれていたと聞いたけど、僕は活動への意欲がそがれるから、いちいちエゴサーチしません。
というか、世間に対して何か訴えたら、ネットで悪口を書かれるなんて当たり前。その覚悟ができていなかったら、そもそも、人前に顔と実名を出して主張しないって。

ただ、僕も「自分がかわいい」から、性犯罪を止めるために署名を集めて提出したのに「あいつこそが性犯罪者」と言われたので、「そんなこと言われるぐらいなら、もう二度とやらない」といじけてしまった。
だから、社会活動、こと「弱者を救う」活動の「まっさきに救われるべき弱者」に自分を入れてしまう気持ちは、分かるような気がする。そこを責めるのは、あまりに酷だ。

なので、「とにかく秋葉原に児童への性犯罪が集中してる」と苦しまぎれな主張をするよりは、「私自身が秋葉原文化を不快に感じている」「不快な思いをさせられている私こそが被害者なんだ」と、堂々と主張したほうが誠実だし、建設的な議論ができるんじゃないか。
嫌味ではなく、本気でそう思う。

(c) Lions Gate

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2017年1月14日 (土)

■0114■

アニメ業界ウォッチング第29回:神山健治監督が語る、「ひるね姫 ~知らないワタシの物語~」への長い道のり
T640_719649『009 RE:CYBORG』公開時に発売された「文藝別冊 神山健治」以来、5年ぶりのインタビューとなりました。
この連載で、いつか絶対にインタビューをお願いしようと機会をうかがっているうち、5年ぶりの監督作の公開される今年になりました(この連載は、ほとんどすべて、僕がインタビュー相手を決めて、僕が直接交渉しています)。


読者が200人に満たないこのブログの中で、『スポットライト 世紀のスクープ』の記事は、よく読んでいただけているようです()。
あのね、性虐待・性犯罪を生んでいるのは、「権威」なんです。神父だけでなく、警官、教師。あとは上司と部下とか、先輩と後輩とか、親と子とか、対等ではない理不尽な関係を「性」で暴力化する、一種のパワハラだと思います。

高校時代の暗黒の思い出を、ひさびさに語ります。
俺は体育ができない生徒だったので、体育の時間になると、一部のクラスメイトから背負い投げされるなど、いじめのような目に遭っていました。思い切り実名を書いてやりたいけど、國學院高校の野球部の生徒。2人組で、ひとりが暴力、もうひとりが「さあ、今日も始まりました!」とはやし立てる役。
で、なんで体育の時間だけ暴力をふるう?と考えてみたら、女子の目がないから。体育の時間は、男女別だったからじゃないかと思う。

というのは、その野球部2人組は、体育の時間、大声でクラスの女子の実名を出して「○○ちゃんとセックスしてえ!」「△△ちゃんも、いいカラダしてるよな!」と、大声で話していたんだよ。なんで大声で話せるかというと、その場に女子がいないから。
そして、國學院高校は、試合をテレビ中継されるぐらいには、野球が強かったの。だから、野球部員たちは教師から「がんばれよ!」と、無条件で肯定してもらえる、守ってもらえる立場なの。


その「○○ちゃんとヤリまくりてえ!」と猥談していた野球部のヤツらがテレビに出ると、学校の応接スペースで、みんなで試合中継を見るわけ。
男子の中で聞こえるように「ヤリまくりてえ」と言われた女子が「□□くん、がんばって!」と、声援をおくっていた。あのね。君ね、彼らは君のこと、みんなに聞こえるように猥談のネタにしてたけど? でも、「高校球児だから」ってだけで、そうやって応援しちゃうんだ?

ここでも、「権威」に「性」が介在してるよね?
集団で性的暴行を起こすのが体育会系サークルばかり……って理由、ちょっと分かるでしょ? 体力があって組織に従順な彼らは、大人社会から期待され、擁護されている。この汗と酒が腐臭をはなつ「体育会系至上主義」の社会システムを破壊しないかぎり、性虐待・性犯罪は決して無くならない。
あのさ。「秋葉原に児童ポルノが売ってる、児童買春が横行してる」と海外へ向けてスピーチする目立ちがり屋の皆さんさ。向いてる方向が間違ってるよ。社会の強者に立ち向かえよ。

警察官や教師による、度重なる強制わいせつは完全スルー。なのに、わいせつDVD検挙に対して「警視庁、お疲れ様です」なんて、分かりやすすぎるよ。権力に肩入れしすぎ。
(『スポットライト 世紀のスクープ』にも、権力側と癒着し、性虐待をもみ消す弁護士が出てきますけどね……。)


「オタクなら、抑圧される側の気持ちは分かるよな?」というのは、俺の甘ったるい思いこみかも知れない。
だけど、体育会系サークルの集団暴行はリストができるぐらい多発している、警官や教師の性犯罪も検索すれば山ほど出てくるのに、「秋葉原のメイド喫茶がいけない」……そういう主張をする人たちは、どういうわけか警察権力と仲良しだよね。
その理由を考えてみたことは、ありますか?

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2017年1月11日 (水)

■0111■

レンタルで、『帰ってきたヒトラー』。悪趣味なキワモノ、軽いブラック・ジョークの類いかと甘く見ていると、これがさにあらず。
28643598_54547近い映画を探すと、『シン・ゴジラ』かも知れない。「もし、ヒトラーが現代のドイツに復活したら?」というウソ以外、起こりうる事態を生真面目なほど慎重にシミュレートしている。シミュレートというより、実際に街行く人々のリアクションは、素人のアドリブだそうで、中には「不愉快だ。いますぐ立ち去ってもらいたい」と、真顔で怒る人もいる。そこまでは、(わざわざセミ・ドキュメンタリーで撮っているのだから)想定範囲内だろう。

ところがこの映画、いちまい上手である。フィクションの部分でも、ちゃんとユダヤ人の戦争体験者を登場させ、痛烈なヒトラー批判を行い、彼を抹殺したほうがいいのではないか?と、主人公を誘導していく。
では、ヒトラーを殺しさえすれば、右傾化していく世論は救われるのだろうか? そもそも、ナチスが台頭したのは、ヒトラーの独力なのか? 実際、(映画の撮影だと気づいていない)街の人々は、笑顔でヒトラーと並んで写真を撮りまくっていたではないか……。

ちょっと、セリフが多めで理屈っぽくなってきたかな?と思わせておいて、さらなるウソを滑り込ませる手際、鮮やかというしかない。「ヒトラーのそっくりさんを使って映画を撮る」アイデアそのものを、メタレベルで応用している。


だけど、政治に詳しい人なら、もっと面白く分析できると思う。
ヒトラーは国内のあちこちに出かけて、現代のドイツの政治をどう思うか、実際に聞いてまわる(そのパートはドキュメンタリーなので、吹き替えではなく、原語で観たほうが効果的だろう)。
1015825_xitler人々の何気ない愚痴から浮かび上がってくるのは、難民問題だ。移民排斥のデモまで、モザイクを入れて撮影しているのだから、筋金入りだ。
人々と話すヒトラーの台詞は、彼の生前の言葉をなぞったものが大半だと思うが、とても説得力がある。「現実とフィクションの区別をつけろ」などという幼稚な決まり文句は、あっさり無効化される。ヒトラーの毅然とした態度、シンプルな言葉に心酔してしまう。

それこそが、この映画のキモである。ラストシーンを指してネタバレネタバレうるさい人は、自分の心境が(映画の途中で)どう変化するのか、よく観察すべき。映画の「ネタ」は、あなたの心の中にあるんだよ。
ポリコレポリコレうるさい人にも、落ち着いて胸に手をあてて、この映画を観てみろと言いたい。右も左も関係なく、人間は脆い。「選挙は行かない派なの」「行っても票が操作されるし、何も変わらないよ」……ドキュメント・パートの人々の本音が、ずんずん重たくなっていく。


俺は政治に詳しくないけれど、ドナルド・トランプの当選なんかがダブって見えてくる。
それは、トランプ大統領がヒトラーのような独裁者になるぞ!なんていう「ノストラダムスの大予言」じみた話ではない。なぜ、あんな女性蔑視や人種差別を公言した人物が支持されたのか、それを真摯に考えなくてはならないんじゃないか。

だって、甘っちょろい綺麗事がストレスしか生まないことは、この数年でよく分かったよね?
「黒でないなら白なのか?」とつねに決断を迫られる社会より、疲れたときに「疲れた」と言えない社会のほうが閉塞してるよね、という話です。

(C)2015 MYTHOS FILMPRODUKTION GMBH & CO. KG CONSTANTIN FILM PRODUKTION GMBH

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2017年1月10日 (火)

■0110■

【懐かしアニメ回顧録第26回】生命を媒介する“液体の色”が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の世界観を決定する
T640_719243前回のコラムは、大地丙太郎総監督に誉めていただけたのですが、前回・今回とも「書きづらい」原稿でした。
今の時代であればこそ、「事実」を重視したレビューが必要だと、僕は固く信じています。「泣いた!」「傑作まちがいなし!」は、個人の感想としては、ぜんぜんOKなんです。
だけど、プロが後世に作品の価値を伝えていくためには、画面に何がどう映されていたのか、「事実」を材料にする必要があるはずです。

劇中でLCLがどういう溶液なのかといった設定は一切関係なく、『ヱヴァ:序』という一本のフィルムの中で、どのシーンのどのカットに位置していたのか探らねば、「色から見える物語構造」は見えてきません。


つづけてアニメの話をしておくと、『傷物語〈III冷血篇〉』を観てきました。一年前の〈鉄血篇〉は、満席の映画館で汗だくで観たものでしたが、今回は平日平間とはいえ、20人程度の入り。
Tnfigkizu001だけど、ちょっと寂しい雰囲気の中で観たほうが、映画の効果は増すと思う。なぜなら、『傷物語』はヌーヴェルヴァーグであり、ATG映画であり、ロベール・ブレッソンであり、レオス・カラックスだから。映画の歴史に対して、垂直に立っている。依拠する場所がなく、誰からも評価を保障されておらず、それゆえに今後、誰からどれほど高い価値を与えられるか分からない……そういう意味で、僕は以上の映画監督名やムーヴメントと、尾石達也監督の名を連ねたい。

『傷物語』は最初から最後まで、アクションもお色気もいっぱいの商業主義的モチーフを、誰からも望まれないテイストで作品にした。このプロットのまま、180度反対に、甘口につくることは出来たはずなのだ。しかし、自ら望んで孤立した。表現に誠実であろうとすると、孤立せざるを得ない。
たとえPG-12に指定されようと、『物語』シリーズが瓦解することはない。それだけのバッファは、まだアニメ業界にも備わっているのだ。


まず、肌の色をべた塗りにして(なるべく)影色をつけず、ハイライトとして白い点を打つ、グラフィカルな、ポップアートとしてのセル表現がある。
羽川翼が、阿良々木暦を説得しようと、彼のヒザに手を置く。最初は2本なのに、カットが変わるたび、羽川の腕は何本にも増えていく(それだけ彼女が必死なのだという説明が成り立つ……が、「演出」というより、セル部分はすべて「絵」として洗練されている。「絵」は「演出」の隷属物ではないのだ)。

カメラワーク。空撮になると、必ずヘリの音が入る。いや、ヘリの効果音さえ入らなければ、「空撮」とは認識できなかったかも知れない。そうした、僕らの「映像作品への個人的記憶」を、『傷物語』はサーチして、脳の奥から引きずり出す。その結果が、快か不快かに責任は持たない(繰り返すが、「快」に振ろうと思えば、いくらでも手段はあったはずだ)。
建物の周りを、ぐるりとサーチライトが囲んでいる。それが順番に点灯したかと思うと、シーンの終わりでは消えている。「誰がサーチライトのスイッチを入れたのか?」と考えはじめると、とたんに苛立ってしまうだろう。しかし、舞台演劇で照明効果が変わるとき、「誰がスイッチを入れた?」などとは考えない。それと同じことだ。

舞台、写真、実写映画、セルだけではないシネカリのような表現……そんなにもアニメーションの扱えるリアリティは多様なのに、僕らは既視感のある演技や描きこまれた背景を見たとき、迂闊にも「本物みたいだ!」「実写に負けていない!」などと口走ってしまう。
そうした薄っぺらな脊髄反射を無効化するかのように、『傷物語』はアニメ表現にしかない、いやアニメ表現の中にすらない“異場所”を探して、彷徨する。


つい先日、『リトルウィッチアカデミア』を見たばかりだというのに、監督の吉成曜さんが『傷物語』に、原画として参加しているのを知って、目まいを覚えた。あるいは、『傷物語』ラストのアクション・シーンでは『かぐや姫の物語』もかくや、というほどの殴り描きのようなアニメーションもある。特撮カットは、高山カツヒコさんの担当だ。
『傷物語』がどうとか言うより、僕らはもっともっと無秩序な、まるで洗練されていない混沌猥雑とした映像文化群の断面のうち、自分の見たいところを見ているだけなのではないだろうか?

「王道」という誉め言葉の無力さを、ひしひしと感じる。


ようやく米映画『ダンス・ウィズ・ウルブス』を見られたのだが、感想は後日。
(C) カラー/Project Eva. (C) カラー/EVA製作委員会 (C) カラー
(C)西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

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2017年1月 6日 (金)

■0106■

日曜日(8日)、スーパーフェスティバル73()に【素組み屋】として出店します。
主に、キャラクター物のプラモデルを素組みした中古品を販売します。……が、ぎっくり腰がまだまだ治っておらず、座ったり立ったりが大変なので、梱包に時間がかかる点、ご了承ください。

今回から、スーパーフェスティバルには、ひとりで出店します。なので、どうしても販売に時間がかかってしまうのです。
大きなスーツケースを搬入に使うので、ツエをつく必要まではなさそうだけど……立ったりしゃがんだりが腰に響くので、ほとんど椅子に座って接客することになるでしょう。


映画.comは愛読しているし、もちろん『ローグ・ワン』は大好きなんだけど……だからこそ、こういう記事はいただけない。

SW「ローグ・ワン」監督、シリーズ伝統“セットのこだわり”明かす(

おそらく、海外のプレスリリースを翻訳して再構成した記事と思うが、いつ、どのタイミングで、いかなる経路でギャレス・エドワーズ監督がコメントしたのか、まったく記されていない。出典が書いてないので、この記事が一次情報となってしまう(せめて出典が書いてあれば合法的な「引用」なので、とてもスッキリするんだけど)。
この記事を書いた記者が監督にインタビューしたわけではなく、明らかにどこかで聞いた記事を翻訳してるか、翻訳されたものを引用しているはずなのに、引用元がどこにも書いてない。

さらには、「…と絶賛評が上がっている」「いまや“聖地”と称される」って、どこで誰が絶賛してるのか、誰が聖地と称しているのか、主語が欠落している。
「廣田が『ローグ・ワン』を好きなら、この記事が映画の悪口を書いてあるわけではないし、そんなに怒ることないじゃん?」とでも思われるだろうな。だけど、この記事の作り方なら、誹謗中傷目的のデマ記事も捏造可能なんです。引用元も発言の主体も記さないまま絶賛記事が書けるということは、同じ構造を使って「…と酷評されている」と言い換え可能なんです。

「俺にとって口当たりがいいから、この記事はOK」ではないんです。
どんなに口当たりがよくても、どんなに俺の好きな映画を誉めていようと、同じ構造で捏造記事がつくれるようなら、ちっとも嬉しくないんです。


だけど、「お前の好きな映画を誉めている記事の、どこか不満なんだよ?」と思うでしょ?
「誰得」ってネット・スラングがあるけど、あなたが得すれば、でたらめなシステムが横行していても見逃すんですか? で、あなたにとって不利なことが書いてあったら、「相手がスジを通していても認めない」ってことですか?

ネットの議論を見ていると、だいたいそうなってますよね。怖ろしいことに。
自分に不快な意見は、「工作員」とか「在日」が書いてるとかさ。
「ムカついたから、相手を人格攻撃しようが罵倒しようが、正当防衛」みたいな考え方。「溜飲が下がったから、これでいいかな」と思えたとしたら、ほぼ間違いなく、誤っています。
好き嫌いだけを基準にすると、公平さという概念が、あなたの人生から逃げていく。いざというとき、フェアに戦えなくてもいいのなら、好き嫌いだけで生きてください。


『スポットライト 世紀のスクープ』で言われていたように、子供を育てうるシステムは、子供を虐待するときにも機能する。
病人や老人を介護できるロボットは、人を殺しうるんですよ。「いやとんでもない、弱者を救うためのシステムです」と言い張る人間を、僕は信用しない。
「確かにそうですね……」と、無慈悲なルールを正々堂々と、苦渋とともに受け入れつつ、それでも努力することなしには、明るい未来などやってこない。

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2017年1月 4日 (水)

■0104■

レンタルで、『スポットライト 世紀のスクープ』。
201604140000000view僕は、映画がなぜ映画でいられるのかを問いかける、駆動原理がむき出しになった作品が好き。だけど、『スポットライト』のように題材に社会的意義を見出し、世の中に広めて歴史に残すことも商業映画の大きな機能だと思う。
この作品はアカデミー主要賞はじめ、各国で賞をとりまくった。そうでもしなければ、埋もれてしまいかねない作品だが、「カトリック教会の神父による児童性虐待と組織的隠蔽」という衝撃的なモチーフが、そうはさせなかった。映画批評家たちの良心が、この作品に光を当てた。

カッティングや構図の分析なんて後回しにして、妻と別居するほど仕事熱心な新聞記者を演じたマーク・ラファロと一緒に、激怒すべきだ。
いつも貧乏ゆすりしていて、資料の山の中で食事するマーク・ラファロはじめ、ひとりひとりの人物の描き方は念が入っており(特に飲み物や食べ物の使い方が上手い)、まったく飽きることがない。
映画の面白さはカメラワークだけではないのだと痛感させられる。奥深い人間観察眼がなければ、こういう映画は撮れない。


『スポットライト 世紀のスクープ』の中では、「性虐待を働いた神父だけを責めてもムダで、彼らを生み出し、擁護するシステムそのものを告発せねば」という言葉が、何度か繰り返される。
また、カトリック教会相手の裁判に手を焼いているベテラン弁護士が「子供を育てる者は、誰もが子供を虐待しうる」(「子育てを街に頼れば、虐待も街ぐるみ」)と、痛烈な言葉を吐く。

彼らの敵は、システムであり、権威である。
信仰がからむので日本では分かりづらく感じるかも知れないが、ようは学校教師が立場を利用して教え子を性虐待しており、その数がハンパではない……と言えば、イメージしやすいだろう。池谷孝司さんの『スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか 』()で、教師たちが性虐待する精神構造が、詳細にルポしてある。親たちが被害児童よりも、加害した大人を守る構図も、『スポットライト』とそっくり同じだ。

教会だとか学校だとか、「聖職」を利用した虐待を根絶すべきであって、犯人がペドフェリアとはかぎらないわけ。だけど、「秋葉原で児童買春が行われている」「児童ポルノが売られている」と声高に訴える人たちが、増加する学校教師や警察官の性犯罪に立ち向かったなんて話は、一度たりとも聞いたことがないよね?
なぜなら、彼らは権威の側に属しているから。彼らは、「力で抑圧しろ、黙らせろ、罰しろ」という権力側の思考をしている。だから、外国人記者の前でスピーチしたとか、国連に呼ばれたとかいう派手なニュースバリューが大好きなのよ。
バチカンですら音をあげた話題作『スポットライト』、欧米崇拝の彼らは、どんな感想をもったんでしょうか。「アメリカのような先進国で、そんなに性虐待が起きているはずがない」と、いまだ思いこんでいるんでしょうか。


だから、『スポットライト』が欧米で好意的に迎えられているのが、僕には痛快なの。
性虐待、性犯罪を「秋葉原のせい」「オタク文化のせい」「個人の性嗜好のせい」にしたがる連中が、こぞって無視しているから。黙るということは、権力への恭順と同じ。『スポットライト』の主人公たちは、まず黙ることをやめたんですよ。

ジャーナリストは、一方にとって気持ちよければ、もう一方からは憎まれる職業です。
好意をもたれるばかりではなく、憎まれることを堂々と受け入れる。議論を発生させて、発言に責任をもつ。それが健全な状態なんですよ。

繰り返すけど、僕らの敵は、力と立場を利用して相手をしたがわせようとする「システム」です。力関係による抑圧は、仕事の場でしょっちゅう起きているし、居酒屋で飲んでいるときにも生じうる。きわめて日常的であり、だからこそ敵なんですよ。
「いやもう、力の強い相手にはかなわないから、黙って従うよ」って情けないあきらめを、「大人の対応」とかいうクソみたいなフレーズでごまかすなって話です。

Photo by Kerry Hayes (C) 2015 SPOTLIGHT FILM, LLC

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2017年1月 2日 (月)

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元日の閑散としたTSUTAYAで、米映画『ナイトクローラー』を借りる。
Mv5bmtg3ntgzntm1mf5bml5banbnxkftztgすごくいっぱい死体が出てくるし、えげつない事件・事故映像を地方局に売り歩くカメラマンが主人公なのだが、涙が出るほど感激した。彼の行動原理に筋が通っていて、脅迫もふくめた交渉術が、あまりも見事だから。

フリーで仕事をしている人、みんな見たほうがいい。「仲間を見殺しにするシーンが、ちょっと……」などと臆する人には、見込みがない。「人の死すら被写体にする」倫理観の是非は、この映画ではどうでもいい。「使えない部下は、被写体にして売るぐらいしか使い道がない」、その判断は理にかなっている。
主人公の、情に流されない鉄壁の合理主義と、求められるものだけを相応の値段で売りつづける向上心に、ひたすら胸打たれた。


元日は、凶刃に倒れた母の命日なのだが、僕がいつまでもクヨクヨしているよりは、新しく力強い価値観を身につけて前へ進んだほうが、母も喜ぶと思う。
今年は6年目なので、犯人も出所してきてしまう。警戒しなければ。

ぎっくり腰については、何人かの友人から食料を送ってもらったり、いろいろと申し出があった。別に試したわけではないので、素直にありがたい。
腰にパッドのついた仕事用の椅子と、ツエを通販で買った。自分の体が変化したのだから、体に触れる器具も変えたほうがいい。「もとの体に戻す」より、変化に対応していったほうが、創造的に生きられるのではないだろうか。


高校時代に好きだったミュージシャンが、アニメの劇伴を手がけることになった。
そこそこ話題になっているので、僕は80年代の音楽雑誌を古本屋で買い、彼のインタビュー部分をスキャンする。同時に、そのアニメの監督にインタビューを申し込む。
そうした情報ソースを、まるでスクラップ・ブックでも作るように、液晶タブレットの中に配置して、一部は誰にでも見られるように設定して、告知用に使う(たとえばインタビューがいつ掲載されるとか)。また、気がついたことはペンタブでメモしていく。スケジュール管理もインタビューも、その液晶タブレットひとつでまかなえる。そのモバイルは、自分用の日記やアイデア帳であり、同時に、それ自体が世界に配信可能なメディアなのだ。
たとえば、僕がその日に見た映画は、ウェブ配信で誰でも見ることができる。僕が買った小説は、あちこちアイデアが書きこまれ、いつの間にか、別の表現物に変化していく――そんなパソコンのような、だけどもっと手ごろな大きさのモバイルを持ち歩く夢を見た。

それはネットだとかスマホだとかいうより、小学校時代に作っていた壁新聞の電子版といった趣きだ。
(喫茶店に、家の本棚すべて持ち込んで、いろいろ手にとりながらブレストするような感じ。)

そんな壁新聞モバイルのアイデアを、僕は友人に力説する。「これひとつあれば、残りの人生は世界中を飛び回って過ごせる。暮らしのための仕事なんて、消えてなくなるよ」。友人は「お前とは、一緒にやりたい仕事があるんだけどな……」と、残念そうに言う。「そういうのは一緒にやろう」「そういうのは、今までの“仕事”とは違うから」と、僕は身を乗りだす。

あらゆる義務からの解放。制約のない、無限の自由。アイデアの先に、別の誰かのアイデアが惜しみなく接ぎ木され、創造者と鑑賞者の区別が曖昧になった世界。すべての創造物が、人類全員による合作となりえる。人も作品も、耐えざる変化の流動のただ中にある――それが、僕の見た初夢だった。

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2016年12月31日 (土)

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【懐かしアニメ回顧録第25回】物語の深層をすくいあげる「十兵衛ちゃん -ラブリー眼帯の秘密-」の「対決の構図」
T640_7186092016年、最後の記事となりました。
とても初歩的なことを書いていると思うんですが、「何を」「どのように」見たのか、分析することが第一歩だと思います。
ファンの映画レビューならまだしも、プロの「映画評論」が感情移入(共感)できたかできないか、泣けたか泣けないか、論者の好みで語られていることに危惧をおぼえます。


レンタルで、ジョージア・イギリス・フランス・ドイツの合作映画『独裁者と小さな孫』。
Main02_large架空の国を舞台にした、寓話的な映画。監督のモフセン・マフマルバフはイラン出身でありながら、イラン政府から何度も暗殺されかけて、生々流転の暮らしを送っている。
その監督の身のうえを顧みると、どこか童話めいた老大統領と孫との逃亡劇に、底知れぬ切実さが加わる。大統領と孫は、旅芸人のフリばかりか、カカシに化けて革命軍の追跡をかわす。
バックボーンの解説のほとんどない、単純化されたシチュエーションの中でこそ「報復の連鎖をとめろ」といったセリフが、不思議な重みをもって聞こえる。


そして、ギックリ腰の鎮痛剤が効いているうちに吉祥寺オデヲンまで歩き、レイトショーで『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』、三回目。
1482112576194興行収入は第3位に落ちたし、客は10人程度。これぐらい閑散としていたほうが、映画の雰囲気にマッチしている。
キャリー・フィッシャーの若すぎる死も、この寂しいムードに花を添えている。エピソード8は撮影済みだそうだが、『ローグ・ワン』における彼女の役割は、狙ってできるものではない。天の配剤だ。

三回目を観ていて気がついたのは、帝国軍内の会話で「デススターの存在が公になれば、数千の星系が寝返る」といったセリフがあったこと。これは、第一作のオープニング・クロールから削除された「帝国が次の戦いに敗れれば、一〇〇〇以上の太陽系が反乱同盟軍に寝返り……」を、復活させたものだ。
デススターの建造や反乱同盟の行動には、常に政治的思惑がからんでいるのだ。ギャレス・エドワーズはルーカスの目撃した銀河を、正確に観測している。

もうひとつ、ジンの回想シーンに出てきた惑星は、コルサントだろう。窓の外に高層ビルが見えている。政治体制が変わっても、元老院も首都機能もコルサントから動くわけがない。
それもまた、「ルーカスの見た銀河」の再現だ。だが、それは「原作の設定に従う」こととは違う。「原作者の感じたリアリティを共有する」「現在の目でリアリティを捉えなおす」に近い。
だから、『ローグ・ワン』はノスタルジアに甘えていない。


1977年の第一作公開以後、ソ連の崩壊があった。アメリカ同時多発テロがあった。米軍のアフガニスタン侵攻があった。
『ブラックホーク・ダウン』や『アメリカン・スナイパー』、『ハート・ロッカー』のような、自国の正義を疑う映画群があらわれた。そして、『ゼロ・ダーク・サーティ』のグリーグ・フレイザーが、『ローグ・ワン』の撮影監督を務めている。
2016年のアメリカ映画が描かなければならない苦悩を、『ローグ・ワン』は一手に引き受けた。その愚直といえるほどの誠実さゆえ、甘美なノスタルジアに酔いたい人からは嫌われるだろう。

『ローグ・ワン』は40年前にキャリー・フィッシャーによって発音された“HOPE”というセリフを、最初は皮肉として使いながら、やがてアイデンティティに高めていく。「誰かに届いただろうか?」「きっと、誰かが受けとってくれただろう」……宛てのない“HOPE”は他でもない、われわれ自身が、40年前に耳にしているはずなのだ(“You're my only hope.”)。
いま、再び“HOPE”が必要な時代になっていないだろうか? 「スター・ウォーズなんて、ご都合主義のカタマリのようなものなんだから……」「娯楽大作なのだから、難しい理屈はおいといて……」 本当にそうなのだろうか? ファンタジーは、頭のうえをフワフワと漂っている空想的なことさえ描いていればいい? その矮小化はジャンルをせばめ、自らを貶めることにつながるように思える。 

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